第2話
砦を囲む森。森は、原始の闇に支配されている。月も、星も無く塗りつぶされたように昏い夜の下で、ギースはそう思った。
夜の森。ギースの目の前のそれは、固形物のような闇で満たされていた。原始の、神々が果てしのない戦いを繰り広げていた時代。その魔法が圧倒的な力によって、世界を覆っていた時代の闇だと、ギースは思う。
ユグドラシルを中心として、トラウスを囲む山稜。その円弧を描く山稜の外側に、サリエルの砦があった。ギースはその砦の入り口で、見張りをしている。
この砦の位置からでは、天を覆う大樹といわれるユグドラシルを見ることができない。しかし、ギースは闇色の巨人のように聳える山稜を超えると、ユグドラシルが見えることを知っている。
このサリエルの砦は、昔中原の各地から王国の首都トラウスへ向かうルートとして使用されていた街道の途中に、築かれていた。しかし、王国は戦乱の時代となりトラウスの力が衰退すると共にこの砦も忘れ去られてゆき、今では半ば廃墟となっている。
ギースたちは、レッドソード団と呼ばれる盗賊であった。背後の砦の中庭では、略奪を終えたギースの仲間が祝杯をあげている。かつては王国の街道を守った砦も、今では盗賊の隠れ家にすぎない。
本来、砦の入り口の見張りは、二人で行うものであるが、相棒は中庭の祝宴に行ったきり帰ってこない。この深夜に、闇に閉ざされた森を超えてまで砦へ来る者もいない為、見張りといってもあまり意味がないのだ。
ギースは、背後の歓声を聞きながら、昏い森を見つめていた。太古より佇む巨人のような森の木。その木々を包む闇は、生きているように思える。
森の闇は様々な生命の小さな囁きや、息吹に満ちていた。それは、夜の生き物たちの気配である。
黒い水のように、森を満たす闇。原始的な生命体のように蠢く闇が、一瞬裂けた。
ギースは、白い影を見る。
気が付くと、目の前に彼女がいた。
身の丈が、4メートルを超えるかのような、巨人。巨人の身につけた純白の鎧、純白のマントは、新雪のように汚れなく輝いている。黄金の炎を思わす髪に縁取られた巨人の顔は、神話の女神のごとき美貌であった。
ギースは、闇を蹴散らして出現したようなその巨人を目の当たりにし、言葉を失う。砦も、森も、黒く塗りつぶされた夜空も全て、ギースの頭から消し飛んでいた。
ギースの瞳の中には、巨人しかいない。白く輝く、巨人。その四肢は、巨人族にありがちな奇形的に歪んだところは無く、通常の人間以上に完璧な比率の肢体である。
サファイアのように、青く輝く瞳はギースを見下ろしていた。その真冬の空を思わす輝きを持った瞳に、ギースはどう映っているのか。
「通るぞ」
巨人は、あたり前のように、ギースの前を、通り過ぎようとする。ギースは、辛うじて声を出すことに成功した。
「待て!」
巨人は、一瞬哀れむように、ギースを見る。しかし、すぐに青い瞳は冴え冴えとした冷たい輝きを取り戻す。
一瞬、金属質の煌めきが、はしる。ギースは、黒い空を見ていた。心の中で、剣を抜こうとしたはずだと思う。身を起こすと、自分の足が視界に入った。下半身が、立っている。自分は、胴を両断され、地に倒れたのだ。
ギースは、抜き身の剣を持つ、白い巨人を見た。巨人は、既にギースを見ていない。ギースは絶叫をあげようとしたが、意識は昏い闇に飲み込まれた。
「この砦だな、ロキよ」
巨人は、自分の背後へ声をかける。森の闇の一部が切り取られたような、漆黒の男がいた。ロキと呼ばれたその男は、闇色のマントと、やはり黒い色をした鍔広の帽子を身につけている。
「そうだ、フレヤよ。妖精族の王女は、ここに囚われている」
フレヤと呼ばれた巨人は少し鼻をならすと、巨大な剣を振り上げ肩に担いだ。その剣は切っ先が戦斧のように平たくなった、半ばメイスのような、巨大な鉄材を思わす剣である。
その無骨な外見に似合わず、ドワーフの鍛えたものに特有のきめ細かな輝きが、その剣にはあった。先程一人の人間の胴を両断したにも関わらず、繊細な光に曇りは無い。
その剣を担いだまま、フレヤは歩き出す。砦の中庭へ向かって。
砦の中庭は、祝宴のただ中にあった。盗賊たちは、炎で炙った獣の肉を喰らい、浴びるように酒を呑んでいる。捕らえられてきた女たちは悲鳴をあげながら、男たちに組み敷かれていた。
盗賊たちは、凶暴な笑い声をあげながら、あるものは、博打に興じ、別のものは女の柔肌を楽しんでいる。裸に剥かれた女が踊りを強制され、燃えさかる篝火のそばで、白い肌を手で隠し震えていた。
中庭には男達の怒号と笑い声、女達の悲鳴が満ちている。中央で燃えさかる炎が、全てを紅く染めていた。
揺らめく炎の輝きが、盗賊の男たちを魔物のように見せる。それは、あたかも魔族に呼び出された邪悪な精霊たちが繰り広げる、魔界の夜の饗宴に見えた。
全裸に剥かれて震えていた女の一人が、盗賊の隙を見て逃げ出そうとする。男たちは、笑い声をあげながら女を追う。
女は、丁度入ってきた白い巨人と鉢合わせた。女はその神の美しさをそなえた巨人を目の当たりにし、意識を失いその場に倒れる。
巨人は、冴えた真冬の空を思わせる青い瞳で盗賊たちを、見下ろす。音が撃ち殺されたように、静寂が中庭を包んだ。白い巨人はゆっくりと、女を跨ぎ越す。
美貌の巨人は砦の中庭に、降臨した女神のごとく立った。女を追っていた男たちは、呻きながら後ずさる。
盗賊の男たちは、その場に凍りついた。その姿は、地上を蹂躙しているうちに天使と出会ってしまった邪悪な精霊を思わせる。古の神々の墓のような静寂につつまれた砦の中庭で、美貌の巨人が宣告するように言った。
「おまえたちの望みは、虫けらの生か、戦士としての死か?好きなほうを、選べ」
盗賊たちは、かろうじて剣を手にとった。天上の美貌をもった真白き巨人に、男たちは魂を奪われている。
魅入られたように、盗賊たちは剣を構えた。フレヤは、嘲るような笑みを浮かべる。フレヤの長大な剣が、天へ掲げられた。
「では、戦いの神に祈るがいい。最後まで戦士の誇りを、守りぬけるようにとな」
フレヤの剣が、蒼い風となる。
ティエンフォウは、書物から顔をあげる。切れ長の瞳に、真っ直ぐな黒い髪を持つその青年には、凛とした美しさがあった。
ティエンフォウは扉に目を向け、ノックに応える。
「入りたまえ」
盗賊の一人が、死人のように蒼ざめた顔で部屋へ入る。
「お頭、大変です。このままでは、全滅です!」
ティエンフォウは、立ち上がった。切れ長の黒い瞳は酷薄さを湛え、冷たく輝く。
その威圧感に、盗賊は少し後ずさった。
「落ち着け。トラウス軍の夜襲か?」
「いや、その。巨人です」
ティエンフォウは形のいい細い眉を寄せ、怪訝な顔をする。
「巨人というとあの伝説のか?」
「姿は、伝説の通りですが」
「馬鹿な」
ティエンフォウは、伝説の巨人が北のラーゴスで甦ったという情報は得ていた。
しかし、自分の支配する砦に出現するとは、想像したこともなかった為、ひどく奇妙な感覚を覚える。まるで、自分が吟遊詩人の歌う物語に取り込まれたような。
ティエンフォウは気を取り直し、部下に指示する。
