第2話 非常階段にて

 [非常階段にて」

                          福本 驚

 

 

 「あのビルで噂されている、奇妙な話の、体験者が君のところに現れたって言うのかい?」

 年下の友人の近藤に、彼の経営する喫茶店の、奥まったボックス席に呼び出された荒川が言っているのは、最近再開発され、都心の新たなる観光の目玉となっている超高層ビル群の近くで、それ以上に注目の的になっている、あるビルのことだった。

 薄暗い、何度か曲がる木の板に仕切られた、奥まったボックス席の席でコーヒーを飲みながら、これまたいつもの状況下で、荒川に頷いて見せた。

 「あそこで何人、命を落としたんだっけ?」

 屈託のない笑顔を浮かべ、近藤が尋ねてきた。

 「三十人以上だったと思う。複数のビルでね。正確な数は覚えていないけど、それが連続して起こったんだ。しかも奇妙なことに、何人かは途中で発見されて、死ぬことがなかったのに、その後に待ったく別の人間が、その間を埋めるように、飛び降りて死んでいて、途切れることなく、飛び降りでの死者が連続したことなんだよ。今日もまた犠牲者が出るんだろうか?」

 荒川は不安そうな声音で言った。

 「いやそうはならないだろうね。終結したんだよ、今後あの界隈で二度と人死には出ないだろうと思う……」

 荒川は怪訝そうに、友人を見返した。

 「どうしてそんなことが言えるんだい?」

 「原因を排除した」

 荒川は更に怪訝そうに友人を見た。

 「原因があったの?飛び降り自殺が連続するのに、原因があったの?」

 一体全体、どういうことだと困惑する荒川に、近藤は頷いて見せ、体験者の警備員の話から、それが掴めたと言った。

 奇妙な体験談を、録音させてもらったから、荒川さんも聞くかい?近藤はそう、荒川に誘いをかけてきた。

 目の前にデジタル式のテープレコーダが置かれ、レコーダー越しに近藤が自分を見つめているのを見て、自分の意気地を冷笑の淵で試されているのを感じながらも、荒川はなかなかレコーダーのスイッチを押すことができなかった。

 「遠慮することはないよ、荒川さん。僕はもう聞いたから、聞き取りにくいところがあったら、自由に巻き戻して聞いてもらって構わない。自分一人で聞いている気分で、存分に聞いてよ。僕はちょっと調べものがあるので、一緒に聞くわけにはいかないんだ……でも言っとくよ、これからの証言は、ほんの触り……最初の一部なんだよ」

 荒川は、今更ながら友人の意地の悪さに嫌な気分を味わいながらも、東京都内の、しかも新たなる開発地区で起こった、怪談じみた部分のある.

 あの連続自殺事件の正体の、一端が明かされている可能性があると友人が示唆した、この録音内容への興味が、それを上回っていることを認めないわけにはいかなく、友人が部屋を後にした後、早速内容を再生することとなったのだった。

 もちろん興味はあった。

 しかし、呼び出された時間が時間だった。

 近藤は自分の興味のある事柄に関しては、ことのほか積極的で、店仕舞い後のこの喫茶店を使って、色々なことをするのだ。

 それにはある程度、夜がふけていなければならない。

 今夜もそんな雰囲気だったので、荒川は一抹ならぬほどの不安を抱えたのだが、好奇心には勝てなかった。

 

 

 

仮にその人物の名を安藤氏としておこう、これからする話は、彼が実際に体験した……というより、と思っているのですと、彼自身は自信のない様子で(というよりは、実際に体験したことと思いたがってはいないと、感じさせる風情である)、しかし実体験ではなく、錯覚、もしくは幻覚を見たという人物としては、異常に恐れを抱いた様子で、話をしてくれる間中、常に何かに怯えているという感じを与えていた。

