雨の日のダフニス

今居一彦

雨の日のダフニス

 その日は明け方から小雨がしとしと降り続いていた。静かに天窓を叩く不規則な雨音で彼は目を覚ました。半分ほどカーテンが開いた窓越しから、隣家の庭を挟んだ先にある小さな雑木林が見えた。これから本格的な春を迎えようとする時期の枝葉は、雨の水気に押し垂れるように、重たくうっそうと佇んでいた。

 空一面にたちこめる雨雲のせいで外は薄暗く、彼の時間感覚は完全に失われていた。壁掛け時計はしばらく前から電池が切れて止まっていたし、机の上の小さな目覚まし時計は、ベッドに横たわった状態からは見えない方向に向いていた。その上、いつもナイトテーブルに置いて充電している携帯電話は、手を伸ばしても見つからなかった。彼は仕方なく一度身体を起こして布団の中や枕元をを探したが、今日が土曜日だと気がつくと、手を止めてまたすぐに横になった。

 しばらくの間、少し冷んやりとした空気の中に身を委ね、時々聞こえる小鳥のさえずりに耳を澄ませていたが、ふと彼は部屋のドアの方に目を向けた。

 するとドアが静かに開き五歳になる娘が入ってきた。娘は彼を見つけると、飛びかかるように両腕を彼に覆いかぶせて「パパ!ダフニスがいたよ!」と嬉しそうに言った。

 彼は娘をまじまじと見つめてから、彼女の頭に手を置くと「おはよう。まずは『おはよう』でしょ?」と少し意地悪く言った。娘は照れくさそうに笑みを浮かべたが、それでもおはようとは言わず「ダフニスがいたんだよ!公園が雨に濡れてるか見ようと思って外に行ったら──いたんだよ!」と言った。

「しー、あんまり大きな声を出すとママが起きちゃうよ?ママだって仕事で疲れてるんだから休みの日くらいゆっくりさせてあげないと」と彼は隣の部屋の方向を視線で指し示しながら言った。その言葉は相手を気遣う優しい言葉を装いながら、実は「面倒に巻き込まれたくない」という打算的な言葉にも受け取ることができた。

 するとまさにその部屋の方から「ダフニスって誰なの?何の話?」とよく通る女性の声が聞こえてきた。眠気と苛立ちを含んだ声色だった。「ほらぁ」と彼は小声で言いながら、微笑みと困惑が混ざりあった表情で娘の顔を見つめた。娘はまた少し照れた顔をすると、隣の部屋に向かって「大丈夫!」とだけ叫び、開いていたドアをバタンと閉めた。「大丈夫ってなんなのよ!答えになってないでしょ?」と話し続ける母親の声が聞こえた。娘はそれには何も答えず、じっと彼の目を見て、まだ母親が何か言ってくるかしばらく聞き耳を立てていた。しかし、すぐにまた何事もなかったかのように話し始めた。

「あのね、昨日はね、ママと一緒に寝たんだ。パパが早く帰ってこなかったから、ママの部屋で寝ちゃった」

「よかったね。たまにはいいでしょ。こっちのベッドよりママのベッドの方が大きい──」

「ううん、違うよ。『ママのベッド』じゃなくて、『パパとママのベッド』だって。ママが言ってたよ?」

「うん、まあ確かに昔はね。でもお前が生まれてからはこっちでお前とパパで一緒に──」

「パパ、早く帰ってくるって言ってたのに遅かったから」

「うん、ちょっと仕事が忙しくてね。でもいつもは早く帰ってきてるでしょ?それに、ちゃんと朝早く起きて保育園に行かないと、パパが毎朝送ってるんだから、会社に行くのが遅くなるとそれだけまた帰りが遅く──」

「お土産は?なんか買ってきた?」

「う〜ん、何かあるかな。あると思うよ。パパの鞄の中に。この前買った──」

「やった!ちょうだい、ちょうだい?お腹すいた。なんか食べたい」

「うん、ちょっと待って、後でね。それよりママは?もう大丈夫?」

 娘はハッとした表情でまた聞き耳を立てる仕草をした。彼も母親がもう何も言ってきていないのを確認すると「ところで、どこにいたの?ダフニス」と話を戻した。

「えっと──公園の近くの道」

「道でどうしてたの?」

「雨の中でじっとして──」

「危ないね」

「危ない?」

「そう、危ない。あの辺の道は狭いけど、車は意外とよく通るし、自転車だって来るでしょ?」

 娘は頭を掻いて少し考えてから「わかった。ちょっともう一回見てくる!」と言って小走りに部屋を出て行った。「ちょっと待って。ほらまたママが──」と言った彼の声は娘には届かなかった。

