怒りのキュイジーヌ

めらめら

怒りのキュイジーヌ

■PhaseⅠ


「あー。それにしても日本の夏って、どうしてこうジメジメと鬱陶しいのかしら? ねえ、そう思わないルッシ?」

 朝からとても暑い、良く晴れた七月の事だった。

 燃え立つ炎のような紅色のセミロングを無造作に束ね上げながら、少女は琉詩葉るしはを向いてそう訊いてきた。

 大邸宅、冥条屋敷の百畳敷の『茶の間』の真ん中に寝っ転がって、ファッション雑誌『ボーグBorgフランスFrance』を気怠い表情で読み耽っている彼女に、


「別に。そういうモンなんじゃねーの夏って? それよりさ、お姉ちゃん……」

 聖痕十文字学園せいこんじゅうもんじがくえん中等部二年、冥条めいじょう琉詩葉るしはが、少女と同じく炎のような紅髪ショートを揺らしながら、不機嫌そうな顔で答えた。


「あたしは琉詩葉・・・だから! 勝手に変なアダ名つけるのやめてよね! なんかダサいし!」

 腹に据えかねた様子で彼女に食って掛かった琉詩葉に、


「そうかなー。可愛いと思うんだけどな……」

 琉詩葉と瓜二つの貌立ちをしたその少女は、羽扇子でパタパタと自分を扇ぎながら、不思議そうに小首を傾げたのである。

 

 彼女の名前は冥条めいじょう琉美菜るみな

 この夏休みの間、留学先のフランスから一時帰国して、実家の冥条屋敷に戻って来ている、琉詩葉の三つ年上の姉だった。


「これこれ琉美菜、行儀が悪いぞ。ほれ、もう朝ごはんの時間じゃぞ」

 そう言いながら襖を開けて茶の間に入ってきたのは、朽葉色の羽織を着流した眼光鋭い総髪の老人だ。

 聖痕十文字学園の理事長にして、琉詩葉と琉美菜の実の祖父、冥条獄閻斎めいじょうごくえんさいである。


「「はーい。お祖父ちゃん!」」

 口を揃えて返事をした二人は、居住まいを正して、広い茶の間の真ん中にチョコンと置かれてある卓袱台に座った。


「はいはい、お待たせ。久しぶりねえ琉美菜ちゃん。ほら、たんとお上がりなさい」

「まあ、お久しぶり。ミタ子さん!」

 冥条屋敷の家政婦、石崎ミタ子さんが、一年ぶりに帰って来た琉美菜に笑顔で挨拶しながら、朝飯のお膳を運んできた。

 卓袱台に配されて行く、ごはん、わかめの味噌汁、鯵のひらき、納豆、玉子焼きといった、いつものメニューを前にして、


「いただきまーす!」

「いただきます……」

 琉詩葉と獄閻斎が、毎朝しているように揃って挨拶をして箸をつけようとした、その時だった。


「うーん……」

 琉美菜が、少し困ったような顔をして首を傾げたのだ。


「どうした、琉美菜? 食欲がないのか?」

 用意された朝飯に、何か気が進まない様子で箸をつけていく琉美菜の貌を、心配そうに窺う獄閻斎に、

 

「あたし、このごろは日本の・・・朝御飯て、どーもダメなのよね……」

 琉美菜が、眉を寄せて上目づかいに祖父を見ながら、老人にそう応えたのである。


「なに? どういうことじゃ?」

 訝しげに琉美菜に問いかえす老人。そして、


「く……! また、始まりくさりやがった!」

 琉詩葉は忌々しげに顔を歪めて、心中でそう毒付いていた。


  #


 姉の琉美菜が、聖痕十文字学園せいこんじゅうもんじがくえんのフランスにおける姉妹校である、エコール・クロワスティグマータ・ド・パリに留学したのは今から一年前、彼女が、聖痕十文字学園高等部一年の時だった。

 留学のきっかけは、母親だった。


「琉美菜。これからの若い子は、なるべく早い時期から外国に出て、色々と見聞を広げる必要があるわ。カルチエ・ラタンにも冥条うちの学校があるんだから、いっちょう2、3年留学してきなさい! 丁度、パリのパパンの実家も空いたわけだしさ……」

