第5話 長虫
長虫」
福本 驚
「それで、その浅沼って人は行方知れずのままなの」
荒川の問いに菅原は頷いた。
「蒸発って奴ですね」
「こりゃまた古い言葉を知ってるね、菅原」
クッククと笑う小柄な中年の男性を睨みつけて、本庁のエリート刑事である菅原は、クリームをたっぷり塗った髪を、中年男性にあてつけのように、神経質そうに撫でつけ整えた。
中年の男性は黒々とした菅原の髪を見ながら、恨めしそうに自分の薄い後頭部を撫でた。
「高良教授、依頼した件はちゃんと調べてくれたんでしょうね。こっちは税金から支払ってるんですからね」
菅原の言葉に、対面でソファに腰掛けている、小柄で童顔で、後頭部が少し心もとない男性は、ヘッと笑って見せた。
「税金なら俺も払ってるぜ」と、高良。
「僕も」と荒川。
「俺もだ」と近藤。
四人の男性が会しているのは、いつものように近藤の喫茶店だった。
近藤はいつもの通りボックス席の奥の席に、今日はその横に荒川が、その対面上の席に高良教授と呼ばれる中年男と、菅原が腰掛けている。
「それに俺に直接払ってるんじゃなくて、俺の学校に払ってるわけだから、直接脅迫するのは筋違いさぁ」
高良の言う学校というのは、自身が教授を勤める、羽田空港に程近い、新設の大学のことである。
一般生徒を受け入れてはいるが、その実、この施設はある目的のために設立されていて、在学する学生の半分ほどは、その目的のために入学した者たちで、高良は、その大学の裏の顔を代表する、多忙な研究者なのだ。
その大学の本来の設立理由は、日本各地に存在する人間を仇する神……形骸的で抽象的ではなく、太古に既知の生物とは系統樹を異なる、超生物として存在し、今も尚存在し続けている人間を凌駕する知力、肉体的組織、様々な特殊な能力を持った、現在の生物体系とは異なった進化を遂げた超絶生命体の研究、場合によっては駆除のための組織なのだ。
一笑に付せられそうな内容だが、事実は事実であり、刑事事件で未解決や理由や動機が疑われる事件に、そのような神の存在が背後にある場合が多く、一般には情報は流されないが、現場に出ている現役の警官の上部の何割か、そして上層部のほとんどが、その存在を認めている。
エリートである菅原もその例外ではなく、そのような事件を過去に扱ったときに、近藤や高良と知遇になったのである。
近藤はデータベースとして、高良は実行者として、荒川は……おまけだ。
そしてなぜかはわからないが、菅原と近藤、高良は馬が合い、お互いに一目置きながら、利用すべきときは利用し、助力を求められたときは惜しみなく助力するという、強力な相互関係を、いつの間にか築いていた。
荒川はおまけだ。
「不鮮明ながら、送ってきてくれた写真は興味深かったよ。学校でデジタル処理をして、本物だって結果も出たしな」
高良の言葉に荒川が震え上がった。
「本物だったんですか?しかし本物だったとすれば、あんな巨大な生物がいるとは……」
「鯨とかも大きいじゃない?」
混ぜっ返す近藤に、荒川は口をとんがらせて泡を飛ばした。
「アンタはよっぽど僕のことを愚かだと思ってるね!鯨は海の中だからあんなに巨躯を保ててるんだってくらい、僕だって知ってるから、驚いてるんじゃないか!生物学的に言ってだねぇ……」
「生物学的に言えば爬虫類は、長く生きれば生きるほど身体は巨大化するというのを聞いたことがあるけど」
近藤の発言に荒川は首を振った。
「それは少し前の説だよ。今は重力とか食料の摂取状況とかの問題で、巨大化するって言うのが主流だよ、しかも……」
荒川の言葉に割って、高良が間に入ってきた。
「俺から言えば両方とも筋違いだよ。まず、俺らが見たこの写真は……」
といって大振りのナップザックから、サイズの大きな茶封筒を取り出し、なかの大判の写真を取り出して皆の前に出した。
「これがウチの学校で処理した写真だが、これに写っているのは『神』だ……」
菅原が手に取り、ほんの少し、確認程度に目を通すと、苦々しい顔で呻き声を上げた。
「ウチでも処理したより一層、鮮明になってますね……」
と言って、前に座っている近藤に渡すと、それを受け取った近藤は顔を明らかに紅潮させて、目を輝かせて貪るように見入った。
あまりにも長い間、近藤が写真を凝視しているので、見せてもらっていない荒川は席から中立ちになって、写真に顔を近づけている近藤の、その顔を押しやると自分の顔を割り込ませ、息を呑んで、それまでの近藤のように写真に見入り、それを取り上げた。
近藤はしばらくボーっとした表情だったが、写真を取り上げられたことに不満げな顔を表してから、自分がいままで見ていたものの余韻に酔うようにうっとりと目を閉じた。
荒川の反応は菅原に近いものだった、手にした写真を落としてしまったのだ。
「デジタル処理って、これコンピューターグラフィックでしょ?高良さん?」
荒川の言葉に、高良は声を上げて笑った。
「デジタル処理って点には間違いはないさぁ。ただ、普通の意味でのデジタル処理ではないってこと」
近藤がにやりと笑った。
「学生を使いましたね、特殊な能力を持った学生を……」
「まぁね」
さもおかしそうに高良が笑った。
「おい、どういう意味だい近藤君?」
ニヤニヤ笑うだけの高良の態度に業を煮やした荒川が近藤に詰め寄った。
「念写ですよ、荒川さん。これまでの念写はフィルムに焼き付けるのが常識でしたが、高良さんはそれをもう一歩いや、百歩も二百歩も進めたらしい。まさかデジタルにおいて念写とは……」
「グレムリンって海外の妖怪を知っているだろう?近年になって機械関係に関して関わる類の物の怪だ。こっちの方面は古臭く見えて、その実、日進月歩なのだよ。だいたい、パソコンという高機能の電算機が出た時点で、理科系からオカルトに転向したとか、オカリストなのに理系に強い連中は、この機器を有効に使ってきたりとか、過去において魔術などは体系立った科学だったんだぞ。今更驚くほどじゃないだろう。今じゃ光ケーブルを縦横無尽に駆け巡る妖怪もいるご時勢だ、人間様だって進歩するわな」
興味深そうに聞いていた菅原は、熱心に聞いていたが溜息をついた。
「しかし、コンピューターグラフィックと言われればそれまでですね。インチキな写真に落ちてしまう」
高良はにやけた顔を変えずに答えた。
「もともと念写っていうのはそういうものさ。頭っから疑って、足の先まで信じない。昔も今も変わらんよ。信じるか信じないかは見るものの側にある。もしだぜ菅原……」
「はい」
「お前がコンビニで、心霊写真特集の安っぽい本を読んだとする。そこに一枚、修学旅行生の写真があって、そこにお前のもう死んでる知り合い、まぁ、死んでなくても構わないんだが、そいつの顔がはっきりと映っていたら、その写真をお前はどう見る?」
「それは……」
「心霊写真にしろ念写にしろ、見る側に理由はくっついて来るんだ。ところで、その蒸発した御仁の調書は取ったんだろ?聞かせろよ」
「ええ。フラフラとボロボロの格好をした奴さんを保護して、録音したものから起こした調書があります。これから読みますよ。あまりにも荒唐無稽なんで、まだ一部の上層部にしか閲覧されてないものです」
近藤が溜息をついた。
「それから、その浅沼氏は入院後、姿をくらましたか……。興味深いね」
近藤の呟きに片眉を上げた菅原は、用意してきた資料を読み上げ始めた。
要約するとこういった内容だった。
それは変哲のない古い石彫りの像だった、
むき出しで風雨に晒されているせいか、表面は磨耗して判別しづらかったという。
浅沼はあるときまで、その存在にすら気づかずに、駅までの道を何度も往復していた。
彼が住んでいたのは東京郊外の通勤に片道一時間半かかる、住宅地といっても鬱蒼とした森や田畑の残る、居住区と農地や自然が半々の土地だった。
どちらかと言うと自然の方が優勢だったかもしれない。
あと三十分、電車に揺られていけばほぼ農地と自然の土地であり、彼が前後不覚で発見されたのも、そういった土地であった。
石彫りの像は住宅地の十字路の一角にあり、その一角にあるアパートの外壁の一部を凹ませて、そこにあった。
近隣の住人はそれがどこにでもある地蔵だと思っていたし、その存在に気づいた浅沼も地蔵としか思っていなかった。
その石像の存在に浅沼が気づいたのは、職場仲間の送別会の帰り、したたかによって帰る途中、どうにも堪えきれずにアパートの壁に嘔吐してしまったときだった。
崩れるように一歩踏み出した浅沼は、件の石像を視野にいれ、元来、信仰心など持っていない人間だったが、さすがにまずいと思ったのか、泥酔者特有のオーバーなアクションで石像に詫びた。
気持ち悪くてしょうがなかったのだ、悪気があったわけでもない、これこの通りと、石像に向かって土下座までした。
酔った勢いだろう、詫びたついでに頼みごともしてやれと、取引先の相手にてこずっていたので、相手担当者を替えてくれと、もう一つついでに土下座したとき、地面が揺れるのを感じた。
かなり大きな地震だった。
辺りの家々の窓が開き顔が覗いて、大きかっただの、皿が落ちただのという声も聞こえた。
浅沼は揺れに身体をとられ、立ち上がりかけた途中で、よろけ地面に這いつくばってしまった。
そのとき浅沼は、これは地震ではないのではないのかと思った、地面に触れて膝や手の平に感じた間隔は、一定の地震とは違い、まるで波のように揺れが自分の下を通って行った気がしたのだ。
なんなのだろう?
揺れは大きかったものの、揺れた時間は短かった。
酔った頭で疑問符を浮かべながら、浅沼はとりあえず帰途へついた。
酔っていたとはいえ、強烈な印象を覚えたが地震だった。
しかし、不思議なことに、この地震に関してのニュースはテレビでは放映されず、携帯電話での地震情報も何も伝えていなかった。
局地的なものだったのだろうか?
