第4話 ジムノペティ
「ジムノペディ」
福本 驚
「よう、お二人さん。急にだが邪魔をする」
それはある日の夕方、そのままずかずかと、中を覗き込んだ縁無しの眼鏡をかけた奥に、鋭い目を湛えた人物が、店の中で人の視線を完全にさえぎるようにつくられた、かなり広い区画を閉めたボックス席に無遠慮に入ってくるのを、荒川が少し驚いて、近藤は眉を少し上げて迎え入れた。
「よう、菅原、刑事さんが勤務中にいいのか?こんなところに油を売りに来て」
近藤が席を立ち、コーヒー好きの菅原ために、サイフォンその他の道具を一式取りに行く間に、菅原と呼ばれた一部の好きもなくスーツを着込んで、口の端に笑みを歪んで浮かばせている刑事は、鋭い眼光のまま、荒川の横の席の空いた場所に座り込んだ。
「勤務中だから来たんだよ。意見を聞きにな。あの神様狂いの先生は顔を見せないのか?携帯にかけても出ないんだよ」
と、菅原が問うと近藤はいかにも楽しそうに答えた。
「高良先生なら今、起きてしまった忌神を退治するために、出陣中だよ。何でも、ある高校にその眷族が現れて、大変なことになっているらしい。そっちに情報は入ってないのか?」
「今のところはない。管轄違いなんだろ……」
テーブルに道具一式をセットして準備し始めた近藤に、逆に菅原に尋ねた。
「きっとあの先生が関わるってことなら、俺みたいなペーペーには情報は廻ってこないよ。上層部で揉み消される。この世に、人間以上の存在はいないってことが、この世の約束事だから。キリスト教やイスラム教、その他のあらゆる宗教の狂信している連中も、本当に神がいると知ったらどうなることやら。ってことで、国際的に『神』の存在は否定されている……ってとこだろ?」
先ほどまで鋭かった眼光を緩ませて、コーヒーの出来上がっていく香りを嗅ぎながら、菅原は言った。
「なに言ってんのさ、菅原君。そこまでの情報は、普通の警官じゃつかめないよ。そっから考えても、それを知ってて野放しにされてんだから、エリートコースまっしぐらでしょ、アンタは。だから近藤君だって、僕と違ってちゃんとコーヒー煎れてんじゃないのさ。僕が今、飲んでるのはわざわざ近藤君が妹に命じて煎れさせた、由緒正しいブルーマウンテンの出涸らしだよ。近藤君はそうやって差別するんだよ。まったくねぇ」
「荒川さんはただでいつも飲んでるんだし、菅原はちゃんと代金を払ってくれるからね。まぁ、経費で落とすんだろうけど」
荒川の言葉に顔を向けた菅原は、エリートという言葉にふさわしい、一部の隙も無く撫で付けられた髪を、更に神経質そうに撫で付けながら、苦笑した。
「確かに経費で落としてるよ。しかしながら、それは荒川先生が毎日のようにここに来ているから、近藤が面倒臭がってるんでしょう。俺は何か起きなきゃ来ない、それに、俺がここに来るってことは……」
と、近藤に向き直りながら、
「コイツが好きそうな話題を持ってきたってことだからですよ。凝ったコーヒーはその御褒美ってわけで……」
近藤が手ずからに入れたコーヒーのカップを持ち上げて、香りを楽しんでから、
「わけのわからん事件が起きた……だからここに来た。満足だろう、近藤……」
近藤は素直に躊躇なく頷き、空いていた荒川のコーヒーカップを持ち上げた。
「今日は上機嫌だから、余った分を注ぐよ……」
と言って、注ぎ終わると自分の席に戻った。
近藤に侮辱に近いことを言われながらも、荒川は菅原の発言に言葉を奪われていた。
「まぁ、いつも君が来るときは、警察の捜査の及ばない不可思議な領域のことに関して、助言を求めてだけど、今回は妙に切羽詰ってたね。いつもなら警官の目じゃなくて、僕たちの友人として訪れる君なのに、今回は入ってきていたときは刑事の目だった……」
菅原は苦笑いをした。
「荒川さんに気づかれるほどなら、余程、目付きが悪かったんでしょうね。荒川さんの仰るとおり、普段は解決した事件で、腑に落ちないところを、ここに来て納得して帰るのが、俺がここに来る理由ですが、今回は違う。捜査は継続中なんです。しかし妙なことが多すぎる……」
荒川は目に余るほどに身を乗り出し、近藤も興味深そうにテーブルに肘を突き両手を絡み合わせるポーズはそのままに、目だけを光らせた。
「まず首謀者がわからない……」
と、菅原が言うと、その言葉を荒川が掬った。
「首謀者と、いうことは複数、もしくは集団の犯罪なんだね」
「その通りです。集団による、殺人事件なんです」
そう言って、背広の内ポケットから封筒を引き出した。
「写真かい?」
封筒の厚さから推し量った荒川の質問に、菅原はうなずいた。
「アンタ、いつも思うけど、それって重要な捜査資料でしょ?一般人に見せていいの?」
その封筒から写真が出されるのをじれったく待ちながらも、荒川は言った。
「一般人ならね。でもあなた方はアッチ側に片足突っ込んでるから、いいんですよ」
「そんな!近藤君や高良教授ならともかく、僕はまともな人間ですよ!失礼な!」
と言いながらも荒川の目は、封筒を持った菅原の手から離れない。
「荒川さんは別の意味で……って、冗談はこれまでにして、見て欲しいんだよ。一枚一枚小出しにする」
菅原の言葉に、近藤はいつものように訪問者の対面に据わっていた身体を、テーブルを挟んで乗り出した。
「まずは一枚目だ……」
菅原は荒川にも近藤にも見えるように、たてに長いテーブルに、写真を横に置いた。
「男と女」
と、荒川が言うのに、近藤が続けた。
「随分と美男美女だね、事件の写真でなければ、どこぞの彫刻家か、蠟細工を作る職人が美しさだけを目的に作った、顔だけの塑像と思いそうだ。一緒に映っているには、距離が近すぎる……」
荒川と近藤の言った通りに、写真に写っているのは男性と女性の頭部で、穏やかに目を閉じているのも、近藤の言った通りに、彫刻に見えなくはない……なぜなら、もし、実存の男女を撮ったものならば、それぞれの頭部が、ぴったりと頬をつけるほど、接近はできないからだ。
それは首の角度でわかる。
もし、下に肉体があったのならば、肩と肩がぶつかり、この写真のように、首は真っ直ぐになりはしないからだ。
「アンタ、捜査に行き詰ってここに来たといってたね。ということは……。ちなみにこれは、警察の資料という、殺人事件の資料ということは、生……」
荒川はソファから弾かれたように立ち上がり、トイレに飛び込んで、今飲んだコーヒーを吐いた。
「荒川さん、大丈夫ですか?」
行動が平素と変わりない声で、トイレから戻ってきた荒川に声をかけた。
「アンタよく、そんなと言えるね!今、見せられたのは……」
荒川と近藤のやり取りを聞いて、菅原は頷いた。
「荒川さんの想像通り、この写真に写っている二人は首だけの状態です……少し引いた構図のをお見せします」
「ということはやっぱり生首……もしかして晒し首じゃないだろうねぇ」
「荒川さんの想像力には時々、驚かされるけど、正にその通り」
ヨロヨロと席に戻ってきた荒川が見たは、さらに衝撃的なものだった。
これ以上はないという美貌の男女の首の断面は、まるで紙を鋏やカッターで、すっぱりと切り取ったような、綺麗な切り口だった。
それが豪奢な敷物が敷かれた台の上に鎮座している。
「大丈夫、荒川さん」
「もう吐くものがないから大丈夫。こみ上げてくるものは、ひっきりなしに込み上げてくるけど……、しかしこれは……」
荒川はテーブルの上の写真を恐る恐る手に取った。
