獅子たちの夢

めと

獅子たちの夢

 祖父が亡くなったという報せを受け、私は仕事を終えたその日のうちに新幹線に乗った。実家からやや離れた祖父の家へと辿り着いた頃には既に時刻は夜の十一時を過ぎていた。一年ほど前に彼が入院することになったという話を聞いた時から既にこのような事態となる覚悟はできていた。八十歳を過ぎた身体にはもう病魔と戦う体力も時間もそれほど残っていないことは分かっていた。年齢を考えれば、よく一年も持ったと言って差し支えは無いのだろう。

 祖父は父と母と叔父夫婦に囲まれて、床の間の布団の上で顔に薄布を被せられ永遠の眠りについていた。その場の誰も涙を流してはいなかった。肉親に愛想を尽かされていたのではなく、それぞれの家族を持つ自分達と離れて一人暮らす彼らの父への感情が否応なしに薄れてしまっていたのだろう。八十代というその享年も、平均寿命を鑑みれば妥当であった。

 祖父に関する私の思い出といえるものはそれほど多くはなかった。彼は非常に口下手な人間で、趣味らしい趣味も持ってはいなかった。祖母に先立たれるまで建具屋を営んでいた祖父は自分の息子が孫を連れて帰った時ですらほとんど一日中仕事場に篭もりきりで、孫の遊びに付き合うことすらしなかった。それどころかもし彼の工房に孫が足を踏み入れるようなことがあったなら、彼は烈火のごとく怒り大声を上げた。そうした人柄と小指の先が無い不気味な左手を持つ祖父に幼少期の私は得も言われぬ恐怖心すら抱いていた。

 後に祖父が若い頃工作機械に自分の手を巻き込んでしまったことと、それゆえ子供を危険な道具を置いている仕事場に近寄らせまいとしていたことを父から教えられ、不信感からなる恐怖は少し消えた。だがその事実を知ったのは既に私が高校に入った頃であり、家族で彼の家を訪れるようなことはもうほとんど無くなっていた。最後まで私と祖父の間には小さくはない隔たりと溝があった。もしかすると、私は祖父の笑顔を見たことが無かったのかもしれない。

 そのような祖父の葬儀のために田舎へと戻った理由は血縁の義理というよりもむしろ、私自身が故郷から離れた街での閉塞した生活から一時的にでも逃れたかったという私的なものに他ならなかった。新たな仕事は職務内容も同僚も上司も肌には合わず、少ない休日は肉体と精神の疲労を寝床の上で解消するだけで消費される日々が続いていた。祖父の訃報の電話を受けた時に、この場所から少しでも離れられるという喜びを僅かに覚えたのは事実だった。

「わざわざ遠くからごめんね、仕事も忙しかったやろうに」

父が私の顔を見て言った。

「こんな時は仕方ないばい」

私はしめやかな雰囲気を壊さない程度の笑みを浮かべて答えた。

「父さん、ちゃんと孫も来てくれたばい」

父は祖父の遺体に向かって静かに言った後で、私に祖父の死に顔を見るように促した。覆い布を外すと、皺にまみれた穏やかな眠り顔が目に入った。私は目を閉じ、静かにそれに向かって合掌した。

「それにしてもあんたほんと疲れとーね、顔見たら分かるばい。もうあんたのお父さんがお寺さんにも葬儀場にも連絡して準備は済んどるけ、今日はもう遅いし風呂入って寝りい。布団はもうひいちゃるけ」

私の姿を見ていた叔父が優しくそう言った。

「叔父さんもお父さんもありがとう。悪いね」

 事実仕事と移動による疲労が頂点に達していた私は、彼の言葉に従いすぐに入浴を済ませ床に就くことにした。冷ややかな布団に体を滑り込ませると、ほどなくして睡魔が私の身体を完全に包み込んだ。


