第2話


◇ キキさんのアルバイト 第二話 ◇



第一章:家政婦の弟子


01.


 キキさんがアルバイトを始めてからしばらくが経った。

 雪が降り、積り、やがて溶け始め、今は日に日に暖かくなる日差しの攻勢に対して、残雪が抵抗を続けている。砦跡に彼女が来てから、そんな季節の移り変わりが繰り広げられていた。

 キキさんの主な仕事場となる砦跡の参謀本部の中では、しかしそんな気候の変化にはあまり影響されず、常に変わらない日々が続いていた。

 なにせ、砲撃にすら耐える頑強な二重壁を持つ参謀本部は、その強さと引き換えに窓という物を付けることができず、外界の変化に目をつむったままなのだ。

 戦争が終わり、任務を終えた参謀本部は、永劫の時を静かに眠っているに等しい。

 しかし、中に住まう者達はそうもしていられない。

 生きている以上、快適に過ごしたいという欲求は当然あるもので、その上この砦跡の整備は、主人のハクにとって国教会から課せられた義務なのである。

 二人で住まうには広すぎるこの住居の中は、常に人が動いて片付けていなければ、すぐに湿気がたまりカビが生え、埃が積もって廃墟同然になってしまう。

 実際、キキさんが仕事をし始めた時、砦跡の内部は、あまりいい状態とはいえなかった。

 責任者のハクは、もともと掃除が得意でなければ好きでもなく、しかも多少散らかっていてもあまり気にならないという性格だった。

 さらに、前述の通り建物の内部には採光する手段がなく、あまり使っていない部屋では、ヒカリムシの照明も申し訳程度にしか灯されない。暗いおかげで汚れが目立たず、それがますます掃除の手抜きを助長させる。

 さすがに物だけは整頓されていたが、塵や埃が溜まっている部分は多かったし、何よりも混凝土の大敵である湿気とカビ、壁の黒ずみなどに、建物はかなり侵食されていた。

 キキさんのアルバイトは、これらの目立たない、しかし深刻な部分の見直しとメンテナンスから始まった。

 そしてそれは、キキさんの能力を持ってしても、整備が終わるまでに一冬かかったのである。

 バタバタとしていた冬が終わりに近づき、キキさんの存在も砦跡の中にしっくりと馴染み始め、生活のサイクルが安定してきた。

 今日は、三日間泊まり込みシフトの最終日である。

 手間のかかるカビの予防措置などは前日までに終わっており、今は各部屋の掃き取りや拭き掃除などを残すのみとなっていた。

 とある部屋の中で、キキさんは普段と変わらない真面目さで仕事をこなしている。

 そして、その隣の部屋。

 そこでは、キキさんの魔術の力によりひとりでに動いているモップやはたきなどを、クークラがじっと観察していた。



02.

 クークラは好奇心が旺盛である。

 何にでも取り憑けるというその特性は、乗り移っているボディによって振る舞いや性格、そして能力を変化させるが、しかしその好奇心の強さだけは、どんな状態であっても変わらなかった。

 お気に入りの少女の人形を身体にしているクークラは、今、その好奇心を発揮させて、キキさんの魔法で動いている掃除用具達を観察している。

 よく動く。

 キキさんの指示はなくとも、ハタキは壁や棚の埃を落とし、箒と塵取りは一体となってゴミを掃き取る。

 そして円形の木板を袋状に編んだ毛糸で包んだ、キキさん手製の特殊なモップが、仕上げとばかりに床を拭き取っていくのである。

 無生物が勝手に動いている。

 その光景が、クークラにはとても面白いものとして映り、目が離せない。

 例えば、進行方向に椅子などの障害物があると、円形のモップはその前で少し迷ったようにウロウロする。

 クークラがその障害を取り除くと、まるで喜ぶかのように勢いをつけてその場所を掃除し、そこが終わると礼でも言うかのようにクークラに近づき、つま先に軽くぶつかって方向転換し、またぜんぜん別の所を掃除し始めたりする。

 キキさんは、これらの動く掃除道具たちは、知性ではなく、単純な判断によって動いているだけで、そこに意思があるように感じてしまうのは、自分たちになぞらえて物を見ているだけの話である、と言っていた。それは多分そうなのだろうが、しかしクークラはやはり掃除用具達に意思があるように感じてしまうのである。

 ただし、確かに「知性」はないのであろう。盲目的に動いているようなのだ。

 知性があれば、おそらくは端から順に塗りつぶしていくように動くだろう。それが一番効率が良いのだから。

 しかし円形のモップは、二度拭き三度拭きになるのも理解せずに、あたり構わず動いている感じなのだ。

 それとも、不規則に動くことに何か意味があるのだろうか?

 クークラはふと思い立って、また、子供らしいイタズラ心も手伝って、ちょっと試してみることにした。

 自分の部屋に戻り、以前キキさんに貰った毛糸玉を持ってきて、モップの端に括りつけてみたのである。

 動いているモップを追いかけて抱え上げると、モップはイヤイヤするように震えてクークラから逃げたがったが、その動きにもクークラは何か愛おしい物を感じる。

 糸を付けられて放たれたモップは、しかし自分にそのようなものがくっついているとは理解できず、また前のように掃除を始めた。

 毛糸玉はクークラの手にあり、そこからどんどん繰り出されていく糸がモップの動きの軌跡となって残る。

「やった」

 クークラは、自分の思った通りの結果になって、小さく歓声を上げた。こうやってモップの動きを目で解るようにすれば、あるいはモップの動きの法則性や理由などが見えてくるかもしれない。

 しばらく時間が過ぎて。

 クークラは一つの結論に達した。

「やっぱりこの子たちは、考えて動いているわけではないんだ。とにかく、部屋を綺麗にするという命令を実行するので精一杯で、効率にまでは考えが及ばないみたい?」

 部屋中に広がった糸の軌跡を見ながら、彼女はまずそう考え、思わず独り言を言った。

「とりあえず、次にボクが考えるのは、この、モップや箒達を巻き込んで絡まった部分の糸をどうするべきか。これだね」



03.

「それは難問ですね」

「うわぉ!!」

 イタズラの跡をどのように隠蔽するか、それを考えていたクークラの後ろに、気配もなくキキさんが立っていた。驚いたはずみで身体をビクッとさせるのは、魔導生物であっても人間であっても同じである。

「キ……キキさん……いつからそこに」

「クークラさんが部屋に戻って、毛糸玉を持ちだしていたのを見ていた時から、変な予感はしていたのですが」

 キキさんの表情は変わらないが、やはり怒っているようだ。

「あははは……ご……ごめんなさい……」

「ここが終わっていれば、今回の掃除もおしまいだったのですけど」

「……すみません、自分で片付けます」

「そうしていただければ助かりますわ……お手伝いはいたしませんので、そのおつもりで」

「はい」

 ピシャリと言われて、クークラはまず部屋に散らばって絡まった糸の片付けから始めた。

 手元に巻き取りながら、しばしば複雑にこんがらかった部分に頭を悩ませるが、しかしキキさんにせがんで貰ったものでもあり、その見ている前では、切ってどうにかすることも出来ない。

 悪戦苦闘するクークラを、キキさんは入口付近でずっと見ながら、ふと口を開いた。

「クークラさん、仕事をしながら聞いてもらいたいのですが」

「はい?」

 怒られるのか、もっと手際よくやれないのかと文句を言われるのか、そんな予感が頭をよぎり、クークラは身を固くした。

「モップの動きが不規則な理由ですが、それは自分の位置を検知する精度に関係があります」

「え?」

「手は休めないで下さいね」

「あ、はい」

「確かに、端から順々にやらせていった方が効率は良いのですが、この場合、ちゃんと拭いた跡を見て、すこしづつ重ねながら掃除をしていく必要があります。私やクークラさんならば簡単なことですね。しかし、わたくし程度の魔術で動かしたモップでは、この拭き跡をきちんと判断することができません。目という物がありませんし、自分の位置と動きの認識だけでは、そこまで高い精度で拭き跡を認識できないんですね。結果として、端からやらせていくと、拭き跡と拭き跡の隙間が拭き残しになってしまうのです」

「ああ、なるほど」

「それであれば、四方八方に走らせておけば、たとえ効率が悪くとも最終的には拭き残しを少なく掃除を終わらせることが出来ます」

 そういうことだったのか、と、クークラは思った。しかし、キキさん、どの時点から知っているのだろう。

「今度から、疑問があったら聞くようにします」

「そうですね、それが手っ取り早いといえば手っ取り早いのですが……」

 珍しく、キキさんが語尾を濁した。

「ええと?」

 クークラが聞き返すと、キキさんは少し迷いのある声で答えた。

「こう言ってはなんですが、わたくしとしては今回のクークラさんのイタズラには、少し感心しております」



04.

