最終章 殺し屋対素人探偵

「もう逃げられんぞ。諦めろ」


 黒崎くろさき警部の一括。普段私たちと話す時とは全然違う声だ。並の人ならこの声で威圧されただけで白旗を上げてしまいそう。しかし、目の前の男は表情ひとつ変えることなく、


「お前たちも同じようにしろ」


 私と理真りまにも三人の刑事と同じポーズを取るよう要求した。従わざるを得ない。


「この二人は関係ない。逃がしてやってくれ」

「首はどこだ」


 男、摩戸切作まときりさくが黒崎警部の言葉を無視して言い放った。こちらも聞いただけで震えが来るような声。黒崎警部の声がハンマーなら、摩戸のそれは冷たいナイフだ。


「何のことだ――」


 黒崎警部の声は、振り上げたハンマーが頭上で掻き消えてしまったかのように、すぐにたち消えた。摩戸がナイフの峰部分を美島みしまの白い首筋に当てたのが見えたためだろう。


「余計な会話をするつもりはない。首を持ってこい。それと車を用意しろ。パトカーじゃない普通の乗用車だぞ。油は満タンでな。その車に首を入れて本部前に用意しろ」

「逃げられると思っているのか――」

「早くしろ」


 黒崎警部のハンマーは、再び冷たいナイフに抑えられてしまった。


しおり


 捕らわれの身の美島が丸柴まるしば刑事に向かって声を出し、


「さっさとこいつの脳天を撃ち抜けよ。一発で仕留めれば私も助かるからさ」

「馬鹿なこと言わないで」


 丸柴刑事が答えたが、恐らく三人とも拳銃は携帯していないだろう。


「あのさ」続いて理真が声を出し、「犯人と関係者が揃ってるから、探偵が事件の謎解きをするのに持ってこいの状況なんだけど。さて、って言って始めていい?」


 摩戸は理真に見せつけるように、ナイフの峰をさらに美島の首筋に食い込ませる。

「はいはい」と理真は喋るのをやめた。

 理真、この状況で何か勝算があるのか? ここに自転車はないぞ。いや、ふざけたことを考えてる場合じゃない。

 人質を取った殺し屋と相対するなんて、素人探偵の仕事領域を越えてるよ。レジェンド探偵明智小五郎あけちこごろうなら、この状況でも見事犯人を打ち倒して捕まえてしまいそうだが。あいにく理真には明智先輩の百分の一の格闘能力も望めない。

 その理真は、尚も摩戸に声を掛け、


「本当に逃げられると思ってるの? 私がここへ来る前に、こんな事もあろうかと警官隊で本部建物を包囲するよう要請したわ。車を用意したところで逃げられないわよ」


 はったりだ。ここへ来るまで理真とずっと一緒だったが、そんなことをしてはいなかった。


「やってみろ」摩戸は怯んだ様子もなく、「俺が捕まる時は、こいつが死ぬ時でもあるぜ」


 一瞬美島に目をやった。その美島が、


「栞、私に構わずこいつを撃て」

「馬鹿なこと言わないでって言ったでしょ……」


 人質となっている美島にも怯んだ様子は見られない。丸柴刑事のほうが、その分動揺しているようだ。冷房の効いた屋内だが彼女の頬に汗が伝うのが見えた。


「さっさと車を用意しろ。首も忘れるなよ。早くしろ!」


 摩戸の最後の鋭い叫びに、渋々といったふうに黒崎警部は頭の後ろで組んでいた右手を離し、懐に手を入れようとしたが、


「待て」摩戸が声でその動きを止めた。

「携帯電話だ」


 黒崎警部が言ったが、


「懐からおかしなものを取り出されても困るからな、机の上の電話を使え。もう片手はそのままだぞ」


 黒崎警部は手を伸ばし電話の受話器を取った。


「栞」またしても美島の声が、「さっき、私に構わず撃てと言ったのは嘘だ。理真が『こんなこともあろうかと』なんてかっこいい台詞を言ったから、私も何かかっこいい台詞を言ってみたかっただけだ――」