 部屋を出て階段を降りようとしたところで、母親が呼び止める声が聞こえた。

「ちょっとどこ行くの?雨降ってないの?」

「大丈夫。もうほとんど降ってない」

「ダフニスってなんなのよ?」

「カエル!大きなカエル。これくらいの大きさで──」

「カエル?そんなの私は一度も見たことないわよ。こんな街中にそんなのいないでしょ」

「いるよ?雨の日に出てくるんだもん!」

「嘘でしょ?でもなんで『ダフニス』なのよ?」

「決めたの、パパと。『ダフニス』って呼ぼうって──あ、早く行かなきゃ!危ないから」

 娘が階段を降りる音を聞きながら、彼は一度大きく伸びをすると、布団を履いでベッドから足を降ろした。同時に携帯電話が音を立てて床に落ちた。

「パパ?」と母親が隣の部屋から声をかけた。「あぁ……いるよ」と答えた彼の声はかすれていてほとんど聞こえなかった。

「昨日は遅かったのね。私も仕事忙しいからできれば早く帰ってきて」

 彼は何も返事をせず、携帯電話を拾い上げた。三件のテキストメッセージを受信していた。

「何時に帰る?」

「待ってるよ」

「大丈夫?」

 どれも昨夜の七時台に妻から来たものだった。彼は携帯電話を画面を落とすと、少し乱暴にナイトテーブルに投げるように置き、窓から外を眺めた。雨は目を凝らさなければわからないほど小降りになっていた。しかし彼が目を細めたのは、雨を見るためというよりは、込み上げる苦痛が滲み出たかのような表情だった。


 しばらくすると階段を駆け上がる足音がして、娘が父親のいる部屋に入ってきた。娘は少し息を切らせながら黙って立っていた。彼女の黒く長い髪の毛は、全体的に薄く水滴をまとっていた。

「どうだった?」

「うん、もういなかった」

「そう、それじゃあよかった」

 娘は部屋のドアを閉めると、彼の鞄のところに行き、彼に向かって「お腹すいた。なんか食べたい」と言った。彼はゆっくりと鞄に歩み寄ると、チャックを開け中を探ってから、ビスケットを二枚取り出した。娘はそれを見るなり文字通り飛び上がって喜び、奪い取るようにビスケットを受け取ると「これ美味しいんだよね!」と思わず声を張り上げた。父親は口元に人差し指を立てて「しー!」とポーズをとると「ちょっとビスケットしまって!」と小声で娘を急かした。娘はきょとんとしていたが、言われるがままスカートのポケットにビスケットをしまった。すると、母親がドアを少し開けながら「ドアを全部閉めないでっていつも言ってるでしょ!空気の入れ替えが必要なんだから」と大きな声で言った。「今日はおじいちゃんちに行くわよ?朝ごはんすぐに用意するから、いい子はきちんと準備しなさい。おやつとか食べないでよ」

 母親はすぐに階段を降りていった。娘はだいぶ間を置いてから「はーい」と取って付けたような返事をした。

 彼はしばらく黙っていたが、妻が下に行った気配を確認すると、小さな声で「ポケットの中には──」と歌うように言った。娘は初めびっくりした顔をしたが、すぐに気がつき「ビスケットが二つ!」と歌で返した。

「ねぇパパ、どうしてその歌知ってるの?保育園に行ってないのに」

「うん?パパはなんでも知ってるんだよ」

「ほんとに?ほんとになんでも知ってるの?」

「──いや、やっぱりそんなことないな。知らないことがいっぱいあるよ」

「私はなんでも知ってる!」

「お、ほんと?すごいね」

「だって、この前おじいちゃんが言ってたもん。私は頭がいいって。だから私──頭がいいんだ!」

「そうだ、たしかに言ってたね、おじいちゃん。でもね、ほんとに頭のいい子は、自分で自分のことを頭がいいとは言わないんだよ?」

 娘は黙ってビスケットを一口かじった。それからビスケットの周りだけひと回り少しずつかじると「ほら見て?周りだけ食べちゃった」と得意気に父親に見せた。

 彼は「おもしろい形になったね。太陽かな?」と言いながら、昨夜彼がいない間に子供の物で散らかった部屋を片付け始めた。娘は真剣な表情で少しかじっては形を確認し、それを何度も繰り返していた。そして一通りかじると「違うよ。ライオン」と言って、ベッドに飛び乗り横になった。

