えのでんこまち

つむぎゆう

第1話 江ノ島駅  『夏風きたりて』

 かたんことんっ……とすこし間延びした振動音を響かせて、緑とクリーム色にカラーリングされた電車が目の前を通り過ぎていく。

 駅を出たばかりの江ノ電四両編成は、淡く陽炎かげろう揺らめく線路の向こうに遠ざかり――遮断機のバーが、ゆっくりと持ちあがる。

 瞬間。

「よっしゃあっ!」

 威勢のいい声とともに、ビーチサンダルの足音がすぐ隣で弾けた。

「あ、おい!」

 祐司ゆうじは思わず声をあげる。

「待てってば、渚!」

「へっへ――――んだ!」

 その言葉に耳を貸す様子など、もちろんあろうはずもなく。

 彼女は踏切の向こうまで走ると、やんちゃそのものの笑みをこちらに向けた。

 頭の横っちょで結んだ、いわゆるサイドポニーの髪型。元気溌剌という言葉をそのまま形にしたような、あどけない顔。

 そして。

「待たないよーだ! 海があたしを呼んでるぜい! 早くしないと置いてっちゃうよ!」

 すらりとしたちいさなお尻を、ぱんぱんっ! とてのひらで叩いてみせる。

「渚!」

 頬にかぁっとのぼる熱を感じつつ、祐司はうわずった叫び声をあげた。

 いくらなんだって、はしたないというか、行儀が悪いというものだろう。

 湘南モノレール江の島駅と、江ノ島電鉄・江ノ島駅、小田急線の片瀬江ノ島駅を結ぶ細道。両側には土産物やさんや飲食店が建ち並び――海水浴シーズン間近のこの時は、海辺の延長線上のような雰囲気がある。

 とはいえ。

 水着にバスタオルなんて恰好で気ままに闊歩している人間は──いない、とはいわないまでもそれなりに珍しい。家がすぐ近い祐司だって、下は膝丈の海パンだが、上はいちおうシャツをはおってきたのだ。

「もう小学生じゃないんだからな!」

 言ってから、しかし──祐司は口にした自分の言葉に微妙な違和感を感じる。

 休日だというのに学校用の紺色の水着に身を包んだ渚は、ちょっと見ではまるで小学生そのものだ。

 すらりとした、とか、しなやかな、といえば褒め言葉だけれども、全体的に起伏に乏しいちいさな身体。

 水着の胸に縫い付けられた名前の布──去年の組と中学校に上がった今年の組が偶然一緒だったからか、薄れた「6 - 2」の文字の上からむりやり油性マジックで上書きして「1 - 2」にしてあるのがなんともはやだ。

 つまりそれは、育ち盛りであるはずのこの一年の間にも、おなじ水着が使える程度に諸々のサイズがあまり変化していないということで。

「いちおう通りだぞここ! バスタオルくらい羽織れよな!」

 車も通らない細い路地だが、モノレールや江ノ電の駅から海岸に抜ける最短ルートだ。通り過ぎる海水浴客がちらちらとこちらを見ていくのが、なんだか微妙に恥ずかしい。

「は──い!」

 とはいえ、肝心の相原あいはら なぎさは、人目を気にするなんて感情からは無縁のようで。

 返ってくる声だけは素直なものの、白いバスタオルをぶんぶん振り回す能天気な仕草を見るに、こっちの話なんぞ微塵ほども聞いちゃいない。

「だから、走るなって!」

「準備運動のかわりだってば! 海ついたらすぐ泳ぎたいじゃん?」

 マントさながらに肩に回したバスタオルをはためかせ、人通りをすり抜けて渚は駆けていく。

 ぱたぱたと石畳に響くビーチサンダルの足音。いちおう靴を履いているのに、追いつくのがやっとなのが不思議なところだ。

 相原 渚──一歳年下の幼馴染は、運動能力に関してはほとんど野生児なみなのである。

 ──ったく……!

