第3話 半分
「半分」
福本驚
「張が死んだよ……」
近藤が静かな調子で、彼にしては珍しく表情を……それに滅多に見せたことのない、哀しみと沈鬱に満ちた……見せて、応接室のいつも鎮座している巨大な机の向こうの椅子から前のめりに、肘をついて指を重ね合わせるという、ポーズだけはいつもと同じまま、対面側のソファーに座る荒川に静かに告げた。
それを聞いた荒川は、大きな目を飛び出させるように広げ、厚い唇を半開きにして呆けた顔をしてから、反泣きの顔のまま、頭を抱えて、どさりとソファに沈み込んだ。
「何で、あんな良い奴が……」
いやいやをするように頭を振る荒川に、近藤が静かに告げた。
「彼の職業を知ってるでしょ、それに彼の性格も。他の連中と違って、彼の周りには、彼を守る胆力のあるようなゴロマキはいなかった。いたのはあくまでもビジネスの商談相手だからね……」
荒川は頭を垂れた。
「でもあいつは、奴らに連れて行かないんだろう?」
近藤は頷いた。
「ええ、張は最後まで『半分』をやらなかったから。それで臆病者と誹られても、彼は仕事ができるから、それで挽回できた。でも、仲間の一部では根強く『半分』をやらなかったから、付け上がられたと言う声が上がっているらしい。それは、白旦那……佐藤さんに聞いたんだけど……」
「当たり前じゃないか、張が『半分』なんてやるはずがないじゃない!思い知ればいいんだよ、根性試しで『半分』をやった奴らこそ、その先自分が……死んだあと自分がどうなるか!」
近藤は再び頷いた。
「完全に許せないと言う理由で、相手側が完璧に悪い場合でも許されることでもないからね。そのような状況でも、張は……それに一部の人たちは『半分』をやらないでしょう。臆病者と、言われない誹りを受けても。しかし今、荒川さんが言ったように、周りに示威するためにやる輩は、呪われて仕方ないだろうね」
荒川は二年前ほどのことを思い出して、目を閉じた。
二年前のある夜、荒川は見ず知らずの若者に襲われた。
友人と酒を飲んだ帰り、ぶつかったぶつからないのよくある理由で、荒川は一回りも二周りも下の若者に叩きのめされた。
渋谷だった。
そして入院した荒川の元に、息急き、一番に駆けつけたのが、大学の後輩で、近藤と同い年、同じ学年で、よく飲みに連れてってやったことのある、在日中国人三世の張だった。
「荒川さん、襲ったやつらのことを思い出して、教えてください……」
見舞いの言葉一つもかけず、張が口にしたのはその一言だった。
「な~んなんだいアンタは、普通、見舞いの言葉、大丈夫ですかとか、傷の具合とか聞くのが先でしょ?特に君が見舞い客一号なのに」
口では文句を言いながらも、荒川は土産も持ってきていない張に席を勧め、顔全体、唇までも倍に腫れてろれつの回らない口で言った。
が、張の顔を見て心配になった。
荒川は母国語も喋れないで、日本語だけだといって照れる、陽気なこの後輩の、こんなにも張り詰めた顔を見たのは初めてだったのだ。
「この写真を見てください。それから、この映像も……」
張は荒川に数枚の写真を渡し、荒川が見ている間に、タブレットパソコンを操作し、写真を見終わった荒川の前に、差し出した。
そこには数人から袋叩きにあっている自分が、多少不鮮明ながら映っていた。
「これは僕だね。道路の監視カメラ?」
「そうです、写真に見覚えは?」
「確かにこいつらだったような気がする」
「こいつらだったんですよ。もう調べはついてます。身柄も確保してあるし……。あとは荒川さんの面通しが必要だったんです」
荒川は晴れ上がった顔で、精一杯驚きの表情を浮かべ、張に問い質した。
「身柄確保って、拉致でもしたというの?そしたら穏やかじゃないじゃない。でも、あれから三日しかたっていないのにどうやって?」
「僕たちの情報網を甘く見ないでください。荒川さんが救急車で運ばれた時点で、僕は動き始めてましたし、もう加害者の一親等の家族は全て、身柄を押さえています……」
