第4話

 霧が晴れてゆく。夜はすでに終わり、銀色に輝く空が天上に広がっていた。次第に姿を現す銀色の草原を、漆黒の巨大な金属の蜘蛛たちが進む。オーラの機動甲冑であるその蜘蛛たちは、音もなく銀色の草原を渡る影のように妖精城を目指した。

その蜘蛛たちを先導するのは女魔導師フェイファ、そしてその後ろにブラックソウル、ティエンロウ、それと黒衣の男女リードとリリスが続く。

 結晶体のような銀色の木々によって構成された森を越え、鋼鉄の装甲で身を覆った蜘蛛たちは妖精城を囲む丘陵の手前まできた。その丘陵を見上げたリードがブラックソウルに囁きかける。

「どうやら、ちゃんと出迎えがきているようだ」

 リードの言うように、銀色の丘陵の上には白銀の鎧に身を包んだエルフの戦士たちがいた。天上から降りた戦闘機械である凶天使のように、エルフの戦士たちは輝かしく無慈悲な笑みを醒めた美貌に浮かべ、白く輝く一角獣にまたがり漆黒の蜘蛛たちを見下ろしている。

 ブラックソウルは楽しげな笑みを見せた。

「後はまかせたぞ、リード」

 リードは嘲るような笑みを浮かべて、無言で頷く。ブラックソウルの指示を受け、フェイファは杖を掲げて呪文を唱え出した。ブラックソウルとティエンロウはフェイファに近付き、そのそばに立っている。

 フェイファの呪文に応じて、フェイファの回りの空間が歪み始めた。それは、きらきらと輝く光の粒子を無数に撒き散らした様を思わせる。

 空間の歪みが光の進路を歪め、ガラスの破片のように光を反射させているのだ。

やがて魔法は光を偏向させながら空間を歪ませてゆき、歪みによって作られた壁の内側にいるブラックソウルたちの姿が薄れ、霞んでゆく。それは水に映った虚像が、水面に起こった波紋によって歪みかき消されてゆく様にも似ていた。

 降りそそぐ雨のように撒き散らされていた光の破片も次第に消えてゆき、ブラックソウルたちの姿は完全に見えなくなる。リードは彼の傍らで立ち上がった影のように佇んでいるリリスに向かって、声をかけた。

「始めるぞ」

 その呼びかけと同時に、黒い鋼で身を覆った巨大な蜘蛛たちも動き始めた。その頭部から、角のように見える砲身を突き出す。火砲である。

 鉄の蜘蛛たちは頭部から突き出した砲身より、火砲を撃ちだした。轟音と爆煙が漆黒の人工生命体を包む。発射された陶器の筒は光の矢となって、エルフたちを襲う。

 銀色に輝く丘陵の頂で、誇り高く勇敢な獣である一角獣に跨ったエルフたちは、自分たちにむかって発射された火砲を見ても顔色を変えなかった。美しい古代の彫像のように、身じろぎもせずその光の矢を見つめている。

 陶器の筒は、エルフの戦士たちが佇む丘陵で次々に炸裂した。火炎が乱舞し、触れたものに死をもたらす金属の破片が爆煙とともに撒き散らされる。炎の精が死の舞踏を踊ったように、破壊の力が丘陵の頂を支配した。

 深紅に荒れ狂う炎の獣を思わせる爆煙が収まったあと、銀の丘陵は再び静けさをとりもどす。そこには傷ひとつ受けていないエルフの戦士たちがいた。

 一角獣たちは、何事もなかったように思慮深い老人のそれと似た穏やかな瞳で、鉄の蜘蛛たちを見下ろしている。エルフの戦士たちの美しい瞳には、憐れむような光があった。

「やはりな、あいつらはあそこに存在しない」

 リードは誰に向かってということもなく、呟く。

「位相をずらせて、この空間とは別の次元界に身を置いている。幻獣と同じことだ。しかし、」

 リードは、猛々しい笑みをエルフたちに投げかける。

「その程度の魔法であれば、おれたちと同レベルということだな」

 リードはリリスに目を向ける。リリスの体は少しずつ闇に覆われていく。まるで彼女のまわりだけ、闇夜が訪れたようだ。

 リリスは体内に空間の歪みを保持した人造人間である。知の大国として知られるクワーヌ共和国が持つ太古の技術によって生み出された人間型兵器であった。リリスは今、空間の歪みを体外に放出しつつある。それは蚕が糸で自分の身を覆ってゆく様にも似ていた。

 次元断層ともいうべき空間の断裂。それは細かい粒子としてリリスの回りを覆ってゆく。そしてその空間の断裂は、リリスの側に立つリードも覆っていった。

 その様をエルフたちは、黙って見ていた訳では無い。エルフの戦士は背負っていた弓を降ろし、矢をつがえ構える。矢の先には拳大の木の実がついていた。

 弓を引き絞ると同時に、エルフたちの前方に空間の歪みが生ずる。それは空中に出現した漣のたつ水面のようだ。その空間の歪みめがけてエルフの戦士たちは矢を放つ。

 放たれた矢は空間の歪みを超えて、リードたちのいる世界に出現したようだ。矢の先端につけられた木の身は煙を放っている。矢は、鋼鉄の蜘蛛たちめがけて落下していった。

 木の実は、火砲と同レベルかあるいはそれ以上の威力がありそうな爆煙を撒き散らす。直撃を受けた数体の蜘蛛たちが、紅蓮の炎に包まれた。炎に包まれた蜘蛛たちは断末魔の苦しみを思わせる痙攣的な動きを見せ、停止する。

 次元界を超えて放たれるエルフの矢は、銀色の草原を深紅の炎で埋め尽くした。

獰猛なサラマンダのような火炎は、さらに数体の鉄蜘蛛を餌食にする。

 三分の一を失った漆黒の蜘蛛たちは、銀の草原を後退していく。矢のとどかない所まで退った蜘蛛たちは、動きをとめる。エルフたちも矢を放つのをやめた。

 銀の草原を蹂躙した炎は次第に力を失い、消えてゆく。後に残ったのは残骸と化した鋼鉄の蜘蛛と、漆黒の球体であった。

 リリスとリードを包んだ次元断層は、闇色の巨大な卵となって焼け野原と化した草原に残っている。エルフの戦士たちはその巨大な黒い球体を見下ろしていた。

 エルフたちの乗る一角獣たちが威嚇の唸り声をあげはじめる。黒い巨大な卵が動いた。それは手足を抱え込んでいた人間が、ゆっくりと手足を伸ばす様に似ている。

 闇色の球体が開き、巨大な影のような手足が出現した。そこに現れたのは、切り取られた星なき闇夜のような漆黒の巨人である。巨人は冥界から甦った死人を思わせるゆっくりとした動作で焼け焦げた大地に立つ。

 エルフたちは再び弓に矢をつがえ始める。黒い巨人はエルフたちの動きを全く意識していないように、ゆっくりと歩きはじめた。魔の支配下に置かれた邪悪な夜が世界を支配していくように、その巨人は焼け焦げた平原を歩んでいく。

 エルフたちが再び放った矢は、銀の空を走る流星のように黒い巨人へ向かって疾った。無数の矢が巨人の体に触れると同時に、一斉に発火する。漆黒の巨人は燃え盛る炎の柱と化した。

 立ち上がった炎のような巨人は、全く歩調を変えぬまま進む。やがて夜の闇が燃え盛った真昼の残照を駆逐して空の支配を取り戻すがごとく、矢の発した炎が消え去り巨人の漆黒の姿が現れてゆく。

