妖精城のワルキューレ

憑木影

第1話

 天空に輝くサファイアを埋め込んだような、青い空が広がっている。空の高みは微かに昏く蒼ざめており、他界へ溶けこんでいくように見えた。

 黒い瞳の少年は、谷底を見おろす。大地に穿たれた傷痕のように見えるその谷の底には、少年の住む村、スターデイルと呼ばれる地がある。少年は振り向くと、尾根筋を、昇ってゆく。

 切り立った斜面を登り切った所に、開けた場所があった。そこは、太古の城壁に囲われている。少年は、その半ば崩れた城壁が、天空から見おろせば五芒星の形を成していることを、知っていた。

 少年は、崩れた壁の切れ目より、太古の遺跡の中へと入ってゆく。山上の風は少年の頬を、母親のように優しく撫でて通りすぎる。見渡せば、ミルプラトー山地と呼ばれる山々が、聳え立つ巨神のように回りを囲んでいた。

 城壁の中は、崩れかけたアーチや、円柱が並び、それらの間から木々の聳える、無秩序な庭園のようである。かつては、巨大な尖塔が立っていたであろう土台や、地下へつながる階段があちこちにあり、かなり規模の大きな城塞があったものと、想像できた。

 おそらく暗黒時代が訪れ、王国が崩壊する前の建物だと思われる。なぜこんな山上に城塞を築いたのか、今となっては、誰にも判らない。

 少年は瓦礫を乗り越え、中心部へと進んでいく。天空を疾駆し、魔物を駆り立てる武神の彫像が、半ば崩れ落ちた顔で少年を見おろす。大地を腕に抱く、地母神の彫像が、崩れおちた地面から少年を見上げる。

 辺りは色とりどりの、花や木の実に溢れており、今この城塞の主は、自然の草花や、小動物達であった。少年は、迷路となった庭園のような遺跡の中を、迷うことなく進んで行く。ここには、ある種の薬草をとる為、少年は何度も訪れている。

 その五芒星をなす廃虚の中心付近で、少年はめざす薬草を見つけた。少年が薬草に手を伸ばそうとした時、背後から声がかかった。

「そこに、誰かいるのか」

 少年は、ゆっくり振り向く。黒い、陽光を浴びて、ダーククリスタルのように輝く瞳が、背後の繁みを見つめた。その瞳は、茫洋として、夢見心地である。少年は、一歩踏み出す。星もなく、闇に閉ざされた夜空のように黒い髪が、風にゆれる。

 繁みの中には、確かに人の姿があった。その人は、身体に草花や、蔦がからみついており、植物の一部のように見える。

 少年は、ゆっくりと歩みより、その人影の前に立つ。口元に夢見るような笑みを浮かべ、春の日差しのように慈愛にみちた眼差しで、その人影を見おろす。その様は、公園でひっそり咲く小さな花を愛でる老人を、思わせた。

 繁みに埋もれた人影は、ゆっくり身をおこす。あちこち裂けた、風雨に晒され汚れたマントを身に纏った様は、立ち上がった廃虚のように見える。

 灰色の髪の下の顔は、傷痕のような深い皺に埋め尽くされた、老人のものであった。少年には、その男が、どれ程年老いているのか、見当もつかない。

 そして、その男の本来二つの眼があるべき場所には、闇夜のように昏く深い傷跡があるだけであった。その男の瞳は、何者かによって、あるいは、自らの手によって抉りとられている。

 その男は痩せ細り、皺に覆われた両の手に杖を持ち、立ち上がっていた。やさしい風が、男を慰めるように吹き抜け、その灰色の髪をゆらす。少年はただ茫洋とした笑みを浮かべ、男の前に立ち尽くしていた。

「そこに、誰かいるのだな」

 男は、独り言のように、繰り返した。

「あまり夢ばかり繰り返して見たせいで、幻と現実の区別がつかなくなった。いや、お前も私の夢、いや、この私が夢かもしれない。いや、いや」

 男は、意味不明のことを呟く。熱病に犯された者のように、男は呟き続けた。

「お前を見つけたということは、私の旅は終わったのか。いや、とっくに旅は終わっていたのだが、それでも私の枷ははずされなかった。いや、とっくに私は、捨て去られていた」

 男は、顔を少年に向けていった。

「名を、教えてくれ、お前の名を」

 少年は、素直な声で答えた。

「エリウス。エリウス・トン・トラディショナル」

 盲目の男の顔が、一瞬固まった。まるで、自分の問に対する答が、返ってくるべきでは無かった、とでもいうように。

「どうしたことだ、これは」

 盲目の男が、振り絞るようにして、ようやく口をきいた。

「こんな所で、古の偉大なる王の名を持つ者と出会うとは。そういうことか、そういうことだったのか!なんと恐ろしい」

 盲目の男は、力なく首を振る。その杖を持つ両手は、小刻みに震えていた。エリウスと名乗った少年は、闇色の髪を風に靡かせ、春の日差しのような笑みうかべたまま、小首をかしげる。

「エリウスよ、お前にこれを与えよう。おそらく、これは、お前が持つべきものだからな」

 盲目の男は、懐に手をいれると、金色に輝く指輪をとり出した。それは、夜空に輝く月の光を凝固させ造りあげたような、冴えた煌めきを持つ金属である。

 盲目の男は、無造作に指輪を手から落とした。エリウスは、水滴を手でうけるように、そっとその指輪を手の平に受ける。その黒曜石のごとき黒い瞳は、煌めく指輪を見つめ、闇色の宝石のように輝く。

「ゆけ、古の最も偉大な王の名を持つものよ。その名にふさわしい運命を、その指輪が与えてくれる」

 語り終えると、盲目の男は、力つきたように、元の繁みの中へうずくまった。再び、廃虚の一部と化したように、動かなくなる。おそらく、鳥や、野鼠がその頭の上を通りすぎても、その男は動かないだろうと、感じさせた。

 エリウスは、始めからその男が廃虚の一部であったかのように、その存在を受け入れ、振り返ると、薬草の収拾を始める。天空に輝く日差しは、ようやく真昼の訪れを告げていた。そして聳え立つ神々のような、蒼ざめた山々が、総てを見おろしている。


 イリス・コーネリウスは、もう一度、その部屋を見回す。そこは、家というよりは、小屋といったほうがふさわしい建物であった。木造のその家は、天井を霞のような蜘蛛の巣に被われ、壁と床は、そこらじゅうに置かれた鉢植えの花の為、むせ返るような色彩と香りに埋められている。

 イリスはこの家の主、オウランを待っていた。神聖騎士団に所属する証しとして、新雪のように清らかな白いマントを、身につけている。彼女の銀の髪は、少し暗い部屋の中で、微かに光を放つように浮かび上がって見えた。

「お待たせしました、騎士殿」

 後ろから声をかけられ、イリスは立ち上がった。この家の主であり、元王妃である女性は、戸口に立っている。背後から陽光を受け影になっている為、表情はよく判らないが、微笑んでいるらしい事は判った。

 イリスは優雅といってもいい仕草で、礼をとる。純白のマントが、衣擦れの音を立てた。オウランはゆっくりと部屋を横切り、イリスの前に立つ。

「あら、騎士の方とおっしゃるから、どんな方かと思ったら、かわいいお嬢さんでしたの」オウランの言葉に、イリスは顔をあげた。

 そこにいるのは、質素というよりは粗末な(少なくともイリスの目からは、そう見えた)服を身につけた、平凡な中年女性である。黒い髪は編んでまとめあげられているが、少し白いものが混じり痛んでいるように見えた。肌は野良仕事の為か、陽に焼け、指先の肌の荒れが目立つ。

