第3話
魔導師ラフレールは、巨大な純白の鷲に跨り、七色の雲が渦巻く空間を進んでいた。金色に輝く髪を風に靡かせている魔導師は、人間というよりは魔族に近い雰囲気を持っている。
真夏の空を支配する太陽のように金色に輝く瞳と、若者とも年を経た古き者とも見えるその美貌は、赤銅色の肌を除けば魔族そのものであった。ラフレールは、魔界の王のごとく悠然と前方を見据えている。
力強く羽ばたく白い鷲は、ラフレールに語りかけた。
「かなり、近づいてきたようだ」
ラフレールは、無言で頷く。鷲は、妖精族の王ペイルフレイムの変化した姿である。
そこは、アイオーン界と呼ばれる領域であった。様々な色彩に変化していく雲が渦を巻き、その奥には浮遊する大陸が飛び交う。ここは、大地と空が混然一体となったような奇妙な世界である。
そして、この世界は龍族の故郷であり、又、地上に降臨した際には邪神と呼ばれる精霊たちの住処でもあった。白い鷲に変化したペイルフレイムは、ラフレールに注意を促す。
「龍が近づいてくる」
その漆黒の巨体を持った、巨大な魔法的生き物は、ペイルフレイムと平行して飛び始めた。黒い龍が声をかけてくる。
「おまえは、妖精族の王ペイルフレイムのようだな」
その巨大な暗雲の固まりのような生き物は、危害を加えるつもりは無いらしい。
紅く鬼火のように燃える瞳を白い鷲にむけているが、その巨大な羽が巻き起こす風によって純白の鷲が失速しないように、気を使っていた。
「いかにも、我が名はペイルフレイムだ」
「我が名は、イムフルだ。それにしてもなぜ、妖精族の王が人間を背に乗せているのだ。何者だ、その人間は」
ラフレールは、黄金に輝く瞳を龍に向ける。
「私の名は、ラフレール」
龍は炎のような、吐息をはく。
「ラフレール!聞いた覚えがある。人間ながら我が一族のフレイニールの心臓を食べ、その力を身の内に取り込んだといわれる者か」
ラフレールはイムフルの、敵意と畏れが混在した眼差しを気にとめず、闇を切り裂く夜明けの輝きを持つ瞳で龍を見据える。
「いかにもそうだ。偉大なる龍フレイニールは、我が身体の内に生きており、その力は私のものでもある」
イムフルは、蒼ざめた溜息をつく。
「それにしても、おまえたちは、なぜこのような所にいるのだ。この先は、我々龍族にとっても危険な場所になる。何しろウロボロスの領域だからな」
ラフレールは若き神のような美貌に、微かに笑みを見せた。
「我々が目指すのは、そのウロボロスの領域だ」
イムフルは、警告するようにかっと紅い口を開いた。その口は白い鷲ごとラフレールを飲み込めそうだ。
「やめておけ、小さくか弱き人間よ。今まさに、ウロボロスは目覚めつつある。その力は、やがて世界全体を覆うだろう。その力を我らとて、押さえることはできない。ここは我々の世界だ。おまえたちの来るところでは、無い」
突然、ラフレールが哄笑した。
「私が、小さくか弱い存在か?本当にそう思っているのかイムフルよ」
イムフルは、沈黙した。明けの明星のごとく輝く双の瞳で、ラフレールを見つめる。
「おまえ、ただの人間ではないな。フレイニールの力を取り込んでいるようだが、それだけではない。おまえを見ていると、思い出すぞ。グーヌと呼ばれる黒き男が、始めて大地に降り立ったときを。やつは、我々を召喚し、精霊たちも呼び寄せ、あの果てしのない戦いを始めた。
おまえは、あの男と同じ匂いがする。我々に逆らうこと許さなかったあの、黄金の林檎の匂い。まさか、おまえ」
ラフレールは、輝く瞳でイムフルを見つめる。その光は凶暴であり、又、神聖さを宿していた。
「その通りだ、イムフル。我が内に死せる女神の心臓にして、全ての生命の源である黄金の林檎がある」
イムフルは、鋭い雄叫びをあげた。それは大地の奥底から湧き起こる、地鳴りのようである。
「おまえは驚くべき存在だな、ラフレールよ。おまえはその力で、目覚め始めたウロボロスを再び封印するつもりなのか」
ラフレールは、静かに頷く。漆黒の龍は、荒れ狂う嵐のような、笑い声を上げた。
「面白い。やってみるがいい。では、私が案内しよう。かつて金星の牢獄にグーヌを封じ込めていた力、ウロボロスの元へ」
漆黒の巨大な龍は、ラフレールたちを先導するように前へでた。龍の力に引き寄せられるように、白い鷲の速度もあがる。
渦巻く七色の雲は、しだいに消え始め、その奥から巨大な暗黒が姿を現し始めた。
それは荒れ狂う、凶暴な破壊の力の固まりである。
あたかも死せる恒星のような、巨大で壮大な力を持った暗黒。その輪郭は遥か彼方に広がり、全体像を把握することはできない。
その中では無数の血に飢えた漆黒の悪霊たちが、暗黒の舞踏を乱舞しているようだ。拗くれた破壊の力は、螺旋を描き巨大な暗黒の上を駆けめぐる。
イムフルが畏れのこもった、咆吼を上げた。
「みろ、人間、そして、妖精族の王よ。あれがウロボロスだ!」
少女は絶望とともに、昏い夜空を見上げた。森の木々の裂け目から、闇色に輝く夜空が見える。少女は大の字になってその空を見上げていた。
追っ手はもう、すぐ近くまで迫っているばずだ。逃げ続けてこの森まで来た。目的地はもうすぐそこにある。しかし、少女には、さらに逃げ続ける体力が残っていなかった。
(体が充分であれば)
少女は思わず左腕を掴む。左手は肘から先が無く、残った上腕には包帯が巻かれていた。戦いで切り落とされたように見える。
追っ手の数はせいぜい五人といったところか。両手があれば、戦って生きのびれる自信があった。しかし今は片腕で、しかも傷を負ってからそう日がたっていない為、体も充分に回復しているとはいえない。
少女は死を覚悟した。
「やあ」
少女はいきなり声をかけられ、驚きとともに身を起こす。人の近づく気配は感じなかった。それだけ自分が衰弱しているということか。
「何してるの、こんなところで」
そののんびりとした声の主を、少女は見る。自分と同い年、十代半ばくらいの少年であった。星明かりでぼんやりと見るかぎりでは、天使の彫像を思わせる美しい顔だちの少年である。
「何してるて、あんたこそ何してるんや、こんなとこで?」
少女の問いかけに、少年は呑気に答える。
「ああ、この先に湖があってね、夜釣りに行ってたんだ。僕はエリウスだよ。君の名前を教えてよ」
少女は少年のあまりの警戒心のなさに、少し頭がとろいのかと思う。そののんびりした語り口に、多少苛立ってきていた。
「おれはバクヤ。なんでもええから、さっさと逃げたほうがええで。おれを追ってる山賊がもうすぐここへ来る。巻き添えをくわんように、はよ行き」
「ああ、山賊だったんだ」
少年は闇に閉ざされた森を見ながら、まるで天候の話をするように呑気に語った。
「獲物を狙う狼みたいな殺気があったんで、何かと思ってたんだけど。五人だね。
もうすぐそこまで来て様子をうかがってるよ」
バクヤと名乗った少女は、あらためてそのエリウスという名の少年を見つめなおす。春の日向にいるようなほわんとした雰囲気に変わりはないが、闇に閉ざされた森が昼間のように見えているようだ。
「あんた、何者や」
「僕はエリウスだよ」
相変わらずぼけた答えを返したエリウスは、釣り竿と魚の入った桶を傍らに置く。
バクヤのそばに立ったエリウスは、全く緊張感が無くそのままあくびでもして眠りに落ちていきそうな雰囲気だ。
「来るよ」
