飛行機の子供たち
天見ひつじ
飛行機の子供たち
親友と一緒に、空港のスカイデッキから空を眺める。
少し風は強いが、雲のない晴れた空は目を細めたくなるような飛行日和だ。
二人で顔を寄せ合い、手で風を遮ってお互いの煙草に火をつけ、黙ってふかす。沈黙は苦にならない。大学からの腐れ縁は違う会社へ入ってからも絶えることなく、今の会社へ引き抜かれてくるきっかけともなった。同僚として働いて一年、紐帯はさらに強いものとなっている。
「なあ、君は飛行機の設計者になると決めたときのことを、憶えてるか?」
ふと思いついて、聞いてみる。返ってきた答えは簡潔だった。
「俺か? そりゃこの仕事にしてからさ」
別になりたくてなったわけじゃない。
設計者として誰もが羨むセンスを持つ親友はそう嘯く。
それが照れ隠しであることを、彼は知っている。親友の引く図面には、美しい線が見て取れる。それは、まず閃きがあり、数値や理屈は後からついてくる類のもの。ただ計算が上手いだけでは決して描けないライン。
優れた設計者の全てが持ち合わせるわけではないが、そんな天賦を持つ者はみな優れた設計者であると、設計者なら誰でも知っている。
「それで?」
「え?」
「お前はどうなんだ。話を振った理由はそれだろ?」
「うん、子供のころの話なんだけどね」
飛ばしてみたい。
少年は、高鳴る胸を押さえるように自らの服をつかみ、そう願った。
見上げる先には、飛行機があった。ハンドランチと呼ばれる手投げの模型飛行機。もちろん、当時の少年はそんな名前を知りはしない。ただ、折り紙の飛行機では絶対に不可能な、優雅な緩旋回に見惚れていた。あとから考えれば一分ほどだったのだろうその飛行は、少年の瞳には永遠とも映った。
「君、飛行機に興味があるのかい?」
少年は幸運だったと言えよう。
ハンドランチに興じていた模型飛行クラブの大人たちは、ふらふらと迷い込んできた少年に目を留めると仲間の輪に招き入れてくれた。そして初心者用の小さなゴム動力飛行機をその手に持たせると、プロペラを指で回すよう促してくれたのだ。少年は大人たちに言われるがままにゴムを巻き、構え方も教えてもらうと、飛行機をそっと空に放った。
すうっと滑るような一瞬の降下の後、小さいが確かなプロペラの唸りが少年の耳に届く。翼は穏やかな初夏の風を捉え、機体は機首を上げ力強く上昇を始めた。その日以来、少年の心は飛行機と共にあり続けることとなる。
「模型飛行機ね。今でもやってるんだって?」
「うん、仕事にも一区切りついたからね。今度、一緒に行くかい?」
そんな男の言葉に、親友は肩をすくめる。
「飛行機は、仕事さ」
「うん、実際のところ模型の経験は仕事の役に立つよ」
そんな彼の返答に、親友は苦笑する。
「お前、旅客機が飛ばせるなら、模型飛行機ぐらい楽勝だろ?」
「いや、それがそうでもないんだよ」
「ほう? どう違うのか、聞かせてもらおうじゃないか」
「そう、あれは僕がゴム動力の模型飛行をもらった次の日のことだった」
飛行機を、自分の手で作りたい。
借り物の飛行機ではなく、自らの飛行機を空へ解き放ちたい。
そんな想いを胸に抱き、少年は模型屋に来ていた。
店頭にうず高く積まれたプラモの箱。その間に分け入って薄く曇った引き戸を開けると、木と金属、オイルと塗料が混然となった匂いが少年を迎え入れる。一見したところ雑多に、しかしよく観察すれば整然と並べられていると分かる棚に挟まれた、狭い通路が店の奥へと伸び、薄暗がりへと消えている。
ガンプラブームの到来にはまだ数年早く、模型屋という場は必ずしも完成の保証された一揃いのキットを売る場ではなかった。高価な外国製品や、成形技術が未熟で種類も少ない国産キットを除けば、そこにあるのは単なる模型の材料に過ぎず、この時代における模型製作者とは、すなわち完成形を思い描き必要な材料を逆算する設計者であった。
しばらく待っても人の気配はなかった。おっかなびっくり歩を進める少年は、曲がり角の先に下りの螺旋階段が設けられていることに気付く。木製のステップは非常識なまでに段差が高く、きついカーブで階段の下までは見通せない。ただ、かすかなジャズの響きだけが少年の耳に届いてくる。
