第五章(4)
僕は目を覚ました。いや、少し違う。僕は意識を取り戻した。
僕は眠っていたのではなく、無意識になっていた。踊ることによって、トランス状態になっていた。そして、春日麻美さんの霊を自分に憑依させていた。
ここは体育館のステージであり、僕は立ったままである。身体に痛い箇所はなく、すでに体力は戻ったようだ。とりあえず周囲を見てみる。
「おはよう。お姫様」
ドレス姿の高瀬さんがいた。しかし高瀬さんにしては様子が変だ。微笑んで冗談を言ってきたが、いつもの陽気な雰囲気が感じられない。むしろ人を和ませるような感じで、ゆったりと話した。
「ああ、おはよう」
さらに周囲を観察してみた。周りにはさっきまで交霊会にいた人達が散り散りに立っている。高瀬さんの少し奥に津島さんと会長が、左側には黒田先生、春日さん、長田君がいる。
全体を見回せたところで、再び高瀬さんを見た。
「ねえ、高瀬さん。交霊会は成功したの? それと今は何時?」
そう訊いてみると、高瀬さんは「うふふ」と笑った。やはり違和を感じる。
「交霊会は成功したわ」
交霊会の成功に安堵したのも束の間、決定的な違和感に直面した。したわ――。高瀬さんはそんな言葉遣いをしないはずだ。
「交霊会が終わって、今は七時前だけど、私は高瀬さんじゃないわよ」
「えっ?」聞いた瞬間は意味が分からなかった。しかし、少し考えると高瀬さんが言ったことを理解した。つまり、交霊会はまだ続いているのだ。
「姉さん……」
高瀬さん、もとい姉さんが破顔した。
「そうよ。久しぶり」
ああ、本当に久しい。というか、こうして出会うわけがないはずだ。しかし姉さんはここにいる。高瀬さんによって、僕の願いが叶っているようだ。
「高瀬さん。嘘だと白状するなら今のうちよ」
隣に立つ津島さんが、怪訝そうに高瀬さんを横目で見ている。対する姉さんは微笑に戻って、一瞬だけ津島さんを見遣った。
「疑り深い子なのね。肩の力を抜きなさい」
姉さんに窘められて、津島さんは口を噤んだ。
「ところで姉さん、どうして今も……?」
姉さんは胸に手を当てつつ、答える。
「皆に話したいことがあるから、この子に頼んでみたの。そうしたら渋々だけど了承してくれたわ。私も、これがあんまり良くないことは分かっているんだけどね。けどやっぱり、私もこの子も皆に真実を知ってもらいたいと思っているから」
確かに、本人の口から事の顛末を聞けるならありがたい。それにしても、あんなに厳しいことを言っておきながら高瀬さんも甘い人だ。
「じゃあ、始めますか」
そう言いつつ、姉さんは立ち上がって、まず右を向いた。彼女の視線の先には春日さんがいる。視線の対象である春日さんが一瞬身を強張らせたが、すぐに直立して姉さんを見据える。対する姉さんは――。
「ごめんなさい」
と言い、深々と頭を下げた。春日さんは不思議そうに口を小さく開けたが、驚くようなことではない。むしろ当然の流れだろう。
「去年、あなたには酷いことを言ったよね。『もう私に関わらないで。自由にして』って。しかも、私に霊が視えることとかいろいろ話しちゃって。本当にあの時の私はどうかしていたわ。本当に……本当にごめんなさい」
「いえ……そんな……それより……」
春日さんがゆっくりと言葉を出しながらも、
「白川先輩とお姉ちゃんのこと、詳しく聞かせてください」
最後には、はっきりとこう告げた。対する姉さんは頭を上げて、小さく首肯した。
「ええ。八年前の火災で、私は春日麻美さんに助けられたの。勿論、その時はあの人の名前なんて知らなかったけど……。避難の時一緒になって、瓦礫が崩れた時に、あの人が突き飛ばしてくれたお蔭で、私はしばらく気絶していたけどその後に来た救急隊員に助けられたらしいの。けどあの人は閉じ込められて、そして、あんなことに……」
春日麻美さんの犠牲により、姉さんは命を救われた。それが真相だったようだ。