「私はすぐに行く。もう少しもたせろ」
盗賊は、ティエンフォウの瞳に宿った殺気に気圧され、後ろにさがる。そのまま一礼すると、部屋を出ていった。
ティエンフォウは、壁に架けていた自らの剣を手にする。漆黒の木でできた鞘に収まっている、片刃の剣であった。柄には銀色に染められた、絹糸が巻かれている。
刀身には、僅かな反りがあった。
戦場刀としての厚みや長さを持ってはいるものの、実際に鎧をつけての戦闘に使用する剣としては華奢に見える。ティエンフォウは、一気にその剣を抜く。
その場にティエンフォウ以外の人間がいれば、確実に冷気を感じただろう。物理的な感覚をもたらす程の妖気を秘めたその剣が、姿を現す。
それは漆黒の剣である。瘴気が陽炎のように、立ち上った。生命力の弱っている者がいればあっさり命を奪われる程の、強力な瘴気だ。
その、あらゆる光を吸収している中空に浮かんだ影を思わせる刀身には、とてつもない魔力が秘められていた。普段は、鞘に刻まれた封印の魔法により眠らされているが、一度目覚めると血を得ずして眠ることは無い。
ティエンフォウ自身も生命力を削られ、頬が死人のように蒼ざめてゆく。この剣は、生きていた。斬鉄剣という、名を持つ。
東方の、クメンとバグダッシュの間に広がる密林地帯。そこには、黒砂蟲と呼ばれる不定形生命がいる。その黒砂蟲は、自らの表面を黒い鉄砂で覆い、体表を鋼鉄以上の硬度にすることができた。
斬鉄剣は、剣の表面をその黒砂蟲でコーティングした剣である。黒砂蟲は、魔法的な力で剣の表面に固着していた。
その剣は、魔法的生命体である黒砂蟲の持つ妖力を発している。魔法で封じ込まれているものの、その妖力は剣を手にしたものに、大きな影響力を持つ。
黒砂蟲が生きるには、人間の血肉が必要である。普段は鞘の中で眠っているが、一度抜き放たれれば、黒砂蟲は強烈な飢えに囚われた。そして、それは、剣を持つものにも影響を及ぼす。
黒砂蟲は妖気を発し、剣の持ち主を狂わせた。その剣を抜いたものは、人を斬らずにはおられなくなる。黒砂蟲はその、斬られた者の血肉を啜るのだ。
ティエンフォウの心の中へ、灯りが点ったように殺気が生じる。それは、地の底で燃えさかる紅蓮の炎のように、ティエンフォウの心を焦がした。
ティエンフォウのように若く、女性のような美貌を持った男が盗賊の首領となれたのは、この漆黒の剣を持っていた為だ。闇色の剣を抜いた時、ティエンフォウは血に飢えた凶戦士となる。盗賊たちは、恐怖によって支配されていた。
ティエンフォウは、熱病のように心を支配してゆく殺戮への欲望を制御する。頭の中に魔法文様をイメージし、集中した。
剣の根本に紅い魔法文字が、鬼火のように浮かびあがる。死人と見まがう程に蒼ざめたティエンフォウの瞳には、かろうじて理性が戻ってきた。
ティエンフォウは既に人では無く、半ば魔法的な精霊に憑依された状態といえる。
四肢には異様な力が漲り、意識は空気の流れさえ感じ取れる程冴え渡った。
ティエンフォウは、抜き身の剣を下げたまま、肩にかかる黒い長髪を靡かせ、中庭へ向かう。下げられた剣は、血に飢えた唸りを耳には聞こえない声で発していた。
「これは、…」
中庭に降り立ったティエンフォウは、思わず絶句する。ティエンフォウ自身、数百人という人間を斬ってきたし、盗賊団の首領として略奪と殺戮の場面には慣れていた。
しかし、今、目の当たりにしているものは、もっと別の異常なものだ。
中庭に散らばっているのは、人間の破片である。紙でできた人間を、ナイフで切り刻めばこうなるであろうといった惨状だ。
かつて、彼の部下であった男たちは、既に人間として原型を留めていない。あるものは胴を両断され、あるものは四肢を分断され、あるものは身体を縦に斬られている。顔を斜めに断ち切られている者もいれば、顔の中央で輪切りにされた者もいた。身体のどこの部分ともしれぬ肉片が、白い肌を見せて無造作に転がっている。
臓物は、火に紅く照らされ、生々しい質感を持ってあたりにばらまかれていた。
地面は血によって染められ、泥濘と化している。その泥濘の中に、切り落とされた手や足が突き出していた。まるで、血の海に溺れる者が、助けを求めているように、切断された手が宙を掴んでいる。
それだけ凄惨な場面であるにもかかわらず狂気を感じさせないのは、断片に切断された人間の肢体の切り口が、あまりに見事である為のようだ。つまり、人間を超えた存在の成した技は、ある種の判断停止を起こさせる。
そして、その死体の山を築いた本人が、目の前にいた。白い巨人。金色の髪が輝く炎のように風に靡き、真冬の空を思わす青い色の瞳が、高みよりティエンフォウを見下ろしている。
真白く輝く鎧を身につけた巨人は、ティエンフォウのほうへ、一歩踏み出す。
「おまえが、首領か。一応、おまえの部下は戦って死んだといっておこう」
ティエンフォウは、奇妙な陶酔の中で、巨人の声を聞いた。
(嘘だ)
ティエンフォウは心の中で呟く。
(ここで行われたのは、戦いや殺戮と呼べるものではなく、ただの、そう、ただの死の降臨だったはずだ)
そして、それは間違いなく自分にも訪れる、その予感がティエンフォウの心を白い陶酔で満たしていく。巨人は言った。
「さて、私の望みはただひとつだ。妖精族の王女を渡してもらおう。ここに、捕らえられているはずだ」
ティエンフォウは、自分の言葉を、他人が語っているように聞いた。
「帰れ、忌まわしい女トロール。おまえの巣穴へ、這い戻れ」
ティエンフォウは、巨人の顔が神々しく輝くのを見た。その美しい微笑に、ティエンフォウは恍惚となる。
ティエンフォウには巨人の剣が、見えなかった。ティエンフォウが、自らの剣を掲げ巨人の剣を受けようとしたのは、彼の中の魔法と黒砂蟲の力である。
しかし、それは全く無意味だった。ティエンフォウの鋼鉄より尚堅い剣は、ほんの一瞬乾いた音を立てると、小枝のように折れる。ティエンフォウは、灼熱の蒼い風が自分の中を通りすぎるのを、感じた。
ティエンフォウは一瞬、縦に断ち切られた自分の左半身が地に沈んでいくのを見る。しかし、自分もすぐに、闇の中へと飲み込まれていった。
夜の闇を纏ったような男、ヴァーハイムのロキが中庭に現れる。切断された死体には目もくれず、フレヤに言った。
「皆殺しにしたのか?」
フレヤは嘲りの笑みを見せ、中庭の片隅にへたり込んだ男を顎で示す。
「虫けらが一匹、残っている」
それは、ティエンフォウを呼びに行った盗賊である。死ぬ機会を逃した男は、逃げる気力も無く、だた呆然と蹲っていた。
ロキは整った顔になんの表情も見せず、生き残った男の前へ行く。ぶつぶつ呟きながら中庭を眺めている男の胸ぐらを掴み、立たせる。
ロキは、魂を抜かれたような顔でロキを見つめる男に、平手打ちをした。男の目の焦点が合う。
「ここに、妖精族の王女、スノウホワイトが囚われているはずだ」
男は虚ろに、頷く。
「スノウホワイトを、渡してもらおう。言うとおりにすれば、命を取るつもりは無い」
「おれを、殺さない?」
「そうだ」
