第9話 ココロ

 ◆ 9 ◆


――ちょっと待て。今なんて言ったんだ?


「一年と少し前から作り変える、そう言ったんだよキョン。人の話はちゃんと聞いておきたまえ」


 口を少し尖らせて言う佐々木。


 どういうことだ? 聞きながら俺の背中には嫌な寒気と汗が流れはじめていた。


「決まっているじゃないか。この学校にはね、一年間の嫌な思い出しかないんだ。だから全て破壊した。その上で新しい学校を作るんだ。そうだね、外見ごと大きく変えるのもいいかもしれないが、まぁ完全に破壊するという僕の鬱憤晴らしもしたことだし、この際そこまでの改変はしないでもいいかとも思う。だがね、キョン。一つだけ許し難いことがあるんだよ――この学校にはね」


 大きく見開かれた佐々木の目の色が変わる。口元には静かな笑み。


 その表情には、なんとも言えない違和感があった。目の前にいるのは確かに俺の知る佐々木だったが、少なくとも俺はこんな佐々木の表情は見た事がなかった。


――まるで大きな『力』に酔っているような。いや、酔おうとしているような……。


「この学校には、キョン。キミがいないんだ。くくくっ。そりゃあそうだ、これまでの現実ではキミはこの高校に入るだけの学力が無かったわけだし、受験さえしていないからね。だから一年と少し前から世界を作り直すのさ。塵以下の俗物達……ああ、これは僕の学友達のことだよ。学友なんていう言葉は使いたくないが、この際仕方がない。僕の語彙には相当する語句がないからね。そう、あいつらを総入れ替えしてもいいが、そこまでの力が僕にあるかはわからないんでね。でも、一人入れ替えるくらいならできるだろう」


 そこで言葉を切ると、佐々木はまるで昔話を語るような口調で続けた。


「一年と少し前の三月。二人で懸命に受験勉強を終えて、試験本番を乗り越えたキミと僕は、この高校の合否発表に一緒に来るんだ。そして二人ともめでたく合格して入学。二人は同じクラスになって……何事もなく一年間、この学舎に机を並べ、幸せな高校生活を送っていた……そう書き換えるだけさ」


 ちょっとどころじゃないぞ。俺の今までの生活はどうなるんだ? そもそも俺がこんなレベルの高い学校でやっていけるわけがないじゃないか。


「安心したまえキョン。実際、受験期にキミに教えた僕が保証しよう。キミは自分で言うほど学力が低いわけじゃないんだ。ただモチベーションを見出せないだけなんだよ。くっくっ、だからね、僕はキミにちゃあんと教えてあげるつもりさ。ずっと一緒にクラスにいられるようにね。その為なら、そうだね、ご褒美をキミの前にぶら下げることだって僕は厭わないよ。むしろ望むところでもある。キスから始まって、ステップアップするごとに、ご褒美のレベルもあがる、なんてのはどうだい? 僕としては大歓迎なんだが」


 なんてこと言ってやがる。こっちが恥ずかしくなるじゃないか。だが色々残念だが、そんなのはナシだ。勉強漬けの青春なんてお断りだからな。


「困ったものだね。じゃあ学校を創り直す際に制度を変えるというのはどうだい? 学校のレベル自体は両親の期待もあるからね、下げるわけにもいかないが、この学校の知育偏重数値重視すぎる体制を変えて、クラス替えがないという風にしておけば、不自然さもなくキミと一緒に机を並べていられるはずだ。これなら問題ないだろう?」


 それもナシだ。俺が結局俺が学校のレベルについていけなくなることには変わりがないからな。


「じゃあ……」


 次々と提案しようとする佐々木を俺は押しとどめた。佐々木の手をとって話しかける。


 佐々木、聞くんだ。お前のやろうとしていることは無茶苦茶だぞ。


「そうさ。キミに改めて言われずともわかっている。僕は無茶苦茶なことをやろうとしているんだ。でも、キミが納得してくれないと困るんだ。僕が新しく創る世界では、僕とキミしか以前の世界の記憶を持たない。だから、キミと一緒に新しい世界を始める以上、キミの了解や意思がなければ困るんだ。キミが何事もなかったように一年の記憶さえ創られて、僕の恋人として同じ学校にいる世界さえも夢想したさ。でも、それはキミのようであってキミじゃないからね。そんなのは嫌なんだ。キミの了解無く、キミがこの学校にいる世界を創ってしまったら、それは僕たちが過ごした中学三年の記憶さえも改竄することになる。あの時間無くしては今の僕たちはない。僕の想いもだ。だからキミに了承してもらわなければ困るんだよ」


