巌流の最後
筑前助広
本編
小さな島が見えてきた。
白い浜が伸びた
宮本武蔵は、舟の舳先からその島を見据えていた。
潮風が頬を打ち、巻いた鉢巻の尾は靡いている。
島は、船島というらしい。山などはない。全てが平坦である。
武蔵は、そこに呼び出された。
決闘である。戦いたい、と申し出があったのだ。
どちらが強いか決めたいと。その申し出を、武蔵は特に考えずに受けた。それは、逃げる理由が無かったからだ。
挑まれれば、戦う。勝てば生き、負ければ
小さな島が、大きくなった。
浜には陣幕が張られ、数名の武士が床几に腰掛けている。
(準備万端という事か)
武蔵はそう思い、天を仰いだ。
晴れている。晴れ過ぎななほどの晴れだ。陽射しが痛くもある。
決闘日和。
そうしたものがあるならば、今日はまさにそうだ。
武蔵は、脇に置いた
それは櫂であって、櫂でない。削ぎに削いで、木剣に仕上げたのだ。
これで戦うと、決めた。相手が真剣でもだ。
咄嗟に思い付いた事だった。思えば、そうして幾多の戦いを生き延びてきた。そして今回もそうだ。
閃いたのだ。櫂を削り、木剣にすると。
真剣と木剣。
その差は考えなかった。刃が無くとも人を殺せるのだ。
初めて殺した、有馬喜兵衛がそうだ。撲殺した。
他にも、真剣に木剣で挑んだ事がある。思い付きの判断だが、無意識に経験から導き出したものなのかもしれない。
十三歳の時から戦ってきた。戦い、殺し、生き血を浴びてきたのだ。
その経験が、自分にはある。
◆◇◆◇◆◇◆◇
舟底が砂浜に噛むと、武蔵は舳先から飛び降りた。
膝下まで濡れる。この季節、海水はまだ冷たい。
木剣を手に、浜辺に向かって歩いた。
そこには、男が待っていた。
佐々木小次郎であろうか。会うのは初めてである。
「遅いぞ、宮本武蔵」
張りのある声が飛んできた。
「臆したのではあるまいな」
武蔵は、それを無視した。
わざと約束の刻限に遅れたのだ。相手を焦らすのも、また兵法というものだ。
小次郎と、向かい合った。
長身の男。
上背は、五尺九寸。
体重は、十六貫。
それぐらいだろうか。
全てが、自分と真逆だった。
色白。美男子。
一方で自分は、乞食浪人のような姿をしている。
擦りきれた小袖。元の色がわからない野袴。薄汚れた鉢巻。髭も延び晒しである。
勿論、風呂などは久しく入っていない。だから、臭う。自分でも気にしてしまうほどでる。あの沢庵は、それを獣臭と評した。
一方、小次郎は華も薫る武士。城下の評判であるが、向き合うと実際に果実の甘い香りがする。
「武蔵、覚悟はしたか?」
小次郎が言った。
呼び捨てだった。高慢そのものの物言いである。
「如何にも」
武蔵は、低い声で応えた。
「私は
「知っている」
即答した。
「本来は敬意を表し存分に語りたい所だが、お前を始末せねばならぬ事態になった」
「……」
「私の大望を成就する為には、お前は邪魔なのだ」
「大望とは?」
「天下無双」
小次郎が口元を少し緩めた。冷酷な笑みだ。
「くだらぬ」
武蔵はそう言った。
「くだらぬだと? 剣客ならば唯一無二の頂点を望むものだ」
「如何にも。だが、くだらぬ」
「なら貴様の大望は何だ? 人を小馬鹿にするほどの志を持っているのか」
「大望など無い。天下無双にも興味は無い」
武蔵は、そう言い捨てた。
「ただ、生きる事のみ」
◆◇◆◇◆◇◆◇
小次郎は、鞘を捨てた。
物干し竿。
そう渾名される、
正眼に構えた。武蔵は八相。得物は木剣だった。それには驚かない。驚いたのは、その長さだ。
物干し竿より長い。
(なるほど)
小次郎は頷いた。
(そうきたか)
物干し竿を封じる為に、武蔵は思案したのだろう。
だが――。
勝つ。それでも勝つ。
巌流は、物干し竿ありきではない。
◆◇◆◇◆◇◆◇
生きる為に剣を磨いた。
それは、死にたくなかったからだ。
屍を見る度に、こうはなりたくないと思った。
死が恐怖だった。
若い頃は天下無双を志した。剣客として、名を売ろうともした。
黒田如水に付き従い、九州で戦った。
吉岡一門と、一乗寺下り松で戦った。
戦えば戦うほど、死ぬのが怖くなった。だから必死に剣を磨いた。
死への恐怖が、自分を強くした。
目の前の男。
この男はどうか。
死は怖くないのか?
敗北は怖くないのか?
正眼と八相。
不動。
伝わる氣が、肌を刺す。
生きる為に剣を磨き、死にたくないが為に強くなった。
しかし、渇望はある。
強者への渇望。
自分に恐怖を与えてくるほどの強者を、望んでいる。
佐々木小次郎はどうだ。
有馬喜兵衛より強いのか。
宍戸梅軒より強いのか。
吉岡伝七郎より強いのか。
吉岡清十郎より強いのか。
自問すると、楽しくなった。
「面白いのう」
呟くと、武蔵は背を向けて駆け出していた。
海岸沿いを走る。
「武蔵」
物干し竿を手に、小次郎が追って来た。
◆◇◆◇◆◇◆◇
武蔵を追って、小次郎は並走した。
(何をする気だ)
そう思いながらも、小次郎は気持ちを落ち着かせた。
挑発もや意表をつく行動は、武蔵の得意技と聞いた。だから、これも想定内だ。しかし、そこから想定外の事をするのが、武蔵という男だ。
何をしてくるか判らない。
だが、それがどうした。俺には、磨き上げた技がある。
三尺三寸の物干し竿がある。
そして――。
◆◇◆◇◆◇◆◇
掛かった。
小次郎が追ってきた時、武蔵はそう思った。
いいぞ。
武蔵は、ほくそ笑んでいた。
まだ追ってくる。
いいぞ。
それでいい。
純真な男なのだな、小次郎は。強さに対して、純真。そして誇り高い。
だが、それが命取りになる。それを知る時には、お前は死ぬ。
武蔵は、跳んだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
小次郎は、思わず笑った。
武蔵が跳んだのだ。
小次郎は、物干し竿の切っ先を沈めた。
声を絞り出した。
そして、斬り上げる。
燕返し。
秘剣。俺の技。
それで死ね。
が。
光。
目の前が真っ白になった。
武蔵の背に、陽の光があった。
そして、何かが近づいてくる。
敗北か。
死か。
いや、俺が武蔵を斬ったのだ。
燕返しで。
そう思った時、何かが頭蓋にのめり込んできた。
〔巌流の最後 了〕
巌流の最後 筑前助広 @chikuzen
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