怪異譚

福本驚

第1話 鏡の中の魔

  「鏡の中の魔」

                              福本驚

  

  夏が近づいてくる様子のない、それでいてじめじめとした梅雨時の道を、荒川は傘をさして歩いていた。

  年下の友人の近藤が、面白いものが見れるといって荒川を誘ってきたので、彼の経営する喫茶店に向かっている途中だった。

  雲に覆われた空は昼ごろでも夕方のようだったので、薄暗くて気分は滅入ってくるのだが、あの近藤の誘いとあっては、自然に好奇心がかまをもたげ、後ろめたいものの気持ちは高揚してくるのだった。

  怖いもの見たさ……。

  まさしく友人の近藤の掲示する情報は毎度、世の中の不思議さ、奇妙さ、恐ろしさを味あわせてくれる、怖がりな癖に、好奇心は人一倍ある荒川をとろかせる麻薬のような力を持っていた。

  今回はどんなものが待っているのだろう?

  やっと店に着いた荒川が扉を引いた瞬間、荒川は何者かにぶつかられ、危うくその場にひっくり返りそうになった。

  「大丈夫?荒川さん!」

  勢いよく開かれたせいで、扉についていたベルが勢いよく、音高になる合間を縫って、聞く者をウットリさせるような妙齢の女性の声が聞こえた。

  足音を軽く響かせて声の主が現れた。

  長い栗色の髪をした、色の白い、やや丸顔で、少し目の垂れた可愛らしい女性が、心配そうに荒川を見つめた。

  「いや、どうもどうも幸恵さん。今のは一体何なんです?」

  「弟のところにいらしたお客さんなんですが、妙におどおどしていて、凄い勢いで飛び出していってしまったんです……」

  「近藤の客……」

  ということは、近藤が今回自分を呼び出した件は、いま自分にぶつかっていった者だったのか?

  一瞬のことで容姿も、面相も、性別さえ確認できなかった……。

  何が近藤の目的だったのかわからないままなものの、近藤に愛に来ていた客を確認できなかったことが、荒川には悔しく思えて仕方がなかった。

  「ああ、荒川さん。今頃ノコノコ来たのかい?彼帰っちゃいましたよ。面白い話が聞けたのに」

  「近藤、僕は約束の時間にきっかり来たつもりだけど?」

  「ああ、そうか。彼のほうが早く着いたんだっけな。興味深い話が聞けたよ。なぁに、今の今だから、全部そっくり荒川さんにもお話できる。姉さん、荒川さんにコーヒーを……」

  荒川が幸恵さんと呼んだ女性のあとに現れたのは、幸恵から柔らかさの代わりに厳しさを、優しさの代わりにふてぶてしさを、そして同じような丸めな顔ながらも、少しがっしりとした造りをした顔の青年だった。

  この人物こそ、荒川の年下の友人の近藤だった。

  弟、姉さんと呼び合い、そっくりな容貌なこの二人は実姉弟なのである。

  おっとりとして人当たりのいい姉とふてぶてしく皮肉っぽい弟は、正反対の性格ながらも仲はいいらい。

  ちょっと待っててね、そう言って姉はカウンターのほうに向かっていき、弟はそれなりに広い喫茶店の奥まって人の視線を遮るように釘って作られているボックス席のほうへ、歩いていった。

  勝手知ったる荒川も、近藤の後をついて行き、ほんの少し薄暗い、しかし中に入ってみればゆったりとくつろげる広さを持ったボックス席に、近藤と差し向かいに座った。

  「ところで、今回はどんな主旨の話なんだい?」

  幸恵がコーヒーを置いて姿が見えなくなると、荒川は少し身を乗り出して近藤に尋ねた。

  近藤は女性っぽい顔を少し顰めて……といっても、困った様にではなく、明らかに楽しんでいるのを隠すといった様子で答えた。

  「今回は特殊なケースだよ。異次元が介在するといっていいと思う」

  「異次元だって?」

  「うん」

  この近藤という友人は、世の中の不思議な現象や、奇怪な事件の収集を趣味……というよりは生き甲斐にしており、親の残した遺産でこの喫茶店を経営し、店を姉に任せながら、常にそういった情報にアンテナを張り巡らせて生活しているような人物なのだ。

  その情報網は荒川には把握できないくらい広く、このボックス席にはさまざまな業種の人物が尋ねてくる。

  荒川もその一人といってもいいいが、他に知っているだけで大学教授、警察関係者、暴力団員などの裏の世界の住人、占い師に霊能力者、神職についているもの、果ては国籍不明の外国人などとも同席したことがある。

  そんな席で色々な話を聞いてきた……なぜか荒川は、そういったときに近藤から呼び出される、理由を聞いたら、驚き役が欲しいからだと嘯かれたが……荒川だったが、今回も驚かされることになりそうな雰囲気だった。

  「まるでSFじゃないか?」

  「多分にSFめいているけど、怪談のような趣もあるんだよ。さっきの、荒川さんにぶつかった彼、まだ大学生なんだけど、憑りつかれたというんだよ」

  「憑りつかれた?」

  「そう。でも心霊だのの類ではないらしいんだ。神職の人間に頼ったが駄目で、それにあの島さん、島さんでさえ駄目だったんだ」

  「島さんもかい?」

  「そう島さんもさ」

  「となると……」

  困ったような顔つきの荒川に、近藤は笑いながら言った。

  「荒川さんも彼の話を聞けば、さもあり何と思うに違いないよ。……それとも更に頭を抱える羽目になるかもしれないけど……」

  そう言いながら近藤が語り始めた、坂上という大学生の身に起こったこととは以下のようなものであった。

  