 先史考古学者として、世界中を飛び回っていた母親の瑠玖珠るくすは、数年ぶりに日本に帰国して娘たちに顔を見せたと思ったら、いきなり有無を言わさぬ様子で、長女の琉美菜にそう言ったのだ。


 瑠玖珠は、各国の古代遺跡に埋蔵された時代錯誤遺物オーパーツ収集に関して、『業界』でも右に出る者の無い世界有数のトレジャーハンターだった。フランスはパリの地下墓所カタコンベより、次の発掘先を南米のマヤ地域と定めた彼女は、夫のシャルルと共に、ここ数年の滞在先であった彼の生家を離れるにあたって、何か思うところがあったらしい。

 南米での滞在先の支度は夫に任せて、自分は日本に一時帰国。意気揚々と実家の冥条屋敷、父獄閻斎と娘二人のもとにやってきたのである。

 琉美菜と琉詩葉は、日本人である母親の瑠玖珠と、フランス人である父親のシャルルとの間に生まれたハーフだった。

 といっても、仕事で世界中を駆け回っていた母親は、二人の養育を日本に住む祖父に一任していた。

 まだ幼かった二人の娘の学校や居住環境が、仕事の都合で世界を転々としてしまうのは、流石に可哀想だという判断だったらしい。

 おかげで、琉美菜も琉詩葉も、完全なる日本生まれの東京は多摩地区育ちであり、一度も海外での生活を経験せずに大人になろうとしていて、最近の母親には、どうもその事が気に掛るらしかった。

 というわけで、ほんの二週間程の日本での滞在の間で、この行動力の塊のような母親は、彼女の父親である獄閻斎を猛然たる勢いで無理矢理説得。琉美菜のビザの申請、取得、姉妹校への入学手続、渡航手続を、瞬く間に完了してしまったのである。


  #


「琉詩葉、だいじょうぶかなぁ……あたし、英語もフランス語も全然だし……。食べ物とか口に合うかなあ? 友達も、できるかどうか心配だよ~」

 渡航の前日、琉美菜は心許ない顔で、当時中学一年生だった妹の琉詩葉に不安を打ち明けたものだった。

 寄宿先は、パリの16地区に在る父親の生家とはいえ、これまで一度も海外に行ったことが無い上、祖父おや元を離れて暮らすのも初めてだった琉美菜は、さすがに弱気になったのか、妹に不安な胸の内を吐露したのだった。


「大丈夫だって、お姉ちゃん!」

 普段は、琉詩葉に輪をかけてお転婆で自由奔放な性格の姉が、珍しく、しおらしい顔をしているのを見て、琉詩葉は笑顔で姉を励ました。


「お姉ちゃんの事だから、外国だってすぐに馴れるって! パリで素敵な彼氏でも作って、こっちに持って帰ってきちゃいなよ~」

 昔、母親の瑠玖珠が同じような経緯いきさつで父親とくっついた事を知っている琉詩葉は、下世話なおばちゃん顔になって姉をつっついたのである。


「そ、そうよね琉詩葉。フランス……男……パリジャン……彼氏!」

 琉美菜は、心の不安を打ち消すように、何度も自分にそう言い聞かせて、


「わかったわ琉詩葉、あたし、がんばる! パリで素敵な男を沢山捕まえて来るんだから!」

 琉詩葉の手を握って、力強く肯いたのだった。


「よし。がんばってねーお姉ちゃん!」

「がんばるわ琉詩葉! 男! 彼氏! 男! 彼氏!」

 というような別れの挨拶を琉詩葉と交わして、姉がフランスに旅立ったのが一年前。

 

 夏休みを利用して久しぶりに帰国してくる姉との再会を、琉詩葉は楽しみにしていたのである。


 だが……


  #


「あー。やっぱりエコノミーなんか乗るものじゃないわねー窮屈ッたらありゃしない。少し日程をずらしても、ファーストクラスにしておけばよかったわ。それにしても、日本の航空会社のフライトアテンダントって、どうしてあーも馬鹿丁寧で気色悪いのかしら? まあいいわ。さあルッシ、バゲッジを運んで頂戴!」