 胸のうちに毒づきつつも、ため息混じりの苦笑を浮かべ──祐司は、紺色の水着姿を追う。

 照りつける太陽。汗ばんだ頬に、潮の匂いをはらんだ夏風が心地いい。

 老舗の土産物屋街を抜け、一路、海辺の方角へ。

 通りの先にひらけた空の青。ほどなくして正面遠くに、樹の緑に覆われた平べったい山の形が見えてくる。

 片瀬の海岸から浅い海を隔てて浮かぶ、江ノ島の姿だ。

「ひゃっほ――う!」

 海岸道路の向こう、夏を迎えた浜はもう目と鼻の先。

 バスタオルを持った手をバンザイの形に振りあげて、渚が高々とジャンプした。


 竜宮城の入口をイメージして建てられたという、鮮やかな朱塗りの小田急線片瀬江ノ島駅舎。その駅前の広場から海に出るには、国道の下をトンネルで潜り抜ける。

「うわぁ……!」

 階段を駆けあがった渚が、きらきらと瞳を輝かせた。

「海の家、もうぜんぶできあがってる!」

「そりゃ、当たり前だろ。もう海開きしてるんだから」

 肩をすくめて答えつつ、祐司も少しばかり目をみはる。

 中学校の行き帰りに毎日通るこの道だが……ちょっと前までは、海の家はまだ足場や骨組みをたてて組み立ての最中だったのだ。

 その作業自体が始まったのだって、それほど前のことではなく。何もない白い砂浜だった海辺がまたたく間に海水浴場に変わってしまうさまは、いつ見てもまるで手品か何かのようだった。

 片瀬海岸と江ノ島に、今年もまた夏はやってくる。

「にしても、ほんとあっという間だよなあ……」

 夏休み前だというのにすでに人に賑わう砂浜を見回して、祐司は呟いた。

 浜辺への入口である大橋の近くは、道路から海までの距離が近い。緩やかに寄せて返す波が、歩く二人のすぐ10メートルほどの先にある。

「去年海の時期終わってから、あんまり経ってない気がするんだけど」

「ええっ? そうかなあ……あたしは、すっ――ごく! 長かったけど」

 「すっ」と「ごく」の間にたっぷり3秒くらいの溜めをつくって、渚は言った。両のげんこつを握りしめ、横っちょで束ねた髪を揺らして。

「そりゃ渚は、泳げる時期ずっと待ってたもんなあ」

「そ、そんだけじゃないよう!」

 漫画だったら数字の3みたいな形で表現されそうなかたちに唇をとがらせると、渚はぷくっと頬を膨らませた。

「祐にぃが先に小学校卒業しちゃうから、行きも帰りもあたしひとりだったしさ。ほんとつまんなかったんだかんね!

 はやく中学あがれないかなーって、ずーっと思ってたんだから!」

 ――え?

 きょとんと目を見開いて、祐司はひとつ年下の幼馴染の顔を見た。

 夏の初めなのに、早くも小麦色に日焼けした渚の頬。

 元気溌剌そのものの顔が、はっとした表情を浮かべ……心なしか、じわじわとすこしだけ赤みを増して。

「さ、先に小学校卒業って、当たり前だろ! べつにこっちが悪いわけじゃないし何言ってんだよ……!」

 返した声はなんだかうわずってしまい、渚のほっぺたの赤みが伝染したみたいに、こちらの顔も熱くなって。

 紺色の学校用水着をまとった、すらりと細身な身体。まるで男の子みたいな、けれども、ゆるやかでやわらかな曲線を帯びた。

 首筋から鎖骨のくぼみへ、汗の滴がひとつ、ゆっくりと滑り落ちるのが見えて。

 待て待て。なんだか、調子がおかしい。

「お――泳ご泳ご、祐にぃ! ほらほら!」

「おう!」

 くるりとあっちを向いて叫んだ渚の声に、奇妙に威勢よく祐司は応じる。

 ちょっとほっとした。あのまま向き合っていたらなんだか、うまく言葉が出てこなくなってきてしまいそうだったから。

 ――い――いきなり何言い出すんだ、渚のやつ……!