  

  それはいつもと同じ場所に、同じ面子だったが、少し浮き足立った雰囲気の中で起こったことだった。

  坂上君は、ある私大の一年生で、写真部のサークルに入っており、その時は各サークルの部室が入った古い学生会館の、階段そばのちょっとしたスペース(彼らはホールと呼んでいた)で、気のあう三人の新入生部員たちと、それぞれが、どのサークルの備品か、ごみか判別のつかないガラクタの上に腰掛け、近々に迫ったゴールデンウィークに行われる合宿について話し合っていた。

  何しろ、サークルに入って初めての合宿なので、勝手がわからず、各々が先輩からの情報……中には脅しめいたものもあったが……を、新入生内で話題にして、話を弾ませていた。

  「今回の合宿費、ただ茨城くんだりに行くには高すぎると思わないか?」

  坂上君の一番の友人の城君が、もったいぶって皆の顔を見回しながら、囁いた。

  「高い、高い。今時、関東近県に一泊二日で参加費が二万円なんて、ありえないよぅ。わたしバイト残業して稼いだんだから」

  新入生部員の中で紅一点の、三石さんが明らかに不満のこもった声で囁き返す。

  それを聞いて城君が意味ありげに頷く。

  「酒代になるんだよ……」

  話に加わったもの全ての顔が歪む。

  「また酒か……」

  坂上君が溜息混じりにつぶやく、坂上君は酒が苦手、いわゆる下戸だった。

  きれいな写真を撮りたいという目的に入ったこのサークルは、活気があるものの、無頼の芸術家を気取ってか、伝統で何事かあると酒を呑み、それも体育会系の呑み方で、ガンガンと呑んでいくのだ。

  それまで聞き役に廻っていた高橋君が、げんなりした口調でこの話題を締めくくった。

  「聞いたところによると、夜は大宴会、それもこれまで以上のレベルだそうだよ。何しろ酔い潰れた奴を放り込む為の一室を、あらかじめ用意しておくんだそうだからな」

  坂上君は自分が先輩に担がれて、その雑魚寝部屋に放り込まれる様子が目に浮かんで、暗澹たる気持ちで、再び溜息をついた。

  「お、もうじき三限が始まるぜ」

  高橋君の一言で、その場にお開きの空気が広がった。

  皆が散りぢりに去っていくのを見ながら、気が滅入っていた坂上君は、ワンテンポ送れて皆に続いて立ち上がった。

  そこで角度の悪戯か、反射した陽光が彼の目を射て、彼の視界は一瞬奪われた。

  自分を一時的に盲目にした光源がどこにあるのか、辺りを見渡した坂上君は、ガラクタが集まった一角に、鏡台が互いに向き合っておいてあるのが目に入った。

  あれかぁ……と、鏡台に近づいた坂上君を、三石さんの鋭い一声が立ち止まらせた。

  「駄目!合わせ鏡になってるわ。覗き込んじゃ駄目よ」

  階段を降りようとしていた三石さんが、その場で目を細めて坂上君を叱責するように見つめていた。

  「何で見ちゃいけないんだい?」

  激しい叱責に驚いた坂上君は、興味も加わって、三石さんに問い掛けた。

  「わたし、昔、聞いたことがあるんだけど、向かい合った鏡は悪魔の通り道になっているんですって。夜の決まった時間、必ず通るといわれていて、その尻尾を捕まえて、逃がす代わりに願い事をかなえてもらうって伝説があるのよ」

  と、真剣に話す三石さんの言葉を聞きながら、今は夜ではないし、悪魔って言うのは西洋のものだろうと、坂上君は釈然としない気持ちになり、三石さんをからかうつもりで、その言葉に逆らい、向かい合っている鏡台まで歩いていき、その間に顔を突っ込んだ。

  「坂上君!」

  「もし捕まえたら、どんな願いを叶えてもらおうかなっと」

  三石さんの言葉を尻目に、首を左右に振ると、どちらの鏡にも無限に続くような鏡に映った鏡、そしてまたその鏡の中に、映った鏡と、まるで鏡の中に廻廊が出来たような光景が映し出されていた。

  「悪魔も何も見えないよ。ただ……これは凄いな。鏡の続く世界に引き込まれそうだ。君がオカルトに詳しいとは知らなかったけど、確かにこんな世界を覗くと、悪魔なんがか潜んでいても、おかしくないような気にもなるなぁ。最も今は昼間だし、ここは日本だから、悪魔の出番はないだろうけどさ」