 空港まで姉を迎えに来た琉詩葉の前で、飛行機から降り立ってロビーに姿を現した琉美菜は、琉詩葉を見るなりポンポンと手を叩いて彼女にそう言ったのである。


「あえ? お姉ちゃん?」

 琉詩葉は茫然として琉美菜を眺めた。

 帰って来たのは、もはや琉詩葉の知っている姉ではなかった。


 小学生の頃は、琉詩葉と一緒に武蔵の野辺を駆け回り、ミミズを千切ったり、アリンコを虫眼鏡で焼き殺したり、カエルのお尻にストローをつっこんでは風船のように膨らませたりして遊んでいた琉美菜。


 中学生の頃は、市内全校のチンピラに片っ端から喧嘩を売っては、全員ボコって舎弟にしていた琉美菜。


 そんな天真爛漫だった姉は、もう其処にはいなかったのだ。


 空港では、

「あー。まったく日本の国際空港って、どうしてこう都心から離れまくってるのかしら? 周りに畑しかないって一体どうゆうこと?」


 バスの車中では、

「あー。まったく日本の看板広告って、どうしてこうセンスが無くて景観を壊しまくってるのかしら? パチンコと消費者金融の看板ばっかりじゃない。下品だわー」


 電車の中では、

「あー。まったく日本の電車って、どうしてこういちいちアナウンスが五月蠅いのかしら? 子供じゃないんだから降りる駅くらい自分でわかるっつーの!」

 

 一事が万事、この調子であった。

 帰って来たのは、たかだか一年やそこら海外留学したくらいで、二言目には「これだから日本ニホンの男ってーーー」的な、上から目線の日本ニッポンdisが口を突いて出る、お仏蘭西フランスかぶれの、いけ好かない似非エセパリジェンヌだったのである。


  #


パピーお祖父ちゃん。あたし基本、朝ごはんがしょっぱいのって、受け付けないのよね。朝は焼き立てのバゲットかブリオッシュかクロワッサン、あとはパンオショコラ。フレーズとアブリコのコンフィチュールも忘れないでね。飲み物ブワソンはショコラ・ショーかカフェ・オ・レでいいわ。あと良く冷やしたオレンジジュースジュドランジュもお願いね!」

 単語の端々に、正しいんだか、正しくないんだか琉詩葉には全く分からない変なアクセントを付けながら、祖父の獄閻斎にそう注文を付けていく琉美菜に、


「おうおう琉美菜。わかったわい。明日からは、ちゃんと用意しておくからな」

 獄閻斎は、ふにゃけた笑顔で肯きながら、彼女にそう答えたのである。


「ななななな……!」

 琉詩葉は、眼前で展開される怪事に目を白黒させた。

 琉詩葉と同じく、朝食は生粋の和食派であったはずの獄閻斎なのに。

 普段なら、出された食べ物に文句を付けるなど言語道断。

 誰か他の者が口に出したならば、その場で斬り殺されてもおかしくないような琉美菜の我儘を、この老人は嫌な顔ひとつせずに笑顔で承諾したのである。


 ……お祖父ちゃん。

 なんぼなんでも、お姉ちゃんに甘すぎる!


「お昼はサンドイッチでいいわ。温めたバゲットにブールを塗ってジャンボンとフロマージュとトマトとコルニションを挟んだサンプルなやつが好きなの!」

「おうおう琉美菜。わかったわい。明日からはちゃんと用意しておくからな」

「ぐぎぎぎぎ……! んなもん、サ○゛ウェイで食え!」

 琉詩葉は歯噛みする。


「それと、お夕食はね……」

 獄閻斎に、そう言いかけた琉美菜に、


「へ。どーせフルコースで、フォアグラのソテーで、仔牛のテリーヌで、舌平目のムニエルなんでしょ! あ~、おフランスおフランス!」

 自分の持てるフランス料理知識を総動員して、必死でイヤミを言う琉詩葉だったが、


「ノンノン、ルッシ。フランス人だって、別にあんなものを毎日食べているわけじゃないのよ」

 なんと、琉美菜は馬鹿にしきった顔で琉詩葉を見下ろし、彼女にそう言ったのだ。


「特に、あたしたちみたいな日本育ちは、毎晩バターとクリームがたっぷりのオート・キュイジーヌでは体が参ってしまうわ。日本人だって、毎晩スシやテンプラを食べたりしないでしょ?」

