第5話
バクヤは、想の意識を注意深く呼び覚ましていく。通常の意識より遥かに速い速度で流れる意識がバクヤの思念を覆っていった。
世界が凍り付いてゆく。空気の流れが目に見える気がするほどバクヤの意識は研ぎ澄まされていった。全ての動きをバクヤは把握している。ほんの僅かな木の葉の揺らぎ、宙を舞う花びら。そうしたものが全てバクヤの意識の中で明確に捕らえられ、ゆっくりと動いていく。
ティエンロウは、美しい彫像のように止まっている。それは何の動きも予感させないということだ。ティエンロウにはしかし、凄まじい緊張が漲っている。おそらくバクヤのどんな動きに対しても、静かな湖面が羽毛が落ちることによっても波紋を作るように、ティエンロウの動きを呼び覚ますことが予想された。
ティエンロウの武器を既にバクヤは理解している。一挙動で銃弾を放てる武器だ。
間合いを詰めるのは困難だろう。どのような形でバクヤが動いたとしてもそれより速くティエンロウは銃弾を放てる。
ただ、バクヤにはメタルギミックスライムの腕があった。むろん、バクヤはその腕を完全に制御しきれる訳では無い為、ティエンロウの魔力を秘めた銃弾を受けるのはとても危険だ。その魔力が封印を破り、メタルギミックスライムが暴走するのは間違いない。
銃弾を躱し間合いを詰める。極めて困難なことだ。しかし、メタルギミックスライムを上手く制御すればできるかもしれない。その生きた金属の腕を操り鞭のように変形させることができれば、遠い間合いからティエンロウを攻撃できる。
銃を抜き撃つ。その間に間合いを詰め、鞭と化した腕でティエンロウを打つ。バクヤに可能な攻撃はそれだけであった。
バクヤは意識を研ぎ澄ませていく。世界は輝いているように思えた。光のスペクトルが見える。虹色となった光が自分の体やティエンロウの体を覆っている。
空気は、水晶でできているかのごとく澄んで冷たく乾いていた。バクヤは自分の心を空白にし、世界と同一化していく。限りなく速く、限りなく自然に動く為に。
そしてバクヤは動いた。風のように、陽炎がゆらめくように。
バクヤの意識の中で空気が恐ろしく重く感じられる。個体化したような空気が轟音と共に体の側を吹き抜けてゆく。
バクヤの狭まってゆく視野の中で、ティエンロウはゆっくりと手を銃へ伸ばす。
本当は凄さまじい速度でその手は動いているはずだが、バクヤの思念の中では這うように見える。
バクヤの左手が変形していく。流れる水でできているかのごとく、滑らかに変わってゆき鞭の形態をとろうとする。
(間に合う。銃が抜かれた時には間合いへ入る)
バクヤは間合いの際まできた。その時ティエンロウは、ようやく銃把に手がかかったところである。抜かれた時には、ティエンロウは死んでいるはずだ。
ティエンロウは銃把を握る。その時、銃声が響いた。
バクヤは愕然として、その轟音を聞く。ティエンロウはホルスターに納められたままの状態で銃を撃ったのだ。考える暇は無かった。まさに魔法のように、目の前に6発の銃弾が出現した為だ。
想の意識の中にいたからこそ、その銃弾を把握できたが、そうでなければ頭を撃ち抜かれていた。それでも躱せる距離ではない。バクヤはメタルギミックスライムの腕を動かす。
一瞬にして元通りになった左腕で、6発の銃弾を掴む。それと同時にメタルギミックスライムの左手が弾けた。銃弾に込められた魔力の効果だ。左手は縦に裂け、無力化する。バクヤの頭の中で何かが壊れた。
既に弾倉の交換を終えたティエンロウは膝をつき放心状態のバクヤに向かい、銃口を突きつけ歩みよる。ティエンロウは白面の美貌に冷たい笑みを浮かべていた。
「拍子抜けだな、バクヤ・コーネリウス。もっとも」
ティエンロウは動けないバクヤの側に立ち止まる。
「こう、うまくいくとは思わなかった。簡単な術でね、魔操糸術と同じように魔道で開けた穴を通して銃弾を飛ばす。普通ならなんのこともない平凡な技だが、何しろウロボロスの影響下にある。うまくいくとは思えなかったが、どうやら低レベルの魔道は使えたようだ」
バクヤの耳にティエンロウの声は聞こえていなかった。何かがバクヤの頭の中で笑っている。狂った狂暴な笑い。それが津波のようにバクヤの心を覆ってゆく。抵抗する気力がもう、バクヤには残っていなかった。
「うう」
微かにバクヤが呻く。ティエンロウは怪訝そうにバクヤを見る。
「うう、ううううう」
バクヤの呻きは高まってゆく。
「うううう、ううぉ、ううおおおおおお」
バクヤは咆哮した。
「うるお、うるるるおおおおおお、うるおおおおおおお」
ティエンロウは反射的に引き金を引いていた。しかし、その銃弾はバクヤの全身を覆った金属の鎧に弾き飛ばされる。
バクヤの全身はメタルギミックスライムに覆われていた。その姿は魔獣である。
燃え上がる金属の炎がバクヤを包んでいるように見えた。炎が空へ伸びるかのごとくバクヤの背に幾本もの金属の角が生える。
狂暴な唸りをあげる金属の魔獣。黒い鉄の蛇が身を捩るように尾がのたうつ。