 オウランはイリスの心を見通しているかのような、邪気のない黒い瞳で見つめている。笑みはあいかわらず、浮かべられたままだ。

「おかけください、騎士殿」

 オウランは腰をおろすと、イリスに声をかける。イリスは再度礼をすると、オウランの前に座った。

 元王妃であるはずの目の前の女性は、イリスの想像から大きく離れている。兄に謀反の嫌疑がかけられた事により、中央から追放された王妃。イリスの頭の中では、今目の前にいる女性と正反対のイメージが形成されていた。

 兄を陥穽により処刑し、自分を陰謀により王から引き離した中央の貴族達に対する怨念だけを糧にし、威厳と誇りだけを砦とした悲劇の女王。

 自分の予想を大きく裏切った、春先の日差しのような暖かい笑みを浮かべた女性が目の前にいる。イリスは、まさにこの家に相応しい主だと感じた。

「お訊きしていいですか、オウラン様」

「あら、なんでしょう」

「あなたの持つ領地は、確かに広いとはいえませんが、城を構えるだけの収入はあるはずです。なぜ、このような」

 オウランは、けらけらと笑った。

「気に入らないの?この部屋が。私は好きよ。この家も。この谷、スターデイルも。

城はあります。経営は、信頼できる人に任せているわ。私は、石の建物が嫌いなの」

 オウランは、少女を思わす無邪気さで語った。オウランにはそうした話し方が、よく似合う。イリスは思わず微笑み返して、頷いた。

「さあ、かわいらしい騎士さん。用件を仰ってくださいな」

 イリスは、顔から笑みを消し、騎士らしく青い瞳に冬の夜空の星のような冷たい光を宿し、語りはじめた。

「私は、エリウス様をお迎えにあがったのです」

 オウランは、戸惑った表情になる。

「何を仰るの」

「先だってのクライアス戦役で、第二王子キリアス様、第三王子カシアス様がなくなられました。今、エリウス様は、第三王位継承者です。それに相応しい教育が、必要です」

「あの子に王位継承権なんて、ありません」

「議会は先月エリウス様に王位継承権を復活させるよう、決定しました。よって私がここへ来たのです」

「何いってんだ!この嬢ちゃんは」いきなり後ろからイリスは怒鳴りつけられた。

イリスは表情を変えず、立ち上がる。その目には、冴えた光が湛えられたままだ。

「やめなさい、リンダ」

「いいえ、やめません」リンダとよばれた女性は、オウランと同い年くらいのでっぷりと太った女性である。リンダは、扉を開くと外を指さした。

「あなたは?」

 イリスの落ち着いた問いに、怒りで蒼ざめたリンダが答える。

「私は、オウラン様の侍女です。お帰りはこちらですよ、お嬢ちゃん。エリウス坊ちゃんを、あなたに渡したりするもんかね」

 イリスは誰にも気づかれることなく、水晶剣を放つ。長さ10センチほどの透明な水晶の剣は、超高速で回転しながら部屋の空気の中へ忍び込んでいく。紙より薄い水晶の刃は、肉眼で捉えられることなく、部屋の中を漂いはじめた。

 風使い、剣の達人ユンクの弟子であるイリスはそう呼ばれている。風の中に妖精の羽のように薄い刃を潜ませ、刃のひそんだ風によって相手の体を斬るのが、イリスの技だ。リンダは、イリスを掴みだそうとするかのように、一歩踏み出す。突然、オウランが立ち上がった。

「無礼であろうイリス・コーネリウス、我の前で剣を抜くとは。剣を収めよ。神聖騎士の名に相応しく振る舞うがいい」

 はっ、とイリスは振り向く。そこに立ちつくすオウランは、さっきまで微笑んでいた女性とは全く別人のように、気品と威厳に満ちている。

 そしてイリスは、戦慄を感じていた。彼女が剣を抜いた事は、オウランが気づくことは不可能なはずである。彼女以外のユンク流剣の使い手で、彼女の水晶剣を見る事ができるの者は、ユンク自身以外にはいなかった。

 糸を放ち、水晶剣をイリスはたぐりよせた。水晶剣が魔法のようにイリスの手に出現する。凍てついた湖を覆う氷の破片にも似たその剣を収めると、イリスは跪いた。

「お許しください、オウラン様」

「座りなさい、騎士さん」

 元の調子に戻ったオウランは、椅子を指し示す。イリスは、腰をおろしながら、オウランを見つめた。オウランはもう一度、微笑む。

「いいですか、騎士さん。私たちは、議会の決定により、罪人として王国の首都トラウスより追放された者です。その時点で、中央との関係は絶たれたはず。なぜ、今更、議会の命にしたがう必要があるのですか」

 今のオウランの笑みは、酷く哀しげに見える。

「放っておいて下さい。私たちを。あの子がトラウスへいっても、兄の二の舞になるだけですわ」

 イリスは、どうすべきか迷っていた。再びトラウスへ戻れるという話が歓迎されず、拒絶されるとは夢にも思っていなかったことだ。どうすれば、オウランを説得できるか思いつけない。

「騎士さん、ご存知だと思うけど、エリウスは5歳になるまで言葉を喋りませんでしたし、未だに読み書きはできません」

 イリスは、曖昧に頷いた。そのうわさは、聞いている。

「それはあの子にとって、言葉は必要ないものだからですわ。あの子は私たちが本を読むように、野や山を読んでいます。私たちが見る野山より、遥かに多くのものが溢れた野山を、あの子は見ているのよ。あの子の場所は、このスターデイルであって、トラウスではありません」

 イリスは、ようやく反論した。

「あなたは、自分の息子が王になれるかもしれないのに、羊飼いにしてしまうおつもりですか」

「山羊ですわ」

「え?」

 怪訝な顔をしたイリスへ、オウランは少しなげやりに言った。

「家で飼っているのは、山羊ですわ」

 イリスは、少し頬を赤らめ、立ち上がる。オウランは相変わらず優しげな笑みをうかべたまま、扉をさした。

「お帰りは、あちらから」

 イリスは、何かを言おうとして、やめた。一礼すると、出口へ向かう。リンダは満足げな笑みをうかべ、頭をさげた。

「もうこなくていいですよ、騎士の嬢ちゃん」

 叩きつけられるように閉ざされた、扉の音を背中で聞いて、イリスはため息をつく。


 風の強い、夜であった。エリウスは、部屋の窓から空を見上げる。夜の世界を統べる青ざめた女王である月が、冴え冴えとした水晶の輝きで、地上を照らす。 母オウランと、リンダはもう眠りについているはずであった。まるで深海の底のように、青く昏いスターデイルの中で、自分がたった一人目覚めているような気がする。

 強い風が木々を揺らし、悲鳴を上げさせた。頭上を巨獣のような黒い雲が、走り抜けていく。風は魔物のように、地上を駆け抜け、歌声をあげながら山上へと上っていった。

 そして風は、夢見る少女のような薔薇色のエリウスの頬を撫で、その漆黒の巻き毛をちりぢりにかき乱す。少年の黒曜石の瞳は、風の多少熱烈すぎる愛撫を無視し、手にした指輪を見つめている。