次の日には妙な目にあったとだけ思って、休日を挟んで、出社する頃には忘れてしまっていた。
しかし、その数週間後に、嫌でもあの酔って帰った日を思い出すことになった。
あの摩滅した石像に願った件が、現実になったのだ。
得意先周りで一際、足が重くなる会社で、応対した担当者が厭味ったらしく、憎々しいいつもの人物ではなく、全く別の人間に代わっていたのだ。
前回訪れたときに散々に凹まされての訪問だったので別段、手落ちや不手際があっての訪問ではなかったが、そんなことにお構いなしに絡まれるのが毎度なので、今回も相手が少しでも上機嫌であってくれればと思いながら受付に、行った浅沼を出迎えたのは、温和そうな中年男性だった。
受付で間違えたのかと思い、尋ねた部署を告げると、目の前の男性は頷きながら言った。
「間違えございません。わたくしが新しい担当になったものです、代わって間もないものですので、浅沼様から色々と教えていただくこともあるでしょうが、宜しくお願い致します」
面食らった浅沼は、前任の担当者のことを尋ねたが、相手は顔色を曇らせたので、それ以上聞くのはためらわれた。
後になって、急に辞表を出して辞めてしまったことを知ったが、理由などはわからずじまいだった。
その日、不謹慎ながら弾んだ気持ちで会社に帰り、席に着いてから、あの泥酔した夜のことを思い出した。
あの願い事をした夜を思い出したのだ。
背もたれに身体を預けて、不思議な感慨にふけりながら思いに耽った。
まさかあの願い事が叶えられたのかと、自問自答してみる……まさか……と自分が答える。
しかし事実としてことは起こったことには間違いはなかった。
鰯の頭も信心からと言うし、願ったことが叶ったことには間違いはなかった、疑うの簡単だが、信じるのも簡単だ、それが日常のアクセントになれば、平凡な毎日に少々の日常的なエアポケットが、心のふわりとする一瞬はなくても構わないが、あっても構わないでははないか……そう思った。
その日の帰り、コンビニで買った大福を、あの磨耗した石像に供えて、これからもうまくいきますようにと、そばを通っていく人々の視線を感じながらも、浅沼は手を合わせた。
効果は出たのだろうか?
それから数日後からしばらくの間、急に取引先では良い感触を得ることが増え、先輩社員には可愛がられ、後輩には頼りにされる日々が、いつになく充実した日々が舞い込んできた。
その日一日で、喜ばしく思ったことがあった帰りには、磨耗した石仏に供え物をすることを、浅沼は自身に課した。
そんなにするわけではないが、休日に賭け事をすると、明らかにマイナスよりプラスの方に傾き始めた、損をすることがなくなったのだ。
大きな勝ちはないけれど、大きく負けることはなく、小さい勝ちは驚くほどに舞い込んで来た。
小さな幸せに、浅沼は軽い酔いを感じるようになり、正に鰯の頭も信心からの言葉ではないが、会社帰りは必ずと言っていいほど、供え物を、それなりにグレードアップしながら、供えることが日課になった。
供え物は翌朝になるときれいになくなっていた、恐らく野良猫か烏の仕業だろうが、浅沼にしてみれば、願いが聞き遂げられたという実感となった。
勤務中に、それらの事々が馬鹿馬鹿しい妄想だという気になるときもあったが、自分の心の持ちようであるし、それで日々が上手く運び、自分が幸せならば、何ら問題はないのだと、浅沼は考えるようになっていた。
それから数ヵ月後、仕事も順調だった浅沼の小さな野心を抱かせる噂が耳に届いた。
会社の未来を左右するプロジェクトが発足するのだと言う。
その噂を聞いた段階では、それに自分自身を当てはめるようなことを浅沼はしなかった。
浅沼は大学出だが、それほどいい大学ではないし、このようなプロジェクトに参加するのは、会社の中でもエリート、もしくはエリート候補生であり、悔しいけれど浅沼は自分でも認めるし、納得できていた……自分はその選からは必ず外れる、選ばれることはまずないはずだった。
社内でも、プロジェクトのメンバーに関しての話が、どこそことなく囁かれていた。
中には、最近調子のいい浅沼に対して、もしかするとと話を振ってくる者もいたが、言った本人も、言われた浅沼自身も、そのようなことはないと前提にしての話だった。
それでも、一度くらいは仕事に対して夢を持ってもいいのではないか、生きがいを感じて、限界などを忘れてしまってもいいのではないのかと、このところ人にいわれるほどに好調な浅沼は、そう考えた。
だからと言って、自分で何か出来るわけでもない、仕事は上手くいっているものの、成功していると言うのには程遠く、今の仕事の出来でプロジェクトへの参加を上司に打診できるわけでもなく、もしもっと好調であったとしても、浅沼はそんなことを口にできるタイプの人間ではなかった……それでも……。
しかし、あの磨耗した石仏なら、それを叶えてくれるかもしれない……自分の人生に更なる幸運と、興奮を与えてくれるかもしれないと、、紋々を思い悩んだ挙句、その帰りに、それまで以上の価値がある供え物を携え、磨耗した石仏の前に立った。
背中越しに感じる通行人や、わざわざ浅沼を見るために速度を遅めるためにかけた、自転車のブレーキ音も気にせず、これまでの十倍以上の価値のある……ただの願掛けのためには、かなり懐が痛むほどの値であったが、浅沼は気にしなかった、それだけの価値があるし、かけてみようと決心していたのだ……供え物を置き、真剣な眼差しで石仏と対峙した。
それまでは恥ずかしさが勝ち、供え物をそそくさと置いて、そそくさと願い事をしていた浅沼だったが、今回は磨耗した石仏に真剣に視線を注いだ。
そこで浅沼は愕然とした。
地蔵菩薩だとばかり思っていた石造のデザインは、地蔵とは似ても似つかぬものだと言うことが、細かいデティールを見れば見るほど、はっきりしたからだ。
明らかに一般の地蔵菩薩のシルエットではない、こけしの胴体が膨れたような、おなじみの形はまったく違っていて、頭と見られる丸い形を頂点に、その下には三角形の形となっており、その三角形は、更によく見ると、段々に刻みがあったあとが見受けられた。
これではまるで、鎌首をもたげた蛇ではないか……浅沼は無駄だとわかっていても、更に細部まで見ようとしたが、全体の形がわかるだけで、時の流れで風化してしまった石像は、他の情報を浅沼にもたらすことはなかった。
浅沼本人は蛇に禁忌を持っているわけではなかったが、爬虫類系を好き嫌いで区別すれば、好きとは言えなかったので、今まで地蔵だと思っていた石仏が、恐らく蛇を模した石像だと知って、言い言えぬ気持ちになった。
しかし、今の浅沼にとって……自嘲気味に自分を笑いたくなったが……この石像以外に、頼る他に術はなかった。
自分が今抱えている問題は、自分がどうにかして成就するものではないし、他の誰に相談してもどうとなるものではなかった。
それならば……自分に、小さいながらも幸福を与えてくれてきていたこの石像に、改めて頼らずに、どうすればいいのだと自分に言い聞かせた。
浅沼は更に、通り過ぎる人々が自分をどう見るかと思いながらも、拝みに拝み倒す気持ちで手を合わせ、家路に着いたが、帰るとなぜかどっと汗が噴出し、疲れていることに気がついたのだった。
そして願いは叶い、幸運は訪れた。
社運をかけたプロジェクトの一員に、浅沼は選ばれたのだ。
大抜擢と言ってよかった。
願掛けしていた浅沼自身が自分で信じられなかったほどだった。
慌しく今までの自分の仕事を後任に引き継ぎ、プロジェクトの最初の会議に出たとき、浅沼は自分でわかるほど、当惑し、混乱し、身体も震えていることを意識した。
急に重要な役割を与えられた浅沼だったが、まわりの人間のフォローに後押しされ、しばらくすると、活発に意見を述べ、溶け込んでいった。
考え悩んでいたのが馬鹿らしくなるほど、エリート層との軋轢と言うものはなく、チームとして一丸となって過ごす毎日は、浅沼に言いようのない恍惚感と達成感、そして日々を満足に過ごすという、未だかつてない幸福を与えてくれた。
充実した毎日、やりがいのある仕事……これまで感じたことのない、幸福感に酔いながら、仲間に囲まれて廊下を歩いているときや、外食や社食で食事をしているときなどに、頻繁に自分のほうに向けられる視線に気がつき始めた。
様々な視線が自分に向けられていた。
それをひしひしと感じるようになった。
よい感情から発せられるもの、悪感情から発せられるもの、前者は例えば、それまで自分の事を見ようとしなかった上司や同僚、後輩、それに一番困惑させられるのは女子社員からのものだった。
後者は嫉妬や僻みなどの負の感情から発せられる視線であったが、日々の楽しさ忙しさを満喫している浅沼は、それらを受け逸らす術を瞬く間におぼえることができた。
所詮はやっかみでしかなく、それが上司でも同僚でも後輩でも、今の自分に害をなせる者などいないという強気が、浅沼の中に芽生えつつあった。
それに悪い視線の主の中に、女性はほとんど含まれていなかったからだ。
男からの悪意の視線は身体をすり抜けるか、軽く身をかわすだけでよくなった浅沼だったが、女性からの視線はそうもいってられなかった。
何しろ、これほどまでに女性の……それも大勢の女性から、好意の視線、または好奇の視線、どちらも思わずにやけてしまいそうになるほどに、それらの視線は熱く、浅沼に寄せられてくるのだ。
浅沼は最初は戸惑っていたものの、次第に、大いに興味をそそられるようになった……が、これまでの人生で、何人かの女性に好意を寄せられたこともなくはなかったが、こんなにも多数の女性から、あからさまな熱意の篭った視線で見つめられることなど、一度もなかったかので、視線に意識がいきながらも、それに対して何らかのアクションをとるといった、大胆な行動には移れないでいた。
その点は逆に、女子社員のほうが大胆であった。