 彼はついしばらくまで、あるビルで警備員を務めていたが、そのビルの名は特に秘すことにする。それが彼の望みでもあるからだ。

 そのビルは複数のテナントの入った、最近建てられた複合型の建物で、彼を含めた何人かの警備員で、定期的に巡回業務を行っていた。

 いまのビルに漏れず、洒落たレイアウトで様々な商品を扱うテナントが、見栄えよく配置されており、空間も贅沢に取られていた。

 このビルの建っている地域は、最近の再開発で、辺りに建っている他のビルも同じように、新しい建物で、全体的に都会的でお洒落なスポットとして、テレビや雑誌などでひっきりなしに取り上げられているような場所だった。

 彼の勤務するビルは、周りの巨塔のようなビル群に比べれば、小さなものだったが、それでも中に入っているテナントの知名度から、訪れる客も少なくないビルだった。

 一般の人たちが考えている警備員の巡回は、昼はともかく夜の巡回は、怖いものではないかと思われがちだが、よっぽどの臆病者でなければ、人間特有の習慣と言う慣れによって、それほど怖いものではないのが実情である。

 何かいわくのある土地の上に建っていると言うのならともかく、このビルはそんないわれもなく、昼の巡回は若い娘さんを眺めつつ、夜の巡回は懐中電灯を片手に、決まりきったルートをある程度制約のある時間内に廻ればいいという、退屈極まりないものだった。

 そんなある日、というよりある晩、いやある明け方、安藤氏はその体験をした。

 夜、夜中に廻る巡回は、慣れているとはいえ、いささか不気味さも感じるものの、明け方の巡回は、はめ殺しの大きなガラス窓から、朝日が燦々と差し込んで、どちらかと言えば、昼の巡回の人を縫って行うものよりも、早朝で人がいない分、よっぽど楽で、逆に清々しい気分になれる、人気の高い巡回の時間帯だった。

 何よりも施錠の確認や、不信物、不審者の確認と言う、どういったことのない作業が、爽やかな朝の空気で、夜勤明けの眠気を覚ましてくれるので、安藤氏はこの時間帯の巡回を進んでするほどだった。

 しかし安藤氏は、この日に限って、とんだ椿事と異様な怪異に出くわすことになるのだった。

 テナントを廻り、不信物不審者の有無を確認し、各階の通路の一方の先にある非常階段の施錠を確認し、順調すぎるほど順調に、最上階から地下の駐車場まで、安藤氏は巡回を行っていった。

 そして最後の巡回箇所、屋外に隣接する外付けの非常階段までたどり着いた。

 この非常階段の地上口は内側からは開くステンレス製の、並みの成年男子の丈の竹を越える。

 結構高い格子状の門扉になっており、彼はいつも行っているように、その鍵を開け、屋上まで至る金属製の階段を上っていった。

 年配の警備員の中には、この最後の巡回がきついと嘆く者も多かったが、まだまだ体力のある安藤氏にとっては、いい運動になるし、晴の日は辺りのビルの隙間から漏れる朝日を眺められるので、最後に気合を入れて、元気よく登っていくのが常だった。

 コンコンコーンと、金属と厚い革靴の底が立てる音が、リズミカルに森閑とした朝のオフィス街に響き渡る、少し息を荒げながらも、爽快な気分を味わいつつ、安藤氏はどんどん非常階段を上っていった。

 真中の階あたりまで来て、何か違和感を憶えた。

 別に勘が鋭いわけでもないが、上の階での微かな物音を聞き逃すほど鈍くもない安藤氏は、途端に今までの上機嫌が消え、職業上の警戒心が頭をもたげ始めた。

 支給された特殊警棒を、なるべく音を立てないように伸ばし、安藤氏はゆっくりと慎重に階段を上り始めた。

 今まで高らかに足音を立てていたせいで、自分の存在は、もし上方階にいる不審者には気づかれているはずである。

 いま自分が出来ることは、相手より落ち着き、かつ慎重に動き、主導権を握ることだと、その時安藤氏は考えた。

 持っているトランシーバーで、仲間に報告することも考えたが、その声が聞かれて逆上され、駆け下りてくる侵入者に、有利な立場を与えることを恐れ、とりあえず侵入者を確認してから、それ以降の行動を決めようと、慎重な足取りで一歩一歩、上へと進んでいった。