おい!それって犯罪じゃないか?と言う荒川の言葉を振り切って、張はそのまま静かに病室を立ち去った。
荒川は数週間後にとりあえず傷の残るものの退院したが、それを待っていたかのようなタイミングの張から連絡を受けた。
「荒川さん、ちょっと付き合って欲しいんですけど」
「そりゃ構わないよ。いつもの『鳥正』でいいかい?」
「いえ、ちょっと……。今日の夕方、六時くらいにお宅にうかがってもよろしいですか?」
「ああ、構わないよ。この前、アンタが言ってた不気味な話も聞かせてもらいたいしね」
「では六時に……」
『鳥正』と言うのは、近藤も含めて、張とよく行く安い焼き鳥屋で、荒川の根城といってもいい店である。
張と合うときは大概その店であったし、他の場所で会ったことなど、荒川の記憶になかった。
それにいつも快活で、張りのある張の声が沈んでいたのも気になった……が、本来、考え事で頭を悩ます習慣がないので、少しもたげかけた不安や気がかりな気分を忘れ、張との再会の楽しみで、頭を一杯にした。
張は時間通りに荒川の家を訪ねてきて、荒川は浮き浮きした気分でドアを開けた。
荒川は眼を見張った。
張の声をインターフォン越しに聞いてドアを開けたというのに、目の前にいる人物が張であると認識するのに、数秒かかってしまったのだ。
そこには荒川の知る、大学の後輩の、中国語は話せないと笑って語る張ではない、別人のような人物が立っていた。
平凡を絵に描いたような、既製品の所謂、吊るしのスーツを着ていた張ではなく、そちらの方面には弱い荒川でもわかる、上等な仕立てのスーツを、いつも緩めてはいるが巻いているネクタイのない状態で、一分の隙もなく着ている。
その上、姿勢と表情がいつもの張とは全く違った。
いつもの張は荒川には、基本的に奢ってもらうという基本的取り決めがあることで、頭を搔きながら、長身を屈めてはその肉をそぎ落として、皮だけの、横に少し広いフランケンシュタインの怪物に似た、顔の、奥まった目に愛嬌のあるとぼけた光を宿した瞳を、嬉しそうに輝かせながら、笑っているのが常だったが、今日の張は背筋を伸ばし、険しい顔をして、冷たいが、悲しそうな目をしていた。
「今日は一段とおめかししてるねぇ」
実際に見蕩れながら荒川が言うと、張は悲しそうな、辛そうな顔のままで答えた。
「荒川さんの退院祝いですからね」
そう言って準備をして(といっても、愛用のくたびれた肩がけのバックを取りに行っただけだが)戻ってきた荒川を、紳士が淑女をエスコートするかのように表に出し、今度もまた紳士のように先導して、少々くたびれたコーポ形のアパート(実際に大家の名前がついている)の階段を降りていっった。
「おお?」
荒川は自分のアパートの前の道路に止めるにはそぐわない、高級車のドアの鍵をリモコンで開け、自分を乗るように促している張に向かって、驚愕の声を上げてしまった。
「アンタ車なんか持ってたの?」
「ええ。結構するんで、荒川さんを呼びに行くまでに、持ってかれないかと冷や冷やしてましたよ」
「これ、相当に高い車でしょ?借りたの?」
こちら方面にも疎い荒川は、身振り手振りを交えながら、車の高級感に気圧されながら、助手席のドアを開いて、先に乗り込んでいた張の後を追うように乗り込んだ。
普段は年下でも『』と呼びかける荒川は、興奮したり我を忘れたりすると、呼び名が『アンタ』変わる。
まさに今がそうだった。
張の尋常ならざる顔つきと姿勢、それに加えて上等な服と高級車だ、荒川が戸惑うのも当然だった。
いつも金欠だと、それほど裕福ではない荒川に泣きついては奢らせている張とは、全く違う張が自分を訪ねてきたのだ。
そして荒川は本能的な部分と、場数での経験で、今日の初めての張の訪問が、決して普通の友人としてのものではないということを悟っていて、それが一番、荒川をと惑わせているのだった。