迷いを乗せて、一歩を踏み出した。ぎしりと鳴る階段が背中から少年を追い立て、もう後戻りはできないのだという強迫観念を植え付ける。ぎゅっと目をつぶり、手すりを頼りに左右の足を交互に進めていく。どれだけ降りたのか、まぶたの裏に光を感じた少年はそっと目を開いた。
そこは秘密基地だった。少なくとも、少年にはそうとしか思えなかった。丸型の部屋の中央に置かれたスツール、それを取り囲むように置かれた工作台。棚にはよく磨かれた工具と無数の鉄道模型が、この部屋の主の流儀に則り一定の間隔をおいて配置されている。ふと視線を上げると、天井にはゆったりと空気を掻き回すファンと共に、一機の飛行機模型が吊り下げられていた。
「いらっしゃい」
後から考えれば不思議なことに、スツールに腰掛ける老人が工作の手を止めて少年に声をかけるその瞬間まで、少年が老人の存在を意識に乗せることはなかった。それは、丸眼鏡の奥に茫洋とした瞳を持つ白髪の彼が、あまりに自然にこの部屋へ馴染んでいたからだったかも知れない。
「なにをお求めかな?」
声を出せば、この模型の王国が持つ完璧な雰囲気を壊してしまいそうな気がして、少年は天井の飛行機をそっと指差した。老人は少年の指先を視線で追い、そこに自らの作った飛行機を認めると厳かにうなずく。取り出しされたそろばんがぱちぱちと小気味よい音を立て、六桁の金額を示す。もちろん、少年に払いきれる金額ではない。少年はすり減った床に目を落とし、首を横に振った。自分の予算はこれだけなのだと、小さな財布を開いて示す。
「模型は逃げたりしないのがいいところだ」
老人は彼に聞かせるでもなくそうつぶやくと、思案の末にいくつかのプロペラを取り出し、工作台に並べて見せてくれた。一度に買えなくても、少しずつ買い足していけばいい。そう言われているような気がして、少年はプロペラを覗き込んだ。艶やかな木製のものもあれば、アルミを削り出したのだろう銀色のもの、きらきらと天井灯を照り返す金色のメッキを施されたものもあった。少年が選んだのは、銀色のプロペラだった。
「またおいで」
代金を受け取った老人は、にこりともせずにそう言った。
そうして少年は帰途に就く。
こうして買い集めていけば、いつかは自分の飛行機が完成する。
そんな素晴らしい予感に、胸を膨らませて。
「それで? 結局完成したのか?」
「いや……すぐ挫折したよ。最初からフルスクラッチは、流石に荷が重かった」
「なんだ、締まらない話だな」
呆れたように、面白がるように、親友は口の端を歪める。ふわふわとした空想めいた完成形しか思い描けず、計画的にパーツを揃えていくことができなかったあの時の自分はただ飛行機に憧れる少年に過ぎず、まだ設計者ではなかったのだ。
「細かいとこに目がいって先の予測が甘いあたり、変わらないな」
知らず遠い目をしていたのだろう彼に、親友がからかうような言葉を投げる。
「そう言うなよ」
図星をつく親友の物言いに、彼としては否定もできず苦笑するしかない。
「で? お前のことだから、諦めたわけじゃないんだろ?」
「うん、それから一か月くらいかな。近所の木工所でもらってきた端材で、とにもかくにも飛行機……みたいなものを作ってさ。最初に大人たちが模型飛行機を飛ばしてた河原に持っていったんだよ」
それは、少年が初めて作った飛行機だった。
飛行力学はおろか簡単なゴム動力飛行機の仕組みさえ理解していなかった彼の飛行機は、翼に見立てた板を角棒に貼りつけ、その先端に木工ボンドでプロペラを張り付けただけの代物だった。本格的な模型飛行クラブの面々に披露するにはあまりに稚拙なそれを、少年は教えてもらった通りの構え方で空に放った。きっと綺麗に飛ぶのだと、そう思い込んで疑いもしなかった。
飛行機はすぐさま墜落した。
腹がきゅっと縮み、胸が後悔で満たされる。
せっかくのプロペラを、駄目にしてしまったと直感する。
少年は飛行機に駆け寄ると、彼の飛行機だったものを拾い上げる。
アルミのプロペラは衝撃でひん曲がり、土にまみれて輝きを失ってしまっていた。
大人たちも、心配そうな表情を浮かべて集まってきた。彼らの手にする飛行機の美しく軽やかな姿を目にして、自分の飛行機の醜さを改めて思い知らされる。ついさっきまであんなにも輝いて見えた少年の飛行機は、薄汚れた残骸に成り果てていた。それを見られるのが恥ずかしくて、少年は飛行機の上に覆いかぶさった。
嗤われる。
でも仕方ないと思った。
それくらい、自分の飛行機は無様だった。
