朝モノさん(なぼこふ)の憂鬱
書物のなかで俺が愛するのは、血で書かれたものだけだ。血で書け。すると、血が精神であることが分かるだろう。
読者というものを知っている人間なら、読者に合わせて書くことはしない。あと1世紀、読者というものが存在し続けるなら、―――精神は、悪臭を放つだろう。
~ニーチェ(ツァラトゥストラより)~
◆
最近、気になる女性ヒトがいる。
毎朝、オレと同じモノレールの最後尾車両へ乗り合わせる
彼女はいつも地味な紺か黒のパンツスーツを身に纏い、つやつやの黒髪を素っ気なく後ろ一本で結わえている。
新入社員だろうか? それとも就活中の女子大生?? てことは、オレより3~4歳は年下ってコトだよな、うん。
これといって目立つタイプの美人ではないけれど、座席へだらしなくもたれ掛からずに、毎日しゃんと背筋を伸ばして座っている姿がとても印象的だと思う。
化粧っ気なんてほとんどない。だけど……なんていうか、つるんとした肌をしている。見た目はさっぱりと清潔感のある女の子だ。
少なくとも、今―――オレの左隣席でデコミラー片手につけまつげのノリ具合をチェックしている、顔面てんこ盛りのギャル系OLに比べたらよっぽど潔いと、オレは思う。
それにしても、ギャルと呼ばれる謎の生命体は、電車やバスといった公共機関で必ず化粧直しをしているが、一体ナンのつもりだろうか? これは何かの……悪魔的儀式なのか? おぞましいほど濃いアイライン&シャドウを塗りたくっているが、そんな真似したって本来の「造り」は変わらない。化粧さえ落とせば花崗岩のモアイ像、もしくは素焼きのハニワ面なのは目に見えている。
それにあのゴテゴテしたウルヴァリンみてぇな鍵爪!……ジェルネイルっていうのか? あんな指先じゃあ、とても衛生は保てないだろうし、日常生活だって不便極まりない。こういう爪を施した女は、家で料理とか掃除とか絶対やらねぇーんだろうな。
これでもオレはけっこうな綺麗好きだし、自宅やデスクといった己のフィールド内が不潔なのは許せない
サイトの書評仲間には、日々お菓子作りに精を出しているウサギ面の家事男子がいるが……仮にヤツがギャルの前で「バニラエッセンス」と「バニラオイル」の違いについて
モノレールの最後尾は、なんだか空気が淀んでいた。
車両には実に様々な年代の人間が、「社会の縮図デス」って感じに座っている。そのうち8割は俯いてスマホの画面を見つめ、残り2割は腕組みをして居眠りしている。
オレの視線の先で、彼女はシンプルな革バッグから文庫本を取り出し、花柄のしおりを白い指へ挟んで、ゆっくりとページをめくり始めた。
モワッと立ち込める人いきれの中、彼女という存在だけが一点の清浄さを保っている。彼女の周囲にだけ新鮮な森の空気が流れているように感じられる。空間ごとハサミでちょきちょき切り取ったみたいに。
―――オレは彼女が気になっている。というか、正確には彼女ではなく、≪彼女が読んでいる本≫にめちゃくちゃ関心があるのだ。
一番最初に彼女を目にしたとき、「おやっ!?」と思った。
出会った日、彼女が黒い革バッグから取り出したのは、吉田健一の訳詩集「葡萄酒の色」だった。
この詩集にはバイロン、ボードレール、エリオットといった有名どころに加え、19世紀末に
オレの愛読するシェイクスピアの「ソネット集」からもいくつか抜粋されているが、ともかく訳のセンスがすこぶる上品なのが特徴だ。並べられたセンテンスの佇まいが優美、とでも表現すべきか。
旧漢字が頻繁に使用されているため、「注釈なしでは読み辛い」と不平を漏らす読者も多いが、選び抜かれた
少なくとも岩波文庫版の高松雄一訳よりはずっとオレ好みだ。
海外の出版物は、訳者のセンスひとつで駄作にもなれば、たちどころに大ベストセラーにも化け得る。―――ちなみにオレは、某出版社で英米文学書籍の翻訳に携わっている。
このとき彼女が手にしていた本は……とっくの昔に絶版して、もはや幻とされる昭和53年発行の”小澤書店”版だった。わぉ、Excellent!!