 携帯していた伸縮式の特殊警棒を音を立てないように伸ばす。

 その間、安藤氏は侵入者の侵入経路に頭を巡らせた。

 考えられるのは、地上口からの侵入である。高い門扉とはいえ、無理をすれば乗り越えられないこともないのは、警備員全員が知っていることだった。

 他に考えられるとすると、ビルの中から非常階段に出ると言う手段だが、各階の巡回では異常はなく、施錠も確認していたし、もし自分が気づかない寸隙を縫って、ビル内に潜み非常階段へ出る扉を開いたのなら、警備員の詰め所に、何階の非常階段が開いたと言う警報が上がるはずだから、自分へ連絡がこないはずがなかった。

 そんなことを考えているうちに、案外あっけなく侵入者との遭遇は果たされた。

 これから登っていく階段の一番上にちょこんと腰掛けて、侵入者はこちらを泣きはらした目で、すがるように見つめていた。

 まだ幼い少年が、涙を流しながら、自分に声をかけようとしながらも、嗚咽に阻まれて、荒く息をついているのを見て、安藤氏は半ば安心しながら、少年に話掛けた。

 「そこで何をしているんだ?」

 少年はその問いに答えられず、ただただ嗚咽するのみであった。

 安藤氏は危険はないものと判断し、それ以上に怯えて泣き続ける少年に哀れみを感じ、自ら少年へと近寄り、その肩を抱いてやった。

 聞けば少年は、この辺り一帯の新聞を配達している苦学生であり、やはり侵入経路は非常階段の地上口、わからないのは自分がなぜ、ここにいるのか、何をしようとしていたのか、全くわからず、気づいたらこの場で、手すりから地上を眺めながら、足をかけようとしていたところに、安藤氏の足音で正気づき、すっかり怖くなって蹲っていたという。

 安藤氏はどうしたものかと判断に迷った。

 安藤氏が見たところ、少年はあどけなく、自分がしようとしていた……投身自殺を意識していないどころか、全くその気がないように見受けられるので、これはストレスによる、突発的な行動だと結論付け、その後処理をどうするかということが、これからの問題であった。

 安藤氏は震えている少年を立たせ、一緒に途中まで階段を下り、手すりの間から少年が地上へ向かって降りていくのを見守り、かねてから言い含んであった、扉が内側から開き、締めれば自動的に鍵が閉まるということを、少年が実行するまで、そしてその場から立ち去るまでを見送った。

 このようなことが度々、起こるということは、先輩の警備員に経験談として聞かされていたが、自分が出くわすとは思いもしなかったので、安藤氏は人命を一つ守ったことと、そしてそれを本部に連絡して、大事にすることなく、少年の未来を守ったことに、少しばかり英雄気分を味わって、軽く興奮していた。

 もちろん本来なら、トランシーバーで本部と連絡を取り、ことの収集に当たるのが規則だが、そんなことをしたら、自分で学費を払って頑張っている、あの少年が困ったことになることは確実だったので、このことは自分の胸一つにしまうことにしたのだ。

 非常階段なので、一階まで行けば、内側からは扉は開くが、1回閉まってしまえば、二度とは入れないので、忘れ物はないかと、少年に確認して、下へと送り出した。

 そして先程より足取り軽く、念のために伸ばしておいた特殊警棒を縮めて、その尻についている腕通しの輪でくるくると回しながら、少年を拾った階を過ぎ、さらに上へ上へと登っていき、屋上まで後ほんの数階というところで、ぴたりと足を止めてしまった。

 なぜだか理由はわからないものの、身体中を痺れのような悪寒が走り、身体が全く動いてくれなくなってしまったのだ。

 外付けの非常階段には、登ってきた朝日が満遍なく降り注いでおり、服や皮膚ではその暖かさを感じていると言うのに、身体の芯が冷え切って、気を許すと上下の歯がカタカタとなり始めそうなくらいだった。

 そこに物音が聞こえた。

 上のほうから降りてくる気配が感じられる。

 もう一人いたのか?

