第10話 そして物語は転がり出す (完結)

 ◆ 10 ◆


 フロイト先生も爆笑な夜を過ごした翌朝。


 いつも通りに鳴り響く目覚ましの音で起床した俺が一番最初にしたことは、唇を指でなぞって感触を確かめる……なんていう少女マンガ的な行為ではなく、部屋の壁にかけられた自分の制服を確かめることだった。ウソじゃないぞ。


 そこには見慣れたブレザーとYシャツにズボン。そしてハルヒに引っ張られて締め上げられる為だけに存在するネクタイが、しっかりとある。どうやら世界は変わっていないらしい。テレビの朝ニュースで確認した日付も、記憶通りの『昨日の翌日』だった。


 佐々木の説得に成功したから、あの閉鎖空間からは戻って来られたのだろうが、平行世界になったという今の世界がどうなっているのかはわからない。そこまではさすがに関知できないのが、未来人でも宇宙人でも超能力者でもない平凡な人間のツライところだ。


 ま、気にしたところで仕方がない。それよりもまだ、一般人でありながら閉鎖空間なるところにちょくちょく出入りしては、神様達の説得を繰り返すという珍事に巻き込まれている、俺にしか出来ない確認事項がある。それを確認しなければ。


 その為にも、俺は少々急ぎ気味に支度をしつつ、まだトーストをかじっている妹に「お前も急ぎなさい、俺は先に行くからな」なんて言い残して家を出た。


 これまで確認できたことは、制服であり、日付であり、家庭状態であり、持ち物であり……ケータイのメモリを確認したが、ハルヒ、古泉、朝比奈さん、長門、そして別に知りたくもなかったが橘のものまで、ちゃんと登録されていた。もちろん、佐々木のを一番最初に確認したことはいうまでもない。


 そして俺はいつも通りに自転車を駐め、いつも通りに強制ハイキングコースを登り、そして途中で「あれ? 今日は珍しく早いんだねぇ」なんていう国木田に生返事を返しながら、自分の教室を目指した。


 俺の後ろの席には、既に机に肘をついて窓の外を眺めている黄色いカチューシャがいた。若干緊張する一瞬だ。どちらで呼ぶべきか迷ったが、断然多い回数の方をチョイスして声をかける。


「よう、ハルヒ。早いな」


 振り返る黄色いリボン。そして聞き慣れた声。


「あら、おはようキョン。あんたこそ珍しく早いじゃない」


 よかった。どうやらここまでは変わっていないらしい。安堵しながら席に着く。


 まぁちょっとな。お前こそ早いじゃないか? どうした?


「どうしたもこうしたもないわよ。今朝起きたときに心配だったから有希に電話したのよ。あの子絶対無理するから。そしたら案の定今日は登校するとか言い出したもんだからね、大急ぎで飛び出して、あの子のマンションまで迎えにいったのよ。まぁ確かに、すっかりいつも通りって感じだったけどね」


 そういえば、長門は原因不明の症状(ハルヒには本人から風邪だといってある)で倒れていたんだった。見舞いにもいったし、その前後にも古泉と話しもしたんだが、間違いなく天蓋領域からの介入だろうとのことだった。雪山のトンデモハウスで倒れた時と同じってことだな。


 頭の中に周防九曜のディスコミュニケーションっぷりを思い描いて、若干身震いしそうになったが、長門が回復したということは、連中の『介入』も終了したってことなんだろう。


 何よりも安心したのは、そうした会話の断片から、今の世界には、俺の記憶通りの『昨日の翌日』が、しっかりと続いているという事実を確認できたことだった。


 さて、その後はごくごく普通に時間が過ぎていった。休み時間にトイレに向かう途中で古泉に会ったときには意味深そうな笑顔で会釈してきたし、移動教室の際にすれ違った朝比奈さんと鶴屋さんペアは普通に声をかけてきてくれた。隣の六組には長門がいたし、俺が手を振ると遠目からでも少しわかるくらいに肯いて応答してくれた。


 やれやれ。そう息を吐きながら言って、また安心を深める。この世界は何事もなく『昨日の続き』になっている。大丈夫だ。まぁ少なくとも俺の周りは……だがね。


――じゃあ、あいつの方はどうなんだろう?


 そんな事を考えてボケっとしていると、俺の弁当を無断でつついているハルヒに「どーしたのよマヌケ面さらして」と突っ込まれた。言うまでもない事だが、俺は佐々木の事を考えていた。


 夕べの出来事を、ハルヒの様に『リアルな夢』なんていう風に解釈する事はないだろうが、あいつの身に起きた事、あいつの考えている事、あいつの体験してきた事を知った今は、あいつが今どこでなにをしているか、どんな気持ちでいるのか――そんなことが気になって仕方がなかった。


 散々メールを打とうか電話でもかけようかと悩んだ昼休みが終わってしまい、午後の授業もつつがなく終えた俺は、考えもまとまらないままに、いつも通り部室に向かった。


 掃除当番も突発的な思いつきもないハルヒも一緒に部室へと向かったため、古泉や長門と夕べのことを話すわけにもいかない。結局、まんじりともしないまま古泉とゲームをしながら朝比奈さんのお茶を飲んでいたのだが――それは油断と安心の間隙を縫うように突然やってきた。


――コンコン。


 朝比奈さんの着替えも済んでいて、フルメンバーが揃った、このSOS団アジトのドアを丁寧にノックしてくる存在など、この部室に訪れる客では数えるほどしか思い浮かばない。そしてそれらは大概の場合トラブルを抱え込んでくるわけなのだが……。