「え?」

「好奇心を持ち、疑問に思ったことを調べるため、自分でやり方を考えて、こうしてモップの動きを可視化されて。わたくしも、このような方法でモップの軌跡を表現できるとは考えたことがありませんでした」

「え……えへへ?」

「だからと言って、仕事の邪魔をしていい訳ではありません。手が止まってますよ」

「す……すみません」

「場合によりけりですが、わたくしとしては、クークラさんの好奇心と実証精神は悪いものだとは思っておりません。イタズラ心も、多少は仕方がないでしょう。これらは分かちがたいものですから。今回のことに関しても、安易に答えを聞きに来るよりも良かったのかもしれませんね。自分でモップの動きを確かめたことで、より理解を深めたでしょう?」

「今、身に染みてます」

 絡んだ糸を解しながら、クークラは答えた。

「クークラさんの、その性格は、優れた魔術師の素質でもあります」

 唐突に、思いもよらない言葉をかけられて、クークラは思わずキキさんを見た。

「ホント!?」

「魔術は、実のところ「なぜそうなるのか」を知らなくても、「やり方」さえ知っていれば使えてしまうという面がございます。魔術は……ちょっと違うかもしれませんが、道具のようなものでもあります。」

 キキさんは、少し考えて言った。

「例えば、料理を作る技術は無い人でも、包丁を使うことはできます」

「……でもそれだと、使えるってだけで、意味が無い?」

 クークラの応えを受けて、キキさんは微笑んだ。

「それどころか、本来の用途を知らず、振り回して人を傷つけるために使うかもしれません。もっともそういう輩は大体、他人を傷付けた挙句に自らの身を滅ぼしますが」

 そしてキキさんは、かつて自分が魔術に失敗した時に、マスターに諭された喩え話を例に挙げた。

「このような話があります。ある魔術師の弟子が、水汲みをさせられていた時に、師の魔術を見よう見まねで使用して、箒にバケツを持たせて作業を代わらせ本を読んでいました。しかし術の本質を理解していないその弟子は、瓶に水が貯まりきっても箒を止めることが出来ず、魔術師の家を水浸しにしてしまったという話です」

「うん……?」

「魔術師の資質の一つに、魔術の本質を理解する能力が挙げられます。ただ答えだけを安易に求めるのではなく、疑問を持ち、その原理原則の理解を求める精神は魔術師にとって掛け替えのないものです」

 キキさんは、今度はクークラの手が止まっていることを注意しなかった。

「魔術に対する興味もあるように見受けられました」

「うん! ある、凄くある! キキさん、教えてくれるの!?」

「しばらく、ここで働かせていただいて、なんとか馴染むことも出来ましたし、すぐに辞めさせられる事もなさそうです。以前、少し話させていただいたのですが、ハク様もクークラさんの勉強になるのであれば、と、理解を示してくださいました」

 クークラは喜びが言葉にならないようで、キラキラとした目でキキさんを見た。

「空いた時間に限られますし、そもそもわたくしは魔術を本職とするものではありません」

「うん、でも!」

「それにすぐに何かが出来るようになる訳でもありません」

「それでもいいよ。キキさん、すぐには無理でも、ボクもいつかはモップを動かせるようになる?」

「あれはあれでかなり高度な術ですからね。クークラさんの頑張り次第と言ったところでしょう」

「頑張る、ボク、頑張るよ!」

「では、今度来る時に、魔術について書かれた本を何冊か持ってきましょう。まずはそこからです」

 キキさんの言葉にクークラが頷いたのと同時に、ゴーン! と鉄を叩く音が階下から響いた。

 一階の正面入口のドアを、誰かがノックした音だった。鉄のドアと、それに取り付けられた金属製のノッカーは、重く響く音を砦跡の隅々まで反響させる。

「来客?」

 キキさんがここに来て初めて聞くノックの音だった。

「クークラさん、ここには予定のないお客様が訪れることもあるのですか?」

「ああ、あるよ、一人だけだけど。多分、ゲーエルーさんだと思う。ハクはまだまだ工房から出てこれないだろうから、ボク、ちょっと行ってくるよ」

 絡まっていた糸をポイと捨てて、クークラは駆け出していった。

「あ、ちょっと……」

 キキさんは、糸が散らばり放題になっている部屋を見て、表情を変えずにため息をつく。

 そして、残された糸玉を手に取ると、一言二言それに囁いた。

 その声に応えるように、糸がするすると糸玉に戻っていき、絡まっていた部分もほぐれ、あっという間にキキさんの手の中に収まった。

「ここの掃除が終われば館に帰られたのですが、お客様とあってはそうもいきませんね」

 開けられていたヒカリムシ灯台にカバーを被せ、キキさんはクークラの後を追って部屋を出て行った。



◇ 第二章:魔王の護衛官 ◇


01.

 砦跡の一階。正面玄関から最も近くの、かつて実務室として使用されていた一室は、今は応接室に改装されている。

 キキさんが来てから一度も使われていなかったその部屋に、今、豪快な笑い声が響いていた。

 ソファの上座に座るのは、人間ならば四十代も半ばを過ぎた程に見える男性で、砦跡に着いた時に羽織っていたマントは脱ぎ、タンクトップに薄いズボンというラフな格好をしている。

 衣服は旅塵に塗れ、雑に切り揃えられた髪はボサボサだが、大きな骨格にムダのないしなやかな筋肉を誇り、ソファの後ろには使い込まれた長剣が立てかけられていた。その立ち居振る舞いから、かなりの使い手であることを、冒険者としてならした眼で、キキさんは見て取った。

 胸には、ハクと同じ氷の塊のような核が露出しており、氷結晶を繋いだ細いワイヤーの首飾りをしている。

 それまで使う機会のなかった応接室ではあるが、キキさんの仕事に隙は無い。いつ客が来ても良いように調度は整えられている。

 来客用に用意された保存の効く黒ゴマ入りの乾パンとジャム、食料庫から持って来たチーズとサラダの軽食を、手早く作って差し出すと、ゲーエルーは目を丸くし、そして笑った。

「いや、驚いた。ここで、まさかこんな歓待を受ける日が来るとは思っていなかった」

「さようでございますか」

「今まで、嬢ちゃんのもてなしといえば、部屋は散らかっているし料理は下手と、まぁ心は込めてくれたが、それ以外はひどいものだったからなぁ」

 言葉は荒いが、口調に不満げな響きはない。むしろハクへの親愛の情が感じられる。

「ハク様は、このような仕事に関する教育を授かる機会に恵まれませんでしたから」

「うむ。あの娘に関しては、小さい時から見てきたわけだし、それは解っている。だが、覚悟の上で来てみれば、どうだ、部屋は整って塵ひとつ無い。待たされもせずに出された食事は美味い。しかも応対してくれるのは別嬪さんときた」

 言いながら、ゲーエルーはまた嬉しそうに笑った。

「こりゃぁ、もっと頻繁に来ねばならんなぁ」

「ありがとうございます。そうして頂ければ、ハク様もきっとお喜びになりますわ」

「まぁ別嬪さん、座れ座れ。嬢ちゃんが氷結晶創りに篭っているのでは仕方がない。ちょっと話し相手になってくれ」

 では失礼致します、と、応えて、キキさんはゲーエルーの向かいのソファに腰掛けた。

「キキと申します。先年より、砦跡のハウスキーパーとして使って頂いております」

「ゲーエルーだ。ミティシェーリの姐御の護衛役を自認していた」

 ゲーエルーの名は、国教会の聖書でもある『戦史書』にも見ることが出来る。ちょい役だが、勇者の威光に怯えて魔王を見捨て逃亡した、卑怯で小心な近衛兵長として描かれていたはずだ。

 目の前に居るゲーエルーは豪放な感じで、国教会に造られたキャラとはイメージが随分と違う。

 互いの名乗りが終わった時、三つのグラスとジュースの入った水差しを盆に乗せ、クークラが戻って来た。

「お久しぶりですゲーエルーさん。ジュースを持ってきました」



02.

