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 弥生が手配してくれた旅館は、こんなとこにと思う程、海沿いにひっそりと建っていた。離れの座敷に通され、窓からは夜の海が見え、月が海を照らしていた。

丹前に着替えて男は酒を飲んでいた。歳の頃は40ぐらい、精悍な顔つきをしていて、右頬に刃物傷があった。夏は挨拶をして、酌をしょうとすると、男は酒が入る前に風呂を勧めた。

 風呂は離れ座敷の横に露天に作られていた。身の上は聞いてはいけないのは分かっていたが、日焼けした顔や手に、どんな仕事をされていたのだろうか、遠くに行くとはどこに行かれるのだろうか、一体どんな話をしたらいいのだろうかと、そんなことを思いながら夏は手拭いを使った。


 後ろで音がした。男が風呂に入ってきたのだ。

「ああ、いい月だね」と男は言った。夏は月を見上げ、男の方に振り返った。

「そうですね。ゆっくりお月さんを見るなんて久しぶり」と答えた。しばらく二人で月を見ていた。夏はなんだか、ゆっくりした気持ちになった。

「お背、流しましょうか」と言うと、

「ああ、おおきに、でも驚いちゃいけませんよ」と言って、男は岩場に上がった。その背中には威勢良く滝を登る鯉が彫られていた。鯉の滝登りの絵柄は知ってはいたが、刺青で見るのは初めてだった。湯に浸かった鯉はまるで生きているように見えた。

「若い時にヤクザを覚えましてね、面目もありません」と、男は悪びれる風もなく言った。

 その背中を流しながら、「遠いとこってどこですやろぅ」と夏が訊くと、男は指を差して「あの海の向こう」と言った。暗い海の向こうと言えば、シベリヤか朝鮮である。小浜からはそんな船はない。ふと、町衆が言っていたこんな噂話を夏は思い出した。

 弥生の旦那である上田源吾が今日の財を成したのは、終戦の混乱した直後の1、2年、朝鮮との密貿易であったという話である。この人は上田源吾とどんな関係があるのやろう、そんなところに行ってしまわねばならない事情とはなんやろうと思った。

 背中を流し終えると、男は簡単に湯に入って先に上がった。


 夏が座敷に帰ると、男は別室の布団の上でうつ伏せになってタバコを吸っていた。夏はなんだか、その刺青をどこかで見た覚えがあるようで、思い出そうとしたが、思い出せなかった。波の音を聞きながら、男の肌の匂いになんだか懐かしいものを感じて、夏は絶頂を上り詰めた。


 弥生はそれから5年して、癌で呆気なく亡くなった。置屋『都家』を夏が継ぐものと誰もが思った。しかし、夏は千代菊に譲って、鯖行商を営む弥吉という男と一緒になって小浜を去った。いい旦那の引手もあったのに、行商人なんかと所帯を持ってと、人々は不思議がった。


 時代は移り、天秤棒で担ぐ屈強な行商人や、大八車を押しての夫婦行商人も街道から姿を消し、今は、車が街道を行き来すようになった。朽木の宿で鯖寿司を名物とする店がある。もし、その店に立ち寄られるなら、代は替わったが、暖簾の名前は店を開いたそのままに『吉右衛門』と掛かっているはずだ。是非寄って欲しい。味は保証する。


 了










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『鯖街道』 北風 嵐 @masaru2355

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