バクヤの意識は完全にメタルギミックスライムに乗っ取られていた。人間としての思考を失ったバクヤの脳裏に閃いていたのはめくるめく快楽である。
ティエンロウは後ずさる。しかし、遅かった。魔獣の腕の一振りで、ティエンロウの頭部が吹き飛んだ。漆黒の鋼の獣は心地好さそうな咆哮をあげる。
金属の魔獣は、神殿を見た。そして首の無い死体を後に残し、ゆっくりと神殿へ向かって歩き始める。
ブラックソウルは、ホロン言語による思念を呼び覚まし始める。ユンクの元で学んだ高速の思考をもたらす言語。それは脳の内部にもうひとりの自分ができるのに似ている。通常の言語で思考を行う自分。その自分は、夢の中の出来事を見るようにホロン言語で思考するもう一人の自分を見つめていた。
ブラックソウルはただ茫然と世界が輝き始めるのを、見つめている。それは麻薬を吸引した時の感覚に似ていなくも無い。
光は虹のようにスペクトルに分解し、神々が降臨するその時のごとく晴れやかに空から降り注いでいる。空気中に浮遊する分子が、宝石を思わせる煌めきを見せながら漂っていくのを感じた。
宇宙との一体化とでもいうべき感覚がブラックソウルに訪れる。全てが理解でき、全ての動きが把握できるような感覚。例えば傍らにある木々の思考を読み取れるような気持ちになる。
ブラックソウルはそうしたものがある種のまやかしであることを、理解していた。
そういう意味では、この感覚はまさに麻薬のもたらす夢と似ている。
ブラックソウルはエリウスを見つめた。この神話に生きる神の子を思わせる少年は、黄金の輝きを宿した瞳でこちらを見つめている。その思念はやはり同じように高速の世界にあるようだ。
ブラックソウルの手から四枚の闇水晶の刃が放たれる。死をもたらす凶悪な四枚の薄い羽。ブラックソウルは漆黒の水晶剣を片手で二枚ずつ操る。
その速度は通常の水晶剣を遥かに上回る速度で動いてゆく。おそらくブラックソウルはこれまで一人の人間相手にここまでの技をふるったことは無かった。
四枚の黒い死の羽は、優雅といってもいい程美しい動きを見せる。四人の黒い妖精が空中でダンスを踊っているようだ。
そして刃は四方よりエリウスを目指す。ブラックソウルは闇水晶を糸のコントロールから解き放ち、ホロン言語で捕らえうる速度を越えた速さを与える。四枚の闇水晶は四つの黒い閃光へと変化した。
その刹那。
透明に見える空気がほんのすこし揺らいだ。
黒い水晶の破片が風に飛ばされた花びらのように舞う。
エリウスは動いたようには見えない。しかし、少年のもつノウトゥングの剣は間違いなくブラックソウルの剣を砕いていた。
(勝った)
ブラックソウルは勝利を確信する。ブラックソウルの予想した通り、剣を振るう一瞬にのみエリウスには隙が生じた。その隙にブラックソウルは魔操糸術により、糸を放っていたのだ。
魔道により空に穿たれた微細な穴。その穴を通して糸はエリウスの体の側に出現する。エルフの紡いだ糸は、エリウスの首に巻き付いていた。
ブラックソウルは、微かに糸を引く。糸は確実に頸動脈を押さえていた。糸に圧迫され脳に送られる血液が一瞬途絶える。すとん、とエリウスは膝をつき意識を失った。
「命をとる必要は無いが」
ノウトゥングを持たせておくのは危険である。次に勝てるとは思えなかった。ブラックソウルは無造作にエリウスに向かって踏み出そうとする。
「違う」
ヴェリンダは叫ぶと、ブラックソウルを突き飛ばす。ブラックソウルを突き飛ばしたヴェリンダの左手が地に落ちる。金属質の輝きを持つ血がしぶいた。
意識を失ったはずのエリウスがノウトゥングを振るったのだ。ブラックソウルは反射的に糸を引いていたが、それも断たれている。ブラックソウルの口元に、苦笑が浮かんだ。
「あきれたものだ」
断たれた左手を再び繋いだヴェリンダが言った。
「この子どもは魔道によって操られている」
「魔道だって?しかし」
この世界はエルフの造り上げた閉鎖空間であり、なおかつ今はウロボロスの力によって現世との接触を断たれているはずだ。どのような魔道であったとしても、この世界との接触を保ち続けるのは不可能である。
「指輪だな」
ぽつりと、ヴェリンダが言った。
「指輪?」
「ああ。この子どもは不思議な指輪を持っている。私の知らないたぐいの魔道だ」
ブラックソウルは呆れ顔で笑う。
「おまえが知らないだと」
その時、エリウスが立ち上がる。その瞳には光が宿っていた。しかし、その瞳はブラックソウルたちを通り過ぎている。
「なんと愚かな」
エリウスの呟きを聞いて、ブラックソウルは思わず振り返る。そこにいたのは、鋼鉄の獣と化したバクヤであった。
漆黒の獣は咆哮する。ブラックソウルはヴェリンダを抱え飛んだ。宙に放った糸が魔操糸術により、神殿の先端に絡み付いている。その糸を使って、ブラックソウルは神殿の高窓に辿り着いた。そこから神殿の内部へと身を踊らせる。
後に残ったのはエリウスと金属の獣だった。二人は無言のまま、対峙する。
