生き延びた二人のこと

古池ねじ

生き延びた二人のこと

 チャイムを三回鳴らしたけれど、出てくる気配はない。溜息をつくと鞄のポケットから、預かっていた合鍵を取り出す。ドアを開け、入るよ、と声をかけて中に入る。三和土を見ると、子供用なんじゃないかと思うほど小さなスニーカーが揃えて置いてあった。ということは、中にいるのだ。

 スーパーの袋をがさがさ言わせながら短い廊下を進み、リビングのドアを開ける。カーテンを閉め切った電気も点けていない部屋の中で、ノートパソコンのディスプレイだけが明るい。こちらに背を向けているので顔は見えない。ぱちぱち、とキーボードを叩く音が暗闇の底に響いている。

「電気ぐらいつけなよ」

 そう言って灯りのスイッチを押すと、紺色のパジャマに包まれた細い細い肩がわずかに震えた。ゆっくりとこちらを振り返る。夢から覚めたばかりのような、ぼんやりとした瞳。座卓に置いたノートパソコンの前に、クッションもなしにぺたんと座り込んでいる。灯りのついたリビングの床には、空のミネラルウォーターのペットボトルが揃えて置いてある。部屋の隅には綿埃。後で掃除しよう。

「飯は?」

 答えは返ってこない。ということは食べていないのだ。冷蔵庫に買ってきたものを詰めていく。詰めておいたところで、俺が来るまで減っているのはミネラルウォーターのペットボトルだけだろうが。

「風呂入る?」

 さっきシャワー浴びたからいい。

 耳を澄まさないと聞こえないほどの細い声が答える。彼女の声のほかに、こんな声を聴いたことはない。生きた人間にはとても出せないような声、とつい考えてしまい、嫌になる。冷凍庫から前に来たとき冷凍しておいたごはんを取り出して、電子レンジに入れる。

「雑炊作るけど、じゃこと鮭どっちがいい」

 どっちでも。

 細い声が答える。ぱちぱち、とキーボードを叩く音。無機質なその音は妙に現実味があって、そこに何かを意味を見出してしまいそうになる。現実ではないような彼女の肉体と、現実を感じさせる彼女の仕事。馬鹿馬鹿しい。だが、その馬鹿馬鹿しい連想から、どうしても俺は自由になれない。

 少し迷って、雑炊は鮭にする。野菜ときのこを小さく切る包丁の音と、キーボードの音が部屋に響く。キーボードの音は時折止まり、そういうときには分厚い紙の束をばらばらと捲っている。インターネットで見つけたものをプリントアウトしたり、本の必要な部分をコピーしたものだ。俺が読んでも意味のわからない雑多な情報の断片にしか見えないそれを、彼女はぱちぱち、とキーボードを叩いて一つの物語にまとめ上げる。奇跡のようだ。何度でもそう思う。選ばれた人間にしか成し遂げられない奇跡。そしてそれは、胸を掻き毟られるような、苦しい奇跡だった。今の俺には、特に。

 雑炊はすぐに出来上がった。茶碗に少なめに盛り、揉んだ海苔をふりかける。

「ほら」

 ミネラルウォーターのペットボトルと茶碗をお盆に乗せて、座卓に運ぶ。のそのそと彼女はパソコンの前から立ち上がり、茶碗の前にぺたんと座った。折り返したパジャマの裾から覗く足首はぞっとするほど細く、白いを通り越して青い。

 いただきます。

 手を合わせてそう言うが、木匙には手を出さない。俺は少し離れた場所に腰掛け、彼女の横顔を見ている。ちいさな顔は、息を吹きかけたら消えてしまいそうだ。茶碗からのぼる湯気のほうがずっと存在感がある。薄い色の大きな瞳はぼんやりと霞んでいる。その下には黒ずんだ隈。うすい唇は紫がかっていて、ひび割れている。後ろでいい加減にまとめた髪だけが、昔と同じようにつやつやと黒く光っている。それも、なんだか幻のようだ。幻のよう、または、幽霊のよう。

 じろじろと観察する俺の視線をまるで気に留める様子はない。肉を抉り取ったような顎から首にかけての線。折れそうな首。どんどん痩せていく。どんどん痩せて、薄くなっていく。俺がここに来なかったら、どうなるんだろう。想像して腹の底がひえる。でも、俺がここに来ているからって、なんだっていうんだろう。ほんの少しだけ、そのときを遅らせているだけなんじゃないか。

 いっしょにしねばよかった。

 耳のどこかに潜んだ声が、不意に針になって俺の柔らかな部分を突き刺した。いっしょにしねばよかった。あれが、俺が聞いた、彼女の唯一の嘆きだった。いっしょにしねばよかった。痛い。痛い。やめてくれ。

 いっしょにしねばよかった。

 記憶の中の声よりももっと、目の前の彼女は淡い。重たそうに手を合わせ、いただきます、と唇の先の空気をわずかに震わせるだけの声を出す。本当にここにいるんだろうか。わからなくなってくる。本当は彼女も、あいつと一緒に死んでしまって、ここにいるのはその残響のようなものなのだろうか。彼女はもう、死んでいて、