エリウスののんびりした声と同時に、三人の男たちが正面に姿を現す。黒装束に身を包み、顔にも黒い覆面をつけていた。闇の中で光を漏らさない配慮からか、手にした短刀は灰色に塗られている。
バクヤはせめて刺し違えるつもりで、短刀を抜く。膝をついたままの体勢である。
踏み込む相手の足を狙うつもりだ。
エリウスは、くるりと振り返る。そこに同じような黒装束の男が二人出現した。
短刀を手に飛び掛かろうとしてる。
一瞬、エリウスの手元が光った。風が疾り抜ける。
「くうっ」
男たちの苦鳴とともに、短刀を持った腕が二本、地面に落ちる。闇の中に鉄色の血飛沫が走った。
エリウスは、再び振り向くと三人の男に向き合う。短刀を振りかざし飛び掛かろうとする男たちを、棒立ちで見つめる。ほんのわずかに、その腕が動いた。
目に見えぬ鉈が宙を舞ったかのように、再び男たちの腕が切り落とされる。ほんのわずかの時間の間に、五人の男たちが利き腕を失うことになった。手を失った男たちは、闇の中に蹲る。
「血止めを速くしないと死んじゃうよ。なんなら僕がしてあげようか」
エリウスの呑気な言葉に促されるように、男たちは姿を消した。闇につつまれた森の中に残されたのは、流された血の後だけである。
「やれやれだ」
そう呟きながら、エリウスは左手を胸元にあげる。その手には氷の破片のような水晶の刃があった。水晶の刃には糸がつけられており、その糸は左手の袖の中へ繋がっている。エリウスは小さな革の布きれを出すと、その表面を拭いはじめた。
「それはひょっとして」
バクヤは驚きの声をあげる。
「水晶剣やないか」
透明な水晶の刃を用いて、相手を切る技。その技自体はバクヤにとって馴染み深いものであったが、目の前の少し足りない少年がそれを操るということが驚きである。
「そうだよ。知ってるの」
エリウスは、嬉しそうに応える。バクヤは立ち上がり、右手でエリウスの肩を掴んだ。
「その剣の使い方は誰になろたんや」
「先生だよ」
バクヤは苛立ちを押さえて質問を続ける。
「その先生いうんは、誰や」
「ユンク先生だよ」
バクヤの目が鋭く輝く。
「なあ、おれをその先生のところへ連れていってくれへんか」
「うん、いいよ」
実にあっさりした返事に、バクヤはいいのだろうかと思う。そのなんの警戒心ももたない少年は、釣り竿と桶を手にするとついてくるようにと身ぶりで示した。
「お主はてっきり夜釣りにいったものと思っていたが」
痩せて魔法使いのような髭を生やした長身の老人であるユンクは、エリウスを見るなりそう言った。エリウスは、何が嬉しいのかほほ笑みながら答える。
「そうだよ、ほらちゃんと釣ってきたよ」
桶の魚を見せられたユンクは、答えにつまる。
「いや、そうなんだろうが」
ユンクはエリウスのつれて来た少女を見る。男の子のように黒い髪を短く刈り込んでおり、身につけている服もエリウスと大差の無い作業着である為、言われなければ性別はよく判らないだろう。
しかし、その顔だちは整っておりもしもちゃんと髪を伸ばし、ちゃんとした衣装に身を包めばきっと素敵な少女になるだろうと思わせた。今は、ほほ笑む天使のように美しいエリウスのとなりに立っている為、どちらが少女か判らないところだ。
「その、あんたはバクヤといったかな」
ユンクは、少女に向かって語りかける。
「そうや、おれはバクヤ・コーネリウス」
少女の訛りのきつい言葉を聞き、ユンクの瞳が光りを帯びた。
「ほう、コーネリウスとな」
「ああ、先生の弟子のジュリアス・コーネリウスは、おれの父さんや。先生のことは、父さんからよう聞いてる」
ユンクはほほ笑むと頷いた。
「まあ、座りなさい。エリウス、お茶でもいれてくれるか」
エリウスは頷くと、奥へ行く。バクヤはユンクの前に腰を降ろすと、部屋を見回した。小高い丘の頂上にある小さなユンクの小屋は、様々な珍しいもので満ちている。
東方のものと思われる複雑な幾何学模様を持った図判や、太古の叡知を未だに保持しているといわる知の大国クワーヌのものらしい実験器具が無造作におかれていた。何より目を引くのは大量に積み上げられた本である。当時貴重品といえた書物をこんなに大量に、こんなに無防備に放置されているのをバクヤは初めて見る。
「ではジュリアスの娘、バクヤよ。儂にどんな用があってここへ来たのか、話してくれるか」
バクヤは、まっすぐユンクを見つめる。
「おれを、先生の弟子にしてほしいんや」
「ほう」
ユンクは、真っすぐ見つめるバクヤの黒い瞳を、見つめ返した。
「なぜかね?」
「なぜいうて、ユンク流剣術を学びたいんや」
ユンクはバクヤにほほ笑みかけると、顎髭をなでながら語りかける。
「ユンク流は知っているだろうが、王家のものが学ぶ剣術だ。その技はこの王国の秘密といえる。学びたいといわれても、そう簡単には教えられん。ジュリアスにそのことを聞かなかった訳ではあるまい」
バクヤはたじろいだふうでもなく、真っすぐユンクを見つめたまま反論する。
「ヌース神聖騎士団に入れば、学べるのやろ」
「その通りだが、だれでも騎士になれる訳ではない。まず、動機を聞かせてもらおうか」
バクヤは、暫く黙っていた。その間にお茶をいれたポットとカップを持ったエリウスが現れ、茶の支度をする。茶を注ぎ終わったエリウスは、ユンクのとなりに腰を降ろした。その時、ようやくバクヤが口を開く。
「先生の昔の弟子、ブラックソウルを殺したいんや」
ユンクは無言で、茶を一口啜る。静かな夜であった。ずいぶん遠くのほうで、風が木をゆらす音がした。暫く間をおいた後、ユンクは穏やかに言った。
「なぜかな。なぜブラックソウルを殺したい」
「父さんと姉のレンファがあいつに殺されたからや」
ユンクは深くため息をつく。その表情に変化は無い。ただ、黙って茶を味わっているようだ。長い沈黙の後、ようやくユンクは口を開く。
「茶を飲みなさい、バクヤ・コーネリウス。エリウスのいれる茶は美味いよ」
バクヤは苛立った声で答える。
「先生、おれを弟子にしてくれるんか、どうなんや」
ユンクは、目に硬い光りを宿してバクヤを見つめる。ユンクは何かを押さえ付けているかのような口調で話した。
「ブラックソウルを殺すべき者がいるとすれば、この儂だよ、嬢ちゃん。それは儂の仕事だ。譲る訳にはいかん」
バクヤは右手をテーブルに叩きつけた。
「なんでや、あいつはおれの父さんとレンファを殺したんや。そしてあいつはおれの左手を切り落とした。あいつを殺す権利がおれにはある!」
ユンクは最早、ほほ笑んではいない。王国最高の剣士と呼ばれるにふさわしい、鋭い目でバクヤを見つめた。
「では言わせてもらうが、片腕のおまえがどうあがいてもブラックソウルに匹敵する技を身につけれるとは思えん。また、バクヤよ、おまえもそのことを知っているだろう。ユンク流剣術を学んだところでブラックソウルには勝てないということを」
バクヤは何かを言おうとしたが、口を閉ざし黙って頷いた。
「バクヤ・コーネリウス。まず何があったのかを詳しく聞かせてもらおう。ジュリアスは儂の弟子だ。おまえの言い方を借りれば儂にはそれを聞く権利があると思う。
そして、おまえの本当の望みを聞かせてもらおう」
バクヤは再び黙って頷いた。そして、ゆっくりと語り始める。