浅沼はあれよあれよという間にセッティングされた、数々の合コンに招かれ、毎日の心地よい疲れを、それまで知らなかった女子社員と、合コンのメンバーとして他に招かれている、プロジェクトチームの仲間の同僚たちと癒すこととなった。
女子社員がプロジェクトの進展具合を聞くと、仲間たちは極秘だと謎めかして笑いながらも、浅沼本人は気付かなかったものの、幾晩となく設けられた合コンの、女子たちの興味の中心が浅沼だとうことを敏感に感じ取ってか、おこぼれに与ろうと、浅沼を褒め上げ、場の関心をさらおうと必死になるのだった。
これまで何ら注目も興味ももたれたことのない、そんな人生を送ってきた浅沼にとって、今の生活はまるで楽園……否、天国だった。
それからも仕事はうまくいき、男子社員には一目置かれ、女子社員には羨望のまなざしを送られる生活を楽しんでいた浅沼に、一つの転機が訪れた。
ある女子社員に人目惚れしてしまったのである。
この会社には少なからず勤務してきた浅沼だったが、その女子社員を見るのは初めてのことだった。
それもそのはずで、彼女は秘書課の社員だったのである。
しかも、彼女の父親はさる中堅より、多少大きめで世間的にも認知度のある会社の社長で、いわば花嫁修業として、浅沼の会社に入社してきたらしい。
入社してきたとはいっても、新入社員ではなく、何年か前に入ったらしいのだが、浅沼程度の平社員が目にすることなかっただけで、勤務はしていたのだ。
ある日の、プロジェクトの骨子を改めてしっかりと固める、プロジェクトに関わる者全員が参加する、重要な会議質の準備をする女子社員の中の一人が、浅沼が惚れてしまった三池和代だったのだ。
飲み物を準備している和代の姿に、会議室に入ってきた浅沼は、それまで話していた同僚との会話をプツリと途切れさせ、凝視するように見入ってしまったのだ。
「おい、どうした?」
急に口を開いたまま言葉を発しなくなった浅沼に、離していた同僚はその視線を追って、にやりと笑うと、浅沼のわき腹を肘で小突いた。
「なんだ?一目惚れか……?しかも、あの、三池和代に……」
浅沼は寝ぼけたような顔のまま、同僚に振込み寝言のように言葉を発した。
「三池和代……あの、三池和代……?」
「何だ、浅沼君、知らないのかい?秘書課の華で有名な、三池和代だよ。俺たちにとって高嶺の花さ……」
「高嶺の……。彼女、新入社員なのかい?僕は今まで一度も見たことはないけど」
「そんなことないさ。ただ、最上階の会長室付だからな、俺だって一度や二度しか、見たことはないさ。この会社で見たことのないやつらだっているんじゃないか?」
浅沼は納得がいった。
自分は今でこそ、大手を振って歩いているが……。
「僕はつい最近まで、ただの平社員だったからな。見ることも叶わなかったってわけか……」
最近、浅沼と一緒に仕事をして、その有望ぶりに舌を巻いている同僚は、浅沼が数ヶ月前までは、自分でさえ顔を知らない冴えない平社員だったことを思い出し、浅沼と三池和代は、まるで鏡像のような存在なんだなと考えた。
一人はその存在感のなさで、他の社員の記憶にとどまらない平社員、もう一人は高嶺の花だが秘されているので他の社員が知ることのない秘書社員。
その皮肉さに、同僚は浅沼に思わずこんな一言をかけてしまった。
「でも、そんな君が、個々までの地位を立派に築いて、しかもこれから更に一層、高みに上ろうとしているんだ。君だったら何とかなるかもしれないぜ、高嶺の花の三池和代!」
その日の浅沼は会議に身が入らなかったものの、何とか要所要所ではミスしないで済んだ。
そうなったのも、あの三池和代という女性の存在のせいである。
その晩、誘われていた合コンは、体調不良という理由でキャンセルした(その中には、浅沼が三池和代に見惚れていたのを見ていた同僚もいたが、彼は片目をつぶって、唇に人指を付けて、沈黙を約束してくれた。まぁ損得積みで、浅沼に借しを作ろうというのは、最近の浅沼では推測できたが、ありがたかった)。
今夜は他の女と騒いで飲み明かす気にはなれなかった。
かと言って、ただ家に帰るだけというのも物足りなかったので、浅沼は給料の上がった最近になって行けるようになった、小洒落たバーで酒を煽りながら、どうしたら彼女……三池和代を手に入れられるか……最近、強気で攻めの思考に移行していた浅沼でさえ、彼女の美しい容姿、気品漂う雰囲気から、簡単に手に入れられるものではないと考えざるを得なかった。
しかし彼女は、今の生まれ変わったかのような浅沼の為にいる女であると、浅沼は思い、これまで寄ってきた女と、飲みに行くまでで、それ以上の深い関係になるのを避けていたのは、この歳になると、結婚を考えなければならないことだ……と、思っていたと誤解していただけで、本当の自分は三池和代という、自分に相応しい女に無い腹を探られないために女遊びは避けていたのだという確信まで持つようになっていた。
完全に他の人間からすれば、今日一日でこれまでの思いを相手に抱くなどということは、一目惚れを通り越して、妄執に近いものを感じるだろうが、今までそんな経験をしたことが無いということ自体が、浅沼に自分の中に芽生え始めている狂気の芽を、自覚させなかった。
どうやれば手に入れることができる?
もっと仕事で活躍すれば、そしてもっと稼げば、彼女に相応しい男になることができるのか?
そう彼女や、その親、そして周りの連中を納得させられるのか?
やや酔ってきた頭に、電光のようにある考えが閃き、自分が何故この考えを浮かべなかったのかと、興奮して考えた。
……あの石像だ……。
今こそ、こんなときこそ、あの石像のご利益に縋らないで何に縋るというのだ!
若干の後ろめたさが、浅沼の心をよぎった。
今のプロジェクトに加わってからというもの、充実した毎日に、自分が願いをかけた、あの石像のことをすっかり忘れていたのだ。
後利益を……まだ与えてくれるだろうか?
そう考えると、いてもたってもいられなくなった浅沼は、会計を済ませ、これもまた最近、通えるようになった名の通った寿司屋までタクシーを飛ばすと、特上の持ち帰りの寿司を、大急ぎで作らせると、そこでまたタクシーを拾い自宅近くまで飛ばさせた。
すっかり散財をしたが、気が急いている浅沼は、タクシーを降りるや否や、両手で寿司を揺らして型崩れさせないよう……供え物がめちゃくちゃでは話にならない……あの石像の元へと走っていった。
バーで飲んでいた時間と、寿司屋で待たされた時間ですっかり夜は深けていたらしく、十字路は浅沼一人が息を切らせて立ち尽くすのみであった。
神妙な面持ちで、足取りも重々しく、浅沼は石像に向かって歩いていき、その目の前で両膝を突き、寿司の包みを恭しくその前に置いた。
「すっかりご無沙汰して、申し訳ありませんでした。あれだけのいい目を見させていただいたご恩を忘れたわけではありません。これはその、ささやかなお礼です……いえ、正直に言います。もう一つだけ叶えてほしいお願いがあるんです。ある女性の心を、私になびかせて……いや、はっきり言います。その女がほしいんです。女の名前は三池和代。私の会社の女子社員です。家柄も良く綺麗で、上品で、私なんかじゃとても手に入れられそうにない女性です。お願いします、どうか彼女を私のものに……」
劇的が何かが起こることもなかったが、浅沼は満足していた。
今までで一番上等な貢物をしたのだ……まぁ、ここのところ随分とないがしろな態度をとっていたことが引っ掛かるが、何、相手は神様なのだ、そこのところは多めに見てもらおうと虫のいいことを考えながら、帰路に着いた。
だがやはり虫が良すぎたのだろう、その翌日から何とか三池和代を振り向かせようとする浅沼だったが、面白いように空振りに終わった。
最初は合コンでもと考えたのだが、三池和代はそういったものに参加したことがないらしく、そちらからのアプローチは無理だとわかった。
正攻法で行こう、俺には神様のご加護が付いているんだ。
三池和代の退社時間は毎日決まっているというので、早めに仕事を切り上げ待ち伏せし、声をかけて食事に誘ってみたのだが、けんもほろろに断られた。
「家で食事の準備ができてますので……」
「じゃあ、今度、予定を作ってもらえないでしょうか?」
「いえ……じゃあ、失礼致します」
がっくりと首をうなだれて、やはり願いを叶えてもらった恩を忘れた報いは当然のようにもたらされたと思っていた浅沼の肩を、三池和代を見初めたときに、一緒にいた同僚が叩いて、笑っていた。
「ふられたよ……」
「あぁ。見事だったな。しかし本当にいくとはね。僕がけしかけたとはいえ、なんとまぁ……猪突猛進だね」
「食事を誘ってあのそぶりだからな、飲みになんて誘えないし、打つ手無しだな。奢るよ、一杯付き合ってくれよ……」
情けない顔で浅沼が言うと、同僚は背中をドンと叩いた。
「自棄酒って奴か?まだ早いかもしれないぞ。君が早めに退社したって言うんで、ぴんと来た僕は、君たちの様子をこっそり見ていたんだ」
「趣味が悪いな……」
「まぁ、そう言うなって!その代わり、今日の飲み代分の情報は与えられると思う」
「一体、なんだい?」
怪訝そうに浅沼が尋ねると、同僚は笑った。
「どうやら、三池和代は滅多にお目にかかれないお陰で、逆に他の社員の顔も知らないと見える。君をふったあとに、僕はわざと三池さんとすれ違ったんだ。顔を覚えられてないのは悲しいが、そのお陰で、君をふったあとの彼女の表情をじっくりと見ることができたんだからね」
「それで……」
「はにかんだような表情だったよ。しかも顔を真っ赤にしてさ……」
「まさか……」
浅沼は奇妙な表情になった。
驚き、慌て、そして、心のそこで何かを渇望するかのような、そんな顔だった。
「でも、そんなまさか……」
「意外と脈があるんじゃない?僕が聞いた噂によると、彼女は本物のネンネだそうだよ。それを、普通に誘ったんじゃ、勝ち目はないんじゃないかな」
「しかし、どうすれば……」
同僚は軽く微笑んだ。
「それを二人で考えようじゃないか、君の奢りでさ」
そして二人は夜の街へ向かい、その街のネオンが、浅沼には希望の光に見えたのだった。