 参った。話にならん。だが……どう考えても佐々木の提案を呑むわけにはいかなかった。というか、なによりも俺は大事な……友人のコイツに、そんな物騒な力を使わせるわけにはいかなかった。


 世界を改変するだって? 確かに俺はその世界を体験したことがある。でも、それは酷い違和感だった。喩え佐々木が一緒にいたとしても、おそらく俺は耐えられないだろう。


 自分が知っている世界と、ことごとく何かが食い違っている違和感。自分だけが知っている記憶。そんな中で生きていくのは、結局世界に独りぼっちになってしまったのと変わらないんだ。


 そりゃあ、ずっと暮らしていれば、いつかは慣れるかもしれない。だがそれでも……。


「キョン。後生だ。僕の願いを聞き入れてくれ。僕の側にいてくれ。キミが好きなんだ。キミが必要なんだよ……僕を一人にしないで……」


 俺に腕を掴まれたまま佐々木は項垂れ、小さく消え入るような声で言った。表情は伺えないが、泣いているのだろう。言葉の最後は嗚咽に掻き消された。


 こいつは、佐々木は、俺を必要だと言った。そして愛している……とも。


 その気持ちはありがたい。ありがたいが、かといって世界を改変するのは、違う。違うだろう?


 こいつは苦痛にまみれていたという、この学校での一年間を否定している。いや、したがっている。こいつの解釈ではハルヒのインチキパワーによって、街で俺とすれ違うことさえ出来なかった一年間もだ。


 でも、それを作り直したからといって、傷ついた過去は癒えないし、過ごした時間は取り戻せない。朝比奈さんのように時間を超えるような力ではないのだから。


 いや、時間を超えたとしても、自分の過ごした記憶や経験、年月は自分の中に残る。世界を改変する力だなんていったところで、結局自分の中に積み重なったものは、どうにもできないんだ。


 どうにもできない、だからこそ――。


「佐々木、よく聞いてくれ」


 俺は掴んでいた腕を離すと、佐々木の肩を両手で掴んで真っ正面から眼を見据えた。佐々木は、叱られた小さな子どものようにしゃくりあげている。


「佐々木、俺はお前の言う改変された世界に行ったことがある。だがそこで発狂しそうなほどに辛い目にあった。あんな思いはもう沢山だし、お前にもそんな思いはさせたくない。何をしても、どこかに違和感が残るんだ。それは改変された世界に対してのものじゃない、俺たちが過ごしてきた時間に対する違和感なんだ。それこそ、書いた覚えのない作文を目の前で読まれて、全員がそれを知っているような……上手く言えねえが、そんなのは間違ってるんだ」


 確かに俺の知っている連中もそこにはいた。消えたはずのヤツまでいたのは余録だったが、それでも確かにそこにいたんだ。だけど、そいつらは『俺』を知らなかった。いや、俺の知っている俺自身を知らなかったんだ。


 俺を受け入れてくれるヤツもいた。いたけれども、それでもとてつもなく孤独で……俺はこの世界に帰ってきたんだ。お前と過ごした中学三年の一年間も、ちゃんとあるこの世界に。


 ぴくりと、佐々木が反応した。


 聞いてくれ。お前がこの高校で体験した苦しみを俺は知る事が出来ない。でもお前の口から今日聞いて俺は初めて知る事ができた。いや、その苦しみを、じゃない。お前がどう感じていたかをだ。


 だが聞いている間、俺はなんて言ったらいいのか、お前にどう声をかけるべきなのか、わからなかった。お前が言ったように、お前が俺を必要としていたときにお前の側にいてやれなかったからだ。


 お前は俺を親友だっていってくれたよな。でもそんなお前に俺は応えてやれなかった。お前が俺を捜し回ってくれていたときもだ。俺は自分をぶん殴ってやりたいくらいだよ。


 それに……お前は、俺の事を好きだって……言ってくれたよな。正直にいえば、俺はまだ自分の気持ちがわからん。だけど、こんな状況にも関わらず、舞い上がるくらいに嬉しかったんだ。その気持ちに嘘はない。


――そう言いながら、俺は自分の耳が赤くなっていく音を聞いた。佐々木はしゃくり上げながらも、俺の言葉には耳を貸してくれているようだ。泣いたからなのか、それ以外の理由なのかはわからないが、佐々木の顔もまた赤かった。