 安藤氏はまた、警戒心を呼び戻し、ことに対応しようとしたのだが、先程と打って変わって、何も行動を起こせず、警戒心とそして……恐怖が安藤氏を支配して、身じろぎ一つ出来ないまま、階上を見ることしか出来ないでいた。

 物音は段々と下へ向かって、確実に進んできている。

 逃げ出したい!

 安藤氏がその時、思ったのはそれだけだった。しかし自由のきかない身体は、思うようには動いてくれない。

 物音はいまや、直上の踊り場辺りまで近づいてきていた。

 逃げられないのなら、今ここに近づいてくるものを見ることだけでも避けたい、安藤氏はそう願ったが、それは果たされず、物音の正体が安藤氏の視界に入り込んできた。

 それはどうやら女のようだった。

 しかし陽光に照らされて、見えてしかるべきの顔は、長い髪にどういうわけか溶け込んで見ることは出来ず、安藤氏が見ることができるものといえば、そのものの全体だけであった。

 かつては白かったと思われる、いまはところところ黒ずんでいる(なぜかはわからないが、安藤氏は直感的に、それが乾いて変色した血の跡だと確信した)、ワンピース型の服を風になぶらせ、ソレはギクシャクと気味の悪い動きで、唸り声のようなものを発しながら、ゆっくりと階段を下りてこようとしていた。

 ソレの動きが奇妙なのは、服に隠れて見えはしないものの、身体中の関節がねじくれ、折れ曲がっているからだと言うことが、またもや直感的に安藤氏には理解できた。

 現実にソレは今、この場に存在しているものの、同時にソレは、この世の者ではないと安藤氏は絶望の中、確信していた。

 その証拠に、それが一歩一歩降りてくる度に、やや不安定な金属製の階段の枠は揺れ、安藤氏の耳には、それが立てる足音が確かに聞こえていたし、周りにも反響していたのだ。

 そして、それの影もまた、爽やかな朝の光を浴びて、階段に長く伸びているのだ。

 気味の悪い動きで降りてくるそれは、確実に自分のほうへと近づいてくる。

 鼻を突く異臭がして、安藤氏は胸がむかつくと同時に、後五段ほどでソレが自分と同じ段に下りてくるのを考えると、気が違いそうな恐怖が心を鷲掴みにし、身体全体に冷たい悪寒を走らせた。

 絶望と恐怖の中、唯一の救いは、安藤氏が階段の外側の手すりに、その奇妙な存在が、階段の内側の手すりに身体を寄せていることだった。

 そばを通り抜けるのを見てはいけない、逆に見なければ何とかなる。

 先ほどから何度も訪れている、本能的な直感で、全身の力、意志の力を持って、安藤氏は限界までに開き、閉じることはおろか瞬きまでできず、瞳が乾いて充血して痛いほどの目を、ただただ閉じようとした。