「口の減らない嬢ちゃんだな。その綺麗な顔を傷物にされたいのか」


 摩戸が美島の首に回した腕の力を強めたようだ。美島は、くっ、と苦しそうな声を漏らし表情を歪めた。

 ガタン、ガシャン。と大きな音がした。理真がもたれかかるように体をガラス棚にぶつけたのだ。棚の中にあった容器などのいくつかが倒れて割れてしまったようだ。


「理真!」

「安堂さん!」


 丸柴、中野両刑事が横目で窺いながら声を上げた。


「……大丈夫。ちょっと慣れない状況なものだから、足が震えただけ」


 理真は震える声とともに笑みを浮かべた。理真、さっきまでの剛胆さはどうした?


「おい、早くしろ」


 摩戸が黒崎警部を促した。栗崎警部は受話器を上げた姿勢のままだった。


「どうするの」突然理真の声。そこに、つい先ほどまでの震えは一切混じっていなかった。

「何?」摩戸が反応した。

「首尾良くここから逃げられたとして、その後どうするの」

「そんなこと、お前たちの知ったことじゃないだろう」

「ロシアンマフィアに匿ってもらうつもりなのね」

「黙れ――」

「摩戸切作。科捜研の絵留ちゃんにナイフを突きつけて人質に捕ってB3研究室に立てこもるなんて、黒崎警部、丸柴、中野刑事の三人も手が出せないじゃない。私、安堂あんどう理真と江嶋えじま由宇を加えた五人は、頭の後ろで両手を組まされて手も足も出ないわ、まったく――」

「黙れと言った!」


 摩戸の一括。

 明らかにおかしい。理真の声が大きい。普段はこんな大声で喋りはしないのだが。理真は喋りを止めず、


「ねえ、そもそも、どうして茶屋橋ちゃやはしの首がここにあると知ったの? この科捜研に。さらに、何で絵留ちゃんの部屋に入り込んだの? 何か情報を掴んだのかしら。殺し屋だけあって裏の情報網に精通しているのかしら。茶屋橋の首が科捜研にあるって、どこ情報? 絵留ちゃんのいるB3研究室にあるって、そこまでの情報を得ていたの? 情報の出所はどこなの? ロシアンマフィア? それとも龍神会? あなたは龍神会の幹部を殺したんだから、そっちから情報を得られるとは思えないけど――」

「黙れと言っている」


 摩戸はナイフを返し、峰ではなく刃が美島の肌に向くように持ち替えた。それを見た理真は、ため息をひとつついて喋るのを止めた。


「おい」再び摩戸は黒崎警部を促す。


 黒崎警部は受話器を持ったままの手で電話のプッシュボタンを押した。ピッ、という電子音が静寂の室内に響いた。そして受話器を耳に近づけ、


「……組対の黒崎だ。車を一台用意してくれ。パトカーじゃない、乗用車だ。ガソリンは満タンで……それから、茶屋橋の首を車の座席に入れてくれ……ああ、そうだ。じゃ、頼む」


 黒崎警部は受話器を置いた。


「よし、おい」


 摩戸は私たちに廊下に出るよう促した。


「おい、ドアを全開にしろ。お前じゃない、そこのメガネの女、お前が開けろ」


 中野刑事が両手を解いてドアに触れようとしたが摩戸はその動きを制して、ドアを開ける任務を私に振った。私は半開きのままのドアに手を掛け、ゆっくりとスライドさせていく。