ロキは、感情の無い声でいう。
「案内しよう、妖精の女のところへ」
生への希望が男に活力を、戻したようだ。黒衣の死神のようなロキの前に立ち、盗賊の男は手招きする。
ロキは、後ろのフレヤに声をかける。
「フレヤ、ここで待っているか?」
「当たり前だ。蟻の巣を浚うのは、おまえに任す」
フレヤは、腰のスリングに、血を拭い終えた剣を戻す。その純白の姿には、返り血の染みは無い。ロキはフレヤに会釈すると、盗賊の男を促す。盗賊の男は、砦に向かって歩き出した。
ロキは魂を冥界へ誘う魔物のように、男の後に続く。二人は、砦の中へ入った。
サリエルの砦は、王国が栄えた時代に築かれたものであり、中規模の城並みの規模を持つ。中に入ると圧倒的な重量感を持った城塞である事が、判る。
ただその巨獣の死骸のような城塞も、半ば廃墟と化していた。既に森林の一部になりつつあるといっても、いい。
瓦礫の並ぶ巨大なホールは、壮大な洞窟を思わす。ロキの前をゆく盗賊は、崩れ落ちた柱が巨竜の骨のように並ぶホールを抜け、砦の地下へと向かう。
冥界まで届くかのごとき長い螺旋の階段を、二人は下っていく。盗賊の男が手にした燭台が唯一の灯りである。ロキは闇の中に蒼ざめた顔だけを浮かびあがらせ、生きた闇のように男の後ろを歩く。
地下は、巨大な迷宮を思わせた。時折、闇の生き物らしき者が、蠢くのが見える。
その地下の複雑な回廊を、男は迷いもせず歩いていく。
地下迷宮は、五層構造になっているようだ。それぞれの層の入り口には、巨大な鉄の扉がある。オーラ製の火砲であっても、破壊することはできないような、頑丈な作りだ。
盗賊の男は、頑丈そうな鉄の扉を、鍵であける。盗賊の男は、影のごとく背後に佇むロキに声をかけた。
「妖精の女は、最下層の第5層にいる。昔は、政治犯とかを閉じこめた所らしいがな。たいそうな事をしているようだが、何しろエルフの女だ、どんな魔法をしかけてくるかしれたもんじゃない」
男の言葉に対してロキは無言で、先に進むよう促すだけであった。男は素直に、地下迷宮のさらに深い所へと向かう。
冷気を感じる地下の階段を下り、二人は残りの四つの鉄の扉を越え、最下層へとたどり着いた。奇妙な気配が満ちているのは、迷宮に魔法的な防御が込められている為のようだ。地下迷宮そのものが封じ込めの魔法を機能させるように、造られているらしい。
エルフの王女を閉じこめるだけの、強固な封印魔法を施すには相当強力な魔導師が最近術を行ったはずだ。それについては、ロキは何も言わず、最下層の中心へと向かう。
突然、回廊の奥に冬の木漏れ日を思わせる灯りが出現した。春のそよ風のように、甘く暖かい風を感じる。その風の源が、エルフの王女の居場所らしい。
盗賊の男が振り向く。
「おれは、牢の鍵を持ってない。鍵はティエンフォウ様だけが、持っていた。どこにあるかは、判らない」
ロキは、無言で男を押しのけ、先へ進む。次第に、暖かい光があたりを満たしてゆく。光は生き物のように、優しくロキを包んだ。
鉄柵の向こうは、まるで春の草原のごとく日差しが降り注いでいる。いかなる魔法によるものか、とても地下深いところの牢獄とは思えない。
光の中に、銀色の長い髪の可憐な少女が腰を降ろしている。その華奢な手足や、アーモンド型の青い瞳、少し尖った耳は確かにエルフ特有のものだ。
少女は、エルフの公有語である王国の古語でロキへ語りかけた。
「血の臭いが濃いわ。何があったの?」
光の中に浮かび上がった影を思わすロキは、一礼をした。
「スノウホワイト殿ですね。ヴァーハイムのロキです」
白い長衣を身につけたエルフの少女は立ち上がり、裾を摘むと、ちょこんと頭を下げる。
「シルバーシャドウ女王の娘、スノウホワイトよ。よろしく。人が沢山死んだみたいね。あなたの仕業?」
「上に、巨人族のフレヤがいます。彼女がここを警護していた盗賊を、殺しました」
その時、スノウホワイトが可憐な瞳を見開いて、息を呑んだ。
「ロキ殿」
ロキは背後から顔を捕まれ、ナイフを首に突き立てられた。
「油断だな、ロキとやら」
男は、ナイフを引き、首の血筋を引き斬ろうとする。男の顔が、驚愕に歪んだ。
まるで石に対して刃を立てたような、手応えだった為である。
ロキは、部屋の片隅へ男を投げ飛ばす。男は、呻いた。
「おれは、ヴァーハイムの岩石人間と呼ばれている。おれに、刃は役に立たない」
「あんた、伝説の建国者だというのか?」
「あんたはどうも、ブラックソウルの直属のようだな」
「なぜ…」
「ティエンフォウが東の大国、オーラの間者ブラックソウルの命を受け、エルフを監禁していたことを知っているからこそ、ここへ来た」
男は、ため息をつく。
「殺せ」
「はじめにいった通り、命はとらんよ」
ロキは、素早く男の頭を蹴る。男は気を失った。
エルフの少女は胸の前で両手を合わせ、鈴の音を思わす可愛らしい声でいった。
「よかった、私の前で人が死ななくて。でも、ロキさん、あなたは、人を殺せないんでしたわね。ヌース神があなたを造った時、そういう設定にしたと聞いていますわ。本当にあなたが、ヌース神の造った人造人間だったらの話ですけど」
ロキの唇が、少し歪む。それは苦笑にも見えた。
「まず、地上へでましょう。王女」
ロキは鉄柵に手を掛けると、無造作にそれを押し開いた。王女は歓声を上げ、牢の外へ出る。
「本当にまいりましたわ。ヴェリンダ殿の仕掛けた封じ込めの魔法は、私の力ではどうしようもなかったの。私はまだ、たったの百年ほどしか生きてませんもの。まさか、ヴェリンダ殿ともあろう方が、人間に荷担してるなんて、夢にも思いませんでしたわ。おかげて、おびきだされて閉じこめられるはめに。もう、牢の中は、退屈で退屈で」
黒衣のロキは、頷くと歩き始める。スノウホワイトは、飛ぶように軽やかな足取りでその後に続いた。
「そうそう、まずは地上へ出るんでしたわね、ロキさん。私、あなたの事は、ちゃんと聞いてますわよ。王国の建国者の一人でしたわね」
その後、スノウホワイトはロキの後ろで延々と一人で喋り続けた。無言の人造人間に喋るのは、地下牢の壁に向かって話すよりは、ましだったらしい。
地上には、血臭が残っていた。しかし、血塗れの中庭も、スノウホワイトが降り立ったとたん浄化されるように、血が消えてゆく。
スノウホワイトの魔法らしい。刻まれた肉片も急速に風化し、土へ還ってゆく。
惨劇の後が消え去った後に、スノウホワイトは巨人に声をかける。
「あら、思ったより素敵な方なのね、安心したわ」
フレヤは、スノウホワイトを見下ろす。スノウホワイトは、優雅に一礼した。
「あんたが、エルフの王女か」
「ええ、巨人族のフレヤさん。とても美しいわ、あなた。でも、心の中に影がある。
なぜかしら」
フレヤは、微笑む。
「それが、判れば苦労はしない」
「フレヤは、記憶を失っている。だから私と、行動を共にしているのです。失われた記憶と、黄金の林檎を取り戻す為に」
「黄金の林檎ですって」
スノウホワイトは、冴え渡る空の輝きを宿した青い瞳を見開く。
「あの黄金の林檎と一緒に、あなたの記憶があるの?」