「それで、私のことなんだけど、あの時私は瀕死の重傷を負っていたの。煙を結構吸っていたらしいからね。それで、目覚めてから、私には霊が見えるようになったの。まあ、見ないように努力すれば大抵の霊は見えなくなるから、あまり気にしなかったし、周りに不思議がられることがなかったから、別に良かったんだけど……。そういうのを気にしなかったから、中学で照美ちゃんに会って、麻美さんの話を聞いて、この学校に来ようと思ったんだけど……。ここに入学して、体育館で麻美さんの霊に会ったわ。顔が潰れて見えなかったけど――きっと火災で崩れてきた瓦礫の所為ね……」
姉さんは咳をすることで一拍置いた。
「ごめんなさい。そんなことより……一思と静香ちゃんには見せてないけど、振り付けのノートにはドイツ語で他のノートのありかが書かれていて、そのノートには踊りの本当の姿が記されていたわ。悪いけどそのノートは処分しちゃった。それで、いろいろ調べていくうちに霊があの人だということが分かったの」
会長が見たという外国語の文とはこのことだった。
「それで私は麻美さんをどうにかしようと思った。彼女の霊は見ようとしなくても、見えてしまうの。それが怖かった。逃げたかった。もう彼女のことを見たくなくなったの……」
臆病、それが姉さんの本質だ。姉さんはそれを僕や会長だけでなく、他の皆に告白した。霊になったのだから、自分の本性を晒すことに躊躇いがなくなったのかもしれないが、理由はどうあれ僕にとっては嬉しいことだ。
「でも、命の恩人だから、麻美さんを霊界へ導こうとしたの。綱敷姉妹の踊りを利用してね。けど、本心は、麻美さんを自分の眼の前から消し去ってしまいたかっただけ……」
「でも、白川先輩はお姉ちゃんを救おうとしてくれました」
春日さんが大声で言う。姉さんは驚いたが、それに構わず春日さんが続けた。
「確かに先輩は逃げようとしたのかもしれません。けど、先輩はお姉ちゃんを救おうとしてくれました。お姉ちゃんにとっても、私にとっても、それ十分です。むしろ、先輩の苦しみを分かってあげられなくて、先輩は凄い人だからオカルトなんてことをするはずがないとか、勝手に妄想していてごめんなさい」
今度は春日さんが深々と頭を下げた。この姿に、姉さんは微笑みをもって応えた。
「照美ちゃん……強くなったね……」
春日さんは顔を上げたが、視線を姉さんから逸らした。
「いや……そんなこと……」
そこで、長田君が春日さんの肩に手を置いた。
「謙遜すんなって。実際、お前は強くなったよ」
そう言われて、春日さんが再び姉さんの方を向いて、深々と礼をした。
「ありがとうございます」
その感謝の言葉に、姉さんは微笑みを返して。そして彼女は長田君の方を向いた。
「長田君。照美ちゃんはこんなに素敵な子だから大切にしてあげなさい」
姉さんも長田君の好意を見破っていたようだ。長田君と春日さんは互いを見遣り、そしてすぐに目を逸らして俯いてしまった。
しかし、すぐに長田君が顔を上げた。
「はい。必ず」
良い答えだ。姉さんもそう思ったのだろう。満面の笑みを浮かべた。
そして姉さんは、顔だけを僕に向けた。
「ところで、一思。そのペンダントなんだけど、くれないかな」
ああ、その問題がまだだった。僕は迷わず、自分の首に手をかけて、ペンダントを外した。そして、それを姉さんに渡した。ペンダントが姉さんの手に渡ると、姉さんは再び春日さんを見据えた。そのころには、春日さんはしっかりと姉さんを見ていた。
「さっきの交霊会で、去年と同じだったんだけど、私が『何かしてほしいことはありますか?』って麻美さんに訊いたその答えが『Give your necklace to Terumi』だったね。このペンダントね、私が気絶していた時に横に落ちていたものなの。麻美さんが咄嗟に、私へ放り投げたものだそうね。私は薄々そう勘付いていたけど、その時麻美さんのことなんて知らなかったし、小学生だったからというのもあるけど、調べようとしなかったの。けど、捨てる気にはならなかったわ。あの頃は、捨てると麻美さんに呪われると本気で思っていたものね。そして、一思に渡したわ。これも私が麻美さんから逃げた結果よ」
しかし、そのペンダントを僕から受け取ったということは――。
「けど、もう逃げないよ。私は私の役目を果たす。だから、照美ちゃん。このペンダントを受け取ってほしいの」