「僕は専門家じゃないから何ともいえないけど、どんな刃物で切ったら、こんな感じになるんだろう?どんな刃物でも、こんな風にはならないんじゃない?どうなの菅原君?」
菅原は頷いた。
「慧眼ですね、荒川さん。その通りなんです。この男女は恐らく、強力な水圧のカッターの用のもので首を切り取られたようなんです。何でこんな面倒くさいことをしたのかはなぞです。ただ見てほしいのは、顔は綺麗なままでしょう?高度な技術で、細心の注意を持って顔に損害を与えないように、切断されたんですよ」
それまで会話に参加していなかった近藤が口を開いた。
「これは……僕の勘だけど、生きたままなされたんじゃない?」
今度は驚いた顔をして、菅原は再び頷いた。
「慧眼なのは荒川さんだけじゃないな。近藤君の推理は当たっているよ。でもどうしてそう思った?君は文系で、医学の心得があるとは聞いていないから、写真だけで判断できるとは思えないんだが……」
「菅原の言うとおり、僕は文系だからこの首が生体のままか、死んだ後に切られたかはわからないけど、お前の言うとおり、文系の判断として、そう考えたんだよ」
「どういうことだ?」
「儀式めいてる……というところかな」
「それは首の載ってる台から見て?」
「まぁ、そういうところかな。切り取った人間、人間たちかもしれないけど、この二人を綺麗なままにしておきたかったんじゃないかな……」
菅原は近藤に話しかけた。
「儀式って言うのはいったい?」
「決まってるだろ、生贄だよ」
近藤が間髪いれずに、二枚の写真を凝視しながら答えた。
「三枚目を見たら、ますます自分の言葉に自信を持つだろうさ」
そして三枚目の写真を、袋から取出した。
それを見るなり荒川は、吐くものはないと言っていたのに、トイレの方へかけていった。
きっと胃液が込み上げてきたのだろう。
さすがの近藤も眉を顰めた。
「見事なもんだろう、え?完全に開きにされてる」
写真の遺体は、喉元から股間まで真っ二つに引き裂かれて、中の内臓を横に置かれている。
手足も切り取られており、身体に添って置かれていた。
菅原がそう言いながら、無頼な口調とは裏腹に、苦々しい表情で、写真に見入る近藤を睨み付けるように見たとき、よろよろとした足取りで荒川が席に着いた。
「菅原君、そんな不謹慎なことを……ウォエ……」
怖いもの見たさなのか、三枚目の写真……首を撮った二枚の写真より退いた視点で取られた、恐らくは生首となった男女の解体された様子……それは男女の首の前に寄り添うように並べられていた。
「荒川さん、まぁそんな②菅原の発言に目くじらを立てないでやってくださいよ。こいつが荒っぽい言葉を使うときは、特に機嫌が悪い……腹を立ててるときなんですから。それ以外のときは、皮肉っぽい口調でしか話さないでしょう」
「そうなの?」
荒川は近藤を見て、それから菅原を見た。
「フン!付き合いが長いだけあるな。そうだ、俺は腹を立てている」
憎々しげに近藤を見つめた後、今度は不快そうな表情で開きになった男女の写真を菅原は見ながら言った。
「なぜならな、近藤の言うとおり、そのペアは生きたまま開きにされたからだよ。検死結果から明らかになってる」
思わず近藤と荒川は菅原を見た。
菅原は苦々しい表情のまま、荒川は再び吐き気を催したのか、頬を膨らませて喉仏が上下に動いている。
そして近藤は、すっと無表情になり、写真を再び見つめた。
「菅原、二人は麻酔……強力な全身麻酔を受けてたのか?」
「そうじゃないから、俺はなおさら腹が立って仕方が無いんだ。二人の血液からは、そんなものは検出されなかった。つまり犯人たちは意識のある二人を、生きながら解体して殺したんだ!」
近藤は考え込むように写真を見続けている。
「催眠術……そんな強力なものは無いか……それにしては二人の顔に苦悶の表情は無い。よく見れば見るほど安らかな顔だ……」
「薄っすら笑っているようにも見えるね」
解体写真よりかは安心できるのか、先の二枚の写真を見て、荒川がぼんやりといった。
菅原のにらみつけるような視線に気付き、荒川は慌てて言い訳した。
「チラッと、そう思っただけだよ」
自分の場違いな発言に、荒川は縮こまった。
「いや、荒川さんの言ったとおりだよ。僕にも、二人が薄く微笑んでいるように見える……」
「おいおい、近藤まで何言ってるんだよ。じゃあ何か、二人は喉から股間まで切り開かれて、手足を切り取られるのをウットリと悦に入っていたって言うのか、聞かせてやるが、この二人の首が切り取られたのは、一番最後だ。内臓を抜かれ、手足を切られた後、最後の最後に首を切られたんだぞ」
こめかみに血管を浮き立たせて、静かな口調だが人を凍りつかせるような声音で菅原は言った。
「そうだと思う……」
「何?」
近藤と菅原の視線が絡み合った。
「どういうことだ」
「まだ推測の域を出ない。それより二人の身元は判明しているのか?」
菅原はまだ何か言いたそうだったが、さっき自分の言ったセリフの通り、長い付き合いの近藤が、答えようとしないということは、絶対に答えることはしないということを知っていたので、溜息をつきながら、袋からまた二枚の写真を出した。
「男のほうは平岡洋介。中ぐらいの規模の会社で事務をしていた。女のほうは宮田恒子。こっちも中ぐらいの規模の会社で事務をしていた。業種は違うがな」
「恋人同士?」
荒川の質問に菅原は素直にうなずくことができなかった。
「関係はあった。といえるとも無かったとも言えます。殺される一ヶ月前に二人が知り合ったという証言は取れてる。その後頻繁にあってもいる。まぁ、奥手だったのか肉体関係は無かった。平岡のほうはどうか知れないが、宮田恒子は処女だった。歳は同い年で二十五。二人に共通するのは、これほどの美男美女なのに浮いた噂が一つも無かったことです。それは二人が学生時代までさかのぼることができる。友人の証言、家族の証言。子供の頃から学校から家までまっすぐ帰って、部屋で本を読んでいるくらいしかしていないのも共通点といえば共通点か……。休みの日もどこかに遊びに行ったりとかはなかったらしい。いまどき隠居の爺婆も散歩くらいはするのになぁ」
近藤が無表情のまま言った。
「完全に異性に興味が無かったんだよ。恐らくは……」
近藤の発言に荒川が食いついた。
「何でそんなこと言うんだい?菅原君の話じゃ、二人は恋人同士だったそうじゃないか」
そうだろう?という荒川に、菅原は眼鏡を押し上げながら困ったような顔で言った。
「近藤、お前なんでそんなこと言うんだ?」
「チョッとした勘かな」
フーッと溜息をついて菅原は言った。
「荒川さん。こいつの意見に近い証言が、両人の職場の同僚から得られているんです。二人は出会ってから頻繁に会っていて、それを各々の同僚に目撃されて、問い詰められてるんですが、二人ともお互いに恋愛感情やそれに近いものさえ感じていないと言い切っているんです」
「じゃあ同性愛者……な、わけはないか……」
「お互いに恋人かとか、結婚する気はあるのかと訊かれて、はっきり否定しています。ただ、一緒に居ると安らげるとは言っていたそうで、二人一緒に居るところは、とても幸そうにに見えたそうです」
今度は近藤が溜息をついて言った。
「同じ存在どうしだから、惹かれあったんだ。でもそこには恋愛感情も肉欲もない、ただ純粋に同族意識としてのシンパシーがあっただけなんだろうと思う。そして男女間のものとは全く違った、パートナーとしての揺るぎ無い信頼と絆、お互い欠けていたものを得られたという安堵感、喪失感を保管する者同士の暖かいものが満ちていたんだろう」