しかし二人には、酔った二人にはといえばいいのか、妙案は浮かばなかった。
何しろ生涯で一度も経験のない、本格的なお嬢様を口説こうというのだ、あーではないこーではないと色々案は出るのだが、いざシュミレートしてみると、様々な欠点、穴、どこかしら、何かしらかが見つかってしまうのだ。
結局結論は出ず、結論が出たのはその翌日の明け方に見たであろう夢の中でだった。
夢の中で浅沼は三池和代と映画を見ていた、周りの席に親子連れが多い、内容はわからなかったが、アニメ映画を見ているらしかった。
そしてそのあと、明るい日差しの中を二人で歩いている……公園らしかった。
浅沼と三池和代は、お互いぎこちないながらも楽しげに見えた。
これだ!と、浅沼は確信したが、この作戦のどこに利点があるかはわからなかったので、出社して、昨晩飲んだ同僚を昼食を餌に、相談に乗ってもらった。
「それはいいかもしれないな……」
「でも、夢の中のことだよ」
「しかし、それでいけるって確信したんだろう?」
「うん。でも、確信っていうか、この計画を取ることによる有利な点っていうのが、今一わからないんだ」
特上のとんかつを一切れつまんで口で噛み切り、しばらくモグモグと噛んだのち、同僚は口を開いた。
「僕は、二、三いい点が見つかったよ」
「一体どんなところだい?」
「まずは映画……それもファミリー向けの映画ってところだよ。昨晩も映画に誘うって案はでたけど、お互い出したのは恋愛映画やアクション映画とか、大人向きのものを考えてた。だけど、子供向きの映画だったら、もしかしたら彼女の安心感をゲットできるかもしれないし、映画自体も、デートの王道だから、彼女の警戒を緩められるし、何しろ食事と違ってみている間は会話をしないでいい代わりに、終わった後は、その話題で初対面の二人が共有した体験を話すことができるしね。そうだ!今思いついたけど、何よりのボーナスが付いてくるぞ!」
同僚は己のことかのように顔を輝かせた。
どんな妙案が浮かんだのか、浅沼は先を聞きたくてしょうがなかった。
「どんなボーナスだい?」
「エビフライの単品と、ご飯のお代わり……」
「……それはどんな意味でのボーナスなんだい!」
友人はハハハと笑った。
「いや、これはいいアイデアを浮かべた僕への、君からのボーナスだよ」
「全く細い身体で、よく入るもんだな……」
「人の金で食べるのは別腹だよ。スイマセーン!」
店員に注文する同僚を浅沼は思わずにらんだ。
その視線に気付いているのか気付いていないのか、同僚はお茶を一口飲んだ。
「で、どういうこと?」
「つまりはさ、映画のあとに食事に誘えるかもってボーナスさ」
浅沼は顔を顰めた。
「この前は、誘って断られたんだよ」
「この前はさ。もし映画に誘い出せば、そのまま、まんまと誘い出す口実が作れるんだよ」
「どうやって」
「どうしてって聴いてほしかったな。どうしてか?今、君の中で想定されているのは夕食を誘って断られたことだろう?でも君が誘うのはファミリー向けの映画だよ、上映されているのは午前中だろ?夕食に誘うのは下心が見え見えだけど、ランチに誘うんなら、それほどでもない。で、重要な点なんだけど……」
浅沼は身を乗り出した。
「重要な点って?」
「一番早い、上映時間で誘うんだよ。そうすれば昼までに時間がある、時間があるって事は、食事の用意ができてますのよ……って言われる可能性が少ないってことだよ」
「なるほど……」
その時、同僚が追加で頼んだエビフライとライスが運ばれてきた。
おいしそうにエビフライをタルタルソースにつけ、一口火事ってご飯を頬張る友人の姿なぞ、視界から遮断して、浅沼は眉を顰めて考え続けていた。
作戦はうまくいった。
おずおずと、映画の券が二枚あるんですがどうですかと問うと、映画のタイトルを訝しげに見た、三池和代の頬がほころんだのである。
「これって今話題の、犬と猫が人間の知らないところでスパイ合戦を繰り広げるってアニメですよね?」
「ええ、子供向けなんですけど、予告編を見たら、すごく興味をそそられて……」
「私、犬も猫も好きなんで、テレビのコマーシャルを見て、DVDにでもなったら、借りようかと思っていたんです。だって、観に行くのはちょっと恥ずかしいから……」
「あぁ、僕もそう思ってたんです。一人で行くのはちょっとなぁって……」
「二人で観るのなら、恥ずかしさも二分の一になるってことですか……ウフフフ、いいですよ。私も一緒に恥ずかしい思いをします」
「ということは、行ってくれるんですね?」
「はい……」
浅沼の目の前が真っ赤になった。
心臓の音がドンドンと、脈打つ音まで聞こえそうだった。
しかし肝心なのはこの先なのだ。
「え~と、実はですね、大変申し辛いんですが……」
真っ赤な顔で切り出した浅沼の顔を、小首をかしげて三池和代が見つめた。
その様子の可憐さに、更に心拍数が跳ね上がるような気がする浅沼だったが、それでも気力を振り絞って口を開いた。
「この映画、結構、人気があるらしく、早い回じゃないと、立ち見になってしまう可能性が高いらしいんですね。だから、一番最初の上映回に行こうかなと思いまして……」
和代は微笑んでうなずいた。
「いいですよ。早起きは苦手じゃありませんし……」
その答えに安堵の息を漏らした浅沼は、畳み掛けるように待ち合わせ時間と場所を告げた。
「じゃあ、次の日曜日に……」
「ええ、日曜日に……」
去っていく三池和代の後姿に見惚れながら、浅沼は小さくガッツポーズをとった。
約束の日曜日は快晴で、風も心地よく、浅沼には今日一日全てのことが、うまく行くのではないかという気分にさせるのだった。
前日から落ち着かなかった浅沼は、約束の場所に三十分も前についてしまったが、待つことがこれほど楽しいと感じたことはないほど、心は浮き足立ち、口笛の一つでも吹こうかと思っていると、当の待ち人三池和代も二十分ほど前に姿を現し、軽く会釈をして、小走りに走り寄ってきた。
浅沼は……三池和代を惚れ直した。
浅沼がこれまで知っている三池和代といえば、会社の制服姿と、退社するときのスプリングコート姿だけだった。
しかし今日の和代は、ホンワリと気分をさせるような、上品で可憐な、いかにも育ちのよさを感じさせる、落ち着いていて、しかし可愛らしさを兼ね備えた、上着とロングスカートという装いだった。
「ずいぶん早く出てしまったと思ったんですけど、浅沼さんのほうが早かったんですね」
屈託のない笑顔でそういう和代を見ながら、これは本当に現実なのかと、目の前が廻るような気持ちにとらわれるのだった。
「いやぁ、なんか落ち着かなくて、家で落ち着いてられなかったんです」
「そんなに映画が楽しみだったんですか?」
今度も屈託のない笑顔だったが、そこには何かしら悪戯っぽい、本当に映画が楽しみで興奮してたの?それとも……?といったニュアンスが含まれているようで、浅沼はドギマギした。
「え~と、それは……」
言いよどむ浅沼に、意味ありげな微笑をよこすと、和代は先に立って、浅沼を促した。
「早く着いたんですから、映画館に行ってパンフレットを買ったりしましょうよ。今ならまだ空いてるでしょうから」
慌てて和代の後を追う浅沼は、酔ったようにボウっとなり、普段と違って明るく溌剌と
した和代に、今日二度目に惚れ直すのだった。
早めに着いた映画館は数組の家族連れがいたが、空いており、浅沼が支払ってパンフレット二冊と、大き目のポップコーン一つ、これは和代にねだられて、キャラクターグッズ、それからソフトドリンクを各々分を受け取り、簡易ソファーに二人並んで腰掛けた。
ポップコーンは映画が始まる前に買うと冷めちゃいますよと、浅沼が言うと、和代は、映画に集中したいから、映画が始まる前に飲食は済ませたいのだと答えた。
これは浅沼にも好都合だった。
映画の間に満腹になられては、そのあとの食事も誘いづらいというものだ。
二人は少し間を空けて並んで座っていたのだが、そのうちパンフレットの内容を話し合っているうちに、いつの間にか和代は自分のパンフレットをしまい、二人で一緒に一冊のパンフレットを見るようになり、自然に二人の距離が縮まり、浅沼は和代の体温を太ももに感じ、なるべく意識しないようにしながらも、気もそぞろになるのを抑えられなかった。
それに大きめだったため、二人で一個にしたポップコーンを食べるときに、何度か二人の手が触れ合った。
和代は気にしていないらしいが、浅沼は手と手が触れるたび、絹のような和代の手の感触に肌が粟立つような興奮を覚えた。
「ねぇねぇ、今日はデートなの?」
気付くと二人を見上げるように、小さな女の子がニコニコ笑いながらポップコーンに手を伸ばそうとしていた。
二人とも面食らったが、和代は顔を真っ赤にしながら、その女の子が取りやすいように、ポップコーンの入れ物を前に出した。
女の子は両手を使って、取れるだけのポップコーンを口に頬張って、なおも興味深そうに二人を見ている。
浅沼は和代を、和代は浅沼を見て、お互いそこに相手が顔を真っ赤にしているのを確認するのだった。
「コラ!何やってんだミーコは!すいませんねぇ、ウチの娘がご迷惑をおかけしてしまって……」
そういいながら若い父親が、ミーコと呼んだ女の子を抱えあげると、そそくさと立ち去っていった。
いやぁ、と言いながら浅沼は、若い父親……自分より少し年上の……が、和代を見た瞬間だけ、父親ではなく男の顔になり、羨ましそうに浅沼を見たのを見逃さなかった。
誇らしいと同時に、頑張って和代を誘い出した自分自身を褒めてやりたくなった。
「ませた子でしたね……」
真っ赤な顔のまま、それでも思いがけない椿事を楽しんでいるのか、微笑みながら和代が言った。
「でも、かわいい子でしたね」
「浅沼さんは、子供はお好きですか?」
「ええ。大好きです」
実のところ、浅沼はこれまで子供を好きか嫌いかを考えたこともなかったが、今、この場ではそう答えておいたほうがいいと感じた。