「どうもそうらしい」
フレヤは、曖昧な笑みを見せる。
「そうですか」
スノウホワイトは、快活に微笑む。
「ロキさん、あなたは何が望みなのです。私を救いだし、何を得ようというのです?」
立ち上がった影のような男は、エルフの王女を見据えて言った。
「あなた方の世界へ行きたい。つまり、ナイトガルトへつれていってもらいたい」
かつて、地上に王国が出現した時、約定により魔族は地底へ、それ以外の魔法的種族(エルフ、ドワーフたち)は山岳地帯へ行き、中原を人間に与える事となった。
エルフは自らの国をアウグカルト山地に築き、そこをナイトガルトと命名し、そのナイトガルトを次元の彼方へ位相を写す事により、通常の次元界との交わりを断っている。
俗に妖精城と呼ばれるエルフ達の居城は、そのナイトガルトにあった。次元の彼方にあるナイトガルトへ行くには、2つの方法がある。一つは、ナイトガルトの属する次元界と、この地上の次元界が交わる定められた瞬間に、次元の通路を辿っていく方法。もう一つは、そこの住人に招かれていく方法。
スノウホワイトは、可憐な花を思わせる笑みを見せ、頷く。
「いいでしょう。では、ナイトガルトへお連れしましょう」
「ひと足遅かったようだな」
全てが終わった後、サリエルの砦に一人の男が足を踏み入れた。灰色のマントに身を包んだ男は、長髪を黒い炎のように風に靡かせて砦の中庭へと入ってゆく。男の後ろには、一人の女性が従っていた。
フードのついた濃紺のマントを身につけた女性は、魔導師のようである。肌は浅黒く、フードから覗く髪は黒い。魔導師の証しとして、護符のついた杖を手にしていた。
灰色のマントの男は、砦の中庭へ入る。男の黒い瞳は、きらきらと黒曜石のように輝き、あたりを興味深そうに見渡す。
盗賊たちが完全に姿を消し、廃墟そのものとなった砦には、惨劇の気配を感じさせるものは残っていない。冬の終わりの野原に残る残雪を思わせる白い花が、中庭のあちこちに咲いている。
「ブラックソウル様」
魔導師の女が、声をかける。
「魔法が残っています。気をつけて下さい」
ブラックソウルと呼ばれた男は、問題ないといったふうに手を振った。確かに、ここには魔法の気配が残っている。ブラックソウルの記憶にあるこの砦は、酷く殺風景な場所であった。生命の気配など存在しない、石の廃墟。
しかし、今はその廃墟は緑の蔦に覆われ、森の一部と化しつつある。中庭にも花が咲き、砦の内部からも生命の気配を感じた。この砦を不在にした期間が2週間たらずである事を思えば、驚異的な変化である。
ブラックソウルは砦の入り口で、ふと足を止めた。咲き乱れる小さな白い花の中に、黒い影が見える。
拾い上げたその影の破片のようなものは、ティエンフォウの剣であった。今はへし折られ、ただの破片となっている。
破片となって尚、その剣は強烈な瘴気を発していた。花の中に埋もれている時には感じないが、手にとると未だ強い力が残っているのが判る。
常人であれば手にしただけで貧血を起こしかねないその破片を無造作に手で弄ぶブラックソウルには、何も感じられていないようだ。ブラックソウルは、破片を花の中に戻しながら呟く。
「ティエンフォウの斬鉄剣も、役に立たなかったようだな。全く、伝説の巨人とは、やっかいな存在だ」
ブラックソウルは、砦の中に足を踏み入れていく。かつて砦を覆っていた封じ込めの魔法は、完全に消去されたようだ。
「ほう」
ホールに足を踏み入れたブラックソウルは、感嘆の声を上げた。かつては、石でできた巨獣の死骸のようであった廃墟の内部は、色とりどりの花で覆われている。
花は南の海に住む鮮明な色をした魚たちを思わす鮮やかな色を見せ、咲き誇っていた。ホールには光の柱のように日差しが差込み、極彩色の花々をよりくっきりと照らし出す。
そこは海の底のようにしんとした静けさを持ちながら、春の花園のように色どりが華やかな空間になっている。そして蒼い雨のごとく、常時花粉と花弁が天井より降り注いでいた。
ブラックソウルは、自分の心に冷たい心地よさが、水面に波紋が広がるように満ちていくのを感じている。次第に、感覚が研ぎ澄まされてゆき、それでいて夢の中のように現実が遠くなっていった。
「ブラックソウル様!」
魔導師の女は、悲鳴にも似た声をあげる。ブラックソウルは、苦笑して振り向いた。
「フェイファ、心配するな。この程度の魔法は、おれには無力だよ」
フェイファと呼ばれた魔導師は、フードをはね除け、彫りが深く目鼻立ちのはっきりした顔を顕にすると、ブラックソウルに歩みよる。フェイファは、ブラックソウルの前に立ち、その手に花弁と花粉を受けた。
「ダチュラの変種です、ブラックソウル様」
「ダチュラ?」
「普通のダチュラからでも、麻薬は抽出できます。このダチュラはエルフの魔法で活性化されていますから、その薫りだけでも人を狂わす事ができます。いくらブラックソウル様が薬物に体を慣らしておられるとはいえ、ここに長時間いては、危険です」
ブラックソウルは、回廊を引き返す。フェイファが、後に続く。ブラックソウルの口元には、楽しげな笑みが浮かべられていた。
「小娘と思っていたが、さすがはエルフ。やるもんだ」
「小娘と仰いますが、ブラックソウル様。スノウホワイトはあなたより長い年月を、生きています」
ブラックソウルは、喉の奥で笑った。
「せいぜい、気をつけることにしよう」
「それにしても、妖精城への道が閉ざされましたわね。ロキと巨人に、先を越されてしまうとは」
「運が無かったのさ。まぁ、いい。もう一つの道を知る者がいる。それと、ティエンフォウが殺られたとなると、あいつを呼ぶ必要が…」
ブラックソウルは言葉を止めると、顔を笑みで満たす。砦の入り口に、人影を認めた為だ。
その男は、鍔広の帽子を目深にかむり、革のマントを纏っている。その切れ長の瞳に、磁器のように白い肌、そして長く真っ直ぐな髪は、巨人に殺されたティエンフォウとうり二つであった。ただ一つ。その髪と瞳の色を除いて。
その男は、漆黒の剣の破片を、手にしている。刃のような切れ長の瞳は哀しみを湛えて深紅に輝いており、頬は酷く蒼ざめていた。その髪は象牙のように白く、闇の中で輝いている。
「兄は、殺されたのですか」
絞りだすような問いかけに、ブラックソウルは楽しげに応えた。
「そのとおりだ、ティエンロウ。よく来た!」
ブラックソウルは、ティエンロウと呼ばれた男を、抱きしめる。ティエンロウの深紅の瞳は、しかし、彼方を見つめていた。
「さて、ティエンロウ、おまえの兄を殺した野郎は、妖精城へずらかった。おれたちも行くぞ、妖精城へ」
ブラックソウルは、野生の獣の笑みを見せ、ティエンロウの肩を抱く。ティエンロウは、鋭い殺気のこもった瞳を、ブラックソウルへむける。
「妖精城、ですか」
ブラックソウルは狼の笑みを浮かべたまま、ティエンロウとフェイファを従え、砦の外へ向かう。中庭には春の日差しが降り注ぎ、エルフの魔法によって開いた花々が白く輝いていた。
フレヤとロキは、スノウホワイトに導かれるまま霧の濃い森の中を歩いて行くうちに、突然その空間に出た。