「どういうことだい、それは?」
荒川がわけのわからないといった表情で言った。
菅原も同様の表情だった。
「どういう意味だ、近藤?」
「彼、彼女は異性以外に愛の対象があって、そしてそれに愛されていたから充実していたんだと思う。こういう事件になったってことは、それぞれ同じ対象を愛し、あいされていたんだろうな」
菅原が厳しい顔で言った。
「世迷いごとだ……」
「ところで菅原、二人はどうやって出会ったんだ?そこまで調べはついているのか?」
訊かれた菅原は髪を撫で付けながら答えた。
「それは完璧な証言者がいる。二人は同僚にお互いが知り合ったきっかけを問われるままに答えていてな……レコード屋だよ。そこで二人は出会ったんだ。店員も二人のことを良く覚えていた。密にいたるまでな。二人は同じアルバムを買おうとして接触したんだな、あいにくそのアルバムがその店に一枚しかなくて……という感じだったらしい」
荒川が興味津々といった様子で尋ねた。
「そのアルバムが事件の鍵には……ならないか……。偶然同じアルバムを買おうとしていた二人を殺す動機なんてないものね」
「でも、二人の共通項を示すものにはなるかもしれませんよ。菅原、そのアルバムはどんなアーティストのものなんだ」
荒川は手帳を取出してめくった。
「サティというクラッシック作家のベスト盤だ。二人とも、そのアルバムの中に入っている曲を店員に尋ねたそうだ。その曲は……」
「当ててやろう『ジムノペディ』だろう?」
「……何故知ってる」
近藤は長めの癖ッ毛を掻きあげながら言った。
「やはり彼と彼女は愛し愛されていたんだ。そして微笑を浮かべ解体された」
菅原が身を乗り出した。
「誰だ、そいつは!」
「神だよ」
「他に目撃証言は?」
菅原は手帳をめくって答えた。
「退社後に、会社の近くの公園で、軽い食事とワイン……これはコンビニの店員に確認したんだが、赤ワインを買って飲み食いしていたらしい……休日は少し大きな公園の芝生の上で」
近藤は考え込んだ顔になった。
「二人は意識しないまま、儀式をしてたんだろうな……」
菅原が訝しげな顔で尋ねた。
「儀式って、事件に関わることなのか?」
「直接は関係はないけど、関係ないとは言い得ない……」
「どういうことだ?」
近藤はコーヒーを啜りながら答えた。
「二人だけの饗宴を続けてたんだよ。自分たちでも気づかないまでに……」
平岡洋介がその曲のタイトルを知ったのは、職場の営業職の先輩と乗っていた、社へ戻る車の中でだった。
「ろくな放送やってねぇな!」
運転しながらラジオの放送局を変え続けている、先輩社員を助手席で横目で見ながら、洋介は気が気でなかった。
あまり車に乗ることもなかったし、車が好きではなかったのだ。
とくに、この先輩社員の荒っぽく、乱暴な運転には辟易していたし、恐怖さえ感じていた。
それにラジオに興味があるわけではない、正直言ってどの局でも洋介には関係なかった。
いくつかの放送局が変わっていく間の一瞬、洋介の耳を捉えたものがあった。
身体が痺れたようになった、何度かその断片を聞いたことがあり、その度に心揺さぶられる思いに駆られた曲が、耳に入ってきたのだ。
「待って!ちょっと待ってください!その曲を聞かせてください。局を変えないで!」
普段柔和で、おとなしい洋介が大声を出したので、先輩社員は驚いた様子だった。
「おい、何だよ!急に大声を出すなよ!」
しかし洋介には先輩の声は耳に届いていなかった。
美しい旋律……ピアノだけなんだなと、洋介は思った。
憮然とした表情の先輩社員など目に入らないまま、洋介はラジオから流れる曲にうっとりと、否、陶酔に近い状態で聞き入っていた。
曲は終盤に差し掛かろうとしているらしい、洋介は言いようのない寂しさと、もっと聴いていたいという焦燥に似た感情に囚われていた。
そして曲は終わった。
洋介は溜息をついた。
「サティでジムノペディでした……」
アナウンサーらしき女性の声を聞いて、洋介の身体を歓喜が突き抜けた。
これまで何度も聴いたけれど、全く情報がなかった曲の初めての情報が自分にもたらされたのだ。
洋介は慌てふためきながら、懐から手帳を取り出し、サティという単語と、ジムノペディという単語を書き込んだ。
「おいおい、お前ってクラッシックのファンなのか?」
「この曲、クラッシックなんですか?」
先輩社員は大笑いをした。
「違うみたいだな。クラッシックファンなら、あんなに慌ててメモッたりしないもんな。ファンだったら、こんな有名な曲、知らないはずないもんな」
意外そうな顔で、営業畑でも豪快……悪く言えば粗暴やガサツといった点で有名な先輩社員の顔を洋介は見つめた。
「先輩、この曲を知ってるんですか?」
「いや、だけど良くかかってる曲だぜ」
少しがっかりして、洋介はうなずいた。
実際、これまで生きてきて、洋介は何度もこの曲を耳にしている。
「僕も何度か聴いたことがあって、大好きだったんですが、曲名とかがわからなくて……」
「それで慌ててメモを取ったってわけか。しかし、いかにも王子様がすきそうな曲ではあるわな」
洋介は苦笑いを浮かべた。
王子というのは、社内でつけられた洋介のあだ名だった。
整った容貌と、なんとなく浮世離れした雰囲気、そして穏やかな性格が、彼にこのあだ名を拝命させたのだ。
「王子にクラッシックなんて御誂え向きだな。女子社員が知ったら、また株が急上昇だ……」
「よしてくださいよ……」
「わかったよ、内緒にしておいてやる。今日はお前のお陰で契約が一件取れたようなもんだからな。さっき大声を出して驚かせたことも勘弁してやる」
この男のことだ、内緒にする約束云々以前に、数時間もしたら、洋介との車内での会話など忘れていることだろう。
再び呵呵大笑する先輩社員から視線を逸らし、洋介は溜息をついた。
そうなのだ、事務職の自分が何故、営業職の先輩社員と営業車に乗って得意先に行くことになったのか……。
理由は得意先の女性社長がかなりの、面食いだという情報を利用すべくダシに使われたというわけだったのだ。
車は会社に戻り、洋介は一人車から降ろされた。
「俺はもう一件廻ってくる。今度飯でも酒でも奢ってやるからな」
洋介はその言葉を話半分に受けた。
きっと、この先輩社員は今日のこの一件などすぐに忘れてしまうだろう。
それでも洋介は気落ちなどしなかった。
誰かと一緒に食事をするのは億劫だし面倒くさい、気を使わなければならない。
酒は飲めないので誘われたら、迷惑としか思えない。
逆に、今晩飲みに行くぞなどと言われたら、当惑を通り越して迷惑千万の思いに駆られるだろう。
今日の帰りはCD屋によって、サティとジムノペディという単語を店員に伝えて、あの曲のCDを手に入れるのだ。
社内に戻るとあけていた時間分の仕事が溜まっており、インターネットでサティかジムノペディで検索をかけて、少しでも情報を得ようと思っていたのに、その時間は作れなかった。
しかし、そのせいか逆に、CDを一刻も早く手に入れようという気持ちが高まり、これまでの社会生活で起こしたことのない、やる気が湧き上がり、普段でも定時には上がっていたものの、その日は定時ぴったりに社を出ることになった。
自然と歩幅は広がり、足取り速くなる。
脇目を振らずに、前のめりになる勢いの洋介であったが、通行人にぶつかりそうになり、一息ついた途端、あることに思い至り、その場に呆然と立ち尽くした。