運転席でシートベルトを締めている張に倣って、シートベルトを締める荒川に張が話しかけてきた。
「飯、酒の前にドライブっていうのはどうですかね?」
荒川の問いに張は答えなかった。
ホラ、おいでなすったと、荒川は深呼吸を一つ大きくした。
「いいね」
車は舗装の悪い道路の上を走っていることを忘れさせるような、快適な乗り心地で荒川の自宅付近の住宅地を抜け、環状道路に合流すると、ゆったりとした速度のまま、他の多数の車の流れに混ざっていった。
そして十数分後、車は大きな河の、乗り入れできるギリギリの河川敷で止まり、そこで二人はタバコに火を点けた。
ここに車ではいつものように……いつものようにあえて振舞おうとして……世間話をしていたのだが、ここについた途端、二人は押し黙ってしまった。
「今日は、荒川さんに聞いてもらいたいことと、見てもらいたいものがあります……」
張が言い終わるのを待って、荒川が口を開いた。
二人とも前を向いて、暗闇に浮かび上がる街の灯りを見、川のせせらぎを聞いていた。
「僕の方も君に聞きたいことがある。見舞いに来たときに言っていた、僕を襲った奴らのことだけど……」
張は黙ってタブレット型の携帯電話を取り出し、操作すると荒川に手渡した。
「彼らの一家はもう既に行方不明者として届けを出されています。それは警察の内部資料で、彼らが何らかの事件に巻き込まれたことを推測しています」
「一人は借金を抱えていたが理由で犯罪に巻き込まれた。一人は所有していた車が山間部で事故を起こして、その車に家族全員が搭乗していた痕跡あり。もう一人は同じく多額の借金か、つまり……」
意味もなくハンドルを握り、張は静かに頷いた。
「俺の……否、俺の一族……それも違いますね。俺の所属する結社か組織というのが一番ピッタリ来るかもしれません。相互に利害関係が一致した、在日中国人の集まり……」
「華僑のようなものかい?」
「近いですね」
そこで初めて荒川は張に顔を向けた、張も同じように荒川を見た。
「信じて欲しいのは犯罪組織ではないということ、ビジネスを円滑に進めるために組織されたものだということです。ただし……」
荒川は息を飲んだ、話している張の顔から、表情が一切消えたからだ。
「脅威になることには一致団結して立ち向かうし、誰かが不幸になったら、皆で助けてやる。ここまでは普通の友人同士でも当然に行うものですが、中国人というのは、それだけでは満足しないわけです。身内が辱められたら、身内が暴行を受けたら、身内を殺されたら、確固たる態度をとるのが美徳とされているのです」
荒川はなぜか、自分ではわからないが、慎重に一言一言選んで、張にたずねた。
「僕は君の身内でもないし、たいした事も君にしていない。大げさになりすぎている、今すぐ加害者の家族を……否、加害者も解放すべきだ!」
荒川の言葉に張は首を横に振った。
「駄目なんです。僕が荒川さんを袋叩きにした連中がいると連絡を受け、怒りで身を震わせた次の瞬間、僕の部下は既に動き出してしまい『半分』への準備に向けて動き出してしまいましたから……。それにこれは、若い衆の根性試しでもあるんです」
荒川には、張の言う『半分』という意味がわからなく、根性試しという言葉もわからなかった。
ただ、自分の加害者とその家族が、張の属する組織にさらわれて、危険に……張は何も言わなかったが、危険にさらされていることは理解できた。
「アンタは、普通の会社に入った、中国人をルーツに持つただのサラリーマンだと思っていたよ」
「俺もそうなりたかったです、でも俺は長男だから、もう決められた運命としか、諦めるしかなかった。弟はそんなことを知らず、日本育ちの中国人として、普通にサラリーマンです」
「アンタは違うんだね……」
「ええ、あらゆる汚いことを、利益が出るのならする、中国商人の一人になっています」
荒川は二本目のタバコに火を点けた。