 黒い巨人は何事もなかったように銀の平原を進む。その身体を覆った炎は、巨人にはなんの影響も及ぼさなかったらしい。一角獣に跨ったエルフたちも、矢を射るのはやめて、ただ巨人を見つめている。

 エルフたちはただ見つめている訳では無かった。その瞳は蒼白い輝きを放っている。呪力により結界を張ろうとしているようだ。黒い巨人の歩みは次第に遅くなる。

 黒い巨人は、銀色の丘陵を登り始めたところで、完全にその歩みを止めた。その星無く昏き夜空のような身体は、微かな燐光に覆われているようだ。巨人はエルフたちの作り出した呪術結界に囚われていた。

 それは別の次元界とのネットワークが張られたと言い換えてもいい。黒い巨人は今、別の次元界への入り口に立っている。これ以上歩いたとしてもただ、別の宇宙へと入り込んで行ってしまうだけだ。それが判った為、巨人は歩みを止めている。

 エルフたちの発する呪力は次第に力を増しつつある。巨人は歩みを止めたとはいえ、別の次元界へ送り込まれようとしていることには変わらなかった。

 巨人は突然、咆哮するように空を仰ぐ。ただその口から発せられたのは、叫び声ではなく黒い煙であった。嵐を呼ぶ昏い暗雲を思わせる煙が、銀色の空の下に広がる。

 それはしかし、煙ではなかった。拡散するにつれ、次第にその真の姿が明らかになってゆく。それは黒い糸の固まりである。黒い金属の糸が、風に漂うように広がっていった。

 その闇色の糸は、まるで黒い雨が降り注ぐようにエルフたちの上へ覆いかぶさってゆく。糸はエルフたちの体には届くことなく、その回りを球状に覆った。

 突然、エルフたちの回りを包んでいたガラスの球体が砕けたかのように、黒い糸がエルフたち自身へと降り注ぎ出す。黒い糸を避け、エルフたちは後退し始める。

一角獣たちが、怒りの咆哮をあげた。

 エルフたちを覆っていた次元障壁が、砕けたらしい。それはエルフたちが、身を退避させていた次元界から通常の次元界へと戻ってきたことを示す。

 戦線から遠ざかっていた黒い蜘蛛たちが、再び近付きつつある。蜘蛛たちはエルフたちの混乱の隙をついて、黒い巨人の足元へ集った。その頭部から火砲の銃身を突き出す。

 黒い鋼に身を包んだ蜘蛛たちは、一斉に火砲を放った。それは火の矢となり、エルフたちを襲う。今度は、エルフたちも黙って受ける訳にはいかなかった。爆煙と炎の中に、数体の一角獣が沈む。誇り高い獣たちは、最後の咆哮をあげながら死んでゆく。

 漆黒の巨人が佇む元で、破壊と狂乱の宴がいよいよ始まった。


「衛士隊が後退しつつあります。このままでは、オーラの機動甲冑が我らの防衛線を破るのは時間の問題かと」

 白銀の防具に身を包んだエルフの戦士が、シルバーシャドウに報告する。シルバーシャドウは泰然とした風情で、その報告を聞く。

「すでにフレヤ殿が向かわれました。時間の問題なのはオーラの兵士のほうでしょう」

 そこは妖精城の中にしては珍しい、広大な広間である。といっても壁に覆われている訳ではなく、高い樹木に囲まれた部屋というべきか。

 当然天井はなく、頭上に広がるのは透明のドームである。部屋の中央に長机が置かれ、その一端にシルバーシャドウが座っていた。部屋の奥には玉座があり、本来ここは王の執務室なのだろうが、その主となる王は不在であった。

「そんなことよりも」

 シルバーシャドウは自分の傍らに影のように立つ黒衣のロキに、微笑みかけた。

「珍客がここに来ているようですわ」

 シルバーシャドウは蒼白く輝き始めた瞳を、一点に向ける。空気が波打つように、空間が歪み始めた。

「いつまでそこにいるつもりです、オーラの間者」

 空気が水晶の球体に変化し、それが砕け散ったように光の破片を散らせながら魔法が消えてゆく。その飛び散る光の粒子の中から姿を現したのは、杖を掲げた魔導師、灰色のマントに身を包んだ男、白髪に深紅の瞳を持つ男であった。灰色のマントの男は、狼の笑みを見せながら一歩前に出ると嘲るような調子でエルフの女王に礼をとる。

「始めてお目に掛かる、私はオーラ参謀ブラックソウルというものです。それとロキ殿、魔族の宮殿で会って以来ですかな」

 シルバーシャドウは神秘の夜を支配する月の女神を思わせる美貌に、冷酷な笑みを浮かべてブラックソウルを見つめた。

「何をしに来たのです、ブラックソウル」

 ブラックソウルは笑い声をあげた。狼に似た精悍な表情の男は、楽しげに笑い、エルフの女王を見つめ返す。

「いや、失礼。ご存じなかったとは驚きですな。あなたがたとてあれをいつまでも管理し続けるのは、本意ではないはずだ。あれは神が私ども魔族の家畜であるところの人間に授けた重荷。快く渡していただけると思っていますが」

 シルバーシャドウの表情は変わらない。無慈悲な裁きの女神の瞳で、ブラックソウルを見つめていた。

「一体何の話しをされているのですか、ブラックソウル」

 ブラックソウルは獲物を追いつめる狼の本性を剥きだしにした残忍な笑みを、浮かべる。

「死せる女神の心臓にして、この宇宙で最も邪悪な存在が金星のウロボロスによって封印された牢獄よりこの地上へもたらしたもの、そう、太陽の黄金の林檎ですよ」

「ここにはありません」

 シルバーシャドウは、全く表情を変えぬまま答える。ブラックソウルはとても楽しげな笑い声をあげた。まるでエルフの女王が気のきいたジョークを放ったとでもいいたげである。

「ない?ここにないだって?ではどこにあるんだ?」

 笑いを押さえながら問うブラックソウルに、少し笑みを浮かべたシルバーシャドウが答える。

「彼のものはウロボロスと共に」

「馬鹿な」

「いずれ我が主人、ペイルフレイムが戻れば判ること」

「ならば待たしてもらおう、王の帰還を」

「いいえ」

 シルバーシャドウは無慈悲な笑みを浮かべる。

「その必要はありません」

 ブラックソウルは何かを言おうとしたが、その前にエルフの女王の冷酷な宣告が下った。

「消えなさい」

 放たれたのはその一言だけ。その瞬間にブラックソウルたち三人の姿はかき消すように消え去った。


 エルフたちの混乱は、漆黒の巨人を縛っていた呪力を無効化した。立ち上がった夜のような巨人は、再びゆっくりと歩み始める。

 漆黒の巨人は銀色の丘陵を登ってゆく。回りには炎につつまれのたうつ鋼鉄の蜘蛛たちや、怒りの咆哮をあげ爆煙に飲み込まれる一角獣がいた。

 漆黒の巨人は丘陵を登りつめる。巨人の目の前には、青い湿地帯と透明なドームに覆われた妖精城があった。

「闇から彷徨いでたのか、影よ」

 闇色の巨人は声をかけられ傍らを見る。そこにいたのは、白衣の巨人フレヤであった。汚れなき新雪のごとく輝いている白い鎧を身につけた美貌の巨人は、青く冷めた瞳で黒い巨人を見つめている。

 二人の巨人の背丈は同じくらいだ。それは本来フレヤの足元にあるべき影が、立ち上がり主であるフレヤに対面したような、不思議な光景である。

「闇は闇に戻るがいい、影よ」

 フレヤは立ち上がった影のような漆黒の巨人に声をかける。黒い巨人はその言葉に逆らうように、再び咆哮した。闇色の糸の固まりが暗黒の焔のようにフレヤへ襲いかかる。フレヤはその闇色の糸を全身で受けた。