「キョン、あんた出なさい。雑用係でしょ」


 メイドの勤めを果たそうとビーズ編みの手を止めた朝比奈さんを制して、団長殿から命令を下された俺は、へいへいと生返事をしながら扉へと向かい……結果、その存在に誰よりも早く遭遇することになった。


「やあ、キョン。お邪魔するよ」


 そう言って、硬直したままの俺の横を通り抜けて部室に入ってきたのは、誰あろう俺の親友、佐々木その人だ。


 古泉と長門が、空気を硬直させ、朝比奈さんは、はわはわと慌てていらっしゃる。


 逆にハルヒは、珍客中の珍客に目を丸くさせていたが、余裕を持って立ち上がると、佐々木の来訪を歓迎する仕草をみせた。


……どういうわけか眼の奥に炎が見える気がしたのは、さておき、だがね。


「こんにちは、涼宮さん。突然ごめんなさいね」


「いーえ、先日はどうも佐々木さん。今日は一体どんな御用向きで? っていうか、あなた学校はどうしたの? 通ってるとこからじゃ小一時間以上かかるわよね……ひょっとしてサボり?」


 相変わらずズケズケとものを言うハルヒであったが、佐々木も全く動じない。


「サボりっていうわけじゃないのだけどね。今日は午前中に両親と学校に行って面談だったのよ。それで午後は時間があったものだから」


「へえ? なに、もうそっちじゃ進路相談の三者面談とかでもあんの?」


「いいえ、そういうわけじゃないの。まぁ進路といえば進路なんだけど……ね」


 そういうと、俺に意味ありげな目配せをしてくる佐々木である。その、なんだ、グロスリップを塗っているのか、笑みを象っている妙に艶やかな唇に、どうも視線が行ってしまう。これはどうしたもんかね。


「ふうん? 意味ありげな言い方が気になるけど、まぁいいわ。で? どんな用件かしら? わざわざ坂道を登ってここまでくるんだもん、なにかお話があるんじゃないの?」


 ハルヒよ。どうしてお前はそう食ってかかるような言い方しかできないんだ? それじゃあ敵じゃないやつまで敵になるってもんだぞ?


「ふふふっ。そうね、キョンから聞いていたけど、なかなか大変な坂道だったわ。でも体力もつきそうだし、毎日続ければダイエットにもなるかもしれないわね」


 全くその必要がなさそうな細い身体をしているくせに何を言ってやがる。


 用件を切り出そうとしない佐々木に、業を煮やしたのかハルヒが口を開きかけると、


「今日来たのは、通学ルートの確認と書類の提出なの。ここによったのはそのついで。それと――」


 と言い、どういうわけか佐々木は扉近くで固まっている俺の側まで歩いてくると、くるりとハルヒに向き直って続けた。


「宣戦布告に、ね」


 そう言って再び俺に向き直ると、硬直中の俺の両頬に白い手を添えて顔を近づけ……俺の唇に、自分の唇を軽く重ねた。


「……」


「……」


「……」


「……」


「……」


 実にたっぷり五人分の沈黙三点リーダーである。


 部室最奥に陣取った一名を別に、それぞれ赤面したり蒼白となったり無表情に見えて明らかに怒気を宿らせた眼をしたり硬直するSOS団メンバーを尻目に、佐々木は扉を後ろ手に半分閉めた状態で、ころころと鈴の転がるような楽しげな声で笑ってから、こう言った。


「多分、来週からかしら? 北高の生徒になることになったの。午前中の面談は転出の相談。で、今日の北高に来たのは、こちらへの転入書類の申請と受け取り。つまり、届け出が受理されて転入試験を受けたら……私も晴れて北高生ってこと。ふふっ……これからよろしくね、涼宮さん」


……なんですと?


「ああ、それからキョン。すまないね、今日は宣戦布告の為に女子らしい武装をしてきたものでね。キミの唇にも僕と同じグロスがついてしまったと思う。男性がつけるには少々艶やかに過ぎる光沢だ。ティッシュかハンカチで拭っておきたまえ。では、また晩に電話で話でもしよう。今後のことも含めて、ゆっくりとね。それじゃ僕は帰るとするよ。なにしろ『夢』の中でのキミは情熱的すぎてね……まだ身体に熱が残っているんだ。これを冷ますためにも早く布団に潜り込みたいのでね。ああ、寝るわけじゃあないよ? くっくっくっ……じゃあね、キョン」


 鮮やか過ぎる退場だった。


 最後は女言葉になり、ついでにウインクを一つ置き去りにして――扉が閉まる。


 そして俺は扉が閉じられるのを見送ると同時に、ギリギリと音を立てながら首を動かして、部室内部へと視線を巡らせた。


 溜め息をつく古泉。お盆を持って真っ赤になったまま相変わらず、はわはわしている朝比奈さん。どういうわけかいつもの倍以上の速さでページをめくり続ける長門。


 そしてその奥に、俺は世にも珍しいモノを見た。


『涼宮ハルヒの驚愕』


 写真か絵にして題を付けるならば、そんな感じだろう。つまり、これ以上ないっていうくらいのビックリ顔というか唖然顔というか、そんな表情で固まっている我がSOS団の団長殿がそこにいた。


 そして、その表情は百面相でもしているかのように、ゆっくりと様々な表情に変化し……最後の表情に辿り着いた数瞬後、俺は無事に生還したはずの現実世界で、この世の終わりのような怒声を聞かされる羽目になった。


「キキキキョンーーー!! あ、あんたなにやってんのよ!! っていうかあの女なんなのよーーーーーっ!!!」


 やれやれ佐々木さん。夜の電話といったけどな、俺がその時まで生きているかどうか保証はしかねるぜ?



<了>

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

分裂、或いはSのモノドラマ 月館望男 @mochio

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