  「もう、坂上君たら!何が起きても知らないわよ!」

  もう一度三石さんの激しい叱責が飛んだが、坂上君は魅入られたように、鏡と鏡の間に頭を突っ込んだまま、首を左右に振って、無限に広がる鏡の迷宮を一心に眺め始めた。

  「三時限目、始まっちゃうからね!」

  そう言い放ち、三石さんも、その場を後にする足音を聞きながら、坂上君は次の授業のことなど忘れてしまったかのように、鏡の中に映る世界に没頭していた。

  「!」

  坂上君は弾かれたように鏡の間から、頭を抜いた。

  遥かにつづく鏡の回廊の、遠くに一瞬だけ、ちらりと、小さな白い影を見たような気がし、しかもその影がクネクネと動いたような気がしたのだ。

  合わせ鏡の奥の方の鏡に一瞬だけ、ちらりと映ったのを見たような気がしただけだったが、なぜかその小さな白い影を見た瞬間、身体中を、特に背中の辺りを、激しい悪寒が走った。

  坂上君は辺りを見渡した。

  もちろん鏡に映りこむような、白い何かが付近にないかどうか、確認するためである。

  しかし、その場には坂上君が一人きり、そして鏡に映りこむようなものは、本人の坂上君を置いて、他になかったのである。

  知らないうちに、自分の背中の方で、紙でも舞い飛んでいたのかもしれないと、一人合点して、そのお陰で鏡への興味も薄れ、時計を目にし、これじゃ完全に授業に遅刻だと、その場を後にしようとした坂上君だったが、何か胸騒ぎがして、鏡を再び覗きこんでしまった。

  鏡の回廊に、先ほど目にした白い影が、先程よりも近い地点で目に入った。

  それは小さいながら四肢をもった人の形をしていて、何やら不気味に蠢いているように見えた。

  後ろに何か映っているのか、その白い小さな人影を、しばらく凝視していた坂上君は、やおら後ろに向き治った。

  しかしそこには、そのような映るものの存在はなく、坂上君は再び人影を目で追うと、その小さな人影は、確かに鏡の何重にも続く奥の方で蠢いており、そこに驚愕の表情をした自分と、その後頭部と一緒に映りこんでいた。

  今度ははっきりとした戦慄を感じながら、坂上君はある疑念を持って、後ろを振り返った。

  後ろの鏡も何重もの鏡の回廊になっていたが、坂上君の思った通り、そちらのほうには人影はなかった。

  鏡の中に存在する謎の人影……先ほど、何か映るものが背後を振り返った時、背にした鏡に人影がないような気がして確かめたのだが、やはり片一方の鏡にしか、小さな白い人影は映っていなかった。

  それを確認した坂上君は、いいようのない恐怖に襲われ、逃げるようにその場を後にし、自分でもどうやってそこまでたどり着いたかわからないまま、キャンパス内の、学生会館から一番遠くはなれたベンチに、呆然と腰掛けていた。

  先ほどから坂上君は、自分が見たものが、一体何を意味するのかと考えていた。

  頭の中で警鐘がなり、そのことについて考えるなと、激しく坂上君を苛んだが、そのことに関して考えないという訳には、最早、坂上君には無理な話だった。

  考えている内容の答えは、うっすらと頭に上っていたが、坂上君はその答えを出すことに、強い抵抗……と言うより強い恐怖さえ覚えていた。

  と、そのとき、ズボンのポケットの中に閉まってある携帯電話が鳴り、坂上君は文字通り、飛び上がるほど驚きながらも、携帯電話を取り出し耳に当てた。

  電話の主は親友の城君だった。

  城君は同じ授業を取っている坂上君が、教室に現れなかったので、電話をしてきたのだった。

  「次の授業は出るのか?」

  坂上君と城君は次の科目も一緒に履修していた。

  坂上君はこの、モヤモヤとした気持ちを城君に話して晴らしてしまおうと、次に授業の教室へと向かい、待っていた城君の隣に座ると、自分が経験した奇妙な出来事を、城君に報告した。

  「はぁ?そんなの錯覚に違いないじゃないか。それで授業でなかったのか?そんなことを怖がるなんて、お前も結構、気が小さいなぁ」

  「悪かったな!でも、お前も見てみればわかるよ。ちっちゃい人みたいな形をした奴が、クネクネと鏡の奥の方で動いてるんだぜ。見なきゃわからないだろうけど、それが結構、不気味なんだよ」

  「そこまで言うんなら、見にいってみようか?もう出席を取ったんだし、こっそり抜け出して、学館の、その鏡を覗いてみようぜ」

  「ええ~俺いやだよ」

  坂上君は抵抗したものの、城君がさっさと教室を後にしてしまうので、仕方なくその後を追っていった。

  

