桂子さんの成仏

宇苅つい

第1話 桂子さんの成仏

■■1


 

桂子けいこさんが家の廊下で突然倒れてから病院のベットで亡くなるまで、わずか二週間。どうもそのくらいだったらしい。桂子さんは桂子さんの命日を確と知りはしなかったし、今更どうでもいいことだった。最近ぽーっと顔が火照る時があるなとか、ちょっと耳鳴りがするなとか。思っていたら急に倒れて、そのまま意識を失ったのだ。血圧だったとか、くも膜下だとか。近所の奥さん同士の立ち話から聞き知った。享年五十八歳である。


 足をぶらーんぶらんと揺すりながら、桂子さんは眼下を見下ろしている。居間とそれに続く和室の窓が見える。早朝なので夫はまだ寝ているのだろう。どの部屋も厚いカーテンがひかれている。新聞屋のバイクの音が坂の下から聞こえて停まり、行き過ぎて停まり、角を曲がって消えた。木の上から見る景色は居間の窓から見るのとも二階の窓から見るのとも違う、ちょうど中間くらいの高さで、長年この家で暮らしてきた桂子さんにもちょっと目新しい発見だった。とはいえ、すぐに見飽きてもしまった。


 まったくこんなことになるなんて、微塵だって考えたろうか。

 桂子さんは幽霊になってしまったのだ。家の庭の桜の木にぽつねんと腰掛けているだけの幽霊に。


 気がついたとき、桂子さんは既に桜の木の上だった。見知った塀や壁や屋根で、すぐに我が家だと分かったが、置かれた状況が即座に飲み込めたわけではない。大声で呼びかけても誰も振り向いてくれないことや、どうやら誰の目にも自分が見えてはないらしいこと、妙に我が身が頼りないこと。なによりも、尻に根っこでも生えたかのごとく、桜の木からじりとも動けないことが非現実的な「現実」を教えてくれた。


 桜は落葉の頃であった。はらりはらりと舞い落ちた。桂子さんが倒れた日は初夏だったと記憶している。死んでここに至るまでタイムラグがあったらしい。幽霊というのは元々そういうものなのか、それとも桂子さんはくも膜下だったらしいから、生前同様の脳の機能を取り戻すまでちょっと時間が掛かったのか。ちんぷんかんぷん分からない。そもそも幽霊であるという実感がちっとも湧かない。それでも頭上の枝から降ってくる落ち葉は決して桂子さんの髪の毛や肩口で留まることはなく、素通りして落ちて行き、手を伸ばして触れようとしても触れない。やはり、自分は死んだらしいと結論づけるしか他になかった。


■■2


 幽霊である自分を確信した桂子さんはショックの余り一時呆けた。日が暮れてまた昇り、もう暮れてまた昇り、落ち葉はすっかり落ちきって、桜は丸裸になった。ふつふつと疑問の念がわき起こって来るまでに回復したのは、そろそろ北風が吹く季節である。

「どうしてわたしは幽霊になんてなってしまったんだろう?」


 そりゃ、生への執着は人並みにある。そんなもの、あったに決まっている。まだだって若いのにや、なんでこのわたしがという思いや、やりたかったことや、家族への未練や。もろもろ至極当然である。しかし、幽霊というものはもっともっと貪欲な執念だの怨念だの悔恨だのの凄まじきものがあって、そうして生まれるものではないのか。一体このわたしにそんななにかがあったかしら? 桜の木の枝の上。桂子さんは自分の胸に片手を当てて、深く首を傾げるのである。この世にそうまでしても留まりたい大切な理由など浮かばない。


 桂子さんに子供はいない。夫の晴臣はるおみ氏との仲も険悪とまで言わないが、さして睦まじいわけでもなかった。晴臣氏とは見合いである。晴臣氏は再婚で自分は初婚だったのに、遅い結婚だったため「貰ってやった」感が夫からは生涯拭えなかった。一回り以上年の差があることも一因だったかも知れない。二人の間に子を成せなかったのも要因かも知れない。土地持ちの家の一人息子ということもこれまた理由の一つかも知れない。晴臣氏は横暴な夫であった。「縦のものを横にも」の典型だった。こんなふうにちらちらと雪が舞う日は思い出す。桂子さんが高熱を出して寝込んだ折のことである。