空は、銀灰色に輝いている。それは、北方の地における白夜にも似た輝きであった。足下に広がる草原は、雪原のように白銀色である。しかし、それは雪の色では無く、白銀に煌めく草の色であった。
フレヤは、青い瞳を眩しげに細める。ここは、汚れを知らぬ乙女の夢のように白く、そして輝かしい世界であった。
スノウホワイトは、草原を駆け出す。白い長衣を纏ったエルフは、風に舞う雪片のように踊り、歌った。
「ああ、とても素敵だわ、ここは輝いている!」
フレヤは踊るスノウホワイトを見ているうちに、エルフの少女が白い炎につつまれているような思いにとらわれる。ここは、白く燃え広がる草原。そして、白い焔となった少女が、シルフィールドのごとく天空へ舞い上がろうとしている。
スノウホワイトは、ひとしきり踊り終わると、フレヤとロキを手招きした。
「さあ、私の城へ行きましょう」
スノウホワイトが向かう先には、白銀の森があった。森の木も、雪の覆われたように銀色に輝いている。
その森の向こうに、小高い丘があった。よく見ると、草原から森を抜け丘陵へと続く一本の白い道がある。スノウホワイトは、その道を駆けてゆく。時おり立ち止まっては、もどかしげにロキとフレヤに手招きした。
「奇妙だな」
フレヤは、呟く。
「ここには、生命の気配が感じられない。とても静かだ」
真白き世界に浮かんだ黒い影のようなロキは、フレヤに応える。
「長命種は、一般に変化を望まないからな。ここは、時間を止められた世界だ。ただ、妖精城は、少し違うが」
フレヤは、肩を竦めた。
「旧世界の者たちは、皆同じということか。魔族にせよ妖精族にせよ、ただ世界の終わりを待っているように見える」
「その見方は、間違っている訳ではない、フレヤ」
フレヤはため息をつくと、スノウホワイトを追った。その純白のマントは、白銀の世界に見事に溶け込んでいる。天上の神々が住まう場所を進む天使のように、白い巨人はエルフの娘の後を歩む。
白銀の森に、入る。その森を構成する木は、植物というよりも鉱物の結晶体に見えた。透明な枝葉を、銀色の光が駆けめぐっている。その繊細なガラス細工のような枝は、幾何学的な図形を描いて幹から分岐していた。
森全体に、透明な枝が張り巡らされており、森そのものが抽象的な幾何学模様を構成している。その中を銀色の輝きが無数に駆け抜けていく様は、万華鏡を見るようだ。
森の向こうに聳える丘を、スノウホワイトは駆け昇ってゆく。その頂上で立ち止まったスノウホワイトは、全身でフレヤとロキを差し招いた。
ようやくスノウホワイトに追いついたフレヤたちに、スノウホワイトが声をかける。
「あれが、私たちの城ですわ」
丘陵の向こうは、クレーター状の盆地になっている。その盆地の底は、湿地帯になっており、真夏の輝く空のように青い水が湛えられていた。
その水の上を白銀の木の根が、放射状に這い回っている。そして、湿地帯の中央には、半透明のドームに覆われた塔が聳えていた。
スノウホワイトは、その塔を指さしている。それは、城というよりは、何か巨大な植物のようであった。
フレヤは、素直に感想を語る。
「あれは、城というよりは、木だな」
スノウホワイトは、頷く。
「仰る通りですわ。とにかく、城へ入れば判ります」
三人は、湿地帯へと降りてゆく。湿地帯は、先程の草原に比べると遥かに多彩な生命と色彩に満ちていた。
半透明のドームまでは、木の根が絡み合ってできたような道がある。その木の根に水辺には、深い青さを持った水草が繁り、淡い色彩の花が咲いていた。
水の上を、白い水牛のような生き物が歩んでいる。巨大な放物線を水上に描く木の根の上を、灰色の小動物が駆けていた。その姿は、野兎と野鼠の中間くらいである。
大きな熊によく似た白い生き物が、時折前を横切った。頭上は、白い龍を思わせるが、羽毛に覆われた生き物が旋回している。
ここには草原と違い、様々な生命がいた。しかし、ここには、生存競争の過酷さが無い。まるで庭園で放し飼いにされている生き物のように、相互に干渉せず穏やかに生きているようだ。獣たちの顔は、思索に耽る哲学者のごとく穏やかに見えた。
白い毛足の長い水牛が、時折遠吠えする。それは、ホルンの響きにも似ており、のどかに湿地帯へ響きわたった。
半透明のドームが、目の前に来る。それは、間近に見ると、半透明の巨大な木の葉によって構成されている事が判った。
半透明の葉には銀色の葉脈が、走っている。一枚一枚が城壁を遥かに上回る巨大な木の葉が、透明な半球体を造り上げていた。
絡み合う木の根で造られた道の果てに、ドームへの入り口がある。重なり合う木の葉が、丁度一部分だけ人の通れる隙間を造っており、木の根はその奥へと続いていた。
ドームの中へ足を踏み入れたフレヤは、目を見張る。そこは、極彩色の空間であった。
エメラルドに輝く塔が、天空に向かって聳え、そこから鮮やかな緑色の枝が、透明で巨大な葉へ延びている。そして、その新緑の緑に輝く塔は、色とりどりの花々に覆われていた。
アメジストの紫、サファイアの青、ルビーの赤、月長石の黄色、鮮やかな宝石のような色彩が、エメラルドグリーンの塔を飾る。光の滴を思わせる花びらが、塔の上方から降り注いでいた。
そのカレイドスコープのように輝く空間を、極彩色の鳥達が飛び交っている。地上は着飾った淑女を思わせる孔雀たちが、歩き回っていた。
透明な葉によって構成されたドームの内部は、丁度温室のような状態になっているようだ。温度は確実に外より高く、空気自体が重みを帯びているかのごとく湿気を持つ。
そこは、生命力に満ちあふれていた。おそらく、エルフの魔法が働いているせいであろう。花の色彩は、通常よりも遥かに鮮明であり、薫りも心を激しく引きつけるものがある。
エルフたちの居住区は、このエメラルドグリーンの幹を螺旋状に取り巻いて存在していた。木の幹の一番上には、枝に囲まれる形で、極彩色の花に彩られた宮殿が存在する。おそらく、エルフの王族が住まう場所だろう。
スノウホワイトにつれられ、ロキとフレヤは螺旋状に延びるエルフの街へ、入ってゆく。幹の近くは空気が流れており、意外と涼しく心地よい温度が保たれているようだ。
スノウホワイトが街に足を踏み入れたとたん、銀の鎧を身につけた衛士たちが出迎えに来る。エルフは、金属の装備を好まない。衛士の装備もシルクの服に、飾り細工のような銀の防具がつけられたもので、武器としては銀の短剣と、弓矢を持つ程度であった。
鋭い琥珀色の瞳を持った、女性の衛士がロキとフレヤの前に立つ。
「私が衛士長、アンバーナイトです。ロキ殿と、フレヤ殿ですね」
漆黒のロキは、礼をする。
「いかにも、私がロキ、そして、こちらが巨人族のフレヤ」
「あなた方は、我らが姫君の恩人です。賓客としてお迎えします。どうぞ、宮殿へお越し下さい」
スノウホワイトは、先に塔を昇っていった。ロキとフレヤは、衛士たちにつれられ、螺旋状の街を昇ってゆく。