 そして奇跡が起きたのか、目の前が真っ暗になった、目蓋がやっと閉じてくれたのである。

 目蓋越しに朝の陽光が感じられ、同時に何かが赤いカーテンのようになった目蓋の裏を動いているのを感じた。

 そして足音と唸り声……段々近づいて、そして異臭……濃密にあたりに漂う、そして気配……横を通り過ぎるのが感じられた。

 コン……ゴコン、ゴコココン、コン……。

 奇妙なリズムで、足音と唸り声が下へ向かって遠のいていく。

 その音が微かになるまで、安藤氏は身じろぎもしなかった。

 閉じることができた目蓋である、開くこともできようが、決して開いてはならないことは、十二分に理解できていた。

 そして急に身体から力が抜け、安藤氏はその場にへたり込んだ。

 足音はまだ響いているが、大分遠くなっている。

 安藤氏は手すりを痛いほど掴んで、その足音が消えるのを目を閉じたままで待ち続けた。

 しばらくすると、足音が聞こえなくなり、辺りを静寂が包み、安藤氏もようやく身体から力を抜き、恐々とその目を開いた。

 アレが、あの少年を呼んだのだ。

 絶対の確信を持って、安藤氏はそう思った。

 新築の現場と言うのは、前に建っていた建築物や、建てあがるまでの因縁話が一つや二つ、ついて回るものだが、このビルに関しては、建物の前歴もはっきりしていたし、建てあがる間も、ここの警備をしていた安藤氏が、その様な噂を聞いた記憶はなかった。

 しかし、このビルには憑いていたのだろう、そして自分はソレを見てしまったのに違いない。

 命拾いをした……安藤氏は、心の底からそう思った。

 しかし安藤氏は、今後の動向を考えなければならない状況に陥っていた。

 身体中から力が抜けて、一人で満足に動けそうになかった。

 こんな話を誰も信じてくれないだろうが、トランシーバーで助けを呼ばなければ、安藤氏の不在を疑問に思った同僚が様子を見に来るのを待つことになるが、そんな心的余裕は、今の安藤氏には皆無だった。

 こんな話を信じる者がいるだろうとは思えなかった。

 今更ながら、あの少年を発見したときに、一報を入れておけばよかったと悔やまれた。

 そうすれば少しながらでも、話に統合性を持たせることができたかもしれない、警備員と言う職業は、職務についている間に一度や二度は、奇妙な出来事に遭遇した者も多いし、職業柄その様な噂を多々聞き及んでいるので、多少は信じてもらえたかもしれないものを……と、悔やみながら、腰につけたトランシーバーを手探りで取り上げた。

 しかしトランシーバーに手を伸ばしたとき、階下から何か物音が聞こえるのを耳にし、通話のボタンを安藤氏は押せないまま、その音に耳を済ませた。

 唸り声が心なしか、先ほどより大きくなったようだった。

 トランシーバーを握ったまま、安藤氏はその場に凍りついた。

 奴に違いない。

 トランシーバーを起動させ、最大の注意を払って、最小の声で監視室に助けを求めた。

 言えたセリフは「非常階段に来てくれ」と言う短いものだった。

 その間も、階下での唸り声は段々と大きくなり、ついには辺りに響き渡るほどになった。

 この大きく響く声に気付くような者は、この早朝、他のビルにはいないに違いないが、通行人はどうだろうか、それより不審に思って、非常階段に向かっている同僚が気付いてくれていることを安藤氏は望んだ。

 その唸り声に混じり、地上辺りでの足音も微かに聞こえた気がした。

 安心したせいだろうか?それとも命を賭してまで、身体を動かす好奇心からだろうか?安藤氏は手すりに身体を預けて、頭を垂れてしまった。

 そして恐怖と後悔のうちに、何重にも重なる地上へ向かう手すりの螺旋回廊の間に、こちらを見上げている顔を見ることとなってしまった。

 ソレは後になって冷静に考えれば、件の少年が泣きじゃくっていた階、その辺りから顔を出していたように思えた。

 見上げている顔は真っ赤だった。

 見てはいけない、見たくはないと思いながらも、安藤氏の目はその顔の細部までを、仔細に捉えてしまった。

 ソレはグチャグチャに崩れた人の顔の残骸であった。

 所々白いのは、骨が露出しているからで、後はつぶれた肉塊でしかなかった。

 気絶する前に安藤氏の脳裏に焼きついたのは、ソレの目の部分だった。

 真っ暗な闇に通じるように、その眼窩は窪んで瞳自体は失われており、片方の頬に片目の潰れたものが垂れ下がっていた。

 「!%$&”#*+*`+~|%%&!」

 朝のしじまを切り裂いて、人ならぬ者の、声ならぬ叫びが響き渡った。

 怒り狂っている、俺があの少年を救ってしまったので、アレは怒り狂っているのだ!