 糸はフレヤの体を覆ってゆく。月の影が白昼の太陽を覆って夜の闇をもたらすように、フレヤの体は暗黒の糸に飲み込まれていった。

 フレヤは完全に立ち上がった暗黒の柱と化している。その闇色の固まりとなったフレヤを漆黒の巨人は満足げに眺めた。

 黒い巨人はその暗黒の柱をいとおしげに抱きしめる。闇と闇が重なり合って一つになってゆくように、黒い巨人はその暗黒の柱を体内へ取り込み始めた。

 闇色の固まりは一つになる。フレヤは完全に巨人の体内、つまりリードとリリスのつくりあげた別の次元界へ送りこまれた。

 巨人は再びゆっくりと歩み始める。妖精城を目指して丘陵を下っていく。エルフたちは絶望とともにその闇色の巨人を見つめる。

 唐突に、その歩みが止まった。

 黒い巨人の星なき夜空を思わせる胴体の中心に、夜明けを知らせる明けの明星のような光が出現する。その光は激しさを増し、やがて猛々しい程の輝きとった。

 黒い巨人から光は分離し、輝く光の柱が出現する。その光は次第に薄らぎ、中から純白に輝く巨人、フレヤが出現した。

 フレヤは女神のごとき美貌に皮肉な笑みを浮かべる。真冬の日差しのように清冽な輝きを宿す剣を抜いた。

「影よ、おまえの用意した闇の牢獄は私には狭すぎたようだ」

 黒い巨人は、フレヤに掴みかかった。フレヤの巨大な鉄材のような長剣が漆黒の巨人をなぎ倒す。その表面を次元断層で覆った巨人は切り裂かれることはなかったが、強風にさらされた木の葉のように大地へ叩きつけられた。

 起き上がろうとする黒い巨人をフレヤは踏みつけ、押さえ付ける。漆黒の巨人はフレヤの影となったように大地へ留められる。

 その腹部の闇に綻びがあった。丁度フレヤがこの次元界へ戻ってくる時に通り抜けた次元断層の裂け目である。フレヤは聖母のように美しい笑みを浮かべながら、その闇に残る煌めきを見つめた。

「這い出てきた闇へ帰るがいい、影よ」

 フレヤの振りかざす光の柱のごとき長剣が、闇色の巨人を串刺しにする。剣は影のように大地へ巨人を縫い付けた。

 闇色の巨人の動きが止まる。巨人の身体は溶けていくかのごとく、崩れ始めた。

やがて巨人を覆っていた次元断層は黒い水にも似た動きを見せ、流れ消えてゆく。

 後に残ったのは巨大な金属の骨格である。胴体の部分を切断された巨大な金属の骨格が、銀色の丘陵に屍を晒す。巨大な鉄柱のような肋骨が並ぶ間から、一人の黒衣の男が立ち上がった。リードである。

「全くあきれたものだ」

 リードは目の前に立つ、美貌の巨人を見上げながら呆然と呟く。足元には意識を失ったリリスの体がある。リリスの体は無数の金属のワイヤーで巨大な骨格に接続されていた。

 その巨大な金属の骨格はリリスの体の一部といってもいい。むしろリリスの本体というべきか。リリスの本体である巨大な金属の骨格は普段はアイオーン界という異世界に存在する。リリスは体内にある次元断層を通じてその金属の巨人に繋がっていた。

 リリスは自分の意志をもたない自動人形である。そういう意味ではオーラの機動甲冑と大差はない。リリスは体内の次元断層を通じてリードの脳にも繋がっている。

いうなれば、リードのもう一つの肉体ともいえた。

 リリスは胴を切断され機能を停止している。リードはフレヤを次元断層で覆い、その身体をアイオーン界へ送り込むのに成功したところで勝利を確信した。しかし、フレヤをアイオーン界へ送り込んだとたんフレヤの身体が強力なエネルギーを放出し始め、そのエネルギーにリリスを破壊されることを恐れたリードはフレヤをもう一度この世界へ戻さざるおえなくなったのだ。

 リードは、今まさにアイオーン界へラフレールによって持ち込まれている黄金の林檎が、アイオーン界へ送り込まれたフレヤと感応して強大なエネルギーをフレヤへ与えたことを知らなかった。むろん、何が起こったかを理解していないという点ではフレヤも同様である。

「おれはどうやら手を出すべきではないものに関わったようだな。しかし、」

 リードはフレヤを見つめ続ける。伝説の中でのみ存在する死せる女神のように美しい巨人は、サファイアの輝きを持つ瞳でリードを見下ろしていた。リードの心に奇妙な陶酔が生まれる。神話の中で死ぬという、神話と一体化する陶酔。その痺れるような心の動きを振りほどくように言葉を続ける。

「いまさら戦いをやめられない」

 リードの足元でリリスの目が開く。リリスは本体というべき金属の骨格を破壊されたが、その機能が全て停止した訳では無い。リードの手の中に闇色の固まりが出現し始める。次元断層であった。

 次元断層は無限の硬度を持つ刃として扱うことも可能だ。糸として放ち、幻獣の首を落としたようにフレヤの胴を両断することもできる。

 別の次元界へ糸が忍び込む。アイオーン界を通じて糸がフレヤの体の側に出現した。糸がフレヤの体に触れる寸前、リードは自分の体を熱いものが通り過ぎていくのを感じる。フレヤの剣が振り降ろされていた。疾風のように駆け抜けたその剣を、リードは全く見ることができなかった。リードは自分の右半身がゆっくりと地面におちてゆくのを、昏くなってゆく意識の片隅で見る。

 フレヤはゆっくり振り返ると、妖精城を囲む丘陵の頂に駆けのぼった。金属の蜘蛛たちは、もう丘陵の中腹まで来ている。一角獣に跨ったエルフたちは、戦力の半ばを失い後退する一方であった。

 フレヤは丘陵の頂上で、黒い蜘蛛たちを見下ろす。フレヤは戦う天使のように狂暴な笑みを浮かべた。

 フレヤが天空へ羽ばたく巨大な白鳥のように跳躍するのと、蜘蛛たちが火砲を放ったのは、ほぼ同時である。


 シルバーシャドウは、ブラックソウルたちが消えた空間を見つめていた。魔法が終わり次元の裂け目が閉ざされれば空間は安定するばずである。しかし、ブラックソウルたちが消えたその空間は安定するどころか次第に歪みを増してゆく。

 その様は傍らにいるロキにも見えていたようだ。

「戻って来るぞ」

 ロキの言葉とほぼ同時に、その空間の歪みから炎が出現した。黄金に輝くその炎は次第に大きくなり、やがて人の形をとる。

 人型の炎は沈み行く太陽のように輝きを失ってゆき、その中にいる漆黒の人影が明瞭に見え始めた。昼間の太陽が沈み、暗黒の太陽が出現したかのごとく強大な瘴気がたちこめはじめる。シルバーシャドウは眉をひそめた。

 炎が消え、漆黒の肌の女性が姿を現す。黄金に輝く髪と、闇の世界を支配する女神を思わせる美貌を持ったその女性は魔族であった。魔族の女性は、野生の獣が放つ燃え盛る生命力を持ち、魔神の叫びのごとき邪悪な瘴気を撒き散らしている。