 その夜私は久々に夢を見た。夢の中で古びた駅の小さな待合室のベンチに座っていた私に、一人の青年が目を合わせることなく声をかけた。

「ここ、空いとりますか?」

「ええ、大丈夫ですよ」

青年は私のすぐ隣に腰掛けた。

「最近どうですか」

私と視線を合わせないまま、出し抜けに彼は私に尋ねた。

「どうですか、というと?」

「趣味のこととか、仕事のこととかですよ」

「上手く行ってる、とはさすがに言えない感じですね。仕事も忙しいばっかりですし、趣味って言ってもそんな状況じゃ何も出来ませんから」

私は苦笑いを浮かべて言った。

「会社に勤めとるとですか」

「そうですよ」

「勤め人の人も大変らしいっちよう聞きますね。こっちは自営業ですけそういうのはあんまよう分からんとですけど、いくら商売繁盛がいいっち言われてもたまには休みが欲しくなるのはよう分かります。私も休みはほとんど取れませんけ」

そう言うと青年は少し間を置いた後で、言葉を継いだ。

「でもこう言ったら自慢になるかもしれませんけど、今日明日ありがたいことに休みもらえてですね、これから野球見に行こうっち思いよるとですよ」

「野球ですか、いいですね」

「野球好きですか?」

少し明るくなった声で青年は尋ねた。

「やりはしませんけど、見るのは好きですよ。最近忙しくてあまり見れてませんけど」

「こう言ったらあれですけど、どのチームが好きか聞いてもよかですかね?」

「ええ。ホークスが好きですよ、やっぱり地元ですから」

「あら、じゃあ出身は大阪ですか。てっきり話し方から東京の人っち思いよりましたけど」

「いえ、とんでもない。福岡の生まれですよ」

私がそう言うと彼は声を上げて笑った。

「そっちも人が悪いですね。なら地元は我らが西鉄ライオンズやないですか。南海の線路が福岡まで来たら、その時は西鉄も国鉄も経営破綻しとりますよ」

青年の言葉に私は違和感を覚えた。

「杉浦もおるし野村もおるし南海もいいチームなのは分かりますばい、でも西鉄にも稲尾とか中西とかおるやないですか」

「南海に西鉄、杉浦に……稲尾ですか」

状況を上手く飲み込めない私に、青年は違う質問をした。

「そういえば、明日お時間空いとりませんか?」

「一応休みですけど、祖父の忌引なもので……」

不思議と夢の中でも、そのことだけははっきりと思い出された。

「休みの理由とかどうでもよかとですよ、それだけ好きな野球のことも分からんくなるくらい休めとらんとでしたら、忌引を一日ぐらい別のことに使っても爺ちゃんは怒らんっち思いますよ。ちょうど一枚だけ、明日の西鉄と南海の試合の券を余計に持っとるとですよ。家内といっしょに行くつもりやったとですけど、土壇場でやっぱ野球とか見に行きたくないばい、とか言うもんでですね。せっかくですしその券で一緒に来ませんね?平和台で待っとりますけ」