 幼い頃から体が丈夫だけがとりえの桂子さんだった。それだけに、いざ風邪をこじらせてしまえば熱に耐性のない桂子さんでもあった。二階の部屋で寝ていると、晴臣氏が階下から大きな声で呼ぶのである。何度も何度も呼ぶのである。桂子さんは重い頭を起こした。お昼には店屋物を頼んで貰った筈であった。桂子さんは箸を付けもしなかったが、じゃあ一体なんの用だろう。

「なんですか、あなた」

「いいから。ちょっと降りて来なさい」

 ふらつきながら降りていき、夫の言葉を聞いて、腰の力が抜けそうになった。

「灯油が切れた」

 晴臣氏はファンヒーターを指差すのである。灯油を入れてこいと言うのである。

「わたし、具合が悪いんですよ。どうしてそれくらい自分でやってくれないんです」

 灯油缶は勝手口の外にあった。外は小雪が舞っていた。

「俺は入れ方が分からん」

 食卓の上には店屋物の空き皿が流しに下げられることもなく、汁を乾涸らびさせて置かれていた。


■■3


 桂子さんの死は桂子さんにとってまったく大誤算であった。一回り以上違う夫は随分前から足を悪くしていたし、糖尿でもあった。正直に言ってしまえば、桂子さんは夫がそろそろ往生してくれるだろうと思っていた。千秋の思いで待っていた。これはなにも桂子さんが特別「悪妻」というのではなかろう。なにせ当の晴臣氏の口癖だったからだ。

「お前はまだまだ若いけどな、もう俺は長くはないさ」

「俺が死ねば遺産は全部お前のものになるじゃあないか」

 桂子さんが姉や女友達とたまには旅行に行きたいと頼んでも、いつもこの調子で渋られる。

「俺が死んでから幾らでも行ける」

「墓参りに来いなんてことは言わんよ。再婚だってよかろうさ。とにかく俺の生きてるうちは俺を大事にしてくれよ」


 長いことではないのだと思えばこそ我慢もできた。今にして思えば夫の余命幾ばく発言などてんでいい加減な理屈であって、お医者からの宣告があったわけでもなんでもない。相応な歳の順と男女の平均寿命差などを合わせてみただけの理屈であって、桂子さんはつまり、「ダマされた」、「言いくるめられていた」のであった。それでも、晴臣氏自身もそう信じていたことだけは桂子さんは疑っていない。晴臣氏は本当に順当に「もうじき自分の番」と考えていたのだと思う。


 人の運命など分からぬもので、結局自分が先立つことになってしまったが、それも「はぁー、今更」だと桂子さんは思っている。夫に恨みがないではないが、かと言って幽霊らしく呪い殺したい程の憎しみがあるかと言えばそれも違う。寧ろあの「縦のものを横にも」な夫がこれから独りでどう生きるつもりか、そちらの方に興味があった。お手伝いさん、老人介護、ディケアー。どれ一つとして夫は満足できるまい。身の回り一つ出来ないのにプライドだけは天まで高い人なのである。これは見ものだ、と思う。

 もしかして。

「それを見たくてわたしは幽霊になっちゃったのかしら?」

 やっぱり違う気がした。


 大体、何故自分がこの桜の木に縛られているのか。桂子さんには一番そこが解せなかった。桜の木の枝と桂子さんの尻は相変わらず二枚貝のようにくっついていて、桂子さんに出来るのは首を逸らして背後の通りを眺めたり、枝から下げた二本の足をぶらんぶらん揺すったり、両手を天に上げて伸びをしたり、せいぜいその程度だった。幽霊というのは足がなくてふわふわ浮いて、空を自由に飛んだりするものだと思っていた。それなのに、桜の木から離れるどころか枝の上に立ち上がることさえ出来やしない。これが自縛霊というものだろうか。でも、庭の木は桜でなくてももっと大きな松だって、桂子さんが好きでわざわざ甥っ子に頼んで山から持ってきて植えて貰った萩の茂みだってあるのである。どうして桜なんだろう。


 桂子さんは実は桜が嫌いだった。「日本人は須く桜を愛すべき」という風潮が嫌いである。テレビや新聞までわざわざ桜の開花予想なんてものを毎年毎年飽きもせずやる。それにつけてみんながそわそわし始める。晴臣氏もそんな典型的日本人の一人だった。毎年知人を花見の宴に招くのである。そりゃ客人や夫は楽しかろう。でも、桂子さんは小間使いとして終日てんてこまい。悠長に桜を眺める余力なんか毎度ありはしないのである。

