第2話 出会い

 僕の名は西園秀介。幼い頃、この小さな田舎町で育ち、今は都内で暮らしている。

生まれは先にも述べたように、この町よりさらに山奥にあった、今はダムに沈む小さな村で、その頃の記憶はあまり残っていない。

そんな僕がハナグロと出あったのは、今から十二年前、ダム湖の村からこの田舎町に引越しをして来て間もない、小学校低学年の頃のことだった。

その日も、転校してきたばかりで、慣れない学校の給食を残し、それを鞄に入れて帰る途中、あまり人気のない畦道を歩いていると、すぐ近くの茂みがガサガサと揺れて、そこから1匹の子熊が飛び出してきたのである。

野生の熊は危険だと分かっていたけど、見たところ、まだ生まれたばかりのようだし、近くに親熊の気配もなかったので、

「おいで、こっちにおいで」

何気なくそう声をかけてやると、子熊はこちらに振り向き、小首を傾げて僕を見つめた。

そんな何気ない仕草の一つ一つが、まるでよくできた玩具のヌイグルミのようで、僕はすっかりその子熊に心を奪われてしまった。

転校してきたばかりで、学校にまだ友達がいなかった寂しさのせいか、僕は必要以上にその子熊に親近感を抱いたのである。

子熊の方も、人間を危険と知らないのか、それとも好奇心からか、こちらに向かってトテトテと歩いて来る。

何か物欲しそうにこちらを見上げるので、僕は給食の食べ残しのハムをあげた。

山奥の村育ちの僕は、どうにも肉類が苦手な上に、比較的小食な方なので、いつも給食の半分近くを残してしまっていたのである。

子熊はその食べ残しの匂いをクンクン嗅ぎ、それが食料と分かるや、嬉しそうにハムに喰らいついた。

よほど腹が減っていたのだろう、あっという間にハムをたいらげた子熊は、次のエサをねだるように僕を見上げた。

すっかり気を許したようで、すり寄ってくる子熊に、僕は給食の残りを全部あげると、子熊はパンと天ぷらを口にくわえて、森の方に走り去って行った。

「きっと兄弟にでも、持って帰るんだな。何かいいことした気分だ」

茂みの中から、何度もこちらを振り返り、巣に帰って行く子熊を僕は見送った。

だが、そのとき僕はまだ、その過ちに気付いていなかった。


 その日以後、僕と子熊との、奇妙な関係が始まった。

もしやと思い、次の日も給食の食べ残しを持って行くと、茂みの中から待ってましたとばかりに、あの子熊が飛び出して来て、僕に催促するようにエサを求めてきたのである。

「おまえってホント、人懐っこいなぁ」

早速、給食の残りを与えると、子熊は嬉しそうにパンに喰らいついた。

それにしても、何故親熊が近くにいないのだろうか? 近くにいられても、それはそれで困るのだが、やはり妙に気にかかる。

そして、どういうわけかその子熊は、いつも給食をその場では全部食べず、残りを全部持って帰るのかが、不思議でならなかった。

「やっぱり兄弟がいるんだな、きっと」

何気なくそう思いつつ、僕は毎日、子熊に給食の残りや、近所で買ったパン等の食料を持って行くのだった。

そんな関係が数週間ほど続いて、いつしか僕は子熊に、鼻が真っ黒だったので、ハナグロと名前を付けた。


 そんなある日、掃除当番のため、いつもよりも帰るのが遅れた僕は、大急ぎでハナグロとの待ちあわせの場所に行くと、大勢の人が集まっていた。

近くの農家や町役場の人達が、心配そうな顔で、茂みの方を見ている。

どうにも物々しい雰囲気で、どこか近寄りがたいものがあったが、もしやと思って恐る恐る聞いてみた。

「ど、どうかしたんですか?」

「熊だよ。熊が出たんだっ」

「えっ!!」

その答えに、僕は間の抜けた声をあげた。

とうとうハナグロが、他の人に見つかってしまったのだ。

前々から、こうなることを心配してはいたが、今まで特に何もしてはこなかった、と言うよりも、どうすることもできなかった。

僕には友達でも、他の人にしてみればきっと、危険な獣と思われるに違いない。

だから今までずっと、内緒にしていたのだ。

(ど、どうしよう………………困ったな?)

戸惑っている僕の様子を見て、役場の人が言った。

「きっと畑を、荒らしに来たに違いないよ。石を投げたら驚いて逃げて行ったらしいけども、また戻ってくるかもしれない。危ないから子供は家に帰っていなさい」

「………………………」

「相手は子熊だけども、子熊がいるということは、近くに親熊がいるかもしれないんだ。だから急いで帰りなさい」

「で、でも……………………………」

(ハナグロは危険な熊じゃないよ)

そう言いたかったが、言っても無駄だと分かっていたし、元々が内気で友達もいなかった僕には、大人に逆らう意見を言えるだけの度胸もなかった。

どうしたものか戸惑っていると、交番の巡査さんがやって来て、

「本署の方にも連絡がとれました。すぐに猟友会の人がやって来ますよ」

僕は心臓が止まりそうになった。

せっかく友達になったハナグロが、撃ち殺されてしまうかもしれない。

そう思うと、恐ろしさで足が震えだした。

(ダ、ダメだ…………………)

僕は我慢できず、誰にも気付かれないように、道を遠回りしてから、山の方に走った。

いつもハナグロが、エサを持って行く方へ。

きっとその先に、ハナグロの巣があるハズな

んだ。

 茂みをかき分け、そして誰もこっちに来ていないか注意しながら、ハナグロを探した。

農家の人に石を投げられて、恐がっているかもしれない。

僕からエサをもらえず、お腹を空かせているかもしれない。

「ま、待ってろよ。すぐに行くからな」

森を進み、茂みを抜け、いつの間にか僕は峠を越え、山の反対側に出ていた。

眼下には、僕が生まれた廃村が見える。

村の中を通る小川の先で、建築中のダムが見えた。ここももうすぐダムに沈むのだ。

ハナグロは、この近くにいるのだろうか?