 そう言って青年は左手で私に「パリーグ公式戦・予約席 会場・平和台野球場」と書かれた桃色のチケットを渡した。その手の小指は、第一関節より先の部分が無かった。

 その日の夢はそこで終わった。


 目が覚めた時には、既に時刻は正午に近づいていた。私は体を起こすと慌てて服を着替え、居間へ向かった。

「おはよう、よう寝れたね?」

居間で母と一緒に昼食を摂っていた父は私の顔を認めるとそう穏やかに言った。

「ごめん寝すぎた、なんか手伝わないけんよね?」

「全部斎場の人が朝のうちにやってくれたけもう全部終わっとるばい。爺ちゃんも早めに斎場に行っとるけ。あんたは孫なんやけ、来てくれただけでいいとよ」

「そうね……なんか悪いね」

父の言葉に安堵と少しの罪悪感を覚えながら私はそう答えた。

「お通夜は夜からやけ、それまでゆっくりしとっていいばい。まあご飯でも食べりい」

母の言葉に促され食卓についた時、ふと先程まで見ていた夢の内容が思い出された。

「そういえば、爺ちゃんっち野球好きやったんかね?」

私は両親に尋ねた。

「そうやね……昔は好きやったみたいよ。それがどうかしたと?」

父はそう答えた。

「いや、特になんも無いんやけど、爺ちゃんっちなんが好きやったんかねっち思って。昔っち俺が生まれる前のことやろ?」

「そうばい。西鉄があった頃はようテレビで見よったし仕事中でもラジオで試合聞きよったね。覚えとうばい。懐かしいねえ、俺もまだ小っちゃかった頃ばい……」

そう言って父は少し遠い目をした。

「西鉄っちライオンズのこと?」

昨晩の夢が脳裏に色濃く現れた。

「そうそう。昔は博多の平和台に球場があって、そこで試合しよったんよね。その頃は父さんも野球好きで俺にも野球の話ばっかしよったけど」

「結構見に行きよったと?」

「遠いし仕事が忙しかったけ野球場には行きよらんかったね。でも俺が生まれる前ぐらいに一回だけ平和台に行ったことがあるらしいでね、俺にもようその話しよったばい。ほんと稲尾が凄かった、っちね。その話する時は父さん本当に楽しそうでね。今思えば、もっと聞いてあげとったら良かったかもね……」

父はそう噛みしめるように語った。

「そうやったんやね……爺ちゃんがそもそもテレビ見よったのとか記憶に無いけ全然知らんかった」

「ライオンズが移転してからは父さん野球見らんくなって完全に仕事人間になったけんね。ホークスが来ても前の南海とか応援する気になれん、っち言いよったし」


 競技経験こそ子供時代に公園で遊んでいたゴムボール野球程度しかないが、野球というスポーツを観戦することは幼少期から私は好きであったし、ブラウン管に映る贔屓チームの選手たちは憧れの存在であった。もし祖父が私と同じ野球好きだと生前から知っていれば、私が彼との間に感じていた溝や隔たりは小さいものになっていたのだろうか。昨晩あのような夢を見たということは、私は心の奥では祖父との間に開いてしまった距離を縮めたいと考えていたのだろうか。祖父の姿も含め舞台設定が過去であったことと、祖父のイメージと全く結びつかない野球の話題が夢に現れた理由は分からなかったが、夢とはしばしば非論理的なものである。どちらにせよ祖父が亡くなってしまった以上、祖父と親しくなるということはもはや不可能であった。

 日没後、近くの斎場で本通夜が営まれた。前夜の仮通夜と同様に、集まった親戚一同の目に涙が浮かぶようなことはなかった。棺の中で白い花に囲まれた祖父は昨晩と全く変わることのない穏やかな死に顔をしていた。

 粛々と通夜が行われた後、私は両親の勧めに従い線香番を二人に任せ、父の車を借りて荷物を置いた祖父の家へと戻って眠ることとした。前日と異なり誰もいない家は少しだけ不気味であったが、布団を敷きその中に潜り込むと累積した疲れがまだ残っていたためかすぐに私は夢の世界へと導かれた。


 夢の中、私はやや薄暗く人通りの多い通路らしき場所に立っていた。広くはない空間の中に売店が立ち並び、人々はそこで弁当や瓶入りの飲料を買い求めて光と歓声が漏れ出る通路の開口部へと向かって行った。