「どうにも独り身だと、誰かと話せる機会というのが嬉しくてね、別嬪さん」

「キキです。……ええ、わたくしとしても、戦時中の、ハク様のお母様や子供の頃の話を聞けるというのは、貴重な機会だと思いますわ」

「ボクも、ゲーエルーさんの話は好きだよ。外のお話は本当に面白いもの」

「そうかい、そうかい。嬉しいねぇ。さて、じゃぁ……」

 ゲーエルーは、自分の来歴を話し始めた。

 ハクの母ミティシェーリが、「北の地」で氷結晶を作り始めたのは、最初は趣味のようなものだった。しかし氷結晶には人を魅了する美しさがあり、特に若くて粋がっている奴らがその虜になった。

 オレはその頃からミティシェーリの姐御とよくつるんでいた遊び仲間の一人だった。

 あの頃は、若かったね、オレも姐御も。仲間たちも。

 そのうちに、氷結晶を持っていれば、暑い気候の「下の大地」にも降りられることが解った。その頃には既に、かなりの数の若者が氷結晶を手に入れていた。

 若かった俺達は、それ相応に好奇心が強かった。

 せっかく得た力だ。使わねば損だと、皆が思った。

 氷結晶にのぼせ上がるようなヤツらはいくつかの勢力に分かれてて、まず最初にオレたち、姐御が中心となっているグループが、下の大地に降りることにした。

 大人たちは反対したよ。そもそも、氷結晶の流行に対してもいい顔をしていなかった。今ならその気持も解る。結果も結果だったから、余計にな。しかし、当時のオレたちは、大人なんて枯れて萎れていくだけの盛の過ぎた花だと嗤った。大人たちが行くなと言えば、むしろ積極的に出て行く、そんな空気だった。

 姐御は、陽気でノリが良くて、そう、娘の嬢ちゃんとは正反対の性格だった。別嬪さんも、冷徹残酷な魔王としてのイメージをまさか信じているわけではあるまい。あれは国教会が自分たちを正当化するため広げたものだ。

 とにかく、姐御は陽気で美人で頭が良かった。氷結晶の作り手という事もあったが、本当に凄い人気だったし、その人気にちゃんと応えもした。カリスマだったんだ。

 オレはグループでも若い方だったが最古参で、しかもケンカが強かった。馬鹿みたいに強かった。頭は悪かったがな。

 姐御にのぼせ上がってバカをやる連中も少なくはなかったから、北の地に居た頃から、オレはその護衛役を買って出ていた。結構、重宝されていたんだぜ。おかげで、周りの崇拝者たちからも羨まれる立場に居た。なんせ、常に姐御の側に付き従っているんだからな。

 しかし、娘の嬢ちゃんは可哀想だった。

 下の大地に降りたのは多くが姐御に惹かれて寄ってきた若い連中だ。若いっても、嬢ちゃんのような子供ではなかったし、とにかく嬢ちゃんには同じ年くらいの友人がぜんぜん居なかった。

 しかもその後、オレを含めた若いのが大きなバカをやらかして、下の大地の人間たちと戦争状態になった。

 皆が刺々しくなっていく中で、戦火に怯えながら幼少期を過ごす事になったんだ。嬢ちゃんの、引っ込み思案で無口で一人を好むあの性格は、姐御とは正反対だ。

 しかし、それも仕方のないことだろうと、オレは思う。



03.

 クークラがグラスに注いだジュースを一息に飲んで、ゲーエルーは続けた。

 姐御は、とにかく娘の嬢ちゃんと過ごす時間を取ることが、どんどん難しくなっていった。なんせ下に降りたら難しい問題がいっぱいだった。大人しくしろって言ったって、もともとが粋がっていた若いのばかり。問題を起こす奴はどうやったって起こす。その上、別のグループも下に降りてきていて、連絡すらままならないそいつらが起こした事件を、こっちのせいにされて攻められたりもした。

 挙げ句の果てが全面戦争だ。

 もちろん、下の大地の人間たちにしてみれば、オレたちは災厄だったのかもしれないが、オレたちにとっても辛いものがあったんだぜ。

 姐御はそんなのをまとめるために精一杯で、娘との交流が出来なかったんだ。

 嬢ちゃんがどう思っているかわからないが、姐御はそれは後悔していた。心底、後悔していた。オレも相談を受けたから、それは本当だ。

 だから、そういう意味では嬢ちゃんが氷結晶を作る能力を受け継いでいてくれてよかったよ。氷結晶作りの手ほどきであれば、姐御も嬢ちゃんとの時間を作ることができた。周りが納得しやすかったからな。

 嬢ちゃんは、今、氷結晶創りで工房に篭っていると聞いたが、邪魔してはいけないとオレは思う。

 あの娘の創った氷結晶は、オレも一度見せてもらったことがある。

 氷結晶としての質は姐御のそれと同等。美術的な仕上げは、姐御が逆立ちしても敵わないほど上を行っている。作成速度は姐御の方が数段上だったが、今は戦時中ではないから、それはそれで良いと思う。

 あの仕上げの丁寧さは、氷結晶創りが心から好きでなければ無理だろう。

 オレは思うんだ、別嬪さん。

 あの娘は、氷結晶に、母への想いを込めているんじゃないかと。

 いや、そうじゃなければ姐御が可哀想な気がしてな。

 娘に恨まれても仕方がないと言っていたが、その時の泣きそうな姐御の顔を思い出すと、やっぱり嬢ちゃんには母親のことを想ってやってほしいんだ。

 まぁオレは嬢ちゃんよりも、やっぱり姐御の方を近く感じるから、そういう考えになってしまうんだがな。

「そう言えば……」

 と、ゲーエルーは話題を少し変えた。湿っぽくなったのを嫌ったのかもしれない。

「別嬪さんは、どんな理由でここで働くことになったんだ?」

「キキでございます。……そうですね、自分は最果ての森に住んでいるのですが、近くの街にブレイブハートというバーがございまして、そこのマスターの口利きで紹介していただきました」

「最果ての森とは、また遠い。近くの街ってのは、カニエーツかい?」

「その通りでございます」

「カニエーツのブレイブハートか……」

 キキさんの答えを聞いて、ゲーエルーは苦い顔をした。

「ゲーエルーさん? どうしたの?」

 不思議そうにクークラが聞く。

「ああ、クークラは知らんかもしれんが、あそこは戦争中期の激戦地でな。今でこそただの辺境だが、それまでは勝ち続けていたオレたち氷の種族が、初めて負け戦を経験した土地で、そこからあの戦争は逆転されていったんだ。それに、ブレイブハートって……」

「? 勇者?」

「そうだ。あの街は勇者の出身地で、初めてヤツが頭角を表した戦いでもあったんだ」


04.

「ゲーエルーさんは、勇者を見たの?」

「見たさ。オレもあの戦いには参加していたからな。いや、見たなんてもんじゃない。剣を交えた」

「ホントですか?」

 クークラはもちろん、これにはキキさんも驚いた。カニエーツの戦いは、国教会でも最も重要視する歴史の一ページである。そこに参戦していたとは。

 戦史書で語られるゲーエルーは、魔王が討たれる寸前の数行のみである。

「勇者って、ハクのお母さんを殺した人でしょ? どんなだったの?」

 クークラの問いに、ゲーエルーは答える。

「国教会の神品(聖職者)どもは紅顔の美少年として言い伝えているが、あれも嘘だ。確かに年端の行かない少年だったが、その割には毛深くて筋肉質でオッサン臭い……なんというか、熊みたいな感じのヤツだった」

「強かったの?」

 何気ないクークラの質問に、ゲーエルーは身震いした。

「ゲーエルーさん?」

「……強かった。あれは……強かったとしか言いようが無い。カニエーツと、終戦間際のこの砦で、ヤツとは二度、剣を撃ち合わせたが、オレの首が今でもくっついているのは、オレが強かったからじゃない。運が良かったからだ」

 どう考えても勇者を憎んでいるだろうに、その点は素直に認めるのか……と、キキさんは思った。勇者とは、やはり半端ではないモノを持っていたのだろう。

「カニエーツで生き残った後も、オレはずっと姐御の護衛をした。最後には追いつめられて、他のグループの生き残った奴らと合流してここにあった砦を改修し、立て籠もった」

 ゲーエルーは、少しトーンを下げて、続けた。

「それも負けて、仲間たちは殆どが殺された。勇者が、砦に潜入して姐御を討った。それが全てだ。オレはそれを守りきれなかった」

 キキさんとクークラは無言で聞いていた。

「姐御を討たれたら、オレたちはもうまとまることが出来なかった。それでも、やっぱりオレは運だけは良かったんだな。なんとか包囲を切り払って脱出し、北の地に逃げ帰ろうとした。だが、大人たちは下の大地に降りた若いのを受け入れなかった。災厄を北の地にまで及ぼすのを許さなかった」

「……だから、今でも逃亡を続けているんですね」

「ここを落ち延びたのは少数だが、皆、あれからずっと下の大地を逃げまわっている。国教会から指名手配されているし、専門の追手が放たれているから、なかなか気が抜けん」

 だがな、と、湿っぽくなった空気を再び振り払うように、ゲーエルーは笑った。

「国教会、あれは弱体化してきたな。下の大地の人間たちは、オレたちに比べて遥かに寿命が短い。あの戦争当時の記憶を持つ者ももうほとんど生存していない。オレを追い回すヤツらも、代替わりする度に質が落ちていく。それに……」