 そして、指輪が語りはじめた。

『おまえの心は、荒野のようだ、少年』「どういう、ことなの」

 指輪にむかって、少年は問いかける。

『おまえの心には、誰も住んでいない。おまえは、誰も見つめていない。おまえの住んでいる世界は、青空よりも高い虚空の彼方か?』「僕は、ここにいるよ」

『自由だなおまえは、少年。誰も触れる事のない、遥かなる高みにある荒野、その自由の荒野が、おまえの場所だよ』

 蒼ざめた夜空の女王の、輝く指先によって、少年の瞳は昏い宝石のように煌めき、黄金の指輪を映す。宮廷画家の描く天使のように、愛くるしい笑みをうかべたエリウスは、小首をかしげる。

「自由とは、なに?まるで僕は、触れるものも、見るものも無い世界にいるみたいだけど」

 指輪は、笑った。天空の星々が瞬くように、黄金の光の滴が跳ね飛ぶ。

『ああ、この世の煩わしき事々よ、おまえは、それらと関わっていないのさ』「君は、どうなの?えっと」

『指輪の王と、呼んでくれ』「指輪の王様、君は、自由じゃないの」

 指輪は、ため息をつく。黄金の輝きが、微かに曇った。

『私の体には、運命という名の鎖が、二重、三重にも巻かれている。おまえは、あの天空の高みにある星さ、エリウス。私は、地上に根を生やした木だろうよ』「運命というのは、何の事?君を僕にくれた人も、言ってたね。君が僕の名にふさわしい運命を、あたえるだろうって」

『それそれ、まさにそれだ。やれやれ、私が君に与えるって?いいや、君の中にある影を、光の中に引きずり出すだけの事』

 風の叫びは、ますます強くなる。千の魔女達が歌を詠いながら、谷間の中を駆けめぐっているようだ。そして夜空では、気高き蒼ざめた女王の下で、巨大な魔物のような黒い雲達が、狂乱の宴を開いている。

 そして、天上の星々がため息をもらすような美貌の少年は、そよ風のようにそっと笑う。まるで少年の周りだけ、風が凪いでいるかのように。

「何を引きずりだすって?影ならほら」少年は、水晶のような月の光によって床に浮かびあがっている、自分の影を指した。「ここにあるよ」

 指輪が輝きを、増した。見るものの心へ、狂気の欲望を呼び覚ますような、黄金の輝き。その光は、少年の黒曜石の瞳の中で煌めく。しかし、指輪のいうように、少年の心へはとどかない。

『おまえの心の中の影は、人を支配し、人を動かす為のもの。ようするにだ、私がおまえを、王にしてやろう』

 少年は、聖なる天使のように、にっこり微笑んだ。

「君と一緒かい?指輪の王様」

『私より遥かに偉大な王、私より遥かに気高い王、私より遥かに暴虐な王、それだよ、おまえがなるのは』

 天使の光を宿す少年の瞳の中で、指輪は狂乱の光を放ちつづける。

『誰もがいうだろうさ、おまえほどの王はいないと。高潔さにおいても、残虐さにおいても』

「ふーん」

 そういうと、少年は大きく欠伸をした。指輪を、懐へしまう。

「おやすみ、指輪の王様」

 やがて夜空で叫び続けた風たちは去っていき、蒼く冴えた月だけが残る。少年と指輪のやりとりを聞いていたのは、ただ彼女だけであった。


「大変です、オウラン様」

 嵐の過ぎ去った後の、穏やかな昼下がりであった。リンダが蒼ざめた顔で、部屋へ飛び込んでくる。オウランは縫い物の手を止め、ゆっくり立ち上がり玄関に立った。

 昨夜の強風が掃き清めたというかのように、青い空は無限の高みまで見透かせるほど透き通っている。澄んだガラスの輝きを思わす光が、空に残った雲の隙間から地上へ差していた。その光の下に、屍衣のごとく純白のマントを身に纏った者たちが佇んでいる。

 彼らは、のどかなスターデイルの田園風景の中に降り立った、ヌース神の戦闘機械である天使のようだ。ヌース神聖騎士団の精鋭6人が、オウランの目の前にいる。

その中には、昨日のイリス・コーネリウスもいた。

 彼らの騎士としての身分を現す純白のマント以外は、個性的な姿である。ある者は、深紅に染め上げた髪を空に向かって逆立て、またある者は、剃り上げた頭に色鮮やかな刺青を施していた。南国の浅黒い肌の者もいれば、死人のように蒼ざめた者もいる。

 人種も姿形もまちまちな者たちに共通しているのは、冬の夜空に煌めく星の光の冷たさを、その目に宿している事であった。

 一人が一歩前に出て、オウランの前に跪く。その者の額には、五芒星の刺青がある。

「ヌース神聖騎士団、ジャン・レヴィナスと申します。昨日は、イリスが失礼を致しました」

 オウランは、騎士たちを目の前にしても、変わらぬ笑みを見せる。

「いいえ、イリスさんは、とっても気持ちよくお話を聞いて下さいました。もう、何も言うことは、残ってないのよ、お若い騎士さん」

 オウランの言葉にも、ジャンの表情は変わらない。

「私も、何も話す事はありません。私どもは、ただの護衛ですから」

 オウランが、息を呑む。木陰から現れた、その人を見た為だ。騎乗のその人の動きに合わせ、騎士たちが道をあける。その人は、馬から降りると、オウランの前へ立った。

「久しぶりだね、オウラン」

 栗色の長髪をかき上げると、王テリオスがオウランの前に立つ。きらきらと輝くブラウンの瞳は、3千年の歴史を持つ王国の王としてはあまりに無垢であり、汚れを知らぬように見える。しかし、口元に浮かぶ笑みは、したたかで抜け目なく、しぶとい性格の持ち主のものだ。

 半ば少年、半ば老人のように見えるその王は、言葉を失ったオウランに悪戯っ子のように微笑みかけた。

「どうしたの、オウラン。もう、昔のように愛を囁いてはくれないの?」

 オウランの頬に、血が上る。それを見たテリオスは、ますます楽しげに笑った。

「怒ったね、オウラン。けど言っておくが、君を追放した時には私も若くて力がなかった。私の意志など、大した価値をもたなかったんだよ。まあ、今もそうなんだけどね。私は、今も昔も変わらず、君を愛しているよ」

「よく、そんなことが言えますね」

 オウランの顔は、赤みをとおりこして、蒼ざめている。テリオスは、両手を広げ、優しげに首を振った。

「まあ、怒るのはしかたない。でも、君を愛しているのは、事実だからしょうがないんだ。嘘のつけない性格でね。理不尽だと思うかい。そうだろうね。だいたい、何千年も続いた王国の政治なんて、理不尽の固まりみたいなもんさ。僕なんて、朝おきて眠るまで理不尽じゃないと思う事は、ないね」

 オウランは、一つ息をつく。そして、きっぱりと言った。

「私を愛しているなら、帰ってください。あなたの世界へ。あなた方の理不尽に巻き込まないで」

「そうしてもいい。しかし、僕には相変わらず大した力はない」

 テリオスはもう、笑っていない。

「君には、この谷を血で染める覚悟があるのか?」

 オウランは、寂しげに笑う。しばらく誰も、口を聞かなかった。春先の暖かな日差しが、あたりに満ちている。穏やかな風が、木々を揺らす。空高く、小鳥が囀る。

 オウランは、ようやく口をひらく。

「エリウスをお渡しします、お望みの通り」

「ありがとう、オウラン」

「ただ、私はここに残ります」

「馬鹿な」

 テリオスの顔が、曇る。

「なぜ、そんな事を」

「あの子は、必ずここへ帰ってきます。その時まで、ここを守っておく必要があります」

「待てよ、僕は君を愛している。僕はどうなる」

 オウランは、少しうんざりしたように言った。

「あなたも、一つくらいは、痛みを味わいなさい」

 そう言い終えると、背を向け家にむかって歩みだそうとした。その瞬間、オウランは、神の手で時を止められたように、動きを止める。いや、そこにいる者たちひとりのこらず、蒼ざめた竜の吐息によって凍りつかされたように、立ちすくんだ。