 いけない。

 頬の内側を、血が滲む直前まで噛む。もう癖になってしまって、俺の口内はいつもぼこぼこだ。俺の目の前で、彼女は握るというよりも小さな指の先に乗せるようにして、木匙を持って、雑炊をほんのちょっぴり掬った。ゆっくり、色の悪い唇を開き、食べる。生きている。薄い頬が咀嚼に動く。生きている。彼女は、生きている。あいつが死んでも、彼女は、まだ。

 頬の内側を噛む。今度は血が出た。俺も生きている、と思うと、気分が悪くなった。


 生瀬辰也、という名前の響きが呼び起こす気持ちを、人に説明する言葉を俺は持たない。俺にとって、その名前は、特別なものだった。生瀬辰也。出会ったばかりの高校生のとき、自分の部屋でちいさく口に出したことがある。い、く、せ、た、つ、や。思い出すのも恥ずかしいけれど、忘れることもできない。特別な、何にも代え難い六文字。

 生瀬は高校のクラスメイトだった。背はやや低めで、痩せていて、黒い髪と日に焼けていない肌が妙に美しかった。背筋がいつも伸びていて、人の輪から離れているわりにまるで卑屈なところのない男だった。どんなときでも平気な顔で、周りと違う意見を口にした。生瀬の声は弱弱し気な見た目に比べて低く、よく通った。柔和に目を細めて、唇に微笑みを浮かべて、しかしはっきりとした声色で何かを言うと、不思議な説得力があった。飛びぬけて成績がいいせいもあってか、教師も生瀬には一目置いているふうに見えた。といっても、生瀬が他人の目に留まるようなことはごく稀で、基本的には教室の空気にひっそり沈んで、自分の席でいつも本を読んでいるような男だった。俺も、初めは生瀬のことを、ほとんど何とも思っていなかった。ちょっと変わったやつ。悪くないけど。そんな程度だった。

 変わったのは高校一年の文化祭だった。一人でとりあえず全部の展示を回っていた俺は、文芸部の展示に置いてある文集の目次で、たまたま生瀬辰也の文字を見かけた。ペンネームみたいなふざけた文字列の中で、その名前は逆に目立って見えた。

 生瀬辰也って、あいつか。文芸部なんだ。

 俺は目次に書かれていたそのページを開いた。知っている人間の書く小説というのに、ちょっとした好奇心があった。何の期待もなかった。というよりは多分、つまらなかったり、あからさまに破綻しているのを期待していた。俺は平凡なちょっと意地の悪い読書が好きな高校生で、褒めるよりも貶すことのほうが自分の知性を証明することになると思っていたし、そうやすやすと何かを気に入らない自分の狭量を純粋さの証か何かのように考えていた。

 今にして思えば、読まなければよかったのかもしれない。へえ、あいつ文芸部なんだ、で通り過ぎておけば、俺にとって生瀬辰也はちょっと変わったクラスメイトのままで、俺との縁は薄くなっていただろう。でも俺は、その二十ページほどの、短い小説を、読んでしまったのだった。

 一ページ目を読み終わったあたりから、俺の心臓がどくどく騒いで、読み終わったときには気分が悪くなっていた。例えば成熟した評論家の目で見れば、小説としては未熟で、言葉足らずだったり不自然な設定があるのがわかったのかもしれない。でも高校生の俺にとって、それは今まで読んだことのなかった物語で、同時に、こういうものが読みたいとずっと夢見ていた何かだった。自分でさえ知らなかった夢を、どこからか取り出してこれだろうと取り出してくれたような。幼い俺にもわずかに感じ取れた小説としての荒っぽささえ、これを書いたのが現実の人間だと思い知らせてくれて、却って魅力を増すばかりだった。

 どうしよう。俺は混乱しながら、教室を出た。とんでもないものを読んでしまった。これから、俺はどうすればいいんだ。

 混乱しながら歩き出して、俺はすぐに脚を止めた。そこに、生瀬がいたからだ。多分俺が出てきた教室に向かうところだったんだろう。逆光になっていたので、小柄なその身体は金の縁取りをされていた。短い髪が揺れるたびに、細い脚が動くたびに、金色の光が筋になって俺の目を引っ掻いた。意志とは無関係に手が伸びて、俺は金色の光に指先を浸し、それから生瀬の肩を掴んでいた。生瀬の肩は、同じ性別の、同じ年の生き物とは思えないぐらい小さく、俺の掌には硬くて鋭い感触が残った。

 生瀬は驚きを見せず、静かに俺の方を向いた。黒い髪が、きらきらと金色の粉を振りまいていた。

 なに。

 いつものように柔和に目を細め、赤ん坊じみて小さな唇には微笑みが浮かんでいた。唇の端に金色の粒が貼りついていた。俺は混乱していた。今俺が触れている、俺を見つめているこの人は、俺にとってとても特別な、代え難い人なのだということは、漠然とわかっていた。それしかわからなかった。そういう相手を、どう扱えばいいのか。そのとき、俺はまだ人生への何の準備も出来ていなかった。それでも、ことが起こったのは、まさにその時だったのだ。

