第2話 極楽寺駅 『紫陽花の朝に』

 小さなホームを離れた江ノ電の車両が、ゆるいカーブの向こうに消えていく。

 月曜日、午前8時すこし前。私立の学校も多いこの界隈なので、いま降りた電車の中は制服姿の中高生でいっぱいで──Tシャツに洗いざらしのジーンズなどという格好で乗っていた自分が、なんだか少しうしろめたかった。

 ──ま、申し訳ながる必要なんてないんだけどさ。

 肩をすくめて、瀬谷 涼子せや りょうこは苦笑まじりの息をつく。

 おととい土曜日にあった中学校の体育祭の、今日は代休日なのだ。堂々と出歩く権利はある。

 そう。

 おとといの、あの、体育祭の。

「――――」

 無意識のうちに下唇を噛んでしまっている自分に、涼子は気づいた。

 胸の中に生じた小さな憂鬱のしこり。

 昨日一日ひたすらごろごろして身体の疲れはもうとれたけれど、気持ちが上向きになるにはもうすこしかかりそうだ。

 ふとすると、頭の中によみがえってきてしまう。あの時の、あの一瞬の光景が――

「――ぁあっ!」

 声に出して叫ぶと、涼子はぱん! とスニーカーの靴裏を鳴らした。

 ――なにいつまでもくよくよしてるんだ、私らしくもない。

 多少むりやりに胸のもやもやを振り払って、大股に歩きだす。ポケットから取り出した携帯電話、時刻は7時50分。昨日もらったメールに書いてあった待ち合わせ時刻、まさにぴったりだ。

 明け方まで降っていた雨のせいだろうか、それとも、ホームのすぐ下でせせらぎの音をたてる水路のためだろうか。吸いこんだ息には、水と、かすかな草の匂いがする。

 いつも江ノ電は藤沢駅から鎌倉駅まで始発‐終点を乗ってしまう涼子なので、途中駅、この極楽寺ごくらくじに降りるのは久しぶりだ。

 ほんと、静かな駅だなあ……と。無人の改札を定期入りのカードで通り抜け、目の前の通りを見渡す。

 お店と呼べるものはひとつもない、閑静かんせいすぎるくらいの細い路地。目の前の石壁の上には淡い紫の花を咲かせた紫陽花あじさいが、雨上がりの陽射しにひっそりと露をきらめかせている。