フレヤは闇の中で気がつく。それは轟音をあげながら渦巻く、原初の闇であった。
狂暴で破滅的な闇は、広大なスケールを持ってフレヤの周囲で荒れ狂っている。
そして、それは宇宙そのものであるかのように巨大で果ての知れぬ闇であった。
フレヤはその闇が何であるか、次第に理解し始める。
それは死であった。あるいは死の具現化というべきか。この世界の理の内側にいるものにとって決して理解したり、体験したりできぬもの。理解を拒絶する広大な無限。それがこのウロボロスの闇であり、また、ウロボロスの闇は自らが死であるが故に凶悪な負の思念を呼び寄せることになる。
死は常に暗黒の想念を招き寄せた。しかし、死そのものはいかなる邪悪さとも無縁な、思念を超越したものである。ウロボロスはまさに死そのものであり、ウロボロス本体にはいかなる邪悪な想念も存在していない。凶悪な思念は空を覆う暗雲のように、ウロボロスを包んでいるだけだ。荒れ狂う雷雲を突き抜けると、その遥か上方の空は常に静謐さに満たされているように、ウロボロスそのものは宇宙のように静かである。
フレヤがそのことを理解したのは、彼女自身が狂暴な荒れ狂う思念を抜け、ウロボロス本体に近付きつつあるからであった。フレヤは無限におもえる程の彼方に、螺旋を感じる。その螺旋こそ、邪竜とよばれるウロボロスの本体であった。
本来は無限に伸びてゆくはずの螺旋が、閉じている。それはフレヤには理解できない形であったが、その両端が結びつき閉じられていることは理解できた。
閉ざされた螺旋。フレヤはゆっくりとその身噛みの蛇が形成する輪の中へと入り込んでゆく。
フレヤは狂暴な思念の渦巻く闇を抜けきった。そして無限に広がりながらも閉ざされた輪であるウロボロスの領域へと入り込んでゆく。
フレヤは薄闇の中で目覚めた。身を起こすとあたりを見回す。そこは古代の遺跡のように巨大な石で築かれた建物の内部を思わせる空間である。
フレヤは立ち上がった。あらためてあたりを見てみる。闇に馴れたせいか、次第にものが見え始めた。
頭上を覆う半球形の天蓋に、一個所窓があいている。そこが唯一の光源らしい。
フレヤはその天窓の下へ歩み寄る。
天窓の向こうに輝くのは青く光る月であった。しかし、フレヤはそれがおそらく月と呼ばれるのに相応しい星ではないと感じた。それはおそらく。
「それは、おまえが思っている通りの星だよ」
フレヤは振り返る。気配は感じなかったが、さほど驚くことはなかった。出会うであろうと予期した人間であったためだ。その輝く瞳をもった男は、ラフレールである。
「それは地球だ」
「ここはどこだ」
フレヤの問いにラフレールは怪訝な顔をした。
「自分がどこにいるのか判っていないのか。ここは、月とよばれる場所。あるいは星船とも呼ばれるものだ」
ラフレールは輝く瞳でフレヤを見つめている。
「おまえは、自ら望んでここへ来たのでは無いのか」
「星船にくるのは、望みではあった。しかし」
フレヤは薄く笑う。
「ここへ招いたのは、おまえだろう」
「待て。混乱があるようだな。おまえは私が誰か知っているのか」
「魔導師ラフレールだろう」
ラフレールは不思議なものを見るようにフレヤを見つめる。
「どうやらおまえは、別の次元界での私とであったらしい。私はおまえを知らない」
フレヤはあることにようやく気がついた。目の前にいるラフレールは黄金の林檎を身につけていない。
「私はどうやら過去に辿り着いたようだな。私の出会ったラフレールはおそらく未来のおまえだ」
ラフレールは頷く。どうやらフレヤと同じ結論に達したらしい。
「未来の私は、おまえにこれから私がすることを見せたかったようだな」
「何をするつもりだ」
「巨人を目覚めさせるつもりだ」
「巨人だと?」
ラフレールは強烈な意志を秘めた瞳でフレヤを見る。フレヤは冷めた瞳で見つめ返す。
「おまえは、自分だけが巨人族の生き残りだと思っているのか」
「私は記憶を失った存在だ」
「まあいい。私の考えを説明しておこう。私はかつて地球は巨人族のものであったと考えている」
「地球を巨人が支配していたというのか」
「そうだ。先史時代の遺跡を調べると、明かに巨人が使用していたと思われる建物等が顕れてくる。むろん、そう断言するには数が少ないが。しかし私は確信している。地球はかつて巨人のものであり、神々は後からそこに訪れたのだと」
「では人間は」
「かつて巨人であった者だ。神々と呼ばれる存在が巨人を変化させ、人間を造った。
巨人はむしろ人間の本来の姿だと思う」
「しかし、それは神話と矛盾している」
「神話は所詮、神話に過ぎない。事実を模倣したものだよ」
フレヤは首を振る。
「神話は事実だ。魔族や竜たちに聞いてみるがいい」
「神話が事実に基づいたものであることに異論はない。ただ、それは断片的な事実を反映したに過ぎない。人間はもともと魔族や神々の支配する次元界と別の次元界に属していたのだ。人間の世界に神々が訪れたというよりは、神々の世界へ人間が引き込まれたというべきかな」