「ちゃんと来てくれたとですね」

声の方向に振り返ると、昨日駅の待合室で出会った青年の姿が見えた。

「いい天気になりましたね、雲一個も無い野球日和ですよ。もうすぐ試合始まりますけどなんか買うとですか?」

陽気な様子で青年は私に尋ねた。

「いや、別に大丈夫ですけど」

「じゃあ席行きましょうよ、もうすぐプレイボールがかかりますけ」

 そう言って早足で歩き出す彼を追って私は通路の開口部を出た。

少し淀んでいた眼前の景色は一気に開けた。暖かくさわやかな風が私の頬と首筋を撫で、まっさらな青空と照り映える天然芝の外野、黒に近い茶色の土で埋められた内野のコントラストが私の視界に飛び込んだ。遠く離れたグラウンドに立つ男たちの顔の細かい部分までは見ることが出来なかったが、既に後攻チームの選手たちは守備位置に就いており、選手ベンチの上では応援団が青と黄色の旗を振り応援の音頭を取り始めていた。

「見てください、やっぱり先発稲尾と杉浦ですばい」

嬉しそうに青年が指差したバックスクリーンのスコアボードには既に両軍の先発選手の名前がペンキ書きの文字で表示されていた。九番打者の欄に示された両者の名前以外にも、玉造、豊田、仰木、広瀬、穴吹、蔭山といった野球では見慣れない名字がスターティングメンバーに並んでいた。

 内野席で二人分の空間が空いた長椅子を見つけ私達が座るのとほぼ同時に、球審が高らかに「プレイ」と号令をかけた。その声に応じてマウンド上のピッチャーは両腕を頭の上に振りかぶり左足を軽く上げると、全身の力を込めてボールをキャッチャーに向かって投げた。打者のバットが空を切り投球を受けたミットから高らかに快音が鳴り響くと、観客席から拍手が起こった。

「やっぱり生で見たら稲尾凄いですね、球の伸びが全然違いますもん」

弾んだ声で青年はそう言ったあと、少し申し訳無さそうな声で言葉を継いだ。

「失礼しました。そっちはホークスのフアンでしたね」

「いえ、せっかくですから今日はライオンズのファンになりますよ」

「そう言ってくれると、こっちも安心して試合が見れますばい」

明るい声で青年は言った。

 その後西鉄の稲尾が簡単にスリーアウトを奪うと、南海の杉浦もそれに負けじと西鉄のバッター達を軽々と三人で切って取った。

「今日は投手戦になりそうですね」

青年がそう言った通り、両軍の打者陣はそれぞれの相手が誇るエースピッチャーの前に完全に沈黙した。まれに単打や四球で塁上に走者を置くことがあっても、稲尾も杉浦も後続する打者にヒットを許すことはなかった。

 野球場にはトランペットの音色も太鼓の重低音も鳴ることはなく、ただ群衆のざわめきと球音だけがそこに響いていた。そうしてどちらのチームも二塁にすらランナーを進めることが出来ないまま、スコアボードにはゼロの数字が並んでいった。


「どうですか、どっちか打ちましたか?」

私が試合に集中しているうちにいつの間にか席を外していた青年はそう言いながら隣へ座った。

「いいえ、全然です。どっちも点入れきれてないですよ」

私はそう答えて青年の方を向くと、黒色の生地の上にラテン文字のNとLが組み合わさった意匠が白色で描かれた新品の帽子を誇らしげに被り、両手にビールの小瓶を一本ずつ持った彼の姿が見えた。

「せっかくやけっち思ってビールと一緒に奮発して帽子も買ったとですよ。ビール飲めますか?」

「ええ、大好きですよ」

「なら良かったです。さ飲みましょ、こらこっちのおごりでいいですけ」

青年は小指のない左手で私に冷えた瓶を渡した。

 瓶を青年と軽く打ち合わせた後、私はビールを口中に流し込んだ。そして私がグラウンドに再び視線を戻すと、彼はおもむろに口を開いた。

「そっちは本当はホークスが好きなんですよね」

「そうですけど、さっき言ったみたいに今日はライオンズを応援しますよ」

私がそう答えると、少しの間を置いて青年は言った。

「でも、それが出来るっちことは、そっちは西鉄とか南海とかいうチームに関係なく、ちゃんと野球を好いとうっちことですよね。それは素晴らしいことっち思います」

「そう、なんですかね」

私は少し笑って応じた。

「こっちは……野球よりこのチームが好きなんやろうっち思います。福岡にある西鉄のライオンズしか応援できませんもん。他のチームとか考えられんとです」

「そういう一途なのも、素晴らしいことじゃないですか」

「そうやないとですよ。もしこのチームが無うなったり、どっか行くことがあったら、どうしようもなくなりますけ。私は仕事やなかったらこの西鉄ぐらいしか楽しみがないけですね。野球自体が好きやったら、もしこのチームが無うなっても、他のチーム見て楽しめるやないですか」