 いまいちど息を吸い込んで、涼子は歩き出し――

「涼子さん」

 後ろから聞こえた声に、きょとんとして足を止める。

 振り返った先。こじんまりとした駅舎と、その駅舎に似合う旧型の丸ポスト。

 そのポストのかたわらに、彼女はひとり佇んでいた。どうやら、ぼんやりして横を通り抜けてしまったらしい。

 背中までの、しっとりと長い黒髪。楚々そそとした、という言葉がぴったりの、穏やかな面立ち。

「お、おはよ――あれ?」

「おはよ。どうしたの? 涼子さん」

 かすかに首をかしげて――黒い細フレームの眼鏡の奥で、藤野 由梨香ふじの ゆりかは澄んだ目を細めた。

「いや、さ……由梨香、なんで制服なんて着てんの?」

 指で頬をかきつつ、涼子はきょとんとした声をあげる。華奢な身体に由梨香がまとっているのは、学校指定のセーラー服だったからだ。

「あ……うん、ちょっとあとで、学校に行こうかなあって思って」

 すこし照れたように、由梨香は口元に笑みを浮かべる。

「図書室の本の整理って、ひとがいないときがチャンスだから」

「そっかー……大変だね、図書委員も」

 言って涼子は、指で頬をかく。

 本好きで温厚で片付けもの好きな――由梨香に図書委員というのは、ほんとに天職な気がする。

 飾り気のない、けれどもそのまんまで透き通るくらいに綺麗な。古風なセーラー服と眼鏡のよく似合う、色白な顔。

 女学生。

 いまやあまり使われないそんな呼び名がぴったりの、由梨香は少女なのだ。

 駅前の細い通りを、二人は並んで歩きだす。緩い上り坂の向こうに、江ノ電の線路の上をまたぐ朱塗りの小橋が見えた。

 閑静な鎌倉の地の中にあっても、丘陵の谷あいにある極楽寺駅の周辺はしっとりと静やかな空気に満ちている。

 雨上がりの朝靄に、射し込む陽射し。

 隠れ里に踏み込んだような、そんな感じ。

 その極楽寺の通りに、藤野 由梨香のほっそりとしたセーラー服姿はとてもよく似合うと、涼子は思う。

「ごめんね、急に誘ったりしちゃって」

 すこし照れたような、申し訳なさげなはにかみとともに、由梨香は口を開いた。

「もしかしたらまだ疲れてるかなあっていうふうにも、ちょっと思ったんだけど。

 あ…………膝と肘、だいじょうぶ?」

 由梨香はこちらの右腕を見る。肘にはられた、絆創膏のあたりを。

 すこしばかり硬めの声。一瞬の沈黙を挟んだためらいがちなきりだしかたに、涼子は由梨香の気遣いを思う。

「ああ、うん、もうぜんぜん大丈夫」

 ぽんぽんと絆創膏ばんそうこうの上を叩いて、涼子は言ってみせた。

「打ったわけじゃなくって、すりむいただけだったからね。サンキュ」

 とはいうものの──鈍くひじに走った痛みと呼応するように、胸の奥のしこりがかすかに疼いてしまう。

 ひじと膝は、一昨日の体育祭の名誉の負傷……ならぬ、不名誉の負傷だった。

 プログラム最後の、選抜リレー。僅差きんさの二位で、アンカーの自分に渡されたバトン。

 たやすく抜ける、と思った。抜かなくてはならなかった。陸上部、短距離エースの名に懸けても。

 ミスを生んだのは、油断だったのか、それとも気負いだったのか。

 最初のコーナーで強引に相手の前に出ようとしたところで足がもつれ、これ以上ないくらい派手に涼子はすっ転んでしまったのだ。

 ほかのランナーを巻き込まなかったのだけがせめてもの幸いだったのかもしれないが――転倒のタイムロスは残りの四分の三周で取り返せようはずもなく、結果は最下位の四位。

 言い訳なんてしようのない失態だった。

 昨日一日、何度頭の中に再生されたかわからない。くるりと回転した視界。観客席からあがる悲鳴。消えてなくなってしまいたいような気持で迎えた閉会式――

「……涼子さん」

 ためらいがちに発された由梨香の声が、涼子の意識を回想から引き戻した。

 眼鏡の奥の瞳は憂いに曇り、まなざしはわずかに伏せられて。

 自分が友人に不機嫌極まりない顔を向けてしまっていたことに、涼子は気付く。

「ごめんね」

「――え? あ? な、なに謝ってんのさ由梨香!」

 頭の後ろに手を組んで、涼子はつとめて能天気な声をあげてみせた。

 嫌なことを思い出させてしまった、とでも思っているに違いなく。

「ところで、今日はまたどしたの? 急にメールくれたりして。由梨香のほうからなんて珍しいなあって思ってさ」

 あわてて話題をかえがてら、涼子はたずねてみる。

 昨日の夕方のことだった。一日雨模様だったこともあり、前日の一件で気分がふさぎ込んでいたこともありで家にいた涼子のところに、由梨香からのメールが届いたのは。

 ──明日の朝、もしこの雨があがっていたら、一緒に紫陽花を見に行きませんか。

 手紙を書くとなぜだかいつもですます調になってしまうのだという、いつもながらの由梨香のメール。本文には簡潔に、そんな朝散歩の誘いがしたためられていた。

 ──もしも空模様の判断がつかなったり、急に気が進まなくなったりしたら、連絡なしで来るのをやめにしても大丈夫です。もしも行けるようなら、7時45分に極楽寺の駅前でお待ちしていますね。

 末尾はやっぱり由梨香らしい、周到で遠慮がちな気遣いの言葉。涼子はすぐに返事のメールを出し、今朝に至るというわけだった。

「……今の時期にこの駅に降りたことって、涼子さんはある?」

 眼鏡のレンズ越しに、由梨香が穏やかなまなざしをこちらに向ける。

「いや……うーん、たぶんない、かな」

 学校に行くときは、藤沢で小田急線から乗り換えて終点の鎌倉まで江ノ電に乗ってしまう涼子だ。江ノ島や鎌倉高校前駅で降りて海に行くことはあっても、それ以外の駅に降りたことはほとんどない。

