狂気の缶詰
椎堂かおる
狂気の缶詰
十年ぶりで、親友が訪ねてきた。
月の明るい晩だった。
僕がひとり、月を
お互いに十年分の年をとっているはずだが、向きあってみると、昨日別れたばかりのような気がした。
「実は今日は、お前に頼みごとがあって来た」
親友は、久しぶりだなとも、こんばんはとも言わず、いきなりそう切り出した。
戸口で話すのも奇妙だ。
僕は彼を部屋に招き入れ、晩酌のグラスを、もう一人分追加した。
しかし彼は飲まなかった。僕が注いだ酒が見えもしないかのように、全く手をつける気配もない。
古ぼけたソファに座り、親友の目は
ちょうど、今夜の月のように。
「頼みごととは、なんだい」
酒を舐めながら、僕は尋ねた。
親友は、肩から提げた古い革のカバンから、ひとつ、缶詰を取り出した。ツナやら
ただ、何も書いていない、真っ黒な紙のラベルが巻いてあり、中身が何なのかは、一見しただけではわからなかった。
親友はそれを、僕と彼との間にある、古いガラスのローテーブルにことりと置き、手を引っ込めた。
彼の目は、まるでその缶詰が、今にも爆発するかのように、注意深く見つめている。
「これを預かってほしい。お前にしか頼めないことだ。よろしく頼む」
喉が乾いているふうな、切羽詰まった声で、彼は言った。
カバンをおろす気もないようだった。
「頼むと言われてもなあ。これ、中身は何なんだい?」
参ったなと思いながら、僕は鼻をすすり、缶詰を見下ろした。それを手に取ろうという気持ちは、なかなか起きなかった。
「中身は……」
言いかけて、
月明かりの中、僕は彼の沈黙に付き合った。
薄暗い部屋の中、窓から見える月のほうが、
僕の部屋には薄物のカーテンなどという、立派なものはない。月を見るため、窓を開け放つと、部屋の中は丸見えだ。
もしも誰かが覗いてみれば、ふたりの男が、缶詰を間に、じっと黙り込んでいる光景が、少々、
「中身は、俺の狂気だ」
突如、意を決したように、親友は言った。
まるで舞台の台詞のようだった。
実際、彼は学生時代、演劇にかぶれていたことがある。
なかなか見栄えのするご面相と、長身のせいで、いつも良い役をもらっていたように思う。時々、彼の出演する舞台を見に行った。
しかし演劇のことは、からきし僕にはわからない。
舞台の上にいるときも、そうでない時も、彼は全然変わらないように見えた。
全く演技していないのか、それとも、常に演技をしている男なのかだ。
「どういう意味だい?」
ふざけているのかと、僕は思って、
「そのままの意味だ。俺は狂い始めている。このままでは、何もかもがお終いだ。だが、その缶詰の中に、俺の狂気を閉じ込めることに成功した」
矢継ぎ早な早口で、彼は言った。缶詰を見据える目が真剣だった。
僕はぼんやりと
缶詰には、それを開封するための、プルリングがついていて、引っ張れば簡単に開きそうに見えた。
「お前が持っていてくれ。俺は恐ろしい。これを預けることができる人間は、お前しかいないんだ」
苦悩の表情で、疲れた肌色の顔をこすり、彼は僕に
後にも先にも、この親友が頭を下げて僕にものを頼むのは、この一度きりだった。
返事をする代わりに、僕は鼻をすすった。
少しの間、考えた。それとも、月を見ていただけかもしれない。
やがて僕は酒を飲み、肩をすくめた。
「いいよ」
微笑んで言うと、親友は心底、ほっとしたような顔をした。
「ありがとう」
そう言って、彼は立ち上がった。
「もう帰るのか」
十年ぶりなのに。何も話していかないんだな。
重そうなカバンを肩から提げ直し、親友は必死の
手付かずのグラスと、黒い缶詰が後に残った。
最後の酒を飲み干して、僕は狂気の缶詰を手にとった。
少しの間、それを手のひらで転がしてみる。
軽かった。とても。
どこへ逃げるつもりなんだよ、お前。
少し笑って、僕はプルトップを引いた。
パカン、と軽い音がした。
薄暗い
客に出したつもりのグラスから、僕はもう一杯の酒を呑んだ。
カランと氷が鳴った。
あばよ。
僕は声に出して、そう言った。誰もいない、月明かりの射す部屋で。ひとりぼっち。
その翌朝のことだ。新聞に、彼のことが載っていた。
朝一番の列車に飛び込み、細切れになって死んだと。
雨の降っている朝だった。
そういえば、
【完】
2012.05.25 初稿 1945文字
2016.03.25 改稿 2128文字(ルビ含む)
狂気の缶詰 椎堂かおる @zero
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