「それに?」

「嬢ちゃんが創っている氷結晶。その管理はすべて国教会がやっているが、あれは単に王族や貴族に売りさばいているだけだ。税金と喜捨以外でも金をかき集めていやがるんだ。奴らの金集めはそれだけでは無いが、一事が万事と言うやつだ。金と欲に塗れれば、組織なんて腐敗して自壊していく」

 しかしそれは、ハクにとっては悪いことではないのかもしれないと、キキさんは思った。

 氷結晶の需要が増えれば、それだけハクの発言力は上がるはずだ。

 しかし。

 国教会が、もし弱体化を続けたら。

 果たして、給料の支払いはどうなるだろう? 賃金は、ハクからではなく国教会からの払いになっているのだが。


 ゲーエルーは、一泊だけして去っていった。

 それと入れ替わるように、ハクが工房から出てきた。疲労困憊してフラフラの状態だった。

 キキさんが、ゲーエルー氏が来ていたと告げると、ハクは笑って言った。

 あのおじさん、悪い人ではないのだけれど、捕まったら話が長いから。

 それに。

 人の名前を呼んでくれない。いつまでたっても嬢ちゃんって言う。

 キキさんは、苦笑いしながらそれに同意した。

 ハクを寝かせつけ、看護のための体制を整えてクークラにバトンタッチすると、これでやっとキキさんも帰るだけになった。

 主義に反して、二日間の残業をしてしまった。

 超勤手当は出るのかしら、と、キキさんは思った。



◇ 閑話休題 その3 ◇


クークラに関して


 クークラは、どんなモノにも宿ることが出来る魔導生物。本体は目に見えないエネルギー体で、何かに憑依していないと霧散してしまう。


 普段は人形などの、生き物を模した物品に宿っていることが多いが、依り代は何でもよく、やろうと思えばそこらに転がっている石ころにも宿ることが出来る。


 ただし、能力は宿った身体の影響を受けるため、あまり変なモノに宿ると運動能力はもとより知性や自我を失うことすらもあり、一度そうなってしまうと自力では他のモノに宿り直すことすらままならなくなる。

 また、純粋な水晶の結晶に宿ると、中で休眠状態に陥ってしまう。


 そのため、依り代の選定は慎重に行い、また万一の事が無いように、「乗り移り」は必ず他人が見ている前でするよう、親がわりのハクから厳命されている。


 根本となる性格は、中性的で幼い感じ。

 そして好奇心が強い。

 不思議と思ったことに対し、その原理を解き明かそうという強い欲求を持ち、積極的でポジティブ志向。何に対しても物怖じせず、その分イタズラ心も強い。

 ただしこれは身体によってかなり変化する。

 少女の人形に宿れば少女のように振る舞うし、大人の人形であれば多少大人びた性格になる。

 また、これは本人も経験がないのでまだ知らないが、死体を依り代にすれば死者の生前の記憶を知り、生体に乗り移れば記憶や能力ごとその魂を吸収する。

 ただし、強い精神力を持つ者や、魔導の心得がある者ならば、クークラの乗り移りに抵抗出来る場合がある。


 ハクとの出会いは、勇者がハクに対してクークラの養育を義務づけた事に始まる。

 たった一人で幽閉された場合、ハクの精神が死を選ぶのではないかと勇者が心配したための措置だった。


 クークラの初めてのボディは、勇者の指令により、ハクが手ずから作った小さな人形だった。

 水晶に宿り眠っていたクークラを、勇者がその人形に宿り直らせた。


 小さな人形は、ハクが心を込めて丁寧に仕上げたものではあったが、所詮は素人がなんの手本もなく作った物。造形的に可愛らしいというほどではなく、モノとして価値が合ったわけでもない。

 この人形では、宿ったクークラはあまり高い知性を持つことが出来ず、喋ることも不可能だった。

 ただ、何事にも好奇心を持つ性格はこの頃から顕著で、興味に導かれて危なっかしい動きをするため、ハクは眼を離すことが出来ず、よくクークラの世話を焼くようになっていった。


 勇者の目論見は当たり、母を亡くし絶望の淵にいたハクは、クークラを養育するという責任感に目覚め、その精神を持ち直す。


 後にハクはいくつか人形を作るが、人形制作の腕は上がらず、どの人形に入ってもクークラの性格や能力はあまり変わらなかった。


 ハクを監視する主教の代が進み、おおらかな性格の主教が来た際に、ハクは思い切ってプロの手により作られた人形を貰いたいと言った。

 それはハクが初めて国教会に出した要求でもあった。

 

 主教の命により、等身大の少女の人形が創られ、クークラはそれに乗り移る。

 そのボディで初めてクークラは喋ることを覚え、人格らしい人格を得た。


 それまで、言葉を持たない子猫を育てていたような感覚だったハクは、性格が人間の子供のように変化したクークラに大いに驚いたが、以後も変わらぬ愛情を注ぎ、クークラもまたハクを慕い、互いを支えながら生きて行くことになる。


 しかし、その出自を勇者は伝えることは無く、クークラ自身、自分がどのように生まれ出たのかをわかってはいない。


 クークラは、氷の種族との戦争のおり、下の大地の魔道士たちが団結して創り上げた兵器である。


 正確には、兵器の動力として創り出された。


 自律式の大砲。巨大なゴーレム。動く小城。

 ただのオブジェでしかないそれらに、クークラのような存在を宿らせることで自在に動かし、戦争における兵器とする。


 そんな思想の元に、魔導の粋を集めて創り上げられた魔動力。その第一号試作品がクークラだった。


 システムとしては、人工的に創られた付喪神と言ってよい。

 ただの物品を一時的に付喪神とする魔術「アニメート」とも関連がある魔導技術だが、その完成度は比較にならないほど高度で、単純に技術としてのみ見るならば、芸術的と言ってもいい。


 しかし、その術式は禁呪と呼ばれる種類のものでもあった。


 魔道士たちは、多くの子供たちの魂を身体から引き離し、加工して使用していた。

 戦勝という大義名分のため倫理は軽んじられ、勝つためならば何をしても許されるという風潮の中、子供たちの犠牲も、それを知る立場の人間の多くが、尊く気高い生け贄として祀り上げていた。

 

 魔道士たちはその技術を誇り、人間たちの旗頭として前線に立っていた勇者に、苦労して創り上げた「試作兵器」を紹介する。


 魔道士たちに罪の意識はなく、純粋に兵器運用上のアドバイスを求めようとしたのだが、計画の全容を知った勇者は激怒。

 魔道士たちの研究機関と施術場に乗り込んで、全ての研究結果と施設を破壊した。

 

 もしもこの技術が完成し、量産化された暁には、どれ程の魂が「加工」された事であろう。勇者の行為は蛮行との非難も受けたが、彼は意に介さなかった。


 唯一の完成品だったクークラは、水晶の原石に宿らせたまま眠らせ、勇者が自ら保護していた。


 彼がハクにクークラを託したのは、ハクの精神を心配しただけの理由ではない。


 クークラの能力は、もしも悪意を持って成長すれば、それこそ魔王と呼ばれる存在になってもおかしくないほどのポテンシャルを秘めている。

 ならば、国教会がある限り無為の存在として祀られるハクのもとで、彼女を支えながら無為の日々の中に生きていくことこそ、クークラ自身、そしてその周囲の者達にとっての幸せになるであろうという判断だった。 


 自らの生い立ちを、クークラが知る機会は未来永劫、訪れない。

 ただ、魔術アニメートを習得する過程において、自分が付喪神やアニメートによって動く物品と同質のものであると直感し、自分に比べれば原始的であるそれらの存在への愛おしさを、クークラは深めていく事になる。




◇ 第三章:大気に満ちる魂 ◇


01.