 魔族の女性は傲岸な笑みを放ちながら指を鳴らす。その後ろにブラックソウルと、白髪の男ティエンロウが出現した。

 魔族の女は狂った神々の崇める黒い太陽のように邪悪な笑みを放ち、虫けらを見る瞳でシルバーシャドウを眺める。

「久しぶりだな、我が奴隷ども」

 シルバーシャドウは蒼ざめた顔で魔族の女を見つめる。

「私たちはもう奴隷ではありません。かつて人間の王エリウスが結んだ約定をお忘れですか。第一あなたとてもう魔族の女王ではないのでしょう、ヴェリンダ」

 ヴェリンダと呼ばれた女は楽しげな笑みを浮かべてシルバーシャドウを見る。

「私はアルケミアの女王だよ、奴隷」

 シルバーシャドウは侮蔑の笑みを口元に浮かべる。

「魔族の女王ともあろう方が家畜と呼ぶ人間を夫にし、化身の術を使って人間に姿を変えて行動を共にするとはどういう事です」

 ヴェリンダは哄笑した。世界の終わりに神々を滅ぼす終末の獣が咆哮するように、強烈な瘴気を撒き散らす。もしもその場に普通の人間がいれば、昏倒していただろう。エルフであるシルバーシャドウですら、病に犯された者のごとく蒼ざめている。

ただ、後ろに立つブラックソウルだけは激しい瘴気を受けても平然としていたが。

「思い出すがいい。おまえたちエルフは我々魔族が戯れに家畜と交わることによって生み出された種であるということを。おまえたちは家畜の血を受け継ぐ無様で憐れな生き物であったが、魔道の力を持っていたがゆえに奴隷として扱ってやった。

思い上がるな。おまえたちが城とよぶこの粗末な住みかを廃墟に変えてやってもいいのだぞ。今すぐにな」

 シルバーシャドウは昂然と眼差しをヴェリンダへ向ける。

「できるというのなら、やってみなさい。たかが人間の下僕と成り下がったあなたに、なんの力も認めません」

 まるで暗黒の風が吹くように、邪悪な気がシルバーシャドウを襲う。シルバーシャドウの顔色は土気色となり、小刻みに体を震わせていた。

 ヴェリンダは優しげといってもいい笑みを、シルバーシャドウへ向けている。

「どうしたね、奴隷。顔色が悪いようだね。もうおしゃべりは終わりなのかい」

 シルバーシャドウの視線は虚ろであり、表情からは生気が失われていっている。

エルフの衛士たちは、色めきたって槍をヴェリンダへ向けた。ヴェリンダは笑みを浮かべたままだ。

「心配するな奴隷。死なせはしない。まず狂ってもらおうか。苦痛だけを感じる愚かな獣となって地を這いずってもらおう」

 無言のまま、黒衣のロキが立ち上がる。

「そのくらいにしてはどうか、魔族の女王」

 ヴェリンダはおぞましいものを見る瞳で、ロキを見る。

「黙れ、たかが自動人形であるおまえに意見されるいわれは無い」

 ロキは表情を変えない。その冷たい瞳は差し貫くようにヴェリンダへ向けられている。

「確かにおまえを止めるのは私の仕事ではない、ヴェリンダよ。しかし、忠告だけはさせておいてもらおう」

 ヴェリンダはせせら笑う。

「忠告だと?」

「ああ。いいか、もうすぐこの城の主が戻る。調子にのりすぎて気づいていないようだが」

 ヴェリンダは高らかに笑う。

「奴隷の長が戻るか。ではその女と一緒に狂わせて、地面を這い回らせてやろうか」

 突然、彗星が出現したかのようにヴェリンダの目の前に巨大な光の球体が顕れる。

その眩い白い輝きの中から巨大な白い鷲が出現した。白い鷲は人間の身長以上の長さがある翼を数回うちふると、蒼白い焔につつまれる。焔の中で巨大な鷲は次第に姿を変えていった。

 そして焔が消え、一人のエルフが姿を現す。蒼白い焔が燃え盛るような瞳を持ち、純白のマントを身に纏ったそのエルフは、皮肉な笑みを浮かべヴェリンダに語りかける。

「待たせたな、家畜の妻になりさがった魔族。私が奴隷の長、ペイルフレイムだ」


 女性の衛士長であるアンバーナイトは、爆煙が残る焼け焦げた丘陵で気がついた。

槍を杖にしてなんとか立ち上がる。爆音はやんでいるようだ。戦いは終わったらしい。

 傍らに自分を乗せていた一角獣の死体を見つける。首筋に金属の破片が食い込んでいた。おそらく一撃で死んだのだろう。苦しまなかったのが、せめてもの救いである。

 アンバーナイトは自分の体を調べた。金属の破片は体の肉を引き裂いていたが、どうやら重要な血管は裂かれていないようであり、骨も無事のようだ。ため息をつくと、ゆっくり丘陵を登り始める。

 アンバーナイトは丘陵を登りつめた。目の前には焼け焦げた草原が広がる。そこに広がっていたのは、破壊神の通り過ぎた後の風景だった。

 鋼鉄の蜘蛛たちは一体のこらず破壊され、切り刻まれた足が放置された鉄材のように転がっている。それは金属でできた植物を思わせた。

 漆黒の蜘蛛の胴体は鮮やかな切断面をみせ、屍を晒している。それは圧倒的な力の顕現であった。天上より降臨した破壊の力は、地上に無慈悲な暴虐の嵐をもたらす。

 しかし、それはアンバーナイトの心になんの感情も引き起こさなかった。それは彼女たちの属している世界と次元の大きく異なる世界の力であった為だ。

 それは神話の時代に属する始原の力に思える。目の前に無残な姿を晒している鋼鉄の蜘蛛たちの残骸は、創世の神に捧げられた生贄だった。

 アンバーナイトは神話の時代へ立ち戻ってしまったような幻惑を感じる。全ては世界が創造される前の混沌と狂乱の中から立ち顕れた夢だと思った。

 アンバーナイトは破壊しつくされた草原を歩いてゆく。それは金属の植物が生えた荒野を歩くのにも似ていた。

 そしてアンバーナイトはこの世界に破壊をもたらした巨人、純白のマントを纏った暴虐の女神を見いだす。古の神殿に祭られる女神の彫像のごとく美しい顔は、燃え上がる金色の炎のような髪に縁どられ、サファイアのように青く輝く瞳はまっすぐエルフの衛士を見下ろしている。アンバーナイトは、放心した表情を見せ巨人の美貌を見上げた。

「ここは片づいた」

 そう言い放つと、巨人フレヤは巨大な鉄材のような長剣を腰のスリングへ戻す。

アンバーナイトはその何の感情もこもらぬ声を聞いて、自分を取り戻した。

「妖精城に強大な魔力を感じます。速く戻らなくては」

 美しい巨人は笑みを浮かべると、妖精城へ向かい歩き出した。アンバーナイトはその後を追う。


 ヴェリンダは楽しげな笑みをペイルフレイムに投げかける。それは世界が色を失い昏く霞んでしまうほど強力な瘴気を伴うものであった。

「地を這いずる惨めな生き物たちよ、我が足元にひれ伏すがいい。かつてそうしていたようにな」

 ペイルフレイムは、ヴェリンダの放った瘴気を春のそよ風ほどにも感じていないように、苦笑を浮かべる。凍てついた夜に輝く星を思わせる蒼い光を放つ瞳で、ペイルフレイムはヴェリンダを見つめた。

「まったく古きものよ、おまえたちの時間は止まっているのかといいたいね。世界は変わってゆくのだよ、惰眠を貪るしか能がない魔族たちの女王。いずれおまえたちの王国は人間どもに蹂躙されると思うがね。なにしろおまえは人間の僕に成り下がっているではないか。魔族が人間の家畜になり下がるのは、時間の問題だろうな」