そして、世界そのものが息を呑んだように、静まりかえる。

 その時、家から歩み出てきたのは、エリウスであった。時の止まった世界でただ一人動いているように、王たちへ向かって歩いてくる。

 そこにいる者たちが凍りついたのは、その美貌の為だった。王国が3千年の時をかけ、丹精に育てあげた黒い夜の夢のような、その髪、その瞳。十五年間、エリウスを育ててきたオウランですら、いやオウランだからこそ、そのエリウスが別人ではないかと怪しんだ。

 その少年は、中原で最も古い王国がその昏い夢の中で育んだ、黒く妖しく美しい花である。血と死を吸い、黒い金剛石のような美しさを磨いてきた闇の薔薇。幼子のあどけない純真さを持ち、いかな修羅場をくぐり抜けてきた王でも持ちえないような、威厳が少年にはあった。

 そして、何よりその場にいた人々に畏怖を与えたのは、その漆黒の瞳の奥に映し出された黄金の輝きである。それは、魔族の与えた刻印のごとく、冥界の昏き闇に咲く黄金の花の煌めきが、その少年の瞳にはあった。

 その少年はまさにエリウスであったが、昨日までのエリウスとは別人である事は間違いない。

 テリオスは、一切の怪異を目に止めなかったように、目の前に来た王子に声をかける。

「やあ、我が子よ」

「出迎え、ご苦労です」

 その少年の言い方は、老いた者が若者をいたわるようであった。テリオスは、皮肉な笑みを浮かべる。

「おいで、坊や」

 テリオスは、少年を抱き上げ馬にのせる。その後ろに、テリオスが跨る。

「やあ、空がきれいだ」

 その少年の呟きに、一斉にため息がもれた。それは、いつもの十五歳の少年の声である。その姿は、オウランがいつも見慣れた、野山を駆け回る少年、エリウスのものであった。その瞳からは、死せる女神の血が一滴落とされたような、黄金の光は失われている。

 オウランは、首を振る。今しがた見た真昼の白昼夢を、振り払おうとするように。

テリオスの馬が歩きだし、白衣の騎士たちがそれに続く。

 いつも通りの、穏やかな昼下がりであった。


 イリスは、エリウスをつれ、師ユンクのもとを訪れた。ユンクの家は、小高い丘陵の頂上にある、雑木林に囲まれた小さな小屋である。そこから、トラウスの象徴ともいえる、大樹ユグドラシルが見えた。その木の頂きは、蒼く広がる空の高みの彼方へと溶け込んでいるように見えるほど、高い。そしてその枝の広がりも、それ自体が広大で鬱蒼とした森林となり、輝くばかりに蒼い春の空に暗緑の雲のように浮かび上がっていた。あたかも、天空に浮かぶ巨大な飛空島のようである。

 円弧を描いて王都を囲む山稜を、超える高さで聳える巨大な大樹ユグドラシル。

それは、王国が建国される時に、黄金の林檎を祀った地の周りに、黄金の林檎を封じる結界を示す意味で植えた木が、結界から漏れる力を受け巨大化したものである。

 山々の稜線を超え、空を支える巨人のように聳える木を見たものは、畏怖の念を持たずにはおれない。偶像を禁じるヌース教団は、ヌース神の神像も、聖画も持たないが、空を目指す聖樹はまさに教団の象徴であった。

 小屋は蔦に覆われ、庭には花々が植えられている。その小屋の薄暗い部屋に入ったとたん、目を引くのは積み上げられた大量の本であった。王国が繁栄していた時期であればともかく、東西に王朝が分裂し戦乱の時代となった今、本は高価なものである。それが、無造作に置かれているのは、宝の山を放置しているのに等しい。

薄暗い部屋の中でそれらの本は、かつての王国の繁栄の時代を華麗なる夢として見ながら、そっと微睡んでいるようだ。

 又、部屋の中には色々な魔法に関係しているのであろうと思われる、異国の彫像や図版が飾られている。諸国を放浪していた時代に蒐集したものであろうが、イリスの目から見てどれほど貴重なものか見当もつかない。それらの彫像や図版がもつ象徴的な神秘性が、この部屋を一つの異世界の小宇宙に変化させているかのようだ。

 エリウスは、珍しげに部屋の中を見回している。ユンクは、陶器のティーセットを持って部屋へ入ってきた。白磁のシンプルなデザインの茶器を、木のテーブルに置く。この部屋の家具や小物は皆古く、様々な時代の臭いと使い込まれた物特有の落ち着きを持っており、あたかも持ち主の体の一部であるようだ。

 灰色の長衣を纏った、長身の痩せた老人、それがユンクである。ユンクは豊かな髭を蓄えた顔に優しげな笑みを浮かべ、骨のように白い椀に茶をそそいだ。

「下男のジョーイに暇をやってな。儂のもてなしでは行き届かんが」

 師に茶をつがせたイリスは恐縮して、詫びる。ユンクは、笑って楽しげに茶の支度を終えた。濃厚な茶の薫りが、優しく部屋を満たしていく。

 ユンクは目つきこそ鋭いが、その佇まいは学者か魔道士に見える。ユンクは、興味深そうにエリウスを見た。

「それで、その王子を儂が預かるという事だね」

 イリスは頷く。エリウスはにこにこと、ユンクを見ていた。ユンクと王テリオスは、親友と言われている。実際のところはともかくとして、ユンクが王の剣術指南役である事は間違いない。

 その為、テリオスの息子たちは皆、ユンクに剣の指導を受けるのが習わしとなっている。テリオスの息子たちが、どの程度ユンクの技を使えるのかは、判らない。

ただ、ユンクに技を教わったいう事実が、ある種のブランドとして受け入れられるのも事実であった。

 ユンクは穏やかに笑いながら、エリウスを見る。

「エリウスという名の王子を、儂が教えられるとも思えんが、まぁ、預かってみよう。王子よ、暫く共に暮らすことになる。宜しくな」

 エリウスという名は王国を建国した王の名であり、かってにつけられる名ではない。ヌース教団の神官の神託があった時に、その名が与えられる。

 その最も偉大な王の名を持つ少年は、呑気な顔で微笑むばかりだ。イリスは、あきれ顔でため息をつく。神聖騎士としてエリウスの守り役となったものの、これほど利発さに縁の無い子供も珍しいと思っていた。たいていは、日向で微睡む猫のようにぼんやりとしており、声をかけても夢から呼び戻された時のような受け答えしかできない。オウランのいった通り、山羊の番をさせておくのが正解だったようだ。

「それでは、王子殿、さっそくだが練習に入ろうか」

 ユンクは立ち上がる。イリスに促されたエリウスは、ユンクの後に続き部屋を出た。

 そこは、しん、として広い部屋である。磨き上げられた木の床が、天窓から差し込む春の日差しを受け輝いていた。何も置かれていない、ただ広いだけのその部屋は、どうやら練習場らしい。