「おれの母さんのメイファ・コーネリウスは極東の大国カナンの秘密結社、ロウハンの一員や。父さんがヌース神聖騎士団の掟を破って騎士団を退団した時、誇り高いロウハンの一族は母さんの伴侶としてジュリアス・コーネリウスは相応しくないと判断した。騎士だからこそロウハンの気難しい長老たちも母さんとの結婚を許したんやけど、騎士の地位を不名誉な理由で失った男の元に母さんはおけないという話しになった。そこでおれと母さんはロウハンの一族の元にゆき、父さんとレンファは王国に残ることになった。ただ、年に一度だけロウハンの長老たちはおれと母さんが父さんとレンファに会うことを許してくれていた。ちょうど一月前や。おれが父さんに会うために王国に来たのは。今年は母さんが病で臥せって動けへんかったんで、おれ一人で王国に来た」
それは月の明るい夜であった。バクヤが父親の屋敷へ辿り着いたのは、夜半すぎである。村から離れたその屋敷についた時、バクヤは奇妙な気配を感じた。
多くの人がいる気配である。剣の使い手としては名の知られたジュリアス・コーネリウスの屋敷であった。まさか盗賊ということもないだろうと思いつつ、バクヤは広い玄関ホールへ足を踏み入れる。
そこにいたのは黒装束の見知らぬ男たちと、白髪で美貌の男。そして、狼のような笑みを月明かりの下で浮かべている黒髪の男である。
黒髪の男が奇妙な陽気さのある口調で、声をかけてきた。
「お帰り、お嬢さん。お邪魔させてもらっている」
バクヤは、冷静さを装って答えた。
「だれや、あんたら。ここで何をしている」
「これは失礼。私たちはオーラのなんというか、そう、特務部隊といっておこうか。
本当はお嬢さん、あんたが帰ってくる夜に事を起こすつもりは無かった。ただ、時間が無かったしね。それに、あんたが帰ってくるまでに、撤退もできなった」
「父さんと姉さんを殺したんやな」
バクヤは冷たい声でいった。なんの感情もこもらない、真冬の冷気がこもった声。
「ああ、申し訳ないが、あんたも殺すことになる」
黒髪の男の言葉と同時に、黒装束の男たちが短刀を抜いた。バクヤは素早く荷を降ろし、構えをとる。左手を下にたらし、右手を顎のしたにつける独特の構えだ。
その時、バクヤの左手に奇妙なことが起こった。闇色の影が生き物のように蠢き、左手を覆ってゆく。瞬く間にバクヤの左手は漆黒の闇につつまれた。
同時にその左手から、強い瘴気が立ち上る。それは、バクヤの凍り付いた怒りが実体化したかのようだ。
「ほう」
黒髪の男が感心して声をあげた。
「黒砂蟲だね」
そう言い終えた時には、黒装束の男たちが動いていた。男たちは三人一組みとしてバクヤの左右に展開していく。
突然バクヤが動いた。素早く無駄の無い動きで、左側の男たちへ間合いを詰める。
黒装束の男たちは冷静にそれに対処した。三人でバクヤを囲む動きをすると、同時に短剣を振るう。
バクヤの左手の動きは肉眼で捕らえられるものでは無かった。漆黒の影が死をもたらす風となって走り抜ける。
闇に撃たれた光が地に墜ちるように、へし折られた短剣が床へおちた。と、同時に月の光りの中を金属質の輝きを持った血が飛沫く。
三人の男たちは一瞬にして、手にした剣をへし折られ首の血筋を裂かれていた。
バクヤは凶悪な笑みを浮かべ振り返る。その背後で男たちが、崩れるように倒れていった。
突然、拍手の音があがった。黒髪の男である。
「素晴らしい。ラハン流格闘術だね。これはいいものを見せてもらった。どうだい、ティエンロウ、あの技は見切れたかね」
ティエンロウと呼ばれた白髪の男は薄く笑みを見せる。
「ええ、ブラックソウル様」
ブラックソウルと呼ばれた黒髪の男は、満足げに頷いた。
バクヤは戸惑ったようにブラックソウルを見る。この男は自分の部下が目の前で三人殺されても、意に介した様子は無い。むしろ人を殺したショックで蒼ざめているのは、バクヤのほうであった。
戦乱の時代である。バクヤとて人を殺したことがあった。しかし、それはあくまでも殺意を持って殺した訳ではなく、身を守る際の戦いの中での過失に近い殺し方である。
生まれて始めて自らの意志をもって人を殺したのだ。バクヤの心の中の蒼ざめた憎悪が、かろうじて彼女をその場に踏み止まらせていた。そうでなければ、心理的な衝撃で激しくおう吐し、立ち続けることすら不可能であったろう。
今の彼女は人ではなく、復讐に取り憑かれた獣である。ブラックソウルは黒曜石のように黒く輝いている瞳で、バクヤを見つめていた。まるで彼女の心理を完全に見抜き、面白がっているかのようだ。
ブラックソウルは、黒装束の男たちに退がるように指示を出す。そして、ティエンロウという名の白髪の男へ眼差しを向けた。
「どうだ、ティエンロウ。やってみるか。ラハン流と戦える機会、そうは無いぞ」
ティエンロウは明けの明星のごとく真紅に輝く瞳を、バクヤのほうへ向け頷いた。
その月明かりの下で石膏のデスマスクのように白く浮かび上がる顔に、なんの表情も読み取れない。ただ、殺すことへの意志だけがあった。
ティエンロウは一歩踏み出す。バクヤとの間の距離は五メートルほどか。ブラックソウルが楽しげにバクヤへ話しかける。
「ラハン流の嬢ちゃん。気をつけな。ティエンロウは拳銃を使う」
その言葉と同時にティエンロウはマントを開き、腰に下げた拳銃の銃把を現わにした。バクヤは左手を下に降ろした構えのまま、ティエンロウに向かい合う。
バクヤにはティエンロウの技が読めない。拳銃は始めて見る武器であり、どのようなものかは判っているものの、抜く速度や照準の正確さは見当も付かなかった。
ただ、その拳銃の発している妖気は強烈なものだ。バクヤの左手を覆っている魔法的生命体である黒砂蟲と同じレベルのものである。
今にして思えば、手の内を見せて三人の男を殺したのは失敗であった。ティエンロウはバクヤの技の速さを見切ったと言っている。
今のバクヤには相手の出方を待つ余裕は無い。黒砂蟲を制御しているのはバクヤの呪力である。黒砂蟲は制御しておかねば、瞬く間に彼女の左手を喰い尽くしてしまうような物騒な生命体であった。普段は肩あてに付けている結界を張った革袋の中に仕込んである為、おとなしくしている。
今は常に呪力を発していなければならない。そのこと自体が彼女の精神力を激しく消耗していた。待ち続ける程、ティエンロウにとって有利になる。
むろん彼女にはまだ、奥の手があった。しかし、今ここでそれを使うということは、ブックソウルと名乗る男に手の内を晒すことになる。いずれにせよ、今のバクヤに勝ち目は無い。
そう思ったとたん、唐突にバクヤの顔に笑みが浮かんだ。酷く狂暴な、野獣の笑み。バクヤは怪訝そうに見ているティエンロウに語りかける。
「楽しいな、紅い目の兄ちゃん」
問いかけるようにバクヤを見るティエンロウに、バクヤは語り続ける。
「生まれてはじめてや。これほど本気で人を殺したいと思ったのは。まるで」
バクヤは込み上げてくるものを押さえきれないというように、語る。
「まるで今までのおれは生きていなかったと思える程、おれは今生きている」
突然、ブラックソウルは哄笑した。その笑い声は、バクヤを称賛するように高らかに響いた。そしてそれを合図にしたかのように、バクヤは動く。
風と化したような速度でバクヤは右前方へ飛ぶ。それと同時にティエンロウは拳銃を抜いた。骨で作られたかのような純白の銃身が、魔物のように妖気を発して出現する。
その瞬間、バクヤの左手が黒い霞となる程、高速で動いた。それと同時に黒い拳大の固まりがティエンロウの手元へ飛ぶ。