それが春日麻美さんの願いであり、姉さんのけじめだ。しかし春日さんは浮かない顔をして、僕の方を向いた。
「堤君はいいの? 先輩の形見でしょ」
この期に及んで、春日さんは何を馬鹿なことを言っているのだろうか。僕はそれ程空気の読めない人間ではないし、そもそもそのペンダントに未練はない。
「それ以前に、春日麻美さんの形見でしょ。いいよ。それは君が持つべきものだから」
僕が了解すると、姉さんは春日さんへと歩み寄った。そしてペンダントを春日さんの首にかけてあげた。
「似合っているよ」
そして姉さんが元の位置に戻った。春日さんは今にも泣き出しそうな顔をしている。
「はい……。ありがとう……ございます……」
これでいい。ペンダントの問題は無事に解決した。
「さて、一思……」
姉さんは僕の方を向いた。これからが僕にとっての本番だ。高瀬さんが与えてくれた唯一のチャンスだ。ここで姉さんとの決着をつけよう。
「謝らなくていい」
姉さんが頭を下げようとした瞬間、僕はそれを制止した。すぐに姉さんの視線が戻る。
「謝らなくていい。交霊会のことは……。僕は、姉さんに利用されることが好きで、あの話を呑んだわけだし、交霊会のことを隠していたことも、姉さんのこと分かっているから、責めるつもりはない。ただ……」
一つ、腑に落ちないことがある。それを説明してもらおう。
「どうして、幽霊が見えることを黙っていたのか、それを説明してほしい」
自分に幽霊が見えること。姉さんはそれを僕に教えなかった。小学生の頃から、隠されていた。それに関して納得のいく説明がほしい。
姉さんは笑みを消して、僕を見据えた。
「あなたに、霊の世界を知ってほしくなかったからよ……」
「僕に嫌われると思ったから……?」
間髪入れずに、僕は質問を加えた。
「それもあるし、度々あなたの周りに霊がいるのが見えてたから……。それに、一思は偶に私の前ですごく体調が悪くなったことがあったでしょ。あれは霊が原因だってことは分かってたわ。少し調べたら、あなたに霊能力があることも分かった。自分にそんなものがあるって分かったら嫌じゃない? だから、あなたには隠してたのよ……」
それは僕に対する冒涜だ。自分の表情が険しくなっていくのに構わず、僕は反論した。
「ふざけないで。僕がそんなことを知ったくらいでショックを受けるような、姉さんを嫌うような人間に見えていたの?」
思わず声を荒げてしまった。けど、これが僕の本心だ。姉さんの臆病さには寛容であろうとしているが、これは看過できない。
「姉さんにとって、僕はその程度の人間だったってこと?」
「ごめんなさいっ!」
姉さんは今度こそ、深々と頭を下げた。
「今、あなたが言った通りよ。一思なら受け入れてくれると思っても、万が一のことを考えると、言い出せなかったくらい、私は臆病者だったのよ」
やってしまった。謝らなくてもいい、と言った癖に、姉さんを謝らせてしまった。さっきの僕の追求は傍から見ても謝罪を要求しているようにしか思えないだろう。まったく、僕はまだ姉さんのことを理解できていなかったようだ。
「顔を上げて、姉さん。僕の方こそ……ごめんなさい……」
僕も頭を下げた。しばらくして双方顔を上げて、互いを見つめ合った。
「文化祭の踊りを交霊会にしたのは……僕のため?」
今までのやり取りから、一つの結論が浮かんだ。案の定、姉さんは首肯した。
「そうよ。あなたに霊のことを悟られないようにするにはそれしかなかったの」
僕に霊のことを伝えられたなら、文化祭とは関係のない時に交霊会を行えばいい。逆に言えば、文化祭と関係のない時に交霊会を行うには、僕に霊のことを伝えなければならない。それができなかったから、姉さんは踊りというカモフラージュを使った。僕をただの代役として踊ってもらうことにしたのだ。
姉さんはしつこく頭を下げようとする。
「だから……ごめ……」
「だから、謝るのはいいよ」
今度は本当に謝らなくていい場面だ。さっきそう伝えたはずだ。
「それより、誉めて」
姉さんに謝ってほしくない。しかし、姉さんに誉めてほしい。僕は姉さんの為に行動したのだ。それくらいの報酬を求めても呪われないだろう。