 ユンクは、壁にかかっている木剣をとり茫洋と突っ立っているエリウスに、手渡した。エリウスは黒い宝石のような目で、木剣を見る。

「振ってごらん」

 ユンクの言葉を受け、エリウスは無造作に剣を振る。ユンクはエリウスの手足をとり、素振りのしかたを教えた。

「まずは、筋肉をつけることから始めよう。左手と右手、それぞれ千回ずつ振りなさい」

 エリウスは頷くと、せっせと振り始める。ユンクは目でイリスを促し、練習場を共に出た。

 丘を下る坂道を、ユンクとイリスが共に歩む。春の風が豊満な女性の抱擁のように、柔らかく、暖かく、二人を包み込む。

「十五だったかね、王子は」

 ユンクは、楽しげに言った。

「ええ、でも、頭の中は六つでしょうね」

 イリスの言葉にユンクは、喉の奥で笑った。

「すみません、先生。悪い子ではないんですが」

「おまえが謝ることでは無い、イリス。儂は結構、興味を持っている。何しろエリウスという名を賜っておるのだからな。楽しみだよ」

 イリスはため息をつく。

「それにしてもなぜ、オウラン様は王都へ戻られなかったのでしょう。あの子を一人にして不安でしょうに」

「正しい判断だよ。トラディショナル家は深い怨念を持っている。オウランが王妃として中央へ戻れば間違いなく、権力闘争の駒として、利用しようとするだろう。

スターデイルに留まったのは英断といってもいい。

 エリウスがあの様子では、トラディショナル家も扱いかねるだろう。ただ、オウランが中央にいれば、そうもいくまい」

 イリスは肩を竦める。頭では判っても、気持ちで理解できない気がした。

「それよりも、オーラの様子はどうだね」

 分裂したもう一方の王朝、クリスタル家のアリエス・クリスタル・アルクスル王を擁立した東の大国オーラは戦乱の中原を平定する為、西へと軍を進めている。

「もう、中原の三分の二はオーラに制圧されました。残りもオーラに逆らう力は、残っていません。時間の問題ですね。トラウスが落ちるのは」

「ブラックソウルも、いよいよ中原を制覇するか。しかし、それで奴が満たされるとも思えんがな」

 イリスは寂しく笑う。師にとって気になるのは、王国の行く末ではなく、破門したかつての弟子のことのようだ。かつて一番弟子とよばれたブラックソウルとも、オーラの参謀となった今では、二度会うことは叶わぬであろうが。

「ああ、それと先生、ケイン・アルフィスが帰ってきます。ケインならもっと詳しい話をしてくれますよ。オーラの首都、クリスタル市にもいったそうですし」

「ほう、ケインがね」

 今の一番弟子の名を聞き、ユンクは目を眩しげに細めた。


 イリスを送り終え、練習場に戻ったユンクは、エリウスを見てさすがに唸り声をあげた。十五の少年は、木剣を放り出し、春の女神の愛撫のような優しい日差しを受け、すやすやと寝息を立てている。

 ユンクは木の床に大の字になったエリウスを、上から見下ろす。少年は口づけを待って微睡む王女のように、美しい。

 ユンクの気配を感じてはっと目ざめたエリウスは、抱きしめたくなるくらい愛くるしい笑みを浮かべ、起きあがった。

「お帰りなさい、先生」

 天使を描いた聖画から抜け出したようなエリウスの美しい瞳に見つめられ、ユンクは言葉につまった。

「その、素振りはどうしたのかな、王子。終わったとも思えんが」

「はい」

 満面に笑みを浮かべて、エリウスが応える。

「途中で何回振ったのか判らなくなって、思い出そうと考えているうちに、寝てしまいました」

 ユンクは、さすがに笑うしかなかった。ははは、と声がもれる。それに、エリウスが応えて笑う。ユンクは突然、馬鹿馬鹿しくなった。

「王子、剣の練習は、終わりにしよう。来なさい」

 夢見心地の笑みを浮かべた少年は、ユンクの後に続く。

 ユンクの部屋へ来た少年は、ユンクの前に腰を降ろす。その、汚れない黒曜石の瞳を持つ少年の前に、ユンクは一片の水晶のナイフを出した。

 エリウスは三日月の形をした水晶片を、手に取る。蜻蛉の羽のように薄い刃は、触れただけで手を裂きそうだ。水晶は澄んだ湖の氷のように透明であり、真冬の月のように冷たい光を放つ。

 一方の端に穴があり、蜘蛛の糸のように細い絹糸が通されていた。エリウスは月の光を手中に持ったようにそのナイフを持ち、黒い瞳で見つめる。

 ユンクは、水晶に魅入られた少年に語りかけた。

「それが、水晶剣だ。儂の剣術はその剣を操る剣術なんだよ、王子。おまえの兄たちにも、その剣を与えてきた。儂のもとで練習を積み、儂の術を身につけた証しとしてな。

 ただ、王子、おまえには今この場でその剣を与えよう」

 エリウスは、嬉しそうにユンクを見る。

「もらっていいの?」

「ああ、おまえに、教えることはなさそうだからな。おまえを半年の間預かることになっている。王子、その間好きにすごせ。儂も好きにさせてもらう。ああ、この本も渡しておこう」

 ユンクは一冊の革張りの本を、積み上げた山の中から見つけてきた。エリウスは、本を開いて見る。

 そこにあるのは、一見無意味に並んだ様々な色の点であった。無数の彩色されたガラスの破片を、紙に撒き散らしたようだ。それをしばらく見つめているうちに、遠くのものを見つめているうちにだんだん焦点があってくる時のように、次第に画像が見えてくる。

「へぇ」

 エリウスが思わず感嘆の声を漏らす。そこには、様々な曲線をからみつかせた螺旋体が立体的に浮かびあがっていた。無数の色彩が流れるように、その螺旋体を彩っている。それは、手を触れれば、さわれそうなほど、リアリティを持った虚像だった。そしてその複雑で幾何学的な螺旋体は、見つめれば見つめる程、緻密でリアルになっていく。エリウスの黒い瞳の凝視の下で、色は鮮やかさをまし、形は鋭さをましていった。

「それはな、儂がナーガルージュの元で修行していた時に見つけ出した、ホロンというアシュバータという国の言語だ。その言語で思考する事によって、別の時間流の中へと入れる」

「別の時間流?」

「そうだ。通常の言語では脳内の機能が十分に活用されない。ホロンは脳の機能を最大限引き出す為の、言語だ。図形のように見えるホロン言語一文字が、一冊の本に匹敵する程の情報を持っている。しかもその言語は、通常の言語のように意味されるものと分離していない」

 エリウスは、不思議そうにユンクを見ている。ユンクは、苦笑した。

「王子、おまえにこんな事を教えてもしようがないのかも、しれん。ただ、おまえの兄たちと別扱いをするのもどうかと思うのでな。

 たとえば、犬ということばは、『いぬ』という音が犬を指すという事を知らねば、ただの音と変わらない。そのことばに意味されるものを教えられて初めて、『いぬ』という音に意味が与えられる。

 ホロンは脳に直接作用し、その映像を作り出す。例えば、犬を意味する図形に意識を集中していると、次第にその図形が細密になっていき、最後には犬の形をとる。

図形はそれが指す対象を要約したものであるが、対象そのもののデータを内包しているのだ。

 おまえが見ているそのページには、一つの世界が内包されているといってもいい。

そこに立ち現れる図形には、膨大な情報が内包されている。又、一つのホロン言語を読むと、一つの世界が脳の内部へと展開されるといってもいいだろう。

 つまり、ホロン言語を使用すると単位時間で処理される情報量が通常の言語と比べ、飛躍的に増大する。単位時間あたりの処理される情報量が増えるという事は、時間が早く流れるというのと同様の意味だ。