闇を持たないこの世界に突如現れた影を思わせるロキと、天上世界から降臨した戦闘天使のようなフレヤは、エルフたちの好奇の的となった。螺旋状の市街には大きな枝に支えられている広場があり、そうした所には市が立っている。陶器の工芸品、鮮やかに染められたシルクの布、豊饒な薫りを漂わす香料、豊かな色彩の煙を放つ香が、色とりどりの花々のあいだに並べられていた。
その市には、金や銀の装身具で身を飾った、細身で長身のエルフたちが集まっている。エルフたちはあからさまにロキとフレヤを取り巻いたりはしないが、視線は明白に二人へ向けられていた。
凱旋する兵士のように市街を通り抜けたロキとフレヤは、宮殿の前に立つ。それは、宮殿というよりも、空中庭園のように見えた。
花々に飾られたテラスや、草木に囲まれた天蓋、植物と建物が一体化したその建造物は、それ自体が一つの庭園のようであり、森のようであり、巨大な一本の木のようでもある。その宮殿から長身の女性のエルフが姿を現す。後ろには、スノウホワイトを従えていた。
女性の衛士長アンバーナイトが跪く。どうやら、エルフの長らしい。
「ようこそ、我が城へ、ロキ殿。お久しゅうございます。心からのお礼を申し上げさせてもらいますわ」
「ここは変わらないようだな、シルバーシャドウ女王。礼には及ばない。ここに来る用があったまでのことだ」
エルフの女王シルバーシャドウは、スノウホワイトとよく似ている。しかし、ホワイトスノウと比べるとその美しさは、遥かに完成されたものであった。
その身につけた装身具は銀の髪かざりと、胸もとを飾るネックレスぐらいであり、女王としては質素にも思える。エルフはその居住空間や宮殿は豊かな色彩で飾るのを好むようであるが、身につけるものは白を基調としたものが多く、シルバーシャドウも同様であった。
しかし、身なりは質素であるものの、その繊細な骨格や滑らかな筋肉により構成された姿は、魔法的な生き物に特有の幻想的な美しさがある。エルフの女王であるシルバーシャドウの美しさには非の打ち所が無く、神の花園で密かに育てられた妖花を思わせた。
シルバーシャドウは、フレヤに目を向ける。
「巨人族のフレヤ殿、でしたわね」
フレヤは、晴れ渡る真冬の空のように青い瞳で、シルバーシャドウを見下ろした。
「あいにくと、記憶を失っている。あんたと会っていたとしても、憶えていない」
シルバーシャドウは、くすくすと笑った。
「気になさることは、ありません。さあ、こちらへ。ロキ殿、あなたの話を伺わねばなりませんね。なぜ、魔族の女王ヴェリンダ殿が人間に荷担しているのか」
死神のごとく黒衣のロキは、薄く笑った。
「ああ、こちらも教えて貰わねばな、ここにもたらされた黄金の林檎がどうなったかを」
シルバーシャドウによってテラスの一つにフレヤとロキは、案内された。元々透明な葉のドームで囲まれた空間であるここは、天候の影響を受ける事は無い為、壁や天井には単なる区切り以上の意味はないようだ。
剥き出しになっているテラスも、ここでは一つの部屋として扱われるらしい。シルバーシャドウはロキとフレヤに、向かい合った。
「ロキ殿、あなたは、ここに黄金の林檎を求めて来たと仰るのですか」
シルバーシャドウは、夜空に輝く月のように玲瓏と微笑むと言った。
「確かに私たちのもとに、人間の魔導師ラフレールが訪れたとき、彼は黄金の林檎を携えておりました。その力はあまりに危険なものであった為、私たちは魔導師ラフレールと共に封印したのです」
黒衣のロキは、蹲った夜のようにシルバーシャドウの前に腰を降ろしている。表情を変えぬまま、神の造った人造人間はエルフの女王に問いかけた。
「では、まだここに黄金の林檎はあると」
「いいえ、ラフレールは私たちの造った結界の内で、数百年に渡り眠り続けたのですが、つい数ヶ月前、目覚めたのです」
「ほう」
闇を纏ったロキは、白の長衣と銀の装身具を身につけたエルフに顔をよせる。
「数ヶ月前とは?」
「外の世界で夏が終わり、冬の訪れる前です」
ロキは、フレヤを振り返る。
「おまえの目覚めた時期だ、フレヤ。おそらくおまえの目覚めが、ラフレールを目覚めさせた」
フレヤは、どうでもいいといったふうに、肩を竦める。
「あるいは、逆かもしれません。ラフレールは自らが目覚めた理由を、こう語りましたから。邪龍ウロボロスの封印がとけたと」
「ウロボロスだと」
ロキの声に、驚愕が含まれていた。
「まさか。それが本当であれば、この妖精城は終末を迎えている」
シルバーシャドウは、落ち着いた声で応える。
「だからこそ、私の夫ペイルフレイムが封印しに向かったのです」
「いくら、ペイルフレイム殿が優れた魔導師とはいえ」
「おい」
黙って見下ろしていたフレヤが、唐突に口を挟む。
「なんだ、その邪龍ウロボロスとは」
ロキは、巨人を見上げる。
「かつて、聖なる神ヌースと、邪神グーヌが数億年に渡る戦いを行う前、グーヌ神は金星の牢獄に封印されていた。その金星の牢獄を覆っていたのが、ウロボロスだよ」
「神の牢獄の、門番ということか?」
「いや、門番は本来グーヌだったのだが。本当に封じられていたのは死せる女神フライアの死体だ。フライア神は死体と化しても尚、危険な存在だった為死の神サトスが強大な力のフィールドで覆った。それが、ウロボロスだ」
フレヤは、面白がっているような笑みを浮かべていた。
「少なくとも、一度はそのウロボロスは破られているのだろう。グーヌ神が金星から、地上へ降りてきたという事は」
「グーヌ神は黄金の林檎を使ったからな。ウロボロスの力は世界を根底から変容させる程、強大なものだ。ヌース神はかつてグーヌ神との戦いの中で、ウロボロスを制御してグーヌ神を封印しようとしたが、ヌース神の力を持ってしても、ウロボロスを制御する事は不可能だった。その時、ヌース神はこの世の終わりまで、ウロボロスを封じたはずだ」
シルバーシャドウは、水に映った月のように微笑みながら言った。
「だからこそ、ラフレールは目覚めたのです。終末がくる前に邪龍が目覚めたとなると、黄金の林檎が必要になるはずだと」
ロキの表情は変わらなかったが、その瞳は物思いに耽っているように曇っていた。
「バランスが、崩れ始めている。黄金の林檎が失われた為か」
「ロキ殿、今度はこちらから質問させていただきます。中原ではいったい、何が起こっているのです?」
「ラフレールがここに来たという事は、ある程度の話は聞いたのだろう。例えば魔族の暗黒王ガルンが聖樹ユグドラシルの元に封じられていた黄金の林檎を持ち去り、古の約定を破って中原を支配しようとしたこと等」
「ええ、魔導師ラフレールは偉大なる王エリウスⅢ世を助け、ガルンを倒し、黄金の林檎を奪い返したと」
「そこまでは、よかった。しかし、ラフレールの心に闇が忍びこんだ。ラフレールは黄金の林檎を聖樹ユグドラシルの元に返すことなく、姿を消している。私は、ラフレールの足跡を辿ってここへ来た」
「闇が忍び込んだと仰いますが、黄金の林檎を星船に乗せ、天上世界へと返す事は人間の滅亡を意味します。ラフレールの判断は、人間として当然でしょう」