「よし。動くなよ。そのままだ」


 摩戸は美島の首根っこを抱えたまま、すり足でゆっくりとドアが開かれた出入り口に向かう。私たちから一瞬たりとも視線を外すことはない。そして出入り口を背にして、


「おい、お前」再び私をご指名して、「俺が廊下に出たらドアを閉めて鍵を掛けろ。いいな」


 私は頷くしかない。


「じゃあな――」


 摩戸がこちらを向いたまま片足を後ろに一歩踏みだし、廊下に半身を出した瞬間。


「え?」


 私の目が予想外なものを捉えた。

 腕が伸びてきて、ナイフを持った摩戸の右腕を掴んだのだ。

 一瞬だった。部屋の向こうの壁際に誰かが待機しており、摩戸が廊下に出た瞬間を狙ってやったように見えた。さらに反対側からも腕が伸びてきて、今度は美島を捉えた摩戸の左腕を同じように掴んだ。両側から腕を捕まれた摩戸は、その手に引っ張られるように両手を左右に開く格好になった。摩戸の腕は美島を離さざるを得なくなり、解放された美島は素早く部屋の中に戻った。その美島を丸柴刑事が抱き留める。


「確保だ」


 声の主は城島じょうしま警部だった。最初に摩戸の右腕を掴んだ人物でもある。

 その声を合図としたように、左右から数名の刑事が姿を現し、摩戸の体に一斉に掴みかかる。さすがの殺し屋も、屈強な数名の刑事に五体を抑えられては抵抗する術を持たなかった。


「な、どうして……」


 精一杯振り絞った摩戸のその声に黒崎警部は、


「電話の受話器を取り上げた時だよ。理真くんと目があってな。何をやるのか察したよ。あのとき俺はボタンを押して電話を内線に、間違いなく誰かしらいる総務課に繋いだんだ。ただ、内線を掛けたことがお前に悟られないようにしないといけないからな。内線のプッシュボタンを押すとどうしても電子音が鳴るからな」

「……それで、お前、倒れるふりをしてわざと棚にぶつかったんだな」


 摩戸は理真に目をやった。

 そういうことだったのか。理真は黒崎警部が内線に繋ぐプッシュ音をかき消すために、あんなに激しく棚にぶつかって音を立てたのか。おかしいと思った。


「それから先は、理真くんが今どこで何が起きているのかを内線を通じて総務課に知らせるために、大きな声で状況説明をしてくれたというわけだ」


 あの不自然に大きな声も、受話器のマイクに確実に声を届かせるためだったのか。

 摩戸の右腕をねじり上げたまま城島警部は、


「俺は、たまたま本部に戻っていてな。総務課から連絡を受け、腕っ節のいいのを数人連れて、物音を立てないようにこの部屋の前まで来てスタンバイしていたというわけさ」

「くそ……」


 摩戸はもうそんな声を出すのも苦しくなってきたようだ。


「絵留、大丈夫?」


 美島の肩を抱いた丸柴刑事が心配そうに顔を覗き込む。頭ひとつ分も身長差がある二人。子供の心配をする母親のようだ。もっとも、美島のほうが丸柴刑事より年上なんだが。

 美島はそれに頷いて答えると、丸柴刑事の手をそっと自分の肩からどけて、つかつかと摩戸の前まで歩くと、無言のまま摩戸の股間に強烈な前蹴りを蹴り込んだ。

 摩戸は悲鳴ともつかないくぐもった声を漏らして白目を剥いた。



「摩戸が吐いたよ。全て理真くんの推理通りだった」


 科捜研での大捕物から数日後、県警を訪れた私と理真は、黒崎警部から事件の顛末を聞いた。


「摩戸が吐いたロシアンマフィアのアジトにも突入したんだがな、もぬけの殻だった。連中、危険を察してさっさと本国に帰ったらしい」


 黒崎警部は悔しそうな表情を見せてから、


「だがそこに、摩戸が差し出した身代わりの頭部が残されていた。茶屋橋の体は知り合いの工事関係者に頼んで、施工中の土木工事現場のコンクリートの中に埋め込んでもらう手筈だったそうだ。開けておけるスペースは胴体一体分だけ。やはり二体の胴体を始末することは出来なかったんだな。その工事関係者が龍神会の息の掛かったやつだったっていうんだから、笑い話にもならんよ。自分とこの幹部の死体の始末を手伝うところだったってんだからな。こちらも胴体を埋め込む直前で、現場から隠してあった胴体を押収した。間違いなく茶屋橋のものだった」