 俺の口から、何の言葉も出てこなかった。生瀬は微笑んだまま、俺の手を掴んで、そっと自分の肩から外した。俺は悲しかった。そうされて当然だったが、俺の感情はいつだって正しさを無視するのだ。

 じゃあ行くね。

 生瀬はそう言うと、去っていこうとした。何か言わないと。ぐちゃぐちゃの頭で、どうにか言葉を絞り出す。

 読んだ。

 唇から出たのは、それだけだった。俺は何を言ってるんだ。絶望的な気分になった俺に、しかし生瀬は振り返った。唇には、やはり微笑みがあった。小さな唇の端っこに貼りついた金色の粒。

 ありがとう。

 通じた、と思った。俺の彼への感情の、全てではなくともいくらかは、ちゃんと伝わって、彼はそれに好意を返してくれた。まるで、初めて人と言葉を交わしたような気分だった。

 そんなふうに、生瀬は俺の人生にやってきた。

 その日から俺と生瀬は、ただのクラスメイトではなくなった。だが、友人になったかというと、そういうわけでもなかった。俺は生瀬の姿が目に入るときは、いつでも彼のことを気にした。いつも見つめていたし、何をしているのか気になった。生瀬はたいがい俺の注視を涼しい顔で受け止めていたが、ときどき呆れた顔をして、でも何も言わなかった。小説を書くと、俺に読ませてくれた。俺はいつだってつまらないことしか言えなかった。すごいとか、面白いとか。生瀬の書くものは、いつでも俺を圧倒して、言葉を乏しくさせた。生瀬はそのたび微笑んで、ありがとう、と言った。そういうとき生瀬が何を考えていたのか、俺にはわからない。

 出会ってしばらく経ってから、一度聞いたことがある。

 プロになる気はないのか?

 あるよ。

 生瀬は言い、プリントアウトした小説の束をぱらぱらと捲った。俺が今まで読んだどんな小説よりも面白い小説。じゃあ、と言いかけた俺を見て、生瀬は続けた。

 あるけど、もうちょっと面白いものが書けるようになってから。

 意味がわからなかった。これ以上なんてあるはずがない。混乱する俺に生瀬は笑った。

 まだ修行中の身だよ。あんまり甘やかさないで。

 正体のわからない感情に胸を突き刺されて、俺は言葉を失った。生瀬はつまらなさそうに、自分の書いたものを読んでいた。その顔は実年齢よりもずっとずっと幼げで、それが奇妙だった。生瀬は、俺にはなんだか辻褄が合わないように見える人間だった。空気をまったく読んでいないとしか思えない落ち着きのある態度と、小説から読み取れる痛みを覚えるほどの繊細な感受性。異常なほど発達した知性と、赤ん坊のような無邪気さ。その間を埋めるものが俺には見えなくて、生瀬はいつだって俺の理解の外の、不思議な生き物だった。だからいつも、目が離せなかった。生瀬を理解したくて、でも俺の理解なんかの枠に収まっていてほしくなかった。理解できない生瀬にひきつけられていたし、いつまでもひきつけていてほしかった。随分身勝手だ。

 生瀬と俺は同じ大学の、同じ学部に進んだ。俺の学力と通学のしやすさを考えたらまずまず妥当な選択だったと思うけれど、生瀬の影響がなかったとは言わない。生瀬はどんな大学でもやすやすと合格しただろうが、俺は少しばかり不安だった。合格発表の日、二人で掲示を見にいった。生瀬の番号が先に見つかった。生瀬は当然とばかりに頷いただけだった。それから、俺の番号を生瀬が見つけてくれた。細い白い指を伸ばして、あそこ、と言い、俺の番号を呼んでくれた。喜ぶ俺を見上げて、よかったね、と目を細めた。

 そしてその大学で、生瀬は彼女と出会ったのだった。

 生瀬と俺は、文学研究会というサークルに入った。彼女はそこにいた。小柄で、華奢で、化粧気のない顔の、地味な新入生。小さなサークルなので名前は覚えたけれど、他には何の印象もなかった。女の子の一団の一人としての女の子。多分、そんなふうにふるまう習慣がついていたのだと思う。

 大学では、それまでのように生瀬について回るのは難しかった。高校では特別進学コースという一クラスしかないコースにいたので、三年ずっと同じ教室にいることができたが、同じ学部同じ学科でも語学や基礎ゼミでは違うクラスに振り分けられたし、同じ講義を取ろうとすれば、君の好きなものを取りなよ、とあの低い声で諭された。その通りだった。そう言われて、多分俺は少しほっとしたのだと思う。俺の生瀬に対する感情は俺という人間には釣り合わないようなものだったから、生瀬の言葉によって逸る感情を常識の範囲内に押し込んでもらえるのは、安心だった。そうやって、俺は生瀬から少しばかり離れた。

