[7]
洞窟の奥から地獄の光景が押し寄せてくる。ゾフィは細剣を構える。頭上で死を告げるバンシーの鳴き声が渦巻いている。
悪魔はねじ曲がった足で襲ってきた。長い脂じみた髪が後ろにたなびいている。大きく振りかぶった細剣で斬撃を繰り出した。ゾフィは相手の刃を柄頭で受け止める。火花が散って細剣が絡まる。
ゾフィは悪魔を睨みつける。悪魔は耳の近くまで裂けた口を開けて威嚇する。黒く濁った眼はギラギラと輝いている。2つに割れた灰色の舌が尖った歯から飛び出している。長く鋭い爪はナイフのようだ。
「しりぞけ!父と御子と聖霊の名において!」
ゾフィは悪魔を押しのける。思わず後ずさった悪魔に向かって刺突を繰り出した。刃が右肩を突き刺さった。悪魔は呻き声を上げて身を震わせる。再び細剣をつき出してきた。
「父と聖霊とともに生き、君臨する我が主の聖なる十字架のしるしによって!」
ゾフィはステップを踏んで斬撃を躱し、細剣を肩から引き抜いた。間合いを詰めてくる悪魔に柄頭で顔を殴りつける。顔に亀裂が入った悪魔は雄叫びを上げて、細剣で右に左に斬りつける。ゾフィは斬撃を受け流し、今度は左腹に刺突を繰り出した。
「神と聖霊が汝に命じる!」
《ヘレーネ、闘いなさい!》
剣先は悪魔の腹に食い込んだ。顔の亀裂はさらに広がる。苦痛が呻き声となって飛び出した。ゾフィが細剣を引き抜いた途端、悪魔はなおも剣を振ってくる。ジョセフがすすり泣いている。
ゾフィは剣戟を受けとめる。細剣がギシギシと軋みを上げる。
「十字架の神秘が汝に命じる!」
悪魔の額に十字の紋様が刻印される。ますます深くなった亀裂が顔を覆い尽くした。口からヘドロのような液体を吐き出した。悪魔は怒号を上げる。猛然と振った剣が絡まりから解けた刹那、ゾフィは衝撃を受ける。悪魔の剣先が脇腹に襲いかかった。ジョセフは悲鳴を上げる。
《闘いなさい、ヘレーネ!》
ゾフィは心の内に叫んだ。細剣を握る手に力を込めて構える。
「殉教者の血が汝に命じる!」
ゾフィは刺突を繰り出した。狙いは悪魔の首。剣先が首に達する瞬間、頭が後ろに捻じ曲げられる。ボキッと大木が折れたような音が洞窟に響いた。ゾフィは驚愕する。途端に悪魔の顔は眼の前に向き直る。不敵な笑みで相手を睨み付けた。
恐怖に胸が締め付けられる。息が苦しい。悪魔は細剣を振いながら迫ってくる。交錯する刃から火花が散る。ゾフィは相手の腹を蹴り上げる。苦痛に叫んで退いた悪魔にすかさずステップを踏んで間合いを詰める。ゾフィは刺突を繰り出した。
「神が自らの似姿に造りたまい、聖なる子羊の尊き血によって贖われし魂から、汝を追放する!」
剣先が悪魔の心臓を貫いた。地獄の底から響くような悲鳴を上げる。顔の亀裂が軋みを上げて広がった途端、グシャリと音を立てて潰れる。衝撃で地面に叩きつけられた瞬間、悪魔は奈落に突き落とされた。両腕と両脚がめちゃくちゃに折れ曲がり、洞窟の壁に黒い液体が飛び散る。
完全な静寂が訪れた。
ギデオンは眼を覚ました。その場に呆然と立ち尽くしていた。自分自身の心臓の鼓動と荒い息遣いだけが聞こえる。右手は細剣を握っている。不思議な感覚に包まれていた。自分を超える神の使いが洞窟にいたのではないか。
何かが身体を触れた。ジョセフが隣に立っていた。ギデオンのシャツを引っ張っている。
「ギデオン?」
ギデオンは返事をしようとした。その瞬間に身体から力が抜けた。全身に激痛が走る。口から低い唸り声が漏れる。地面にガックリと膝をついた。
《ヘレーネは?》
ギデオンは洞窟を見渡した。こちらに背を向けて横たわっている。ワンピースから血が滲み出ている。ギデオンは呼びかける。声は震えていた。
「ヘレーネ・・・!」
泣くような呻き声が聞こえる。ギデオンは這いつくばってヘレーネに近づいた。身体を仰向けにする。悪魔が取り憑いていた痕跡はすっかり消えている。熱いものが眼にこみ上げる。
「ギデオン・・・」
ヘレーネはギデオンを見上げる。絞り出すような囁き声だった。
「ここだ。ヘレーネ、ここにいる」
ギデオンはヘレーネの手を握る。ヘレーネの眼に光が戻って輝きが増してくる。
「あなたが・・・救ってくれた」
ギデオンはヘレーネをしっかりと抱き寄せた。
怒りと悲しみが胸の裡にせめぎ合っていた。何かが動く気配を感じた。かすかにため息をつくような風が吹いた。か細い余韻を残して消えた。
「ヘレーネ?」
ヘレーネは眉をひそめたかと思うと眼を閉じる。また開いた。光は消えていた。
「ギデオン・・・苦しいの」
手に生温かい感触があった。ヘレーネの後頭部から血が広がる。折れた四肢や砕けた内臓から溢れ出した血が地面に液だまりを作った。何とか止血して傷を癒してあげたい。今は何も出来ない。
「すまない・・・」ギデオンは囁いた。「本当にすまない」
ヘレーネはギデオンの顔に手を伸ばした。
「いいの・・・これで、やっと・・・自由に・・」
ヘレーネの手が頬に触れた。刹那、ヘレーネは静かに眼を閉じた。正体をなくした手ががっくりと垂れる。
ギデオンは深く息を吸い込んだ。ヘレーネを地面に横たえ、胸の上で手を組ませた。近寄ってきたジョセフは涙で頬を濡らしている。膝を付いてヘレーネの胸に手を添える。ギデオンは十字架を握り、死者に最期の秘跡を行った。
「主よ、死せる信徒の霊魂を罪のほだしより解かせ給え。主の聖なる恩寵により、刑罰の宣告をまぬがれ、永遠の光明の幸福を楽しむに至らんことを」
ギデオンはつぶやいた。
「天使たちよ、憐れなるこの者をいと高き場所まで導き給え。父と子と聖霊の名により、かくあれかしと・・・」
ヘレーネの額に十字を切る。ヘレーネは最後の息を吐き出した。ギデオンの頬を滂沱たる涙が覆う。こんな熱いものが自分の中にまだ残っていたとは思ってもいなかった。
「ギデオン?」ジョセフは言った。
ギデオンは立ち上がった。
「ヘレーネは神の御許へ召された」
言葉を噛みしめる。自分とジョセフの心に刻み込む。
「ヘレーネは神とともにいる」
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