顔を笑顔でパッと輝かせた和代が、何か言おうと口を開こうとした時、上映室の扉が開いて、人々が中に入り始めた。
「あ、急がないと……」
途中まで言いかけた言葉を飲み込むと、和代は立ち上がって、浅沼が立ち上がるのを待った。
「あの親子のそばになったら笑っちゃいますね」
浅沼がそう言うと、和代も笑った。
映画は可もなく不可もなくといった内容だったが、浅沼はともかく和代のほうは楽しく観たようで、その様子を見ると、浅沼も大作映画を観たような満足感に満たされた。
子供たちにも好評だったようで、浅沼と和代はこうしきった子供たちの流れを、映画館の出口まで縫っていかなければならなかった。
「子供たち、大興奮ですね」
「だって、面白かったですから。私も子供だったら、お父さんかお母さんの手を振り回して、興奮してたと思います」
散り散りになっていく親子連れを見ながら、二人は笑いあった。
入口から入ってこようとしている、次の回の観客をよけながら、二人は歩道まで進んだ。
浅沼は息を飲み込んだ。
これからが今日の本題なのだ。
「ちょっと歩きませんか、近くに公園があるし、映画の話でも……」
視線をはっきり和代に向けられないまま、ほとんど目を伏せながら、浅沼は切り出した。
「ん~、もちろんですよ。映画の話、とってもしたいですから」
二人は公園に向かって歩いていった。
公園に向かう間、公園に入ってから適当なベンチを見つけるまでの間、すれ違う男たち、否、女たちもの視線が、自分たち二人に注がれていることを、浅沼は感じずにはいられなかった。
男たちはあからさまな嫉妬、女たちは和代に対しての羨望の眼差し向けてきた。
中には怪訝そうな視線を向けてくる者もいた。
そんな視線を、浅沼は理解できた。
浅沼は自信を持てるほどの容姿を持っていない、そんな自分が楚々として美しい和代を連れて歩いているのだ、そういった視線は当然だろう。
得も言われぬ恍惚感と勝利感が浅沼を襲った。
しかし浅沼は自分を律した、本当の勝利を得るのは、このあとの出方次第なのだ。
ベンチに座った和代は、興奮した様子で、さっき見た映画の見所や感想を口にして、浅沼は適度に相槌や自分の意見を述べた。
和代はとても幸せそうに見え、浅沼はもちろん幸せだった。
和代が話し疲れるのを見計らって、浅沼はとうとう切り出した。
「お腹減りませんか?」
和代の顔に、サッと警戒なのか?緊張の色が浮かんだ。
「私……」
目を伏せた和代を、和代の次の言葉を浅沼は待った。
「私……お腹ペコペコです」
伏せていた目を心持上げ和代は答えた。
「じゃあ、一緒に食事でも……」
「私……」
浅沼は固唾を呑んだ。
「今日は、外で食べてくるって言ってきました。だからどこか連れて行ってください……」
浅沼の全身に蕩けるような安堵と、身を震わせるような興奮が走った。
公園を出るまでの間、自分が中を浮かぶような足取りでいることを意識し、ずっとニヤニヤとしているだろうなと思ったが、それを誰に見られても恥ずかしいともなんとも思わなかった。
隣についてくる和代の足取りも、なんだか軽やかなような気がして、浅沼の幸福感は何倍にも膨れ上がった。
公園を出てタクシーを拾い、予め上映時間と公園へ誘って話をすることを計算に入れて、次官に余裕を持って予約しておいたイタリアンレストランに向かった。
「あら?予約しておいたんですか?」
ウェイターに名前を告げ、席に案内されると、和代が呆れたような可笑しそうな顔で言ったので、こんな間抜けなことなら予約はよしておけばよかったと顔を赤くしながら、浅沼は何とか笑顔で切り返した。
「断られたら、二人分をやけ食いしようと思ってました……」
「まぁ……」
和代の好みがわからなかったので、改めて注文したせいで、結構、時間が掛かると告げられた。
「でも映画といい、食事といい、断られなくて、本当にホッとしています」
「だって、社内でも有名人の浅沼さんに誘われたなんて、他の人に知られたら……私、正直ビクビクしてたんですよ」
「僕が有名人ですか?」
「だって、急に実力を発揮して頭角を現した、有望な若手社員だって、女子社員の間じゃものすごく噂になってますよ。それに、浅沼さんを慕っている娘だって一杯いるみたいだし……」
浅沼は褒められてポーっとしたのち、冷や汗を流した。
女子社員との合コンのことを知られているのではないかと、疑心暗鬼に囚われたのだ。
「秘書課まで噂がいくなんて、ちょっと前までは考えられなかったことで、とても光栄です」
浅沼は話を逸らした。
「あのですね、これは内緒なんですけど……」
話を逸らしてことに和代は気付いていない様子だった。
本当にお嬢様なんだなぁと思いつつ、急に声を潜めた和代の真剣ながら、ちょっと茶目っ気のある目つきに、自然と浅沼は身を乗り出した。
「……何です?」
「うちの会長も、浅沼さんの名前を口に出したりするんですよ。若い有望株が、突然現れたらしいな……なんて」
浅沼は雷に打たれたように硬直した。
会長が自分の名前を知っている……それどころか好意的な評価までしている。
自分はいつの間にか、それほどの男になっていたのかと思うと、感動もしたし震えもしたし、感慨にふけざるを得なかった。
「あの、浅沼さん。お料理来ましたよ」
運ばれてくる料理に舌鼓を打ちながら、和代が請うので、浅沼は今、自分がしている仕事の話をした。
「そんな大きな仕事が進んでるんですね」
「ええ、毎日大変ですが、やりがいがあります。ほんとにプロジェクトのメンバーに選ばれて、僕は充実した日々を送ってるんです」
「仕事に夢中になっている男の人って、表情が生き生きしているんですね」
「え、そう見えますか?」
「ええ、そう見えます」
会計を済ませ、最寄の駅まで和代を送る間、浅沼はずっと次は〃誘おうかと考えていた。
しかし妙案は浮かばず、思い切って、切り出すしか方法は浮かばなかった。
「三池さん、今度また、映画でも……他のことでもいいので、一緒に過ごしていただけませんか?」
和代は頬を染めてうつむいた。
「私……駄目なんです……」
浅沼は足元が崩れ落ちたような気がした。
目の前に和代がいなければ、そのままへたり込んでいただろう。
「ちゃんと、お付き合いをしている人じゃなきゃ、そういうふうに遊びにいったりするのはいけないって思ってしまうんです。だから……」
「だから……?」
そこで浅沼は気がついた、和代は浅沼の言葉を待っているのだ。
「三池さん、僕とお付き合いしていただけないでしょうか?」
「はい……」
それから先のことは、まるで夢の中での出来事のようで、見も心もフワフワとして、和代を改札まで送ってから先は、全く記憶になく、いつの間にか一人暮らしの自宅の敷きっぱなしの布団の上で、胡坐をかいて座っているところだった。
それから毎晩、恩を仇で返さぬように、帰り道には欠かさず、石像のところによって、和代を手に入れたいと願ったときほど豪華ではないが、お供え物を浅沼はするようになり、いつしかそれが習慣になった。
いつか、自分が願いをかけたこの石像を、和代に紹介する日が来るかもしれないと、そんな夢想までする浅沼だった。
和代とは、やはり家が厳しいのか、夕飯は一緒にとることもできず、休日のデートも日の高いうちに別れることとなるのだが、何度か逢瀬を重ねた。
会社ではもうすっかり噂になり、浅沼も和代も色々な言葉、様々な視線を受けたが、二人の幸福は二人だけのものだった。
ある日二人は、浅沼の借りたレンタカーで快晴の空の下、ドライブに出た。
早めの昼食の後、小高い丘にある公園で、二人は芝生の上にシートを敷いて、始めのうちは腰をかけて、色々話をしていたが、そのうち広い空を見ているうちに、横になって空を見ようということになった。
「子供の頃は、原っぱで横になってぼんやり空を見ているのが好きだったんです、私……」
「僕は落ち着きの無い子供だったなぁ」
並んで横になりながら、ぼんやりと流れる雲を見、初めて並んで横になるという行為に戸惑いを覚えつつも、気分を高ぶらせた二人だった。
あまりにも興奮しすぎたのか、日ごろの激務に疲れ気味だった浅沼はウトウトしてしまったらしい、気づくと頭の下においていた両手は両脇に揃えられ、首の角度が丁度いい高さで、このまま再び眠りたくなるような柔らかい感触が頭の下にあった。
「浅沼さん、子供みたいな寝顔で可愛かったですよ。頭の下から手をどけるのは苦労しましたけど、苦労した甲斐があって、初めて膝枕っていうのができました。案外と楽しいし、心が落ち着くんですね。されてるほうより、してるほうが……」
浅沼は慌てて身を起こした。
「すいません、ついうっかり……寝てしまって、その上、膝、膝枕まで……」
「いいえ。浅沼さんが仕事を頑張ってるのは知ってますから。それに、膝枕は私が勝手に遣ったことですから。子供の頃母の膝枕が大好きだったんです。いつか自分も誰かにしてあげれたらなぁって思ってて……。その相手が浅沼さんで、私、幸せです……」
幸せなのは自分のほうだ。
世界で、これほどの幸せ者は他にいないのではないかと、浅沼はまじまじと和代を見つめた。
見つめられた和代は恥ずかしくなったのか、うん、と背伸びをすると立ち上がり、指を指して浅沼の視線をそちらに向けさせた。
「ほら、あそこにホテルが見えるでしょう。立派なホテル。あそこでおやつにしません?私、少しお腹が空いちゃって……」
照れ隠しなのか、本当にお腹が空いたのか、何度もデートを重ねるうちに、和代は段々と親しみをこめた口調になってきていた。
付き合い始めの頃なら、口が裂けてもおやつのおねだりなどしなかっただろうに……。
浅沼も立ち上がり伸びをした。
「いいね。僕も少しお腹が減っていたところなんだ。ケーキでも食べようか?和代さんはどんなケー」
ケーキと言い終える事ができなかった。
和代が指差していたのは、立派は立派でも、田舎には良くある、安い土地を一杯に使って、見た目だけは立派なつくりのラブホテルだったからだ。
和代は気付いていていっているのか、本当に気付いていないのか?