しかし、いつまで経っても笑い声は聞こえてこなかった。
「君の飛行機を、見せてもらってもいいかな?」
恐る恐る身を起こした少年に声をかけたのは、大人たちの中でも年長の、老人と呼んでもいい年齢の男だった。彼は、断りを入れて少年の飛行機を手に取る。そのまましばらく真剣な表情で見つめていたかと思うと、ふっと表情を和らげて少年に問いかける。
「これは君が?」
少年がうなずくと、彼は機体に付いた土を払ってから、飛行機を返してくれた。そして、新しい遊びを思いついたとでも言わんばかりの子供っぽい笑顔を浮かべると、こう言ったのだった。
「おいで。君の飛行機を、飛べるようにしてあげよう」
少年は、こらえきれずに涙をこぼした。心配されたことや、教えてもらえることより、自分の飛行機を飛行機として扱ってもらえたことが何より嬉しかった。もちろん、そんな心の動きは後から考えればそうだったのだろうというだけで、当時はわけも分からずに泣いていた。それを困った風に眺める彼の顔を、少年は大人になった今でも思い出せる。
「おもちゃをエサにして子供を手懐ける、か。現代なら声かけ事案で通報されてもおかしくないぞ」
彼の少年時代のエピソードを簡潔にそう評してみせる親友には、苦笑を浮かべる他ない。
「いやいや、僕の先生だった人を変質者扱いしないでくれよ。確かに、少し変わった人ではあったけどさ」
「会わなくてもわかるさ、お前と同じような感じなんだろ? 全く、飛行機好きってのは変態ばっかりだ」
それは自分にも跳ね返ってくる言葉だということを、彼は分かった上で言っているのだろう。飛行機に魅入られたものは、どうしようもなく飛行機を愛し続けるしかない。
「しかしその模型飛行クラブだったか? そこに集まってた連中も、その先生って人も、大概変人の集まりだな。普通、見ず知らずの子供にそんなに優しくするものか?」
子供は嫌いだ、と言いながら休日は欠かさず家族サービスに努める親友は、大げさに顔をしかめてみせる。彼は笑いをこらえるために口を変な形に歪める羽目になり、親友のもの言いたげな視線を向けられてしまう。それ以上の追及を受ける前に、慌てて口を開く。
「うん、優しいのは最初だけだった。みんな、口調は柔らかいのに揚力だの風見安定だのって専門用語を交えて話すもんだから、なに言ってるのかさっぱりだったよ。子供に対して本気で向き合ってた……と言えば聞こえはいいけど、今思えばみんな子供だったんだね」
「おもちゃで遊んでるのは、そりゃ子供だろうさ」
「うん、自分の飛行機がなぜ飛ばないのか、一から十まで懇々と丁寧に説明されるのは幼心にもちょっとくるものがあったな。けど、なんでだろうな、不思議と嫌な気分にはならなかったんだよ」
「常々思ってたんだが、お前さん、あれだろ?」
親友の憎まれ口は無視して、続きを言われる前に言葉を継ぐ。
「紙飛行機を折って飛ばしてみるところから始めて、グライダタイプの紙飛行機を設計するところから作ってみて、ゴム動力機、バルサ製の木製グライダ、翼弦一メートルはあるハンドランチ、そして動力付きのラジコン飛行機へと、段階を踏んで模型飛行機作りを学んでいったんだけど……ある日、約束してたはずなのに先生が姿を現さなかったんだ」
一呼吸おいて、続ける。
「重い病気に倒れられていたんだ。何の連絡もないことに気を揉んで自宅まで会いに伺ったのは、心配しつつも三か月を無為に過ごした後だった。なんでもっと早く会いに行かなかったのかって、あのときは心底後悔したよ」
上品そうな感じの奥さんは、まだ若造に過ぎなかった彼を賓客を迎え入れるように扱ってくれた。通された先の寝室で布団の上に身を起こしている先生から記憶にあるよりも痩せた印象を受け、彼は容易に言葉を紡げずにいた。
「やあ、君ですか」
ろくに挨拶もできずにいる彼を、先生は常と変わらぬ気安い口調で迎え入れてくれた。病気で倒れた後遺症で目の焦点が上手く合わせられなくて工作ができないんだと言って笑う姿は、今手がけている模型に上手くいかない箇所があって、それで悩んでいるんだと打ち明けるような軽やかさだった。
「あの日約束した通り、君の飛行機はとてもよく飛ぶようになりました。思えば、教える過程で僕自身が気付かされることも多かった」