「今年も夫は花見の宴を開くのかしら? やっぱりわたしが居ないんだから無理かしら?」

 桜には小さな新芽が出始めていた。春が近づいているのだった。


■■4


 晴臣氏は桂子さんの予想より遙かに独り暮らしを頑張っていた。宅配の食事を頼んだり、日雇いの女性も入れたようだ。時々は杖をつきつつ出て行って、しばらくするとスーパーの袋を手に帰ってくる。惣菜や何かを買うらしい。先日は門の前でお向かいのご主人と長話をしていた。

「奥さんが亡くなられてご不自由でしょう」

「なんとかなるうちはやってます。インスタントの味噌汁や刺身があれば上等ですし、洗濯機の使い方もこの歳になって覚えましたよ」

 憎たらしかった。洗濯機の扱いどころか、桂子さんが出掛けている間に雨が降ってきたとしても、決して取り込んでおいてくれるような、そんな夫ではなかったのである。

「感心ですなぁ」

「家内が死んでこたえました。あれは丈夫が取り柄だったし、若かったし、てっきりこっちが先とばかり思っていたんですがねぇ」

 こたえた、と言いながら、最近の夫は自分の生前より元気になってはないかしら、と桂子さんは思っている。以前は「二階に上がるなんて、もうとても」と言っていたのに、二階の窓から夫が見える時がある。必要に駆られてスーパーにも出向くようになり、それが自ずと足のリハビリになったのだろう。二階では若い頃の趣味だったレコードを聴いているらしい。窓からぼんやりと夕焼け空を眺めている晴臣氏の姿を桂子さんは桜の枝からじっと見上げてみたりする。額縁の中の絵のようだった。

 今の晴臣氏はたぶん仏間にいるのだと思う。線香の臭いがうっすらと香る。チーンと鐘を鳴らす音がした。仏壇の中、舅達と並んで自分の位牌があるのだろうか。わたしの写真も遺影として黒い額縁に収められているのだろうか。


■■5


 冬の風に凍えるでもなし、雨粒や夜露に濡れるでもなし。ただ桜の枝にぼんやりと座っているばかりの我が身に次第と慣れ始めた桂子さんである。桜のつぼみが育っていた。その数を目で追ってみる。今年は例年にも増して満開の花が開きそうだ。


 今日は珍しく来客である。職場が一緒だった小野寺氏と斉藤氏だ。出前の寿司が届けられ、居間がしばらくにぎやかだった。このメンツは碁打ち仲間で、晴臣氏が時々家にタクシーを呼んで遠出するのは、これは碁会所に行くのである。桂子さんの生前からそれはずっと続いている。独り身になってつまらないのか、その回数は以前よりも増えていた。

「いいわねぇー」

 桂子さんはため息をつく。慣れ始めてきたとはいえ、つくづく辛い時もある。違う景色が見たかった。人と話もしたかった。今の自分に出来ることと言えば、隣家から漏れる声に聞き耳を立てたり、登下校する小学生を眺めたり、下手くそな唄を歌ってみたり、夫の様子を窺ったり、その背中にアッカンベーをしてみたり。要するにたわいない、つまりはくだらない、そんなことの繰り返しであった。幽霊になってから、暑さ寒さも感じない。腹も空かず、喉も渇かず、眠りはしても夢さえ見ない。


「桂子さんがいないと、この家も灯が消えたようだねぇ」

「ほがらかな

女性

だったなぁ。俺達のつまらん話にもきゃらきゃら笑い転げてくれて」

「ああ、全く突然で、今でも信じられないなぁ」

 一勝負ついたのだろう。男達が縁側に出てきた。そこから庭の桜はよく見える。つまりこちらからもよく見える。声もよく通ってくる。

「今年の花見はしないのかね?」

「うーん。やっぱりあいつがいないと」

「そう言えば、桂子さん何年か前だったか、ほら、毛虫にかぶれて大変だったことがあったろう」

「ああ、そうだったっけなぁ。桜は花はいいんだが、あの毛虫ばかりはたまらんよなぁ」


 け、毛虫!

 そうだ、毛虫。

「今年は例年より温かいから、また大発生の時期とか聞いたぞ。花の終りには気をつけろよ」

 ちょっと待ってよ。大発生なんて止めてよぉ。

 そうだった。どうして忘れていたのだろう。自分の桜嫌いの一番の理由。あの気味の悪い毛虫。しかも一匹や二匹じゃないのだ。葉に枝にびっしりと埋め尽くすように蠢く毛虫、毛虫、毛虫。思い出すだけでぞわぞわと肌があわだった。桂子さんは死後初めての寒気というのを味わった。

 どうしよう。どうすればいい?