そう彼は声のトーンを落として言った。

「まあでも、そんなのは今考えなくてもいいじゃないですか。それに、もしそんなことになっても、きっと他の楽しみはありますよ」

「他の楽しみ、ですね。私はそんなもの生憎持てんかったとですけど、そっちはなんか野球以外にも趣味があるとですか?」

「まあ、無くはないですけど、やっぱり仕事が忙しくてあまりそういったことはできてないですね」

「でも他にも趣味はあるとですね。でしたら、それを大事にした方がいいですばい。もしかしたら仕事なんかより大切なことかもしれませんけ」

青年は少し沈黙を置いて、言葉を継いだ。

「なんか自分の楽しい、人に話せることがないと、人との話が出来んくなるとですよ。なんも他人だけやないで、家族でもですよ。そうして話がしにくくなってくうちに、どんどん心の距離っち言うんですかね、それが離れていくとですよ。で、気がついたら一人になっとるとですよ。それは結婚しとっても子供がおっても変わらんとです。やけ忙しいでも、楽しみは、趣味は忘れんでください。やないと、こんな風に利き手の指まで機械に取られても、ただ仕事に逃げるだけの人生になりますけ」

青年は左手の小指を立てながら、諭すように私にそう言った。不思議な説得力を持った青年の口調に、私はただ「はい」と言って頷くことしか出来なかった。


 すでに試合は八回の裏、攻撃側の西鉄が二死を奪われたところまで進んでいた。延長突入が見え始めて来たその時、八番打者が四球を選んだ。

「ああ、すいません、変な話して。そっちの言うとおり、今はそんな事考えずに野球見ましょう。久々に塁に出ましたね」

 青年は選手が出塁したのを見ると、試合前のように弾んだ声の調子と笑顔を戻してグラウンドを指差した。

「そうですね、次はピッチャーですけど、代打は出すんですかね」

「どうしますかね、点は取られとらんですけど……いや、そのまま行くみたいですね」

 コーチも監督も、ベンチやコーチャーズボックスから動く素振りは見せず、ネクストバッターズサークルで素振りをしていた稲尾はそのままゆっくりと打席へと歩いていった。

「九回は一番から打順が始まりますから、十分サヨナラも狙えますね」

私がそう言うと、青年は笑って言った。

「そんなんせんでも、今ここで稲尾が打ったら裏まで行かんで済みますよ」

「確かにそうですね。上手く繋げば上位打線ですもんね」

私も少し笑いながらそう答えた。

 ライオンズのエースピッチャーは右打席に立ち、身体に少し引き付けるようにしてバットを持った。そしてマウンドに立つホークスのエースピッチャー杉浦をじっと見据え、投球を待ち構えた。眼鏡をかけた南海の投手が少し身体を沈み込ませ、腰の真横を通して腕を振り投げ放った白球が近づいてくるのを見計らって、稲尾は全力でバットを振った。

 その試合一番の快音が彼の持つバットから響いた。打ち返された打球は勢いよく内野手達の上空を通り、落下点を追いかけようとする外野手達の視線を浴びながら、ファンで埋まった土盛の外野席へと飛び込んだ。線審は高らかに頭上で右腕を振り回し、本塁打が成立したことを証明した。