自分はCD屋に行ったことが無い、つまりどこに店があるのか知らないのだ。
洋介はかばんを持ってないほうの腕を上げ、頭痛に耐えるかのように片手で頭を抱えた。
CDを欲しいという気持ちは更に強くなるばかり、そこでハッと我に返り携帯を取り出すと、駅周辺のCD屋を検索した。
一番近い場所の地図を出し、通い慣れた駅の癖に、いやに土地勘の無い自分を責めながら、こんなことなら外食を何度かしていれば、道もわかったもののと再び自分を責め、四苦八苦しながら道を進んだ。
やっとのことで、個人経営なのだろうか?小さなCD屋を見つけ飛び込んだ。
脇目も振らずカウンターの店員に向かって、突進するように歩を進めると、間髪を入れずに口を開いた。
「あの、サティのジムノペディのCDはありますか?」
若い女性店員は、吃驚していたが、次の瞬間にはポーッとした表情で洋介を見つめた。
洋介はこの女性店員の浮かべる表情には慣れていた。
今までに何度も同じような表情を浮かべる女性が……否、洋介と出会った女性はほぼ全員、同じ表情を浮かべるからだ。
普段は気にもならない洋介だったが、今は違った。
ボーっと自分に見惚れている女性店員が疎ましく思えた。
洋介が欲していたのは、この店にそのCDがあるのか無いのか、無ければ他の店に行かなければならないという情報だけだったのだ。
「すいません」
少し強めの口調で店員に尋ねた。
目をぱちくりさせた店員は、これほど赤くなるのかと思えるほど頬を染めた。
「え~と」
「サティのジムノペディです」
苛立ちを抑えながら、洋介は再び尋ねた。
「ああ、それなら……」
と言って、店員は視線を横にずらした。
釣られて洋介も店員の視線の先に眼をやった。
そこに美しい女性が、困惑気味の表情で立っていた。
洋介は今日で二度目の、心が痺れるような感覚に襲われた。
一度目の感覚は、もちろん営業車でサティのジムノペディの存在を確かめられたときだ。
そして今、それよりも何倍も、強力で強烈な感覚に支配されていた。
目の前の女性は白人の血でも入っているのだろうか?洋介地震も日本人離れした容姿なので、よく言われるのだが、目の前の女性も極度に整った顔立ちをしていた。
今の洋介は、先ほどの女性店員と同じように、その女性に見惚れていた。
「あの~、この方が今、持っているCDがサティのベスト盤で、ジムノペディが入っているCDです」
見てみれば、その女性はその手に、まるで宝物のようにCDを抱えるようにして持っている。
女性から目を離さず洋介は口を開いた。
「じゃあ、僕も同じものを……」
「すいません。当店ではジムノペディが入っているのは、それ一枚きりなんですよ。よろしければ予約いたしますか?一週間ぐらいで入荷できると思うんですが……」
さすがに洋介の心に失望感がよぎった……が、それよりも目の前の女性に関心が拠りすぎて目を離すことができなかった。
「いえ……、他の店で探すことにします……」
ようやく、それだけのことを口に出すことができた。
女性が上目がちに洋介を見て、その美しい唇を開いた。
「よろしければ、お譲り致しましょうか?」
最初は意味が読み込めなかった。
それほど彼女に心奪われていたのだ。
ようやく彼女の申し出を理解した洋介は、激しくかぶりを振った。
「いえ、いいんです!たまたま今日、以前からいいなと思ってた曲が、サティのジムノペディとわかって、買いに来ただけなんです。他の店で探しますから」
女性は嬉しそうに微笑んだ。
「偶然ですね!私も今日、今まで好きだった曲がサティのジムノペディだとわかって、必死になって買いに来たんです。これも何かのご縁でしょう、お譲り致しますわ」
「いや、いいんです」
「そう言わずに」
お互い譲り合っている二人に、店員がおずおずと声をかけた。
「あのぅ、結局どうなされるんですか?」
女性店員にはどう見えたのだろうか?いずれも劣らぬ美しすぎるといっても過言ではない男女が、我に返って第三者の平凡な自分を見つめたのだ。
女性店員は所存気なさそうに小さくなってしまった。
「もちろん、最初に手にとった、この方のものです」
「でも……」
洋介は首を振った。
「だけど一つだけ、お願いがあります……。一緒にこの場で、曲を聴いてもらえませんか?」
言った後、洋介は呆然として自分の発言の意味を反芻し、先ほどの女性店員と同じくらい顔を赤くした。
自分は見ず知らずの女性が買おうとしているCDを、その場で開けさせ、それをはじめて入った店で流してもらおうとしている……こんなことは、洋介の人生において前代未聞の発案だった。
こんな大胆な発想、そしてそれに伴うであろう行動を、自分がする、しようとしていることが自分で信じられなかった。
愕然としている洋介の顔を凝視して、女性は言った。
「それではまず、お会計を済ませてしまいませんと……。申し訳ありません、このCD、この場で聞けますか?」
一連の流れに戸惑っていた店員がおずおずと頷き、女性から代金を受け取ると、店の奥にしまってあった、CDプレイヤーを取って戻ってきた。
「ジムノペディは、六曲目ですね……」
店員がスイッチを入れると、その曲を聴くことを待ち望んでいた二人の男女は、まるで店員の存在など忘れたかのように、お互いを熱く見つめあいながら、静かな旋律に耳を澄ませた。
曲が終わるのと同時に、美しい二人の口から、思わずホウという熱い吐息が漏れ、そんな二人とウットリと眺めつつも、関係のない店員までもが、二人の雰囲気に飲まれてか、それまで浅く少なくしていた呼吸を、まるで溺れた人間のように肩を喘がせながら大きくするのだった。
「お買い上げありがとうございました~」
聴いていたCDをプラスチックケースに戻し、二人は並んで店内を出て行ったのだが、店内から一歩出た途端に、街の雑踏と人いきれ、そしてさまざまな騒音にに囲まれ、先ほどの凛とした静寂の奏でる音楽から離れると、お互いがほんの数分前まで会ったことのない、赤の他人という事実をお互いに強烈に認識せざるを得なかった。
別れがたかった。
思わずお互いがお互いの視線を向けた。
洋介のほうが、頭半分程、背が高かったが、一般男性に比べれば、洋介は背の低いほうではなかったので、女性が一般より長身なのだろう。
二人は互いの顔に、今、自分が浮かべているであろう表情……立ち去りがたい、別れがたいという色を認識した。
「あの……」
洋介も口を開きかけたのだが、女性のほうが一瞬早かった。
「私……、サティというのが作曲家で、ジムノペティというのが曲のほうだとすら、さっき店員さんがいうまで知らなかったんです。あなたは知ってました?」
助成が明らかに上ずった声で尋ねてきた。
「いえ僕も……。情報がサティという単語と、ジムノペティという単語しかなかったもんですから……」
洋介も、こちらもまた上ずった声で答えた。
「でも不思議ですね、同じ日の、ほぼ同じ瞬間に、その日知った、それまでずっと同じ曲を探していた二人が出会うなんて……」
女性は頬を染めて、洋介に話しかけた。
「本当に偶然です……」
そういうのが精一杯のはずだった……これまでの洋介であればそうであったし、これから先の洋介も、そのようにして無難に生きていくはずだったと、それまで洋介は自分で思っていた。
「もしよろしければ、どうしてこの曲を知ったか?どうしてこの曲が好きだかを……、あの……、え~と……」
自分は何を言っているのだ!
