あなたの想いを届けます。

田野ねこ

第1話

それは、懐かしい匂いのする、夏の暑い日のこと。



風邪を拗らせて聴力を失って、もう十数年。保育士の夢は辞めざるを得なかったけれど、自分にはちゃんと見えるものがある。


大切な仕事だ。今日もまた会社で下請けのイラストの仕事をする。


階段を降りて、ホームに出た時。忙しなく動く通学通勤の人々の間を通って、今日もまた、いつもの位置で電車を待つ。


そうしていると。

そうしていると、あの人がくるのだ。


ひかりに気づいたようにして、とある駅員さんが近づいてきた。


『おはようございます』


駅員さんは手話で言う。彼女、ひかりは口を動かしながら、同じような手話を返した。

『暑いですね今日も』

汗を拭くような仕草をして駅員さんは言った。ひかりはにこりと笑う。

『本当ですね、今日はいつもよりも暑い気もして』

『全くですよ』

手話をするひかりに負けず、駅員さんは手早い手話を返した。


この駅でこの駅員さんに出会って3年が経つ。

耳が聞こえず、電車がホームに到着する音もアナウンスにも気づかず、危うく電車に接触しそうになったひかりに、駅員さんは一人気付き、それからというものいつも、ひかりを見守ってくれているようだった。

また、働き盛りの同じような20歳代後半ということもあって話も合う。


『今日も遅いんですか?』

駅員さんは尋ねた。

『いえ、今日は昨日の残りなので早いと思います』

ひかりが答えると、にこりと駅員さんは笑顔を見せる。

『良かったですね』



まもなく…。



アナウンスが流れ、やがて遠くの方から、ガタンガタンと重い音が響いて聞こえてきた。

手話の途中、駅員さんが急に手を上げて首もとに下げた笛をつかむと黄色い線に乗る。

ひかりは気づいたようにして振り向くと、電車がちょうどホームに到着する頃だった。


プシュー。


空気音が響き、電車のドアが開く。

『ではまた夕方か夜に。頑張って』

手話をして駅員さんは微笑む。

頷くと、ひかりはドア口に近づいて。そして乗ろうとした時。

他に乗車しようとしていた何人かの人とぶつかって、ひかりは少しよろめいて。ひかりは思わずぶつかった方を見た。数人の人が面倒臭そうにこちらを見ていた。

駅員さんが何かを言ったようだったが、電車に遅れないように乗り込むのが精一杯で。ひかりは無言で電車に入った。



電車の中はそれほど混んではいなかったけど、ひかりは何となくドアの近く、隅の方に立って、ドアの窓から景色を見つめていた。この辺も、ビルが立ち並ぶ街になった。子供の頃はもっと工場が多かったのに。そんなことを考えながら、窓辺を覗いていた。


トンネルや家々を通り越して、何駅か通り過ぎた頃。人の数は段々と少なくなっていた。ようやくのんびり座れるくらい長い席が空いて、ひかりはそっと席に座った。

それから少しした頃。ひかりの知らないところで、周りの人々の視線はひかりに向けられていた。


わー…

わーん。

ひかりの隣で、小さな男の子が泣いていたのだ。席の辺りを走り回って転けたのか膝を擦りむいたようだった。母親の姿はない。


けれど、ひかりには到底聞こえない声だった。「ねぇ、あの人気づいてないのかなぁ?」

向かい側に座っている、女子高生がこそこそ喋っていた。



「聞こえてないんじゃないの?」

「それって馬鹿じゃん。私だったら声かけるよ」

「本当に?」

二人の女子高生は笑った。


「ねぇあなた」

どこからか来た中年女性がひかりに声をかけた。

「ねぇ!ちょっと」

トントンとひかりの肩を叩いて、女性は呼んだ。まるで音楽を聴いていたイヤホンを外すように、ひかりは驚いて中年女性を見上げた。

「何で声かけてあげないの、泣いてるでしょ?」

女性は眉を寄せて顔をしかめた。ひかりは女性の唇の形を読んで、驚いて隣の男の子を見た。

「大丈夫よ大丈夫」

中年女性は男の子の前にしゃがみこんで、傷を見た。

ひかりはあたふたして、男の子を気遣うように顔を覗き込んだ。けれど、中年女性は顔をしかめると、

「いいわよ、もう」

と突き放すように言った。

ひかりは気まずい空気を振り払うように慌てて手話をする。すると中年女性は表情を急に固めると、両手を振った。

「あ、いいのよいいの。あらそうだったの、ごめんなさいね」

ごめんなさい、と繰り返して言うと、中年女性は足早に席に戻って行ってしまった。

周りの様子を確かめるように辺りを見回すと、皆口裏を合わせたようにひかりから視線を外した。視線をくすんだ床に落とすと、ひかりは肩を落とした。こんなことはたまにあるが、やはり何度あっても気分のいいものではない。

その時だった。

「気にするな」

どこからか声が聞こえた気がした。

―― え?


「気にしなくていい」

耳が聞こえたのは十数年ぶりだった。

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