「聞きたいんだけどその『半分』っていうのはなんだい?それにそれが根性試しになるっていうのは……」
張は再び車のハンドルを握った。
それによって、気合を入れたかのように荒川には見えた。
「『半分』というのは、文字通り、組織にかかわる人間に危害を加えたか、その関係者に加えた人物とその家族に、身体の半分を拷問にかけること、それを指します。中国人は、俺が言うのもなんですが、非常に残酷な拷問を考え付きます。これは戦後に編み出された方法なのですが、ある非常に背の高い人物が、提案したと聞いています」
近藤の言う、日本の後ろ暗い歴史に、必ず現れる、年をとらない悪魔のようなあの男だ!やつは中華圏まで、その触手を伸ばしていたのだと、荒川は身を震わせた。
おののく荒川に気づかないまま構わず、張は話し続けた。
「次は見てもらいたいものの番です……」
そう言って張は、ダッシュボードに取り付けられた、それまでカーナビとして使っていたモニターを操作し、少々、映りの悪い、荒い映像を映し出した。
それはきらびやかな室内の映像で、貧弱な想像力棚と思いながら荒川は、まるでラスベガスのカジノのようだなと思った。
カメラが辺りをぐるりと見回すと、中央部分を中心に、扇形に客席が囲んでいるのがわかった。
大した盛況ぶりだった、仮面舞踏会を気取っているのか、客席に座るものたちは目が隠れるようにマスクをつけていた。
全体に共通するのは荒川の嫌う、金持ち、権力者の持つ傲慢さが滲み出ていることだった。
席にあらかた座った彼らの、視線の先には口にテープを張られ声を封じられ、身体は年代物の背もたれ付きの椅子に固定された、若い……まだ少女といっていい女性だった。
その横には今夜の張のように、上等な服を身につけた若い男が、ニヤニヤと厭らしい笑いを浮かべ立っていた。
荒川は人目でその若者を嫌いになり、本能的に危険な者だと理解した。
「張君、彼は?」
「このときの『半分』の責任者です……何でもビジネス上のトラブルで、部下が大きな損失を与えたらしいんです……」
「それじゃ今、映ってるこの娘は……」
「その部下の妹らしいです」
「この娘を今から拷問するの?」
「そうなりますね……」
張は感情のこもらない言葉で言ったが、その目は怒りの炎が燃えていた。
「まず、一親等の肉親を拷問にかけます。大概の者はその時点で屈しますが、中には親兄弟をなんとも思わない者もいます。そういった者でも、いざ自分の身に拷問が降りかかると根を上げます。まず拷問を受ける者の利き手ではない方を確認し、その半分を削り、そぎ、けずっていきます。それは壮絶なものです。そうして身体を半分、機能不全にしてから、最後のチャンスを与えます……」
「最後のチャンス?」
「利き腕に拳銃を握らせるのです。これまで『半分』にあった者は、自らその拳銃で打ち抜き、死を選びます。大出血する部位を避けて綺麗に処理して、死に致しめないように次々と人体を破壊していくのです。もちろん痛みは凄まじいものがありますが、薬や針などを使って、意識を失わないように、正気を失わせないようにします。半分にするまでは終わりません。拳銃を握らせる頃には、自分がこの先、全うな人生を歩めないことを悟るのです。そして死を選ぶ……」
荒川は絶句した。
「始まりますよ、荒川さん……」
荒川の気持ちを逆なでする例の若者がその場から退場すると、観客と同じように目の辺りを覆ったマスクをつけた人物が、様々な道具を乗せたトレーの載った、カートを押しながら、現れたときに喝采が、耳を覆わんばかりの喝采が観客席から上がった。
「そんな残酷なことを……」
「こちら側からしたら、残酷だろうと、それ相応の報いを与えている……ということらしいです」
「……らしいですって言うってことは、アンタはそれを……」
「やったことがありません。直接には見たこともありません。そういったことは嫌いなのは、荒川さんは知っているでしょう?でも今回、俺は『半分』をせざるを得なくなった」