ともかくその日以来、密かにオレは彼女を注目し続けている。というか、≪彼女が持っている本≫に対して、熱い視線を送っている。
今朝、彼女が革のバッグから取り出した文庫本は、最高に”刺激的なブツ”だった。
白い表紙が視界へ飛び込んだ瞬間、オレの全身を名状しがたい電撃が貫く。……うぉ!? ななななんてこった。マジかよおい、それは……ポーの「ユリイカ」じゃねーか!?
ガタッ!!
―――思わず席から腰を浮かせてしまった。脊髄反射である。
右隣に座るおっさんが、一瞬ぎょっとしたような表情でオレを見つめる。
乗客たちの不審な眼差しを免れるため、オレはたまたま前方へやってきた見知らぬおばあさんへ適当に声をかける。
「あ、あのぅ……どうぞ。良かったらこちらへお座りください」
「あらぁ~、いいのかしら? フゴー」
老婆は、スカーフ……というか、ロシアのプラトーク的な布を頭部へ巻き付け、ズタ袋と見まごうばかりの煤けた色をしたブラウスと、やはりロシアの民族衣装を思わせる花柄のエプロンドレスを身に着けていた。
そのシルエットはほとんど球体に近い。老婆がのっしのっしと近づくにつれて、モノレールの走行音を押しのけるように、荒い鼻息が聞こえてくる。
「うふふフゴー。最近の若いもんにしちゃあ優しい心掛けだこと。あ~らやだぁ、お兄さんったらブッフゴー。アタクシ好みの”イケメンちゃん”じゃあないの! むっふー! フゴーフゴー」
「う゛っ……。ぐぬぬ」
マトリョーシカのコスプレ
フゴフゴという
オレは何とも言えないシュールな愛想笑いを顔面へ貼りつかせ、自然な流れを装ってすっと席を離れた。戦線離脱。神回避!
そのまましれっと彼女が座る出入り口付近まで移動し、静かにポジションを確保する。
イヤホンを取り出し、そっと耳へあてがう。彼女がちらっとこちらを振り向いた。オレはとっさに顔を背け、窓の外を見やる。
窓の向こう側には雲一つなく、澄んだ初夏の青空が広がっている。白い富士山が目の前に悠然とそびえ立つ。その姿はもはや芸術作品だ。一枚の完璧な絵画を思わせる風景だった。
オレはモノレールから眺める朝の富士山が好きだ。そう……彼女が手にする「書物」と同じくらい愛している。
やがて、彼女が読みかけのページへ視線を戻したため、不調法で申し訳ないが頭上から見下ろす形で内容を確認させてもらう。紙面へ俯く可愛らしいつむじの先に、表題が垣間見える。
―――ああ、やっぱそうだ! ほぅらね、オレの思った通りだったぜ。
お目当てのブツは、市場ではとっくに絶版している岩波文庫版・八木敏夫訳の「ユリイカ」であった。
「ユリイカ」の著者、エドガー・アラン・ポーは……日本では一般的に怪奇小説家、もしくは推理小説の元祖として周知されているが、実際は少し異なる。
ポー本人が自称した職業は、あくまでも≪詩人≫であり、≪評論家≫であった。
辛口批評家としての彼の嫌われ者っぷりは超有名だった。当時の状況については、芥川龍之介著の「ポーの片影」という評伝や、その他現存する詩論・資料などで窺い知ることが出来る。
詩人・ポーの代表作として挙げられるのは、やはり「鴉」だろうか。彼自身もこの詩が特にお気に入りで、己の詩論では自画自賛しまくっている。
「ユリイカ」とは、エドガー・アラン・ポーが独自の感性で綴ったエキセントリックな宇宙理論、支離滅裂な≪散文詩≫なのである。
200ページ弱もある論文に、「お願いだから詩として評価してね!」とわざわざ前書きを残すポーの神経もどうかと思うが、ともかく本人がそう望むのだから仕方あるまい。
ポーが空想科学した「神のプロット」……宇宙創造説は、当時としても相当イカれた理論であり、とりあえず世間で受け入れられるシロモノではなかった。