「和代さん、ちょっと町へ出て、そこの喫茶店にしないかい?」
平静を装いながらも、声が上ずってしまうのが、自分でもわかった。
「え~、何でですか?あれだけ立派なら、おいしいケーキもあるはずです。私は、あそこがいいです」
こんなわがままも、以前の和代なら言わないようなことだと苦笑しつつも、どう説明していいのか、浅沼は途方に暮れた。
「いや、ルームサービスで軽食くらいは出るかもしれないけど、そんなたいしたものは出ないと思うな……」
「いいえ、きっと立派なカフェがあって、おいしいケーキが食べれます!」
浅沼は頭を掻いた。
結局は真実を語るしかないのか……。
「和代さん……。あれはね特殊なホテルなんだよ……」
「特殊?」
「ラブホテルだよ」
「ラ……」
そう言ったきり和代は、暫くはキョトンとした顔をしていたが、すぐさま顔を真っ赤にして俯いてしまった。
さすがにどんな場所かは知っているらしく、急にオロオロとなり、視線を浅沼に戻したものの、そこに慰めの笑顔が浮かんでいるのを見て、再び顔を赤くした。
気まずい空気が二人の間に流れた。
「さ、喫茶店を探そう……」
そう言いながら浅沼がシートを畳み始めると、その服の端が引っ張られた。
「軽いものなら出るんですよね?」
浅沼は喉を鳴らした。
その日、浅沼と和代は結ばれた。
和代は処女だった。
このタイプの女性の一番大切なものを贈られて、浅沼は人生で一番かもしれない幸福に酔った。
二人の交際は順調に進み、浅沼に小さからぬ転機が二つ訪れた。
一つはプロジェクト内の一つのセクションのチーフに抜擢されたことだった。
プロジェクトに参加したことも驚くには驚いたが、この自分が、一つの部門の責任者になれるなど、夢にも思っていなかった浅沼は、今までは人目をはばかって、誘ったことのなかった昼食に、和代を誘って報告した。
それを聞いた和代は、一瞬目を輝かせたが、すぐにその目を伏せてしまった。
そういえば最近の和代の様子はおかしかった。
今日、ランチに誘ったときも、普段の和代なら恥ずかしがって、やんわりと断ってくるのに、なにやら投げやりな感じで誘いに応じた。
ついこの前の休日のデートも、なにやら考え込んでいる様子で、セックスも断ってきたのだ。
「どうしたの?喜んでくれないのかい?」
和代は首を振った。
「いえ、とても嬉しいわ。でもね、私のほうも報告があるの……。それを聞いたら浅沼さんが、どういう反応をするのかとても怖いの……」
何であるかは、直感的に浅沼にも理解できた。
しかし、それを自分で問うか、それとも和代自身の口から言わせるか、迷った末に浅沼は和代の口からそれを聞きたいと思った。
「もしかして、おめでたいことじゃないのかい?」
浅沼は呼び水を口にした。
「はい……。私……赤ちゃんができたみたいなんです……」
よほど勇気がいったのか、テーブルの上に組み合わせておいた手が震えていた和代の手を、浅沼は力強く掴んだ。
「僕の昇進より、そっちのほうがとっても喜ばしいことじゃないか!ありがとう、僕の子を宿してくれて」
和代はそれまで伏せていた顔を上げた。
その目には涙が光っていた。
「嬉しい……。どう思われるかと思って、気が気じゃなかったんです」
「どうしてだい?喜ぶに決まってるじゃないか!」
和代は本当に安心したという顔で頷いた。
「でも、逆に僕は心配になってきたよ」
「何でです?」
「君のお父さんに、二、散発は殴られる覚悟をしないといけないからね」
和代はフフフと笑って、涙を拭った。
「父の耳にも、うちの会長から若くて有望な社員として、自慢話として入ってます、浅沼さんのこと……」
「本当かい?」
「はい。父にはまだですけど、母には浅沼さんと交際していることを伝えましたし、きっと母は、父を説得する味方になってくれると思うんです」
「それは良かった……」
二人のかわす笑顔には幸福が滲み出ていた。
しかし、その数週間後、事態が一変するとは、まだ二人は知らないでいた。
二週間ほどたった朝、浅沼は着替えて部屋を出ようとしていた。
チーフとなってからの仕事も順調であったし、今度の週末の休日には、和代の家に招かれ、彼女の父母に紹介してもらうことになっていた。
何の変哲もない朝だった。
身支度を整え、さあ会社へと玄関に向いた浅沼の目に、信じられないものが飛び込んできた。
暗色のスーツを着込んだ、年齢不詳の男が二人、玄関の中に立って、浅沼を見つめていたのだ。
鍵をかけていたはずなのに何故、この二人は入り込んだのだろう?と、思った瞬間に、浅沼の意識はすっぱりと黒いベールで閉じられた。
浅沼がかすみのような視界で捉えたのは、薄ぼんやりとしたくらい光景で、むき出しの地面が目の前にあることによって、自分が倒れていることを知った。
「ようやく、お目覚めかね?」
上のほうから声が降ってくる。
身体に痛みはなかったが、頭がはっきりとしない。
目を瞬いて、身を起こすと、自分の家に侵入した年齢不詳の男二人が、自分を見下ろしながら佇んでいた。
「ここはどこだ……?」
自分の声が掠れているのがわかる。
「どことも言えないな。ただ、日本のどこかの地下であるとしか言いようがない」
二人の内、髪の短いほうが言った。
その声から、先ほど声をかけてきたのも、この人物だと知れた。
「どういう意味だ?」
「周りを見渡してみろ、ここは御方様のお通りになられる坑道だ……」
もう一方のやや太った男が言った。
何の意味やらわからないまま、浅沼は辺りを見渡した。
こうどう……何の意味か理解できなかったが、辺りを見渡してみて、その意味がわかった。
ここは地下のトンネルなのだ、こうどうというのは坑道という意味だと理解できた。
「何でこんなところに……」
身体に力が入らない、薬でも飲まされたのだろうか?
二人の男は顔を見合わせ、お互いに苦笑しあった。
「運がいいのか悪いのかは、お宅自身の判断に任せるしかないだろうが、あんたは見込まれたんだよ、御方様に……」
髪の短いほうが言った。
「おんかたさま?」
「尊い御方だ。現世利益を実践なされる、まさに神だよ」
今度は太ったほうが言った。
こいつらは宗教団体か何かなのか?太ったほうの言葉は多分に、そういった意味が組み込まれているように聞こえた。
「お前ら、宗教団体か何かなのか?」
二人は笑った。
「その通りでもあるし、特殊な組織、結社でもある。お前さんもこれから知ることになるだろう……」
髪の短いほうの言葉に、浅沼は噛み付いた。
「俺は何の宗教も持っていないし、何の信心もないぞ!一体どういう理由で、こんなことをするんだ」
太った男が言った。
「おいおい、何を言ってるんだ?毎日毎日、供え物をしているのに、信心がないということはないだろう?」
浅沼は愕然とした。
あの石像のことを言っているのか?こいつらが信仰、もしくは崇拝しているのは、あの石像なのか?
「どうだ?思い出しただろう?お前が拝んで、色々いい目を見せてもらったのは、御方様の姿を彫ったものだ。俺たちのような御方様の信者以外には、ただの古い石像だが、あれは尊いものなんだ。しかも、あの似姿の下には、御方様の坑道が走っている。特別なものなんだよ。日本に数個しかないほどのな。お前は偶然にも御方様に手を合わせたとき、御方様がその坑道を移動なさっておられた。そこでお前は目をかけていただけたのだ。全く羨ましい話だよ……」
短髪の男が、本当に妬ましげに浅沼を見た。
「本来なら然るべき血筋の一族か、よほどの権勢を持った者しか、御方様のお眼鏡には適わないのだが、たった一度の偶然で目をかけていただけるとは……」
「いや、この男、蛇淫の精が濃いという話だぞ……。案外、御方様自ら、招き寄せたのかもしれん」
二人の会話は浅沼には全く理解不能だったが、あの夜あの場所であの石像を拝んだとき、感じたあの地震は……?
浅沼は掘りぬかれたトンネルをもう一度見渡した。
高さ、幅ともに優に人の三倍ほどの広さがある、ここを通っていくときに地響きを立てるような存在とはいったい……どれくらいの大きさであるというのだ?
「まさか……あの地震が……」
「そうだよ。俺たちもあの場所にいた。お前さんが御方様の像の前に跪いたときは、何事かと思ったよ。俺たちは立場上、信者全員の情報を抑えている。もちろん顔も名前もな。ところがどこの子馬の骨かわからない奴が、御方様の像を拝んでいるじゃないか?しかも御方様が、その真下を通過するっていうタイミングで……正直慌てたよ」
「その上、後日、御方様がお前の願いを叶えてやれ、そう取り計らえときたもんだ。悪いが、あんたにそんな価値があるとは思えなかった。悪いけど経歴を調べさせてもらったからな……」
浅沼は男と立ちの話を呆然として聞いていたが、現実にそんなことがありえるとは思えなかった。
「そんなことはありえない!」
「ありうるのさ……あんたが最初に願った、得意先の嫌な担当の移動は、あの会社のトップにいる、うちの信者が命令を下した。あんたのこれまでの会社での活躍も、大抜擢はあの会社の上層部の信者がしたことだし、あんたが自分でも驚くような力を発揮できたのは、御方様の信者があの会社の上層部にいて、お前の同僚も意識化で操られてたんだよ、急に出てきた仕事のできる奴って……実際は、お前の知らないウチの同胞で、お前の名前で色々と仕事をして、それを全てお前の手柄ってことにしていただけなんだだがな。おめでたいお前さんは、そんなことに気づきはしなかったろうなぁ」
今までの幸運と分不相応の活躍は、すべて、その御方様とそれを信仰する者たちの力で成し遂げられたものだったのか?