 琉詩葉のおでこをチョコンとつついて、琉美菜が嗤うと、


「とはいっても、ヌーベルキュイジーヌの味付けって、何だか最初に方向性ありきで、あたしには少し解らないところがあるしなぁ……。パピーお祖父ちゃん。やっぱり夕食は、プロヴァンス風でお願いするわ。エクストラバージンオリーブオイルをたっぷり使った夏野菜のラタトゥイユ。コート・ド・ブッフのビフテクにトマトのファルシ。新鮮なお魚のブイヤベースなんかも食べたいわ!」

 またぞろ得意げに訳の分からない御託を並べながら、祖父にそうオネダリする琉美菜に、


「おうおう琉美菜。わかったわい。夕食はビストロ・ラ・プロヴァンスの川口名人に出張シェフを頼むとするか!」

 笑顔で応える獄閻斎。


「わーいやったー! ありがとうパピーお祖父ちゃん!」

「おうおう琉美菜。たんと食べていけよ。ここはお前の家なんだからな」

 姉と祖父の、和気藹々としたやり取りに、


「くきききー! どうしてくれよう、このメスブターー!」

 琉詩葉は、ちゃぶ台に顔を伏せて憤怒の形相でそう呻くと、


「いい加減にしてよね。お姉ちゃん!」

 腹に据えかねた彼女は、ちゃぶ台をひっくり返しかねない勢いで座布団から跳びあがって、琉美菜を指さした。


「ここは日本なんだから! 変なフランス風ふかして、我儘言って、お祖父ちゃんを困らせないでよ!」

 燃え立つ紅髪を揺らしながら、怒りにまかせて姉を糾弾する琉詩葉に、


「あらそう……!」

 琉美菜は、少し驚いたようにコバルトブルーの瞳を見開くと、


「出た出た。『ここは日本なんだから』? 自分の身体の調子や味の好みで、食べるものや飲むものを選ぶのがそんなに『変な』ことなの? おうちで自分が食べたいものを口にしただけで、どうして『我儘』呼ばわりされなければいけないの? 『他の人と違う』ことが、そんなに気に障る、いけないことなの?」

 呆れ果てた様子で琉詩葉を見るなり、


「あー。まったく日本の女子って、どうしてこう横並び志向で、排他的で、田舎者根性丸出しなのかしら!」

 なんと、実の妹の彼女にむかって、傲然とそう言い放ったのだ。


「ぐぎゃぎゃー! なんだとー!」

 思いもよらない方面からの人格攻撃に、琉詩葉は激昂して叫んだ。


「そそそう言うお姉ちゃんだって、縦割り社会で、歯医者嫌いで、おフランス根性丸出しじゃない!」

 咄嗟に頭にきて、わけのわからない悪口を並べ立てる琉詩葉だったが、それ以上反論の言葉が見つからない。

 琉美菜の言葉が、グサッと胸に刺さった気がしたのだ。


「うぐぐぐ……!」

 悔しさと情けなさに歯噛みしながら姉を睨む琉詩葉に……


「まあまあ琉美菜、琉詩葉。久しぶりに会ったのに、喧嘩はよさんか。ほれ、天気もいいことだし、二人でプールでも行ってきたらどうじゃ?」

 祖父の獄閻斎が、睨み合う二人を諌めながら、株主優待で送付されて来た、水と緑の遊園地『ねりまえん』の入園チケットを孫たちに手渡そうとするも、


「んー。遠慮しておくわパピーお祖父ちゃん日本の・・・街の人混みって、どーもあたし苦手なのよねえゴチャゴチャ五月蠅うるさいし……。それに、日本こっちであんまり焼いちゃうとがいやがるのよね。ピエールったら、あたしが自分より日焼けするのが、何だかすごく悔しいみたいなのよね……。じゃ!」