 高速の思考を行う者が、通常の速度で思考を行う者と戦った場合、高速の思考を行う者が必ず勝利する。儂の剣術は、速さにおいて他を圧倒する」

 ユンクは自らの与えた本を、じっと見入っているエリウスを不思議そうに見つめた。ホロン言語は、容易に理解できるものではない。ユンク自身、その無数の点から図形が見えるようになるまで、一年はかかっている。天才というべきブラックソウルは、数日で見えるようになったが。

「王子、おまえそこに画像が見えているのか」

 本に見入ったまま、エリウスは頷く。ふと、エリウスは顔をあげると言った。

「先生、僕の名前は王子じゃなくて、エリウスだよ」

 ユンクは苦笑した。

「判った。これからは、王子ではなく、エリウスと呼ぼう」


 それから数日後、ユンクは所用で一週間の旅に出た。ユンクの下男はまだ見つかっていない為、ユンクの小屋の家事はエリウスが一通りこなしている。エリウスは、ユンクの飼っている家畜の世話や、ユンクの持つ畑の手入れをしながら師の帰りを待った。

 明日、ユンクが帰るという日の昼下がり、一人の男が小屋を訪れる。その男は、ケインと名乗った。目つきが鋭く、荒削りの顔立ちをした男である。凛とした緊張感を、周りの空気に纏った男であった。

「そうか、先生は明日帰るのか」

 ケインはそういうと、闇に咲く花のような美貌を持った少年を、感心して見つめた。昏い麻薬の夢の中にあらわれる、幻覚の妖花を思わせる美しさだ。

(この子供がエリウス王子か)

 伝説の王の名を持つその少年は、茫洋と霞のかかったような瞳でこちらを見ており、なんとも捉え所がない。まるで美しさゆえ神の寵愛をうけ、すべての苦痛から解き放たれたような呑気さに見える。

「じゃあ、ここに泊めてもらって待たせてもらおうか」

 エリウスは頷くと、部屋へケインを招きいれる。ケインのほうが心配になる程、警戒心がない少年だった。

 客用の部屋へケインを案内すると、エリウスは出ていこうとする。それを、ケインは呼び止めた。

「なあ、王子」

 エリウスは、首を振る。

「僕は、エリウスです」

 ケインは苦笑する。

「じゃあ、エリウス。少し、話しをしないか」

 エリウスは、困った顔をする。

「朝しかけておいた、罠の様子を見に行きたいんだけど。兎が掛かっているかもしれないし。罠にかかっていれば、今晩ごちそうできますよ」

 ケインは中原で最も古い王国の王子に、晩御飯の支度をさせていいものかと一瞬考えた。結局、とやかくこだわらない事にする。

「判った、エリウス。それじゃあ、一緒に罠を見に行っていいかな」

 エリウスが頷く。二人は一緒に罠を見にいくことと、なった。


 エリウスは、丘を下ったところにある森の中へ入って行く。エリウスは、道らしいものが無い森の茂みの中を、驚くような速さで進んで行った。ケインは、もしも一人とり残されたら、帰れる自身はないなと思う。

(一体この子は、何を目印にしているのやら)

 ケインは人がとうてい通らぬような森の奥へ入っていくエリウスを見て、そう思った。ふと、ケインはいやな気配を、感じる。人の入らぬ森の奥には、古い魔族の遺跡などに、妖魔が棲家を作っていることがたまにあった。

 そうした場所へ踏み込むと、魔法的生命体である妖魔に取り殺される事がある。

どうも、この気配はそんな感じだ。悪夢の中で出会う夢魔たちの、非現実的な恐怖と背徳の薫り。

 突然、エリウスが立ち止まる。

「今日は、濃いな」

 エリウスの呟きを聞いて、ケインはあきれた。

(こんな危なそうなところを、よく通っているのかよ)

 しばらくして、薄く霧が出てくる。魔法によって生み出されたような、邪悪な意志を感じる霧だった。霧は異様な気配を内に秘め、景色から色を奪っていく。ケインは、手首につけた水晶剣を鞘から出し、手の中へ降ろした。

(剣が役にたつか、判らんが)

 気配が、どんどん濃くなっていく。時空間が横滑りし、まるで夢の中のように非現実的な世界へと、足を踏み入れてしまった気分になる。無形で不可視の妖魔たちが、全身に絡みついているようだ。

 やがて、女の子の笑い声が聞こえてきた。遠くで鈴の音が鳴るように、きらきらとした笑い声がする。

 ケインは覚悟した。霧の奥で光が見える。その周囲に独特の異様な気配が漂う。

妖魔らしい。いわゆるダークフェアリーと呼ばれる種族だ。

 光は、蒼く輝く軌跡を描きながら、高速で移動している。光の線が、一瞬現れ消えていく。あたかも白い宇宙を駆け抜ける、蒼ざめた流星のように。

 ダークフェアリーは、体長十センチ程の虫である。ただ、その体は人間の少女に驚く程似ており、少女の笑い声のような音で鳴く。その全身はたいてい蒼く、発光している。

 ダークフェアリーは魔法的生命であり、人を魔法的空間に迷い込ませ、歩き回らせて弱ったところで血を吸う。ただ、剣で斬ることにより、殺せた。もっとも、稲妻が走るようなそのスピードに、剣が追いつけばの話であるが。

(やるしかないか)

 ケインは、高速世界の感覚を呼び覚まそうとする。ホロン言語によってもたらされる超速の世界。その世界に身を置いた時にこそ、ダークフェアリーを斬れるだろう。ただ、ユンクの一番弟子といわれるケインにしても、一か八かの賭であった。

 ケインの周りの空気が、突然液体に変わったように重くなる。ケインの中で世界が変貌しつつあるその瞬間、エリウスの体から一瞬光が疾った。

(え?)

 ケインは、我が目を疑った。エリウスの体から発せられ、白い霧に包まれた森の空気を、閃光となって貫いたそれは、まぎれもなく水晶剣である。白い霧を裂いて飛んだ、その紙より薄い水晶の刃は途轍もなく速かった。もしもケイン自身が超速の世界へ移行しつつある時でなければ、とてもその光は見えなかっただろう。

 高速で移動していた蒼い光は突然途切れ、笑い声も消えた。エリウスの発した水晶剣が、ダークフェアリーを斬ったらしい。

 霧が晴れていき、邪悪な気配が消えた。水槽から水が流れ出していくように、あたりから白い霧が消え、木々に色が戻ってくる。エリウスが何事もなかったように、歩きだす。散歩の途中でちょっと犬に吠えかけられた程度にしか、感じていないようだ。

(まいったな)

 ケインは心の中で呟いた。エリウスもユンクの弟子であるから、水晶剣を使うのも不思議は無い。ただ、イリスに聞いたかぎりでは、弟子入りして、半月ほどのはずである。

(こいつの剣は、おれより速いかもしれねぇ)

 もしも、そうであれば、怪物といってもいい。まさに、伝説の王の名に相応しい少年である。

(ブラックソウルを超えるかもしれないな)

 ケインは、この少年を確かめて見たくなった。


 その夜、王子の作った兎の料理に舌鼓をうった後、ケインはおもむろに言った。

「なぁ、エリウス。食後の腹ごなしに、剣の練習につきあってくれないか」

 エリウスは、少し困った顔をする。

「剣は僕、習ってないから」

 ケインは、目を剥いた。

「おまえ、ここに剣を習いに来てるんじゃないのか?」

 エリウスはにっこり笑うと、頷く。

「僕はここで毎日、先生の身の回りの世話と、家畜の世話と、畑の手入れと、食事の支度をしてるよ」

 ケインは、眩暈を感じた。

(下働きをしながら、あれほどの技を身につけたってのか)

