エピローグ

《エメリア首都エリアスバーグ》


 ギデオンは朝の6時に眼を覚ました。本棚で埋め尽くされた寝室に焼き立てパンの甘い香りがかすかに漂っていた。ギデオンのアパートは聖コンスタンティン神学大学校とパン屋に挟まれたところに建っていた。パン屋が開店の準備を始める頃が6時だった。

 ギデオンはゆっくりとベッドから起き上がり、タンスから聖職服を取り出した。寝間着を脱ぎ、不自由な左腕に手間取りながら、久方ぶりに袖を通した。洗面所の鏡で服装を点検する。詰襟に縫い付けられた赤い十字架は祓魔師の証。髪に少し寝癖がついていた。少量のポマードをつけてから櫛を通し、丁寧に整えた。

 ドアに鍵を掛けて外に出た。アパートから教皇府までは3キロ。朝は都心に向かう客で混雑するバスを利用せずに歩いて通っていた。学生の頃からの日課だった。

 車の交通量は少ないが、歩道には大勢の人が行き来している。その中に聖職者が混じり、ギデオンの姿を見るなり思わず立ち止まったり、振り返ったりする者がいる。初冬の空気は冷たく肌を刺してくる。コートを着てくれば良かったかな。ギデオンは少し後悔した。

 聖エリザヴェータ大通りに出る。相手から指定されたカフェテリアが見えた。ピジクスは通りに出されたテーブルの1つに座っていた。あの日、白い麻のスーツを着ていたピジクスは今日も茶のツイードに身を包み、あの時と同じステッキの柄に両手を重ねている。テーブルの上では、コーヒーが湯気を立てていた。

「冷えますね。中のテーブルにすればよかったのに」

 ギデオンはピジクスの向かいに腰を下ろした。

「君はアファルに長くいすぎたんだよ。今日はテラスでコーヒーを飲むにはもってこいの日だ」

 ピジクスはコーヒーをゆっくりと啜った。

「ああ、君は紅茶だったね。いま、用意させよう」

 ピジクスは手を上げる。ウェイターがギデオンの眼の前に紅茶を入れたカップを置いた。ソーサーを左手に持つと、カップが微かに震えた。熱い紅茶をひと口、ゆっくりとすする。

「左手が不自由そうだが」

「悪魔のせいですよ」

 ギデオンは聖職服のポケットから取り出した分厚い茶封筒をテーブルに置いた。ピジクスはいぶかしそうに眉をつり上げた。

「このお金はお返しします。あの人形はまだお持ちですか?きっと、裏で糸を操るのはお手のものでしょうね。エドガー・ピジクス枢機卿」

「おやおや、いったい何のお話やら・・・」

 ギデオンは声を低くした。

「冗談は止めていただきたい。発端はクーベリックが悪魔に取り憑かれて狂ってしまったことだ。エヴァソの聖職者が教皇府に報告し、貴方がやって来た。そこで、貴方はぼくをあの遺跡に送りたいと考えた。教会の依頼と言えば、ぼくが首を縦に振らないと知っていたから、骨董品のディーラーを装ったのでしょう」

 ピジクスは無表情だった。

「シスター・アンの話では、教皇府は遺跡の歴史を知っていたし、エヴァソには枢機卿もいる。いくらでも、他の有力者を派遣できたはずです。なぜ、わざわざぼくを騙すような手間をかけたんです?」

「あちらに訊いたら、いいでしょう?」

 ピジクスは遙かに見える教皇府のドームを指し示した。

「ぼくは貴方に聞いてるんだ」

 ピジクスはため息をついた。

「聖ヴィッサリオン、君はあれだけの経験をした後で、まだ人間を利用するのは悪の力だけだと思ってるのか?教皇は善と悪の戦いは今日も続いてるとおっしゃられた。デラチで必要とされていたのは、たった1人の神の代理人だった」

 ピジクスはコーヒーをひと口含んだ。

「もし私が君を騙したことについて怒ってるのなら、その非礼はこの場で詫びよう。いかにも、私は枢機卿だ。この度、教皇の勅令を受けた身でもある」

「勅令?」

「教皇は今後、善と悪の対立がますます激化すると憂慮しておられる。悪の手から信徒たちを守る祓魔師を集結させ・・・『部隊』を立ち上げる。教皇は特に、君の参加を望んでおられた」

「ぼくを試したわけだ」

「そんなことはない」

 ピジクスは苦笑を浮かべた。

「君自身も感じてるのではないのか?ヘルンデールで起こったことは、自分があの遺跡へ導かれるための布石だったのではないかと」

「・・・」

「逆に、質問させてほしい。なぜ、君はデラチにとどまったのか?」

 ギデオンは意表をつかれた。

「・・・ぼくには、他に選択肢がなかった」

「その気になれば、いつだってデラチからさっさと立ち去ることができたはずだ。他の人間なら、誰だってそうしただろう。君はなぜ、そうしなかった?」

「ジョセフを、悪の手に残しておくことはできなかった」

「では、もうひとつ聞かせてくれ。もし時間が元に戻せるとしたら、またデラチに行くと思うか?」

「ええ」

 ギデオンは躊躇せず答えた。悲しげな微笑みがその顔をよぎる。

「ええ、行きます。愛する者を守るためだったら、ぼくはなんだってする」

 ピジクスはうなづいた。

「ジョセフのことは心配しなくていい。エヴァソのポリトウスキ神父のところで、元気にやってる。君に依頼した彫像だが、あれを積んだ飛行機がどういうわけか墜落してね。彫像はその後、行方不明になってる」

 ピジクスはスーツの懐から取り出した1冊のファイルをギデオンに手渡した。

「君には、早速これをやってもらう」

 ピジクスは喧騒に紛れて消えた。独りカフェに残ったギデオンはファイルを開いた。文書が数枚、帝国警察の紋章が押されている。ある連続殺人に関する捜査資料だった。被害者は4人。解剖所見を一読した際、ある文章が眼に留まった。刑事と解剖医のメモ書きのようだ。

『人間の手で、このような殺害は可能なりや?』

『可能ではあるが、異常な力を必要とする』

 ギデオンは写真を見る。被害者の頭部はどれも背中を向いていた。

 やがてカフェを出たギデオンは聖エリザヴェータ大通りを歩き始める。陽射しに手をかざした。教皇府の聖ヴィクトリア大聖堂に向かって、確固たる足取りで歩いて行った。

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聖弾の祓魔師《エクソシスト》ー荒野の教会 伊藤 薫 @tayki

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