 ひとしきりビスケットを堪能した娘は「パパ」と身体を起こしながら言った。「じゃあ、どうしたら頭がいいってことになるの?」

「そうだねぇ……」と父親は絵本を本棚に戻すと、少し考えてから言った。「世の中には自分の知らないこと、見えないものがたくさんある、ってことを知ってることかな」

 娘は何も答えず、ベッドの端に座って足をぶらぶらさせながら窓の外を見つめていた。そして、まだ床に置きっ放しだった絵本を一冊拾うと、表紙の絵をじっと見つめてから「おじいちゃんちに行こう?早く」と言って父親に絵本を手渡した。彼は最後の絵本を本棚にしまうと「そろそろ朝ごはんできたんじゃないかな?」と言った。すると階下から「ごはんできてるわよ?早く降りてきて」という声が聞こえた。彼は娘を見てニコッと笑って「ほらね」と言った。


 父親と娘は朝食のフレンチトーストを口にした。ベチャベチャしている上に、少し古いミルクの匂いがした。父親と娘は何とも言えない表情で向かい合いながら食べ終わると、部屋に戻って身仕度を整えた。母親は「私もこれ片付けて、準備したらすぐ行くから先に車に乗ってて。おじいちゃんは短気だから待たせないように早く出ないと」とキッチンで食器を洗いながら声を張り上げた。しかし彼女の視線は手元の食器ではなく、リビングのテレビドラマに釘づけになっていた。


 父親と娘は外に出た。父親はワンボックスカーの運転席に座った。娘は簡易なベビーシートを置いて助手席に座った。父親はエンジンをかけようとしたところでふと手を止めた。何かを考え込んでいる様子だった。それから娘に言った。

「今日はママと後ろに座ってくれる?」

「え〜嫌だ!どうして?前がいい!」

「お願い。今日だけ」

「嫌だ」

「行くときだけでいいから」

「どうして?」

「どうしても」

「イヤ!」

「じゃあ──ビスケットもう一つあげるから」

「じゃあ──先にちょうだい?」

 父親は苦笑しながら、後部座席に置いた鞄から仕方なくビスケットを取り出して娘に渡した。「やった」と娘は言い「じゃあママが来たら後ろにいく」と、嬉しそうにビスケットを食べ始めた。彼は娘の頭を軽く撫でた。

 しばらくしてようやく母親が玄関から出てきて、小走りに車に駆け寄り、後部座席に飛び込むように乗ると「早く行きましょ?おじいちゃん待ってるから」と自分が待たせたことになんの悪びれもなく言った。娘は車を降りて後ろにまわろうとした。母親は「こっちに座るの?──も〜どっちでもいいから早くしなさい!急いでるんだから。いつもそうやって我儘ばっかり言うから遅くなっちゃうのよ」とまくし立てた。娘は一度父親の方に目を向けたが、彼が軽く頷くような素振りをすると、黙って後ろに移動した。父親は娘が後ろに座ったのを確認し、車を出した。

 雨はもうほとんど降っていなかったが、霧雨のようにフロントガラスにまとわりつく小さな水滴を、彼は時々ワイパーで拭った。

 住宅街の狭い道をゆっくり進み、公園の近くにさしかかったとき、彼は急にブレーキを踏んだ。そしてゆっくりハンドルを切りながら、何かを避けるように動き出した。娘は「パパどうしたの?」と尋ねた。彼は「うん?なんでもないよ。ちょっとゴミみたいのが道端に落ちてるだけだから」と答えた。娘が立ち上がって見ようとすると、彼は「ダメダメ!見なくていいから。座って!」と珍しく声を荒げた。娘は驚いた表情で座り直した。すると、それまで携帯電話を夢中で操作していた母親が、身を乗り出すようにして前方を確認すると、大声で言った。

「うわっ。カエルが死んでる!──きっと車に踏まれたのね。うわぁ……。パパ、ちゃんと避けてね。タイヤが汚れたりしたら困るから。車検通したばっかりなのに」

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