洋介は自分自身を叱咤し、しどろもどろになりながら、こんなことを言われて、失望、あるいは軽蔑、あるいは不信感を浮かべているであろう、女性の顔から視線を逸らしてしまった。
「私もそう思っていたところなんです。先に言ってくれてよかった~。自分じゃ恥ずかしくて言い出せそうになかったから。さっき先にサティとジムノペディ話しかけたのも、ずいぶんと勇気がいったんですよ」
「そうでしたか……すいません……」
二人はそこで笑った。
二人の間の、初対面同士という溝は、それで完全に埋められた。
「え~と、もしよければ、お食事でも……」
「喜んで!」
そう誘いかけた洋介の顔は、これまでの人生の中でも最も晴れがましく、誘いを受けた女性の顔は喜びほころんでいるように見えた。
「あ!でも!」
女性は本当に慌てた様子で声を上げた。
その様子に、洋介は誘いを断れると思い、やはり駄目だったのかと気持ちを静めながらも、それこそ自分には似合っていると思った。
「家に電話して、食事してくるって伝えないと」
洋介はほっとした。
と同時に、自分も家で食事を作って待っているであろう母親に、自分のほうでも一報を入れなければと携帯を取り出した。
「もしもし、洋介だけど。今晩は食べて帰るから、用意はしなくていいからね」
連絡を終え、彼女のほうを振り返ると優しい笑顔を浮かべていた。
洋介も微笑み返したが、男の癖に母親に食事の用意の不要を連絡するなどと、少し情けないかなと思って、僅かに頬が歪んだ。
「いや、作ってくれても無駄にしちゃ悪いから……」
情けなさそうに言う洋介に、彼女は再び微笑んだ。
「いえ、いいと思いますよ。そういう気遣い。うちの父なんて、何の連絡もなく、帰ってくるなり、外で済ました、風呂!なんて毎度ですから、子供の頃から、その度に母が溜息をつくのを見てる私としては、そういう気遣いのできる男性は素敵だと思います……よ、ヨウスケさん」
洋介はホッとしたと同時にハッとした、どうして彼女は自分の名前を知っているのだろう?
そんな思いが顔に出たのか、彼女は笑いながら言った。
「自分でおっしゃったじゃないですか、電話に向かってヨウスケだけどって」
「ああ……」
「おかしいですね、私たち。同じ作曲家の同じ曲を隙だって今年か知らないんですもの」
そういわれて洋介は、普段めったに遣うことのない名刺を上着から取出して、しゃちほこ張りながら差し出した。
それを受け取って彼女もバックから名刺を取出し、洋介に差し出した。
名刺には宮田恒子とあった。
受け取りながら、さりげなく名乗ったほうがスマートだったろうにと、洋介は自分自身に駄目を出した。
「すいません、なんか社交辞令のようになってしまって……」
「本当に、そんなきっかけで知り合ったわけじゃないんですものね。あら?私の会社と案外と近いし、同じ事務職なんですね」
「本当だ」
「だからといって、同じ曲が好きって偶然はありえないでしょうけどね。それにほかの偶然も……」
「そうですね」
二人は歩きながら会話を楽しんだ。
最初の気まずさからは程遠く、とは言っても男女間の気まずさはあったが、久し振りに会って会話を楽しむ、いとこ同士のような感覚をお互いに持った。
歩き喋りながら、洋介は自分たちがどこを目指して歩いているのかと、急に気になった。
「えっと、どこで食事しましょうか?」
「私はどこでもいいですよ」
ここは男性である自分が、しっかりエスコートすべきなのだろうが、洋介は滅多に外食はしないし、昼は母親の作った弁当だ。
「申し訳ないんですが、僕、ほとんど外食しないんで、いいお店とか知らないんですよ……」
富田恒子は目をパチクリとさせると、暫く考え込んで、
「友達と良く行く喫茶店に行きませんか?そこでよくランチを食べるんですが、とてもおいしいんです。夜は行ったことはないですけど、何か出してくれますよ、きっと!」
ここからだと反対方向になっちゃうなぁ、別にかまいません、そんな会話を交わしながら二人は今来た道を戻って、十分ほどで恒子の言う喫茶店に着いた。
「今晩は……」
恒子がドアを開くと、カランコロンとベルが鳴った。
「おや恒子ちゃんいらっしゃい、珍しいわね……あら!」
相手は非常に驚いた様子だったが、洋介も結構、驚いた。
喫茶店というから、渋い初老のマスターかと思ってたいたら、エプロン姿の初老の婦人だった。
まぁ、自分の勝手な想像で驚いたに過ぎないなと、洋介が苦笑いをこぼしそうになっていると、婦人がカウンターから出てきたので、今度は本当に驚いてしまったが、相手のほうがもっと驚いているらしかった。
「夜来るのも初めてだし、まぁ、何と男連れなんて!私てっきり恒子ちゃんは男嫌いだと思ってたから……本当にまぁ!」
恒子が思わず赤面して、洋介とあった経緯を店主に説明すると、
「なるほどねぇ。幾多の男をこの店でも、聞いたところでじゃ会社でも、あるいてて難破されても撥ねつけてきた恒子ちゃんが、男の人を……それも本当にお似合いの、いい男を連れてきたのにがっかりだわねぇ。でもまぁ、これがきっかけで……」
恒子は再び赤面して、やめてくださいよぅと俯いた。
店主は本当にがっかりした様子で、溜息をついていた。
その姿に戸惑い、照れてしまった洋介は店の中を見渡した。
趣味のいい店で空いていた……というよりは、客は二人を洋介と恒子だけだった。
「狂は閑古鳥が鳴いてるのよ、普段はここまでじゃないんだけどね。まるで二人のためにお誂え向きに空いてるようなもんね。CD出しなさいよ。エンドレスでジムノペディを流してあげる。食事の間中、リピートでね」
恒子がCDを預けると、店内にあの優しい調べが奏でられた。
しばらくすると、二人の目の前に店主特性のスペシャルディナーという、結構ボリュームのあるメニューが運ばれてきた。
曲に聞き惚れて注文するのも忘れていたのだ。
「私、こんなに食べれるかしら?」
「僕も、食は細いほうなんですが……」
ちょっと困ったような顔を二人は見合わせて、とりあえず食事に取り掛かった。
しかし、ジムノペディを聞きながら食べると、不思議と食欲が出て全てをペロリと平らげてしまった。
食事の間、二人はどのようにしてジムノペディを知ったのか、互いに話し合った。
恒子の場合は、会社の有線放送で流れていたのを、周りの同僚に聞いて知ったのだという。
恒子のほうでもクラッシックに詳しい同僚はいなかったらしく、サティという単語と、ジムノペディという単語しかわからなく、会社の帰りにさっきのレコード店に寄ったということだった。
その会話が終わると、二人はお互いに見つめあいながら、曲に心地よく身を任せ、食事を済ませた。
そして食後のコーヒーをゆっくりと味わった。
勘定を済ませ……ここは洋介が払い、やっと面目が保たれた……二人は最寄の駅まで歩いた。