姉さんは顔を上げて、満面の笑みを浮かべてくれた。
「そうだね。ありがとう」
表面上では感謝してくれているが、やはり姉さんは自分を責めているのかもしれない。しかしそんなことはどうでもいい。姉さんの本性なんて今は思考の脇に置いておこう。そう思える程、綺麗な笑顔だった。
姉さんはその表情のまま、会長の方を向いた。
「静香ちゃんもありがとう。私の我儘を聞いてくれて」
会長も笑顔で応えた。
「いいえ。どういたしまして」
そして、姉さんが周りを見回して、もう一度、深くお辞儀をした。
「今日は、私がやり残したことのために集まっていただいてありがとうございました。これで、私も快く霊界に戻ることができます」
再び上がった姉さんの笑顔を、皆が満足そうに見ている。
これで大団円か――――――。
「そろそろ、この身体を持ち主に返します」
いや、僕は馬鹿か。一番大切なことを終えてないではないか。
「では、皆さん」
僕はどうして姉さんに会いたいと願っていたのか。それを思い出せ。
「さよ……」「待って!」
僕は大声で、姉さんを制止した。そして再び姉さんと向かい合う。
「一思?」
今、これを言わないで、いつ言うのだ。周りのことなどどうでもいい。元より、そんなことを気にするような性格ではない。それに、ここで言わなければ男ではない。
「姉さん……」
いや、こんな場面まで姉さん呼ばわりでは締まらないだろう。
「いや、一魅。僕……一魅のことが好きです。大好きです」
言えた。今まで言えなかったことがようやく言えた。
もう伝えることができないだろうと思っていたことを、伝えることができた。
対する姉さんは僕に微笑みを投げかけて――。
「こらっ、好きだったでしょ」
当然のことだが振られた。相手は幽霊なのだ。むしろ告白が受け入れられた方が困る。
「でも、ありがとう。本当は戻る振りをして、私の方から好きって言おうとしていたのだけど、あなたから言ってもらえて嬉しいわ。私もあなたのこと好きだったよ」
もし、姉さんが今でも生きていたとしたら――。
「なぁんだ……。私達両想いだったんだね」
そう言って、姉さんが哀しそうに目尻を細める。
「どうして私達、恋人同士にならなかったのかな……」
その理由は分かっている。多分の訊いた本人も分かっている。姉さんは臆病で自分の本心をひたすら隠して、僕は姉さんの臆病さを直そうとしか考えていなかった。たとえそこに恋愛感情はあっても、恋愛関係を築く意志はなかったのだろう。
「そうだね……。僕も後悔してる……」
「私とキスでもしたかった?」
「えっ?」と訊き返そうと思っている間に、姉さんが目を閉じて顔を近づけていた。
まさか、と思っている間に、僕と姉さんの唇が重なった。
周りが少し騒がしいが、気にすることはない。さっき姉さんが言った通りだ。僕の望みはまた叶ってしまった。しかし、一点だけ僕の望みと異なることがある。
姉さんが口を離して、言った。
「この子のファーストキス、奪っちゃったかな」
今姉さんは高瀬さんの身体を使っているわけであり、つまり物理的には僕と高瀬さんがキスをしたことになる。高瀬さんが少し気の毒だ。
「まあいいわ。多分覚えていないだろうし……」
姉さんはまだ身体を屈めたままであり、僕と姉さんの顔は頭一つ分しか離れていない。
「これで、お姫様は目覚めたわ」
お姫様とは僕のことだ。散々そう言われてきたのだから、もう否定するのが疲れた。しかし目覚めた、とはどういうことだろうか。
「僕、すでに起きているけど……」
そう言い返してみたが、姉さんは首を横に振った。
「いいえ。あなたは眠り姫で、今のは王子様による目覚めのキスよ」
自分は王子様か――。それにしても、まだ意味が分からない。
「交霊会の前に、この子に怒られたの。『堤君はあなたの人形じゃない』って」
人形というのは――これまた言い得て妙だ。
「まったく、鋭いわね。あの踊りだって、女の子二人でしたことで人形遊びを表していたらしいの。それはともかくこの子の言う通り、私は一思の自由を奪っていたわ。それと……」
姉さんは身を起こして、津島さんの方を向いた。
