30

 杠葉ユズリハに診てもらったほうがいい、とセツ来鹿ライカはおろか戸隠トガクシにまで云われ、十和トワは医師のもとへと連れていかれた。傷が開いていることは間違いなかったから、止血だけでもしてもらいたいのはたしかだった。

 杠葉はちょうど弓弦ユヅルの具合を診ているところだったようだ。十和の姿を認めると顔をしかめ、部屋にいきましょう、と云う。

「いや、ここでいい」

「ここには寝台がないわ」

「床でいい」

 咎めるような杠葉の表情を見て、十和は先を続けた。

「弓弦に確かめたいことがある。ここにいたほうが都合がいい」

 杠葉は、そう、と軽いため息をついた。

外套コートを脱いで、横になって」

 医師の声に従って十和は外套を脱ぎ、それを下敷きにして床にうつ伏せた。杠葉は十和の着ている黒いシャツをまくり上げて顔をしかめる。

「なにをやったらこんなになるのよ」

 雪と来鹿、それから戸隠は、手持ち無沙汰なうえに目のやり場に困ったような表情でそれぞれに明後日の方向を向いている。

「ちょっとした遠足だ」

「なにが遠足よ。あたしの云うこと聞く気、全然なさそうね」

 杠葉の叱責に十和はとくに答えを返さなかった。代わりに、弓弦を起こせるか、と関係ないことを尋ねて、彼女の眉をさらにひそめさせる。

「なんでよ?」

「訊きたいことがある、と云っただろう」

 背中の傷に処置を施す杠葉の手つきがやや乱暴になったことに気づき、十和は小さくため息をついた。医者は敵に回すものではないらしい。

「リュニヴェールの晧宮しろのみや工場に探りを入れてきた」

「……怖いもの知らずね」

「はぐれの医者にも噂は届いていたか」

 莫迦ね、と杠葉は肩を竦めた。

「こういう商売ほど情報は大事なの。出所のはっきりしない噂には派手な尾鰭もついているけど、だいたいの場合、本当のことが隠されているものよ。根も葉もないなんてことはあんまりないわ。鵜呑みにはしないけれど、無視もしない」

 でも、あの会社の薬はよく効くわ、と杠葉は云った。

適合術フォーミングを受けていない人間の多いこの星では、薬剤はとても重要よ。医療用極小機械ナノマシーンを含めて処置に使う器具も、質の割に廉価で手に入ることも大きい」

「……高品質には理由があったというわけだ」

 来鹿の声は低い。

「そりゃあるでしょうね。実際のところがどうかは知らないけど、ひどい噂はずっとあったわよ」

「人を生きたまま切り刻み、弄ぶような?」

 まあ、そうね、と杠葉は答え、十和に向かって、もういいわよ、と声をかけた。

「あんまり無茶しないでよ」

「わかっている」

 十和は衣服を直しながら床の上にあぐらをかいた。

「弓弦は?」

「眠ってる」

「起こしてくれ」

 杠葉は軽く肩を竦めたあと、弓弦を揺り起こしにかかった。

 金色の頭を枕に埋めるようにして眠っていた弓弦は、医師が身体に触れた途端に目を醒ましてパッと身体を起こした。なにかに驚いたようなその様子は、彼がいままで生きてきた世界の過酷さを容易に想像させた。

「なに?」

 弓弦のそばに転がっていた携帯端末からひび割れた合成音声が流れる。古くさく、無感情なはずのその音には、どうしたわけかひどく迷惑そうな響きがこもっていた。

 杠葉は弓弦の傷が痛まないよう姿勢を整えてやってから、十和のために小さな丸椅子スツールを持ってきてくれた。気遣いに感謝しながら腰を下ろし、金髪の少年と向かい合った。

 来鹿と雪は弓弦の寝台を挟んで反対側に立ち、ふたりのやりとりを見守るつもりであるようだった。戸隠と杠葉は少し離れたところにいる。

「起こして悪いな」

 十和は弓弦の様子を観察しながら声をかけた。

 剥き出しの肩に巻かれた包帯は痛々しいほど白く、長く伸びた金髪の下からのぞく鳶色の瞳にはうっすらとした怯えの色があった。

「べつに」

 機械による音声とはいえひどくぶっきらぼうだ。昨日話したときにも思ったことだが、刺々しい態度は警戒をあらわにする小動物に似ている。とはいえ、口の利き方には小心さのかけらもない。

「なんの用?」

「訊きたいことがある。おまえと雪に」

 雪と弓弦は顔を見合わせた。互いに都合の悪いことはしゃべらないでおこう、とでも云い交わしそうな表情だった。

「弓弦はともかく、雪にはもうわかっているんだろう。そんなに警戒するな」

 やりにくい、と十和はため息をつく。

「なんだ、おまえ、外から来たやつといつのまにそんなに親しくなったわけ?」

「……そういうわけじゃないけど」

「べつに責めてるわけじゃないさ。オレが助かったのは、おまえのおかげだもんな」

「恩を売るつもりなんかないよ」

「あたりまえだろ」

「訊きたいことがある、と云っているだろう」

 少年ふたりの会話を断ち切るように十和が割り込んだ。来鹿は呆れたような表情で黙ったままでいる。扱いづらいこどもふたりに振り回されている十和がおもしろいのかもしれない。