「何のためだ」
「いうまでもない。賭けのためだよ」
ラフレールは皮肉な笑みを見せた。
「神々は自分たちが直接戦うことの危険性に気がついた。そのため別の次元界から人間という便利な生命体を招きよせることを考えたのだ。神々でさえ未来を決定できない不安定な時間流に生きる脆弱な存在こそ神々の代理戦争を戦うに相応しい」
「待て」
フレヤの瞳には苛立ちがあった。
「ラフレールよ、おまえの説明は一応、判る。それではしかし、神話の巨人が何者であるかは説明していない。巨人が人間の元の姿であるのなら、グーヌが造り出した巨人とは一体何だ」
「そこだな」
ラフレールは頷く。
「私は二種類の巨人がいるのかと考えた。しかし、それはありえない。グーヌが造り出した巨人と人間の元型である巨人は同じ者でなければならない」
「ではどう説明するのだ」
「仮説ではあるが、こう考えている。神話の通りグーヌは巨人を造った。そして星船に乗って金星よりこの地球へ訪れる。そしてこの地球上でグーヌの巨人と人間の融合が行われた」
「融合だと?」
「そうだ。グーヌの造り上げた巨人は実体の無い、神霊的な存在だと私は考えている。つまり、精霊と魔族の中間的な存在だといえばいいだろうか」
フレヤは冷たく冴えわたる瞳で、ラフレールを見た。
「私は人間であると同時に、神霊的な存在だというのか?その両者が結びついてできた存在だと。そして、今の人間はグーヌの造り上げた巨人と融合しなかったものたちだという訳か?」
「それはおまえ自身がよく判っているのでは無いか。しかし、今言ったことはただの仮説だ。私はそれが真実だと思っている。その確証をとる為に、この星船で眠る巨人を目覚めさせたいと思っている」
ラフレールの顔は確信に満ちていた。フレヤは無表情でその顔を見つめている。
「おまえのいうグーヌが造り上げた巨人はこの星船の中に眠っているというのか」
「そうだ。巨人は人間と融合した。しかし、その本体は人間の中にとりこまれた訳では無く、この星船の中で眠っている。見ろ」
ラフレールはドームの中央のあたりを指差す。そこには昏く地下への入り口が開いていた。
「あそこからこの星船の地下へ下れば、眠る巨人に出会えるだろう。それは、おまえの本体でもあるはずだ」
ラフレールは真っすぐフレヤを見る。
「おまえも私とともに来るか」
フレヤは頷いた。
「ここに私の本体があるというのなら、ここにこそ私の望むものがあるのだろう」
ラフレールは、眼差しでフレヤについてくるように示す。フレヤはラフレールに導かれるまま、地下への入り口へと向かう。
そこにあるのは、暗黒へと下ってゆく螺旋階段であった。ラフレールは濃厚な液体を思わせる闇の中へと下ってゆく。輝くように純白の鎧を身につけたフレヤも漆黒の闇へ足を踏み入れた。
螺旋の階段は果てしなく続く。フレヤは星船の中心部に辿り着くのではないかと思うほど、深くその螺旋階段を下って行った。
次第にフレヤは方向感覚を無くしてゆく。上に向かっているのか、下に向かっているのか判らなくなっていた。ただ闇の中を螺旋を飛ぶように通りすぎてゆく。
唐突に光の中へフレヤは出た。先に螺旋階段を抜けていたラフレールは、光の中で待っている。光に目が慣れはじめると、そこがどのような場所であるか判ってきた。
頭上はとてつもなく高く、光の柱が何本も立っており空のような輝きは見えるがそれがなんであるのかはよく判らない。足元は切り立った崖であり、一本の橋が前方に伸びている。ラフレールはその橋の上にいた。
石のような材質でできているらしい橋はかすかに放物曲線を描いているようだ。
その僅かな曲線を描き上ってゆく橋の下には、海があった。
海というのが正確な表現であるのかは、フレヤにはよく判らない。それは蒼い光を仄かに放つ不思議な液体である。いや、液体ですら無いのかもしれない。ただ、その表面は海が波打つように微かに蠕動しているように思えた。
ラフレールはまた、目でついてくるようにと示す。フレヤは、幅が1メートル程しか無いと思える橋を上っていった。
その放物線状の曲線を描く橋の頂点のところで、ラフレールは立ち止まる。そこで蒼く輝く海を見下ろしていた。傍らに立ったフレヤに向かい、ラフレールは足元を指差す。
「見ろ、あれが巨人だ」
フレヤは、その蒼く輝く海を見た。その奥底にまさしく巨人と呼ぶべき巨大な姿をした女性の姿を見る。その姿は、深海の底に沈んだ美貌の王妃の亡霊のように、気高く美しかったが死せるもののように生気が無かった。
「巨人は魂をおまえたち人間に宿し、本体はここで眠り続けている。おそらく神々が永劫ともいえる長き時をかけて戦いを始める前から」
フレヤは海の底で眠る美貌の巨人を見つめる。白く美しく輝くその裸体は海底に沈んだ真白き女神の船を思わせた。その全長は二十メートル程はあろうか。フレヤはその水底に沈んだ美貌の巨人を見つめる。その顔には見覚えがあった。それは間違いなく。