 ヴェリンダは天空を支配する月のように黄金色に輝く瞳で、ペイルフレイムを見つめている。その表情はひどく穏やかであった。

「誤解を解いておこうか、奴隷の長。私は人間の僕ではない。私は私だ。もうひとつ。我が力がおまえに及ばないとでも思っているのか。この世界で私以上に魔道の力を極めたものはもういない。それを教えてやろう」

 ヴェリンダの瞳はさらに強い光を放つ。その力は周囲の空間を微かに歪ませ始める。魔道の力が発現されつつあった。ペイルフレイムはそのエルフ特有の神秘的な美しさを備えた顔に、冷ややかな笑みを浮かべる。

「古きものよ、代わり映えのしない召喚魔法を使うつもりか。やれやれだね。認めるべきだと思うな、おまえの魔道が通用しないことを。私は世界を旅し、人間の魔導師と言葉を交わしてきた。もう一度言っておくが、世界は変わっているのだよ。

詫びをいれるのは今のうちだ、老いた女王。今なら赦してやってもいいよ、愚かしく恥じるべき行いを。馬鹿は自分が馬鹿だと気づかぬもの。人の助言は素直に聞きたまえ」

 ヴェリンダは答えなかった。彼女の回りは、強大なハリケーンを思わせる魔道の力が荒れ狂っている。

 嘲るような笑みを浮かべたエルフの王の前で、不可視の力が音なき咆哮をあげながら渦を巻いていた。その凶悪な力に満ちあふれたメエルシュトロオムの中心で、邪悪な気配が強まっていく。その中心は、地獄への扉を隠しているようだ。

 ヴェリンダは肉食の獣が獲物を捕らえた時に浮かべるであろう笑みを見せる。

「全てを破壊しつくす。我が力を見よ、奴隷ども」

 ゆっくりと破滅の太陽が荒野に昇るように、異界の生き物が姿を現し始める。エルフの城はその邪悪な気によって色あせていった。

 それは巨大な闇色の球体である。その内部には、無数の血に飢えた獣たちが駆け回っているかのごとくごうごうと目に見えぬ風が吹いていた。

 ペイルフレイムはぱんぱんと手を叩く。その口元は侮蔑の笑みで歪められていた。

「これはこれは。古き者に相応しい、お粗末な芸だ。エントロピーの怪物を私の王宮に出現させてくれるとはね。こんなレベルの低い出し物は、見るほうが恥ずかしいよ」

 直径が5メートルはありそうな巨大な暗黒の球体は、触れる者を瞬時に狂気へ陥れる程強力な瘴気をふりまいている。それは魔物たちが狂乱の宴を繰り広げる呪われた夜を切り取って、この部屋へ置いたかのようだ。

 エルフの王によってエントロピーの怪物と呼ばれた闇色の球体は、黒い糸のような触手をあたりに放つ。その触手に触れた植物は、瞬く間に萎れ枯れていった。その怪物は、妖精城に満ちあふれた生命力を吸い取り、飲み込んでいっているようだ。

 漆黒の球体を中心に、亀裂が床に走る。巨大な暴風が妖精城を包み込んだかのごとく、城全体が軋みながら揺れていた。ヴェリンダはその言葉通りに、この城を廃墟とするつもりらしい。

 ペイルフレイムは、嘲りの笑みを浮かべ右手をあげる。その手の平から金色の光が一筋、放たれた。それは生き物のように迷走する。

 金色の光、それは金属の糸であった。夜明けの太陽が放つ光を帯びた鋼の糸は、螺旋を描きながら闇色の球体を覆ってゆく。

 螺旋状に漆黒の怪物に巻き付いた黄金の糸は、急速に収縮していった。黒い球体は裁断され、影の固まりとなって地に墜ちる。

 分断された黒い固まりは、日差しを浴びた影のように薄くなってゆき、消え去った。ヴェリンダは怪訝な顔で呟く。

「なぜ、」

「生きているからだ」

 ヴェリンダの背後で、ブラックソウルが囁きかける。

「あの金属の糸は生きている。気をつけろヴェリンダ。あれはラヴレスの生み出した地上最強の生き物、ゴールドメタルギミックスライムだ。エントロピーの怪物を上回る生命力を持つ唯一の生き物だよ」

 黄金の糸は、輝く蛇のように身を捩らせ、ヴェリンダへ迫る。ヴェリンダは破滅的な瘴気だけを身に纏っており、漆黒の女神のような裸身を誇らしげに晒していた。

その裸身へと輝く鋼の糸が触れる。

 一瞬、雷が放つ閃光のように素早い動きを、糸が見せた。次の瞬間には、ヴェリンダの左手が地に墜ちる。紅い血が床を濡らした。

「まずは、我が妻に行ったふるまいに対する礼といったところだな」

 ペイルフレイムは静かにいった。なんの感情もこもらぬ声だ。

「ほう」

 ヴェリンダは珍しいものを見るように、自分の左腕の傷口を見る。その真夏の太陽の輝きを宿した黄金の瞳は、むしろ楽しげだあった。

「ヴェリンダ」

 ブラックソウルが苛立たしげな声をあげる。ヴェリンダが苦笑した。

「我が愛する者よ、心配するな。状況は理解しているよ」

 黄金の糸はヴェリンダの目の前で、螺旋状に旋回している。再び糸は閃光のように素早い動きを見せた。黄金の糸がヴェリンダの黒い裸身を覆う。

 すっとヴェリンダは右手を上げると、その手の中へ黄金の糸は吸い込まれていった。ペイルフレイムの手中からゴールドメタルギミックスライムの糸は失われ、ヴェリンダの右手の中に収まった。

 ふわりと地に墜ちていた左手が宙に舞い上がり、元通り左腕に繋がる。ヴェリンダは新しいおもちゃを手にした子どものように、球状になった糸を見つめた。

「なるほど、人間は面白いものを作り出すものだな。それに」

 ヴェリンダはエルフの王に酷薄な笑みをなげかける。

「この生き物は真の主が誰かが判るようだな、奴隷の王よ」

 ペイルフレイムはくすくす笑った。

「今のあなたでは全く私に歯がたたないからね。ひとつくらいは武器をもたないと、戦いにならない」

「心遣いに感謝するといっておこうか」

 ヴェリンダはそういうと、右手に持った黄金の球体を放りだす。宙に投げられたゴールドメタルギミックスライムは、ガラスの球が砕けるように空中で開き始めた。

 黄金の鋼糸は複雑な動きを見せ、一つの形態をとろうとする。それは人の形であった。やがて、黄金の騎士が姿を現す。

 そこに立ち上がったのは暁の輝く光を全身に受けているかのごとき、黄金の鎧を身につけた騎士であった。ゴールドメタルギミックスライムは、輝く金の鎧を自らの擬態の形態として選択したのだ。