  「この鏡だな。確かに向かいあわせになってるな。ちょっと覗いてみるか……」

  「止めろよ……」

  制止の声はかけたものの、坂上君は、城君が自分と同じものを見るのではないかという期待を持っていた。

  もし城君も同じものを見たなら、自分の経験は錯覚などではないということになるからだ。

  そして逆に、城君が何も見ない方にも期待を寄せた。

  そのあと自分が見て、何もなかったのなら、それは錯覚として片付けられからだ。

  結果としては後者の方が好ましいのだが……。

  「なぁんにも見えないぜ、坂上?お前、どこら辺で見たんだよ?」

  「一番最初は、こっち側の鏡の一番奥の方でチラッと見えた。次にはもう少し近づいてきて、白い人の形をした、小さいのがクネクネしてるのを見た」

  「なんだぁ?そのちっこいの、段々と近づいてきてるみたいじゃねぇか?」

  坂上君は城君の何気ない一言に、先ほどと同じような悪寒が、身体中を走るのを感じた。

  近づいてきてるだって……。

  「おい坂上、おい、お前大丈夫か?顔色が悪いぞ?」

  坂上君は不気味な悪寒にまだ襲われていて、城君に返事も出来ない有様だった。

  「はぁ~。お前の怖がり屋っぷりも、困ったもんだな。いいから覗いて見ろよ、何もいないから」

  そういって城君は、坂上君の頭を無理やり鏡の間に突っ込んだ。

  突然のことに坂上君は、あの白い人影が映っていたほうの鏡をみることとなってしまった。

  「あ、何もいない……」

  「当たり前だろう?お前の錯覚なんだからよ」

  やれやれといった態で、腰に手を当てる城君の方に、苦笑いをして見せて、坂上君はもう一度鏡を覗きこんだ。

  「本当にいない……」

  「だから当然だろうっての」

  ほっと安堵したものの、坂上君の心に、ふとあることが思い浮かんで、確かめずにはいられなくなってしまった。

  「う、うわぁあ!」

  坂上君は鏡の間から飛びずさった。

  「どうした?」

  「反対側の鏡にいた!前の時より近づいてきてる!」

  城君は坂上君が見たという鏡を覗きこんだ。

  「何も見えないぞ」

  坂上君は顔を蒼白にして、じりじりと後ろへ後退していた。

  「俺帰る……」

  そしてそのまま、後ろを振り返らずに走り出した。

  「お、おい!ちょっと待てよ!」

  しかし、坂上君は立ち去ったあとだった。

  「何も……いないよなぁ」

  城君は再び鏡を覗きこんで呟くのだった。

  

  それから坂上君は、二日間学校にこなかった。

  三日めに学校に来たのは、城君があの鏡はゴミ捨て場にもっていったという電話をしたからであった。

  坂上君はバツの悪そうな顔で、城君やその他、サークルの仲間たちに二日振りに出てきた挨拶をし、みんなから乱暴な返礼を受けた。

  「まったく、だから鏡の間なんか見ちゃいけないっていったじゃない!」

  これは三石さん。

  「僕が見た限り、坂上が見た人影なんかいなかったよ。ちょっと疲れてぼんやりしていたんだろ?」

  これは高橋君。

  「まぁ、お前のビビリの元は、ゴミ捨て場に行っちまったからな。念のため、鏡自体も割っておいたぜ。気になるんなら見にいってくればいい」

  と、最後に城君が、坂上君の惑乱の根本を破壊したことを告げ、坂上君は改めてほっとしたのだった。

  この二日間の間、坂上君はインターネットなどで、合わせ鏡について調べていたのだが、どうやら怪しいのは鏡本体だと思い初めていたので、城君のしてくれた行為は、大いに坂上君を安心させるものだったのだ。

  坂上君が安心を覚えてから、時はあっという間に経ち、あの人影の脅威が無くなった今では、坂上君が最も恐れるゴールデンウィークの合宿がやってきた。

  噂の通り、昼間はバンドの練習をするものの、夜は盛大な宴会が開かれて、酒に弱い坂上君は、自らの予想通り、酔っ払って潰れた者が放り込まれる部屋に、連日放り込まれることとなった。

  二日酔いのまま昼間は練習にいそしみ、空いた時間は近くにある海に行って、波間と戯れることもあった。

  新入生たちには地獄に感じられた合宿も、終わって見れば楽しい思い出となり、坂上君たちは、合宿の後、放課後に学生会館のいつもの場所に集まり、合宿の話しで盛り上がっていた。