「ねえ、そこの長い黒髪の子……あなた津島さんって言ったよね。確かあなた、私のこと枷だって言ったわよね?」
姉さんの問いに対して、津島さんは首肯した。
「ええ、そうよ……いえ、そうです。どうしてそれを知っているの……ですか?」
高瀬さんと姉さんのどちらを相手にしていると考えるべきか戸惑っている津島さんを見て、姉さんはくすりと笑った。
「ふふ、いいわよ。無理に敬語を使わなくて。見た目はあなたの友達なんだから」
「友達……そうですね。いえ、そうね。そうさせてもらうわ」
津島さんが高瀬さんのことを友達と認めてくれていることは嬉しい。そして、津島さんが姉さんに対して敬語を使わなくなったのは、単に姉さんに指摘されたからではなく、幽霊を信じていないことを示すためだろう。
「えっと、さっきの質問だけど、私達霊はいつでもあなた達のことを見ているのよ」
そうなのか。今度高瀬さんに詳しく聞いてみよう。
「それより枷のことなんだけど……言い得て妙よね。その通りだと思うわ。けど、私は人形遊びや枷と言うより呪いだと思う。私は一思のこと呪っていたのよ」
「違う。そんな呪いは幻……。その幻に僕は呪われたんだ……」
決して姉さんの所為ではない。気休めにしかならないと思ったが、それでも姉さんに言っておきたかった。その言葉に、姉さんはくすりと笑った。
「そう考えてみると……《幻の呪い姫》って言い得て妙よね……」
「ふふっ……」僕も思わず吹き出してしまった。やはり幻だったのは姫ではなく、呪いのほうだ。そう思うと、何だか滑稽に感じてきた。
「とにかく、私はあなたの呪いを解いてあげたわ。あなたはもうお姫様じゃなくなった。私というお姫様はもう死んでいるから霊界に帰っちゃうけど、代わりに今生きているお姫様を大切にしなさい。あなたは、この子と津島さんが好きなんでしょ」
僕の好きな人も、姉さんにはお見通しか。
「ああ、大切にするよ」
今まで大切にしていなかったわけではないが、これからはもっと大切にしよう。死んだ姉さんの分まで、生きている高瀬さんと津島さんのことを大切にしよう。
「じゃあ、そろそろ行くね。さようなら」
姉さんが満面の笑みで別れを告げる。僕にはもうそれを引き留める理由はない。
「うん。さようなら。今までありがとう」
僕も笑顔を返した。この世界での、僕と姉さんの物語は終わってしまったのだ。なら、僕は新しい物語を紡ごう。
「こちらこそ、ありがとう」
姉さんがそう言うと、二三度瞬きをした。
「あっ、戻った」
どうやら、高瀬さんの意識が戻ったようだ。
「あぁぁぁぁ、疲れたぁぁぁぁ」
そしてすぐに、周りの目も気にせず、大きく背伸びをしていた。すでに今までの緊張があったものではない。高瀬さんがここまでリラックスしているということは、キスのことを覚えていないだろう。トランス状態時のことを覚えていないのは高瀬さんのような優秀な霊媒でも同じであるようだ。
僕が高瀬さんの傍まで寄ると、彼女も僕に視線を合わせた。
「高瀬さん、お疲れ様。いろいろとありがとう」
「どういたしまして。呪いが解けてよかったよ。お姫様」
「その認識は甘い」
高瀬さんの決め台詞を真似てみた。彼女は一瞬きょとんとしてみせたが、すぐに微笑み返してくれた。確かに僕は高瀬さんに救われた。そう考えると、僕はお姫様で、高瀬さんは僕の王子様かもしれない。でもそれはさっきまでの話だ。
「そうだね。でも、まだ王子様じゃないんでしょ」
その通りだ。僕は不甲斐無いあまりに、王子様になれていない。これからが本番だ。
もし高瀬さんのことがより好きになった時が来たら、高瀬さんの王子様になってみせよう。
もし津島さんのことがより好きになった時が来たら、津島さんの王子様になってみせよう。
可能性はかなり少ないが、他に好きな人ができたら、その人の王子様になるのもいい。
ただ、これだけは宣言する。
「でも、きっとなってみせるよ。今度こそ」
キスで呪いを解いて、お姫様を目覚めさせる、そんな王子様に。
幻の呪い姫 荒ヶ崎初爪 @hatsumeTypeB
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