 だからどういうふうに二人が近しくなったのか、俺は見ることができなかった。見たかったのか? 俺は自分に尋ねる。見たかった。俺は自分にさえ恥じ入りながら答える。でも、見てみたかった。恋に落ちる生瀬辰也を、それから、あの二人が、俺が知る限りこの世で最も好ましい恋が、どんなふうに発生したのか。俺は見ることができなかった。

 俺が見つけたときにはもう、二人は分かちがたく結びついていた。最初に見たのは学生会館のラウンジだ。二人は置かれたソファに隣同士に座って、何かを話していた。俺はラウンジの隅に突っ立って、二人を見つめていた。二人とも小柄で、今作られたばかりのようにぴかぴかの髪の毛と肌をしていたので、大学生のカップルのようにはまるで見えなかった。生瀬の少し長めの髪が、つやつや光って彼女の黒い髪に触れていた。生瀬の光を彼女に移すように。ラウンジはその時人が少なくざわめきは穏やかだったけれど、そのざわめきの底に潜むように、二人の声は小さかった。俺の耳には届かない言葉たちが、生まれて、二人の間だけでやり取りされていた。小さな小さな光のような言葉たち。

 突っ立っていた俺に気づいたのは彼女だった。ふっと動かした視線が俺の上で止まり、貝殻に似た淡い色の唇が何事かを生瀬に囁き、生瀬も俺を見た。そして、いつもの笑い方をした。いつもの生瀬。

 俺は二人の前にふらふらと歩み出た。生瀬と彼女はきょとんと俺を見上げていた。幼い兄妹みたいな無心さと親しさで。

 付き合ってるのか。

 挨拶よりも先にそう尋ねた。生瀬は笑った。その丸い頬に、見覚えのない何かが小さな小さな影を作っていた。俺は咄嗟に目を逸らした。それは俺が生瀬に予想している、あるいは期待しているものではなかった。

 うん。

 その声も、低く丸い、音になる前によく磨いたような生瀬のいつもの声と、違っていた。気づかないふりを続けるわけにもいかなかった。生瀬は、はにかんでいた。普通の、十八歳の少年のように。

 俺の前で、二人は見つめ合い、視線でそっと何かを交換しあっていた。恋人同士にしかできない不思議な方法で。生瀬と彼女の頬はうっすらと上気して、得も言われぬ色合いになっていた。恋をそのまま色にしたような。それを目にしたときにはもう、俺はこの事態を受け入れた。受け入れる? 奇妙な考えだ。生瀬は俺の理解も許容も必要なかっただろう。生瀬には、俺自身も必要なかっただろう。でも俺には生瀬が必要だった。欠かすことのできない人生の一部だった。それは多分、あまり正しくないことだった。でも俺の身にそれはもう起こってしまったので、俺自身にさえどうしようもないのだった。

 その日から、俺はよく二人を見かけるようになった。彼等はいつでも仲睦まじく見えた。べたべたとあからさまに触れ合ったりするわけでもないのに、明らかに特別に親密な二人としか見えなかった。例えば生瀬が首を僅かにまげて彼女に顔を寄せるとき、引き寄せられているかのように彼女もまた顎を上げている。まったく同時に。相手の身体が、自分の身体であるかのように、一対のものとして動く。俺は二人に声をかけず、離れた場所でそれを見ていた。生瀬の頬と彼女の頬の輪郭が、同じ色に光る。同じ誰かの手によって描かれた線だ。俺を描いたのとは、違う誰かの手。

 読んで。

 二人のことを知って、一か月ほど経った頃、生瀬がいつものように俺に紙束を渡してくれた。大学では無料で印刷できる枚数に限度があったので、細かい字がぎゅうぎゅうに詰めてあった。俺はその密度にちょっと笑って、読みだした。

 読んでいる最中は夢中だった。没頭して、何も考えることができなかった。読み終わって、そこに生瀬がいることをようやく思い出したぐらいだった。

 どう?

 俺が生瀬を見ると、生瀬は首を傾げた。俺は混乱しながら、生瀬へと渡す言葉を掬いあげようとした。

 生瀬の小説は、変わっていた。そう、頭の中で言葉にして、そこに含まれた欺瞞に耐えられなくなって、俺は認めたくない事実を見つめることにした。

 生瀬の小説は、よくなっていた。語彙や表現は洗練され、キャラクターはちょっとした描写によって鮮明で印象深くなり、設定は緻密になり、物語はそれまでよりも深く、俺を遠くへと連れて行った。これまで、これ以上なんてない、と思っていた、これ以上、がここにあった。信じがたいことだった。信じがたいことだが、現実だった。

 すごい。

 俺が言うことができたのは、それだけだった。だが生瀬もそれ以上のものなど求めてはいなかったのだろう。満足そうに微笑んで。

 そうだろう。

 と言った。俺はこの進化、と呼ぶべきものを、読者の本能として喜びながら、しかし生瀬に執着する一人の人間として、裏切られたような気分でいた。その二つはうまく折り合わず、俺はまだ混乱していた。今読んだものは確かに生瀬のもので、生瀬にしか生み出せないもので、だがどこか生瀬のものではなかった。どういうことなのかわからないまま、しかし違う、と感じていた。これは生瀬で、でも、違う。違うけれど、でもこれが生瀬だ。俺の知らない。