  話しで盛り上がったあとは、合宿で撮影した写真で、もう一盛りあがりした。

  合宿に各々、自分用のカメラを持ってきており、その中でも最近、大枚をはたいて買ったという高橋君が、みんなを被写体にして撮りまくった。

  合宿が終わり写真を現像して、部室でみんなで回し見をし、思い出の詰まった写真に、皆、大きな声で騒ぎ笑った。

  しかし、そんな楽しい時も、三石さんの一言で終わってしまう事となった。

  「ねぇ、このカメラに映っている坂上君の写真の全部に、何か変なのが映っているんだけど……」

  その一言に場は静まり返り、一同の息を飲む音だけが、空しく響いた。

  三石さんがカメラを操作し、坂上君の写真を選り映して、画面の端を次々と指差していった。

  四角い小さな画面の四隅を、彼女はそれぞれ指差し、そこには小さくだが、全身が白い人影が、あるものには全身、あるものには身体のどこかの部分が撮られていた。

  その人影には重力は関係ないらしく、画面の左の端上、右の端上と、ぼんやりと映りこんでいた。

  一同の視線が坂上君に集まった。

  坂上君は酷く引きつった表情で、カメラの画面を凝視していた。

  「これって心霊写真なのか?」

  高橋君が映ったものを指差しながら、誰ともなく囁いた。

  しかし、坂上君の話を誰よりも詳しく聞いていた城君が、ある懸念を持って坂上君に尋ねた。

  「おい坂上、お前が言ってたのは、これなんじゃないか?」

  一同の視線が坂上君に集まった。

  城君の指摘が正しいのかどうなのかは、坂上君の表情を見ればわかった。

  「ここに映っているのが、お前が鏡で見たのと同じなのか?」

  「わからない。鏡に映っている時は、もっと小さかったから……。でも、同じような気がする……」

  その場が静まり返った。

  「気味が悪いのは、鏡に映っている時より、この写真の方が、大きいってことだ。鏡の時も思ったんだけど、こいつは段々、近づいてきているような気がするんだ」

  静寂を打ち破ったのは坂上君だったが、その言葉は新たな静寂を産み出してしまった。

  「まさか……鏡の中から抜け出したとでも言うの?」

  そう発言した三石さんの顔を、坂上君はこれまでに見せたことのない、恐怖の表情で見つめた。

  「まさか……そんなことあるはずないじゃないか」

  「でも現に、カメラには映っているんだぜ」

  「何かの見間違いかもしれない」

  「じゃあ、パソコンに接続して、拡大してみようぜ」

  一同は学内のパソコンルームに向かった。

  高橋君がデジタルカメラをパソコンに接続し、皆が後ろで見守る中、画像をパソコンのモニターに映し出した。

  仲間が背中越しに眺める中、パソコンに長じている高橋君は、画面の端々に映る白い人影を、何とか拡大しようと頑張っていた。

  「ねぇ、拡大しなくても、大きな画面に映っただけでも不気味ね。見て、頭の部分には、目と口がついてるわ。もうこれだけでいいじゃない!拡大しないでいいわよ!」

  確かに三石さんの指摘どおり、デジタルカメラの小さな画面から、パソコンのモニターに移しかえしただけでも、それまでは見れなかった頭部の、目や口らしきもの、そして人影自体の生々しい存在感などが、浮き彫りになり、気味の悪いことはなおさらであった。

  「まぁ、もう拡大しちゃったんだから、見てみようよ」

  高橋君のいう通り、パソコンの液晶モニターには、小さかった人影の拡大された姿が映っていた。

  「カメラの画素数と、モニターの画素数からするとこれが限界だけど、それでも……」

  そこで高橋君は言葉を切った。

  モニターには白い人影の表面の……皮膚というのだろうか……が映し出されているのだが、それはところどころたるんでいる上、細かい襞と言おうか、皺と言おうか、細かい凹凸が、まるで皮膚の下にミミズが蠢いているような感じで、はっきりいって、見ただけで不快になる代物だった。

  「なんだこれ、全身タイツでも着てるのかよ?」

  「いや、他の写真で確認できるけど、この気味悪いのは、こいつの肌らしい。顔が映っているのがあるのを見てよ。切込みを入れているような二つの穴が、おそらく目なんだろう。それに目の下にある二つの穴は鼻の穴かな?鼻自体はないみたいだな。その下のは……口なんだろうけど、実に厭らしいな。まるで笑っているように三日月形だ……」

  高橋君は次々と写真から、白い人影を拡大していった。

  映り方は様々だったが、縮緬皺のような皮膚と、真っ黒い亀裂のような目、そして笑っているような口といった特長は、全てに当て嵌まるのであった。

  「これは錯覚云々言っている場合じゃないな、おい坂上」

  城君が心配そうに坂上君の方へと顔を向けると、彼はガラス張りのパソコンルームの、薄暗い一画を目の玉が落ちるほどに目を見開き、ただただ凝視しながら、小刻みに震えていた。

  「皆、あそこを見てくれ。さっきからガラスに映った僕の後ろの方で、白い影が見え隠れしてるんだ……」

  震えて力のない坂上君の言葉に、皆、坂上君の視線の先を追うと、ガラスの向こう側が、こちらよりはだいぶ暗くなっていて、全員の顔が映っているのを確認すると同時に、坂上君の右肩の辺りに、かろうじて見えるくらいだが、白い物体が映っているのが見えた。

  白い物体は四肢を広げた人の形をしていた。

  「皆見えてるんだね、あいつは益々大きくなってる。ということは段々と近づいていることが確かということだ。俺、どうしたらいいかわからないよ」

  城君が坂上君の前に立って、その視界を遮った。

  「今日はとりあえず家に戻れ。俺が送って行くから」

  城君に促されて、坂上君はよろめくようにその場を後にした。

  そんな坂上君の様子を、仲間たちは不安そうな、痛ましそうな表情で見送るしかなかった。

  「とにかく、何か反射するものからは目を逸らせ、あれが映りこんでる可能性があるからな……」

  坂上君を支えながら、城君は彼の頭を胸に抱くようにして、歩いている間に点在する、店のガラス張りのドアや、ショーウィンドーから、坂上君の視線を遮りながら、地下鉄の乗り場までたどり着いた。

  電車を待っている間、坂上君は瘧にかかったように激しく震えていて、城君は必死に励まし、なだめていたのだが、人間がここまで、恐怖に打ちのめされ、振るえおののいている様は見た事がなかったので、坂上君を保護する立場である自分が、同じように恐怖に囚われていることを認めざるをえなかった。