1845年の初版は、出版社へポー自らが掛け合い前金を負担した挙句、わずか500部のみ印刷されたのだが、これがまったくもって売れなかった。
1848年、ポーは講演会において自慢の「ユリイカ」を大衆の面前で朗読してみせたが、その姿はまるでラプソディーのごとく狂想的であったという。この模様を評論家ジェフリー・メイヤーズは「ポオ評伝」において、「彼は霊感をうけて語っているようであり、その霊感は数少ない聴衆を金縛りにした」と記している。
また、「死ぬほど退屈した」「非常識極まる妄言のかたまりだ」などと激しい酷評を浴びせかけたのは、ポーの親友エヴァート・ダイキンクだ。
ところが、ポーの人並み外れた凄まじさ、真に恐ろしい”ポー様伝説”は……むしろここから始まる。
たとえ渾身の力作が世間にそっぽを向かれようが酷評を受けようが、そんなもんポーにとっては痛手どころか、逆に自尊心をくすぐる心地良い
「ファーーー! ですよね!? ま、あんたらには理解出来ないでしょうよ! 悪いけどごくありふれた一般論ジェネラリティを垂れ流す低能な皆さんに、真理の語り手たる私の散文詩―――詩的かつ哲学的かつ形而上学的な考察、深淵で壮大なる
と、ポーが言ったか否かは知らないが、世間を嘲笑い、カンペキ出し抜いちゃった感……「オレTUEEEE
炎上大歓迎! 祭りだ祭りだわっしょいわっしょい。
ともかくポーは、自分自身に絶大なる信頼を置いていた。えげつない鋼の精神力。「憎まれっ子世に憚る」を素で体現するメンタルの持ち主―――彼こそ真の『メンタルチート』といえよう。
オレは編集者の立場で常々感じるのだが、大成する作家とは、その多くが自分に絶対の自信を持っている。
「他人は知らないが、自作品だけは必ず売れる。評価されて当然!」、そんな意味不明の妄想、根拠なき自信は、誰がどう横槍を入れようが決して揺らぐことはない。
―――人生を輝かせるために最も重要なキーワードは、ダイヤモンド並みに硬い『精神力』なのである。
猛者どもの集う戦場では、死ぬほど図々しいヤツだけが、なんだかんだで最後まで生き残るのだ。
オレはこの「ユリイカ」を……恥ずかしながら地元の図書館で5回は借りている。
ぶっちゃけこの本、オレしか借りるヤツいないんじゃないかなぁ~って毎回思う。どうせオレしか借りないんだから、オレに譲ってくれないかなぁ? もう正規の値段で買い取ってもいいよ……。
ちなみにユリイカ自体は、創元推理文庫の「ポオ 詩と詩論」にも挿入されており、オレはそちらを蔵書として2冊所有している。
だけど岩波文庫版の方が圧倒的に印刷がいいし、装丁だってオレ好みなのだ。欲しい、欲しくてたまらない。
なにぶん市場で人気がないため、本自体にはたいして
この時点で、オレは完全に興味が湧いた。”本に”ではなく、”彼女に対して”である。
―――な、なぁ? 誰なんだよアンタ? 何者なんだよ、マジで!?
ドドドドド……。
彼女の背景でたちまち不穏な、いわばJOJO的擬音が流れ始める。ゴゴゴゴゴ……。
やべぇ。朝から「ユリイカ」とか、まともじゃないぜ。とんでもなく逸脱した
「こいつぁもう絶対に口説かねばなるまい!」
などと、オレのガイアが囁き始める。雄の本能が訴えかける。「こういう女を見逃せば、もう二度と巡り合えないかもしれない。来世は知らないが、少なくとも
でもさ、どうすんのよ? ナ、ナンパか? ……ええ~、この年でナンパってどうよ? やだよ。無理っしょ、オレには。
オレはとりあえず自分のビジネスバッグを開いてみた。
出勤時だろうが法事だろうが、ビブリオマニアならばどんなシーンでも必ず本を持ち歩く。それは一般人でいうところのスマホや財布を携帯する感覚に近い。
本をバッグへ詰めるという作業は、いわば朝起きたら歯磨きするのと同じ”習慣”である。だって朝出かけるとき、パンツ履き忘れる人間なんていないだろ?