 自分の館の掃除は、一日で終わってしまった。

 先日、氷結晶を作ったため疲労困憊してしまったハクを寝かせつけて、看病の体制を整え、後をクークラに任せて帰るだけになった時。

 ハクは、超過勤務の二日分を公休で振り替えるようにと、キキさんに言った。

 本来の公休は二日。さらに二日増やして四日。

 館の掃除は終わらせてしまったし、他に特別やっておきたいことも無い。そのため残りの三日間は完全にフリーになった。

 それならばと、キキさんは趣味の機織りをするために織り機に向かってみたが、どうも調子が出ない。

 集中できない。

 ハクとクークラのことが気になるのである。

 クークラは、氷結晶を作った後に疲労困憊状態に陥るハクを、今まで一人でちゃんと看病してきた。

 だから心配するほどのことはないし、自分は所詮アルバイトのハウスキーパー。業務外のことまで背負い込む必要はない。

 そもそも仕事と休暇はきちんと分ける。それが自分の性格であり、やり方だ。

 そうは思うのだが、感情はまた別である。どうしても二人が気になった。

 キキさんは、モヤモヤしたまま過ごすのが、実は人一倍苦手である。

 自分の「やり方」に従えば、普通にあと三日間休めばいい。しかしそれだと心の引っ掛かりが取れない。

 休みを返上して職場に行くのは、キキさんの仕事の美学に外れる。でもそうすれば、恐らくこのモヤモヤは晴れるだろう。

「だったら、ウダウダしていないで、やることを決めるべきよね」

 オフの素の口調でひとりごち、明日、出勤することに決めた。超勤は、もうサービス残業と割り切ろう。

 そうとなれば、明日の用意だ。

 キキさんは機織りをやめ、仕事の準備に取り掛かった。

 床を掃除するための、アニメートで動かす専用の丸い木板とそれに取りつけるモップを幾つか。自分が使うための箒やはたきなどの掃除用具。何かと使うことの多い小さなナイフ。自分用のヒカリムシのランタン。それらを用意して、詰められるものはカバンに詰めて。

 それから。

 キキさんは、館の中の書庫に向かった。

 そこには、マスターや仲間たちと共に集めた膨大な書籍が保管されている。

 クークラと約束した、魔術に関する書籍を探す。とにかくアニメートに興味があったようなので、それに関連する事柄が書かれた本を、時間をかけて選別していった。

 付喪神に関する研究論文。「大気に満ちる魂」に関しての基礎的研究書の選集。キキさんが手ずから書いたアニメートに関するメモや覚書の寄せ集め。死者と魂と生物と無生物の関係を記した書籍。戦時中にアニメートを使い「下の大地」の軍勢を苦しめた氷の種族の術師「ヴェドゥーン」について書かれた本。

 どれも簡単な書ではないが、そもそも初心者向けの魔術書など存在しない。クークラがこれらを読み、理解するまでにどれだけの期間がかかるかは分からないけれど、努力するにも指針が必要だ。これらの書は、きっとクークラを導いてくれるだろう。

 初めてアニメートを使いこなした時のこと。マスターに褒めてもらったこと。魔法の本質を理解せず失敗した時のこと。キキさんはそんな思い出を頭に浮かべながら、深夜に至るまで本の検索と選別を進めていった。



02.

 寝不足。

 しかし通常の出勤時刻に遅れること無く、キキさんは砦跡に入った。

「え? キキさん?」

 ハクの寝ている部屋をノックすると、驚いた声を出してクークラがドアを開けた。

「おはようございます」

「お……おはようございます。……? あれ? 今日は休みじゃ……?」

「流石に、ハク様が寝込んでいるのを放っておくわけにも行きませんので」

「あ……ありがとうございます」

 ハクは、ベッドに臥せってはいたが、眼は覚ましていた。

 キキさんが部屋にはいると、びっくりしたように上体を起こそうとする。

「ああ、そのまま寝ていてください、ハク様」

「え? あ、じゃぁ……」

 ハクは言われるままに、また伏せた。

「お休みを頂いておりましたが、心配でしたので出てきました。ご迷惑ではないですよね?」

「ええ、ありがたいです。私は寝ているだけなので、クークラにも休むように言ったのだけど、あの子も強情で」

「ボクは別に強情じゃないよ。ハクを放っておいてもどうせ気になるんだから、ここに居るだけ」

 クークラの、いかにも「心外だ」と言わんばかりの口調に、ハクは笑いで応えた。

「今日は掃除をする必要はないと思いますので、わたくしも看病の力添えに回りますわ。……それとクークラさん」

「はい?」

「先日、お約束したアニメートに関する書籍を持ってまいりました」

「あ? ホント!?」

 クークラが嬉しそうに声をあげる。

「こちらになります」

 キキさんが、今日は肩にかけていたボストンバッグから何冊もの書籍を取り出した。

 クークラが一冊を手に取り、パラパラとめくってみるが、段々と意気消沈していくのが解った。

「何がなんだかよくわからない……」

「パッと見で理解されたら、それこそわたくし、腰を抜かしますわ」

「そういうものなの?」

「クークラさんが、今日持ってきた書物をすべて読んで理解されるまで、どれだけの期間がかかるか見当もつきません」

「そっか……」

 クークラは少し残念そうに応えた。

「キキさん」

 ハクが、ベッドの中から呼びかけた。

「なんでございましょう?」

「もしも時間が許せば、その書物の内容をクークラに解説してあげることは可能ですか?」

「それは……無理というわけではございません」

「では、どうでしょう。もしも仕事の時間を短縮することができたら、その時間をクークラの勉強に当ててくださいませんか?」

「おっしゃることはわかりますが、わたくし、残業はしない主義で……」

 キキさんは解決策を考えようとしたが、ハクが言葉を連ねた。

「ええ。それは伺っています……私に、ちょっとした考えがあるのです」

「というと……?」

「もう少し、考えをまとめてから。その時に改めてお願いします」

「はい」

「ねぇキキさん……」

「何でしょうクークラさん」

「この本のタイトルにある、『大気に満ちる魂』ってなに?」

「そうですね。それは付喪神という現象や、ひいてはアニメートという術を理解するのに非常に重要な概念なのですが……ちょうどいい折ですし、アニメートという術の基本的な考え方だけでも、お伝えいたしましょうか」

「うん!」

 キキさんの言葉に、クークラは手に持った魔導書を胸に押し当て、目を輝かせた。



03.

 ハクは今度こそベッドに上体を起こし、クークラは部屋の隅の机からイスを引っ張りだしてベッドサイドに置いて座った。

 キキさんは、小さなテーブルセットに腰を下ろして、二人に向き合った。

 頭の中で話すことをまとめる。

 大気には、魂が満ちています。

 と、キキさんは話し始めた。

 生き物が死ぬと、その小さな魂は身体を離れ、大気をたゆたいます。一人の小さな魂は、大気に満ちる大きな魂に、ゆっくりと練りこまれるように同化していきます。

 様々な魂を同化させた、その大きな魂は、個々の自我を持ちません。

 そうですね、例えて言うならば混ざった絵の具のようなものです。赤も青も、本来は自分たちの色を持っていた物が、全て混ざって個々の色を失ってしまった絵の具のような。

 大きな魂には、ムラがあります。濃淡もあります。

 大きな魂の密度が濃厚な地帯もあれば、薄い土地もあるし、小さな魂も均一に交じり合うわけではありません。

 それはともかく。大気には、魂が満ちているのです。

 この大気に満ちる大きな魂は、ただ小さな魂を吸収するばかりではありません。

 時に……いえ、世界中全てを俯瞰することが出来れば頻繁に。大気に満ちる魂はその一部を物質に分け与えています。あるいは、物質が魂を引き寄せています。

 それが、年経た器物に宿れば、それは付喪神となります。

 あるいは、「北の地」の風雪と混じり合えば……。

「氷の種族になる?」

「そうです。ハク様たちの一族は、そのようにして形を成したものです。わたくしも……」

「キキさんも?」

「わたくしも、生まれた時のことは覚えておりませんので、これは自分の主人たちとの推測になるのですが、悲しみの中で死んだ何人もの子供たちの魂が、強い負の感情のため大きな魂と混ざりあえずにたゆたった末、鶏や狼、ボルゾイ犬、吸血鬼の牙、捨てられた衣服のような物質と集合し、わたくしが生まれたのではないかと」

「大気に満ちる魂は無くならないのですか?」

 ハクが不思議そうに聞いた。

「大きな魂の全てを観測することに成功した者がいないので、その増減を知ることはできません。ただし、大きな魂と小さな魂の総量は、常に増えているのではないかと考えられています」

「それはなぜ?」

「人間を含めた動物の存在があるからです。彼らは魂を分け与えられて生まれてくるのではありません。自ら魂を持って生まれてくるからです」

「それらの魂も、死んだら大きな魂に吸収される……?」

「ええ、ですから推論として、大気に満ちる魂の総量は常に増え続けているのではないかと」

「キキさん。悲しみの中で死んだ子供の魂は、大きな魂とは混ざらないの?」

「激しい感情や、強い意志をもった魂は、他とは混ざりにくいようです。ただし、同じ感情を共有した小さな魂同士は、大きな魂の中で引かれ合い、独自に混じっていくようです。だから大きな魂は、決して均一の状態ではないのです」

「じゃぁ、強い意志を持って死んだ人の魂が、混ざる前に何か別のものに宿ったら、それは生まれ変わりのようなことになるの?」

「分かりません。なぜならば、それほど強い意志を残した魂を、わたくしは見たことがありませんから」

「これってつまりアニメートというのは……」

「クークラさんならば、もうお察しではないのですか?」

「……大気に満ちる魂を、無理やり物品に宿らせる術……」

「ご名答でございます。もっとも、無理に憑依させるので、しばらくすると魂は離れ、元の無生物に戻ってしまうのですが」



04.