同時に純白の拳銃が火を吹いた。
バクヤが放ったのは黒砂蟲の固まりである。それは煙のようにふわりと膨らみ、ティエンロウの撃った弾を包み込む。
初弾は封じたとバクヤは確信する。左手を包んでいた黒砂蟲は一瞬消え去ったものの、今は再び彼女の手を包んでいた。
バクヤはティエンロウに向かって飛ぶように間合いを詰める。ティエンロウはバクヤの放った黒砂蟲を避けねばならないため、次弾を放つまでに間が空くはずだ。
その間は、バクヤが間合いをつめるのに充分な長さである。
しかし、バクヤは読み違えていた。
パン、と炸裂音が響き、黒砂蟲が跳ね飛ぶ。黒砂蟲は呪力によってその形態を保っているが、ティエンロウの撃った拳銃の弾丸に込められていた呪力がそれを上回ったのだ。
黒砂蟲は無力化し、漆黒の水飛沫のようにティエンロウの足元へ墜ちる。ティエンロウは何事もなかったように、バクヤへ向かって残弾五発を全て撃ち込んだ。
バクヤとティエンロウの間の距離は、精々二メートル。躱しようの無い距離だ。
ただ、今のバクヤの意識は通常の状態ではない。バクヤは五発の弾丸を、すべて肉眼で捕らえていた。
バクヤはラハン流格闘術の師であるジークという男から、想と意というものを教わっている。想とは、通常の意識より深いところで流れる言語化する以前の、生の根源に近いところでの意識であった。
意とは通常の意識であり、いわゆる思考である。格闘術において思考して身体を動かしていたのでは、到底戦いに勝つことはできない。よって反射としての動きを身体にたたき込み、考える以前に身体を動かすようにする。
ラハン流の想という概念はそれをさらに、進化させたものであった。ある意味ではユンク流の剣術と共通した部分である。ユンクがホロン言語というものを利用して実現しようとしたものは、ラハン流の想とほぼ同じものだ。
ただ、ユンクはそれを体系化し、誰でも習得可能な技術体系として整備した。ラハンはあくまでも自分自信の為にのみ、その技術をあみだしている。ジークにその技を教えたのは数少ない例外の一つであった。
バクヤは想のレベルにおいて、五発の弾丸を捉えている。バクヤの意識の中で大気は水のようになり、身体は鉛を括りつけられたように重かった。
ただ左手だけが独立した生き物のように、動く。それは漆黒の蛇のように鋭く、素速く動いた。
再びバクヤの腕が黒い霞と化す。黒い血飛沫のように、バクヤの左手の黒砂蟲が撒き散らされる。
バクヤの苦鳴が漏れた。同時に、ブラックソウルの賛嘆の呟きが聞こえる。
「すばらしい」
バクヤの左手は、既に闇色の黒砂蟲で覆われていなかった。その剥き出しになった左手から五発の弾丸が床におちる。それと同時に手の平から、血が滴った。
ティエンロウの弾丸に込められた呪力が黒砂蟲を支配していた力を無化してバクヤの手から跳ね飛ばしたが、バクヤは素手で弾丸を受け止めたのだ。当然、バクヤのうけた代償も大きい。バクヤの手の骨は砕かれ、肉は深く抉られていた。
その手はもう、使えないだろう。しかし、バクヤには右手が残っていた。
ラハン流には、想と対象的な概念として意がある。意とは通常の意識のことであり、この意識により肉体をコントロールする技がラハン流にはあった。
人間の身体には、無意識に動かされている部分がある。例えば心臓の心拍や、内分泌であり、これらは本能のレベルで制御されるものだ。
こうした不随意筋や内蔵の作用まで意識的にコントロールすることによって、通常の人間には発揮できないような力を引き出す技がある。それは意身術と呼ばれていた。
むろんこの技には代償がともなう。肉体は通常以上に酷使される為、技を使用し終わった直後は激しい疲労により動けなくなることもある。
又、意身術を使う前も激しい精神集中を行う為、動きを止めることになった。バクヤは意身術に入る為、動きを止める。
ティエンロウのほうも全弾を撃ち尽くした為、次の攻撃に入る為の間ができていた。ティエンロウは銃身の下のレバーを操作し、弾倉を外す。
雷管式の拳銃は火薬を込め、弾を詰めるのにかなりの時間を要する。しかし、予め装填した弾倉を用意しておけば、数秒の時間で済む弾倉の交換だけで使用可能であった。ティエンロウは装填済みの弾倉を再び銃に取り付ける。バクヤにはその時間で充分であった。
バクヤは弾倉交換の間に手を伸ばせば届くところまで間合いを詰めている。バクヤは左手で銃口を覆うように、拳銃の銃身を掴む。銃口を塞がれれば拳銃を撃つことはできない。その状態で撃てば銃身に圧力がかかり、炸裂する為だ。
同時に右の掌底を、ティエンロウの腹部に向かってのばす。意身術によって増幅された力は、鋼鉄のハンマーの打撃力をその右手に与えていた。
ティエンロウの目に驚愕と恐怖の色が浮かぶ。バクヤは勝利を確信した。間違いなく、彼女の右手はティエンロウの内蔵を破壊する。
バクヤは勝利の雄叫びを上げようとした。しかし、口をついて出たのは悲鳴である。
「うああああ、」
ティエンロウは跳ね飛ばされ、気を失う。バクヤの右手の力は半減し、ティエンロウを殺すことはできなかった。
バクヤは、全身に糸の食い込む苦痛を味わっている。身体じゅうに巻き付いた糸が彼女の身体を金縛りにしていた。それでも、ティエンロウを気絶させる一撃だけは発することはできたのだが。
「おまえか、これは」
バクヤは血を吐くように、ブラックソウルへ言葉を投げつける。ブラックソウルは嬉しそうに微笑み、バクヤを賞賛するように手を掲げた。
「すばらしいよ、嬢ちゃん。あんたは素敵だ! ただ、ティエンロウを失いたくなかったのでね。魔操糸術であんたを縛らせてもらった」
ブラックソウルは満足げに頷く。バクヤは傷ついた獣の瞳で、ブラックソウルを見る。ブラックソウルはその瞳が愛おしくてたまらないように、笑った。
「私は君に贈り物をしようと思う。素晴らしいものを見せてもらったお礼にね」
「なんや、一体」
バクヤは凍り付いた冷たい声でいった。ブラックソウルは恋人に愛を囁くように続ける。
「君の命さ。嬢ちゃん。あんたはここを生き延びる。明日の夜明けと共に私たちは再び君の命を奪う為に動きだす。私は期待しているよ。あんたが生き延びることを。
そしてもう一度、私の命を奪いにくることを」
バクヤは呻き声をあげた。
「ふざけるな。殺せ、おれを。でなければ、後悔することになる」
「ああ、いいねぇ、その瞳」
ブラックソウルは楽しげにバクヤを見つめる。
「それと嬢ちゃん。君の左手は私がもらう。私を殺したければ、新しい左手を手に入れるがいい。そいつのありかはユンクという男が知っている」
バクヤは、冷たい風が吹き抜けるのを感じた。左手が床に落ちる。水晶剣、という言葉が脳裏に浮かんだが、意識は瞬く間に闇の中へ堕ちていった。
「おれが気がついたのは、屋敷から離れた森の中や。左手は血止めの処置がされていて、傷口も治療されていた。おれは傷からくる高熱に襲われながらも山の奥へ逃げ込み、かろうじて生き延びた」
ユンクは静かに頷いた。
「そのブラックソウルの言葉に導かれて、儂の元へ来たわけだな。しかしな、バクヤ」
バクヤは首を振る。
「いや、無駄やユンク先生。おれは聞いたことがある。メタルギミックスライムの伝説を」
ユンクの瞳が見開かれる。バクヤは不敵な笑みを見せた。