 ケインは立ち上がる。

「まぁ、いいから道場へ来い」

 エリウスは、素直にしたがう。


 練習場で、ケインとエリウスは対面して立った。その右腕には、赤い布を巻いている。二人の間の距離は、5メートルといったところか。

 ケインは、エリウスに説明する。

「いいか、水晶剣で、右腕につけた布を斬るんだ。速いほうが勝ちだ。簡単だろ。

判ったかい」

 少年は、夢見るような黒曜石の瞳でケインを見つめ、頷く。すでに陽は落ち、煌々と輝く満月が、練習場に黄金の光を落としている。その月の輝きの下で、最も偉大な王の名を持つ少年は、伝説の詩歌から抜け出したような美貌にあどけない笑みを浮かべ、佇んでいた。月は少年の黒く艶やかな髪を愛でるように、光で愛撫する。

 ケインは、白い布を取り出した。

「この布が床に落ちた時から、始める」

 ふわっ、と白い布が月の光を身に集め、宙に舞う。月光の中で真白き妖精が舞うように、布はゆっくりと落ちていく。ケインの意識の中で、その月の光で輝く布の動きが止まった。

 世界がガラスでできた水で満たされたように、清冽で透明な空気に変わる。月光の粒子が、無数の砂金が降り注ぐように、ゆっくりと舞い落ちていく。影が蒼ざめた光を帯びたように、薄く輝いていた。

 白い鳥がゆっくり舞い降りるように、布は床へ落ちる。ケインは海底にいるように、重たい左手を動かす。透明な光を凝固させたような水晶剣が、液体化したような空気を裂いて走る。

 実際には、肉眼で捉えられぬ程の高速で移動している剣であるが、ケインの意識の中では這うような動きであった。そして、ケインはエリウスも同様に水晶の欠片を放ったのを見る。

 エリウスの放った水晶剣は、月の光を跳ね散らし、凍った風のようにケインの右腕を目指して疾った。その速度はケインの剣より多少、速そうだ。

 ケインは指を動かし、水晶剣の角度を変える。透明な刃は魚が身を翻すように、重い液状の空気の中で方向を変えた。

 ケインの水晶剣は、エリウスの剣に繋がる糸を目指す。糸さえ斬ってしまえば、水晶の破片はコントロールを失い、彼方へと飛んでいく。

 ケインの刃がエリウスの糸に触れようとした瞬間、エリウスの水晶剣も軌道を変えた。二振りの剣は、風の精霊が乱舞するように、煌めく月光の滴を跳ね散らしながら、練習場の中を飛び回る。

 ケインは次第にエリウスを追いつめていく手応えを、感じていた。速度では多少落ちるかもしれないが、剣の扱いについてはケインのほうが上である。

 ケインが糸を斬れると思った瞬間、エリウスの水晶剣はケインの想像を遥かに超える速さで身を翻す。水晶片は煌めく風となり、ケインの右腕へ向かった。

 避けられる速さでは、無い。ケインの右腕につけた赤い布が血飛沫のように、ふわっと宙を舞う。ケインの意識は、通常の速度に戻っていく。

 ケインはエリウスを見て、愕然とした。その瞳には、金色の光が宿っている。それは、断じて月の光を受けて輝いているのでは無く、魔族の魔法の力を秘めた輝きであった。

 突然、その煌めきは消え、エリウスは元の平凡な少年に戻る。黒い瞳の中には、何もない。ケインは、白昼夢を見た気分になる。

(何かの間違いだったか)

 心の中で呟くケインに向かって、エリウスは微笑みかける。

「僕の勝ちなの?」

 ケインは放心したように、頷いた。


 翌日、日が暮れてからユンクは小屋へ戻った。エリウスの用意した晩餐を共にしながら、ケインは諸国を旅して得た情報をユンクへ語る。

 一通り語り終えたケインは、おもむろに切り出した。

「先生、私は巨人を見ましたよ」

 ユンクは、少し片方の眉をあげる。テーブルにはエリウスのいれた茶が置かれていた。

「巨人?巨人というと、まさか伝説にでてくるあの巨人か?」

 巨人はまだ人間が地上に現れる前、邪神グーヌと共に星船に乗って地上へ訪れたと伝説で語られている。その伝説、あるいは神話と呼ぶべきものは、ヌース教団の教義の中でも同様に語られるものであるが、それを言葉通りに信じるものは少ない。

「伝説の巨人なのかどうかは、判りませんが、少なくとも見た目は伝説通りでしたね」

 そして、ケインは語り始める。北方の辺境、ライゴールで出会った出来事を。ケインはその友、ジークと共にライゴールにある伝説の地下宮殿、ナイトフレイムに侵入する。そこで見たものは、暗黒の邪神ゴラース、オーラの参謀にしてユンクの元弟子であるブラックソウル、そして伝説の巨人戦士であり女神の化身のような美貌を持つフレヤであった。

 その奇妙な、真冬の夜に見る寒々とした悪夢のような物語に、ユンクはため息をつく。ケインの語ったフレヤという巨人は、荒野を吹きすさぶ凍った風のようだ。

「しかし、巨人が甦ったとなると、神話の時代の再来を予感させるな」

 ユンクは、独り言のように呟く。

「神話の時代ですか」

「ああ。かつて王国を建国したのは巨人フレヤと黒衣のロキ。そして」

 ユンクは傍らで無邪気に微笑む、エリウスに視線を投げかける。濡れたように黒く輝く巻き毛を額にたらし、薔薇の花びらのような唇に夢見る笑みを浮かべたその少年は、ケインへ無意味に笑みを投げかけた。

「エリウス一世。この子と同じ名を持つ、最も偉大な王。神話で語られる、ヌース神、グーヌ神、魔族との約定が結ばれたあの時代の役者が、ほぼ揃った事になる」

 ケインは、肩を竦める。

「それは、何を意味してるんでしょう。神々の約定が終わりをつげ、再び聖なるヌースと邪神グーヌの戦いが始まるのでしょうか。神話の中で語られるように、真白き凶天使たちが破滅の刃を掲げ地上へ降臨し、漆黒の魔族の駆る龍たちと、地上を焼き尽くす戦いを始めるのでしょうか」

 ユンクは、ゆっくり首を振る。不思議な笑みがその口元に、湛えられていた。

「いや、そうはなるまい。むしろ逆。神々の支配が終わりを告げる時が、近づいているような気がする」

 ケインは、驚いたように、片方の眉を上げる。ユンクは続けた。

「かつて、黄金の林檎を天上へ返す為に、王国が建国された。もしも、今のように黄金の林檎が失われた状態が続き、ついにはそれが永遠に失われれば、神々はこの地上から姿を消すだろう」

「そんなことが、ありますかね」

 ケインは、不思議そうに言った。

「巨人と黄金の林檎は、今は分かれているが本来は一体のものだ。かつて黄金の林檎が封印された時、巨人も眠りについた。今度、黄金の林檎と巨人が一体化した時、先程おまえが語った真冬の嵐のような巨人がどう振る舞うか、想像がつかんな」