 もう、じきに桜の花が咲く。すぐにそれは葉桜になり、青葉が生い茂るようになる。そうしたらわいてくるのだ。恐ろしい毛虫がうじゃうじゃと。桂子さんは? 逃げられない。だって、ずっとこの木の枝に尻は吸い付いているのである。桂子さんは座った木の枝に両手を突いて、うーんと尻を持ち上げようとやってみた。一ミリだって浮かせやしない。木の幹に手を突っ張って横に逃げようともやってみた。頼りなく空を掴む感触である。腹立ち紛れにつぼみを引きちぎってやろうと思う。指はすかっとほんのり赤く色づき始めたつぼみを擦り抜けてしまう。もう今にもほどけそうなつぼみだった。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。毛虫が来る、毛虫が来る、毛虫が来る。


■■6


 もしか、花や葉と同様に、毛虫は桂子さんに触れることはないのかも知れない。もう桂子さんは死んでしまっているのだから、かぶれることだってないんだろう、常識的に考えて。

 でも。それでも!

 目の前に、足下に、手の先に。あの夥しい毛虫の群れが蠢いていたら。わたしはきっと、くも膜下でも心臓麻痺でも起こすだろう。二度でも三度でも死ぬだろう。頭の上から毛虫がぼとぼと落ちてくる様が思い浮かんだ。桂子さんは身震いをした。地獄だ。責め苦だ。拷問だ。


 はた、と。恐ろしい考えが浮かんだ。

 もしかして……。

「もしかして、これが地獄なの?」

 わたしに与えられた地獄なの?


 許してください。神様、許して。

 桂子さんは悔やんだ。急にいろんな昔が思い出された。野良猫が庭で糞をするのに棒を持って叩いて追い払ったこと。幼い頃、好きだった近所のガキ大将に指図されて、隣家の柿を盗んだこと。同級生をみんなと一緒に虐めたこと。スーパーでレジの打ち間違いに気づいたのに、得しちゃったとそのまま黙って帰ってきたこと。

 そして、夫の晴臣氏に死んで欲しいと思っていたこと。

「悔い改めます。謝ります。どうぞ毛虫地獄にわたしを落とさないでください。どうかもう、わたしを成仏させてやってください」

 桂子さんは拝んだ。手をすりあわせて必死に拝んだ。

「後生ですから。後生です」


 いつの間にか日が暮れていた。外灯や家の中にも明かりが灯った。仏間からチーンと鐘をつく音。晴臣氏が焚いた線香の臭い。功徳がありそうな気がした。臭いと空気を周りから掻き集めて我が身に一心に振り掛けた。


■■7


 桜が爛漫と咲き乱れている。桂子さんはぐったりしていた。どんなに祈っても、悔いてみても、この木から逃れることは叶いそうになかった。

 わたしはずっとここにいるのだ。誰と話すこともなく、誰にも見られず、ここにいると知ってすら貰えず。毛虫に怯えて、独り。寂しく。

「でも、どうして?」

 わたしだけが、こんな目に?


 桂子さんは目を閉じる。今を盛りの桜の香を肺一杯に吸い込んでみる。

 わたしって、そんなに悪い女だっただろうか。そりゃあ清かったとも全てが正しかったとも言いやしない。人より劣る部分もある。さもしい一面も確かに持っていると思う。でも、だからって、そんなのわたしばかりじゃないだろう。人間だもの、誰だって。


「……本当に、どうしてわたし幽霊なんかにならなきゃいけなかったのよ?」

 一番初めの疑問。根幹の疑問。

 なんでこのわたしがという思いや、やりたかったことや、家族への未練や。そんなもの桂子さんには無いのである。この世に是が非でも留まりたい理由など一つもありはしないのである。