「その巨人はおまえだ」
フレヤは顔を上げてラフレールを見る。そこにいるラフレールはさっきまでのラフレールとは違った。その黄金に輝く瞳は、獰猛なまでの生気に充ち溢れている。
フレヤはそのラフレールは未来のラフレールであることを知った。その魔導師の体内からは黄金の林檎が放つ波動を感じる。
「過去のおまえはどうしたラフレールよ」
ラフレールは笑みを見せる。さっきまでの彼が見せることは無かった凶暴な笑みだ。
「地球へ送り返したよ。この場所でこれからおこることを、彼は見るべきではないからね」
フレヤは剣を抜く。おそらく役にはたたないのだろうが、本能的な動作だ。
「ここで決着をつけるということだな、魔導師よ」
ラフレールは人間よりは魔族に近い、気高く美しい顔を真っすぐフレヤへ向ける。
その様は狂暴で孤独な獣が、遠い空を見つめる様を思わせた。
「そう考えていいぞ、最後の巨人よ」
剣を振り上げ、踏み込もうとした巨人めがけてラフレールは左手をつきだす。その手のひらから金色の光がフレヤめがけて迸った。
「これは」
反射的にその光を右手で受け止めたフレヤは呟く。それは黄金の林檎であった。
それはこの世にあらざるものに相応しい、不思議な光を放っている。その輝きは全てのものをまやかしに変えてしまうようだ。その光だけが真実であり、他の全ては真実の影であり幻に過ぎないような気になる。フレヤはその輝きに心を奪われ、目の前にいる魔導師のことを忘れて見つめ続けた。
「これで終わりだ。私の役目はここで終わる。フレヤよ、おまえも本来のおまえへと戻れ」
ラフレールは宣告を下すように語り終えると、一歩下がる。フレヤの足元の橋が崩れた。フレヤはとっさのことに何をすることもできず、輝く蒼い海へと墜ちてゆく。
落下がもたらす幻惑の中で、フレヤの意識は空白になっていった。目の前に蒼い輝きがある。それは揺らめき、波打ち、彼女を包み込んでいた。
フレヤは自分が蒼い海の中にいるのに気がつく。世界は凍り付いたようにゆっくりとした時間の流れの中にある。そして遠く頭上からもう一人の彼女、彼女自身の肉体であり閉ざされた意識を持つもう一つの人格が墜ちてくるのを感じていた。
フレヤは今は、巨大なものの一部となったような気がしている。いや、おそらくそれは正しく言い当てていない。元もと彼女の内側に隠されていたものがすべて開放され、自己のより深い部分へ自意識が辿り着いたというべきなのだろう。
彼女の心ははっきりと感じとることができた。死せる女神の存在を。そしてこの宇宙へ墜ちてきた理由を今こそはっきりと認識することができた。
彼女はこの宇宙を、孤独な閉ざされた狂った魂を救済するためにこの宇宙へと降りてきたのだ。しかし、今は無力である。彼女は殺され狂った世界と同化しているのだから。フレヤは心に悲しみが満ちていくのを感じる。全て失われた。救済はなされなかった。目的は果たされなかった。そして永遠に彼女の魂は癒されることなくこの海の中で、漂い続けるだろう。
その時フレヤは白い羽ばたきを見た。純白の鷲、妖精王の仮の姿。
フレヤの意識が戻る。フレヤは馴染みが無いもののように、純白の鎧につつまれた自分の体を見た。フレヤは巨大な白い鷲に両肩をつかまれ、蒼い海の上を飛んでいる。半ば崩れ墜ちた橋の上からラフレールがこちらを見つめていた。
「黄金の林檎は手に入れたのか」
白い鷲の背から声がする。黒衣の男、ロキであった。ロキは妖精王の化身である純白の鷲の背に跨っていた。
「林檎なら我が手にあるぞ、ロキよ」
フレヤは改めて自分の手を見る。左手には長剣、右手には光の林檎があった。
「それは重畳」
ロキは自らの使命であったものを手中にしたにしては、随分あっさりとした言葉を放つ。フレヤは少し苦笑しながら妖精王である鷲に語りかけた。
「ラフレールの上に落としてくれ。ここでけりをつけたい」
フレヤは自分の手にある黄金の林檎が、自分に大きな力が与えているのを感じる。
今ならばラフレールを斬れると思った。
白い鷲は旋回すると、フレヤを掴んだままラフレールの頭上へと舞い上がる。そして鷲はフレヤを放した。
フレヤは橋に向かって落下しながら、左手に持つ剣を振り降ろす。剣はラフレールの右の鎖骨から鼠蹊部へ向かってはしり抜けた。ラフレールの体は文字通り、両断される。
橋に降り立ったフレヤの足元で風が巻いた。風は意志を持つもののようにラフレールの両断された身体の上にとどまる。フレヤの背後でロキが叫んだ。
「気をつけろ、おまえが切ったやつの体はまやかしだ」
風が突然激しくなる。両断されたラフレールの胴に昏い暗黒が顕れた。そして暴風の渦巻くその暗黒の向こうからラフレールの真実の姿が現れる。
暴竜フレイニール。それがラフレールのもう一つの姿であった。フレイニールは黄金に輝く巨大な姿でフレヤを見下ろす。
「おまえは奇妙な存在だな、フレヤよ。なぜ同化しないのだ、死せる女神の化身たる巨人と」
「私は私だからだ、竜よ」
フレヤは傲岸に言い放った。