 入学以来の友人である由梨香とも、遊ぶのはだいたい学校の近くで――彼女の住まいがあるこの極楽寺に降りたことは、片手で数えられる回数だった。

 朱塗りの小橋の袂を、橋とは反対のほうに曲がる。両側に斜面のある谷あいの道が、視界の先に伸びた。

「鎌倉って、紫陽花がたくさん咲いているところがいくつかあるんだよね。

 大仏様のちかくの長谷寺はせでらでしょう、北鎌倉の明月院めいげついんでしょう――」

 ひとつふたつと指を折りながら、由梨香は言葉を続ける。彼女は、おばあさんより前の代からの生粋きっすいの鎌倉っ子なのだ。

「極楽寺も、さっきの駅の反対側にも『あじさい寺』って呼ばれてるお寺があるの。そっちもきれいなのだけど、今日涼子さんに見せたいなあって思うのは、ここを行った先」

「この……なんだろ、谷の向こう?」

 両側からせり出した樹々で、大きな緑のトンネルのように見える切通し。ゆるい坂道の先を、涼子は見やる。

「ううん――ほら、そっち」

 ゆっくり首を振って、由梨香が指差した先――右手の苔むした石壁に、緩い石段への入口がひらけていた。

 今歩いているこの通りと並行しながら、切通しの斜面を登っていく路。

 うわっ……と微かな声を洩らし、涼子は目を丸くした。

 入口のあたりには、薄紫の紫陽花が雨上がりの陽射しに露をきらめかせていて。その先も、登る石段の柵を覆うように、淡い色とりどりの花が並んでいる。

 車が来ないのを見ながら、通りを渡る由梨香。その後を歩きながら、

「たしかに、これは綺麗だなあ……」

 涼子は率直に感想を口にした。いや、こんな何のひねりもない言葉しか出てこないのがちょっと恥ずかしいのだけれど。

 でしょう? ――と、控えめに、けれども嬉しそうに由梨香がはにかむ。

「すこし登るけれど、だいじょうぶ?」

「ああ、うん」

 見あげた先に、石段は思いのほか長く続いていて、その向こうには木造の門。閉じた扉の前には幾人かの人の姿が見てとれた。

「もうあと5分で門が開くから」

 腕時計を見ながら、由梨香。

「今日はちょっと、チャンスなんだよ?」

「チャンス?」

「うん。

 紫陽花が咲く時期は、朝になると平日でもっと人が並んでるの。でも、今日は昨日から明け方までずうっと雨が降っていたから……遠くからいらっしゃるひとは、別の日にしようって思ったんじゃないかな。

 昨日降り始めたときに、あ、チャンスだなあ、って」

 すこしだけいたずらっぽく、由梨香は眼鏡の奥のまなざしを細めた。

 なるほど――それで昨日、どしゃ降りの雨の中でメールが来たというわけなのか。

 話しているうちに、さっきまで通っていた道はいつのまにか柵と紫陽花の向こう、ずいぶんと下に見おろすところにある。反対側には同じような急斜面を石段が登っていて、この道が丘を拓いた切通しなのだということをうかがわせる。

 きぃ、と音をたてて、石段上の門が開かれたのはそのときだった。

 その先には頂上まで、まだ少し続く紫陽花の石段。息を吸い込むと、雨あがり特有の澄んだ水の匂いが鼻から胸へとすべり込んでくる。

 先客のひとたちの後に続いて石段を登り――いちばん上にあったお寺の山門前にさしかかったとき。

「あ! ちょっとまって涼子さん」

 前を歩く由梨香が、らしからぬ勢いのある声をあげた。

 足をとめて振り返ると、彼女は両腕をひろげる。行く手をはばむ、通せんぼのポーズ。

「目、つぶって」

「え? ん、ああ……」

 あまりにも唐突な由梨香の言葉に、戸惑いつつも涼子は従う。

 視界が閉ざされたので、周りのひとたちのざわめきと足音や、苔と水の匂いがよりいっそうはっきりと感じられて――そして。

 ――え!?