 琉美菜はそう即答すると食卓を立って、ツカツカと自室に引っ込んで行ってしまった。


「ぐぐぐ……! なにがパピーじゃ、なにがピエールじゃ、あのあまっこが~~!」

 琉詩葉は姉の背中を睨みながら、再び憤懣の呻きを漏らした。


  #


 斯様に琉詩葉は面白くなかった。

 琉美菜が、何かにつけて横文字を振りかざして琉詩葉を馬鹿にするのも腹が立ったし、果たして実在するのかどうかも疑わしいこと『ピエール』の名前をやたらに持ち出してくるのも鬱陶しかった。普段は琉詩葉が独り占めにしている祖父獄閻斎の溺愛が、流石にこの夏ばかりは琉美菜の方に注がれている事も、なんだか気に食わなかった。

 

 お姉ちゃん。去年の夏は、一緒に冷やし茶漬を啜ったり、縁側でカルピスを飲みながらスイカに塩を振って食べていた仲だというのに!


「みてろよあいつ……! 絶対に化けの皮をひん剥いてやるからな!」

 朝食を終え、祖父獄閻斎が席を立った後もなお、琉詩葉は卓袱台に顔を伏せ、ブツブツと一人そう呟いていた。

 

■PhaseⅡ


 次の日。


「あー。暑っちい暑っちい! 早く家に帰って『俺屍』やんねーと……」

 コンビニで買った『ゴリゴリくん』をかじりながら、琉詩葉は地元聖ヶ丘商店街の往来を歩いていた。

 今期も学年で成績最下位だった彼女が、ようやく夏の補講を終えて、ついでにプール解放でひと泳ぎした後で家路についた夕方のこと、


 ウィーン……


 偶々前を通りかかった牛丼チェーン店『黄泉野家』の自動ドアの戸口から、見知った人影が姿を現した。


「あら、雨ちゃん?」

「琉詩葉姉ちゃん!」

 店から出てきたのは、琉詩葉の後輩。

 聖痕十文字学園初等部四年、大神雨おおかみあめだった。

 ひょんなことから学園で琉詩葉と知り合って以来、冥条家とは家族ぐるみの付き合いで、琉詩葉を実の姉のように慕ってくる、半ズボン姿もまぶしい紅顔の美少年である。


「こらこら雨ちゃん、買い食いかあ? もうすぐ夕御飯なんじゃないの?」

 少年が手から下げている一人前・・・と思しい牛丼弁当の袋を、琉詩葉が見咎めると、


「違うって、琉詩葉姉ちゃん。頼まれたんだよ」

 雨は口をとがらせて、琉詩葉にそう答えた。


「『頼まれた』?」

 雨が何を言っているのかよくわからない琉詩葉に、


「うん。なんか自分で買うのが恥ずかしかったんじゃない? 『二百円上げるから、このメモ通りに注文してきて』って……」

 雨はポケットからスーパーのチラシを取り出して、琉詩葉に広げて見せた。

 紙切れには、流暢な字でこう書かれていた。


「牛丼 アタマの大盛り ツユダクダクダクダク ネギダクダク」


「こ、この字は!」

 琉詩葉は目を瞠った。筆跡に見覚えがあったのだ。


  #


「はい、お姉ちゃん。約束の牛丼」

 人気のない夕暮れの聖ヶ丘公園の休憩所のベンチの前で、大神雨が依頼主に牛丼の袋を差し出した。


「ご苦労だったわねボク。ほら、約束のお小遣いよ。もういいわ、消えなさい!」

 燃え立つ炎のような紅髪を無造作に束ね上げた女が、雨に二百円を手渡してそう言った。

 真っ黒なグラサンをかけ口元をマスクで覆った、謎の女である。


 そして、じーーーーー……

 