……ええっと、そ、それにだな。


 必死の説得の最中に流れた妙な空気を一掃すべく、俺は顔を背けて咳払いをした。


 今まで言った事なかったが、俺はいままで……ずっと、お前を尊敬してたんだぜ? それに、その感情は今だって変わらないし、今日お前と話せて、もっと増えたくらいだ。


「え……?」


 泣きはらして真っ赤になった目で、佐々木が俺を見上げる。


 だってそうだろ? こんな妙ちきりんな力を手に入れたのに、お前はこうやって最後まで俺の意思を尊重してくれているじゃないか。しかもハルヒとは違って、お前は意図的にその力を振るえるにも関わらず、だ。


 それだけじゃない。高校での事だってそうだ。お前は自分が受けた扱いも、それによって傷ついた自分も、全部真っ正面から受け止めた上で、それでも立ち向かっていってたんじゃないか。すげぇ事だよ。俺ならとっくの昔にやさぐれてるはずだぜ。


「でも、僕は……そんなヤツら、を世界から、消そうとさえ、考えたんだよ?」


 しゃくり上げ、つかえながら言う佐々木の頭を撫でてやると、佐々木は驚いたような顔をしてから、少し目を細めて俯いた。


 考えただけ、だよ。お前にはそうする力があったのに、そうしなかった。


 最後の最後に俺を呼び寄せて、その一線を越えさせなかったんだ。インチキなデカい力に振り回されずに、な。


 そうだ。俺を呼び出せば、自分がやろうとしていることを止められてしまうかもしれないという程度の事を、佐々木が考えなかったわけがない。それなのに俺をここに呼び出した。世界を改変する現場に立ち会わせて、俺を説得する為に? それだけの理由なわけがない。改変された世界に引き込んでからだって説得はできる。その方が効率的なんだしな。


 佐々木、お前はそのデカい『力』に負けなかったんだ。力を振るう誘惑に負けなかったんだよ。それってスゲぇ事だぜ。


 頭を撫でながら、ゆっくりと言い聞かせる。嗚咽が少しずつ止んでいくのがわかる。


「でもキョン……僕は、どうすればいいんだろう……?」


 ん、何がだ?


「学校を……こんな風にしちゃって……それに、やっぱり僕はもうこの学校には来たくないんだ……情けない話だけど、一旦吐き出してしまったら……ね」


 俺は苦笑しつつ、古泉やハルヒと閉鎖空間に入ったときのことを思い出していた。


 閉鎖空間内での<神人>の破壊活動は、その空間が世界中に広がって現実と入れ替わらない限り現実世界に反映されないというのは、その時に得た豆知識だ。


 俺は悪戯を叱られて反省しつつもしょぼくれたように小さくなった佐々木を、やんわりと抱きしめてやった。


「キョン……?」


 抵抗するでもなく、しなだれかかる佐々木の後頭部を撫でてやる。この期に及んで、自分の<神人>がぶっ壊した学校の心配か。コイツはどこまでも真面目なんだよな。でもって、真面目過ぎるからこそ、こんな風になっちまったんだろう。


 どうせ分けるんだったら、こんな傍迷惑なインチキパワーじゃなく、ハルヒの適当さやら傍若無人さを分けてやりたいね。


「心配ねーよ。夢から覚めたら、全部元通りさ。経験者だからな。信じていいぞ」


 俺の胸の中で、こくりと肯く感覚。


 それとな、佐々木。これからの学校のことだけどな――。


 胸の中で、ぴくりと、固まる気配。


 あのな。無責任聞こえたらすまん。だけどな……行きたくねーんだったら、やめちまえばいいさ。やめちまえ。こんなとこ。


 高校なんかここだけじゃないだろ? それに高校にだって転入制度があるしな。うちにだって時季はずれの転校生の前例がある。お前も会った事がある古泉がそうさ。朝一本の電話でカナダに転校してったヤツもいるしな……まぁコイツはちょっと違うが。


 それにお前ほど頭がよけりゃ、どこからだって、どんな大学にだっていけるさ。


 同い年で、それにお前より明らかに頭の悪い俺が言っても説得力ねーかもしれないが……高校程度で世界変えようなんてとこまで思い詰めるんなら、これまであった事、溜め込んで来たこと……全部洗いざらい親御さんにぶちまけちまえ。