 生瀬は俺の混乱を知ってか知らずか、ほんのわずかにはにかみを含んだ少年の声で、言った。

 手伝ってもらったんだ。

 誰に、と言われなくてもわかった。彼女に、だった。

 そのときから、生瀬は彼女と二人で創作をするようになった。最初彼女が担当していたのはアドバイスや手直し程度だったが、どんどん彼女の比重は重くなっていき、そのうち二人で書く、としか言いようがないようになった。それは完全に正しい選択だった。彼女が加わる前の生瀬の作品は、言うならば未完成品だったのだ。かつて語ったように、生瀬はそれを知っていたが、どう手を入れればいいのかはわからなかった。その答えを、彼女は知っていた。そして作品は完成した。

 彼女が、そして彼女だけが、生瀬の思い描いたものと同じものを、見ることができたのだろう。明確な形になっていないそれを文字の中から見抜いて、取り出す術を考えることができた。生瀬の見た夢は、彼女の助けで正しい姿で文字の上に現れた。それをできたのは、この二人だけだった。二人は生瀬の、あるいはすでに生瀬のものでなく二人のものになった夢へと飛ぶ一対の翼だった。

 俺は、生瀬の夢を見ることはできない。その実現に力を貸すことも。俺ができるのは、もう出来上がったものを楽しむことだけだった。彼女が生瀬の前に現れたことで、その事実は何の反論の余地もなくなった。その事実に対して、では俺はどう思ったのだろう? 俺自身にもその答えを出すのは難しい。生瀬の小説の進化は、喜ばしいことではあった。だがそれを生瀬一人で成したのではない、ということ。それから、そう、その進化に、俺は何にも関係がなかった、ということ。生瀬と彼女が、あまりにも完璧に結びついている、ということ。それら全部を喜ばしく受け止められただろうか? たとえば、そう、たとえば、俺がその位置にいることを、俺がまったく望みはしなかっただろうか? たとえば俺が女だったら、生瀬の彼女が占めているあまりにも大きな領域のほんの一部分でも、俺が譲り受けることは可能だっただろうか? 俺はそんな夢を一度も見たことがないと、誓うことはできるだろうか?

 やめよう。この問いにも、この答えにも、何の意味もありはしない。俺がどんなふうに想像を弄んだところで、生瀬と彼女は分かちがたく結びつき、俺は二人の創作を、ほとんど崇拝と言っていいほどの愛で迎え入れ、二人を見つめていた。二人の眼差しが混じるとき、そこには二人だけが読み書きできる不思議な文字が現れるようだった。二人はそれを瞬時に読み取って、まったく同時に、ごくごく微かに微笑んだ。その二人に注ぐ俺の眼差しは、透明だった。俺は、きっと俺は、彼女のように、生瀬と一緒に何かを生み出したい、とまでは、多分思っていなかった、と思う。思っていたとしても、それは叶わないことに心を痛めるような種類の夢ではなかった。でも俺は、きっと、生瀬と彼女だけしか読むことができない文字を、俺もまた当然のように読むことができないのは、苦しかった。俺はそこに何かが生まれたことは知っているのに、それが何なのかはわからない。二人の微笑みが意味するものを、俺は知ることがない。それは仕方のない苦しみだとはわかっていて、そもそも自分さえ気づくことが難しいほどのごく小さな痛みだったが、いつまでも消えなかった。

 大学在学中に、二人はある文学賞を獲ってデビューした。色々とめんどうだから、ということで顔や詳しいプロフィールは公開しなかったが、独特の作風にその匿名性は合っていたのか、自然に受け入れられた。デビュー作は売上自体はそれなりだったけれど、書評などで大きく取り上げられ、有名な賞の候補にもなった。間を置かずに出た二作目はさらに話題になり、読書好きな俳優が紹介したのもあって、書店でもかなりいい位置に置かれ、ランキングにも入った。そうやって、二人はどんどん階段を昇って行った。簡単なことばかりでもなかったと思うが、二人はいつでも楽しそうだった。二人で一緒にいたら、どんな困難も遊びに変えられたのかもしれない。俺の知る限り、二人は一度も喧嘩をしたことがない。あれほど近い関係の二人が、まったく衝突せずに生きていけるものだろうか? 今になってみれば、そんな疑問も沸くけれど、あのときはそれがまったく自然のこととしか思えなかった。生瀬はたとえば放っておけばずっと本を読んでいるし、彼女は同じ映画を何回も観たり一日に映画館を三館はしごするようなタイプの映画好きだったけれど、お互いの常軌を逸した情熱をからかいながら、相手の情熱を敬意をもって楽しんでいた。

 一度、二人を車に乗せて古本まつりと、それから名画座をはしごさせてやったことがある。俺は免許を取ったばっかりで、父親の車を運転していた。二人ははしゃいで、紙袋二ついっぱいに本を買っていた。その中から一冊、俺にくれた。古いSFの文庫だったけれど、あとでかなり貴重な絶版本だと知った。面白いよ、君は好きだと思う、と言った生瀬の声は覚えているけれど、まだ読んでいない。まだそのときじゃない、という気がして。そしてもう、読める気がしない。そのときはもう、きっと、来ない。