 櫟の巨木の木陰から、二人の様子をジッと窺う少女がいた。琉詩葉だった。


「やった! まいどあり~!」

 雨が、喜び勇んで二百円を握りしめ、女の元から駆け去ると、女は用心深く辺りを伺いながら休憩所のベンチに腰かけて、顔からマスクとグラサンを取ったのである。


「やっぱり!」

 琉詩葉は、思わず漏れかけた声を必死で飲み込んだ。

 そこにいたのは、琉美菜だった。


「今日は、お友達と岩波ホールで映画を観てからお食事して来るから、夕食はいいわー」

 とかなんとか言いながら神田に出掛けていた筈の、琉詩葉の姉だったのである。


「ああ。これよ、この味。パリには、『これ』が無いのよ~~~」

 そして見ろ。琉美菜は、一人感涙までしながら、ベンチに座って無我夢中で牛丼を胃の腑に流し込んでいくではないか。


「ほほぉおおおお~~~。そういうことかい、お姉ちゃん……!」

 物陰から姉を窺う琉詩葉の顔の満面に、みるみる意地悪な笑みが広がっていった。


「あの女ぁ。あたしの前じゃあクロワッサンだのカフェオレだのと散々スカしちゃあいたが、所詮は牛丼がソウルフードな多摩の山猿やまざるかあああ?」

 自分も山猿のくせして、琉詩葉は勝ち誇った。


「くくく……。だとしたら、話が早いよぉ。お姉ちゃん……」

 櫟の木陰でクツクツと嗤いながら、琉詩葉は邪悪な顔で一人そう呟いたのである。


■PhaseⅢ


 そんなわけで次の日の夜。


「琉美菜、琉詩葉、今日はビストロ・ラ・プロヴァンスの川口氏に出張シェフをお願いしたぞ。ほれ、たんと食べなさい」

 冥条屋敷、百畳敷の洋間『黒縄の間』のテーブルで、獄閻斎は上機嫌でそう言った。


「わーい。ありがとうパピーお祖父ちゃん!」

「いただきまーすお祖父ちゃん!」

 辛口のジンジャーエールを食前酒アペリティフに喉を潤した琉美菜と琉詩葉は、目の前に次々に運ばれてくる、トマトたっぷりのニース風サラダ、白身魚のリエットと天然酵母のバゲット、堅ガニと鮮魚のスープといった豪奢な料理を、夢中で口に運んでいった。


「うーん。美味しい! このバゲット、パリのエリックカイザーで食べたのと同じ味ね!」

「ぐぐう! さすがに美味い!」

 姉の口上は気に入らなかったが、久々に口にする多摩地区ビストロの名店の味には、琉詩葉も素直に唸るしかない。


 だが……


「くくく……そろそろね!」

 琉詩葉の目が妖しく光った。


「お待たせ致しました。本日の主皿、牛肉のブルゴーニュ風煮込みとカリーの白米添えでございます」

 ビストロ・ラ・プロヴァンスの川口シェフ自らが、今晩のメイン料理を運んできた。


「こ、これは……!」

 琉美菜は、目の前に配されていく料理に目を瞠った。

 その料理は、なんだか彼女にも見覚えのある姿だった。

 鼻孔をぷんとつく甘くて、なんだか懐かしい香り。

 運ばれて来たのは、ディナー皿に並々と盛られた牛肉と玉ねぎの煮込み料理と、銀色のソースポッドにたっぷりと湛えられた褐色の洋風カレーだったのである。


「シェフ。ライスは丼でお願いね。大盛りでたのむわ!」

 琉詩葉が、勝手知ったる様子で川口シェフにそう声をかけると、


「さすが琉詩葉さま。よくわかっていらっしゃる」

 シェフは深く頷きながら、笑顔で彼女に応えたのである。


「ななな……!」

 琉美菜は混乱した。

 どう見てもカレーに牛皿。この子供の頃から散々慣れ親しんできた見た目のメニューが、フランス料理!?

 続いて運ばれて来た、大盛りのどんぶり飯に……


 どばっ!


 なんと、妹の琉詩葉はブルゴーニュ風煮込みとカリーを飯の上にぶっかけると、スプーンで混ぜ混ぜするなり、すごい勢いで口の中にかき込みはじめたではないか。


「うそ!」

 琉美菜は驚きの声を上げた。

 カレ牛ぶっかけ飯である。こんな作法が、ビストロで在り得るのだろうか。


「どうなさったのですか、琉美菜さま?」

 川口シェフが、不思議そうな顔で琉美菜に訊いてきた。


「仔牛の煮込みとカリーをジャポニカ米で和えて食べるのは、今ではフランスの大衆食堂ビストロでも珍しくないはずですが?」

 

 ぎくっ!


