第3話 そして………

 あの後、僕は町に帰り、役場の人と駐在さんに事情を話し、ハナグロのお母さんの遺体を回収してもらった。

ハナグロは僕が何としてでも引き取って飼うつもりだったが、野生の熊は自然に返さないといけないということで、その数日後に僕とハナグロは、泣く泣く別れることになった。遠くの山へ連れていかれ、花火で驚かされながら、森の奥に逃げていくハナグロを、僕は黙って見送るしかなかったのである。

途中、何度も何度も名残惜しそうに、僕の方に振り返るハナグロの寂しそうな後ろ姿を、僕は今も忘れることができない。

 あれからおよそ12年。

ずっと心の中でハナグロとの思い出を抱いたままだった僕は、熊出没のニュースを聞いて、いてもたってもいられず、こうしてこの懐かしい山に帰ってきた。

ハナグロと再会できるかもしれないという希望と、もしや僕のことをハナグロが忘れてしまっているのではという不安を胸に。

そして、やっとの思いで再会したハナグロは、やはり僕のことなど忘れてしまっていたのだろうか、僕の腕に噛みついたまま、離れようとしなかった。

この十二年間に、ハナグロはどんな辛い思いをしたのか僕には想像だにできない。

右も左も分からない山奥で、たった1匹残されたハナグロは、どんなに寂しい思いをしてきたことだろう?

仲間も家族もいない山奥で、どんなに不安で恐い思いをしたことだろう?

あの日、あのとき、僕がハナグロと友達になってすぐに、罠にかかった母熊の存在に気付いてさえいれば、もしかしたら母熊は助かったかもしれないのに。

 そう思うと、悔やんでも悔やみきれない。

しかもその罠が、僕の実家にあったものだと知ったとき、当時はまだ子供で何も知らなかったとはいえ、自分自身にも何か罪深いものがあるような気がしてならなかった。

だから、もう一度ハナグロに会って謝りたかった。

 そして今、そのハナグロが僕の目の前にいる。僕の腕に噛みついたまま、ひ弱なうなり声をあげて。

「………………………?」

そのとき、僕の腕に噛みついたまま、ハナグロの鼻がピクピクと動いた。

そして、噛みついていた顎の力をゆるめて、噛んだ跡を舐めながら、申し訳なさそうに上目づかいで僕を見上げた。

「僕の臭いに気付いた? もしかして、僕のことを覚えているの?」

ハナグロは、僕との日々を忘れてなんていなかった。今も僕らの友情は続いていたんだ。

「ハ、ハナグロ。ごめんよ。本当にごめん」

僕は弱々しく傷を舐めるハナグロの頭をなでてやった。

「もしも、もしも再会できたらと思って、持って来たんだ。ほら、懐かしいだろ?」

僕は鞄から、子供の頃、給食でいつも残し、ハナグロにあげていたコッペパンを出した。

その安っぽいパンを、気のせいかハナグロは目を潤ませて見つめていた。

そしてそれを口にくわえると、ゆっくりと小屋の外の方に向かった。

ダム湖に沈んだ村に、ハナグロの住み処だったあの村に、死んだ母熊に届けるために。

小屋の外に出るまで、ハナグロはあの日と同じように、何度も僕の方に振り返った。

僕にはその瞳が、『ありがとう』とでも言っているように見えた。

それを僕は、複雑な心境で見送った。

(あの村は湖に沈んで、もうないんだよ)

そう思ったけど、僕にはハナグロを止めることができなかった。

あの村は、ハナグロにとっては死んだ母熊と暮した、ただ1つの場所なのだから。

だから僕は、何も言わなかった。

だが、その次の一瞬、ハナグロが小屋から外に出ると同時に、

   ドンッ!!

耳をつんざくような銃声の後、僕の目の前でハナグロの痩せ細った体は、ゆっくりとその場に倒れ伏した。


 ハナグロは、何のためにこの世に生まれてきてしまったのだろう?

幼いときに母熊を亡くし、たった1匹で山奥に追いやられた。

ようやく廃村に戻ると、そこはすでに湖の底に沈んでしまって何も残ってはいない。

家族も住み処も奪われ、それでも母熊のもとに、エサを届けようとしていた。

やっと、ここまで生き延びてきたのに、人里に近づいたために殺されてしまった。

人里に食料があると知らなかったら、もしもあのとき、僕がハナグロに給食の残りなんかをあげたりしなかったら、こんなことになんてならなかったかもしれない。ハナグロを不幸にしてしまったのは、僕にも責任があるかもしれない。


 次の日、町の人に無理を言って、ハナグロの遺体は母熊が死んだダム湖のすぐ近くに、丁重に弔ってもらった。

ハナグロが、天国で母熊に会えますようにと祈って。


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ダム湖と子熊 京正載 @SW650

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