苦渋に満ちた張の顔を見て、荒川はやっと話の趣旨を理解した。
「僕?僕が襲われたからなのかい?」
「そうです……」
二人の間に払いようのない沈黙が落ちた。
「望まないよそんなこと。そりゃあ、殴られ蹴られてる最中は、それに入院しているときは、あいつらを想像の中でギッタンギッタンにやっつけることは考えたさ。だけど、それはそれ。本当に復讐を望んだりしないよ」
張はホッとした顔になった。
「荒川さんならそういうと思ってました。後は俺次第なんです。『半分』をやらなければ臆病者扱いもされるし、組織の収入に穴を開けることになりますが、俺は断る決意を今、ここでしました」
荒川は張の言葉にホッとしながらも、気になる部分があった。
「収入って、君、今、言った?組織の収入って……どういうこと?」
張は苦々しいような苦痛のようなな表情を浮かべた。
「本当に恥ずかしい話なんですが、僕が所属する結社のようなものは、その『半分』という残虐な拷問をショーとして提供もしているんです」
荒川は唖然とした表情になった。
僧衣風に言われたら、先ほど写された観客はマスクをしていたが、テレビのニュース映像で見たような風貌の人間がいたのではないかと思う。
「そんな残酷な拷問を、金を払って見る者がいるっていうの?」
「残念ながら大勢……しかもそいつらは、かなりの高額な見物料を払って、楽しみにしてるんですよ……」
張が今までに見たことのないような激しい嫌悪のこもった表情で言った。
「それよりも何よりも許せないのが『半分』を行うことを、自分の度量の大きさ、肝の太さに結び付けて誇示しようとしている連中です。俺と同じ組織に身をおいているわけですが、彼らは暴力と恐怖で持ってビジネスを無理やりに成功に導いているような奴らなんです。俺は、そういった奴らと仕事をしたこともないし、これからもすることはないでしょう……」
張はそう言って、カーナビを兼ねているモニターに手を伸ばしたが、その手を止めた。
「おい、君!僕はこれ以上、こんな悪趣味なものを見たくないよ」
「いえ、この先に荒川さんに見てもらいたい映像があるんです……いいですか?このときの『半分』を受けた者は、妹に危害を加えるな、他の家族にもだと、拳銃自殺をしましたが、ホラ、ここからです……」
張の言葉に荒川は、嫌々ながら画面に視線を戻したが、助手席の背もたれを軋ませるほどに仰け反り、呆けたように口を開けた。
「これは主催者の若者じゃないか……こいつの周りに漂っているのはなんなんだ?」
荒川の言うとおり、観客を嘆息しからしめた『半分』のショウの早い幕切れに、先ほど少女の横に立っていた若者が、再び少女の傍に立ち、何やらか話していたが、その身体を覆うようにして周りに、黄色いモヤが渦巻き、覆い、透けているものの若者を覆っていた。
「これは一体なんだ……」
「ズームします荒川さん。御自分の目で確かめてください」
そう言って張はモニターのパネルに触れると、黄色いモヤの部分が大きく引き伸ばされ、モヤの陰影だと思ってみていたのが、身体の半分が人体模型のようになっている人々の、多くの人々の姿だということがわかった。
「これは『半分』にされた人々なのか……」
「ええ、この映像はアンチ『半分』といえばいいのか、半分という残酷な行為に反対する、俺のような側の人間が、あるカメラマンに隠し撮りさせたもので……これが近藤の知り合いの、そういったものを撮りたくなくても撮ってしまう人物だったのは偶然だったんですが」
「喜屋武さんか」
「ええ、そうです。お陰でこの映像は、俺たち反対派のイコンというべきものになりました。これは……この半分をされた人間は屑といってもよくて、復讐を依頼された、俺の組織の人間が、引き受けて最後まで行われた……普通の人間は、家族が切り刻まれ、壊されている過程で根を上げるらしいんですが、こいつは最後まで、自分が死ぬまで生に執着した。家族が殺されているのに、自分が多くの命を残虐に奪っていったのにです。あとで、この黄色いモヤの顔を一つ一つ確認したところ、これまでに巻き込まれて死んだ、無辜の人々だということを確認しました。続きはご覧にならないんですよね?」