 全く疑いを持たずそう思って、安藤氏はそのまま気絶してしまった。

 次に安藤氏が意識を回復したのは、監視室の簡易ベッドの上であった。

 まだ去らない恐怖のうちで、安藤氏の覚醒に気付いて駆け寄ってきた同僚が、心配そうに見つめながら、何があったのかを問いかけた。

 安藤氏は何も語らなかった。

 涙が流れてとまらず、幼児のように頭を振りじゃくりながら嗚咽を漏らす安藤氏に、説明を求めず、同僚は逆に、安藤氏を発見したときの様子を優しい口調で語りかけてきた。

 安藤氏は非常階段の上のほうの階で、手すりを握り締めて失禁、脱糞した状態で発見された。

 目はカッと見開き、歯は実際に血を流すほど食いしばられ、足だけが何かから逃げようと何もない空間を蹴っていたという。

 安藤氏は病院に行くことを勧められたが、そんなことより、一刻も早くこの建物から離れたくて、同僚が着替えさせてくれたのだろう、夜勤用のジャージを着替えて、ビルから飛び出すように家路を急いだ。

 退職届は後から郵便で送った。

 

 後日談がある。

 あの最後の勤務の日、一緒に仕事をしていた同僚から、復職しないかと言う連絡があったのだ。

 安藤氏はもちろん断ったが、あらかじめその返事を予測していたらしく、それ以上誘うことはせずに、その元同僚はちょっと一杯付き合ってくれ、話をしたいんだがと、改めて誘ってきた。

 あの日、非常階段で無様な自分を救ってくれて、おそらくは下の世話までしてくれた恩人だった。無碍にも断れず、安藤氏は応じはしたが、条件としてあのビルから、否ビルからだけでなく、その付近からも離れた人の多い繁華街の飲み屋でと言う条件をつけた。

 相手は笑って応じた。

 あのビルに関することは意識して遠ざけてきた安藤氏だったが、連日のようにテレビや新聞で、あのビルや、その付近のビルでの飛び降り自殺の報道を、全て遮断することはできなかった。

 安藤氏が去ったあの日以来、あのビルは自殺の名所として、特に有名になっていたのだ。

 そして付近のビルも……。

 指定の飲み屋に早めに着き、軽いつまみにビールを飲んでいると、同僚が青白い顔で店に入ってくるのが見えた。

 あの日以前から特に親しい間柄という同僚ではなかったが、その青白い顔を見ると、奇妙な親近感がわいて、安藤氏は自分と同じものを、彼が席につく前にカウンターに注文した。

 席について同僚は、青白い顔で乾いた笑いを見せたものの、一言も口をきかなかった。

 安藤氏も語りかける言葉を見つけられず、二人は同僚のビールが来るのを静かに待っていた。

 ビールが到着すると、同僚はそれを一気にあおって、溜息ついてから安藤氏の近況を聞いてきた、安藤氏もそれに答え、気まずいながらも会話は始まった。

 三杯目のビールをあおってから、同僚はやっと話し始めた。

 もちろん、あのビルの件である。

 安藤氏が遁走した翌日から、かなりの頻度で巡回中の警備員が、非常階段で不振侵入者を発見しては退去させるという日が続いたそうで、しばらくして初めての投身自殺者が出ると、それを皮切りに、毎日という異常な頻度で、投身自殺者が続くので、非常階段の地上からの入り口は、昨日、大規模な工事の上、侵入ができないようにされてしまったそうだ。