  電車はきたが、あいにくなことに席は込んでいて、二人はドアの前に立つこととなった。

  「おいJ、あれを見てくれ」

  地下鉄が動き始めてしばらくすると、身体を縮込ませたまま、城君を盾に隠れるように立っていた坂上君が、反対側のドアのほうを指差した。

  そこには坂上君と城君が映っていた。

  二人以外には何も異常なものが映っていなかったので、城君は坂上君が何か見間違ったのだろうと、一言かけて安心させようとしたとき、城君の視界にも、あのいやらしい白い影が飛び込んできた。

  それは自分たちと逆のドアの、暗いガラス窓の端のほうに、ほかの立っている客の間にちらちらと見える、明らかに異質な白い人影だった。

  人影はまるで厚みがないように、吊革をつかむ人の間に存在し、坂上君と城君が見つめる中、背中を見せていた人影の顔が、ゆっくりと鏡となったガラス窓越しに、こちらに振り返るのを見て、その黒い切れ目のような目と、三日月形の口に二人は声も出せず喘ぐしかなかった。

  「もう、人と同じくらいの大きさになってる……」

  「しょうがない、坂上!次の駅で降りて、そこから歩こう」

  二人は転がるように次の駅で降りて、それから一人暮らしの坂上君のアパートまで歩いて帰った。

  「おい坂上、鍵を開けてくれ。俺が先に中に入って、目につく反射するものはどうにかしてくる」

  そういって城君は先に部屋に入り、まず鏡のように自分を映し出した正面のガラス窓にカーテンをかけ、浴室に向かい鏡にテープで紙を貼り付け見えないようにし、目に入る、何か反射しそうなものは、反射を妨げるように処置し、テレビや食器棚も、同じように紙を貼り付けた。

  「もう入ってきていいぞ」

  城君の言葉に、坂上君は恐る恐る、自分の部屋へと入ってきた。

  「反射するようなものは、全部見えなくしておいた。しかしこうなった以上、何か対策を練らなきゃならないだろうなぁ……」

  「対策……?あんなものに対策なんてあるんだろうか?」

  「だから、霊能力者だとか、偉いお坊さんだとか、そういった類の……おい、坂上どうした?」

  台所のところで水を飲もうとしていた坂上君は、何かにはじかれたように城君にぶつかってきた。

  「おいどうした?」

  「じゃ、蛇口のところにあいつが映った。俺を後ろから覗き込むように……」

  城君は紙を持って蛇口のところまで行き、蛇口をぐるぐる巻きにした。

  狭い部屋の中でも、台所から一番離れた場所で、坂上君は息を喘がせ、恐怖に顔を蒼白にしていた。

  「真後ろというわけじゃないけど、確かに後ろから俺を見て笑ってた。俺はどうすればいいんだ?」

  城君は実家住まいだったが、今夜は怯える坂上君のために泊まって行くことにした。

  坂上君は青い顔のまま、茫然自失の状態だったので、城君が考えられるだけ考えたことを実行に移した。

  まずはサークルの仲間に連絡し、坂上君に……もはや執り憑いたといってもいいだろう、白い影を追い払うような霊能力者なり、徳を積んだ僧侶なり、心当たりはないかと聞いて回ったのだが、自分がそんなことを知らないように、普通の大学生である彼らも、そんな人物に心当たりはなかった。

  それではと、インターネットで検索してみると、逆に情報が多すぎて、どれがいいのか選べない状態になってしまった。

  ある日のこと、空腹に耐えかねた坂上君が光を反射し、ものを映し出すようなものから、なるべく目を逸らして食料を調達しに行っていたとき、その姿を偶然、同じ写真部のサークルの一人が遠くから目にし、坂上君に関する奇怪な噂……その本人は全く信じていなかったし、精神的に参っているだろう程度に思っていたのだが、坂上君の写真に写る不気味な白い人影……彼はそれを光の悪戯くらいにしか思っていなかったのだが……どれ一つ、自分が決定的な一枚を撮って、ただの錯覚だと坂上君を安心させてやろうと、常に持参している自慢の望遠レンズつきのカメラで、こそこそと歩いている坂上君の姿を何枚か映そうとした。

  そこでレンズ越しに、恐ろしい事実に気がついてしまった。

  坂上君を安心させようとレンズを覗いた彼の目に、怯えた顔で歩く坂上君の数メートル後ろを、なにやら白い全身タイツを着たような人物が、妙に厭らしげな動作で、坂上君の跡をついていっているのを確認したのである。

  彼を狼狽させたのは、それが人のようで人とは全く違った存在であることだった。

  身体の表面には一本の毛も生えておらず、その代わり細かい皺が全身を覆っている。

  そしてその顔……切れ目のような目と鼻、そしてぱっくりと開いたような口が、三日月のように広がっている。

  彼は恐怖に囚われながらも、夢中でシャッターを切った。

  うまく撮れたかと再生ボタンを繰っていた彼は、妙なことに気がつき愕然とした。

  写っている坂上君と白い奴の間は、何人もの通行人が歩いているのだが、奇怪な白い奴に注意を向けている者は誰もいないのだ。

  誰の視線も白い奴などいないかのように方々に向けられているし、白い奴のほうへと向けられた視線があったとしても、それは怪しげな者を通り越した視線であるのだった。

  期せずして彼は、坂上君を安心させようとして、更に不安に……否、絶望に落とす写真を撮ってしまったのだ。

  そして彼は、その写真を学校に来ていない坂上君の代わりに、親友で学校に来て部室にも顔を出している城君へと渡したのだった。

  その写真を見て、城君も衝撃を受けた。

  そして自分ひとりではもてあましてしまった城君は、当の本人の坂上君に意見を聞き、二人で話し合った末、歌い文句に霊能力だとか除霊だとかを掲げているところより、本来の意味で有名な寺社を尋ねてみたほうがいいと、結論付けた。