浅沼は信じられない思いの反面、今までの自分の成功が自分自身の力以上のものであると、認めざるを得なかった。
しかし、そんなことは理性ではありえないという最後の抵抗が、浅沼の口を開かせた。
「じゃあ、ギャンブルはどうなんだ?競馬やパチンコの勝敗も御方様ってのが、取り計らってくれたとでもいうのか?」
「当然だ……」
太ったほうの男が答えた。
「競馬は、お前さんが駆けた馬の精神状態を御方様が操って、一種の超興奮状態にさせて勝たせた。パチンコは、座った席の設定を店員の精神を操って、高目にさせた。全部俺とこいつが、あんたを監視して、御方様に伝えたんだ。少しはありがたがってくれ……」
正気の沙汰じゃなかった。
何でもその、御方様の意思のとおりに動いていたというのか……?
「まさか……三池和代も……」
「あんな小娘の心なぞ、御方様に掛かったらひとたまりもないさ。お前に惚れさせてやったんだ」
浅沼の心は先々に乱れた。
「どうして俺に、そんな思いをさせたんだ?それに最初の質問に答えていないぞ、何でこんなところに連れてきたんだ」
「まず最初の質問に答えよう。これはお前さんが分不相応な幸運をなぜ御方様がをお与えになったかの答えにもなる……」
単発のほうの男がにやりと笑った。
「ここに連れてきたのは、御方様の命令だ。だからあんたはここにいる。なぜかというと、あんたに貢物をささげさせるためだ……」
「貢物?」
「そうだ。今まであんたは色々と御方様に、供え物をしてきただろう?今回は、そんな半端なものではなく、あんたの一番大切なものを、御方様に捧げ、御方様はそれをお食べになって、滋養を増すということだ……」
「と、同時に、御方様に御目通りが叶って、はれてお前さんは御方様に仕える者としての人生を始められるというわけだ。俺たちの仲間になるんだ……」
大切なもの……?御方様がお食べになる……?
痺れたように思考を拒否する頭の中で、閃光のような像が姿を形作った。
「和代……!」
急に身体に力が漲り、気付くと二人の屈強な男を跳ね飛ばし、浅沼は暗闇の中を猛烈な勢いで突っ走っていった。
倒された男二人は、その表紙に付いた土を服から払いながら、消えていった浅沼のほうへ視線を向けた。
「無駄なことを……。ここからは逃げられはしないというのに……」
「しかし、逃げられたことが知られたのら厄介なことになる。追うぞ……」
「まぁ、どこに逃げても御方様の目からは逃げられないがな……御方様は今回の獲物が、腹に赤子がいるということで心待ちにしておられるからなぁ……」
男たちは動き出した。
浅沼は右へ左へ、上へ下へ、後ろの男たちから逃げるためか、それとも和代を救うためにか、それともこの、御方様のトンネルから現世に戻るためなのか?
途中から目的が判然としないまま、彷徨い続けた。
トンネルは床を最も強い光源として、左右の壁も燐光のようなものを発しており、暗闇で迷うということはなかったが、そのいくつも枝分かれした道を、どこをどうやって辿ってきたかは、もう浅沼にはわからなかった。
時間の経過もあやふやだったが、幸い時計も携帯電話も取り上げられておらず、自分が連れ去れてから、既にまる二日経っているということがわかった。
空腹と疲労に負け、浅沼はトンネルの縁に腰掛けた。
携帯電話は県外を示しており、救援は望めそうになかった。
待ち受け画面にしていた、自分と三池和代の写真を見て涙がこぼれそうになった。
絶対に救い出してやるという気持ちと、こんなことに巻き込んでしまった子という罪悪感を、和代に対して強く感じた。
まさかこんなことになるとは夢にも思わなかったんだ……。
こんな犠牲を払わされるとしたら、自分はあんな石像を拝んだり、供え物などしなかっただろう。
しかし一方で、大切な人を犠牲にしてでも御方様の現世利益を得ようとしている者が
いるという事実もあるのだ。
さっきあの二人が言っていたではないか、自分たちは宗教団体でもあり、組織であり、結社でもあると……。
おぼろげになっていた決意が明確なものになった。
まず見つけられれば和代を救い出す、もしできなければ、何とかここから出て警察を呼んで和代を救い出す。
自分のもっとも大切なものが失われるのは耐えられなかった。
決意が固まると、また少し力がわいてきたので、ふらつきながらも手を付いて身体を起こした。
手がぬるりとしたものに触れる。
ズボンで拭ったが、完全に取れたわけではなく、苛立った。
上着にハンカチでもと探そうとした浅沼は、ぬめっている己が手が、燐光を発しているのに気付き、目を近づけ強烈な生臭さに吐き気をもよおした。
これが御方様が通った跡に残された物質だとしたら……あの二人の男は、御方様を神だと言ったが、いったいどんな神なのだろうか?トンネルを進むとき数分の地響きを立てることから巨大なものに間違いはない、それに通るのに数分が掛かるというのは、それだけの長さがあるのではないかと、自分の体験から浅沼はそんな想像をしてしまった。
早く、一刻も早く和代を探し出すか、ここを抜け出すかしなければ大変なことになる、と、浅沼は疲れた身体に鞭打って進んだ。
何時間か歩いたのち、それまで無音だったトンネルに、微かな音が聞こえ始めた。
なにやら人の声のような気がして、浅沼はそちらに向かうか、それとも危険だと判じ反対方向へ戻るかの選択を迫られたが、一縷の希望と好奇心、何より人の声が聞こえるという安堵感に負けて、音のする方向へと進んでいった。
そのうち右手の方向から、トンネルの壁の発する燐光ではない、暖かい色の光が見え始めて、浅沼は用心しいしい、トンネルの壁面に身体をぴったりとつけ、生臭い臭いに耐えながら、身体を低くして這うように光のほうへと進んでいった。
そこはトンネルの中の大きな窪みで、大体市営のプールほどの大きさだろうか?
何人もの人が集まって、頭をたれ、何やら同じことを繰り返し声に出していた。
しまった、狂信者たちの集合場所だったかと、そこから後ずさった浅沼だったが、人々の奥にある?それとも居る?モノに目が釘付けになってしまった。
人々の奥の、少し高くなった場所に巨大な蛇がとぐろを巻いていたのだ。
距離感と暗さで正確な大きさはわからなかったが、その周りの人々との比較や、胴回りも太く、とぐろを幾重に巻いているので体長も、尋常ではない長さだとわかる。
度肝を抜かれ精神も麻痺してしまったが、そのうち、この化け物を携帯のカメラで取っておけば、ここを抜け出せたときの証拠になるだろうと、冷静になった頭の一部が懐にある携帯を取り出した。
震える手でカメラモードにして化け物と狂信者たちをフレームに収めると、何やら騒々しくなり、男の太い悲鳴が辺りの声を掻き消すように響き渡った。
見ると三人くらいの屈強な男共に縄で引きずられ、手がなく、足はまるで蛇のような真っ白い生き物がもがいていた。
その生き物の頭部は、毛髪こそないものの人のそれであり、激しく喚くためチラリと見えた、その横顔はまさに人間の男の顔であった。
奥がりの暗闇から、巨大な蛇の鎌首が、その生き物のほうに伸びてきた。
その瞬間、浅沼は小さく悲鳴を漏らした。
その巨大な蛇の頭部は、人間に良く似ていたのである。
鼻梁こそなかったが、その部分には竪に二本の筋がある……鼻であるのだろう……大きく区裂けた口は、蛇にはない唇があり、それが、これもまた蛇にはない突起した耳まで広がっている。
耳の辺りには申し訳程度だが、長くたれた白髪が生えており、何より浅沼を怯えさせたのは、その目だった。
決して蛇の目ではない、細長いが知性を湛えた人間に良く似た目が、目の前の蛇のような人間に注がれている。
人々の声が高まり、巨大な人面の蛇の前に引きずり出された、小型の人面の蛇の喚き声も一段と大きくなった。
浅沼は無意識にカメラのボタンを押していた。
巨大な人面の蛇は身体をのたくらせて、小型の蛇のほうへその顔を伸ばすと、口を大きく開き、供物を飲み込み始めた。
浅沼の限界はそこまでだった。
身を翻し、足音を立てないようにその場から離れ、あとは全力で走って逃げた。
御方様というのは、あの巨大な人面の蛇のことをいうのだ。
そして、あの石像の三角形の上に人の顔を彫ったものは、正確にあの巨大な人面蛇を模しており、あの日、自分が地震と感じたのは、あの巨大な生物が自分の真下を通っていった結果だったのだ。
何時間走り続けたかわからないが、疲れて立ち止まった浅沼は、巨大な人面蛇に差し出された小型の人面蛇のことを考え、全身が総毛だった。
前方から、ふとザワザワと音が聞こえてきた。
目を凝らすと、トンネルの床の一部が、これまでの土が剥き出しの状態ではなく、何やら格子状になっているのが見えた。
恐怖が全身を包んだが、元の方向に戻っても出口には至らないとわかっていたので、恐る恐る歩を進めた。
それは思ったとおり、床に穴を開け、格子で蓋をしているのだった。
中を覗き込むと、無数の白い物体がヌラヌラと蠢いていた。
これは先ほど見た、御方様と呼ばれる巨大な人面の蛇に捧げられる、小型の人面蛇を閉じ込めている場所なのだ。
もう逃げられるとは、出口を探し出されるとは思えなくなっていたが、これもまた証拠になるだろうと、無気力ながら機械的に、浅沼は携帯を取り出し、穴の奥のほうは暗いのでライト機能を使った。
おぞましかった。
……これほどの生贄の数がいるということは、自分の欲望のためにそれを差し出す信者も同じ数、存在するという事実が気を滅入らせた。
何と利己的で残酷な奴らなのだろう……浅沼は静かに怒りを感じながら、カメラのボタンを数回押した。
その蠢く生贄の中の一匹が、不意に浅沼のいる上方へと顔を向けた。