 黄金の戦士は、猛々しい光を放つ金色の剣を抜き放つと、ペイルフレイムにむかって歩き始める。それは決然とした、殺戮の意志をもった歩みであった。

 ペイルフレイムは、優雅に笑う。

「古き者も、やればできるじゃないか。さっきの無様な怪物に比べると、ずっとエレガントだ。これで勝てれば完璧だけどね」

 ペイルフレイムは笑い続ける。いつしかその笑みに嘲りの色が混じっていた。

「しかし、所詮は惰眠の中にいる者が作った戦闘機械だ。だめなものはだめだね」

 エルフの王の瞳が、蒼い光を宿す。その真冬の星を思わせる輝きに答えるように、足元の影が動き始めた。

 やがて影が立ち上がるかのごとく、黒い固まりが人の形態を持って出現する。立ち上がった影は、漆黒の鎧を着た騎士の姿をしていた。

 黒い騎士は、黄金の騎士の前に立つ。それはあたかも黄金の鎧を身に纏った戦士が、自分自身の影に対面したかのような景色であった。

 漆黒の騎士は黄金の騎士に呼応し、闇色の剣を抜く。

「ヴェリンダ、気をつけろ。あれは次元口の集合体だ」

「次元口だと?」

 ブラックソウルの囁きに、ヴェリンダが答える。

「クワーヌが作った黒鋼騎士と似ているが、もう少しやっかいだ。あの黒い体そのものが、別の次元界への入り口になっている」

 黄金の戦士は輝く剣を振りかざす。と同時に、立ち上がった影のような黒い騎士もその動きに合わせて剣を構える。

 剣は、ほぼ同時に振り降ろされた。漆黒の剣が、黄金の鎧に触れた瞬間、黄金の騎士は姿を消す。そこに残ったのは、闇色の騎士だけであった。

 漆黒の戦士は、もう一度剣を振りかざす。

「やめろ、馬鹿!」

 ブラックソウルが叫ぶと同時に、剣が振り降ろされる。その瞬間、剣の切っ先が消えていた。その闇色の剣の先端は、ヴェリンダのそばに出現している。

 その切っ先だけ出現した黒い剣は、黒い騎士の動きに合わせてヴェリンダの胴を薙ぎ払う。それと同時に、ヴェリンダの下半身がかき消すように消えた。

 ヴェリンダの上半身が地に墜ちる。床が血がひろがり、紅い海が出現した。

「愚かな」

 ブラックソウルは呆然と呟く。

「遊ばしておいてやればよかった。なぜ怒らせる」

「私が怒っているからさ」

 ペイルフレイムは冷たい怒りを湛えた瞳で、ブラックソウルを見る。

 下半身を失ったヴェリンダは、完全に周囲の状況を意識していない。黄金に輝く瞳は魔族の邪悪な本性を出現させていた。

 ヴェリンダの体が宙に浮く。飛び散った血が浮き上がり、ヴェリンダの体へと戻っていった。それと同時に、失われた下半身も出現する。

 ヴェリンダはこの世の終わりを宣告する天使のように、呟いた。

「望み通り、全てを破壊してやろう」

 ヴェリンダがそう言い終えると同時に、凄さまじい轟音が妖精城を包む。妖精城が巨大な竜巻にのみこまれたように思える音だ。無数の獣たちが宙を乱舞し妖精城のまわりを飛び回っているかのごとく、ごうごうと巨大な音が渦を巻いている。

 空間は安定性を失い、急速に捻れてゆく。ヴェリンダの前に立っていた漆黒の戦士は、引き裂かれるように細かい断片になってゆき、消えた。全ての魔法が効力を失い、消えてゆくのを感じる。

 ペイルフレイムは何が起こったのかを理解し、蒼ざめた。

「そんなことを」

 ペイルフレイムは呆然として呟いた。

「そんなことを、なぜできる」

 ペイルフレイムは理解できぬものを見つめるように、茫洋とヴェリンダを眺めた。

「一度封印したウロボロスを再度解き放つということが、どういうことか判っているのか。妖精城が破壊されるだけでは無い。この地球自体に影響をおよぼすのだぞ。

全ての魔法の安定性がなくなれば魔族とて滅ぶかもしれない。なぜだ、いくらおまえでも」

 哄笑が響き渡る。ブラックソウルだった。終末を迎えようとしている妖精城の中で、あいかわらず野に棲む獣の笑いを浮かべている。

「おれたちには世界とその運命はそれほど重要なものでは無いのさ。行こう、ヴェリンダ、ティエンロウ。ここにもう用は無い」

 ブラックソウルは立ち去り、その後ろにヴェリンダとティエンロウが続く。ペイルフレイムは立ち尽くし、何もすることはできなかった。


 フレヤが妖精城の内部に踏み込んだ時、それは起こった。妖精城を覆うドームの外部の世界から、突然光が失われる。一瞬にして世界は闇に閉ざされた。

 妖精城の本体である巨大なエメラルド色の塔だけが、この世界で淡い光を放っている。常に降り注いでいたはずの花びらは消え去り、城に満ちあふれていた植物は生気を無くし、萎れはじめているようだ。

 何より、この世界を覆っていたはずの圧倒的な生命力が消えている。そして透明なドームの外部にある暗黒は単なる闇では無い凶悪さを、秘めていた。それには、あらゆる存在を虚無へと帰してしまうような、破壊の意志が感じられる。

 フレヤは傍らに立ち尽くすアンバーナイトに、声をかけた。

「何が起こった?」

「判りません」

 エルフの衛士は、病にとり憑かれたように蒼ざめており、体を小刻みに震わせている。彼女は意識的に外部の闇を見ようとしていない。その理由は明白だった。彼女は畏れている。邪悪な闇を。

 フレヤは口元に笑みを浮かべ、来た道を引き返そうとする。道は闇に続いていた。

あらゆる邪悪さ、すべての怨念、かつて存在したであろう全ての負の精神を結集して作り上げたような闇へと。

 平然と進むフレヤに気づいたアンバーナイトは、慌てて叫ぶ。

「やめてください、どこへ行こうとしているんですか」

 フレヤは、振り向かずに足だけを止める。

「闇の中から私を呼ぶ声がした」

 フレヤは、闇の彼方を指差す。

「私の求めるものはあのむこうにある気がする。おまえには見えないのか。闇の彼方にある一筋の光が」

 アンバーナイトは、フレヤの元へ行こうとして自分に歩くだけの力が残っていないことに気づく。エルフの衛士は、そこに崩れるように跪いた。

「戻ってください。危険です。あの闇は邪悪すぎます」

 フレヤは、優しく微笑みかけた。

「危険なのはどこにいても同じだ。見るがいい。妖精城も死につつある。この世界の崩壊は始まっている。おまえは、おまえたちの王と女王のもとへ行け。私は私を呼ぶ声に答える」

 そういい終えると、フレヤは再び闇に向かって歩き始めた。その背中に向かって、アンバーナイトが叫ぶ。

「聞こえません」

 アンバーナイトはもう一度叫んだ。

「聞こえません、あなたを呼ぶ声など。戻ってください」

 フレヤは闇の中へ一歩踏み込んだ。


 フレヤは闇の中を墜ちて行った。想像もつかない速度で、闇の中を墜ちてゆく。

彼女の周囲で闇がごうごうと唸り声をあげ、渦を巻いていた。

 それは、邪悪な獣たちが獲物を求めて駆け回っている様を思わせたが、その闇の凶悪な破壊の意志も、高速で駆け抜けてゆくフレヤには触れることもできない。狂暴な嵐が何千も集合し、彼女の側を通り過ぎてゆく。

 フレヤは、その無限の広がりがあるような、強力な破壊のエネルギーが渦巻く闇の果てに、小さな光を見ていた。その光は次第に大きくなってゆく。彼女の墜ちてゆく先には、闇を貫く孤独な光がある。

 突然、光は大きくなった。それは瞬く間に闇を駆逐し、世界を覆う。フレヤは気がつくと、大空の中に出た。

 青灰色の空。大気は澄んで冷たい。フレヤはその大空の中を墜ちていく。速度は明白に遅くなっていた。彼女は重力によって大地に引かれているというよりは、空の中をゆっくりと漂っているようだ。ここには、重力らしきものの存在が感じられない。どうやら闇の中を駆け抜けていた時に加速された勢いで、この空間を漂っているようだ。