「おれは黒砂蟲を操る技を学んだ。黒砂蟲というやつは、どうやらギミックスライムと呼ばれる種類の虫らしい。おれの師となるジークは火砲を左手に受け、筋肉をずたずたにされたが、ギミックスライムとしての黒砂蟲を利用して再び左手を使えるようになった。
このギミックスライムで体組織は修復できるけど、骨格までは再生できない。おれは骨ごと断たれているからいくら黒砂蟲を使っても不完全な形でしか再生はできない」
バクヤの目には取り憑かれたものの光がある。ユンクは黙って話しを続けるように促した。
「ギミックスライムを利用して体組織を再生する医術を発明した医者がいる。その名はラヴレス。おれの父親、ジュリアス・コーネリウスはラヴレスの友人やった。
ラヴレスはギミックスライムを利用して失われた四肢を再生することを考えていた。
それはメタルギミックスライムの利用や。
通常のスライムでは身体を支える強度を持たせられない。けど流体金属で作られた魔法的生命体であるメタルギミックスライムは、失われた骨格の再生が可能なだけの強度がある。
けど問題があった。メタルギミックスライムを制御する為には強力な魔力が必要や。ラヴレスはメタルギミックスライムを封印し、人間の支配下におけるように実験を繰り返し、試作品を作った。そしてその試作品をジュリアス・コーネリウスへ託して自身は旅だった」
ユンクは穏やかな笑みを浮かべたまま、バクヤへ語りかける。
「その試作品がどうなったか知ってるのだろう」
バクヤは無表情で頷く。
「父さんは戦争で腕を失った友人の神聖騎士、レギオスに頼まれてそのメタルギミックスライムの義肢を渡した。けどレギオスはその腕を制御しきれず狂った」
ユンクは静かに言った。
「儂がそのレギオスを殺した。儂は自分の弟子を自分で殺したのだ」
「レギオスを殺して、先生、あんたが義肢を手にいれた。そうやろ」
ユンクは重々しく頷く。
「確かに我が元にあった」
「父さんは自分の過ちを恥て神聖騎士団除名の処分を受け入れた。その時、すべての後始末を行ったのは先生やったと聞いている」
「いかにもな。しかし、その義肢は今ここには無い」
バクヤは静かに立ち上がる。その瞳は、真冬の星のように冷たく光っていた。
「どこにある、今は」
「妖精城」
バクヤが低く呻いた。
「あれは人の手に委ねるには危険すぎる。エルフの管理下にあれば問題ない」
「妖精城への道を教えてくれ、先生」
「無駄だよ。エルフは人との関わりを持とうとしない。たとえ行けたとしてもエルフには会えない」
「しかし、先生は会えたんやろ」
「儂は魔導師マグナスと共に行ったからな。今マグナスは、行方不明だが」
「どうであろうと」
バクヤの身体から気が立ち上る。
「おれは妖精城へ行く。どんなことをしても」
ユンクは説得する為口を開こうとし、それに気付いた。エリウスである。エリウスから凄まじい気が発せられている。魔道の発現を思わせるような気の揺らぎがあるが、むろんそれは魔道では無い。
ユンクは言葉を出すこともできず、エリウスを見つめた。その瞳の奥には金色の輝きが宿り、いつもの茫洋とした子供の表情ではなく魔族のように老いて邪悪な生き物のような笑みを浮かべている。それはあたかも王国の累積してきた邪悪な闇の部分がすべて、この少年の元へ降臨したかのようだ。
エリウスは老人のように重い言葉で語りだした。バクヤもエリウスを見つめている。
「この娘を妖精城へ送るがいい。私と共に」
それは、始まったとのと同じくらい唐突に終わった。エリウスの瞳の奥に生じた金色の光が消え、もとの無邪気な少年の顔が現れる。
ユンクは、春の日差しのような笑みを浮かべたエリウスへ問いかける。
「エリウス、おまえ何を言ったのだ」
「僕もバクヤと一緒に妖精城へ行くんだよ」
ユンクは、ため息をつき、エリウスを見つめたまま言った。
「よかろう。バクヤ、エリウスと共に妖精城へゆけ」
「ほう」
バクヤは奇妙なものを見るように、エリウスを見た。
「この坊主と一緒にやて?」
「ああ、その子はエリウス・アレクサンドラ・アルクスルⅣ世。この大陸で最も古い王国の王子だよ」
バクヤは目を剥いた。
「なんやて」
「その王子には不思議なところが多々ある。王子と共にゆけば、なんとかなるかもしれん。ただしな、もしおまえがメタルギミックスライムの義肢をコントロールできなければエルフはおまえを殺すぞ、バクヤ。おまえが生きて戻れる可能性はとても低い」
バクヤは野性的な笑みをみせる。
「おれは生きて戻るさ。必ずな」
ユンクはため息をつく。
「では妖精城への道を説明しよう。妖精城は物理的にこの地上へ存在している訳では、無い。いわゆる魔法的閉鎖空間と考えればよい。妖精城は地上との接点を持っていないわけではなく、アウグカルト山地にいけば何ヶ所かにその接点がある。ただし、接点へ行ったところで決められた時間でなければ妖精城への道は開かれない。
決められた時間、つまり星々の位置が定められた位置にある時だ。
バクヤよ、これからおまえにその接点の場所と、星の位置を教える」
死神の鎌のように冷たい冴えた輝きをみせる三日月が、夜空に輝く。森の中は太古の闇につつまれており、昏く静まりかえっていた。
漆黒の髪のブラックソウルは冥界へ続く道のような山道で振り返る。
「なぜあんたらが必要かって?」
ブラックソウルの背後には黒衣の男と、その男に影のように従っている女がいた。
黒衣の男は冷酷な輝きを宿す眼差しで、ブラックソウルを見つめている。
「そうだ。まあ、おれは傭兵だから金さえもらえれればどこへでも行くがね。しかし、オーラには竜騎士がいるだろう。魔法的な戦いはやつらのほうが慣れているんじゃないのか」
ブラックソウルは忌々しげに笑う。
「痛いところをついてくれるな、リード。やつらのコントロールは、おれの手にあまるのでね。竜騎士団は軍から独立した、全く別の組織だ。やつらは宗教組織だからな。魔族との戦いでないかぎり、やつらは動かない」
リードと呼ばれた男は、皮肉な笑みを精悍な顔に浮かべる。その後ろの女は、仮面を被ったように無表情のままだ。
「忠告しておくがな、ブラックソウル。おれたちの能力はクワーヌの技術によって竜騎士の力を再現したものだ。まあ、いうなればイミテーションだ。確かにおれたちの能力は竜騎士に似ている。ただ、イミテーションだということを忘れるな」
ブラックソウルは何が面白いのかクスクス笑うと、先へ進み出した。リードと彼に従う女性がその後ろに続く。闇に閉ざされた回廊のような森の道を通りすぎ、三人は丘陵に出た。
丘陵の頂には、巨大な石の柱が立ち並んでいる。それは物言わぬ巨人たちが星明かりの下に、佇んでいるようであった。ブラックソウルたちはその丘陵の頂めざして坂を昇ってゆく。
「あれが、妖精城への道か」
再びリードがブラックソウルへ問いかける。ブラックソウルは前を向いたまま応えた。
「そう、今宵あの場所に道が開く」
ブラックソウルたちは巨大な石の柱の群に、近づいてゆく。天に聳える巨石は幾何学的に配置されており、古代の建築物の廃墟であることが窺える。
冷たく輝く三日月の光で鬼火のように深紅の瞳を輝かす男が、ブラックソウルを出迎えた。ティエンロウである。
「今、フェイファが道を開き始めた所です。星が定められた位置に達するまで、もうしばらくかかるようですが」
ブラックソウルは、ティエンロウの言葉に頷くと、その古代の遺跡の中へと入ってゆく。遺跡の中央には円形の野外劇場を思わす広場があり、その中心にフードつきのマントに身を包んだ者が立っている。フェイファのようだ。