 昼には三人でビーフシチューを食べた。ここは俺が一度行きたいと思っていた店だった。彼女はとても小食なのでいつものように生瀬に食べきれなかったら食べてねと言っていたけれど、大きくて柔らかい肉がごろりと入ったビーフシチューは濃厚なのにもたれるようなしつこさが全然なくて、結局彼女も全部食べた。食べているときに生瀬がちょうだいと冗談を言い、彼女は無言で小さな身体で皿を覆い、俺と生瀬は笑った。彼女も笑った。

 映画は古いヨーロッパのものが二本で、なかなか面白く三人とも楽しんだ。観終わったあとの彼女の目が赤かった。生瀬はそれを愛おしそうに見つめていた。夕飯をファーストフードで簡単に済ませている間も、車に乗り込んで俺が運転している間も、二人は映画について話していた。生瀬の低く響く声は、彼女の小さな高い声と混じると、不思議に子供っぽく響いた。作中に出てきた小道具が何を暗示していたのかとか、登場人物の関係性のどこに特異性があるのかとか、俺にはまったく気づけない部分について。俺がただ「面白かった」で済ますところを、二人はその面白さの源泉を掘り当てるのだ。俺は鑑賞者であり、二人は創作者だった。それを思い知るとやっぱり俺は寂しくて、でもその寂しさは冬の風が顔に当たるような、ある種の心地よさを覚える寂しさでもあった。俺はその寂しさが、好きだった、のだと思う。

 はしゃぎすぎたのか、二人で同時に溜息をついて、二人で同時に軽く目を閉じた。そして、そのまま眠りこんだ。俺は車を走らせていた。俺の運転で動くちいさな空間で、二人がまったく幸せそうに丸い瞼を晒して、眠っていた。二人の寝息が車の中に満ちて、俺はなんだか泣きたかった。

 幸せだ。

 胸の中にどっぷりと甘いものが詰まっていて、俺が動くとそれが揺れて、甘い飛沫を上げた。金色に光る、甘い飛沫。俺は完璧に幸せで、眠る二人のことを、その作り出すものではなくて存在そのものを、心から愛していた。走る車の中で、俺は永遠に車を走らせ続け、そのまま三人でどこかに辿りつければいいと思った。どこかに。ここではない場所に。どこにもない場所に。二人を乗せて、小さな箱で、どこまでも走り続けたい。夜の中を、滑って行くネオンや信号の色とりどりの光に囲まれて、どこまでも、どこまでも、どこまでも、このまま。だがそれは俺だけの幸福だった。俺だけの夢。

 一人暮らしの生瀬の部屋の近くにやってきたころ、二人は目を覚まし、夢は終わった。俺はさっきまで満ちていた幸福がさらさらと乾いた別のものになったのをぼんやりと感じながら、車を停め、二人を下ろした。何も言われなかったが、彼女はそのまま生瀬の部屋に泊まるのだろうとわかっていた。小さな部屋で、二人は俺にわからない話をし、俺の前ではしない触れ合い方をするのだろう。

 今日はありがとう。

 生瀬が言い、彼女もありがとう、と続けた。いいよ、と俺はすかすかした気分で笑った。いいよ、俺も楽しかったし。

 本運ぶから、先に行ってて。

 そう言って生瀬は彼女を先に行かせて、重たそうな紙袋を下ろして持ち上げた。手伝おうと手を出すと、首を振られた。

 おやすみ。今日は本当にありがとう。

 いいよ。

 生瀬は俺を見上げて微笑んだ。弧を描いた唇の端に、街灯が金色の粒になって引っ付いていた。

 俺たち二人とも、君のことが、本当に、好きだよ。

 返す言葉のない俺に、生瀬はおやすみ、と華奢な背を向けた。

 俺たち二人とも、君のことが、本当に、好きだよ。

 あれは本当にあったことだろうか? 今となってはわからない。でも覚えている。ずっと覚えている。生瀬の唇の端の金色の粒。白くてきれいな赤ん坊みたいな歯。それとまったく不釣り合いな、人間よりももっと大きなものが告げるような、低く滑らかな声。俺はずっと覚えている。忘れることはできない。

 二人は大学を卒業してすぐに結婚した。式は挙げなかった。そういうのは二人とも好きじゃないんだ、と言っていた。俺はちょっとつまらないなと思って、ちょっとつまらないなという顔をしていたのだと思う。二人は笑って、君にスピーチをしてもらえないのはちょっと惜しかったな、と生瀬が言った。俺も、多分そうしてみたかったのだと思う。

 二人は古くて駅から少し遠いけれど広くて静かな部屋を借りて、本を読み、映画を観て、愛し合い、小説を書き、幸福に暮らしていた。俺は就職してもしょっちゅう遊びに行って、編集者よりも先に出来上がった小説を読ませてもらった。生瀬はいつもパジャマだった。紺やグレーの、きちんとした、絵本に出てくる子供が来ているようなパジャマ。彼女が教えてくれたのだが、かなりいい値段のものらしい。