ロキは、苛立たしげに目を光らす。シルバーシャドウは、笑みを絶やさずに続ける。
「いずれにせよ、私たちエルフは人間にも魔族にも荷担するつもりはありません。
私たちは友人としてラフレールを受け入れ、手助けをしただけです」
「判っている」
「暗黒王ガルンが中原を蹂躙したにしても、今の混乱は説明つきません。まず、ヴェリンダ殿の事を聞かせてください。なぜ、人間を家畜としか見なさない魔族が、自らの夫として人間を選んだのか」
ロキは、うんざりしたような目でシルバーシャドウを見る。
「ガルンは、自分が殺した先王の娘を幽閉した。それは、デルファイと呼ばれる場所らしい。その場所では、魔法を一切使えない。ガルンの死後、デルファイに幽閉されたままのヴェリンダを救う事ができなかった為、思いあまった現在の王が、ヴェリンダを救った者をヴェリンダの夫とするというふれを出した。そのヴェリンダを救ったのが、人間でありオーラの間者であるブラックソウルだ」
シルバーシャドウは少女のように、くすくす笑う。
「中原の王国は、そのオーラとトラウスに二分されているようですね。なぜ、そんな事になったのです?」
「元々、正統王朝がトラウスにあり、東のオーラに分家のクリスタル朝が存在した。
ガルンが王国を蹂躙した時に、最後までガルンと戦ったのがオーラであった為、王国を立て直す時にイニシャチブを握った。そのまま、本家を自分の支配下に置こうとしているのだよ」
シルバーシャドウは、神秘的な輝きを潜ませた瞳で、ロキを真っ直ぐ見つめる。
「まさか。王国の運営は、ロキ殿の管理下にあるはず。なぜ、そのような事が許されるのですか」
ロキは、真っ直ぐシルバーシャドウを見つめ返す。
「ロキとは、あなたも知ってるだろうが、ヌース神が造った模造人間だ。我々は全部で十三体存在する。我々の使命は、人間を指導し、星船を復活させる事にある。
我々は千年に一人目覚め、任務を遂行する。私の前のロキはガルンに殺された。その後に私が目覚めたのだが、なぜかその時目覚めたのは、私一人ではなかったのだ」
シルバーシャドウが、息を呑んだ。
「そんな事が?」
「どういう事故でそうなったのかは、判らない。もう一人のロキは、オーラに荷担し、中原を制圧するつもりだ。私は、もう一人のロキによって、王国を追放された身だ」
「はっ!」
フレヤが、笑い声をあげる。
「初耳だな。おまえが、追放者だったとはな」
ロキは肩を竦める。
「だから、私にはおまえの手助けが必要なのだよ、フレヤ」
シルバーシャドウが、ロキの手に自分の手を重ねる。
「ロキ殿。私たちはあなたの使命に手を貸すことは、できません。それは、古の約定に定められた事ですから。しかし、あなたも私たちの友人に変わりはありません。
とにかく、我が夫、ペイルフレイムとラフレール殿が戻られるまでお待ち下さい。
世界のバランスを取り戻す為であれば、ラフレール殿も協力して下さるでしょう」
ロキは、皮肉な笑みを見せる。
「だといいがな」
夜の支配者である月が、黄金の光で地を満たす。その夜は、闇で大地を覆うことを忘れたように、明るかった。
レンファ・コーネリウスは、明かりを灯すことを忘れてしまいそうな月の光が差し込む窓辺で、手紙を読んでいる。それは、彼女の従姉妹であるイリス・コーネリウスからの手紙であった。
イリスは、彼女が護衛としてつく事になった王子のことを書いている。伝説の偉大なる王の名を持つ王子、エリウスⅣ世のことを。
レンファは、酷く奇妙な感覚を抱いた。何百年も昔のサーガに語られているような英雄が、甦ろうとしている。
ふと、レンファの瞳が曇った。何かの気配が、外に感じられる。レンファは手紙を机に置き、引き出しから水晶剣を取り出した。
蜻蛉の羽根のように、薄い水晶の刃。手のひらに収まる程の大きさの水晶剣は、革の鞘へ収まっている。レンファはその剣を、左の手首につけると部屋の扉へと向かう。
屋敷の廊下は、しん、と静まり返っていた。この広い屋敷に、夜は彼女と彼女の父親であるジュリアス・コーネリウスの二人しかいない。
不用心ではあるが、片田舎の古びた屋敷に忍び込む物好きな賊は、いなかった。
特に剣の達人として有名なジュリアス・コーネリウスの屋敷ともなれば、むしろ避けて通るほどだ。
レンファは優美な曲線を描く階段を下り、玄関ホールへと向かう。月明かりの仄かな光に満たされた玄関ホールへ、レンファは降り立つ。
気配は、正面の扉の背後で酷く強まった。殺気に似たその気配に、レンファは思わず水晶剣を手のひらの中へ取り出す。
たん、と扉が空いた。黒装束の影のような男たちがばらばらとホールへ入ってくる。その数は、10人近くだ。顔を墨のようなもので黒く塗っているらしく、男達の表情は伺えない。
レンファは、水晶剣を放った。三日月型の透明な刃は、凍り付いた光のようにホールを飛ぶ。その剣はエルフの紡いだ絹糸で、レンファに操られる。
ごとり、と黒い影が薄暮に出現したように、肘から先の腕が床へ落ちた。腕を落とされた男は苦鳴を押し殺しながら、腕を拾い下がってゆく。
これで男たちは、丁度8人になったようだ。統率に乱れた様子もなく、レンファを取り囲む形で左右に展開する。
盗賊を相手にする時は惨く斬れ、というのが父の教えであった。訓練されていない夜盗の類は、それで怯み逃げていく。結果的に流す血は、少なくて済むことになる。
しかし、この男たちに乱れは無い。いわゆる野伏りというよりは、忍兵に近いようだ。それなら、別の手を取らねばならない。
レンファが父に学んだユンク流剣術というものは、単なる剣技のみに閉じたものではなかった。格闘術、諜報術、本草学、治癒術から魔道、呪術を含む総合技術体系である。
レンファは魔操糸と呼ばれる技を、使い始めた。魔道によってエルフの絹糸を操り、相手の動きを封じる技だ。できうる事なら男たちを生きたまま捕らえ、その意図を知りたいと思う。それに人を斬り殺す事に、レンファには躊躇いがある。人を斬ったことはあっても、殺したことは無い。
この男たちを相手にするのであれば、殺さねばならい。彼女の父ジュリアスならば、躊躇わずにそうするだろう。レンファは、それが嫌だった。
「やめろ」
一人の男が新たに戸口へ姿を現し、言い放った。その言葉に、糸を操るレンファの手が凍りつく。
新雪を思わす白い髪が、月の光の中に浮かび上がる。その手の中には、白い拳銃が握られていた。骨のように白い銃身を月光に晒す、拳銃。
レンファは拳銃を見るのは、初めてだった。一見似たような武器である、陶器の筒を火薬の力で発射する火砲は、拳銃と比べるとごく簡単な構造でできている。
拳銃は火砲とちがい、鉄の固まりであった。オーラにてロキの支配下におかれているという、アースローズ協会。そのアースローズが持つ古代の技術を利用して、初めて作り出される武器である。6発の弾を収容する弾倉には雷管がつけられており、その雷管が撃鉄により与えられる衝撃で発火して弾倉内の火薬に火をつけ弾丸を発する仕組みだ。
「あんたの剣より、おれの銃のほうが速い。お嬢さん、あんたに勝ち目は無いよ」