 琉美菜の顔がこわばった。


「そ、そうだったかもね。あんまりそういう食べ方は好きじゃないから、よく覚えてなくて……」

 しどろもどろになりながら、琉美菜も妹に倣って丼に牛とカレーとぶっかけて、恐る恐るスプーンで一口。すると、


「あ……!」

 琉美菜の目が歓喜に見開かれた。

 煮込まれた玉ねぎの甘味と香り。柔らかい牛肉の官能的な舌触りと肉汁。

 鼻孔を駆け抜ける醤油の香り。追って全てを包み込むスパイスの香りと、芳醇な脂肪の旨み。カレーの魔力。

 そして、具材の旨さの全てをがっちりと受け止める、おおらかで、力強い白米のパワー。

 それは、ただ美味というだけではなかった。

 なにか、琉美菜が生まれてから今日に至るまでの彼女と分かち難く結びついた、懐かしい、根源的な味だったのだ。

 琉美菜は、無我夢中でどんぶり飯をかっこんだ。


「ふう……」 

 最後に供されたデザート『杏仁霜のプディング』までしっかりと食べ終えると、


「美味しい……これが、本物のフランスの味・・・・・・ね……」

 我知らず、目から一筋の涙を流しながら、琉美菜はそう呟いていた。

 それは彼女の真実の心の声だった。


 だが……


「くけけけけ! 語るに落ちたわね! お姉ちゃん!」

「え……!」

 眼の前でサディスティックに嗤う琉詩葉の声に、琉美菜は我に返った。


「落ち着いて、よーく思い出してみなさい!」

 琉詩葉は勝ち誇った顔で姉を指さした。

 

「う……うそ!」

 さっきの料理の味を思い返して、みるみる蒼ざめて行く琉美菜に、


「そうよ! その煮込みは『黄泉野家』の牛皿! カレーは『ドコ壱』の二辛! プディングは『中華徳満』の杏仁豆腐よ!」

 琉詩葉は、会心の笑みで姉を糾弾した。


「全部お姉ちゃんの嫌いな『日本料理』じゃない! それを、これが本物のフランスの味・・・・・・だって? 笑わせないで!」

 琉詩葉は、なおも続けた。


「お姉ちゃん、最近無理ありすぎだっちゅーの! そんなに偉そうにして周りを見下ろしてたら、日本でだって、フランスでだって、絶対に楽しくないはずだよ!」

 思いのたけを姉にぶつける琉詩葉に、


「なによぉ琉詩葉・・・……! あんたまで・・・・・、あたしを馬鹿にするのね!」

 そう言うなり、琉詩葉をジッと睨む琉美菜の目から、再びポロポロと涙が零れて来た。


「な……! お姉ちゃん?」

 琉詩葉は面食らった。


「グスッ……楽しいわけないじゃない。あっち・・・じゃさ、みんな背が高くて足が長くて考え方も大人っぽくて全員彼氏がいるし、お昼になるとみぃんな食堂やテラスでイチャイチャしはじめるし……あたし居場所ないし……。それなのに、学校から帰れば、お友達も、お祖父ちゃんも、あんたも、みんなして電話やメールで『フランスはどう?』『フランスはどう?』『フランスはどう?』『フランスはどう?』……フランスのごはん? トイレトワレの中で一人で食べるバゲットが、美味しいワケないじゃないの~~~!」

 何かが崩れ落ちるように泣き出し始めた琉美菜に、


「ななな……! お姉ちゃん? まさか便所メシ……!? じゃあ、『ピエール』も……非実在系彼氏!」

 琉詩葉の顔が、見る見る蒼ざめていった。

 何か、姉の触れてはならない暗部をえぐってしまったらしい。


「まあまあ、琉美菜も琉詩葉も、落ち着かんか……」

 祖父の獄閻斎が二人の間に割って入った。


「琉美菜の様子は、わしも気になっていたんじゃ。琉詩葉ともなんだかギスギスしていたしな。だから琉詩葉の相談を受けて、わしが知り合いだった川口シェフを呼んで、一芝居打ってもらったんじゃ。すまなかったな琉美菜」