フェイファは護符のついた杖を掲げながら、呪文を唱えていた。ブラックソウルは少し離れたところからその様を見下ろしている。
リードは皮肉な笑みをみせながら、ブラックソウルの横に立つ。
「ブラックソウル、あんたの人格破壊術がどれほどのものかは知らないが、おれがもしジュリアス・コーネリウスならば、まずまともな道は教えないね。妖精城への道は幻獣たちに守られているとも聞く。多分、おまえらが開こうとしているのは、そうした道じゃないのか」
ブラックソウルはその問いに、狼の笑みで応えた。
「おれもそう思うよ。その時こそあんたらの出番じゃないのか、リード。クワーヌを裏切った黒鋼騎士の実力を、見せてもらうことになるな」
金属質の輝きを持つリードの瞳が、ブラックソウルを差し貫く。リードはふと目をそらすと、肩をすくめた。
「どうだかね。えらくものものしい部隊を用意してるじゃないか。機動甲冑か。エルフと戦争するつもりなのかい」
リードの見つめるほうには、遺跡の中に黒々と蹲る鉄の塊たちがいる。それはオーラが保持する古代技術によってつくりあげられた兵器、機動甲冑であった。
漆黒の装甲で表面を覆われたその機動甲冑は、巨大な蜘蛛のような八足の姿をしている。背中に盛り上がった部分がありそこが昆虫の羽根のように左右へ開く。その中に人がのり、その巨大な疑似生命体を操れる。
十体のその機動甲冑は遺跡の影で、音を発することもなく待機していた。その戦力は、おそらく千人以上の通常装備の兵士に相当するだろう。
ブラックソウルは涼しげに笑うと、リードに応える。
「エルフよりも、もう少しやっかいな相手と戦うことになりそうなのでね」
「ほう」
リードは訝しげにブラックソウルを見る。
「どんな化け物だい、そいつは」
「神話だよ、おれたちと敵対しているのは」
リードは苦笑いをする。
「例の甦った巨人のことを言っているのか」
ブラックソウルは真面目な顔で頷いた。
「まあ、楽しみにさせてもらうよ」
話しをしている間に、あたりには生き物のように蠢く霧が忍び寄っていた。霧は蒼白い光を放っている。
その霧はフェイファが呪文を唱えている場所を中心に、水が沸き出すように発生していた。あたりは蒼白く輝く白い闇に閉ざされていく。
遺跡の向こう側で、黒い固まりが動く気配がする。機動甲冑たちが移動を始めたようだ。ブラックソウルの元にティエンロウがやってくる。
「そろそろ道が開きます」
ブラックソウルは頷くと、黒衣の男女を伴ってフェイファの元へ向かう。巨大な鋼鉄の蜘蛛の姿をした機動甲冑たちも集まってきた。
燐光が渦巻いている。霧の吹き出す向こうには異界がある。そこに開けているのは、妖精城への道だった。
フェイファが光を放つ杖を掲げ霧の中を歩み始める。その後ろにブラックソウルと黒衣の男女、ティエンロウが続く。さらにその背後で機動甲冑が移動していた。
それは真白く輝く光の洞窟を歩いていくようだ。その白い蒼ざめた光は渦巻いている。その光の向こうには何か巨大な力が蠢く気配があった。
フェイファに導かれて光の道を歩む一行は、自分たちが廃墟のある森を越えたらしいのに気づいている。そこはアイオーン界と現世の狭間にある道だった。
やがて白い洞窟のような霧は薄れ始める。潮の引いた海面に岩が現れてくるように、銀色の影が浮き上がってきた。それは銀色の木のようである。
乳灰色の薄闇の奥に煌めく銀色の木々は、次第に数が増えてゆく。それは銀色の結晶体が林立する幾何学的形態を持った森であった。
フェイファは呪文を詠唱し、死者を導く精霊のように霧につつまれた銀の森を歩んでゆく。突然、雷鳴が轟くような音が響き渡った。獣の咆吼である。
闇色の蜘蛛たちが走った。八足の機動甲冑がフェイファたちを囲むように円陣を作ってゆく。しかし、その円陣は閉じられることは無かった。
金属の軋む音が響き、一体の機動甲冑の装甲が裂ける。鋭い鉤爪に引き裂かれるような傷が次々と装甲につけられてゆく。しかし、傷を負わすものの姿は見えない。
ただ、激しい獣の息づかいだけが何ものかの存在を示していた。
引き裂かれた装甲の中から、兵士が引きずりだされる。悲鳴があがり、紅い血が飛沫いた。目に見えぬ獣の牙で抉られるように、兵士の身体が破壊される。
「リード」
ブラックソウルが、うんざりしたように言った。咎める調子が多少含まれている。
リードは引き締まった口元に少し笑みを浮かべ、黒衣の女に眼差しを向けた。
「リリス」
リリスと呼ばれた女は、一歩前へ踏み出す。それと同時に、左手を振った。その手先から黒い糸のようなものが放たれる。それは鋼鉄の糸であった。
獣の咆吼が響く。それはじきに苦鳴に変わった。突然、破壊された機動甲冑のそばに、巨大な獣の頭が落ちる。
それは灰色熊の頭部であった。ただ、その紅く輝く瞳が昆虫の複眼であることをのぞけば、灰色熊そのものである。
暫くして、霧の中から頭部を失った灰色熊の胴体が姿を現した。リリスは、その身長が3メートル近くはありそうな巨大な灰色熊の首を切断した、鋼鉄の糸を手元へ戻す。地響きと共に巨大な獣の胴体が、地に倒れ伏した。
ブラックソウルはため息とともに、リードを見る。リードは苦笑した。
「おれの反応が遅かったといいたいんだろ、ブラックソウル。ま、そう責めるなよ。
あんただって身体を他の次元界に置いた状態で攻撃をしかけてくる幻獣がどんなものか見たかったんだろうが。次からはちゃんと防御するさ」
ブラックソウルは無言のまま肩を竦めると、フェイファに再び歩み出すよう指示する。鋼鉄の蜘蛛たちは陣を解くと、後ろに退った。後には破壊された機動甲冑と死んだ兵士、幻獣の死骸が残されている。
一行はフェイファに導かれ、銀の森をさらに奥へと入って行った。
鋭い金色の爪のような月が夜空に輝いている。バクヤとエリウスは、深い闇に包まれた森の中を歩いていた。
エリウスは昏い夜の生き物たちが蠢く密度の濃い闇の中を、明るい昼間の太陽の下であるかのように歩いてゆく。バクヤはついて行くのでやっとだ。
「本当にこの道であってるんか」
バクヤの問いに、エリウスは振り向きもせずに答える。
「こっちだよ」
そういわれても、バクヤにはどっちなのかよく判らない。おそらくユンクに妖精城への道を教わっても、彼女一人では到底辿り着くことはできなかっただろう。エリウスはまるで森に棲む獣のように道なき道をゆく。
いつのまにか、あたりに霧がたちこめ始めた。霧は蒼白く光を放っているようだ。
その生き物を思わせる霧が、静かに森を覆う。
エリウスは全く気にしている様子はないが、バクヤはその霧に魔道の力を感じる。
それは異界への扉が開かれつつある感覚だった。
(どうやら間違ってなかったようやな)
バクヤは改めてエリウスの能力に感心する。本能だけで歩いているような少年だが、めざす所へは間違いなく辿り着いたようだ。いつのまにかあたりは白い闇につつまれた。
バクヤはまるきり方向感覚を失ってしまっている。ただ、先を歩いている灰色のマントを纏うエリウスだけが進むべき道を示していた。バクヤはもう自分がどちらに向かって歩いているのか、どれほどの距離を歩いているのか判らなくなっている。
それはまるで白い広大な海の中を漂っているような感覚だった。静かで淀んだ空気が、白い海流のようにゆっくりと流れてゆく。