 私は興奮のあまり雄叫びを上げ両手を打ち鳴らしながら立ち上がった。隣の青年も含む球場にいた観客全てが老若男女を問わず私と寸分違わぬ反応を示し、エースピッチャーの打席での最高の仕事に最大限の賞賛を与えた。

「本当にやってくれましたばい!一気に二点も入りましたよ!やっぱ稲尾はよか選手ですよ!」

興奮した様子で青年は私に喋りかけた。

「ええ、これであと三人抑えたら今日は勝ちですね!」

私も感動の絶頂の中、そう答えた。


 杉浦は稲尾に与えた失投を引きずることはなく後続の打者をきっちりと打ち取り、追加点を許すことはなかった。

そして最終回のマウンドに、観衆の拍手と歓声に包まれた稲尾が向かった。

「今日の稲尾なら、きっちり完封で終わらしてくれますよ」

青年は安心した様子でそう言った。

稲尾は初回から全く変わらない、爪先立ちから上半身だけを使って投げるようなフォームで、球威のある投球を繰り出した。南海の先頭打者はなんとかバットに球を当てはしたが、勢いのない打球は三塁手の正面へと転がっていった。

まず第一アウトを奪ったと球場の全ての人間が思ったであろう瞬間、あろうことか西鉄の三塁手は打球を掴み損ねた。ライオンズは先頭打者の出塁を許した。観客席から落胆の声が響いた。

「完封がかかっとるっち思って力んどるとですかね」

青年は怪訝そうな口調で言った。

 ダイヤモンドの中心に立つ稲尾は味方のエラーに動揺する素振りは見せず、次の打者に注意を向けていた。稲尾は体勢を整えると、先ほどと全く同じフォームで勢いよくボールを投げかけた。続く打者も初球を同様に引っ掛け、打球は遊撃手の正面へと力なく転がっていった。一塁走者は二塁までの距離の中間点にも未だ達してはいなかった。これで一気に併殺、先ほどのエラーも帳消しになるはずであった。

 だがまたしても内野にエラーが生まれた。白球は遊撃手の股を抜け、外野へとゆっくりと転がっていった。

 ライオンズは二死、塁上走者無しの理想的な最終回の守備となるはずが一転して、無死一二塁、本塁打が出てしまえば逆転の窮地に陥った。球場に不安などよめきが起こった。「なんしよーとかきさん!」と内野手を罵倒する野次すら観客席の何処からか聞こえた。

「ちょっと、雲行きが怪しくなりましたね」

私は青年に言った。

「いや、稲尾ならちゃんと抑えてくれますよ。さっきもそうやったやないですか」

青年はマウンドに立つ男から視線を外さずにそう言った。

味方の連続のエラーはさすがのエースの心にも動揺を引き起こしたのか、稲尾は一旦投手板から足を離し、自分自身をなだめるかのように、帽子を外して額に浮かんだ汗をユニフォームの袖で拭った。そして彼は帽子を被り直すと足元のロジンバッグを拾い右手の上で二、三度跳ねさせ、その後元の場所に静かに置いた。最後に今一度息を整えた後、ライオンズの投手は既にバントの構えに入ろうとしているホークスの打者に目をやった。

 稲尾は投手板に足をかけ、心なしか通常より力を込めたように見えたフォームで投球を放った。彼の右腕から投げられたボールは水平に構えられた打者のバットに当たり、狙い通りマウンドの目の前に転がった。稲尾は球をしっかりと掴むとすぐにまだ走者が達していない三塁に向かって送球した。三塁手も同じ過ちは二度は繰り返さず、今回はしっかりと捕球を完了し、封殺を成立させた。このイニング初めて客席から拍手が起こった。ようやくこの回初めてのアウトカウントが一つ刻まれた。