白髪の男の、言うとおりであった。殺すことを躊躇った瞬間に、レンファの敗北は決まっている。
彼女が拳銃を持った男を斬ろうとすれば、命を取るしかない。それができないのであれば、死ぬのはレンファのほうだ。
白髪の男が持つ白い拳銃から、妖気が立ち上るのを感じる。何らかの魔法が関与した武器である事は、間違いない。
「さて、まず剣を捨ててもらおうか、それから」
「やめておけ」
白髪の男は突然声をかけられ、階段の最上段を見上げる。そこにいる初老の男こそ、この館の主ジュリアス・コーネリウスであった。
白髪の男は、銃をコーネリウスへ向けようとする。
「既に、刃を風の中に潜ませてある。動けば首の血筋を裂く」
「はったりだろう」
銃を手にした男は、反論しつつも、動けなかった。レンファに気を取られ、ジュリアスの出現に気付かなかった時点で、白髪の男は敗北していたといっていい。
ジュリアスは、ゆっくりと階段を下ってゆく。痩せて長身のその老いた剣士は、未だ眼光鋭く、気力の衰えを感じさせない。猛禽のような殺気を漂わせ、ジュリアスはレンファの前に立つ。
ジュリアスは皮肉な笑みを見せ、白髪の男に語りかけた。
「久しぶりの客だ。手厚くもてなしたいところだが。儂がジュリアス・コーネリウスと知って、この屋敷に来たのだな」
「そうだ」
「名乗ってもらおうか」
少し躊躇いを見せる白髪の男に、ジュリアスは侮蔑の笑みを投げかけた。
「名乗れぬ程度の小物か、おまえは」
「おれの名は、ティエンロウだ」
ジュリアスは、満足げに頷く。ジュリアスの放つ威圧感は、部屋の空気を砂に変えてしまったようだ。ティエンロウと名乗った白髪の男は、少し息苦しげにため息をつく。
ジュリアスは、口の端を歪めて笑うと、語り始める。
「さて、ティエンロウ殿。おまえも儂の元に来るからには、ユンク流剣術の技を知っているのだろう。儂の技は不可視の水晶剣を高速で回転させ、空気の中に潜ませる技だ。この部屋の中には、既に十を越える刃を放ってある。一人でも動けば、おまえたちを殺す。よいな」
「嘘だ。剣など存在しない」
ティエンロウは、ジュリアスに反論する。しかし、既に主導権はジュリアスに握られていた。剣の有無に関わらず、ティエンロウは銃を撃てない。ジュリアスの実力を、見切れないためだ。
ティエンロウはジュリアスの術中に、はまりつつあった。
「確かに、儂は嘘をついてるのかもしれない。試してみるがいい、ティエンロウ殿。
引き金をひけ。儂の言葉が嘘ならば、儂が死ぬ。そうでなければ、お主が死ぬ」
ティエンロウの銃を持つ手に、緊張が走る。
「怯えておるな、ティエンロウ殿」
「違う!」
ジュリアスの言葉に思わず叫び返したティエンロウであるが、その言葉とは裏腹に、額へ汗が滲んでいる。ティエンロウは、術中に落ちた。
「恥じることは無い、ティエンロウ殿。恐れているのは儂も同じ。お主と儂の技は互角。まずは銃を下ろせ、ティエンロウ殿。そうすれば、儂も剣を収める。互いに武器を収めて、話し合おうではないか。ここで血を流すのは、儂の本意ではない」
ジュリアスは落ち着いて、誠実な口調で語りかける。ティエンロウの手が、少し震えた。
「さあ、ティエンロウ殿」
突然、闇の中に哄笑が響いた。闇の中から狼の笑みを浮かべた男が、姿を現す。
黒い髪の男が手を叩きながら、部屋へ入ってきた。ジュリアスは、ため息混じりで呟いた。
「ブラックソウル、おまえだったのか」
ブラックソウルは陽気といってもいい、口調でジュリアスに語りかけた。
「さすがだ、ジュリアス・コーネリウス!ティエンロウが銃を降ろすのと同時に、斬りつけるつもりだったな。いいねぇ、さすがは、おれの兄弟子だよ」
「おまえは破門された。ブラックソウル、儂はおまえの兄弟子ではない」
「相変わらず堅いねあんたは、コーネリウス殿。さて、あわよくばティエンロウだけで片づけられるかと思ったが、やっぱりあんたの相手はおれのようだ」
ジュリアスの顔から、表情が消えていた。黒い光のように放たれていた殺気も、すっかり影を潜めている。反対にブラックソウルは、とても楽しげだ。
「ブラックソウル、何の用だ。儂はもう神聖騎士団を退団してから、何年もたつ。
儂から得られるものなぞ、何も無い」
「これがやっかいな時代になってね、あんたの知ってる事が必要になったんだ。妖精城への道をね、教えてもらいに来たのさ」
ジュリアスの瞳が一瞬怪訝そうに、曇る。しかし、すぐに冬の冷気のような殺気が、甦ってきた。ブラックソウルの瞳がそれに応えるように、真夜中の太陽を思わす昏い輝きを放つ。
「無駄だ!コーネリウス殿」
ブラックソウルの両方の手から、闇色の虹のような光が放たれた。それは、澄んだ音をたて、空気中に潜んでいたジュリアスの水晶剣を跳ね飛ばす。
大気の中に水飛沫を散らしたように、薄い水晶の刃は闇色の光に回転を止められ姿を顕す。ジュリアスの水晶剣は撃ち落とされた蜻蛉のごとく、床へ落ちる。
ブラックソウルの両の手には、太陽が沈んだ後の昏い海を思わす深い闇色の剣が姿を現した。その昏い色の薄く小さな剣を見たジュリアスは、呻く。
「闇水晶剣を、両手であやつるとは」
闇水晶剣と呼ばれる、水晶剣よりさらに薄くさらに鋭い剣を操る技は、ユンク流剣術の究極奥義とされていた。その剣を操れる人間は、ユンク自身を除けば、その一番弟子であるケイン・アルフィスくらいのものである。
しかし、ケインにしても、一度に一つの闇水晶剣を操るのがやっとであった。闇水晶剣を操る為には、通常の水晶剣を使う時よりも、遥かに多大な精神集中を必要とする。
だが、使いこなしさえすれば、闇水晶剣は水晶剣の数倍の速度で空気を切り裂く。
又、その硬度においても、水晶剣を上回る。
全ての剣をたたき落とされた今、ジュリアスには戦う術が無かった。ブラックソウルは相変わらず、楽しげな笑みを浮かべている。
ジュリアスは敗北を知って尚、不敵な態度を崩さなかった。
「腕をあげたようだな、ブラックソウル。しかし、おまえにできることは、儂を殺すことだけだ。おまえに教えることなぞ、無い」
ブラックソウルは、宴を楽しむように微笑みながら剣を手首の鞘へ納め、指を鳴らして待機している兵士たちへ合図する。黒装束の男たちが、レンファを押さえつけた。
ブラックソウルは上機嫌で、ジュリアスへ語りかける。
「話したくないことを、教えてもらうやりかたは、色々ある。ユンク流剣術の体系の中にも、拷問術はある。しかし、おれは、おれ流でね」
ティエンロウが、押さえつけられたレンファの前に立つ。にやにやと笑うと、レンファの着物を引き裂いた。レンファの悲鳴が上がる。
「やめろ」
青白く燃える怒りを湛えた目で、ジュリアスはブラックソウルへ一歩踏み出す。
しかし、その体は魔操糸術に操られたエルフの絹糸で、絡めとられた。
「夜は長い。あんたの心が挫けるまで、ゆっくりやらせてもらうよ」
ブラックソウルは狼の笑みで、ジュリアスの眼差しに応えた。
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