 空の遥か向こうは七色に輝く雲が見えるだけで、大地らしいものはどこにもない。

フレヤの墜ちていく先には、昏い雲がある。

 その雲は嵐の時の雲を思わせる巨大な闇色の雲であり、蠢いていた。雲全体が、巨大な生き物が身震いするように蠕動している。

 フレヤは急速にその暗雲に近づいてゆく。近づいてゆくにしたがって、その雲の細部が見え始めた。フレヤはそれが雲では無いことに気づく。

 それは、無数の竜や精霊たちで構成されていた。おそらく幾千万もの竜や精霊たちが集まって、飛び回っているのだ。

 竜たちは、フレヤの眼下に広大な海のように広がり始める。見渡すかぎり果てしなく竜たちの姿が見えた。竜たちは身を捩り、咆哮し、時折海が波立つように飛躍し、移動する。

 幾千万もの竜は、みなひとしくフレヤのほうを見上げていた。フレヤは不思議なことに魔法的生き物の中では最も気高く、最も強靱なはずの竜たちの瞳に、恐怖を見いだした。

 竜たちは空を埋め尽くすほどに集まり、何かを恐れている。神話の時代、神々の戦いが行われていた時代であっても、おそらく竜たちは恐れたりはしなったはずだ。

 一頭の巨大な黒い竜がフレヤのそばまで、上がってくる。竜は嵐が吠えるような声で、フレヤに語りかけた。

「巨人族の戦士よ、アイオーン界へよくきた。我が名はイムフル」

 フレヤはイムフルと名乗った竜の背に降り立つ。巨大な船の甲板くらいの広さはあるその竜の背には、一人の先客がいた。

 その赤銅色の肌をした若者は、魔族のように黄金色に輝く瞳でフレヤを見つめている。フレヤはその若者を見下ろした。

「おまえか、私を呼んだのは」

 黄金に輝く瞳を持った若者は、静かに頷く。

「我が名はラフレール」

「ではおまえが、」

 フレヤの言葉を、ラフレールは手でさえぎった。若者の姿を持つ、老いた魔導師ラフレールはもう一度フレヤへ頷きかける。

「その通りだ。私が黄金の林檎を持っている。これは本来おまえに属するものかもしれないな。しかし、もう暫く預からせてもらおう」

 フレヤは、蒼く輝く瞳でラフレールを見下ろしている。

「一体ここでは、何が起こっているのだ。ラフレールよ、おまえは何をしようとしている」

 ラフレールはフレヤが墜ちてきた空の高みを指差す。

「見てみろ」

 フレヤは上方を見上げた。そこにあるのは巨大な闇。彼女が抜けてきた巨大で凶悪な破壊の思念に満ちた闇であった。その闇は世界全体を覆い尽くすように広がっており、渦巻いている。

 ラフレールがフレヤに言った。

「よく見ておけ、巨人よ。あれがウロボロスだ」


 ブラックソウルたちは、妖精城の最上階であるエメラルドの塔の屋上へ出た。その屋上は色鮮やかな花々に満ちた空中庭園であり、美しい彫像や噴水により飾られている。本来、心を酔わせるような色彩に満ちた空間であるはずのそこは、この世界に迫りつつあるウロボロスの力によって色あせたモノクロームの世界となっていた。

 ブラックソウルたちは空中庭園の中心部に向かう。そこには屋根に築かれた尖塔を、漆黒の闇に覆われた空に向かって突き上げている神殿があった。

 その神殿には他の次元界への通路がある。妖精城を脱出するにはその通路を使うしか無いはずであるが、エルフたちは誰一人ここにはいない。妖精城と共に滅び去るつもりなのだろう。

 神殿の前には木と花に挟まれた道がある。その道をブラックソウルたちは進んだ。

突然、人影がブラックソウルたちの前へ出現する。バクヤ・コーネリウスであった。

「会いたかったぜ、ブラックソウル」

 ブラックソウルは苦笑を浮かべる。

「悪いが今は遊んでいる暇は無いんだ」

 バクヤはけらけらと笑う。

「急がんと妖精城が崩壊するかい、それはおまえらのしでかした事やろうが。おれには関係ない。世界が滅ぼうがどうなろうが、おまえだけや、ブラックソウル」

 ブラックソウルは黒く輝く瞳でバクヤを見つめる。バクヤは闇色の左手を前に突き出した。

「ほうれ見てみい、おれはちゃんとこの腕を手に入れたで。おまえのおかげでな」

 ブラックソウルは面白がっているような笑みを浮かべたまま、バクヤに語りかける。

「いいか、ウロボロスはまず魔法世界を崩壊させる。ここは消滅するんだ。このままここに居続ければ、アイオーン界の彼方を永遠に流離うことになる。とりあえずは地上にもどるべきではないか。そこでたっぷり相手をしてやるよ」

 バクヤは晴れやかに笑った。

「そうしない理由が二つほどある。まず第一に、今ここでは魔法を使えない。そこの魔族の女王も今は無力や。もう一つ。おれはおまえさえ殺せれば、後のことはどうでもいい」

 バクヤは楽しげに付け加える。

「まあ、おまえが泣いて土下座すれば考えてもいいで、ブラックソウル」

 ブラックソウルの顔からすっと笑みが消える。空気が緊張で張り詰めた。その時、ティエンロウが後ろから声をかける。

「私にやらせてください、ブラックソウル様」

「時間が無いんだ、ティエンロウ」

「私は彼女に一度破れました。もし、ここで決着をつけれなければ、地上に帰っても意味がありません。私に彼女と共にここで死ぬことを選ばせてください」

 ブラックソウルは、一瞬ティエンロウのほうを見ると、すぐ道の脇へそれた。ヴェリンダが後に続く。ティエンロウは、バクヤと対面した。バクヤはおやつをとりあげられた子どものように、渋面を作る。

「余計なことをしてくれたもんやな、兄ちゃん」

 ティエンロウは白面の美貌に静かな笑みを見せる。ただ深紅の瞳だけが獰猛な殺意を隠しきれず、ぎらぎらと輝く。

「おまえも待っていたのだろうが、私も待っていたのだよ。おまえと戦える時がくるのをね」

「まあ気持ちは判らんでも無いけどや。あんたは一度負けている。おれはその時より強いで、兄ちゃん」

 ティエンロウはマントの下のホルスターに収められた銃を見せる。それは純白に輝く輪胴式拳銃であった。

「こちらもそれなりの用意はさせてもらった。前と同じにはいかない」

 純白の拳銃は妖気を放っている。それは前回見たときよりも遥かに強いものであった。おそらくバクヤのメタルギミックスライムの腕に匹敵するほどに。

 バクヤは頷く。

「始めようか、兄ちゃん」


 神殿はこの妖精城の中ではおそらく唯一であろう石の建造物であった。無数のガーゴイルの彫像に守られたその神殿は冷たく無機的でありながら、強い思念につつまれているように見える。

 空にむかって聳える尖塔を持つ神殿の前にブラックソウルとヴェリンダは立つ。

大きな魔獣の彫刻が施された扉の前でブラックソウルたちを待っていたのは、一人の少年であった。

 漆黒の髪に、異界に開いた花を思わせる美貌を持った少年。その少年は春の日差しのように穏やかな笑みを浮かべ、一礼する。

「エリウスといいます」

 少年は素直な声でブラックソウルに語りかける。ブラックソウルは、美しい花を愛でるような瞳でその少年を見つめた。

「ああ、トラウスの王子だな」

「あなたが、オーラ参謀ブラックソウル殿、それにその妻ヴェリンダ殿ですね」

 エリウスは古くからの友人にむけるような親しげな笑みを浮かべていた。ブラックソウルは野生の狼を思わせる笑みでそれに答える。

「その通りだよ。これから地上へ帰るところだ、王子。あんたも早く帰ったほうがいいぜ」

 エリウスは花のように艶やかに笑う。

「ええでも、友だちが来るのを待たなければ」

「友だち?」

「バクヤ・コーネリウスですよ」

「なる程な」

「あなたも一緒に待ってもらえますね、ブラックソウル殿」

 ブラックソウルは獰猛な嘲笑でそれに答える。

「待つのは一人で充分だよ」

 突然、背後でヴェリンダが囁いた。

「気をつけろ」

 その時ブラックソウルは信じがたいものを見た。目の前の少年が変わって行くのを、目の当たりにしたのだ。姿形はそのままであったが、そこにいる少年は同じでは無い。古き邪悪な生き物である魔族に匹敵するような気配を漂わせている。