いつもハナグロが去っていく方角からみて、多分間違いはないハズだが?

少し不安を抱きつつ、もはや誰も住んでいない村の方に行こうとすると、少し前方の茂みの中に、ヨタヨタと進むハナグロの姿があった。

やっぱり、こっちに来ていたんだ。

「ハナグロッ!」

僕が声をかけると、ハナグロは驚いたようにこっちに振り返った。でもその瞳は、何かに脅えているようだった。

さっき農家の人に怒られたので、人間を恐いものだと思ってしまったに違いない。

「ハナグロ、恐がらなくていいよ。さぁ、今日も給食の残りを持ってきたからさ」

言って僕は、初めてハナグロと会ったときのように、恐がらせないよう、ゆっくりと鞄から給食を出した。

ハナグロも、少し警戒しながら僕に近づいて、そしてパンをくわえるや、逃げるように村の方に走って行った。

「そ、そんなに恐がらなくても……………」

一度知った人間の恐さは、そう簡単に消えないかもしれない。

ハナグロにとっては、僕も他の人間も同じなのか?

せっかく友達になって仲良くなれたと思っていたのに、まさかこんなことで、その友情が崩れてしまうなんて………………。

僕はいたたまれなくなって、ハナグロの後を追った。

 僕の前を走るハナグロは、もうすぐダムに沈む廃村を、自分の庭のように走り回った。

ここには恐い人間はいない。

どうやらここが、今のハナグロの住み処なのだろう。

それにしてもハナグロは、パンをくわえたまま、どこまで行くつもりなのだろうか?

ここには他に敵はいないのだから、早く食べればいいのに?

やはり兄弟か仲間でもいて、分け与えるつもりなのだろうか?

そう思いながら後をつけて行くと、ハナグロは一軒の家の裏庭の方に入って行った。

「えっ、まさか?」

何とそこは、かつて僕がこの村に住んでいたときの家であった。

「な、何で僕の家に? もしかして、今はここにハナグロが住んでいるのかな?」

これも偶然か、それとも何かの縁なのか、僕はハナグロに対し、以前にも増して親近感をおぼえた。

まさかこんなことがあるなんて?

すでにあちこちが朽ち果て、今にも崩れてしまいそうになっているかつての我が家に、少し感慨深いものを感じ、幼い頃のことを思い出しながら、ハナグロの後を追って行くと、裏庭の真ん中で妙なモノを見つけた。

「え、ドラム缶?」

それは間違いなくドラム缶であった。

いつからここにあったのか分からないが、すっかり赤錆に覆われているので、数ヶ月は前からここにあったに違いない。

でも何故こんなところに、こんなものが転がっているのか分からなかった。

そして、何故かハナグロは、そのドラム缶に寄り添うように座り、持ってきたパンをその前に置いたのである。

「何でドラム缶にパンを?」

訝しく思い、僕はパンが置かれているドラ

ム缶の前の方に行くと、そこにはすでにカビが生えて食べられなくなったパンが、いくつもいくつも積み上げられていた。

ずっとハナグロは、僕があげたエサを、仲間ではなく、このドラム缶に届けていたのだ。

(でも、何故ドラム缶に?)

そう思って、よくドラム缶を見てみると、それはただのドラム缶ではなく、ドラム缶を改造して作られた、熊捕獲用の罠であった。

何も知らずに熊や猪が中に入ると、檻になったフタが閉まり、閉じこめるというもので、こういった田舎で熊による被害がでると、よく使われるものである。

「ま、まさか………………………」

急に僕は、胸の中で言い知れない不安を感じて、その罠の中を見ると、そこにはすでに白骨と化した、熊の死体が入っていた。

それはきっと、ハナグロの母熊に違いない。

ハナグロは罠にかかって出られない母熊のために、麓の僕が住む町までエサを探して、こうして持ってきていたのだ。

すでに母熊は死んでいるものとも知らずに。

そして僕は、ようやく思い出した。

この村を出て町に行く少し前、畑を熊に荒らされたので、罠を仕掛けたが、すでに過疎化がすすみ、村がダムに沈むことが決まったので、みんなで村を出ることになったのを。

そのとき、すでに必要もなくなった罠は回収されず、そのままになっていたのを。

「罠に閉じこめられたまま、ずっと誰にも見つけられずいたのか……………」

僕の頬を涙がつたった。

幼い頃、畑を荒らす熊をあんなに嫌っていたというのに。

あまりに哀れなハナグロ親子が、僕には不憫でならなかった。

涙ぐむ僕を見て、僕に対してか、それとも天国の母熊にか、ハナグロはとても悲しそうな鳴き声をあげた。

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