浅沼はひるんだ、写真も数枚取ったし、もう退散する頃合だ。
次の瞬間、浅沼に顔を向けていた一匹が、全身のバネを使ってなのか、喚きながら飛び跳ねて格子のほうへ飛んできた。
浅沼は驚き、恐怖しながら後ずさった。
真っ白になった頭に、緊張のために自然に押したのか、シャッター音が鳴り響いた。
浅沼はカメラ画面越しに見たものに愕然とし、その場から逃げ出して、一息つくなり、最後に撮った一枚を再生した。
そのあとのことは覚えていない。
どんな奇跡なのか、浅沼は迷宮のような御方様のトンネルから抜け出し、フラフラと外へ彷徨い出した。
そこで偶然にも犬と散歩中の初老の男性と遭遇し、保護され病院に運ばれたのだ。
そこで警察から事情聴取を受けたのだが、浅沼はほぼ正気を失っていた……が、聴取には答えることはでき、その異常な内容に、本部に連絡が取られ警視庁の上層部に報告された。
「そのとき撮った写真がこれか……三十メートルはくだらない大物だな」
まるで釣った魚の釣果の話をするように、高良が言った。
そのとき、奥まったボックス席に眉が濃く、目の大きい長髪の青年が顔を出した。
「お、吉澤!来たのか?座れ座れ!」
青年は微笑むと、珍しく大人数のボックス席の開いた席に座った。
「今度は探偵のお出ましかい?」
荒川が珍しそうな顔で要った。
「俺が依頼してたんだよ。菅原の話の最後のピースがこれで揃った……と思っていいんだろう?吉澤?」
吉澤と呼ばれた青年の探偵は、苦笑いしながら頷いた。
「じゃあ、お前、見つけたのか?浅沼が最後に撮った写真を……。警察が血眼になって捜してもなかったんだぞ」
菅原の言葉に、吉澤は頭を掻きながら、懐から封筒を取り出し、ひっくり返してその中身を手の平に受けた。
「マイクロディスクの中に入ってました。奴さん、この写真だけは携帯に入れたままにしたくなかったんでしょうね。こっちに移して、草薮に捨てた。しかもちょっとした崖の途中にですよ。高良先生のところの学生さんがいなけりゃ、見つけられませんでしたよ。俺も登山家よろしくザイルを木にくくりつけて、必死な思いでぶら下がりながら、見つけたんですから」
「俺の貸した生徒の力だけじゃ無理だったよ。何しろ感知距離が短いからな。吉澤が足を使って浅沼の痕跡を辿って、当たりをつけなきゃ見つけられなかったって」
高良の労いの言葉に、再び吉澤は頭を掻いた。
「高良先生。残留し年を読み取る能力を持った生徒を使ったんですね?」
近藤の言葉に、高良は黙って頷いた。
「で、写真は?」
苛々とした口調で菅原が言った。
吉澤は別の封筒を取り出すと菅原に渡した。
ひったくるように封筒を受け取った菅原は、中に入った写真をじっと見つめると、おもむろに自分の懐から封筒を出すと、一枚の写真を取り出した。
両方を見比べたあと、肩を落とした。
「これで彼女の誘拐、もしくは失踪の件はお宮入りだな……」
「彼女?」
荒川が不思議そうな顔で要った。
近藤は力なく手を降ろした菅原の手から写真を奪い取り、同じように交互に見つめてから高良に渡し、見比べるとううんと唸った。
「荒川さん、今まで菅原の話をちゃんと聞いていたのかい?浅沼氏は、大切な人を人頭蛇神の神様の供物に捧げられたんだよ。彼が正気を失ったのは、出口へ至る前、最後に撮った写真を見たからさ……」
高良の手から、荒川へ二枚の写真が渡された。
その写真を見て、荒川は息を呑んだ。
一枚は可憐な女性が薄く微笑を浮かべて写っている。
相当の美人に違いない……しかしもう一枚は……。
恐ろしい被写体だった。
画面いっぱいに顔が映っているが、体毛などは一切ないので非人間的に見える。
体毛だけではない、大きく開いた口の上下には、恐ろしげなとがった牙が唾液にぬれて光っている。
そして何より恐ろしく悲しいのは、その顔は目を吊り上げ怒りに満ちているが、もう一枚の写真の人物とそっくりだということだ。
「これは……」
「三池和代だ……」
菅原が力なく言った。
「彼女の失踪届けが、浅沼の失踪の翌日に出されたんだ……。彼女もまた、御方様の犠牲者の一人ってわけだ」
その時菅原の携帯電話がなった。
「ちょっと失礼……。菅原だが……何!何だっていうんだ!いいから封筒を開けて中を読んでみせろ」
菅原の顔に緊張が走る。
残りの皆は、蛇身にされた三池和代の二枚の写真を見て、深く溜息をついた。
「なに?浅沼に関しての捜査は中止されたしだと?浅沼の身柄はこちらが確保している?いったん戻る。どこのどいつだ?そんなふざけたことをしたのは?」
「菅原、興奮してもどうなることでもあるまい……」
「しかし、俺の部署に入れる人間は、内部の限られた者だけなんですよ!」
「それはつまり、御方様の手の者が、警察中枢、上層部にもいるってことだろう……」
「内容は?」
近藤が聞いた。
「ちょっと待ってくれ、風を開いて中を読んでくれ。浅沼氏の失踪については、これ以上の捜査は控えた方がいいだと!氏の身柄は我々が預かっている?他には?」
振り返って菅原が高良を見つめた。
「高良というお節介な学者にも静観を求めたい……だそうです」
近藤の姉の幸恵にコーヒーのお代わりを……その場全員もそうしたのだが……しながら、つまらなさそうな顔で高良が言った。
「いよいよ俺も有名どころに名を連ねたらしいな。心配しなくていい。こちらから動く気は今のところないよ……」
菅原は上着を羽織って、呟きながらボックス席をあとにした。
「これで終わらせてたまるかよ!」
そう言い捨てて、菅原は立ち去っていった。
「人頭蛇身か、近藤思いつくだけでいいから、幾つだけある?」
高良が幸恵からコーヒーを受け取り頭を下げながら、近藤に問うた。
「まず近いものだと甲賀三郎でしょうね、地下を徘徊しながら最終的に人頭蛇身になったっというあれ……。他にはタケミナカタノミコト、これは諏訪の地神、ミシャクジ様と併合されたというものでしょう。アジアには多くの文献はあるでしょうが、一番古いのは、中国の女媧と伏羲でしょうね……」
「何、世界を巡れば、それ以上の古い人頭蛇身の伝説は出てくるだろうさ。しかし必ず、人と関わっている。これはなんなんだろうなぁ……」
近藤は薄く笑って、
「アダムとイブが~りんごを食べてから~」
と軽く歌い、荒川が笑った。
「随分、古い曲だねぇ」
高良も薄く笑った。
「それくらい古い時代から、蛇と人間は繋がりがあったってわけだ。蛇は人間に何らかの感情……それが恐怖だろうと、愛着だろうと搔き立てる存在だったわけだ」
近藤が思案顔になり。
「土着の神なのか、それとも外来の神なのか……しかし、その浅沼って人物はとんでもないものに魅入られたんだね」
「奴も良い想いをしたんだ。文句は言えまい。しかしその後はどうなったか……まぁ、どうでもいいことだけどな」
近藤が挑発的に高良に言った。
「このまま放っておく気ですか?」
「いろんな組織の上層部に信者が食い込んでるんだぜ。それに忌神と違って、共生しているとくる。そうなるとな、こちとらも迂闊に手は出せないさ」
そう言って高良は、残ったコーヒーを飲み干して、席を立って出て行った。
「高良さんはどうするつもりだろう……」
心配そうな荒川に、
「言葉の通りさ。静観を決め込む。ただあの人の性格だから、動くだろうさ」
「なぜだい?」
「犠牲者が出てる。いくら共生しているといっても、犠牲者が出てるんだから、あの先生が動かないはずがないだろうよ……正義感の塊のような人だからね」
「まずいじゃないか?」
「荒川さんの知らない間に、神の世界は変貌しているよ。高良教授が攻め時だと思ったら、それは微細なデーターから膨大な情報を把握しての行動なんだから、僕ら傍観者には関係のないことなんだよ……」
多くの人が関わり、犠牲者が出ている。
「高良さんが、放っておくはずはないよ……だからと言って、僕たちが何ができる?傍観者でしかないのさ……」
近藤はそう言って、頭の後ろで腕を組み、足を組んだ。
ぼんやりと目を覚ました。
大勢の人間が自分の前に平伏している。
その中の二人に見覚えがあった。
遠い過去に自分をいたぶるようにした二人負組みだ、大きく口を開けシャーっと威嚇してやった。
自分の目に上下に鋭い牙が上下に生えているのが見える。
身体を動かす、これまでの手足を動かすと言うのではなく、身体を蠕動させ前に進む感じだ。
身体を少しのたくらせて前に進んだ。
二人組みがたじろぎ、そのあと脱兎のごとく逃げ出した。
かつて人だった……かつてなんという名前だったのだろうか?思い出せないまま、その存在は奴らの行動に満足した。
自分の目の前に縄に引かれた小蛇が連れてこられた。
美しい顔をしている、腹が大きく膨れているのが見える。
孕んでいるのだな、これは語馳走だ……横にいる御方様に目をやる、自分がこの供物を得ていいのか恐る恐る見や立ったが、御方様はただ頷いただけだった。
縄に引かれた小蛇はもう諦めた様子だった。
上手く発生できない口で懇願するように自分に向かっていった。
「浅沼さん、このお腹の子は私とアナタの子なのよ……」
一瞬、かつて浅沼だった存在はひるむ……しかし耐え難い空腹感には耐えられず、素早く大きく身体を伸ばし、女の子蛇を飲み込んだ。
小蛇が体内を移動し、強力な消化液に溶かされていくのがわかる。
プチリと弾けたのは、子蛇が孕んでいた子だろか?食堂自体に味覚があるように、その感覚がかつて浅沼だった存在を陶酔させた。
篝火が辺りを照らし、大勢の人間が平伏していた。
人頭蛇身となった浅沼は、大いに満足して辺りを睥睨した。
了
怪異譚 福本驚 @hiroyuki0402
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