  そこで今度は、歴史的な背景もしっかりしていて、逆に霊云々など言ったら追い返されそうな、有名な寺を訪ねてみることにした。

  あらかじめ連絡などを入れたら、その時点で門前払いを食らいそうなので、明日になったら直接たずねることに決めた。

  翌日、二人が尋ねたのは誰でも知っていそうな有名なお寺で、用件を言う前に、自分たちの錯覚かどうか、念のために鏡を見ることまでした。

  コンビニで買い求めた手鏡を坂上君と城君が覗き込むと、やはりそこには、あの白い影が映っていた……それも目鼻がはっきりするほど鮮明に。

  二人は寺の境内で、掃き掃除をしている若い僧侶に話しかけた。

  若い僧侶ははっきりと顔に不審の色を浮かばせたが、坂上君と一緒に鏡を覗き込み、白い人もどきを見ると、慌てて本堂のほうへと走って行き、しばらくして戻ってくると、二人を案内して再び本堂へ向かった。

  本堂の奥の部屋で待っていた、歳をとった僧侶は、若い僧侶と対照的に、落ち着いた様子で二人の話を聞き、坂上君と一緒に鏡を除き、白い人もどきを見ても、そっと眉をひそめるだけであった。

  その態度に、坂上君も城君もこの人ならと、期待したのだが、老僧侶の口から出た言葉に、希望をなくしてしまった。

  「これは、私どもの手に負えるものではありませんな」

  やつれた顔でうつむく坂上君に代わって、城君が老住職に縋り付いた。

  「これはこの世のものではありえません……が、人間が迷って出たものとも思えない。これは……これは全く異質な存在でありましょう……」

  そして自分たちは修行のみを行っており、二人の期待する霊などの排除などは、一切行っていないと、はっきりと断りを入れた。

  しかし、その断りの言葉自体より、老僧の言葉が震えていることが、決定的に二人を打ちのめした……平静を装いつつも、自分たちと同じように、目の前の老僧、いや、老人も怯えているという事実がだ。

  二人は失意のまま、寺を去ろうとした……が、その二人に、最初に声をかけた若い僧侶がもう一人、別の僧侶を伴い話しかけてきた。

  「失礼ですが、先ほどの話を立ち聞きさせてもらいました。何かの役に立てばと思い、連れてきたのですが……」

  連れの僧侶が奇妙な表情で、話し始めた。

  「私の親戚に、オカルト関係の雑誌に、勤めていた人がいます。その人は色んながあると思いますので……」

  と、気が向かなさそうに話していたが、初めの僧侶が二人に鏡を覗くことの許しを得て、白い人もどきを見ると、顔を青ざめ、連絡先を進んで教えてくれた。

  

  

  「それが偶然にも玉城君だったわけだ……」

  近藤の話を聞き終わった荒川は、吐息混じりに呟いた。

  「そういうことだね」

  「玉城君のことだから、懇切丁寧に相談に乗ってあげたんだろうなぁ」

  「すぐに島女史を紹介したそうだからね、事の重大さも理解していたんだろう」

  二人の話に出てきた玉城君と、島女史と言うのは、それぞれ交流も面識もある人物で、玉城君というのは若い僧侶の言ったとおりに、オカルト系雑誌に勤めていたのだが、ある事件をきっかけに、その世界に恐怖を覚え、ある人物の元へ身を寄せている青年で、本人はいたってまじめ、しかも人がよいのは二人の会話のとおりである。

  もう一方の人物である島女史と言うのは、先の話にでも出た、自他共に認める、かなり強力な能力を持った婦人で、大抵のことなら力技でねじ伏せてしまう女傑でもある。

  「島女史が放り投げてしまったんだ。自然、こういったものを好む類ということだと、空間研究者の仲村くんを紹介しておいたけど……駄目だろうね」

  近藤のいう空間研究者仲村と言うのは、あらゆる空間、そればかりか並行世界や異次元までを、病的に研究している変わり者で、合わせ鏡から侵攻してきた存在には、ひょっとするとという気持ちで紹介したのだろう。

  「なぜ駄目なんだ?」

  「彼が君とぶつかる寸前、つまりこの部屋の扉を開けた瞬間、写真を撮ったんだ。見てみる?」

  「君がか?」

  「いや……」

  ということは、接客一般を勤める近藤の姉の裏方で、長い付き合いの荒川でもなぜかはっきりと顔を見たことのない、店の奥の厨房にいる、普段荒川が黒い奴、影の人と心の中で呼んでいる、聞く度に近藤が答えをはぐらかせる、あの人物が取ったのであろう。