 そこまで話した後、ふとキキさんとクークラが顔を上げた。

「?……どうしました?」

 二人の動きに、ハクが首を傾げる。

「スヴェシが来た……」

 クークラが呟いた。同時にキキさんも、

「大気に満ちる魂が敵意を持っています」

 と、言った。

「以前から感じていたのですが。この砦の周りの大きな魂の中には、多少異質なモノが混じっています。普段はそれほど感じられないのですが、砦跡に近づく者に反応して、それを観察している気配があります」

 初めて砦跡に来た時、自分を検分するような視線を察したことがある。

「理屈はわからないけど、スヴェシのヤツが来るときはいつもこんな、イヤな感じがするんだ」

 クークラは、スヴェシという人物に対する不快感を隠していない。

 それにしても、クークラは自分と同じモノを感じ取っているのだろうか? と、キキさんは思った。本能的に大気に満ちる魂の動きを感じているのであれば、それはアニメートという術との相性が非常に良いと言えるのだが。

「それが本当なら、今年は早かったですね」

 ハクはまだ少しふらつきながらベッドから降りた。

「クークラ、あなたは自分の部屋に居なさい。あの方の前でそのような態度を見せては問題になります。キキさんは、以前話していた通り、応接室を賓客対応にしておいて下さい。すみません、本当は次のシフトの時にゆっくりやってもらおうと思っていたのですが……」

「いえ、ちょうど今日、出勤していたのは幸いでした。早速仕事に取り掛かります。ハク様は?」

「私はスヴェシ様をお迎えして、まずは会議室へ入ります。報告義務のある事柄を、書類提出と同時に行いますので、少し時間がかかります。その間に、応接室の準備をお願いします」

 ハクが指示を出し終わったのと同時に、鉄の扉をノックする音が砦内に響き渡った。

 そこから、事態は慌ただしく動いた。

 ハクが国教会の司祭スヴェシを迎えに行き、共に会議室に入ると、キキさんは応接室の準備を始めた。

 応接室を賓客対応にするとは、ソファーを片付け、ディナー用のテーブルと椅子を用意し、かつ正式な形の饗応の準備をするということである。

 報告業務に時間がかかるとハクは言っていたが、準備は全速力で行わなければなるまい。

 キキさんは、砦跡に来て二回目となるシャドウサーバントの術まで使い、それを終わらせた。

 国教会からの査察が春に来るとは聞いていたが、まだ冬も明けきっていない時期だ。ハクも油断していたのだろう。予定の立っていないバタバタした仕事は、キキさんの望むところではない。

 眠くなっても来た。

 今年は仕方がないが、来年は例え時期を外してきても対応できるよう、準備をしておこう。

 晩餐として出すための酒を用意しながら、キキさんはそう心に誓った。



◇ 第四章:聖務 ◇


01.

 晩餐の場で、ハクはホストの、スヴェシはゲストの席に座り、キキさんは給仕として控えた。

 スヴェシは四〇そこそこの人間の男性で、地域における宗教的トップである「主教」と呼ばれる地位にある。この若さでその座にあるのはかなり異例なことで、それだけでスヴェシの優秀さは推し量られる。

 スヴェシの担当する主教区は、ちょうどこの砦跡がある「迷いの森」を包括しており、そこの主教は代々「魔王の娘」ハクを祀り鎮めることを任の一つとしてきた。

 ハクと向い合って座るスヴェシを、キキさんは見るともなしに観察している。

 やや浅黒い肌で、精悍で険しい顔つきをしており、髪は丁寧に撫で付けられて一点の隙もない。黒くゆったりとした僧服は飾り気が無く質素。しかしよく手入れがされていて清潔感がある。部屋に入った時にキキさんが預かった修道帽も、素朴だが年季の入ったものだった。

 テーブルマナーも完璧で、ただ左手がやや不自由なのか、しばしばフォークを握り損なうことがあった。

 静かな食事だった。

 スヴェシは無駄なことはあまりしゃべらなかったし、ハクはハクで緊張のため話すどころではない。キキさんも口をきく立場にない。

 そんな空気の中で、スヴェシは自分の予定を話した。

 砦跡に一泊した後、まずは「一の聖務」である「砦改め」をし、昼食の後に「ニの聖務」である「奉神礼と説教」を行う。その後、晩餐をしてから「氷結晶拝領」を受け、その夜のうちに帰途につく。

「奉神礼と説教」と聞いた時、ハクが見ていてわかるほどに気落ちした表情を見せた。

 晩餐を終え、キキさんはスヴェシを客間へと案内することになった。

 訪問が突然だったため、特別に用意をしていたわけではないが、しかしキキさんの管理に手抜かりはない。国教会の主教を泊めるにも十分な迎賓の準備は常にできている。

 キキさんが部屋へと導き、脱いだ僧服などを受け取るときに、スヴェシが話しかけてきた。

「見事なものです。貴女の仕事なのでしょうが、今までこれほど完全な晩餐を受けたことはなかった。この時期には本来使わないはずのこの部屋の支度も。ハクに出来ることではない」

「恐れいります」

「私が、常よりも大分早く訪問した意図はわかりますか?」

 言われて、やっと気づいた。

「……わたくしの仕事を検分するため」

「私が見たところ、合格です。それも、想像を遥かに超えた水準で。神品(聖職者)として、見習うべきとすら感じています」

「……」

「ハクは、私を含め敵の多い身の上です。貴女には、彼女の数少ない味方として、これからも支えていってあげてほしい。それこそが、ハクの命を取らなかった勇者様の優しさに通じる道なのではないかと考えます」

「……かしこまりました……一つお聞きしてもよろしいですか?」

「私に分かることであれば」

「ハク様を活かした勇者……様とは、どのような存在だったのでしょう?」

「私が生まれる前に、既に姿をお隠しになった人物です。書物を通してしか、私にも分かりません。しかし……」

「……」

「俗説ですが、勇者様はお酒が好きで、様々な産地の酒を舌に乗せるだけで利き分けたとも言い伝えられています。国教会で祀り上げられている姿よりもずっと人間的な所があったようです」

 会話はそれで終わり、キキさんは部屋を退出した。

 クークラは嫌っていたが、一廉の人物ではあるようだ。だが、ハクを幽閉することを聖務として行う立場の人間である。

 なかなかに厄介なものだ、と、キキさんは思った。



02.

 一の聖務「砦改め」とは、何の事はない参謀本部内の点検である。砦跡の管理をハクがきちんとしているかどうかを確かめるためのものらしい。

 以前は数日をかけて徹底的に行われていたそうだが、二世代前の主教が簡略化してしまい、それがそのままの形で続いていると言う。今では、半日で砦跡を見て回るだけになっている。

 ハクの先導のもと、スヴェシが砦跡の全部屋を検分し、部屋ごとに許可不許可を判断する。不許可があった場合ハクにはペナルティが課され、次の訪問まで何がしかの責務をこなさなければならなくなる。責務の内容は、その年によって違ったと、キキさんはハクから聞いている。

 スヴェシの目は鋭く、どんな小さな点も見逃さないよう監視していたが、不許可を言い渡される部屋はついに一つもなかった。従者として付いていたキキさんも、終わった時にはさすがに胸をなでおろした。

「不許可が一つもなかったのは、記録上初めてのことでしょうね」

 スヴェシは、点検が終わった後、ハクにむかって言った。

「自分の力でそう出来るよう、精進しなさい」

「……はい」

「では昼食の後、ニの聖務、奉神礼と説教を行います」

 その言葉を聞き、ハクは少し首をすくめた。表情には怯えの色が濃い。


 昼食を終えて、ハクとスヴェシは会議室へと入った。他の誰も入ってはならぬと厳命されたので、キキさんは夕食の準備を終えると、私室としてあてがわれている二階の一室に入り、待つことにした。

 ハクの表情は気になったが、まさか殺されるわけでもあるまい。これが終わればスヴェシも帰るのだから、精神的なフォローはその後に膳立するしか無い。

 そんな事を考えていると、部屋のドアがノックされた。

 クークラだろう、と、キキさんは思った。スヴェシと顔を合わせないよう、砦改めの時には外に出していたのだ。

「どうぞ」

「……失礼します」

 ドアを開け、沈んだ表情のクークラが入ってきた。

「クークラさん……ハク様が心配ですか?」

「うん……ねえキキさん、ちょっと付いて来てもらっていい?」

「なんでしょう?」

「来てもらえれば分かる……分かります」

 クークラについて、キキさんは砦跡二階の一番奥の部屋へと入った。ここも普段は使われておらず、ヒカリムシの灯台も灯していない。今はクークラが持っているランタンが唯一の光源である。

 部屋に入る前にクークラに、中では絶対に物音をたてず、喋らないよう誓って欲しいと言われた。

 頷くと、何故なのか聞く前にクークラがドアを開けた。



03.

