ダム湖と子熊

京正載

第1話 再会


 見慣れた故郷の山間を、古びた単線列車はゴトゴト揺られながら走っていく。

所々に錆が目立ち、シートもボロボロ。いまだにエアコンも装備されてなくて、冬には車内でストーブが焚かれるという年代物だ。

いつものことながら、そのうちに壊れるんじゃないのかと心配しながら、懐かしい景色を眺め、僕は帰郷の途についている。

まあ、帰郷とはいっても、これから行く先は、僕が幼い頃に育った田舎町であり、本当に生まれた実家は、もうダムの底に沈んでしまっているが。

さて、今回僕が、急に帰郷を思い立ったのは、何も仕事の休みがとれたからとか、故郷が恋しくなった、といった理由からではなく、先日、テレビのニュースを見たからだった。

『のどかな田舎町に、熊出没!!』

近年の土地開発だとか、ゴルフ場の建設だとかで、山に野生動物の住む場所が減り、人里に出てくるといった話題はよく耳にする。

今回も、それと同じような理由なのだろうと、誰もがそう思っているだろう。だが、

「まさか、ハナグロのヤツじゃないだろうなぁ?」

電車の窓枠に肘を預け、嫌な予感を感じつつ、僕は故郷の空を見上げた。


 久しぶりの故郷の駅は、去年、来たときとは打って変わり、多くの人で賑わっていた。

以前は、ほとんど無人駅になる一歩手前といったくらいに、寂しい小さな駅であったが、今はまるで別の駅にでも来てしまったかのように、駅の近くには多くの人の姿があった。

もっとも、その人々は観光客などではなく、みんながみんな、背中に大きな猟銃を担いだ猟師達であったが。

「何か、すごいことになってる……………」

そんな彼らを横目に、僕は逃げるように駅を離れ、思い出のある裏山の方を目指した。


 実家のある町と、僕が生まれた村との間には、ちょっとした小高い山がある。

地元の人間も滅多に近寄らず、小学生の頃には、よくこの山に登って遊んだものだった。

山には登山道もなく、越えてもダムに沈んだ村しかないので、奇麗に舗装された道もなくて、近所の農道と獣道くらいしかない。

そのため、僕や子供の頃の友達は、それぞれ秘密の抜け道というものを、独自に開拓していたものだった。

僕は当時の記憶を頼りに、途中まで農道を通り、うろ覚えの獣道を探した。

意外なことに、秘密の抜け道は今も残っていたのは幸いだった。

ここを抜けると、製材業者が使っていた山小屋があって、ハナグロはしばしば、その小屋の裏で遊んでいたのを僕は知っている。

長い年月の間に、以前よりもすっかり多くなった雑草をかき分け、十分ほど茂みを進むと、懐かしいあの山小屋が見えてきた。

「も、もう少しだ………………………」

小屋を見つけただけなのに、何故か安堵の吐息をもらし、もう1歩踏み出しかけて、

「いっ?!」

妙な気配を感じて、僕はあたりを見渡した。

鼓動が高鳴り、汗が額を濡らす。

異様な緊張感に、僕の心臓が悲鳴を上げた。

何を恐れているのか、何を恐がっているのかが、自分でも分からない。

 人気の無い山の中で、獣に出会う恐怖?

いや、そんな意識はなかった。

そんなことより、熊退治にやって来た猟師に、ハナグロを見つけられることの方が、よっぽど恐ろしかった。

恐る恐る僕は、気配がした方を見ると、やはり猟銃を担いだ猟師の姿があった。

ここから少し離れた、別の獣道を歩いているようで、むこうは僕と小屋の存在にも気付かず、別の方角に向かっているようだった。

(こ、こっちに来るなよぉ~)

心の中でそう祈り、猟師の姿が見えなくなるのを待って、小屋へ近づいた。

すっかりもう廃虚になっているものとばかり思っていたが、どうやら今ではこの小屋も、地主の倉庫になっているようで、子供の頃に見たのよりも、立派な造りになっていた。所々補強されて、戸板もアルミ板が貼られている。窓も金網入りの強化ガラス製だ。

だが、そのアルミの扉を見ると、把手には鋭い獣のツメの、ひっかき傷が残っていた。

鍵がかかっていたので、中には入れなかったようだが。

「熊……………か」

ハナグロじゃないかもしれない。

むしろ、その可能性の方が高かった。

何せこんな田舎の山奥だ。野生の熊なんて、何匹もいるハズ。

このツメ跡が、ハナグロのモノであるという確証なんてないじゃないか?

だが、僕はそれを確かめずにはいられなかった。

こうなったのも、全て僕の罪なのだから。

「ハナグロ……………………」

無意識に震える指先で、そのツメ跡を触ってみる。薄いアルミが少し裂けて、反り返って鋭く尖っていた。

そしてそこには、ツメ跡を残した主の血が少しついている。

それを見て、思わず目じりが熱くなった。

「可愛そうに。ここにエサがあると思って、無理にこじ開けようとしたんだ」

裂け目についた血は、まだ固まっていない。

僕はあたりを見渡した。

この近くに、このツメ跡を残した熊が、まだいるかもしれない。深呼吸をして、僕は小屋の周り調べることにした。

 不思議と恐怖はない。

もしかしたら、ハナグロと会えるかもしれないという、小さな期待感の方が勝っていたのだろう。

小屋の周りは雑草が生い茂り、足下はよく見えなかった。熊の足跡があっても、ちょっと見たくらいでは分からないかもしれない。

少し注意しながら、小屋を一周しようとすると、裏のベニヤの壁がはがされていた。

もしやと思い、そこから中の様子を伺うと、奥の方で何かが動く気配がした。

「っ!!」

目を凝らしてよく見ると、暗闇の中でうごめく黒い影が一つ。

「人…………………か?」

状況を考えると、そこにいるのは熊だとばかり思っていたのだが、室内に見えたその影は、熊にしては小柄で細身に見えた。

こんな痩せた熊など、見たことがない。

だが、窓の逆光に浮かんだシルエットは、とても人間のようには見えなかった。

僕はさらに目を細め、その謎の影を凝視すると、相手もこちらに気付いて振り返り、お互いの目が合った。

「ま、まさか?」

暗闇に光るその眼光に、僕は硬直した。

あれから十年近くもなり、体の大きさも体形も、すっかり変わってしまっていたが、あの悲しい目を、僕が見間違えるわけがない。

それは、間違いなくハナグロだった。

あのときはまだ子熊で、コロコロとした体形だったハナグロが、まさかこんなにも痩せこけてしまっていただなんて………………。

だが、ハナグロの方は空腹のためか、それとも本当に僕のことは忘れてしまったのか、いきなり僕に牙をむいて吠えた。

『ガウウウゥゥゥ…………………』

「ハナグロ……………こっちにおいで」

『グルル…………………………………』

ハナグロはもう一度、小さく吠えて、こっちを警戒するようにしながら近づいてきた。

それは精一杯の威嚇だったのだろう。

だが、弱り切った体では、普通に歩くこともままならないのか、その足取りはまるで、酔っ払いの千鳥足のようだった。

やっとの思いで僕のそばまで来ると、すでに牙も何本も抜け、衰えた口で、差し出した腕にハナグロは噛みついた。

 痛みは………………あまりなかった。

「こんなにも……………こんなにも弱っていたのか? こんな腕一本、噛み砕く力も残っていないのか?」

僕は、すでに息も絶え絶えになりながら、必死な抵抗を見せるハナグロの姿に、涙が止まらなかった。

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