 口をへの字に結んで汗をぬぐい、波打ち際の渚を見る。

 レモン色のビーチサンダルを勢いよく脱ぎ捨て、渚はバスタオルをこちらに放り投げる。裸足で水を蹴って、そのまま寄せくる波に――

「渚!」

 あわてて祐司は声をあげた。

「おい! 先に荷物はロッカー借りて――」

「わかってるってば! ――けど、その前に!」

 ジャンプして布団に転がる子供みたいな動作で、渚は水の中に倒れこんだ。

 水しぶきと揺れる水面に、ちいさな身体が一瞬隠れて見えなくなり。

 ごろりと身をひるがえすと、浅い水の中、渚はよつんばいの姿勢でこちらを向く。

「――あたーっく!」

「へ? ――おわぁっ!!」

 悲鳴なんてあげるいとまもあらばこそ。渚が両手で掬いあげた水の塊が、真っ正面から祐司の胸元を直撃する。

「こ、このっ――」

 羽織っていたシャツはおろか、手にしていたバスタオルまで、もちろん一瞬にしてびしょ濡れだ。

「やったね! これで帰り道は祐にぃも水着ウォーキング仲間だぜぃ!」

 跳ねるように起きあがった渚が、悪戯坊主めいた笑みとともに親指を立てる。

「ば……バカ! 何やってんだお前ーっ!」

 わざわざ家からバスタオルを持ってきた意味も、これじゃまるっきりありはしない。

「だいじょうぶだいじょーぶ! 身体なんて歩けば乾くよー!」

「そういう問題じゃない!」

 濡れたタオルとシャツを放り投げ、靴を脱ぎ捨てて。祐司は波打ち際の渚を追いかける。

「へっへーん! ここまでおいで――あ、ひゃ!?」

「――あ――!?」

 すっとんきょうな声が、祐司の唇をすべり出でた。

 前を行く渚が、急につんのめってよろめいたからだ。

 あわてて足を止めようと思っても、ダッシュをきめた勢いは殺せず――祐司は後ろから渚にぶつかる形になって。

「――――!」

 その瞬間、自分の身体がどう動いたのか、祐司自身にもわからなかった。

 ただ――渚の身体を下敷きにしちゃダメだというとっさの気持ちだけがあって。ぐるりと一瞬、視界が回って。空と、入道雲と、水と、遠い江の島と、橋と、渚の背中の肌と、紺色の水着と、

 ざぱん! という水音が耳元に響き、背中にかすかな衝撃が走り、一瞬遅れて胸元に柔らかな重みが――

 柔らかな。

 波が引き、顔の周りから水がなくなる。ぼやけた視界が焦点を結んだ、そのすぐ間近に。

 きょとんと目を見開いた、渚の顔があった。

「────あ?」

 身体にかかる重みの正体を、いやおうなしに祐司は悟る。どういう具合でそうなったのか、仰向けに砂に倒れた祐司の身体のうえに、つぶれたよつんばいのような恰好で渚が覆いかぶさっていて。

 まだ呆然としたふうのまま、渚がもぞりと身体を動かした。

 水着の布地が、祐司の胸元をこする。

 とくん、とくん、と響くのは、自分の心臓の音なのか。それとも、水着越しにくっついた胸から伝わる、渚の心臓の音なのか。

 引いていく波の音。浜辺のざわめき。湾岸道路の車のクラクション。

 そんなもろもろの音が、すうっ……と耳から遠のいて。

 感じられるのはただ、やけにはっきりとした心音のリズムと、すぐ耳元で聞こえる渚の息づかいと。

 たぶん数秒くらいの間、そのまま時間は停まった。

「……わ、わわ……わわわわあ!」

 弾かれたように渚がとび起き、そのままの勢いで後ろの濡れた砂浜にしりもちをついた。ようやく硬直からとけて、祐司ものっそり身を起こす。

「つつつ……」

 いまさらのようにようやく、ぶつかった手脚と乗っかられた胸板がすこし痛い。

「……まったく……何やってんだよほんと……」

「な、なにやってんだじゃないよう!」

 ひらいていた脚を閉じ、なぜだか正座の姿勢になって渚はうわずった声をあげる。

「……裕にぃがいきなり、抱きついてくるのが悪いんだから!」

「はぁ!?」

 裕司は思わず、浜辺一帯に響きわたる勢いで声をあげた。

 なんだなんだ? どうして今のがそういうことになってるんだ? 

 あれだ。これが世に言う痴漢冤罪というやつなのか。

「バカじゃないのか!? お前がつんのめるのが悪いし、そもそも追っかけられるようなことしたのお前だろ!」

「うっさいうっさい! 祐にぃのバカバカバカ! お嫁に行けなくなったら責任とってもらうんだかんね!」

「なにおう――!」

 反射的に声を荒げかけたところで、渚の言葉がようやく脳に届く。

 ――なんだって?