  この謎の人物は、近藤の奇怪な趣味の手助けをどうやらしているらしいのだが、正体は全く不明なのだ。

  そういって近藤は、荒川にA四サイズの紙を渡してよこした。

  「一番綺麗に映ったのをプリントアウトしたんだ。かなりはっきり見えるんじゃないかな?」

  荒川は渡された紙を訝しげに見つめたが、次の瞬間、表情が凍りついた。

  「これは……」

  写真には荒川のぶつかった坂上の後姿が映っていた。

  近藤の言うとおり、荒川にぶつかる寸前を撮っており、坂上君はまったくの後姿で、部屋のドアノブをつかんでいるところだった。

  しかし写真に映っているのは、坂上君だけではなかった。

  坂上君の身体と重なった状態で、先ほどから話に出ていた、白い人間もどきともいえるような存在が、半透明に映っているのだ。

  話にだけ聞いていた荒川は、これほどこの白い存在が不気味なものか、完全には理解していなかった。

  坂上君の身体の重なる白い存在は、怖気がするような、細かい縮緬のような体表を持ち、それだけでも気味が悪いのに、その顔ときたら、まるで老人のような、それとも毛の抜け落ちたサルのような、全く無地の白い仮面に縮緬皺を貼り付けているような顔だった。

  その顔は荒川がこれまで見てきたものの中でも、目を背けたくなるほどの醜さ、不気味さだった。

  しかも背筋を凍らせるのは、その細かい皺がびっしりとよった顔が、坂上君の顔に重なり、坂上君本人は扉に向かい背を向け、後頭部しか見えないというのに、その白い人間もどきの顔は、こちらを振り向き、糸のような目を細め、三日月形と称されていた口に当たる部分を、それこそにんまりと大笑いをするように開け、勝ち誇るように、こちらに顔を向けているのだ。

  「完全に重なっていないかい?」

  近藤は場違いに陽気な声で荒川に問うた。

  「……重なってるね」

  「この先、彼がどうなるかは、神のみぞ知る……だね」

  

  坂上君がどうなったかを、一週間後に店に呼び出されて、荒川は近藤によって知らされた。

  情報源は、坂上君の親友だった城君だった。

  城君は急に失踪した坂上君のアパートに大家とともに入り、部屋に放り出されていた携帯電話の履歴を頼りに、近藤の元へと電話をかけてきたそうだ。

  空間研究者の仲村氏の手にも負えなかったことが、城君の電話により判明したこととなり、裏を取るために仲村氏の元へかけた電話で、近藤は、今回の件に結論をつけたらしい。

  「仲村氏によると、彼、坂上君は、仲村氏の元に現れたときには、心身衰弱の態だったらしいね。もちろん鏡に映したり、撮影をするといった、これまで坂上君が受けてきた実験を、仲村氏もしたそうなんだけど……あの存在は最早、僕が撮ったときのように、半透明に重なっているどころか、完全に実体化したかのように、重なっている坂上君を覆いつくして、あの存在しか鏡越しには見えないし、撮影しても坂上君とぴったり重なり合った、白い人間のような存在しか映らなくなったらしいね。坂上君はしきりに、耳元にささやく声が聞こえるだとか、自分の身体が、他の意思によって動かされているような事が頻繁に起きると、やつれきった顔で訴えていたそうなんだ」

  荒川は息を呑みながら尋ねた。

  「彼はなんていっていたんだい」

  「意識がね、彼以外の意識が彼を動かそうとしようとすることが、最近頻繁に起こるし、記憶も途切れることもあるんだそうだ。身体を意識を乗っ取られるといっていたそうだよ。もしかするともう、彼はあの、白い人もどき身体を乗っ取られて、どこかでひっそりと生息しているかもしれないね……」

  「まさか……」

  「荒川さんだって見ただろ?彼に重なったあの勝ち誇った顔を。あれから一週間経ったんだ。もうあの存在が勝利していもおかしくはないだろう。残念ながら坂上君は、その存在自体を奪われてしまったんだろうね。で、僕は思うんだけど……」

  「なんだい?」

  「坂上君を乗っ取った、ああいった存在はこの世界で案外、多くいるんじゃないかろうってね。正体を隠したまま、何食わぬ顔で存在してるんじゃないかってさ」

  荒川はおびえを隠しきれない表情でいった。

  「冗談はよしてくれよ」

  「冗談じゃないだろう。現に僕たちはあの存在を間接的にでも見たんだし、事実坂上君は消えてしまった。はっはっは!荒川さん、そんなに怯えないでくれよ、これから提案することをしづらくなっちゃうじゃないか」

  荒川は怪訝そうな、そして怖気づいたような表情で言った。

  「君はまさか……」

  近藤は薄く笑って、人目を遮るつくりのボックス席から、荒川をいざなって、一般客の利用する広い店内へと進んでいった。

  いつの間に店を閉めたのか、客の姿はなく、店の真ん中に長方形の薄いものが差し向かいに置かれていた。

  「本気なのかい?」

  「もちろん本気だよ。確率的には低いだろうけど、実践する価値はあるじゃないか。それに僕たちは二人だ。確立はその分上がる。さぁ荒川さん、覗いてみようじゃない」

  荒川は後ずさった。

  しかし合わせ鏡の前で微笑む近藤の方へと、向かいたいという欲求が僅かに勝り、一歩足を踏み出し、そしてそのまま合わせ鏡の前まで行ってしまった。

  そしておいでおいでと手招きをする近藤のそばに行って、そして……。

  

  

                               

                                  了


  

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