「私は生であり、真冬の雪原を渡る白き風だ。荒れた大地を焼き尽くす真夏の太陽だ。ここで眠りにつく存在ではない」
竜と化したラフレールは狂暴に笑った。
「おまえを封じるのは失敗したが、黄金の林檎を与えるつもりは無い」
疾風がフレヤを襲い、その体が宙に舞う。その両肩が鷲によって掴まれ、フレヤの体は風にのまれなかったが、金色の光が暴竜フレイニールの体へと吸い込まれてゆく。黄金の林檎はフレヤの手からラフレールへと戻った。
妖精王の背からロキが叫ぶ。
「ラフレールよ、いつまでその重荷を抱え込むつもりだ。それは人で無きものである私にまかせろ。人間としての生をまっとうするがいい、偉大なる魔導師」
「できぬな」
巨大な竜が答える。竜の回りには闇が出現しつつあった。狂暴な闇。飢えた獣のように狂った闇。それはウロボロスの闇であった。
「私も既に人間とはいえない存在になっている。これはウロボロスの輪の奥へ封じる。私自身とともに」
世界は闇に呑まれた。フレヤは再び、あのウロボロスの造り上げた神聖なる暗黒の空間にいる。そしてあの金色に輝く林檎が永遠の彼方へと墜ちてゆくのを感じた。
だれも触ることのできない宇宙の果て。
永遠よりも遠い宇宙の果て。思念のたどりつくことのできない、暗黒の彼方。そこへ向かって巨大な竜フレイニールは飛び続ける。
その両の翼を黄金に輝かせながら。
エリウスは金属の獣を見つめ続けている。斬ることはできない。獣とはいえ、その肉体はバクヤのものだからだ。そして獣も動けなかった。おそらく目の前にいる少年が、自分を殺す力を持った存在であることを、本能的に悟ったためだ。
突然、空の闇がさけた。闇の中から世界が出現するように、妖精城を覆っていた暗黒が消え、銀色の空が輝きを取り戻す。
その時、漆黒の獣が動いた。無数の金属の触手が、黒い蛇のようにエリウスの体へ向かって伸びる。同時にノウトゥングが透明の輝きを放つ。
金剛石の刃がメタルギミックスライムの触手を切断していく。切り落とされた触手は地に落ち、黒い水のように溶けていった。
金属の野獣がエリウスとの戦いに専念している時、空の一角が激しい光を放つ。
その光の中から純白の巨大な鷲が姿を現した。妖精王である。
白く輝く鎧を身につけた巨人フレヤを足で掴み、漆黒のマントを身に纏ったロキを背負った白き鷲は、急速に降下してきた。金属の獣の上でフレヤを放す。フレヤは黒い獣に向かって降下していった。
「その獣を斬ってはいけない」
エリウスの叫びに、フレヤは剣を振り下ろすのを思いとどまる。フレヤは黒い金属の獣の背後へ降り立った。巨大な鷲とロキもその後ろへ降り立つ。
白い鷲は、妖精王の姿へと変化する。それと同時に金属の獣は、両腕を獣の前肢のように地におろすと走り去った。
「我々は彼女に警告したはずではなかったか、王子。彼女も自分の意識を失えば死ぬことを納得していたはずだ。我々は彼女をアイオーン界へと封じる。それは我々の義務だ」
「そうであれば」
漆黒の髪を持つ中原で最も古い王国の王子は、神秘的な黄金の輝きを秘めた瞳でペイルフレイムを見つめる。そして静かに言った。
「残念ながらあなたを斬らねばならない。妖精族の王よ」
ペイルフレイムはその性別や種族を超越したような神秘的美貌に潜む、死への強烈な意志を読み取って戦慄した。そして魔道の力を呼び覚まし始める。静かにエリウスの周りの空間が歪み始めた。
「やめろ」
黒衣のロキが、ペイルフレイムの前に立ちふさがる。ペイルフレイムの魔道が止まった。
「王子は、何か手が残っているといいたいのだろう。まずそれを聞こう」
そしてロキはエリウスへ向き直る。
「王子、あなたには彼女を正気に戻す手だてがあるというのですね」
エリウスは少し微笑む。
「さて、どうだかね。とりあえず、彼女に手を出さないようにこの城のものに伝えてもらえますか、ペイルフレイム殿」
妖精族の王は、蒼ざめた顔で頷くと姿を消す。フレヤは笑みを浮かべエリウスに語りかける。
「なんなら手をかそうか、王子よ」
エリウスは首を振った。
「なんとかしてみるよ、一人でね」
そういい終えると、エリウスは走りだした。漆黒の金属で身を覆われた獣が向かった方角へ。
エリウスは走りながら心の中に問いかける。その問いに答えるものがいた。指輪の王である。
『どうするつもりだ、エリウス。何か考えがあるのか』「うーん。どうしたものかねぇ」
『ではせめて自分の手で斬るとでもいう気か』「まさか」
『では単に走っているだけなのか、何も考えず』「うーん」
エリウスはあどけないといってもいいような笑みをみせる。
「そうだねぇ、それが一番あたってる」
『やれやれだな、私になんとかしろとでもいうつもりか』「そこなんだよねぇ」
エリウスは神々ですら頬を染めそうな美貌を曇らせる。
「君になんとかしてもらうしかないんだけどね、指輪の王様」
『本気でいってるのなら大したものだな』「君は人の心の中へ入り込むことができるよね」