事実、先生の技術は老いてなお向上し続けていた。クラブの中で一番長くあるいは遠くへ飛ばせるのは今や彼となっていたが、それは飛ばす技術も勘案した場合の話であり、単純な性能で言えば先生の飛行機が一番であることは疑う余地もなかった。その技術が失われてしまうかも知れない。ただそれが悲しく、恐ろしかった。
「君と出会えたことは、僕の人生で最良の出来事の一つでした」
まるで別れを告げるような言葉に、畳の目を見つめ首を振ることしかできないのが無性に情けなかった。少し間を置いて、先生は続ける。
「よければ、僕のコレクションはクラブのみんなで分けて下さい……邪魔ではないといいのですが」
みんな喜びます、という言葉を彼は辛うじて飲み込んだ。代わりに、みんなよろしく伝えて欲しいと言っていた、と絞り出す。しかし、そんな誤魔化しが通じるような相手ではなかった。
気遣いは無用です、と先生は微笑する。
「僕の作った飛行機をみんなが喜んでくれるなら、僕はとても満足していくことができます。年寄りのわがままだと思って、受け取ってやって下さい。わがままついでにもう一つ付け加えるなら、できればしまい込んだりせず、飛ばして遊んで壊してくれると嬉しいですね」
悪戯っぽい笑顔は子供のそれで、理知的な表情の陰にふと覗くその笑顔が大好きだったのだと、彼はいまさらのように気付く。
「……もう話す機会もないでしょうから、昔話を聞いてくれますか?」
先生はそう前置きして、自分が零戦の設計者の一人であったこと、戦後初の国産旅客機開発にも間接的に関わったことなどを話してくれた。いずれも初めて聞く話ばかりであり、模型飛行機に留まらない航空に関する幅広い知識の源泉はそこにあったかと今さらながら納得する思いもあった。
「零戦の設計者って……まさかあの堀越二郎か?」
驚く親友に対して、彼は首を横に振る。
「いや、違うよ。先生は、公式には名前の出てこない堀越氏の部下の一人だったんだ」
「それにしても凄いが、死ぬ間際まで話さなかったんだろう? なぜ話す気になったんだろうな」
「うん……きっと、色々思うところがあったんだと思う。まあ、そんなわけで、僕はそのときからずっと飛行機の設計者を目指してきたのさ。大学で君と会ったのは、それからしばらくしてからだったかな」
「別に、俺は飛行機の設計者になりたくて学んでいたわけじゃないがな」
いつまで経ってもそうやって子供っぽい憎まれ口を叩かずにはいられない親友が微笑ましくて仕方がなく、彼は口元に笑みを浮かべる。
きっと口に出せば親友は笑うだろうから、恩人の最後の言葉を思い出して心の中で感謝を述べる。
先生は窓外の桜を見上げ、呟くように言った。
無数の蕾が今にも花開こうとしていたのを覚えている。
「君も、将来は飛行機の設計をしたいのだと聞きました。しかし残念ながら、現在国内で航空機の自社開発ができる会社はありません。だから君は外国へ行って、そこで飛行機を作ってきなさい。そして、いつか日本で航空機の設計製造が行える下地が整ったとき、日本へ戻ってきて下さい」
うなずく以外に、できることなどなかった。
少なくとも、そのときはまだ。
「それでは、さらばです」
それだけ言うと、先生は目を閉じてしまう。慌てて呼びに行った彼から話を聞いた奥さんは、最近は意識がはっきりしない日が多く、一日のほとんどを眠って過ごしているのだと教えてくれた。きっと貴方が来るのを待っていたのでしょう。儚げな笑みと共にお礼の言葉を告げられ、恐縮しつつ辞去した。
世界に飛び立っていく飛行機を作ろう。
それが自分にできる恩返しだと、そう思った。
訃報を聞いたのはちょうど一か月後、桜の季節だった。
「飛ぶぞ」
親友の声で、現実へと引き戻される。彼らの作った機体が、牽引車によって格納庫から滑走路へと引き出されていた。
空気抵抗を低減するスマートな胴体と、翼端を跳ね上げてウィングレットを設けた後退翼。ジェット機にも関わらずプロペラ機並みの静音性を実現した機体は、静かに、そして軽やかに空へと浮かび上がっていく。横風にもかかわらず、機の姿勢は終始安定していた。
「飛んだな」
「うん、飛んだ」
「なんだ、感動してないのか」
「君こそ」
戦後二機種目となる、国産旅客機が日本の空を飛んだ日だった。
飛行機の子供たち 天見ひつじ @izutis
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