 ふと。

「さみしい……」

 と、桂子さんは思った。随分昔に若くして死んだ友人のことを思い出した。

 死病であると聞いて、他の友達と病室を見舞ったのである。彼女は穏やかに話していたが、急にぼろぼろっと涙をこぼした。

「せめて、せめて子供が中学生になるまででいいから、私生きていたいの……」

 泣けた。ずしんと来た。女三人で肩を寄せ合って涙を流した。

 でも、心の片隅でどこか冷めている自分がいた。だからって、どうしようもないじゃない。


 姉の入院も思いだした。彼女は飼っている小型犬をとても可愛がっているのだが、病院にいる間中、犬のことを気に掛けていた。

「チロちゃんはパパにちゃんとお散歩連れて行って貰ってるかしら? パパはちゃんとお水を毎日取り替えてくれてるでしょうねぇ。皿だって毎回洗ってくれないと可哀想」

 命に関わる入院ではなかったが、自分の体の心配より先にあんまり「チロちゃん」、「チロちゃん」なので、看護士さんの間でも評判になり、果ては名字ではなく「チロちゃんママ」と呼ばれてしまう始末だった。

「チロちゃんママ、検温ですよ。あら、こちら妹さん?」

 手伝いに行った桂子さんは看護士さんに挨拶しながら、恥ずかしさに顔を赤らめたものである。


 あれもこれもどれもいつも。察せない自分がそこにいた。他人に冷たい目を送るわたしがいた。ああ、と思う。なんてさみしい。


■■8


「そうか……、そうだ」

 そうだったんだ。桜の木の枝の上で桂子さんは自分のスカートをぎゅっと握りしめている。

「わたしには何一つ執着がないよぉー。心の底から好きだったものも、命よりも大切な人も。そうだ、わたし、なーんにもない。私の中は空っぽだ」

 幽霊になった今の自分に出来ることは、隣家から漏れる声に聞き耳を立てたり、登下校する小学生を眺めたり、下手くそな唄を歌ってみたり、夫の様子を窺ったり、その背中にアッカンベーをしてみたり。たわいなくてくだらない、そんなことの繰り返し。でも、それは生きていた頃の桂子さんと、果たしてなにか違っただろうか。


「わたし、幽霊になっちゃった訳、分かったぁー。」

 執念だの怨念だの悔恨だの、そんなもの幽霊とは無縁なんだ。わたしみたいに生きた甲斐のない者がきっと幽霊になるんだ。元からまともに生きてないから、ちゃんと死ぬこともできないんだ。この世に留まりたい理由がなければ、逆に去るべき必然すらないのだろう。

 もうダメだ。わたしは煉獄に繋がれたのだ。成仏なんて出来ないんだ……。


 桜は散り始めて、白い花びらが強い風に宙を舞った。ごぅと地響くような風が吹く。家鳴りがする。木々が揺れる。春一番だろうか。この風で桜は全部散るだろうか。


 カラカラと戸の開く音がして、晴臣氏が外に出てきた。呼んだのだろうタクシーがちょうどのタイミングで家の門の前に停まる。

「あら、こんにちは。風が凄いですねぇ」

 お隣の奥さんが声を掛けてきた。桂子さんは首を巡らせてそれを木の上から見つめている。

「こんな日にもお出かけですか?」

「はい。どうせ暇な身ですから」

 晴臣氏は帽子のつばにちょっと手を当て、奥さんに挨拶するとタクシーに乗り込んだ。また碁会所に行くのだろうか。車がゆっくり走り出す。

 見送る奥さんに別の奥さんが寄ってきた。

「毎月毎月、ああやってずっと欠かさずに行ってるのよ」

「知ってるわ。お墓でしょ。今日は命日だもんねぇ。そろそろ一年経っちゃうのねぇ。ご主人、お寂しいわねぇ」


 桂子さんは反射的に去った車の方へ身をよじった。ちょうど木の幹の影になって道が見えない。ああ、行ってしまう。わたしはずっとここにいるのに、あの人は空っぽのお墓の方に行ってしまう。


「待って!」

 待って、待って、あなた待って! わたしも一緒に連れて行って!

 ざっとひときわ強い風が吹いた。白い桜の花びらが散る。渦を巻いて舞い上がる。その花びらと共に桂子さんの体がふわりと浮いた。ずっと頭上に在り続けた桜の梢が今は足の下に見えていた。


 桂子さんは家を一瞥すると、そのまま一陣の風となってタクシーの後を追いかけて行く。花びらが舞い踊るなかを高く、飛んだ。


 晴臣氏を乗せたタクシーが停まった。扉が開く。足が悪いので、降りるのにも時間が掛かる。

「……おや?」

 その膝の上に一枚の桜の花びらがひらひらと落ちてきた。ルーフに引っかかっていたらしい。この墓地の近くに確か桜はなかったが……。

「うちの庭からついて来たかね?」

 晴臣氏は小さな花弁を手の平にのせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桂子さんの成仏 宇苅つい @tsui_ukari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