 一日中パジャマだから、いいものにしたんだって。

 くすくす笑いながら言う彼女だってほとんど部屋から出ないので、スウェット地の楽そうなワンピースとか、そんな恰好ばかりしていた。

 食べることにそこまで執着がなく、いつもうどんやカレーなど一皿で食事を済ませている二人に、俺はいつもちょっと凝った料理を作ってやった。俺が台所で作業をしている間、二人は時々やってきて、興味深そうに手元を覗き、何をしているのか尋ねてきた。小さな兄妹みたいに。そして二人とも、だいたい同じ料理を気に入った。里芋と味噌のグラタンとか、蓮根と薩摩芋の甘酢炒めとか、枝豆を入れたがんもどきとか。二人とも同時に美味しい顔をして、二人で顔を見合わせる。休みの前にはちいさなグラスでビールを飲み、でかいテレビでDVDを観て、三人でああだこうだと言い合って、リビングで毛布をかぶってそのまま寝てしまった。

 二人は二回目の候補になった大きな賞を獲って、受賞作はベストセラーになった。海外で翻訳されたり、別の本が映画になったりもした。二人は覆面作家のままで、変わらず幸せそうに暮らしていた。俺も幸せだった。幸せであることを忘れるぐらい。

 二人は北海道に行った。取材のためだった。

 お土産を買ってくるよ。

 笑う生瀬の横で、彼女も笑って頷いた。土産はどうせ古本だろうな、と俺は思っていた。生瀬はいつもそうなのだ。

 土産はもらえなかった。北海道で、生瀬は事故に遭って死んだ。


 雑炊を、彼女は茶碗に一杯のろのろと食べて、ごちそうさま、と言った。

「もういらないか」

 一応尋ねると、予想したとおり頷いた。残りの雑炊は俺が食べた。たいした量でもないのに口の中の傷に沁みるし、飲みこめば喉にひっかかるような気がして、最後の方は無理に押し込んだ。片づけをして、部屋を軽く掃除している間、彼女はずっと仕事をしていた。この頃、ずっとそうだ。生瀬が死んで、二人は一人になって、それを補うように、彼女は仕事しかしなくなった。生活はどんどん荒れて、誰とも付き合わず、あんなに好きだった映画さえ観なくなり、ただただ夢を見て、細い指でキーボードを叩いて現実に縫い止める。

 いっしょにしねばよかった。

 耳の複雑に入り組んだ器官のどこかに潜んだその声は、ちょっとした刺激でよみがえり、俺を突き刺す。

 生瀬が、死んで。俺も彼女も呆然としていた。遺体の生瀬は真っ白い顔をしていて、本当に子供のようだった。瞑った瞼の端に、黒い睫がびっしりと生えていた。もう二度と開かない瞼。恐ろしかった。現実とは思えなかった。こんなことが起こるはずがなかった。生瀬が死んでしまうなんて、そんなこと起こるはずがなかった。生瀬は俺の世界の一番大切な部分に嵌るもので、それなしにやっていくなんてできるはずもない。

 彼女は俺の横で、俯いていた。生瀬と同じぐらい白い顔。生瀬なしの彼女。生瀬なしで、彼女はこれからどうやって生きていくんだ。俺ならまだしも、彼女は。一人で。それならいっそ。いっそ、

 色褪せてかさかさになった唇が開いた。

 いっしょにしねばよかった。

 全ての感情が抜け落ちた顔と違って、その声は悲しみに罅割れていた。俺は何も言えなかった。唇が震えた。生瀬なしで、一人で生きていく彼女。俺は。俺は、さっき、何を考えていた?

 沈黙はどれだけ続いただろう。いつの間にか、彼女は俺を見つめていた。彼女の瞳の色は薄い茶色で、こんなに淡い色だったことを、俺はそれまで知らなかった。彼女のことなど、ほとんど知らなかった。彼女自身のこと。

 俺はまだ言葉を見つけることができなかった。どんなふうに探したところで、俺が彼女に言えることなどひとつとしてなかった。俺は自分の愚かさを思い知った。俺は愚かで、汚かった。

 彼女は瞼を伏せ、茶色い瞳を隠した。唇は閉ざされ、もう何もそこからは出てこなかった。彼女は俺と違い、愚かではなかった。だから俺の目から、きちんと俺の言わなかった言葉を読み取っていた。もう取り返しはつかなかった。

 受け入れがたくても、どれだけ惨くても、生瀬は死んでしまった。もうこの世界に生瀬はいなくて、決してもう戻ってはこない。俺たちは生瀬なしの世界でやっていくほかなかった。それが現実だった。現実には何の慈悲もない。起こることは起こり、起こったことはもう戻らない。一人ぼっちになった彼女は暗い部屋で窶れ、俺はただそばにいる。そこに幸福はない。もう戻ってはこない。彼女の書くものは面白くよく出来ているが、そこに生瀬がいるのかどうか、もう俺にはわからない。部屋からも少しずつ、生瀬の気配が消えていく。どれだけ前に進むのを拒んでも、時間には抗えない。