「平岡さん、ジムノペディのCDをお買いになるの?」
恒子の問いに洋介は答えた。
「今日、改めて聞いてみて、とても気に入ったので、そうなると思います……」
すると恒子が思案顔になって、
「このCD共有しませんか?」
「共有?」
「私に考えがあるんです。明日、会社の帰りにまた会ってもらえませんか?」
「喜んで……」
二人は逆方向の電車だったので、改札で別れた。
洋介は明日が楽しみでしょうがなかった。
翌日、会社を退社してから駅で待ち合わせていた二人は、連れ立って家電の量販店に向かった。
どういうことだろうと、洋介が考えていると、その思いを掬い取ったのか、恒子が言った。
「これ……デジタルプレイヤーなんですけど、これにジムノペディを入れたんです。このデジタルプレイヤーの付属品で、接続すればスピーカーから音楽が聞けるものがあるんです。そうすればどこでも、曲を聞けるようになるんです。それをこれから買いに行こうと思ってるんです」
「なるほどそうすれば、二人でジムノペディが聞けるんですね?」
「そうです」
量販店に着いた二人は店員に聞いて、件の附属スピーカーを見つけた。
「これは僕が買います。それで、僕が所持します。富田さんと僕とが一緒のときに聞けるように……」
「私もそれに賛成です。なんだか昨日、一人で聞いてみたんですけど、何か物足りなくて……この曲は、平岡さんと聞くのが一番じゃないかなって」
「こ、光栄です……」
その次の日から、会社を退社した二人は近くの公園のベンチで、付近のコンビニで買ったちょっとした食べ物と、それから赤ワインを飲みながら、ジムノペディを聞くのが日課になった。
食べ物とワインを買うというのは、どちらからともなく出た提案だった。
なんとなく、この曲を聴くときは何かを食べ、アルコール……できれば赤ワインを飲みながらというのが相応しく思えたからだ。
そして、そのように何かを食べワインを飲みながら二人で曲を聞くと、満ち足りた思いに浸されるのであった。
ワインによって酩酊することはなかった。
軽い陶酔感を覚えて、二人は軽い軽食を終えたあとには、サッパリとした気分で別れた。
不思議なのは二人とも、これまでアルコールと縁のない生活をしてきて、好きでもなければ強くもなかったのに、二人でこの曲を聞くときは、必ずワインが欲しくなるという欲求に駆られることだった。
二人の間には至福の時間が流れていた。
しかしながら、曲を聞いている間、何か話すというわけでもなく、軽い晩餐が終わると、二人はやはり無言で駅まで連れ立って向かうのである。
それでも二人に不満はなく、これ以上の付き合いをしたいという欲求も沸かなかった。
しかし美しい二人のカップルの噂は、お互いの会社で話題になり、二人とも色々と問われるのだが、返答に困ってしまうのだった。
ただ少し何かを食べワインを飲み、だまって音楽を聞いているだけで、他に何もしていないと言っても、誰も信じてくれないのが、お互いに理解できなかった。
本当にそれだけで、二人は満足していたのだ。
そのうち休日にも二人は会うようになっていった。
夜の軽い晩餐と違い、それなりに大きな公園の芝生の上にシートを敷き、食料もワインも大目だが、やることはかわらなかった。
相変わらずジムノペディを聞きながら、食べ、飲み、お互いを見つめ微笑みあう。
それだけで幸せであったし、満足できたのだ。
ある日の休日、二人はいつものように家族連れが多い、ちょっとした規模の公園の芝生の上にシートを引き、大目に買い込んだ食糧と、三本のワインを半分ほど平らげた頃、恒子が洋介に言った。
「また昨日、同僚に聞かれたの。結婚はいつなのかって?」
洋介は笑って答えた。
「誰も信じてくれないんだね。僕と恒子さんがそういう関係じゃないってことを……」
二人は小さなスピーカーから流れるジムノペディに耳を傾けながら、お互いを見詰め合って小さく微笑んだ。
その様子は恋人同士にしか見えなかったが、本人同士にはそんな気は全く無かった。
「確かに僕は恒子さんのことを好きだし、大切に思ってる。だけど、その気持ちは普通の人たちが思うような気持ちじゃないんだ……。もちろん、恒子さんに女性的な魅力が無いわけじゃない、魅力は十二分にある。だけど、僕は一般的な意味での恋愛感情を恒子さんに抱いていないんだ。気を悪くしないで欲しいけど……」
恒子はわかっているという顔で頷いた。
「私もそう、洋介さんに魅力を感じているけど、そういった気持ちは無いの。何で皆わかってくれないのかしら?私たちがお互いに抱いている感情を……。と言っても、私自身うまく説明できないからしょうがないのだけど……パートナー?相棒?片割れ?」
洋介が再び、少し酔いの入った夢見るような目つきで、そのあとを引き継いだ。
「片割れが一番近いんじゃないかな?それとも半身……」
「そう!それなの!私と洋介さんは、性別が違うけれど、お互いがお互いを補い合う役目をする半分同士なの!二人で一人、元々一人だった人間が偶々、性別を違えて同じ時代に生まれて、出会ったのよ!」
大いに納得したという面持ちで恒子が頷いた。
「だから私、今、とても幸せ。でもね、同時に怖いような気がするし、不吉な予感?不安も感じてるの……。洋介さん、あなたはどう?」
洋介は少し驚いたような顔で恒子を見た。
「実は僕も、同じような気持ちを抱いていたんだ。本当に僕らは片割れ同士なのかもしれないね。でも恒子さん、同時にある感情もわいていないかい?」
「わくわくするような……」
「そう、待ち遠しいって気持ちじゃないかい?」
恒子が感極まったという声で言った。
「本当に私たち、半身同士なんだわ。洋介さんも感じているでしょ?今までの幸せより、もう一段……いえ、何倍もの幸せが私たちを待っているって!」
二人は顔を見合わせて、手にしていた赤ワインの入ったコップを触れさせた。
「乾杯!」
「今まで、漠然とした感覚でしかなかった、この幸福感にいくらかの形が付いたことにね」
「あら、ワインがもう無いわ。私、今日はもう少し飲みたい気分だったのに……」
「僕が買ってこよう。この日の記念にね……」
洋介は足取りも軽く公園のそばにあるコンビニへと向かった。
自分と恒子の関係性と、お互いが最近感じ始めていた共通の感覚を認識しあえたことが、洋介の気分を高揚させていた。
しかし自分がこんなに、アルコールに強いとは思っても見なかった。
酔いは感じるが足取りもしっかりしているし、気持ちも爽快だ。
コンビニでワインを買い終わり、横断歩道で信号待ちをしているとき、少し気になるものが視界をよぎった。
目立たない格好をした、男女いずれかわからない人物が、明らかに自分に視線を向けていて、洋介が気付くと身を翻して、休日の人通りの多いところへと、明らかに移動したのだ。
自分を見ていた?なぜ?