 クークラはランタンをかざして部屋の奥へと進んだ。

 キキさんが付いて行くと、クークラは壁に取り付けられていた小さな金属製の蓋を開けて、耳を寄せた。ゼスチャーで、キキさんにも同じようにすることを促す。

 それは伝声管だった。

 参謀本部内部に、会議室を中心に伝声管が張り巡らされているのはキキさんも知っていた。しかし、全ては戦後に埋められてしまい、使えなくなっていたはずだ。

 クークラがヘビかなにかに取り憑き、その体で秘密裏に使えるよう整備したのか。勝手に憑依体を換えることは、危険も伴うためハクに禁じられているはずだが、クークラならばその程度のことはやりそうだ。

 キキさんはクークラに近づき、一つの伝声管に二人で耳を当てる。

 聞こえてくるのは、スヴェシの説教と、それを復唱するハクの声。

 国教会の教義教説と、その意味の解説を交互に行い、復唱と同意をハクに求める、そんな形式で行われている説教だった。

 音を立ててはこちらの気配が伝わってしまう。キキさんとクークラは、しばし黙って聞き入った。

 スヴェシの声は、まずハクの母ミティシェーリの「悪行」を述べ立てていた。

 下の大地において死と破壊の風雪を立たせたミティシェーリはまさに悪の権化であり、神はその存在を許さず、勇者を降し給うた。

 スヴェシはハクに、母は邪悪であると声に出して確認させて、説教は続く。

 邪悪の娘もまた悪であり、しかし何の能力も持たない、無能にして無為なる存在であった。邪悪なれども無為であるが故に、勇者は慈悲を賜い、命を助けた。

 勇者を崇めよ。勇者を崇めよ。

 聖歌を歌い上げるにも似たスヴェシの説教に、ハクの勇者を称える声が続く。

 スヴェシはその後も延々と、時に国教会の聖書でもある「戦史書」において史実とされる事柄を交え、あるいはハクが砦跡に幽閉されてからの行為行動を挙げて、ミティシェーリの邪悪とハクの無為を言い立て、微に入り細を穿ち、神の御使である勇者を称え従うべしと謳いあげた。

 ハクは挙げられる全ての事を、復唱し、了解し、それによって自分の邪悪さと無為無能である事を心に刻み込んでいくかのようだった。

「奉神礼と説教」を聞きながら、キキさんは冷静に考えた。

 ハクは魔王ミティシェーリの娘である。

 普段のハクの姿を見ているとつい忘れそうになるが、その存在は下の大地の人間たちにとって、確かに大きな悪である。

 氷の種族たちが残した傷跡は、それほどに大きい。

 人間たちも。

 魔王や勇者に関する事柄を一手に管理する国教会も。

 ハクに鬼胎を抱き、今なお畏れているのだ。

 ではどうするのか。

 殺滅は許されない。それを勇者が禁じた事は、戦史書にも記載されている。国教会において勇者の行いは絶対的に肯定しなければならない。

 結果として。

 まず国教会は、ハクを砦跡へと幽閉し、生き残った氷の種族たちから隔絶した。

 ……それ自体は失敗しているようだが……。

 それでも、ハクを新しい旗頭として立たせない事には成功した。

 だが、それだけではまだ不安を拭い去るには足りない。

 ハクが、絶対に、心の底から国教会に従い、逆らわないようにしなければならなかった。

 その方法として選ばれたのが、この「奉神礼と説教」なのだろう。もともと気の強いタイプではなかったハクが、長じて更に自信を失い、文字通りの無為な存在となるように。

 時の最果てに至るまで、ただ無力な存在として在り続けるために。

 国教会は現在も「宗教的努力」を続けているのだ。

 ハクの心を、折り続けているのだ。

 その意義はわからないではない、と、キキさんは思った。

 だが。

「……気に入らないな……」

 思わず、呟いた。

 一瞬、向こうに声が漏れたかと思ったが、ちょうどスヴェシの朗々とした説教の最中だったため、気づかれなかったようだ。

 ふと、キキさんはクークラが震えていることに気づいた。

 人形に取り憑いている限り、クークラが涙を流すことはない。

 だが、泣いているのは分かった。

 キキさんは、伝声管の蓋をそっと閉めて、クークラを抱き寄せた。声は出せない、音も立てられない。クークラはキキさんにしがみついて、流れない涙を流していた。



04.

 部屋へ送ると、クークラはただ黙ってそこに篭ってしまった。

 スヴェシとハクが聖務を終え、会議室を出た頃には既に夜になっており、重い雰囲気のまま晩餐が行われた。

 その後、ハクは手提げの金属の箱を持って来て、スヴェシの前に置いた。

「氷結晶受領」の儀。

 人間の身体にダメージを与えるほどの冷気を、箱は内部から放出しており、見ていられずにキキさんは断熱効果のあるハンカチで、持ち手をくるもうとした。

 が、それをスヴェシが止めた。

「氷結晶受領」は国教会にとっても自分に取っても大切な聖務であり、これは直接手で持つのが宗教的な義務である、と、言ってハンカチをキキさんに返した。

 スヴェシは、氷結晶の収められた箱を左手に持ち、砦を後にした。キキさんはそれを見て、スヴェシの左手がやや不自由だった理由を知った。毎回、凍傷になりかけているのだろう。

 それでも氷結晶を手放さない意志力に、キキさんは素直に感心した。


 スヴェシが帰った後、ハクのテンションはいつになく高かった。

 一仕事終えた! と、ハクは言った。

 それが強がりであることは、盗み聞きをしていたキキさんとクークラにはよく分かった。おそらくは、周りに心配させまいとする気遣いと強がり。また放っておけばどん底に落ちていくであろう精神との兼ね合いを取っているのだ。

 この時のハクはクークラに対して、いかにも保護者ぶった態度を取った。クークラもそれによく従い、ハクを立てていた。

「クークラ。考えていたのだけど、あなたキキさんの仕事を手伝いなさい」

 スヴェシが帰った後の団欒の最中、ハクはそう話題を振った。

「そして、キキさんの仕事を減らして、浮いた時間で術を学びなさい」

 いささか唐突ではあったが、キキさんはなるほどと思った。術を学べるとあって、クークラの目も輝いている。

 以前「考えていることがある」と言っていたが、これか。

「事後承諾的になってしまいますが、それで良いでしょうか、キキさん?」

「わたくしに言うことはありません。良い考えだと思います……いや、しかし」

「しかし?」

「本来、募集要項になかった仕事ではございます。お引き受けする代わりに、一つだけ、わがままを聞いていただければと思います」

「え? ……それはどんな……」

「ハク様のお創りになる氷結晶を見せていただきたく存じます」

「それは……」

 氷結晶の創造は、例え誰であっても見せることは禁じられているのです、と、ハクは申し訳無さそうに答えた。

 それを予測していたキキさんは、ちらりとクークラを見る。

 クークラもその意味をすばやく感じ取り、ウルウルした視線をハクに送った。無言のうちに、術を学びたい、だから見せてあげてほしい、という意味を込めている。

 ハクは、苦笑いをしながら一歩後ずさった。

「先にご訪問下さったゲーエルー氏も、ハク様が創った氷結晶をご覧になられたと」

「あ……あれはあのオジさんが強引に……!」

「ハク様」

「は……はい」

「ハク様は従順でいらっしゃいます。それはハク様の良い点でもありますが、しかし氷結晶の公開を禁じている国教会は、御自身を幽閉している、いわば敵対者でもあります。どうでしょう。多少は逆らってみるのも、悪いことではないと思いますよ」

 キキさんの言葉に、ハクは表情を変えた。

 ずっと、ずっと。

 ハクに刷り込まれていた国教会に従わなければいけないという感情に、極わずかだが亀裂が入った。

「……そうですね」

 ハクは、珍しくいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「別にバレる訳でもないし。……せっかくだから……私の仕事……むしろ、見て……もらいます」