 かたかた、と彼女の指がキーボードを叩く。俺は部屋の隅に座り込んで、それを見つめている。生瀬のパジャマを着て、生瀬の喪失にやつれた小さな女。かつて俺にとって何より大切だった二人の片割れ。このリビングで、夜明けに俺の好きな映画の話を、横になって小声で延々語り続けたことがある。とても身近なつもりでいて、だがほとんど一人と一人として向き合ったこともない相手。今は喪失によってしか結びつかない相手。

 いっしょにしねばよかった。

 俺は膝に顔を埋める。

 俺の心をなぞるようだった、その声。生瀬の夢が、気配が、ゆっくりと萎れていくのも見続けるぐらいなら、いっそ、と、あのとき、俺は確かにそう思ったのだ。愚かで、汚い俺は、あのとき確かに、それを考えた。彼女はそれを見た。なかったことにはできない。決してできない。

 キーボードの音がやむ。顔を上げると、彼女がこちらを見つめていた。色の薄い瞳。俺はもう、この色を知っている。忘れることはきっともうない。

 彼女はふいと視線を落とす。睫毛のつくる影が隈に溶け込む。萎れた頬。ひび割れた唇。肉を抉り取ったような顎から首にかけての線。光を溶かして黒と混ぜたような髪。ずっと知っていて、でも知らなかった女。それでも今、誰より俺に近い存在だった。

 なんだか泣きだしそうになって、目を閉じた。

 いっしょにしねばよかった。

 俺はあのとき何も言えなかった。自分の悲しみと醜さに打ちのめされていた。俺をまっすぐに見つめた彼女の瞳。この世に二人といない男と分かちがたく結びついていたこの女もまた、この世に二人といない、ここにしかいない女だった。

 いっしょにしねばよかった。

 愚かで汚い俺は、その言葉を否定することができなかった。今でも、できるかはわからない。俺の中の入り組んだ部分に、その言葉が汚れた望みとしてこびりついている可能性を、否定しきることはできない。

 それでも。

 かたかた、と音がする。彼女の夢が、彼女一人の指で文字になっていく。その夢はかつて高校生の生瀬が俺に見せてくれたものとも、二人で作り上げたものとも、違う。俺は彼女の物語を生瀬や二人の物語のように楽しむことはできない。それでも、それは価値ある物語だった。この世界に必要な物語だった。

 俺は立ち上る。いくらかおかずを作り置きしておこう。作っておいても冷蔵庫の中でただ痛んで、俺が次に来た時に廃棄するのかもしれない。そうなったら、きっと俺は憂鬱だろう。でも作っておきたかった。

 俺たち二人とも、君のことが、本当に、好きだよ。

 生瀬の声がよみがえる。俺もだよ、と、俺はどうして言えなかったんだろう。俺も好きだ。お前たち二人のことが、本当に好きだ。この世界の誰よりも、好きだ。

 言うべきだった。でも言えなかった。もう生瀬に、そう言うことはできないのだ。どれだけ大きな宿題も、果たせないまま死は俺と生瀬を隔てた。

 かたかた、と、音がする。生きている。俺も、彼女も、生きている。そして俺はいつか死が向こうからやってくるときまで、生き続けるだろう。正しいとか間違ってるとかは関係なく、現実とはそういうものだからだ。

 いっしょにしねばよかった。

 俺は何も言えなかった。それを、考えていたから。二人で一緒に死んでくれていたら、準備の出来ていない俺のところに突然やってきた幸福が、完全に持ち去られていたら、そちらのほうがきっとずっと、わかりやすいのに、と、愚かで汚い俺は、考えたのだ。死さえ二人を分かつことはできなかったのだと、俺は多分、そう思いたかった。

 生瀬が死んで、時間が経って、俺の悲しみは、最初の衝撃とは違うものへと変わりつつある。俺は眠り、飯を食い、仕事をし、彼女の面倒を見るようになった。少しずつ、少しずつ、喪失は現実に馴染んで、俺はそこを普通に歩く術を覚える。いつか、ずっと未来に、俺はもっと平然と生瀬の死を思い出すのかもしれない。そんなことは今はとても信じられないが、現実は俺の心とは関係ない。なるべくように、なるだけだ。いつか、ずっと未来に。それが幸福なのか、苦しみに満ちたものなのかはわからないが、今とは違うものになっているだろう。生瀬のいない、未来。俺は今、それが恐ろしくてならない。だがその恐怖にも俺は慣れていくだろう。それが時間だ。時間には、抗えない。俺は怯えながら、でも前に進む。他にできることはない。

 かたかた、と、音がする。現実の音だ。そこに、幻が重なる。

 いっしょにしねばよかった。

 お前がそう言ったとき、俺は否定できなかった。今でも、その気持ちが欠片もないなんて、言えない。でも俺の考える未来に、それがどれだけ恐ろしいものでも、そこにお前がいてほしいと願うのもまた、本当のことなんだ。

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生き延びた二人のこと 古池ねじ @satouneji

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