「あと二つですね」

私はグラウンドから目を外さずに青年にそう言った。

「そうですね。……ただ、次のバッターが野村っちいうのが怖いですね」

彼はバックスクリーンに表示された選手名の一覧を見てそう答えた。

「野村って選手は打つんですか?」

「今日は打っとりませんけど、普段は結構ホームラン打つとですよあの選手は」

その野村はネクストバッターズサークルで一度バットを大きく振ると、稲尾をじっと見つめながら右打席に向かってゆっくりと歩いて行った。そしてバッターボックスの前で一度立ち止まると、彼はもう二回大きく素振りをした。グリップの握り心地を確認すると、野村は再び視線をマウンド上のエースピッチャーに向け、白線で囲まれた打席に入り静かにバットを構えた。

 一球目、稲尾が全力で投じた球に野村は反応を見せなかった。キャッチャーミットは高らかに音を立て、審判は「ストライク」と明朗な声でコールした。

 二球目、野村は投球に対してフルスイングの反応を示した。しかしバットは球の中心には当たらず、ボールは勢いよくバックネット方面へ飛んでいった。あっという間に、稲尾は南海のスラッガーを二ストライクに追い込んだ。

「よし、このまま頼むよ……」

私は思わず、小さくそう独り言をつぶやいた。

 稲尾は左足を軽く上げ、頭の上に振りかぶった右腕から三球目を野村に投じた。だがその投球はそれまでに投じた二球よりも、心なしか球威が失われていたように思えた。

 野村は三度目の正直と言わんばかりにタイミングを完璧に合わせ、勢いよくバットを振るった。野村のバットから乾いた音が響いた。鋭い打球が一塁手と投手の間でバウンドし、そのまま外野の方向へ向かった。私は思わず息を呑んだ。

 だがボールが黒土の内野を抜けヒットとなろうとしたその瞬間、飛びついてまで球を追った二塁手のグラブが白球に追いついた。彼はすぐさま上体を起こすと、捕まえたボールを未だ一塁走者の到達していない二塁に向かって素早く送球した。二塁に走り寄った遊撃手が投球を掴み塁を軽く踏むと、バッターランナーがまだ踏んでいない一塁に向かって息つく間もなく鋭いボールを投じた。塁にしっかりと足をつけた一塁手のミットに快音とともに白球が収まり、塁審が握り拳を振り下げ併殺が成立したことが証明された瞬間、西鉄ライオンズとその投手、稲尾の完封勝利が達成された。

 ホームランが放たれた時と同様に、私を含む全観衆はホームチームの勝利に歓声を上げ拍手を響かせながら立ち上がった。


「いやあ、最後はどうなるかっち思ったけど勝って良かったねえ!」

私は興奮したまま隣の青年に話しかけた後、自分の馴れ馴れしい口調に気づき、言葉を継いだ。

「いや、すいません。つい興奮して」

「いいとよ。そうやって話してくれたほうがこっちも嬉しいけ」

青年は穏やかな口調でそう答えた。

「ありがとう。やったらこの後、せっかくやけ近くでちょっと飲まん?今度はこっちがおごるけ。西鉄の選手について話聞きたいんよ。今日まで全然このチーム知らんかったけね」