 涼子はもうちょっとで、瞼を開いてしまいそうになった。

 自分の、手を。指を、由梨香の手が、指が、柔らかにきゅっと握りしめたからだ。

 目をつぶっているのでそのぶん鋭敏になっている指先の肌に、いきなり走った感触。ひんやりとしていて、それでいて温かな由梨香の手。

 わけもわからないままに、とくん、と心臓がひとつリズムを乱した。

「歩くよ」

「う──うん……」

 なんだか神妙な声で答えると、由梨香に手をひかれ、瞳を閉じたまま涼子は歩き出す。

 ゆっくりと、一歩。もう一歩。

 不安感はなかったけれど、なんだか夢の中をさまよっているような不思議な感覚に、由梨香の手をぎゅっと握りかえす。

 数十秒、数十歩進んだところで──

「いいよ。涼子さん、目──あけて?」

 正面から響いた声に、瞼を開いて。

 視界いっぱいに広がったのは、


 柔らかな光と、一面の色彩。


「――――」

 声をあげることも忘れて、涼子は立ちつくした。

 目を閉じたまま歩いたのは、ほんの数十歩にすぎないはずなのに。目の前に広がる風景はまるで、別の世界のもののようで。

 緩いカーブを描いて、下っていく石段。その両脇には見渡す限りの紫陽花がみずみずしい葉を茂らせ──緑色のそのカンヴァスの上に、薄青の、藤色の、桃色の色彩をちりばめている。

 丘のふもとには、雨上がりの柔らかな靄に包まれた町並み。その向こうに遠く、朝の陽に照らされた海が見えた。

 楽園、というのはこんな風景の場所なのではないかと思うような、鮮やかで優しい一枚絵。

「ずうっと前から、涼子さんに見せたかったんだよね」

 その楽園の案内人は、眼鏡の奥の瞳を嬉しそうに細めた。

「とっておきの場所なんだ、ここ」

「──ああ──ほんと、サンキュっていうか──すごい、これ──」

 相変わらず呆けたような声と言葉しかでてこないが、これは私のせいじゃないと涼子は思う。

 ぼんやりとしたまま自然にほころんだ顔を、目の前の級友に向ける。

 楚々とした顔に笑みを浮かべ──けれども由梨香はきゅうにちいさな唇をつぐんで、まなざしを伏せた。

 数秒の沈黙。色白な頬が微かに染まっているのを、涼子は見る。

「──涼子さん」

 すうっ、と息を吸い込む音とともに、由梨香が顔をあげた。

「そのっ────どんまいっ、だよっ」

「──え?」

 きょとんと目を見開いた涼子の顔を、石段の一段下から見上げて──藤野 由梨香はちいさな手をげんこつの形ににぎりしめる。

「昨日電話したら、新城さんも中川さんも、涼子さんのことすごく心配してて──けがのこともそうだけど、落ちこんじゃって、これから大会予選なのにスランプとかになっちゃったらもったいないよねって」

「え――え?」

 口にした名前は、クラスメイトのものだった。昨日のリレーの、涼子の前を走っていた赤のアンカーと。それから、涼子にバトンを渡した白のランナー。

「だから、あのっ──」

 いつものおっとり落ち着いた物腰とはすこし違う、ぶきっちょにうわずった声で由梨香は言った。

「あしたになったら、さっぱりして学校行こうねっ」

「────」

 涼子は、由梨香の顔を見る。

 白い頬をさっきよりもっと火照らせ、いっぱいいっぱいにはりつめた表情でこちらを見つめる、入学以来の友人。

 ――電話したら、って――

 昨日? そんな、なんのために――って、いや、なんのためにじゃなく。

 ゆっくりと。

 理解の波が、涼子の中にしみこんでくる。

 いまのこの、瞬間のために。いまのこの、言葉のために。

 由梨香は昨日から、私にメールをくれたあの雨の時間から、ずうっと懸命に支度をしてくれていたのだ。

「は――」

 自然にほどけた唇から、ふんわりと声がすべりでた。

「ははっ――はははははっ――」

「りょ、涼子さん?」

「ははっ――ど、どんまいって由梨香――由梨香がどんまいとかって言うと、なんか似合わなくっておかしー……!」

 てのひらで目元をおさえて、涼子は笑う。

「涼子さんっ――もう――!」

 真っ赤な頬をふくらませて、由梨香ははにかんでいるとも唇をとがらせているともつかない表情で細い肩をいからせた。

 いやいや。

 ちがう。ちがうんだってば由梨香。

 からかっているとか、そういうのじゃなくってさ。

 笑い声をあげていないと──なんか、いまにも涙ぐんでしまいそうで。

 唇をつぐみ、ひとたび声をとめて、涼子はすうっと大きく息を吸い込んだ。

 伸ばした手を、手のひらを、由梨香の髪のうえに置く。

 うわ、とかすかな声をあげた彼女に、あらためての笑みを向けて。

「──ありがと」

 そうっと、静かに。せいいっぱいの想いをこめて、涼子は言葉を紡いだ。

 眼鏡のレンズの向こうで、由梨香の瞳がくるくると動く。こちらを見て、頭の上に置かれた手を見て、うつむいて、そしてもう一度こちらを見て。頬を染めたまま、やんわりと細められて。