思い過ごしか気のせいか……自分は思ったより酔っているのかもしれない……洋介は自分が観察される理由が思いつかなかった。
それでも恒子の元へ戻ったとき、洋介は言った。
「今日はこれを飲んだら帰ろう、家のそばまで送っていくよ」
二人のお互いの存在意義を確かめた記念日の翌日、洋介は奇妙な感覚を抱くようになった。
なぜだか何かに見られているような気がするのだ。
それは誰かにではなく、何かにだった。
一人きりで部屋にいるときに視線を感じる。
会社で仕事をしているとき、視線を感じ辺りを見渡しても、同僚たちは仕事に忙しく、誰も顔を上げたそぶりも無い。
トイレの個室の中でもそれを感じたときは、軽い羞恥を覚えた。
昼休み、恒子を食事に誘って、そのことに関して話してみようと思った。
二人が会うのは常に、デジタルプレイヤーでジムノペディを聞ける状況を設けることができるときに限られていたので、異例なことだったが、恒子はあっさりと誘いを受けた。
食事は無言のまま進んだ、しかし、お互いが同じ感覚を共有しているのは、雰囲気だけでわかった。
「誰かに見られているような気がしないかい?」
恒子は少し考え込んでから言った。
「誰かというよりは、誰というよりはと言った方が正確じゃないかしら?私が感じているのは、人の視線というより何かもっと別のもの……。もっと遠くから、もっと深いところから、あるいはもっと高いところから……」
洋介は頷いた。
「それでも不快なものじゃないんだ。確かに不気味な感じは受けるけど……」
「温かみのほうが強いのよね。見守られているっていうか……。それに……」
洋介があとを継いだ。
「いよいよ、何かが始まる……そう感じているんだね?」
「そう。準備は整ったという気配……。私たちが昨日、お互いの存在を認め合ったのが、そのきっかけなような気がするの……」
「怖いかい?」
「怖くないといえば嘘になるけど、それよりも待ち遠しい気持ちと、わくわくするような興奮を感じてる……」
洋介は小さく息をついた。
「僕もだ……」
「今夜、会社のそばの公園にいって待ちましょう。ジムノペディを聞きながら、きっと何か起こるはずよ……」
「わかった」
二人は退社の時刻を合わせ、今夜は何も買わずに公園に向かった。
そして人のいない公園のベンチに並んで腰掛、二人の間にスピーカーを置き、そこから流れるジムノペディを聞きながら、緊張と興奮の交じり合った気分で、ことが起こるのを二人で待った。
いつの間にかスーツを着た短髪の女性……であろう人物が、二人の前に静かに立っていた。
「平岡様に、富田様ですね……。お迎えに上がりました」
洋介と恒子はスピーカーをお互いに持って、女性の歩く後についていった。
この急な展開に、なぜか二人は冷静であり平静であった。
来るときべき時が、ついに来たという軽い高揚さえ感じていた。
公園の出口には大きな外車が止まっており、二人は後部座席に招かれ、抵抗することなく乗り込んだ。
長い間の……高速にさえ乗った……車での移動中、車中にはジムノペディの流れだけが、一切を支配していた。
そして山の中に入っていき、暫くすると灯りの少し洩れた廃屋に着き、二人は丁重に車から降ろされた。
二人の手からスピーカーが丁寧に取り上げられた。
しかし二人の頭の中では、ジムノペディが流れ続けていた。
「ここが僕らの終の地なんだね……」
女性に付き従いながら廃屋の灯りの漏れる先……地下への階段を降りながら、洋介が恒子に対して呟いた。
「そうね。でも、全く怖くないわ。むしろドキドキする……」
そうなのだ。
今、洋介と恒子の二人は人生において最初で最後の晴れ舞台に上がろうとしていることが感じられた。
階段を下りると左のほうから酔っているのか、甲高い嬌声が上がっていた。
二人は反対の左側に連れて行かれた。
そこは簡易ながら浴室になっているようで、二人はそこで一旦別れさせられた。
浴室の右のほうに入ると洋介は服を脱がされた。
抵抗はしなかった、自分が今から清められるということがわかっていたからだ。
豪華なつくりの四本の足で支えられた浴槽に入れられると、立ったり座りさせられながら、丹念に身体を現れた。
隣でも湯の音がしたので、恒子も同じように湯浴みをさせられているのだろう。
髪をタオルで乾かされると、今度は全身くまなく良い香りのする……香油というのだろうか……身体全体に浸みこませるがごとく塗られ、準備は整ったようだ。
バスローブを着させられ、サンダルを履かせてもらった洋介は、しばらく待たされたが、同じような格好をした恒子が浴室から出てくると、並んで先ほどの、喧騒の部屋へと案内された。
二人が姿を現すと、大きな歓声が上がった。
そこは大きな部屋で、佐奈が宴会場のように幾つものテーブルと椅子、そしてそこに陣取った数多くの女性たちが、二人をまるで推し抱くような仕種で、かなきり声を上げていたのだった。
否、まったくの宴席……それも贅を尽くした宴席の場であった。
床は高価そうな絨毯が敷かれ、壁には派手にして華美だが、上品な垂れ幕が何枚もかけられていた。
二人はまるで主賓のような丁重さで迎えられたといっても良かった。
強く香るアルコールの匂いは赤ワインであろう、それにどの席にも豊富な食べ物が並んでいて、誰もが手に手に酒盃か食べ物を持っていた。
二人はバスローブを脱がされ、裸足にされ、各テーブルの間を練り歩かされた。
何人かの女性が手を差し伸ばして、触れようとしたが同席のものに止められていた。
触れようとしてくる女性の表情には畏怖と敬意が溢れ、それを止めた者の目には、聖なるものに触れることへのタブーを戒めるといった表情が浮かんでいた。
二人は全裸になることの気恥ずかしさも、それを視線にさらせる不快感も無く、自分たちが選ばれた者であるという自身と自負を感じていた。
思えば平坦で起伏の無い人生だったと洋介は思った。
顔とスタイルは良かったが、ただそれだけで、友人もあまり作らず、目立つことも無い人生をこれまで送ってきたが、今、この瞬間、それからこれから行われようとしていることのために、自分は生まれてきたのだという確信があった。
それは恒子にしても同様だった。
洋介と同じに顔とスタイルが良いので、モデルにでもスカウトされそうなものだが、そんなことは一切無かったし、恒子自体に興味が無かった。
今から思えば、自分は生れ落ちた瞬間から売約済みの烙印を押されていて、そのためにスカウトされることも、男性に声をかけられることも無かったのだと思った。
二人はテーブルからテーブルへと、一通り歩かされると、部屋の中央に案内された。
そこにはいつの間にか、他の場所に敷かれている絨毯よりも上等で、丁度、人が二人くらい寝れる大きさの分厚いものが敷かれていた。
「恒子さん……綺麗だ……」
「あなたもよ、洋介さん……」
二人は指示を受けなくても良くわかっていた。
ここに二人で横になるのだ。
仰向けに横になると、洋介はまっすぐ上を向いたまま、恒子の手を捜した。
恒子も同じように洋介の手を捜していたらしく、二人の手はしっかりと結ばれた。