愛用のPORTERから、2冊の本が飛び出してきた。
どれどれ……ええっと、「マルクスと日本人――社会運動から見た戦後日本論(佐藤優・著)」「資本主義の終焉と歴史の危機(水野和夫・著)」
おぅふ……。
いやいやいや、よりにもよって『おっさん系新書』かよ!? くそッ、ダメだ。こんなんじゃまるで駄目。完全にオワタ。
「やぁ、そこの素敵な彼女。よかったらオレと一緒に駅前のスタバでラテ飲みながら”マルクス経済学”について語り合わないか?」
って、声をかけて成功するヴィジョンは、残念ながらほんの0.0000001%も浮かばない。
そんなんでノコノコくっついて来るとか、逆にどんな女だよ、おい。
第一、オレはナンパなんかしたことがない。
いや、別に「
女ってのは心底メンドクサイ。
なんつったってわがままだし、ギャーギャーうるさいし、嫉妬深いし、すぐ泣くし、わがままだし、わがままだ。そのうえ、めちゃくちゃわがままでわがまま。オマケにスーパーわがままときている!
要するにあいつらはわがままのオンパレードなのだ。そんなわがままにいちいち付き合ってやれるのは、よっぽど気の弱い野郎か、オレの知る限り
まぁ、どっちかっていうとオレもかなりわがままで横柄な質タチだから、そんじょそこらの女とうっかり寝たり付き合ってしまうと、あっという間に怒鳴り合いの喧嘩になる。
毎日が罵り合い、下手したら殴り合いの殺し合いにまで発展する。
率直すぎる物言いを、いまさら改心する気なんてさらさら無いから、別に女でなくとも大抵の人間と衝突する。オレは人付き合いが苦手だし、面倒なのだ。
鞄の中の本を見つめ、しばし呆然と固まる。我ながらダサいチョイスに歯ぎしりする。オレの脳裏に、チラッと休日用のワンショルダーバッグがよぎった。
ちくしょう! あっちだったら「キリマンジャロの雪(ヘミングウェイ著)」と「魔が差したパン(O・ヘンリー著)」が入っていたのになぁ~……くそったれ。
かといって、ヘミングウェイのハードボイルドがイマドキ女子にウケるかと言えば、ぶっちゃけ微妙な線だが。いずれにせよ、マルクスよりは何十倍か可能性があるだろう。
なんてったって相手は朝からモノレールで、「ユリイカ」を開いているような女だ。
朝から「ユリイカ」。カオス! いったいどんな瞑想タイムへ突入してやがんだよ、なあ。
―――時空を超えた読書家の『スタンドオーラ』をビンビン感じる。こいつぁもうタダ者であるはずがない。
少なくとも彼女が我々ビブリオマニア並みの教養の持ち主であることは疑いようもない。
あーあ、オレがスーツではなく私服だったら……。せめて今、手にしているのが”休日用のバッグ”だったら……声かける勇気も湧いたかもしれないのに。あーうー……。
オレがうだうだしている間に、モノレールは終点の駅へ滑り込んだ。
仕方がないので、出口から飛び出して大股ですたすた歩き始める。彼女の存在をヘンに意識しているため、絶対に後ろは振り返らない。我ながら長いコンパスゆえ、傍から見ればオレの姿は颯爽と感じられるかもしれないが、内心はモヤモヤが澱のようにわだかまっている。
オレには毎朝、出社前に適当な喫茶店へ入ってコーヒーを飲みながら一服する習慣があった。
持ち歩いている本を速読し、脳内で咀嚼し、要点をピックアップしたのちレビューをまとめるのだ。普段から入り浸っているサイトへ書評をUPるのが、オレの実益を兼ねたささやかな趣味である。
人気上位に君臨する愛書狂ビブリオマニアたちは、このように20~30分で一冊を捌く速読技術を有し、月に100冊程度のレビューを上げている。これらの技術は別に珍しいことじゃない。
「うわぁぁぁ、なんだよもお! 結局話しかけられなかったぜ、ちきしょうめ! 自分にガックリですよ。はぁー……」
―――このとき、オレは名前も知らぬ彼女から、『朝モノさん』と呼ばれている事実を……まだ知らない。
愛書狂(ビブリオマニア) 白兎ポラコ @shirousagi-poraco
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