「返事はさっき言ったとおりだよ」
一時停止にしていた映像を、完全に停止し、元のカーナビの画面にしてから、張がうなずいた。
「近藤も同じことを言いましたよ。あいつは怪異や不気味な事件なんかには夢中になるくせに、実際の人間の怖いことは見たくない、醜いってね」
荒川は今日何度かの驚愕の表情を張に晒した。
「近藤君にも……」
「ええ、大学時代に、あいつに勝手に惚れた女が相手にされないで、知り合いの男友達を使って、あいつを襲って、今回の荒川さんみたいに、病院送りにされたことがあったでしょう?」
そういえば、そんなこともあったなぁと、荒川は思い出す。
あの頃の近藤は、今のように皮肉っぽくなく、ただニヒルだが朗らかで、今と同じように怪異には異常な関心を示した……ただ、今の近藤と違って、奴の周りにいつも付きまとうような影のような、荒川他、知人たちが言う「黒の男」「代行者」という人物はいなかったことだ。
もし黒の男がいれば、病院送りにした男たちは無事ですまなかったように荒川は思う。
否、病院に近藤が入院することもなかっただろう。
そう考えると、近藤が大学を卒業してから、あの怪人物との親交が始まったということになる。
そこら辺りを深く掘り下げれば、あの怪人物の正体もひょっとしたらわかるかも……と、考えたところで、荒川は沈思黙考をいったんやめた。
「近藤君は興味しんしんだったろうねぇ、この映像を見て」
「あいつはこれを見せられた後、これをとったのは俺らが大学に入る前のものだったんですが、主催者の追跡調査を行ったらしいんです。不思議なことに、俺がこれを見せられたときは、映像に映っていた人物は、組織に見当たらなかったんですよ」
「で、件の人物はどうなってたんだい?」
張は息を吐いた。
「近藤の粘り強さと調査能力は大したものですよ。大学時代には真相に近づけなくて……そりゃそうですよ、俺の属している組織は完全に秘密主義で、ことに『半分』に関しては、ひた隠しにしていて、俺でさえこの人物がどうなっているか知らされなかったし、調べてもわからなかったんですから。でも、大学を出てからしばらくして、近藤から調査の結果を知らされました……」
やはりそうだ、学生時代の近藤には、あの影のように付き添い、あらゆる情報を確実に集めてくる、あの黒い男との接点がなかったのだと、荒川は確信した。
「で、調査結果は?」
今度は荒川から話を促した。
「組織の運営する病院に隔離されていました。何でも何度目かの『半分』やった後、精神に変調を来たし、それまでの犠牲者が目の前に現れるといって、酒や薬におぼれたらしいんです。本人はそれで正気を失えればと願っていたらしいんですが、正気を失うことはできなかったらしく、幻覚は見るが、それ以外は普通の人間と変わらないそうで、ずっと苦しんでいるそうです」
「苦しんでいるって……現在進行形だけど、その人物はまだ……」
「生きています。狂気に陥れないまま、正気で『半分』の犠牲者たちに、毎日、取り囲まれて生きているそうです」
「よく自殺しないもんだな……あ、そうか!自殺ほど怖いことはないんだ」
「そうです。彼にとって、死後の世界に行くほど恐ろしいことはないんです。そこに何が待ち受けているか……というよりももう、あちら側の世界からの住人が、毎日訪れているんですからね。自分に何が待ち受けているか、もうわかってしまっている」
荒川が溜息をつくのに、張が笑いかけた。