『できないことはないな』「でさ、僕の心と君が繋がっているということは君さえバクヤの心の中へ入り込めれば僕とバクヤの心を繋ぐことができるんだよね、多分」
『それはできるが、あの獣の心と繋がったとしても、どうすることもできないぞ』「うーん」
エリウスは暫く沈黙する。
「そこなんだよねぇ」
相手が人間であれば、いいかげん切れているところだろうが、指輪の王は辛抱強かった。
『そのいいかげんな企てに、私が協力すると思っているのか』「うーん」
エリウスは、茫洋として答える。
「どうでしょう」
『のらざるおえまいな、その賭けに』「え?」
『後ろを見てみろ』
見るまでもなかった。強烈な殺気が背後にある。エリウスは前を向いたまま、殺気に応える形でノウトゥングを振るった。
漆黒の獣は、妖精城の屋上にある林の中に潜んだまま金属の触手を飛ばしたが、殺気を隠せるほどの知能は無かったようだ。黒い触手はノウトゥングに斬り落とされ、地面に消えてゆく。
エリウスは、ゆっくりと振り向く。その口元には、春の日差しのもとで音楽を楽しんでいる詩人のような笑みが浮かべられたままだ。金属の野獣は林の中から姿を現し、鋭い牙の生えた口を広げて獰猛な唸り声を上げる。
「どうしよう」
のほほんとしたエリウスの問いかけに、指輪の王が応える。
『死ぬぞ、このままだと。あいつは疲れることを知らない。間断無く攻撃を行えば、おまえが受けきれなくなることを、あいつは知っている。そして一番やっかいなのは、おまえがやつを殺せないことに、獣が気づいたことだ』
エリウスはにっこりと笑った。
「それは困った」
人間が相手をしていれば激怒していたかもしれないが、指輪の王は全く調子を変えない。落ち着いた口調でエリウスへ語りかける。
『とにかく、私をあの獣に触れさせろ。そうすれば、おまえの心をあの獣に繋げられる』「はあ、なるほど」
エリウスが気の抜けた返事をすると同時に、漆黒の蔦を思わせる金属の触手が再びエリウスに向かって襲いかかった。ノウトゥングを右手に持ち替えたエリウスは、金剛石の刃を水にあたって乱反射する光のように走らせ、その触手を切り落としてゆく。
一本の触手がエリウスののど元へ伸びる。エリウスは、指輪をつけた左手で、その触手を掴んだ。その瞬間、エリウスは金属の獣の心の中にいた。
そこは底知れぬ闇である。黒い水で満たされた湖の底。そんな空間にエリウスは居た。何も見ることはできなかったが、ただ飢えだけは感じることができる。殺戮に対する飢え。
あらゆるものに対する破壊衝動だけがあった。その激しい思念は、何も見えない漆黒の空間に塗りたくられた現色の絵の具を思わせる。
生々しい色で満たされた狂気の壁画。あたりを埋め尽くした黒い闇の向こう側にはその激しさが隠れているようだ。
それでもエリウスは、呑気に笑っている。そしてゆっくり、確信を持って進み始めた。バクヤの心が隠されている場所へ向かって。
エリウスはほとんど物質化していると思えるほど強烈な殺意を交わしてゆく。その様はあたかも小さな燕が猛禽の攻撃を躱しながら飛んでゆくようであった。
やがて、闇の渦巻く所へ辿り着く。その奥にバクヤの気配があった。エリウスは、その獰猛な破壊衝動の渦と半ば一体化し、同時に巧みにその攻撃を躱しながら中へ中へと入ってゆく。
突然、無風地帯にでた。そこでエリウスは闇の中に咲いた一輪の白百合のような、バクヤを見いだす。バクヤは全身を漆黒の鋼で縛りつけられており、その瞳は虚ろでどこを見ている訳でもなさそうだ。漆黒の鋼は口、鼻、その他体じゅうの穴からバクヤの体内へと入り込んでいる。
エリウスは、一瞬その縛り付けられているバクヤの額に触れた。エリウスの手から光輝く何かがバクヤの体内に入り込んでゆく。それはホロン言語であった。
そこまでが限界である。吹き荒れる嵐と化した暗黒の思念を躱しながら、エリウスは注意深くそして素早く撤退していった。
突然、光に満ちた世界にエリウスは戻る。銀色に空が輝く妖精城の屋上で、エリウスは漆黒の獣の攻撃をかろうじて躱した。ノウトゥングが雷光よりも素早く宙を走り、蝶を絡めとろうとする蜘蛛の糸のように撒き散らされた触手を切断する。
バクヤとの接触を断ったエリウスに指輪の王が問いかけた。
『おまえはその無謀な企てに勝ったのか?』
エリウスは夢見るような笑みを浮かべたまま、答える。
「うーん」
ほんの少し間を置いて、続ける。
「どうでしょ」
黒い獣は猛々しく吠えた。しかし、攻撃は止まっている。何か迷いのようなものがその瞳の中にあった。突然、金属の獣だけ時間が止まる。
メタルギミックスライムは、完全に動きを止めた。
始めは、遠いところで鳴る音楽に気づいたような気持ちであった。ホロン言語はバクヤの心の中で独自に動き始める。
それは生き物のように、バクヤの心の中に一つの領域を確保した。元々バクヤはユンク流剣術とよく似たラハン流格闘術を身につけていた為、ホロン言語はなんの違和感もなくバクヤの中に吸い込まれていく。