「うんっ」

 深く、大きく、彼女はうなずいた。

 そのはにかみに、涼子は笑みを返す。

「大丈夫だよ。もう――大丈夫。

 あんなことくらいで引きずってダメになる涼子さんじゃないんだってば。大会予選、ばしっと勝ち抜いてやるからさ」

 くよくようじうじ落ち込んでなんかいたら、ばちが当たるっていうものだ。

 こんな――自分には過ぎた友人を、神様が隣に置いてくれたっていうのに。

 ん、――と嬉しげにうなずいて、由梨香が微笑む。

 遠い海と、咲きほこる紫陽花を背に佇む華奢なセーラー服姿。頬を染めた細面な顔と、柔らかな笑み。

 紫陽花だけではなくって。

 その中に藤野 由梨香が居るこの風景こそ、自分にはとっておきの一枚絵だと、涼子は思う。

 海の方角から、静かな風が吹いた。

 雨上がりの陽射しの匂いと、緑の匂い。由梨香の長い黒髪が、ふんわりとちいさく靡く。

「あー……そんで、由梨香、さ」

 ひっこめた手で頬をかき、すこしばかりあさっての方向を見やって涼子は口を開いた。

「なあに?」

「あれだ。図書委員の仕事で学校行くのって――今日、ぜったい行かないとダメなのかな」

「え――?」

 由梨香は、ぽかんとした表情で声をあげた。

「ううん。ちょっと行こうかなって思ってただけだから、ぜんぜん今日じゃなくってもだいじょうぶだけど……どうして?」

「――いや、ほら。さっき、他にも鎌倉、紫陽花の名所があるとかって言ってたじゃん由梨香」

 すこしばかり早口になってしまう自分を意識しつつ、涼子は横を向いたままちらりと由梨香の顔を見る。

「せっかくだから、見てみたくなっちゃってさ――案内してくれると嬉しいなあ、なんて」

 学校では毎日のように顔をあわせるし、部活がない日は鎌倉駅近くでぶらぶらしたりする由梨香とだけれど。家がすこし遠いこともあって、そういえば休みの日に一緒に出歩くことはあまりない。

 せっかくの朝一の待ち合わせ、しかも貴重な平日休みだ。

 たまにはゆっくり一日、話しながら連れ立って歩きたい。そんな気分で。

 眼鏡のレンズの向こうで、由梨香のまなざしが二度三度、ぱちくりと瞬きを繰り返す。「え?」の形のままだった桜色の唇に、笑みの色が広がった。

「う――うんっ!」

 両手を胸の前でげんこつに握りしめて、由梨香は大きくうなずいた。

「でも、涼子さんのほうこそいいの? 今日の都合とか――あ、あと、歩いちゃったりして、足とか」

「大丈夫大丈夫。さっきも言ったけど、すりむいただけだからさ。ゆっくり歩いたほうがかえっていいくらい」

 とんとん、と、スニーカーの靴先で地面を叩いてみせる。

「ああ――そういえば、つきあわせちゃうんだからお昼くらいおごるよ? 北鎌倉だっけ、行ったことないからお店とか知らないけど」

「いいの?」

 そこで由梨香の唇には、すこしばかりいたずらっぽい笑みが刻まれる。

「北鎌倉のあたり、お店に入ってちゃんと食べるとちょこっとだけお値段高めだよ?」

「へ――」

 目を見開いた涼子を見て、由梨香がくすりとはにかんだ。

「おにぎり買っていこうよ」

 伸ばした手で、遠くに見える浜辺を指しながら。

「大仏さまのあたりって、ここからあの海まで歩くとけっこう近いの。どこか途中で買い物して――お昼になったら、北鎌倉でのんびり座れる場所見つけて一緒に食べよ?」

「あ――ああ!」

 笑みを返して、涼子はうなずく。

 色とりどりに咲き誇る紫陽花に包まれた、緩やかな下りの石段。

 雨あがりの澄んだ陽射しの中を、ふたりは歩き出す。

 梅雨はまだ半ば、雨の季節が明けるにはまだもう少しの間があって――けれども。

 柔らかに頬を撫でる風は、いつもとはすこしだけ違う夏の始まりの予感を、確かに伝えていた。

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えのでんこまち つむぎゆう @tumugyun

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