やがて潮が引いてゆくように、ゆっくりと蒼白く輝く霧が晴れていった。空のもっとも高い部分が銀色に輝きながら現れてゆく。黄金色に輝く三日月が統べる夜空は黒曜石のような闇と女神の胸飾りのように銀色に輝く雲が混然一体となっていた。
バクヤは目の前に開けていく異形の風景に、思わずため息をつく。霧は首の下くらいまで晴れてきている。その蒼白く輝く海原を思わせる霧の上に、銀の木々が突き出していた。銀の木は鉱物に類似した幾何学的形態を持っており、異国のトーテムポールを思わせる。
エリウスは、何も感じないように平然とその銀の森を歩いてゆく。霧の晴れてゆく速度はどんどん速くなり、銀色の森の姿はすっかりバクヤたちの目の前に現された。バクヤは駆け足でエリウスを追うと話しかける。
「これが、エルフの国なんか?」
「うーん、そうみたいだね」
霧は完全に晴れ、足元の輝く銀色の草原まで見えるようになった。それは輝く銀と黒の世界である。それは生命の気配を感じさせない人工的な銀細工の世界にみえるが、同時に自然のもつ無形の意志のようなものを内に秘めた世界でもあった。
渦巻くように銀色の雲が流れてゆく漆黒の空は限りなく高く、煌めく銀色の草原はどこまでも広がっているようだ。その果てしないように見える銀の世界を、特に感慨もないようにエリウスは歩いてゆく。
「もうすぐだね」
唐突なエリウスの言葉に、バクヤは思わず聞きかえす。
「え、なにが」
「妖精城だよ」
「なんで、判るんや」
「んー、なんとなく」
エリウスがそう言い終えると同時に、まるで夢の中のできごとのように突然目の前の地面が傾斜し始める。それは緩やかな丘陵であった。バクヤとエリウスはそのいきなり現れたように思える丘を登ってゆく。
丘の頂上付近は案外急な傾斜であった。その丘を先に登りきったエリウスは、丘の向こう側を指し示す。
「ほら、妖精城だよ」
バクヤは丘を駆けのぼり、エリウスと並んだ。丘の向こう側には湿地帯が広がっている。まるで青空をはめ込んだような水を湛えた沼地の中心に、透明のドームが聳えていた。そのドームを中心にして、放射状に木の根のようなものが沼地を這い回っている。そこは銀色の草原と違い、生命の気配を感じさせた。
突然、エリウスが腰につけた剣に手をかける。黒く塗られた木の鞘に収められているその剣は、ノウトゥングという名らしい。
バクヤはエリウスの視線を追った。その先に幻覚かと思えるような唐突さで、白銀の防具を身につけ槍を手にした白衣の戦士が三人現れる。尖った耳や華奢に見えるがしなやかな身体を持った戦士たちは、エルフの衛士のようであった。
「心配するな人間よ、おまえたちに害意がなければ我々も攻撃しない」
エルフの言葉に、エリウスは剣の柄から手をはなす。
「うん、そうだね」
「なあ、あんたらエルフなんか」
バクヤの問いにエルフは笑みをみせる。
「問いを発するならまず、名乗ってはどうか。ここは我々の領土でありおまえたちは招かれざる客であることを忘れるな」
エリウスは天使を思わせる美貌に笑みを浮かべて言った。
「僕はエリウス、この娘はバクヤだよ。僕たちバクヤの腕をもらいに来たんだ」
エルフの戦士たちは戸惑ったように互いに顔を見合わせる。やがて最初に彼らへ語りかけたエルフが口を開いた。
「では三千年以上前に我々と協定を結んだ王の末裔だというのか、おまえは」
エリウスは言葉を返すわけでもなく、黙ってほほ笑み続けている。
「我々についてこい、エリウス。おまえたちをどう扱うかは、シルバーシャドウ様にまかせることにする」
そう言い終えると、エルフの戦士は湿地帯にむかって歩きだす。体はほとんど動いているように見えないが、宙を飛ぶようなその歩みについてゆくエリウスとバクヤは小走りになっていった。
エルフたちは湿地帯の上を這う木の根の道を軽い足どりで歩む。その自然が造り上げた緩やかなカーブを描く橋を、エリウスたちも渡っていった。
湿地帯は、幻想の太古が甦ったような場所である。地上では決して見ることのできないような獣たちが、半ば微睡んでいるかのような瞳でエリウスたちを見送っていた。
やがて巨大な半透明のドームが目前に迫ってくる。その幻想的な光景に、バクヤは眩暈を感じた。それは巨大な生き物のような塔であり、夢の中にのみありえるような神秘的風景である。
エルフたちに続いて半透明のドームの中に入ったバクヤは、そのあまりに鮮やかな色彩に埋め尽くされた景色にため息をついた。麻薬の幻覚に現れてくるような実物以上にリアリティを持つ花々。そんな眩惑的な質感を纏った花々の咲き乱れる空間に、バクヤは酩酊したような感覚の混乱を感じる。
ここは、人間のくる場所では無い。バクヤはそう思った。ここはあまりに美しく、あまりに幻想的である。このままここに居続ければ、まちがいなく狂気が自分の心を犯すだろう。そんな戦慄がバクヤを襲う。
「何してるの、行くよ」
バクヤはエリウスに声をかけられ、我に帰る。その最も古い王国の美しい王子は、すっかりまわりの景色に溶けこんでいた。極彩色の雨のように花弁が降り注ぐその場所で、白衣のエルフと並んで立つ黒髪の少年は神々の夢に現れるかのごとき美貌に笑みを浮かべ、自分の庭に立っているのと同じくらい平然としている。
この甘美な世界に立つエリウスの姿は、もう何年も前からここに暮らしていたといわれても疑問を感じないほど、違和感が無い。むしろここが、この少年が本来属すべき世界なのだろう。
バクヤは深いため息をつくと纏つくような眩惑を振り払い、エルフとエリウスに向かって歩み出す。彼女にはなすべきことがあった。ここで立ち止まっている暇は無い。
エメラルドの塔を螺旋上に登ってゆく市街は、バクヤには城の内部というよりは庭園に感じられた。咲き乱れる花々、歌う色鮮やかな鳥たち、銀の装飾品を身につけた美しいエルフたちの行き交う街は苦痛や汚れを知らぬ快楽の夢の風景を思わせる。その夢の中だけにありうるはずの美しい庭園を、バクヤは通り抜けていった。
バクヤとエリウスの行きついたのは、エメラルドの塔の頂点にある壮麗な空中庭園である。空に浮かぶ巨大な花園は、その乱舞する色彩と甘い香りでバクヤの心をかき乱した。復讐の想念にとりつかれた自分がここにいることが、酷く場違いな気がする。
エリウスはあいかわらず夢見心地の笑顔をみせ、特に感慨もないふうにその聳える花園を見つめていた。二人はエルフに導かれ、その空中庭園に踏み込んでゆく。
二人の案内されたのは、色とりどりの花々と物言わずに佇む彫像に囲まれたテラスである。明るく優しい光に満ちたそのテラスには、一人の女性のエルフがいた。
軽くエリウスに会釈するとそのエルフは名乗る。
「始めまして、かわいい王子とお嬢さん。私はシルバーシャドウ。ここの女王です」
バクヤはどう名乗るべきか躊躇ってしまったが、エリウスはごく自然に答える。
「僕はエリウスだよ。この娘はバクヤ。お願いがあって僕らは来たんだ」
シルバーシャドウは年を経た古き者にふさわしい叡知につつまれた笑みを、月光の精のように美しい顔に浮かべる。バクヤは改めて自分の目の前にいる相手が人間でないことを認識した。
「お願いですって。なんでしょう、王子」
「腕をもらいたいんだ」
「腕ですって?」
バクヤは言葉を継ぎ足す。
「ラヴレスの作ったメタルギミックスライムの義肢や。ここにあると聞いた」