「俺は今回で二度目の『半分』の拒否者になってしまいましたが、むしろ誇らしい気分です。確かに裁かれない悪というものもあって、その被害者、関係者には必要なシステムかもしれないという気持ちも、心のどこかにはあるんです。でも俺には無理だ。そんな俺の性格を知っている奴が、大体いつも俺に『半分』を強要して来る。今回の荒川さんの件も、昔の近藤の件も、下っ端の荒くれを使ってしまえばそれで済むんです」
「ニ、三発ボコボコって感じに?」
「いえ、荒川さんの五倍くらい長く病院に入ってもらいました」
「入ってもらいましたって、もうやっちゃったの?」
「ええ。荒川さんが断るのはわかっていたので、今頃、うちの若い連中が、悲鳴を上げさせているでしょう」
驚く荒川に張は笑って見せた。
「俺は残酷な拷問は嫌いですが、親しい人が暴力を振るわれて黙っているほど、お人よしでも腰抜けでもないです」
「アンタ言っていることが矛盾してないか?」
「はっはは!この世は矛盾だらけですよ……だけど俺は、通さないといけない筋と、通してはいけない筋は守っているつもりです。荒川さん、そろそろ、飯、酒どうですか?」
「いいねぇ、丁度腹も減ったし、喉も渇いたところだよ。『半分』をあのまま見たら、どっちも……否、酒だけは飲めたかな。でもアンタの姿勢を知って、気分がよく飲み食いできそうだよ」
「もう『半分』のことは忘れてくださいね。荒川さんの人生に、これから関わることのないことですから」
「そうだねぇ……」
それから荒川は笑いながら続けた。
「今日は美味しい中華料理を奢って貰おうか。アンタ、どういう仕事してるのかわからないけど、羽振りいいんでしょ。高級中華料理を腹いっぱい!紹興酒を腹いっぱい!」
張が大げさな素振りで、
「今まで、荒川さんが奢ってくれてたじゃないですか。今更っすよ!」
「否、今日から先、アンタに奢ってもらう人生を、僕は送ることに決めた。そっちのいうとおり、今更、金がないっていうのはなしよ」
「参ったなぁ。良いですよ。知り合いがやってる中華料理屋に行きましょうか。でも、鳥正とかはもう無しですか?」
「鳥正は別だよ。あそこにいくときは、僕がおごるよ」
「安いですからね」
「そんなこというと、もう奢らないよ」
「いやいや、奢って下さいよ。今日は僕が奢りますから」
張は車を出した。
荒川は、カーナビの画面の変わりにテレビの画面になったモニターに出てきた、大人数のアイドルグループに嫌悪感をあらわに、酷評し始めた。
あの張が死んだというのか……荒川はしばらく言葉を失った。
「張は最後まで『半分』をしなかったんだろうねぇ……」
荒川がやっと搾り出したのは、苦笑い交じりだった。
「僕が調べたところでは……、調べなくても僕らにはわかってたじゃないですか。張はしないということは……」
近藤は珍しくしんみりと、感傷的な口調で答えた。
「そりゃあ、彼の仕事柄、汚いことに手を染めていないとはいわない。しかし彼は、決して一線を越える男ではなかった。それは僕と荒川さんがよく知っているし、そして、これからも決して忘れてはいけないことだと思う……」
荒川はその言葉に、ソファに深く沈みこみながら、前屈みになり肩を震わせた。
近藤は椅子から立ち上がり、すっかり暗くなり始めた背後のガラス窓を振り返り、大きく溜息をついた。
それから又、しばらくたった後、荒川が口を開いた。
「近藤君。これから予定はあるかい?」
「いえ、幸いなことに何もないよ」
「じゃあ、鳥正にいこう。アンタと張に奢ってやるよ……」
「良いですねぇ。喜んで奢られます……張も喜んでるだろうね……」
近藤がこれまた珍しく、机を大きく廻って、靴音を立てながらドアまでいくと、自ら開いて荒川を招いた。
荒川は少しよろめきながら立ち上がり、フラフラと歩きながら近藤に礼を言うと、近藤は静かに笑った。
そして二人は、今は亡き共通の友人を語らうため、夜の街へと出て行った。
了
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