 そのお陰で、侵入者の投身自殺は絶えたのだが、今度は巡回中の警備員が非常階段から身を躍らせることとなったのだそうだ。

 侵入者の投身自殺は、ニュースで聞いていたが、警備員の自殺は初耳だったので、安藤氏は背筋が凍る思いで、元同僚の話に耳を傾けた。

 それもそのはずで、その自殺は今朝の話で、今のところ会社の上層部の圧力で、事故死として扱われているのだそうだ。

 飛び降りたのは豪胆で知られる、N部長だという。

 「まさかそんな、あの人が……」

 N部長は、そういった怪現象を笑い飛ばすたちの人で、その様な噂の立つ、人の嫌がる現場を進んで志願し、その警備員としての資質を評価され、昇格して上に上がり、現場からは遠ざかっていたはずだった。

 「お前さんが辞めてから、ずいぶんと同じ理由で辞めていった奴が多くてな、俺も異動届を出したんだが、立ち上げからいるからな、巡回をしなくていいと言う条件で残されてたんだ。しかし、あれから何人も死んで、会社の責任問題まで発展してな、N部長が乗り出したんだよ。しかし、結果は今言った通りさ」

 安藤氏は言葉をなくし、呆然と元同僚の話に聞き入った。

 「俺も今日、ようやく辞表を出してきた。それまで倍近い手当てにつられていたんだが、もういけないよ。さすがのN部長といったところさ、自分が死ぬ間際まで、トランシーバーで交信を続けたんだ。俺はそれを聞き続けた。もういけないよ……」

 「白いワンピースの女か?」

 それを聞いて安藤氏が、意気込むように話を振ると、元同僚は身震いをして安藤氏を見つめた。

 「やはり、お前さんが見たのもそれだったのか……。でも結局あれは何なんだ」

 自分にわかるはずがないだろうと安藤氏は答えた。

 しかし、この世のものではないだろうなと、一言付け答えはしたが。

 「N部長の声が耳から離れないんだよ。白い女が近づいてくるって、半狂乱でな……、後は絶叫さ」

 それからしばらく、二人は黙って杯を重ねた、いつの間にかビールではなく、焼酎のロックに飲むものは変わっていた。

 帰り間際、呂律の回らない口調で、元同僚は尋ねてきた。

 「お前さん、あの日、供え物に気付かなかったか?」

 安藤氏は知らないと答えた。

 「非常階段の脇の、目立たないところに置いてあったんだがな、普通の人の死を悼む類のものじゃないのは確かだ。花と線香とかかそういうんじゃなく、奇妙な色の砂や、嫌な臭いのする御香がまとめて盆の上に置いてあったんだ。それがな、人が死ぬたびに、普通のお供え物のそばに、毎回置かれているんだよ、飛び降りが起きたほかのビルにも、同じものが置いてあったと聞いた。俺が思うに……」

 その後の一言は、安藤氏が引き継いだ。

 「アレを呼び出すためのものなのか……」

 元同僚は答えず、肩をすくめ感情を済ませて一人出て行った。

 安藤氏は今でも、件のビルはおろか、その付近へも近寄らないでいるという。

 理由を問うと、苦笑交じりに安藤氏は言うのだ。

 「私は顔を見られてますからね、面が割れてしまっている。二度とあの界隈には近寄りたくはありませんね」

 安藤氏がそこまで避けるそのビルは、近々解体の予定だという。

 

 

 録音された話をまとめると、こんな感じだった。

 嫌な感じがした。

 もちろん、この警備員がした話も十分不気味だったのだが、荒川にとってはそれ以上の懸念を感じさせる、いやな予感を感じていた。

 自殺者を呼ぶ異形の存在、そしてソレ自体を呼び出す呪術めいたアイテム……。

 まるで録音を聞き終わったのと、それに関しての懸念を荒川が抱いたのを見越したとしか思えないタイミングで、近藤が部屋に戻ってきた。

 「どうだった?」

 「面白い話だね。話を信じるとすると、何者かの意図で、この世ならぬ者が召還され、ソレが人を、死のダイブに駆り立てているというわけだろう?いったい何者が、そんなことをしたのだろう?嫌がらせ……いや、これはもっとどす黒い悪意を感じるな。しいて言えば復讐……何ともいえないけど……」