シルバーシャドウは笑みを浮かべたまま、バクヤを見る。
「確かに私たちが人間から預かっています。あれをどうなさるつもり?」
「おれの腕にするんや」
シルバーシャドウは表情を変えない。その瞳の奥にある真意がどのようなものであるか、バクヤには見当もつかなった。
「あれはあなたたち人間からの預かりもの。それを人間のあなたが使われるというのであれば、私たちがとやかく言う話しではない。差し上げましょう。ただひとつ忠告しておきます」
バクヤは笑みをみせる。それは獣の笑みだった。
「いいたいことは判る。もしも、おれがその腕を制御できなかったらおれを殺すというのやろ」
シルバーシャドウは頷く。
「あなたの心の中には血まみれの獣が棲んでいます。おそらくあなたにはあの腕を使いこなせないでしょう。あなたは魔道により作られた闇の生き物となります。その時には私たちはあなたを消去します」
バクヤは怪訝な顔で聞く。
「消去?」
「この次元界から消えてもらうということです」
シルバーシャドウは立ち上がった。おそらくエルフにとって百年にも満たない寿命の人間は、不完全な存在に見えるのだろうとバクヤは想像する。
エルフの女王はバクヤとの関わりを最低限のものにとどめたいようだ。シルバーシャドウの眼差しはエリウスに向けられている。闇の産んだ天使のような黒髪を持つ美貌の王子。その美しさはエルフさえ魅了しているようだ。
シルバーシャドウはバクヤたちを誘う。
「では、ラヴレス殿が作った腕のあるところまで案内しましょう。それと王子、あなたに会わせたいものたちもいます」
エリウスは相変わらず心がどこかを漂っているかのような、ぼんやりした調子で問いかける。
「へえ、誰なの?」
「来ていただければ判ります」
エルフの女王は、重さによって地上に縛られているとはとても思えない歩調で空中庭園の中を進む。配置されている人工物は最小限のものにとどめられているが、テラスを繋ぐ回廊や階段は極彩色の炎が燃え立つような花々に彩られており、人間の王が築いたいかなる宮殿よりも豪華なものに思えた。
気候も完全にエルフの魔法によって制御されているらしく、空気はとても心地好くバクヤたちを包んでいる。ここには雨風をしのぐ為の壁も天井も不要であり、あらゆる生き物が何ものにも縛られずその生を謳歌できる場所になっているようだ。
シルバーシャドウに連れられてきたその場所は、背の高い木に囲まれた円形の広場である。木の枝や生い茂る葉に覆われている為、薄暗く緑色の光がさすそこは神秘的な雰囲気につつまれていた。どことなく祭儀場を思わせる。
その広場の中央に丸いテーブルが置かれていた。そのテーブルにある円筒形のガラスケースをエルフの女王は指し示す。
「ごらんなさい、あそこにあなたの望むものがあります」
バクヤは思わず駆け寄る。そのガラスケースの中には漆黒の腕が立てられていた。
テーブルから生えている実体化した影のようなその腕は間違いなく金属の質感を持っており、バクヤはそれがラヴレスの作った義肢であると確信する。
「人間たちをこの城へ招いたのか」
振り向いたバクヤは新たにこの広場へ入ってきたものたちを見て、息をのむ。言葉を発したものは、容姿は人間に似ていた。むしろ人間以上に完璧な美貌を備えているその女性は、巨人である。身の丈はバクヤの倍以上はあるだろうか。その純白のマントに身を包んだ巨人は、傲岸な笑みをその女神のごとき美貌に浮かべ見下ろしていた。
その巨人の傍らに佇むのは、漆黒のマントに身を包んだ男である。その黒衣の男は仮面をつけているかのように無表情であり、エルフたちと同じような古きもの独特の雰囲気を持っていた。
黒衣の男は歩みよると、シルバーシャドウに問いかける。
「この者たちは?」
「最も古き人間の王国の王子、エリウス殿とバクヤ殿ですわ」
黒衣の男は跪き、礼をとった。
「始めまして王子。我が名はロキ。王国の守護者とも呼ばれます」
エリウスは茫洋とした眼差しでロキをみる。
「君は人間じゃないね」
ロキは表情を変えぬまま立ち上がり、改めてエリウスを見直す。
「あなたのいう通りだ。王子」
「僕はエリウスだよ」
ロキが人間であれば苦笑を浮かべたのだろうが、ロキは表情を変えずにただ頷く。
ロキの背後で巨人が笑い声をたてる。
「楽しい小僧だな、おまえは」
「あなたは、誰なの」
「私はフレヤ。黄金の林檎の探究者といっておこうか」
「ふーん」
エリウスは小首をかしげる。
「でも、それはあなたの中にあるんじゃないかな」
フレヤは驚いたように、エリウスを見る。エリウスは夢見る少女のようにあどけない笑みで、その真冬の空のごとく青い巨人の眼差しに答えた。
「何を相変わらずぼけ倒してるんや、エリウス」
苛立った声でバクヤが言った。
「ぼけ倒すって」
「いや、いい。とりあえず今はそれを、おいとこう。女王さん、この腕はどうやって取りだすんや」
一見、ガラスケースに見える腕を覆ったその透明の物体は、いくら動かしても取り外すことができない。しかも、まるで金剛石でてきているような硬さであり、到底割ることはできなさそうだ。
「その腕はこの次元界には存在しません。私たちですらその腕の発する妖気に無意識のうちに影響されてしまうので、位相をずらせています」
「あー、よく判らないけど、とりあえずここから出して欲しいのやけど」
その透明な覆いは、それこそ魔法のように消失した。漆黒の左腕は、鮮やかなリアリティを発し始める。それと同時に、真冬の凍てついた空気を思わせる強力な妖気が蠢いた。バクヤは、狂暴な笑みを浮かべる。
「へへ、ようやく会えたな、おれの左手」
闇色の腕は、バクヤの呼びかけに答えるように、音にならない声で低く歌い出す。
それはあたかも狂った獣があげる、欲望の呻きのようだ。
バクヤはその腕を右手で掴む。金属の刃で脳髄の中を掻き混ぜられるような強い魔力が、バクヤを襲った。バクヤはたまりかねたように、哄笑する。
「これこそおれの望むものや」
バクヤは、左手を傷跡に合わせる。バクヤは脳裏に呪術文様を想起した。その封じ込めの力をよびさます文様は、いつも黒砂蟲に対して力を発揮してきたように今回も力を発揮する。
それは、荒れ狂う馬を乗りこなすのに、似ていた。黒砂蟲を自在に操れる力を身につけたバクヤにとって、慣れた作業といってもいい。
バクヤはむしろ不気味さを感じた。黒砂蟲にあるのは、飢えの感情のみである。
しかし、このメタルギミックスライムは精神を感じさせた。その精神は、バクヤに似た形へ自分を変えていっている。バクヤは、自分の中にもうひとりの自分が出現したように思う。
メタルギミックスライムの腕はついにバクヤの支配下へ入った。しかし、どちらかといえば、バクヤの精神の影に忍び込んで様子を伺っている感じである。
バクヤは、その左手を動かしてみた。闇色の腕はもう何年も前から彼女のものであったかのように、滑らかに動く。バクヤは満足げに笑った。
「どうや、おれにかかればこんなもんや」
シルバーシャドウは醒めた瞳で、バクヤを見つめている。
「これが始まりに過ぎないことは、あなた自信が一番よく判っているはず」
エルフの女王が言った言葉に、バクヤは苦笑する。
「まあな。ま、どうってことあらへん」
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