「すみませんでした琉美菜様……」

 獄閻斎と川口シェフが、深々と琉美菜に頭を下げた。


「なんだ……そういうことだったのね、お姉ちゃん」

 琉詩葉がすまなそうな顔で、泣いている琉美菜の肩に手をかけた。


「そんなこと気にするなんて、お姉ちゃんらしくないって! 自分で言ってたじゃない。『他の人と違う』ことの何が悪いのさ。堂々とボッチでいればいいじゃない! 気にすることないよ。お姉ちゃんは『強い』んだから! 思い出してよ。多摩市全校で一番の腕っぷしだったじゃない……あ……!」

 泣き止まない姉をどうにか宥めようとした琉詩葉は、食べ終えたカレ牛ぶっかけ飯の丼を見て、何かに思い至った。


「いいこと思いついた。これならいけるって絶対!」

「え……?」

 ようやく泣き止んで顔を上げた琉美菜に、


「お姉ちゃん、ゴニョゴニョゴニョ……」

 姉の耳に口を当て、何かを耳打ちしてゆく琉詩葉。


「そうか……! うん、うん!」

 琉美菜の顔が、徐々に明るくなっていった。


「なんか、いける気がしてきた! ありがとねルッシ! 今まで変な事で威張ったりしてごめんなさい!」

 琉詩葉の手を握り彼女にそう詫びる琉美菜に、


「なに、いいってことよお姉ちゃん!」

 琉詩葉は大口を開けて笑った。


「ふう、なんだか、泣いたらまた、お腹がすいちゃった」

 琉美菜は、自分の腹をさすってそう呟くと、


「シェフ! 牛肉のブルゴーニュ風煮込み、おかわり! ごはん大盛りでね!」

 川口シェフを向いて元気よく追加注文をした。


「あたしも!」

 琉詩葉がそれに続いた。


  #


 二ヵ月後。


--------------------------------------------------

ボンソワール。ルッシ。


あれからルッシの言った通り、一人でも気にしないでシャンとするようにしてたら、だんだんクラスのみんなとも怖がらずにお話ができるようになったよ。

あと、あたしが極神会空手四段だってことも、周りに隠すのやめたよ。

怖がられるかと思ったけど、全然そんな事なかった。

学内にカラテ・クラブが出来たの。男の子も女の子もみんな、あたしに空手を教えくれってしつこいんだもん。

それからルッシのアイデア通り、友達をおうちに呼んでアレを作ってあげたら、みんな大喜びだった!

ミッシェルなんか、今では毎日アレを作ってくれって、本当にしつこくてうんざりしちゃう(^_^;)

色々ありがとうねルッシ。お祖父ちゃんによろしく。

今年の冬は、ぜひこっちに遊びに来てね。待ってるから!


琉美菜

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 琉詩葉のもとに、フランスの琉美菜から元気そうなメールが届いた。

 添付された写真には、世界各国のクラスメートに囲まれて、笑顔の姉。

 姉の隣で肩を組んでいるのは、どうやら今度は本物の彼氏らしい優男のミッシェルだった。

 空手部でつかまえたミッシェルを、16地区の自宅に招待して、手作りのカレーで彼の胃袋を鷲掴みにしてしまったらしい。


 友人のホームパーティに招かれて料理を持ち寄った時などに試されたい。

 レトルト、市販のルーの別を問わず、日本式の『カレー』は、食べさせた相手の国籍を全く無視して、ほぼ打率十割といってよいくらいの大好評を博すのである。

 かの国インドの学生さんも日本のカレーは美味しいと明言し、筆者の知人のトンマーゾ氏は仕事で来日している間、ほぼ毎日『ドコ壱』に通い詰めていた。それくらい強力なのである。


「お姉ちゃん! 元気そうでよかった。それにしても、あれから瞬速で彼氏をつくりやがって……!」

 スマホからメールを眺めながら琉詩葉が微妙な表情。

 姉が元気を取り戻したのは何よりだが、ミッシェルとラブラブな添付写真を見せられて、それはそれで何だか面白くない琉詩葉なのだった。

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