彼の言葉に従い私も地元の言葉でそう言うと、少し寂しげに青年は言った。

「ごめん、この後はもう時間が無いでね。もう空の色が変わりよるやん?休みがもうすぐ終わるとよ」

青年は青から橙色のグラデーションを描き始めた頭上の空を指差した。

「朝が来るけ、もう俺は行かないけんとよ。でも、今日は一緒に試合に付き合ってくれてありがとう。一緒に見る人がおって、俺は本当に楽しかった」

朝が来る、という言葉に不思議とその時疑念は抱かなかった。

「いや、俺も楽しかったばい。誘ってくれてありがとう」

少し黙った後で、青年は頭に被った西鉄の野球帽を指差して私にこう頼んだ。

「最後に頼みたいことがあるんやけど、この帽子を後で届けてくれんかね?たんすの一番下の、一番左奥に入っとるはずやけ」

その時私の頭の中に、祖父の家の寝室に置かれたたんすの場所が思い描かれた。

「わかった。ちゃんと、そうするけ」

「ありがとう、本当に、ありがとう」

彼は小指のない左手を私に差し出した。私はその手をしっかりと握り返し、そっと上下に振った。

心地の良い夢は、その場面で終わった。


 不思議な充実感に満ちた夢から目覚めた私は、布団から起き上がるとすぐに目の前にあるたんすの前へ向かい、一番下の引き出しを開けた。すると季節外れの夏物の服の奥に、ビニール袋に包まれた物体を私は見つけた。静かにそれを掴み、ゆっくりと半透明の包みを開けると、中からはラテン文字のNとLを象った白のマークが縫い付けられた、紛うことのない西鉄ライオンズの黒い帽子が表れた。

 私はとんでもない偶然もあるものだ、と思った。だがあまりの偶然に、あの夢は私の想像だけではないような、そんな気さえもした。私は着替えと身支度を済ませると、その西鉄の帽子を車の助手席に置き、葬儀場へと向かった。


 葬儀が始まる前に、私は父にライオンズの帽子を見せて言った。

「これ、今日の朝爺ちゃんちで見つけたんやけど、火葬場行く前に棺の中に入れてもらえることっちできるかね?」

父は目を少しだけ大きく見開いた。

「懐かしいもん見つけてきたね……。そうやね、ちょっと待って、聞いてくるけ」

父は私から帽子を受け取ると斎場の職員の元へ向かい、小声で二、三言会話を交わして戻ってきた。

「帽子やったら大丈夫っち。出棺前の最後のお別れの時に入れてくれたらそれでいいっち言いよった。やけそれまで、ちょっと持っとってっち」

私は父の言葉通り、野球帽を手に一連の告別式の儀式が終わるのを待った。僧侶が退出し、司会の葬儀場のスタッフが故人との最後の別れが来たことを告げると、私は帽子を持って棺の元へと向かった。

 昨日と変わらず白菊に囲まれて永遠に眠る祖父の顔のすぐ横に、私は古ぼけた野球帽を両手で静かに横たえた後、昨日の夢を今一度思い出し、棺の中の祖父に語りかけた。

「爺ちゃん、あの試合、本当にいい試合やったね」

そう言った時、祖父の死に顔が夢で似た青年の笑顔に一瞬だけ変わったように私には見えた。私の視界は少し滲み、頬を伝って涙が一滴流れた。


 私にとっての祖父との最高の思い出となったものは、皮肉にも彼の死後のものであった。そもそもの話として、私の見た夢の中の出来事を祖父の思い出として見ていいものだろうかという思いはもちろん私も持っている。夢ほど一般性のない個人的なものはなく、論理や自然の法則から外れたものはない。夢枕という言葉も、科学と相容れることなどあり得ない。だがそうだとしても、私一人が心の中でそう考える分には自由であるはずだ。それに、若き日の祖父と、初夏の今は無き平和台球場で手に汗握る西鉄ライオンズの試合を見たという私の想像も、恐らく今の時代の誰の気分を害するものでもないだろう。

 火葬場で祖父の遺体が荼毘に付される間、待合室でそのようなことを考えていた私に、それまで親戚の女性たちと会話をしていた母が声をかけた。

「ねえあんた、今度町内会のバザーになんか出さないけんのやけど、あんたが就職ん時に持ってかんで部屋に置きっぱなしにしとるギターっちもういらんと?あれお義父さんの遺品と一緒に出そっかっち思いようんやけど」

もう弾きよらんしいいばい、と言いかけたところで、私は夢で祖父が言ったことを思い出した。

「いや、この休みが終わったら向こうに持ってくけ、悪いけど売らんでくれん?」

「あら、もうギター飽きたんかっち思いよったけど、そもそも仕事も忙しかろうに」

母の言葉に、私は答えた。

「たとえ忙しいでも、自分の趣味は無くしたらいかんけんね」

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