バクヤは、それを見つめているのに気がついた。むしろそれを見ている自分がいることに、気がついたというべきだろうか。
それをどう例えるべきだろう。バクヤは自分の心の中で起こっていることに対して形容できる言葉を持っていなかった。
突然時間が逆戻りして廃墟が繁栄する都市へと変化してゆく。あるいは、真冬がいきなり終わり、夏の盛りに切り替わってゆく。
そんな言葉で例えられるようなことが、バクヤの中で起こりつつある。
それまで荒涼として何もなかった部分に、いきなり複雑な構築物が出現したようだ。それは機械にも似ている。水晶と光の管によって構築された複雑な機械。あるいは透明で光の音楽を奏でることのできる楽器。
その何者かが、バクヤの心の中を思念で満たしてゆく。バクヤはただそれを見ていた。その何者かが彼女の心を整理し、闇を駆逐してゆくのを。
バクヤは突然気づく。自分の目の前に巨大で獰猛な獣がいることに。さっきまで自分はその獣と一体化していた。今は違う。ホロン言語によって造り出された思念が、獣の輪郭を明瞭に示している。
バクヤは、その獣に命じた。おれに従えと。
その巨大な獣は姿を変えてゆく。左手へと。闇色の左手へ。
バクヤは光の中にいた。妖精城の屋上である。
バクヤの視界に彼女を見守る者たちが入ってきた。
妖精の王ペイルフレイム、そしてその妻シルバーシャドウ。
漆黒のマントを纏ったロキ。
白衣のフレヤ。
そして、春風駘蕩とでもいうべき平和な笑みを浮かべたエリウス。
みんなバクヤの前にいた。
エリウス以外は信じがたいものを見る目でバクヤを見ている。バクヤは無邪気な笑みを見せ、闇色の左手を上げた。
「よっ、ご苦労さんだね、みんな」
そしてバクヤはエリウスに眼差しを向ける。暫く見つめた後、すこし照れたように言った。
「ま、ひとつ借りということやな、王子」
「ご苦労であったな、エリウス」
バクヤと別れ、師であるユンクのもとにエリウスは戻った。平和な春の日差しに満ちたユンクの小屋の前で、エリウスは師に出迎えられる。
「ただいま、先生」
「エリウスよ、ところでおまえに聞きたいことがある」
「なんですか」
「おまえの心の中には、おまえとは違う何かが居るな」
「うん」
「その何かと話がしたい。できるか」
「うん」
エリウスは、優しい昼下がりの日差しの中であっさり答える。
「できるよ。今呼んでみるね」
突然、エリウスの表情が変わる。そして瞳の奥底に、金色の光が宿った。エリウスは老いたもののように落ち着いた声で語る。
「私に何か用かね」
ユンクはその長き年を経た魔導師を思わせる存在をじっくりと見つめる。そして静かに言った。
「おまえは何者かね」
「指輪の王と言っておこうか」
「おまえは魔法的な精霊の類なのかね」
「いや、もっと人間的だよ、私は。太古の王国が繁栄していた時代には、ごくあたり前の存在だったがね。まあ人前に出るのは久しぶりかな」
「もっと具体的にいってもらえないかな、自分が何者かを」
「いうなれば、知の集積体だよ。王国が建国されると同時に延々と積み重ねられてきた知識の集合。それが私かな」
「王国の再建を助けるつもりなのか」
「さて」
暫く沈黙が支配する。そこを満たすのは心地よい春のそよ風だけ。日は空に輝き、小鳥が唄を囀る。
ユンクが沈黙を破った。
「おまえの目的はなんだ」
「どうでもいいだろう。おまえは私を利用したいようだな。何しろこの王子は、何だか型破りすぎるしな。私ならこの子どもを名君にできる。その反対にするのも簡単な話だけどね」
「もう一度聞く。目的を言いたまえ」
「私は利用できないよ。さてどうするね。私を消すか」
「王国の為にならない存在であれば、斬るしかない」
ユンクは剣を抜く。それはノウトゥングと同様の形をしていたが、色が漆黒であった。鍔も柄もぬばたまの黒。ただ半ばで断ち切られた刃だけが、暖かな春の日差しを受け怜悧な輝きを見せている。
「なるほど、ノウトゥングと双子の剣、モーンブレイドか。黒金剛石の刃を持つその剣であれば私を斬れるかもしれない。しかし、どうかな」
再び沈黙が支配する。
エリウスは剣を抜かなかった。
二人ともただ立ち尽くす。
静かな春の昼下がり。
蒼穹は無限の高さで二人の頭上に広がる。
空駆ける獣のように雲が流れていった。
世界は何事もなく平和でただ時だけが過ぎて行く。
日は次第に陰ってゆき。
西に沈んでゆく太陽は、空を黄金色に輝かせる。
遥かな空の高みで青が深まり、地上に佇む二人の影が濃度を増した。
黄昏の女神がヴェールを広げたように、地上を薄闇が覆う。
そして、エリウスが言った。
「どうしたんですか、先生」
指輪の王は消えていた。ユンクはため息をついて剣を納める。
「いや、何でもない」
ユンクはゆっくりと繰り返す。
「何でもないよ、エリウス」
妖精城のワルキューレ 憑木影 @tukikage2007
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