第2話

何が起きているのかと顔をあげてキョロキョロすると、自分の肩に誰かの手が置かれているのにひかりは気づいた。

傍に立っていたのは、一人の男性。

30歳前後に見える男性は、周りの席は少なからず空いているにも関わらず、つり革に掴まって立っていた。ひかりが見上げると、男性はどこか別の方を見ていて。ひかりは少しの間何と言っていいのか分からず、ただ男性を見上げていた。

この男性の声なのか。

出るはずのない声をかけようとした時。

まもなく、次は… ――。

ひかりには聞こえない車内アナウンスが鳴って、自動ドアは開いた。

プシュー。

いつの間に駅に着いたのか、呼び止める間もなく、ひかりの傍から男性は離れ、ホームに出て行いった。追いかける訳にはいかなかった。ひかりの勤務先はまだ先なのだから。やがてまた、ドアは閉まった。




『本当に聞こえたの?』

ひかりの隣のデスクでパンダに吹き替えを付けたイラストを書きながら、ひかりの職場仲間の詩織は手話を交えて尋ねる。この職場にやってきてまだ1年だったが、手話に興味を持ってくれたお陰で、詩織はひかりと流暢に話を出来るようになって。この職場では、一番ひかりと話している。

『聞こえたよ、ちゃんと』

手を素早く動かして伝えると、詩織はニヤリと笑った。

『心霊現象だったりして』

『あの人が幽霊だったってこと?』

顔をしかめて、ひかりは訊く。

『それとも‥‥』

考えるようにして詩織は呟いた。

『‥エスパー、とか』

呟いてから、詩織はまた今度は独り嬉しげにニヤついて言った。ひかりはそんな詩織を見て、ため息をつく。



『声‥ですか』

夕方、ひかりは帰りに近くの病院を訪れると、聴覚に障害ができて以来受診を続けている担当の日高先生に、電車での出来事を話していた。

『その時だけですか?それとも時々?』

日高先生はメモ帳に筆談で書きながら尋ねた。

『その時だけです』

メモ帳にひかりがそう書くと、先生はフーッとため息をついた。腕組みをし、頭を少しだけカリカリと掻くと、やがて思い付いたようにメモ帳に走り書きをした。

『一度検査してみましょうか』


その後個室に入り、15分ほど聴力検査をしたけれど、結果は芳しいものではなかった。

『その時に聞こえた音がどういったことで、そう聞こえたのか、私としては推察のしようがないのですが‥』

先生は難しそうな表情でメモ帳に書いた。

『検査の結果からすれば、聴力には特に何の変化もありません。何とも言えませんね』


最初は真剣な顔で読んでいたひかりでしたが、やがて暗く沈んでいった。

『そうですか‥』


翌日も、その翌日も、相変わらずひかりの耳に変化が起きることはなかった。けれどまた数日後、ひかりは再び逢うことになった。

通勤の帰り。疲れて目が少しトロンとしてドア口に立っていたひかり。乗車してから二駅の頃、黒っぽいデニムを着た見覚えのある男性が開いたドアから乗車してきたのだ。眠たげだった目が一気に覚めて、ひかりは男性を見た。あの時。耳が聞こえたあの時の男性だった。ずっと見つめるひかりに気づいたのか気づいていないのか、男性は一度咳をすると、ドア口にもたれ掛かるようにしてドア窓から景色を見た。

ひかりは出ない声をかけることも出来ず数分、男性を見つめていたが、やがてガタンガタンという電車の振動に後押しされるようにして、男性の肩をトントンと叩いた。男性はふいとこちらを見て。ひかりは覚えたての手話を話すようにして挨拶をした。

『こんにちは、ちょっと宜しいですか?』

けれど男性は、一瞬しかめるような顔をして、「分からない」と言いながら手を振った。ひかりは慌てて、身につけていた鞄からメモ帳を取り出す。走り書きで、ひかりは書いた。

『この前この電車に乗った時、聞こえないはずのあなたの声が聞こえました』

そうして男性を見たが、男性は特に表情を変えなかった。

『あなたは私に“気にするな”と言いました。知りませんか?』

再び見ると、男性は一瞬目を泳がせて。またすぐに窓の外に目をやった。

『あの‥』

男性が聞いているのか、無視しているのか分からず、ひかりの肩は小さくなって。

「ちゃんとしろよな!」

突然、大きな怒鳴り声が響いて、男性は振り返った。

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