「怖くないかい?」
周りの喧騒を縫うようにして恒子の耳元に洋介の声が聞こえた。
「ちっとも……と言いたいけれど、やっぱり少し怖いわ……」
騒々しい中でも、恒子の声は洋介に届いた。
「でも、とても満ち足りた気分だよ……。恒子さんは?」
「私も……」
周りが一層騒がしくなった。
その時がやってきたのだ。
洋介と恒子は目を閉じた。
静謐な時間が二人の間を支配していた。
二人の耳にはもはや喧騒は響かない、どこか遠くから、嫌近くからの視線を感じながら、ただ静かにジムノペディだけが脳裏に流れていた。
「菅原、この二人が解体された場所で、飲み食いしたあとがあったんじゃないか?」
「ああ、発見されたときは剥き出しのコンクリート、打ちっぱなしの放置された廃墟跡って感じだったが、幾らかの食い滓、それからアルコールの跡……これは全部赤ワインということが確認されている。銘柄まではわからないけどな……」
荒川が再びえずいた。
「じゃあ、なにかい?二人は食事している連中の前で殺されたと……」
「そういうことになりますね。全く狂ってる!」
菅原が嫌そうに言った。
「宴の名残は残っていたんだな、やはり……」
「宴だと男女二人の解体ショーを見ながら、一杯やってたというのか?」
「饗宴には付き物だよ。良く牛やブタとかの家畜が、丸焼きにされるだろう?未開の地でも無くても、ヨーロッパのパーティでもさ。それと同じさ……」
シレッと言う近藤に、菅原は眉を顰めた。
「おい、バラされたのは人間だぞ!牛や豚と一緒にするなよ」
「一緒になんかしてないさ。対象が人だからこそ、高尚な宴だったはずさ」
「でも、遺体自体は手を出さなかったんだね」
自分で言いながら気分が悪くなったのか、荒川は青い顔になった。
「それはそうでしょ、平岡氏も富田女史も神への供物だったんだから」
「じゃあ、遺体をそのままにしておいたっていうのはどういうことだ?」
「もう、神が存分に味わって、もうただの物体になったからだろうね」
「しかし、遺体をそのままにしていったというのは?」
「もう何の価値もなくなったからか、そこで儀式が行われた記念においていったのか……。それは僕にもわからないよ」
菅原は気に食わないと言わんばかりの顔で言った。
「腐りやすい季節じゃなくて幸いだったよ」
「またそういうことを言って、僕の胃袋をひっくり返そうとする……」
荒川が菅原に抗議の声を上げた。
「しかし、一体どうして発見されたんだい?」
「あそこ辺りを犬を連れて散歩してた爺さんが、犬があんまりにも吠えるんで行ってみたら、腰を抜かしたってわけさ……。しかし近藤、お前は神のためだというが、それじゃあ高良先生の管轄か?」
近藤は答えた。
「いや、高良先生の管轄は肉体を持った神だ。今度のこの神は、もっと古く、高次元の神だよ。肉体を持たないね……」
「現世利益を持たない神か?」
「どうだろうね。信者は全員、その神に陶酔している。これは僕の仮設だけれども……」
「いいだろう。言ってみろよ」
菅原が居住まいを正した。
「ジムノペディで思い出したんだ。この曲は、フランスの作曲家のサティが遥か昔のギリシャの祭典をイメージして作った曲なんだ。太陽神アポロンと豊穣神ディオニュソスに影響されてね。アポロンの方は健全なんだ。若い者が取っ組み合いする祭りんなんだ。問題はでディオニュソスのほうだね、この神は酒による酩酊の神様なんだ。女性たちに奉りられ、神もまた酩酊する。その最後には必ず神に人間の生贄がされる。そんな信仰がシルクロードかなにかわからいけど日本にも伝わったんじゃないかな?そんな信者が待ち焦がれていた、神に捧げるにふさわしい貢物、それが彼、彼女だったろう。完全に純粋培養された二人は、もう既に神の声、視線を意識してんだと思う。彼、彼女は召される前に真実に幸福に満たされていたんだと感じる」
「じゃあどうして、あの二人がジムノペディだっけっか?それに固執したかの理由は?」
菅原が問うた。
「サティが、霊感かインスピレーションかなんだかわからないけど、古代の血生臭い祭典の最高潮に達する瞬間。つまり生贄が屠られるときだね。そこに生贄のこれから神に捧げられるっていう選民意識、光悦感、そして視に対する静かな覚悟……それを時間と場所を超えて作曲したとしたら、当然その流れを汲む宗派の生贄にされる彼と彼女たちが、サティと同じように、時間と場所を越えて、共鳴したんだろうというのが俺の仮設だよ、菅原……」
「つまり、自分たちが切り刻まれる前に、その覚悟はできていたんだということか?」
「本人たちにその意識はないだろう。しかし、その予感はしていたと思う。自分たちが神に見入られた存在だってことはね……。でもこれは仮説に過ぎない。大体からして、サティのインスピレーションも、ディオニュソスの宗派の伝播もいい加減なものだぜ、どの時期にどのように入ってきて、広まったかさえわからない。と言うよりもな菅原、そんな宗教がこの日本にあるかないかさえ、俺は断言できない。何のデーターもない。資料なんて何もない。ディオニュソスの祭典も正確なところは伝わってないし、お前たちの捜査結果と、俺の想像力で、ただ感じたことを話しただけだ……」
「今回は高良先生に……」
「無駄だ。相手は肉体を持たない観念的な神……精神の塊といっていいだろう。高良教授でも、相手にできない。むしろ、そんなものに関わったら先生が危ない……」
菅原は出て行った。
後には近藤と荒川が残された。
「コーヒーを飲もうかそれとも、秘蔵のブランディでも……」
「ブランディでお願いしたいね……」
しばらくするとコーヒーカップを持って、近藤が戻ってきた。
「ブランディ用のグラスでもあればいいんだけど、ウチはあいにく喫茶店でね。これで勘弁してください……」
荒川はカップを受け取り、一口すすると渋い顔をした。
「上手いブランディだね。何年ものだい?」
「荒川さんに避けの良し悪しがわかるんですか?酷い顔をして啜ってたけど……」
「年代ものだってことは、そりゃわかるし、顰め面もするよ、これほどアルコール度数が高ければね」
「何年物かはわかりません。適当に選んで注いできたからね」
近藤が優雅に口に含むのに対し、荒川はまた、渋い顔をして酒を啜った。
「楽しみなのか、怖いのかよくわからない気分ですよ……」
近藤が唐突に口を開いた。
「何のことだい?」
当然荒川は問う。
当然だ、唐突な近藤の発言に理解の糸端はない。
「いえ、あんなカップルを捧げられたんですよ。もしかすると、捧げられた神は本当に甦っているかもしれない……。あんな完璧な供物を捧げられた神、それがどんな神なのか?僕には楽しみと同時に、怖さも感じるんですよ……」
と言っている近藤の顔に微塵も恐怖の表情はなかった。
そんな友人の顔と、無残に解体された男女の写真を思い出しながら、今度はブランディを一気に煽って、改めて荒川は供物を捧げられた神への恐怖を覚えた。
了
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