 ふう、とケインは息をつく。

「つまり、黄金の林檎が封印されていたのは、巨人が眠っていたからですか。もし、あの巨人が起きた状態で黄金の林檎と一体化すれば、伝説の林檎は永遠に失われると」

 ケインの問いに、ユンクは応えず、ただ微笑んだ。

「それはともかく、先生。話が変わりますが、よくこの王子を、短期間で見事な剣士に育てましたね」

 ユンクの顔から、笑みが消える。突然目の前で妖精が踊りだしたかのように、ユンクの目が驚愕に見開かれた。

「何だって、ケイン。何と言った?」

 ケインはユンクの驚きに、戸惑った。

「いやその、先生の帰られる前に、試合をさせてもらったんですよ。王子と。見事に、負けてしまいました」

 ユンクは、暫く言葉を失ったように、口を開け、ケインとエリウスを見比べた。

ケインは怪訝な顔をしてユンクを見、エリウスは相変わらず太平楽な笑みを浮かべている。

「おまえを負かせただと、ケイン。馬鹿な。儂は何一つとしてこの子には、教えておらんぞ」

 ケインは、へえっと感心する。

「さすが、エリウスという名を持つ王子ですね」

 ユンクはケインの声も耳に入らぬように、自分自身のもの想いに沈んでいく。瞳は自分の内を見つめているように、虚ろになる。

 ふと、ユンクは目をあげると言った。

「ケイン、明日はどうするつもりだ?」

「ああ、とりあえず一度王宮のほうへも、顔を出すつもりですが。神聖騎士団への報告がありますし」

 ユンクは、再びもの想いに沈む。その白髪に覆われた頭の内で、いかなる葛藤が行われているのか、ケインには想像もつかない。


 翌日、深夜までケインと語りあっていたユンクは、昼過ぎに起きてきた。無限に高い青空の下で、ユンクは目を細める。エリウスは早朝より起きて、相変わらず雑用をこなしていた。今は、よく晴れた春の日差しの下で洗濯物を干している。

 ユンクは、小屋の入り口からエリウスに声をかけた。

「エリウス、こちらへおいで」

 漆黒の髪の少年は、小走りでユンクの部屋へ入ってくる。ユンクは、エリウスを座らせると、一振りの剣を出した。

「これを、おまえにやろう」

 ユンクは、その微かに反りがある剣を、エリウスへ手渡す。

 その白い象牙の鞘に収められた剣を見て、エリウスは目を輝かせる。清らかな新雪のように白い鞘に収まったその剣は、金色の花びらのようなデザインがなされた鍔をはめられ、柄には金色に染められた絹糸が巻き付けられていた。その鞘にせよ、鍔と柄にしても、ドワーフが造ったであろうと思える程、見事な作りである。

 エリウスは、その剣を抜いて見た。はっ、と少年は目を見張る。その剣は片刃であったが、半ばで断ち切られていた。残っているのは鍔元から10センチ程の、剣の根本の部分だけである。

 エリウスはユンクを見つめ、ユンクは笑みを返す。

「その剣は、ノウトゥングといってな、初めからそういう形で造られたのだよ」 ユンクは、立ち上がると少年から剣を受け取り鞘に収め、小屋の外へ出る。穏やかな昼下がり。青く晴れ渡る空の下、ユンクはゆっくりと歩んだ。

 木が風に揺らぎ囁きのような音をたて、小鳥たちが囀りながら空を渡ってゆく。

色鮮やかに咲き誇る花畑を抜け、ユンクは庭の片隅にある岩の前に立った。岩の高さは、人の背丈ほどもある。大きさは、一抱えほどだろうか。ユンクと岩の間の距離は、3メートル程だ。エリウスは、茫洋とした表情で、ユンクの後ろに立つ。

「見ていなさい」

 ユンクは、エリウスに声をかける。剣を腰に構えると、目を細めた。ユンクは彫像のように、動きを止める。

 宝石をはめ込んだように鮮やかな色の羽を持った蝶が、不信げにユンクの周りを飛ぶ。まるでそこにあるのが、人か彫像か迷っているように。

 風は優しく歌うように、通り過ぎる。日差しが女神の慈愛のように、地上を満たす。静かな春の、昼下がりであった。

 ほんの一瞬、空気の色が変わる。チン、と微かに鍔鳴りの音がした。

 それはまるで一瞬、春の日差しが真冬の清冽な陽に変わったかのようだ。今は元通り、穏やかな春の昼下がりに戻っている。ただ一つ、ユンクの目の前にある岩を除いて。

 その岩は、中央のあたりから、ゆっくりとずれていく。やがて、岩の上半分が大地へ落ちた。地響きと共に。

 小鳥たちが驚いたように、飛び立つ。ユンクは、腰をのばすと振り向いた。剣をエリウスへ手渡す。

 ユンクは、さらに奥にある岩を指さした。大きさは、同じくらいの岩だ。

「あれを、斬ってみなさい、エリウス」

 エリウスは、剣を抜く。半ばで断ち切られた刃を、傾ける。剣の中に仕込まれていた、金剛石の刃が姿を現す。

 その刃は、真夏の日差しを集めて造ったように、強い輝きを放つ。その透明な剣の中に、無数の色彩が乱舞する。

 エリウスは、剣を振った。透明の刃が、様々に煌めく虹の光を内に秘め、青く輝く春の空の下を、円弧を描いて飛ぶ。刃はワイヤーで柄と繋がっており、コントロールできる。

 エリウスは、金剛石の刃を柄に戻し、象牙の鞘へ戻す。ユンクがしていたように、岩と向き合うと、腰で構える。

 エリウスの漆黒の茫洋とした瞳が、さらなる深淵を映すように深く、昏さを増す。

一瞬、ユンクの目にだけ写る速度で、光が疾った。

 キン、と金剛石の刃は岩に弾かれる。エリウスは振り向くと、ユンクを見た。ユンクは、深みのある笑みを見せる。

「まぁ、色々と試してみる事だ。そう簡単には斬れまい」

 そういうと、ユンクは振り返り、小屋へ戻る。一人残ったエリウスは、剣を鞘に納めた状態で、立ちつくす。

 春の暖かな風が、美神の囁きのように、エリウスの髪に触れて吹き抜ける。日差しが女神の抱擁のように、少年の体を包む。

 エリウスは、ゆっくりと、懐に納めた指輪を取り出した。

『私を、呼んだかね、エリウス』

 エリウスは、無言で指輪を見つめる。

『ノウトゥングを、使いこなせないか。ふん。で、私に何を望む?』「この剣の気持ちが、判らないんだ。水晶剣なら、僕の中にすんなり入ってくるんだけどね」

 指輪は、微笑むように春の日差しを、跳ね散らす。

『何しろ、造られてから数千年を経ているからな、その剣は。おまえを受け入れるのに、時間がかかるかもしれん』

 少年は、漆黒の瞳で純白の鞘に納められた剣を、見つめる。

『私を受け入れてみろ、エリウス。私と一つになれば、その剣が見えるはずだ』 エリウスは、指輪をすっと指にはめた。目を閉じる。再びエリウスが瞳を開いた時に、そこにいる少年はすでに別の存在となっていた。

 黒い瞳の奥底には、魔道の黄金の輝きが宿っている。茫洋とした表情は消え、としを経た魔族を思わす笑みが浮かぶ。

 エリウスは無造作に、剣を抜いた。同時に、岩が真ん中で絶たれ、地面に落ちる。

地響きが起こった。

 小屋からユンクが再び出てきた時には、エリウスは指輪を懐に納め、瞳に宿った黄金の輝きも消えていた。エリウスは無邪気な笑みを見せ、驚愕に目を見開くユンクへ、無造作に言う。

「斬れました」

 ユンクは言葉を失い、無言のまま頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る