 エリウスの瞳が黄金色の光を宿した。それは中原でもっとも古き王国の伝説の王の名を持つ者に相応しい、神秘的な輝きである。

 そこにいるのは人でもなく、魔物でもなく、魔法的な何者かでもない、不思議な存在であった。ブラックソウルは自分の中に戦慄が生まれてくるのを感じる。それが彼にとって未知の感情といってもいい恐怖に繋がるものであるとは、理解できなかったが。

「余を殺すか、オーラの間者。試してみるがいい。ノウトゥングに闇水晶で太刀打ちできるものかをな」

 ブラックソウルは少年を見直す。

「おまえは誰だ」

「エリウスだ。さっき語った通りにな。愚かなことをしたな。ウロボロスを解放すれば、地上も無事ではすまない。いや、無事ですまないというよりは、全ての秩序は崩壊するだろう。次元の安定性が消失するのだから」

 ブラックソウルは不思議な笑みを見せる。なんの感情もこもらない、無機質な笑み。

「そんなことはどうでもいいのさ。むしろおれにとっては好都合だ。おれの目的はあらゆる秩序を崩壊することだ。ただ、ウロボロスのもたらすものは不完全だ。おれはその向こうに行きたい。崩壊した世界の向こう側。あらゆる意味がその根拠を失い、崇高な生命の燃焼だけが唯一の真実であるような所。それはウロボロスでは無理だ。だからおれはここから逃げねばならない」

 エリウスは笑った。それは年を経た古きものにのみ可能な、邪悪な笑みである。

「面白いな、おまえは。ただ、生き延びさせるには少し危険だ」

 ブラックソウルは獣の笑みを浮かべ、漆黒の瞳に鋼の殺気を浮かべた。

「おれを殺すか」

「試すだけだ。おまえの運命を」

 エリウスはノウトゥングを抜いた。半ばで断ち切られた剣。ブラックソウルはそれが何物であるか理解している。金剛石の刃を持つ無敵の剣。ブラックソウルは両手に闇水晶の刃を持つ。

 ブラックソウルは死を覚悟した。


「ウロボロスとは何か、今更説明する必要は無いだろう」

 赤銅色の肌をした魔導師は、傲岸とも見える表情で言い放った。フレヤは頷く。

「かつて金星の牢獄に、女神フライアの死体と、グーヌ神を封印する為死の神サトスが造り出した次元渦動だな」

 老いたというよりは生死を超えた魔導師ラフレールは頷く。

「そうだ。しかし、その力は本来サトス神にすら制御できうるものでは無かった。

その次元渦動はフライア神がこの時空間に侵入してきた時に発生したものだ。フライア神が侵入してきた時に、時空間に修復不可能な亀裂が生じた。それの拡大を回避しようとしてサトスはフライアを殺した。それが世界最初の死だ」

 フレヤは皮肉な笑みを見せる。

「神話の講釈をするつもりか、人間にして、人間に在らざる者よ」

 ラフレールは、黄金に輝く無慈悲な瞳でフレヤを見つめる。

「まあ聞け、巨人よ。世界は本来一つの神の秩序に属する。世界は元来ひとつのものだ。アイオーン界も、通常空間もそれ以外の様々な次元界も結局はひとつのものの違う表現にすぎない。大本は同じ絶対者のものだ。秩序も結局は絶対者の意志として一つしかない。しかし、ウロボロスは秩序の外を造り出した。ウロボロスの元型はフライア神がこの世界に侵入した時に発生した時空の亀裂だ。誰にも完全には制御できない。サトスが金星をウロボロスで覆ったのは、誰も金星に立ち入らせない為であり、金星から外にグーヌを出させない為ではない。黄金の林檎はこの世界の秩序の外に属するものだ。故に、ウロボロスと同一の世界に属する」

 フレヤは青く輝く瞳で貫くようにラフレールを見た。

「ウロボロスを制御するのは黄金の林檎のみということか」

「そうだ。かつて金星から脱したグーヌは黄金の林檎を利用してウロボロスの中に通路を造り出した。私も黄金の林檎の力を利用し、一度はウロボロスを封印した。

しかし、もう私の力が及ばぬところまで、ウロボロスは来ている。見ろ」

 ラフレールは空を指差す。そこには邪悪な闇が広がる。

「アイオーン界には時間が無い。ここで我々が経験している時間は仮想的なものでしか無い。そして通常空間での時間はここでは空間の距離として表現されている。

上空は未来。下方は過去。ウロボロスは降下している。ウロボロスが現在である我々の今いる地平へ達した時、通常空間へもその力は及ぶ」

 フレヤは嘲るように笑う。

「通常空間を破壊するというのか」

「いや、そうでは無い。かつて金星が封印されたように、地球が封印されたと見るべきだろうな。それはヌース神とグーヌ神が古に定めた約定に基づく賭けの範囲内のできごとだ。つまり神々の意に反することではないため、神々の介入は無い」

 フレヤは冷たく輝く瞳でラフレールを見下ろしている。

「ではなぜ、おまえはウロボロスを封印しようとしているのだ」

 その逞しい若者の肉体を持つ魔導師は、真っすぐにフレヤを見つめる。その強力な意志を感じさせる瞳を持った男に、フレヤはロキと通じるものを感じた。

「私は待っていたのだ。おまえをな」

「なんだと」

「一度ウロボロスを封印しようとしたのは、時が来ていなかったからだ。ウロボロスは何らかの破壊を地上にもたらすが、それは変化といってもいいものだ。魔族やエルフといった魔法的生き物には耐え難いものかもしれないが、人間は適応できる。

人間は変化する存在だからだ。しかし、そうなったとしても人間はやはり太古の神が作った約定に縛られる。黄金の林檎が地上にあるかぎりな」

 フレヤは、微かな戦慄を感じた。ラフレールの全身から怪しげな波動が立ち上っている。それは今まで感じたことの無いものだ。あらゆる魔道と異なる不可思議な気配がラフレールにはあった。

「ラフレールよ、おまえの望みとはつまり」

「そうだ、フレヤよ」

 ラフレールの瞳が強烈な輝きを放つ。フレヤは思わず剣に手をかけていた。それが無意味なことは知っていたが。

「私の望みは永遠に人間を神々の約定から開放すること。つまり、おまえと黄金の林檎をウロボロスと共に永遠に封じ込めること。神々さえ立ち入ることのできないあの次元の彼方へおまえを封印する」

 フレヤは剣を抜き放ち、叫んだ。

「おまえにはできない。おまえには」

「できるさ。私は未来を見た」

 ラフレールは厳かに繰り返す。

「私にはできる」

 ラフレールの体から黄金の光が放たれ、フレヤを包む。フレヤとラフレールは黄金に輝く光の球体につつまれた。フレヤはその狂暴といってもいいほど強い光の中で、意識を失う。

 黄金の輝きはフレヤとラフレールを包んだまま、上昇を始めた。やがてそれは速度を速め、渦巻く邪悪な闇ウロボロスへと向かう。凶悪な闇はアイオーン界に突如出現した、太陽のような輝きを飲み込んだ。

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