 いまなんて言ったんだこいつは。お嫁にとか、責任とか、それはいったいどういう――

「な、何言ってんだお前そんな大げさな!」

「あー! うやむやにしようとしてる祐にぃ! 肝っ玉ちいさいなあ! 責任とるの? とんないの?」

 顔を真っ赤にしてぱんぱんと正座の両腿を叩くと、渚は挑むようなまなざしでこちらを見あげた。

「ば――」

 ばっかじゃねえのか!? という怒鳴り声とともに渚に手を伸ばそうとして。

 けれども、声もだせず腕も伸ばせぬまま祐司は固まる。

 ざざぁ……っ、と水音をたてて、次の波がやってくる。正座した渚の腿を、立ち上がりかけた祐司のくるぶしを、ふくらはぎを、水面が撫でていく。

 問答無用で渚の身体を抱えて、水のうえに放り出す――

 そうするはずだった。そうできていたはずだった。去年までだったらば。

 なのに。

 さっき、砂の上で抱きあってしまった渚の身体の、柔らかさが。男の子みたいにぺったんこなはずの、こうして目の前で見たってさほどのでっぱりはない、渚の紺色の水着の胸の――不思議な、あの、感触が、頭によみがえってきてしまって。

 息をのんだまま、渚の顔を見る。

 三日に一回は繰り広げられる口げんかのときと同じ、への字に唇を引き結んだ唇。

 けれど、なんだろう。なんでだろう。眉を八の字にして、こちらを見あげるまなざし。その瞳の中に、いままでみたこともないような……はりつめた緊張の色が浮かんでいるのは。

 波音すらも遠くなってしまったような、数秒間の沈黙があった。

 日射病にでもなりかけているのだろうか。頭の中と、頬が、ぼんやりと熱を帯びて――

「てやぁっ!」

 そのぼんやりゆえに、渚が突きだした両腕を避けるのが一瞬遅れた。

 胸元に正面からの突きをくらって、祐司はもう一回、あおむけに水の中に倒れこんでしまう。

「ばーか! 祐にぃのばぁーっか!」

 立ち上がった渚が、水着の両腰に手をあててこちらを見下ろす。

 むくれたように下唇をつきだした表情はしかし次の瞬間、やんちゃで意地悪げな笑みにとって替わられた。

「もう。帰ったら祐司のお母さんに言いつけてやるんだかんね! 祐司に後ろから抱きつかれたって」

「ば、バカかそっちこそ!」

 ぶんぶんと頭を振って水を払うと、祐司は声を張りあげた。

「言いつけられるもんなら言いつけてみろよ、恥かくの渚のほうなんだからな!

 だいたい、お前の身体なんて頼まれたって誰が、」

 そこまで言ったところで、吸い込んだ鼻息の中に混じった水に、祐司はむせこんでしまう。喉の奥に、はからずも潮の匂いが広がって。

 真っ赤な顔でにらみあげた先には、やんちゃ坊主めいた笑みを浮かべて立つ渚。

 横っちょで結んだ髪が、海風に揺れる。

 名前の布のついた紺色の学校水着をまとった身体は、あいもかわらずちんまりとして。

 夏も前半なのにもう日に焼けはじめた手足を、水と、汗の滴が幾筋も滑り落ちていく。

「祐にぃ?」

 すこしいぶかしげに眉を寄せて、大きな目がこちらを覗きこむ。

「だいじょうぶ? 祐にぃ。水飲んじゃった? 立てる?」

 さしのばされた、ちいさな手をとって。

「誰のせいだよまったく……」

 とはいえ本気でひっぱるわけにもいかず、ぶつくさとつぶやきながら祐司は自分で立ちあがる。

 自分の指の中で動く渚の手の感触まで、今日はなんだかいつもと違うような気がして。

 どうしてこう、へんてこなことになってしまったのか。

 足元に寄せては返す波になかに、佇む渚。

 陽射しにきらめく海。横たわる大橋と、その先に緑を茂らせて浮かぶ江の島。

 去年までと同じはずの風景。けれども、去年までとはどこか違う風景。

「さー、泳ご泳ご! 今年は江の島まで往復目指しちゃうぜい!」

 紺色の水着をまとったちいさな身体をのびあがらせて、元気いっぱいに渚が笑う。そのままあおむけに波の中に倒れこむと、水しぶきをあげて彼女は泳ぎだす。

「おい! バスタオルバスタオル! どうすんだ靴も!」

 呆れてあげた声も、しょうがないなという苦笑まじりになってしまい――

 浜辺のざわめき。入道雲を浮かべた空。

「待てよ、渚!」

 自分自身にもうかがい知れない予感をはらみつつ――

 海へ。巡り来た片瀬江ノ島の夏へと、祐司は足を踏み出した。


                         【了】

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