 ロシアンマフィアは取り逃がしたが、それでも血気はやって攻撃的な行動を起こした龍神会の幹部数名を逮捕。少しは同会の弱体化に成功したそうだ。


「いや、しかし、今度の事件で組対の中にも、かなりの理真ちゃんファンが増えたぞ」

「やめて下さい」


 笑顔で語りかけてくる黒崎警部に、理真はため息をついて答えた。


「一課だけでなく、俺たちの捜査も手伝ってくれよ。ガサ入れとか」

「勘弁して下さい。ちょっと大人げないというか、乱暴なことをしてしまったって、これでも後悔してるんですから。ぶり返さないで下さいよ」

「そんなこと言うなよ。女性が強いってのは、大いに結構なことだと俺は思うよ」


 それを聞いて私は、


「強いといえば、絵留ちゃんが摩戸に見舞ったキックも凄かったね」

「そうそう」


 理真が食いついてきて、


「クロさん。組対にスカウトするなら、ぜひ科捜研の美島絵留をお願いします」

「ああ、あの子も強いな。あの摩戸に人質にされても泣き叫ぶどころか、表情ひとつ変えなかったからな。大したものだよ」


 黒崎警部は顎に手を当てて、その時の様子を思い出すように言った。

 私と理真があとで聞いた状況によると、摩戸は黒崎警部たちの追跡に気付き、咄嗟に近くの部屋に飛び込んだ。そこは美島の部屋で、運悪く彼女も居合わせたのだ。

 黒崎警部たちもすぐに後を追って部屋に入ると、摩戸が美島に飛びかかったところだったという。

 人質に取られている間は、黒崎警部が言った、また私たちが見たように泰然自若としていた美島だったが、さすがにその瞬間は悲鳴を上げたそうだ。


「でも、さすがの絵留ちゃんも摩戸を見たら悲鳴を上げたそうですね。絵留ちゃんの悲鳴、聞いてみたかったなー」


 私の思考を読んだかのように理真が呟いた。


「私も」と、この話題には私が食いつき、「普段の絵留ちゃんからは想像できないね。あのかっこいいハスキーボイスからは」

「いつもとは全然違ってさ、『きゃっ』なんてかわいい声を出したんだよ、きっと」

「やばい萌える。あ、クロさんは聞いたんですよね、絵留ちゃんの悲鳴。どんなだったんですか?」

「……あ、いや、俺の口からはな……」

「えー、意地悪しないで教えて下さいよー」と理真はさらにこの話題を広げに掛かり、「もしかして、案外『どぉうえぃ!』とか異様な悲鳴を出したんじゃ。目を丸くしながら」


 私はその様子を想像して吹き出してしまった。黒崎警部ひとりだけ表情を固くしている。微妙に視線が私と理真の後ろを指しているような……?


「誰が『どぉうえぃ』だって?」


 私と理真の背後から聞き慣れたハスキーボイスが飛んできた。


「あ、絵留ちゃん……」


 同時に振り向いた私と理真は、これまた同時に同じ言葉を発した。

 美島絵留が、座った私たちを睥睨へいげいするように立っていた。

 大きい。いつもはちっちゃな絵留ちゃんが、今はなぜか大きく見えるよ。


「クロさん。これ、報告書です」美島は黒崎警部に書類を手渡した。

「お、おう。ご苦労さん……」


 あの組対の鬼、黒崎警部も、美島が発する気に気圧されているかのようだ。

 きびすを返して戻ろうとした美島は、数歩歩いてから立ち止まり、


「理真、由宇、今夜飲みに行こう」


「え、うん、事件も解決したし、いいけど……」


 と理真。ごくり、と喉が鳴った。


「二人のおごりでね」


 振り向いた美島のメガネがキラリと光った。

 私たちは、『いや、ワリカンでお願いします』などと口に出せるはずもなかった。

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真夏の首 庵字 @jjmac

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