 俺に出来たんなら、親御さんにだってできるさ。なんなら俺だって加勢する。いつでも声かけてくれりゃ駆けつけるよ。これまで出来なかった分な。約束する。絶対だ。


 あと、学校やめるときゃ一言声かけろよ。お前になんかした連中を、俺の全力パンチ全員ぶっ飛ばしてやるからな。これでも、この一年で結構体力ついたんだぜ? 陰険なモヤシ共なんか一撃でKOしてやる。これも約束だ。絶対だぜ。


――我ながら無茶苦茶なことを言ってんなーとは思いつつも、俺は言いたい事を言いたいだけ言った。無責任なようだが、後は野となれ山となれだ。覚悟は決まった。


 そんな風に一人で覚悟を完了させていると、胸の中で佐々木が震えだした……いや、この馴染み深い、くつくつというくぐもった声は……佐々木、笑ってんのか?


「くっくくっ……くっ……ふふっ……あはっ…あはははっ!」


 やがて耐えられなくなったように笑い声をあげながら、佐々木はするりと俺の腕から抜け出すと、腹を抱えて笑いながら後ずさった。


 そんなに笑わんでもいいじゃないか。俺だって無茶苦茶言ってるとは思ってるよ。


「あはっ……あはははははっ……はぁ……くくっ……いや、違うんだキョン。すまない。いや、本当にキミらしいな。感動してしまったよ。くくっ……はぁ、はぁ……まったく、実にまったくもってキミらしい。本当に素敵だよキミは」


 佐々木は涙まで流しながら笑っている。ただ、その笑い声はこいつが自分の苦しみを吐露していたときに見せた道化のような乾いた笑いではなく、腹の底からの笑い声のようだった。目に浮かんだ涙だって、その意味は全く違う。


「はぁ、はぁ……ふふっ……キョン。本当にありがとう。僕はキミと知り合えて本当によかったと思う。目の前で、それこそ世界を変えようとするほどまでに腐った自分を見せても、全て真っ直ぐに受け止めてしまうんだからね……これじゃ捻くれている方が損じゃないか」


 ほっとけ、仕方ないだろ。それぐらいしか俺には出来んのだから。


「くっくっ……いや、本当にキミは得難い友人だよ。うん、大好きだよキョン。本当に……本当に大好き」


 そう言うや、佐々木は見たこともないような笑顔で、再び俺の胸に飛び込んできた。


 そして、背中に手を回して思い切り抱きつく。


 鳩尾あたりに当たっている、若干ささやかではあるが幸せな膨らみが、こう、なんともだが、俺は自分の劣情を脳内で小突いて黙らせると、佐々木を抱きしめ返した。


「キョン……キミが今何を考えているか、当てて見せようか?」


……なんか色々困ることになりそうだから、やめておきなさい。


「ふふっ……わたしは別に……構わないんだけどね……」


「!!」


 佐々木っ! 突然女言葉になるのはよしなさい! 誰も見てないっていうか、お前の物騒な<分身>くらいしかいないけど、なんか色々よろしくない!


 俺は佐々木の豹変ぶりに大慌てしながらも、一つの確信を得ていた。もう大丈夫、こいつは大丈夫だ。


「さぁ佐々木、こんなところ出ようぜ? お前はちょっとストレスを発散しただけさ。それだけだよ。目が覚めたら布団の中で、時間はまだ深夜かなんかだろ」


「けち……」


 つねるなっ。なぞるなっ! 押しつけるなっ!


 しばらく佐々木は俺の身体をつついたりして遊んでいたが、やがて顔を上げると、


「でも、どうやってここから出るの?」


 と、おそらく至極真っ当な疑問をぶつけてきた。


……が、よく見ると目が笑っている。この……橘だか藤原だかから聞いて知ってやがんだな……?


「ふふふっ……キョン、ポニーテールじゃなくて、ごめんね?」


 からかうような可愛らしい口調で滅多なことを言って、顔を上げて瞼を閉じる佐々木。


 どこまで知ってるんだか……俺は吐き出しそうになった溜め息を堪えると、目の前でいわゆる『キス待ち』体勢になっている佐々木の、額の髪を指でそっと払って、額にキスをした。


 これくらいの復讐はさせて欲しい。


 それから、目を閉じたままぴくっと反応した佐々木に、不意打ち気味に口づけた。


――今度は唇に。


 俺の勘違いだと思いたいのだが、触れさせた唇越しに、なんだかぬるっとした柔らかくて温かいものが俺の唇と前歯をなぞったような気がしたが……。


 そして――オックスフォードホワイトの世界は暗転した。

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