 荒川の話を聞いて、近藤は荒川の思い描いていた対応を返してきた。

 「その、何者かの意図というのは、僕には関係ないし、どうでもいい。ただ興味はないかい?そんな強力な呪物と、そして強力な力を持った、人外の存在というものに!」

 荒川の懸念はどうやら的中したらしい、彼はそれでも、この奇矯な友人が、その様な行いをしないということに賭けたかった。

 「まさか君、馬鹿げた考えをしてやいないだろうね?」

 もうすっかり夜も更け、曲がりくねったこのボックス席に座っていても、夜が更けていることを荒川は気づいた。

 奥まったボックス席からも、店内に客のいる気配は感じられない。

 その時、音も立てずに部屋に第三番目の人物が現れた。

 黒尽くめの格好に、黒い幅広の帽子を被っている。

 見覚えのある、帽子と黒い服の襟から覗く白い肌に、荒川は懸念が的中したことを知った。

 その黒尽くめの人物は、まるで風のように現れて、大机の上にあるものをおくと、そのまま現れたときと同じように、風のように出て行った。

 荒川は長年、その人物を見続けているのだが、その人物に関しての知識は全く皆無だった。

 友人の近藤のために働いているらしいのだが、近藤がその人物に関しての情報を、荒川に漏らしたことはなく、したがって荒川は、その人物の名前すら知らない有様だった。

 更に言えば、いつも帽子と丈の高い襟を立てているので、顔すらまともに見たこともなく、荒川は密かに「黒の人」だとか、「代行人」と勝手に名前をつけて、その人物を呼んでいた。

 彼は、出不精の友人の代わりに、怪異があった場所に赴き、その怪異に関するものを収集してくるのだ。

 それは時には遺留品であったり、写真であったり……怪異があったという証左とは言い切れないものの、何かあったということを印すものを、それは見事に収集してくる。

 今回は遺留品だった。

 大机の上におかれたものを一目見て、荒川は恐らく、件の警備員が感じたという禍々しさを瞬時に感じたが、それでもやはり興味を惹かれてしまい、心の声が目をそらせと警告をうるさいほど発しているのを押さえつけ、まじまじと机の上のものに見入ってしまった。

 「これが……」

 「そう、この呪術物を作った人間は色々なものを、流儀を流派を、ごちゃ混ぜにして造ったと思われるね、いいかい?この部分とこの部分は……」

 近藤がやっと重い腰を上げて、そのモノに関しての解釈を始めたその声を、やむなく止めざるを得ない音が、店の外から聞こえてきた。

 あの警備員が言っていた、ひどく狂ったテンポの足音と、獣のような唸り声が、明らかにこの部屋の外で聞こえ始めていた。

 荒川は息を呑み、近藤は温和で女性的な顔を、歓喜の笑みで一杯にした。

 「……おい、近藤君」

 「どうやら、追いでくだすったみたいだね」

 扉が何やら柔らかく、それでいて所々硬いもので叩かれて始めていた。

 荒川は折れてグズグズとなった腕で叩いたら、こんな音になるのではないかと思った。

 そして、唸り声はますます大きく聞こえ始め、荒川の歯が抑えられないほどカタカタとなり始めた。

 「やめろ!」

 しかし近藤は、ボックス席から飛び出し、荒川も後を追った。

 気配の示したとおりに、客席に客は一人もいなかった。

 そして店を任せている近藤の姉の姿も見当たらなかった。

 どうやらとうに閉店していたらしい……。

 愕然として店内を見渡す荒川は、友人のとろうとしている行動に更に愕然とした。

 信じられないことに、否、近藤という友人なら当然の行為として、彼は叩かれている扉に向かっていった。

 そして、荒川のほうへ振り返って一つ笑うと、この世界と異世界を隔てる扉の鍵をゆっくりと回し開き始めた。

 

                                

  了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る