◇ 閑話休題 その4 ◇


スヴェシに関して


 幼いころに、ハクの作った氷結晶を見たことが、スヴェシの人生を決定づけた。


 氷結晶は、国教会にとっても秘跡中の秘跡。本来ならば子供が見られるものではないが、しかしその当時、ハク付きとしては二代目の主教であった彼の祖父は、いろいろとおおらかな人物だった。


 幾何学的に、立体的に、透かし彫りを施されたその氷結晶はあまりにも美しく。

 少年スヴェシは魅了される。

 以来、スヴェシは迷いの森がある区の主教となるべく努力を始めた。


 主教という地位は、土地の信者と聖職者の推薦と、そして他区域の主教三人以上の支持を得て初めて叙聖される。決して血統で選ばれるわけではない。

 スヴェシは自身の能力と努力、さらには祖父の持っていた人脈までも活用し、時には凄惨な政争を仕掛けることすら躊躇わず、若くして主教の座を勝ち取った。


 その過程において、彼の精神力は鋭く磨かれることになる。


 彼を突き動かしたのは、氷結晶をもう一度見たいという想い。

 そして、それを創った魔王の娘に会いたいという憧れであった。


 主教として初めてハクと対面した日。

 彼の魂は夢を叶えたことで舞い上がる。この時の興奮は、後の彼の行動の原動力となる。

 しかし、魂の昂ぶりのままに振る舞えば、スヴェシは早晩に失脚していたであろう。

 例えば、彼の最も強い願いであり、魂を激しく昂ぶらせる妄想は、全ての氷結晶を我が物にしてしまうことだったが、そのような横領を国教会が許すはずもない。

 超人的なまでに鍛え上げられた精神力を以ってこれを制御したからこそ、スヴェシは自身の役目を完全に果たし得た。


 スヴェシにとって、主教の位は手段でしか無い。

 目的は、氷結晶と、創り手のハクのもっとも近くに居ること。

 優先順位は、あくまで魔王の娘と氷結晶が最上であり、現世での出世や、国教会そのものですら、スヴェシの中ではその下に置かれている。


 そのため、能力的優秀さと(周りからは)宗教的使命感(として見られている情熱)を評価され、いつかは国教会のトップである総主教の座に登り詰める可能性があったにも関わらず、スヴェシは出世レースには目もくれなくなり、迷いの森地区の主教の座に座り続けることになるのである。


 そんなスヴェシだが、魂の昂ぶりを制御しきれなかったことが、二度ある。


 一度目は、ハクに氷結晶を定期的に創らせるという提案を、国教会上層部へと上げた事。


 本来、氷結晶は氷の種族を下の大地へと導いた、国教会としては禍々しいものである。宗教的理由から必要な時にのみ、限られた数の氷結晶をハクに創らせるだけだった国教会に、定期的に作成させるよう仕向けたのはスヴェシである。

 理由は、もちろん氷結晶を見、触れる機会を増やしたかったから。


 もう一度は、形骸化していた「砦改め」や砦跡の整備に関しての義務からハクを開放し、氷結晶作成に集中させるという案を出したこと。


 砦跡の整備義務は、もともと勇者の言いつけでもあったためさすがに廃止は承認されなかったが、氷結晶の経済的価値に眼がくらんでいた国教会総主教庁の意向もあり、アルバイトを雇いこれを委任するという許可が降ろされることになった。


 ハクが砦跡に幽閉されて以来、四代目にして最後の主教となるスヴェシ。


 ハクと氷結晶に想いを馳せ、人間としてそこに最も近づく事ができる地位を、スヴェシという稀有な人物が勝ち取った。それが物語の最後、どのような意味を持ち、誰にとっての幸せに繋がるのか。


 それはまだ誰も知らない。




◇ 第二話 エンディング ◇


 氷結晶を創る作業場は、居住している参謀本部の外にある。広い意味では砦跡の敷地内だが、作業場が作られたのは戦後であり、その三角屋根の木造建築自体は比較的新しい。

 中に入ると、外からは全く想像できない空間になっていた。

 部屋中の壁、床、天井が全て溶ける気配のない氷に覆われており、室温は限りなく低い。

「冷たくないですか?」

 というハクの質問に対し、キキさんは羽織ったコートを掻き合わせ、

「ちょっと寒いですね」

 と答えた。

 クークラは、人形の身体である以上は寒さを感じないのだが、いつのまにか関節が凍ってしまうらしく、じっとしていると動けなくなるかも、と言って、常に足踏みをしていた。

 氷結晶を見せることをあれだけ渋っていたハクだったが、腹をくくった後はむしろ積極的にキキさんとクークラを作業場へと案内した。

 そのハクが、中央にある氷の作業台を指差す。

 そこには、おそらく創りかけなのだろう、半分は氷の塊のような、もう半分が幾何学的な形に細かく透かし彫りにされた氷結晶が置いてあった。

 近づいて。

 それを見て。

 キキさんは思わず心を奪われた。

 美しい。

「あ……触らないでくださいね。さすがにキキさんでも、ただでは済まない冷気をはらんでいますから」

 注意されて初めて、手を伸ばしかけていたことに気づく。

 心のなかで気を取り直し、改めて氷結晶を見つめた。

 さすがにもう魅了されることは無かったが、氷結晶の美しさに違いはない。

「凄い……ですね……」

「母が創っていたものとは大分違いますけど……」

 ハクは言いながら、自分の首から下がっている氷結晶を指でなでた。

 それはハクが創りかけた氷結晶に比べると随分と素朴な創りだ。ゲーエルーは言っていた。美術的な仕上げでは、姉御のミティシェーリでは逆立ちしても嬢ちゃんには敵わない、と。

「これ、母が最初の頃に創った氷結晶なんです。貰ってからもう随分たつのに、効力はまったく衰えません。見た目は素朴ですけど」

 ハクは胸元を飾る氷結晶を見ながら、懐かしむように言った。

「母も、本当はもっと細工にこだわった氷結晶を創りたいと言っていました。戦争が終わって、またゆっくり出来るようになったら、一緒に作ろうって……」

 語尾が、わずかに揺らいだ。見ると、ハクの眼には涙が溜まっていた。

 キキさんはハクの手を取った。

「素晴らしいですわ。ハク様は、正しくお母様の遺志をついでいらっしゃいます」

 言葉に真意を込めて、キキさんはハクを賞賛した。

 ハクは目をこすり、涙を隠しながら笑った。

「ありがとうございます」

 はにかみながら、ハクは礼を言った。

「まぁ国教会に課された義務の一つなんですけど……」

「いいえ!」

 眼を伏せるハクに対して、キキさんは珍しく感情的に言い募る。

「申し上げますが、ハク様はもう少し自信を持つべきかと思います」

「は……はい?」

「クークラさんの手本となるためにも、ご自分に誇りを感じ、大人としての自信を持つことが肝要かと」

「……でも、自分には……」

「もちろん、自尊心とはただで手に入るものではございません。納得できる仕事をなし、それを評価される事で初めて手に出来るモノだと、わたくしは考えております」

「それは……やっぱり私では持てそうもありません。母や仲間たちの墓標でもある砦跡の整備だって半端で……」

「いいえ! そんなことはございません!」

 砦跡に来て以来、最も大きな声を出してキキさんは言った。ハクもクークラも眼を丸くして彼女を見た。

「わたくしも、機織りや服飾のような物づくりに関わる趣味を持っていますから、わかります。これは、ただ押し付けられた義務感だけで出来るものとは思えません」

 腕を振るって氷結晶を示す。

「国教会からは、あるいは魔王の技と言われているかもしれません。しかし、そんなもの放っておきなさいませ。ハク様は、課せられた義務だなどと自虐する必要はございません」

 一息吸って、キキさんはいつもの調子に戻った。

「これは、お母様の遺志を引継いだ……いいえ、ハク様ご自身の、素晴らしい仕事です。少なくともわたくしは、今までの人生でこれほど美しい物を見た事はございません」

 キキさんの迫力に圧されていたハクだが、少しの沈黙の末、本当に嬉しそうに笑った。

「……ありがとうございます」


 外に出ると、まだ冬が終わりきっていない季節だというのに、随分と暖かく感じた。

 これが氷の種族の故郷である北の地と、下の大地の気候の差なのだろう。

 ふと、視線を感じた。

 スヴェシがきた時に感じたのとは真逆の意志が、ハクを取り巻いているようだ。

 大気に満ちる魂を感じ取る能力は、ハクにはない。

 教えてあげようか、と、キキさんが思った時、クークラが言った。

「なんか、嬉しそうな気配があるよ……なんとなく感じるんだ」

 ハクは、気のせいじゃないの? と、笑った。

 その笑顔を見て、春を呼ぶ雪割草のようだとキキさんは思った。

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