「おまえたちの周囲で、最近姿を消した者がいるだろう。おそらくは少女で、おまえたちと同じくらいか少し歳上の……」

 そんなやつたくさんいるよ、と吐き捨てたのは弓弦だった。

「そうだろうな。だが、それなりに親しかった相手、という意味ではどうだ。心当たりがあるはずだ」

 弓弦は急に静かになった。単に話さなくなったのではなく、心を閉ざしたのだということが十和にはよくわかった。

「弓弦」

「……なんだよ」

平和ピースに聞いてきた」

「なにを」

 弓弦に強く睨まれ、雪は自分を庇うように薄く笑った。

雲雀ヒバリのこと」

 弓弦が深いため息をついた。おまえさあ、という声には、さきほどよりもずっとはっきりした非難が込められていた。

「隠す必要ないじゃん」

 対する雪の声には云い訳をするような響きがある。

 部外者によけいなことをしゃべらないのは、自分たちの小さく脆いコミュニティを守るためだ。仲間の裏切りを許せないのは弓弦ではなく、当の本人である雪のほうなのかもしれなかった。

「雲雀、というのがいなくなった少女の名前か」

「……本当の名前かどうかはわからないけどね」

 ため息まじりに雪が答えると、弓弦も小刻みに何度か頷いてみせた。

「いつごろのことだ?」

「一年くらい前かな」

 答えたのは弓弦だった。表情はまだ硬いが、その口調からは攻撃的な響きが消えている。雪の態度や自身の状況から、黙ったままでいることはできないと判断したのかもしれない。

「噂で聞いたのがそれくらいだから」

「噂? 親しかったのではないのか」

「一緒に住んでたことがある。雪もね。平和が来る前」

 平和というのは誰だ、と十和は雪の顔を見た。雪はあからさまに苦々しい表情で、やなやつだよ、と答えになっていない答えを返してくる。補ったのは弓弦である。

「オレたちみたいなガキを集めて仕切ってるんだ。雪はやり方が合わなくて出てったけど、平和のそばにいれば食いっぱぐれはない。結構な人数がいるよ」

「やり口の汚い女衒ぜげんだろ」

「それでもあいつにくっついていれば、このへんうろつき回って客を探さなくてもいいんだからラクでいいだろ」

「自分の気に入らないやつを率先して殺人鬼に売りつけるような男だよ! 共犯じゃないか!」

 なるほど、平和という人物はこどもたちと客をつなぐ窓口のような役割を果たしてしているらしい。弓弦のように便利な相手と割り切る者も、雪のようにそのやり方を批判する者もいるのだろうが、客の側からしても、魔窟のような幽宮かすかのみやにそういう存在がいれば、自身の欲望を満たしやすいことは間違いない。

「雲雀のことだったよな」

 不毛な云い争いを打ち切ったのは弓弦のほうだった。

「雲雀は恋人ができて、それって、ここじゃすごく珍しいことなんだけどさ、オレたちのところを出ていったんだ。一年半くらい前だったかな」

「恋人?」

 弓弦は冷めた表情で頷く。

「恋人だろ。金も取らないで寝てたんだから」

 おまえも知ってるだろ、と弓弦は雪のほうを向いて尋ねた。だが雪は、知らない、と首を横に振る。

「それって平和が来てすぐの頃の話だよな。ぼく、あいつに目つけられて変な客ばっかりつかまされて大変だったし、あんまりよく覚えてない」

 そうだったか、と弓弦は首を傾げた。

「まあとにかく、それで雲雀はオレたちのところを出ていった。自然と縁遠くはなったけど、あいつはこの街自体を出ていったわけじゃなかったし、ときどきは顔を合わせることもあった」

「……仕事を変えたわけではなかったのか」

「たぶんね」

「恋人ができたのにか」

 事情は知らない、と弓弦はキッパリと云った。

「オレに云えるのは、雲雀には決まった男がいたことと、それでもときどきは幽宮で見かけることがあったってことだけだよ」

 平和はなにか云ってたか、と今度は弓弦が雪に尋ねる。

「……雲雀は綺麗だっただろ。どうしても手放さない客がいたんだと。平和に云わせりゃ、そいつは政治家だか官僚だかっていう筋のいい男で、金払いもよかった。雲雀はやめたがっていたけど、取り分を増やして繋ぎ止めてたらしい」

「あの平和がね」

 こどもたちを使って商売をする女衒は、さすがに相当にがめつい性格をしているようだ。十和と同じように雪の話に納得したらしい弓弦は先を続けた。

「で、あるとき、雲雀が消えたっていう噂を聞いた。でも、ここは幽宮だ。オレたちみたいなガキが一晩に五人も六人も消えることがある場所だ」

 誰も深く気にしなかった、と弓弦は云った。

「恋人だっていう男と街を出ていったのかもしれないし、客に殺されたのかもしれない。本当のことなんか誰も確かめようがないし、確かめようともしない」

「平和もか」

 十和の声には皮肉げな響きがこもっている。

「あいつにとってオレたちは商売道具だよ。それ以上でもないしそれ以下でもない。自分に類が及ぶようなことがなけりゃ、ほったらかしだよ」

 弓弦の返事に重ねるように雪が舌打ちをしたのが聞こえた。

「雲雀の恋人だという男の名は知っているか」

 弓弦は首を横に振った。

 十和、と口を挟んだのは、それまで黙ったままでいた来鹿だった。

「その雲雀という子の恋人が八雲ヤクモだ、と考えているということか」

「まあ、そうだな」

「根拠は」

 十和は思わず唇を歪めた。

「おまえがそれを訊くか。はじめからやたらに八雲に突っかかってたおまえが」

 来鹿は気まずそうに眉根を寄せた。

「……あいつは俺を助けてくれたぞ」

「助けた? いつ?」

「ついさっき、あの妙な実験室で」

 そこで十和は、来鹿が絶対的な危機を八雲が唱えた奇妙な言葉——水伯招来——によって救われたことを聞かされた。

「おまえが現れる寸前のことだ」

 十和は深いため息をついた。なるほどな、と彼女は云った。

「その話を聞いて確信した。今回の百鬼夜行は間違いなく八雲が企んだことだ」

「動機は?」

 復讐、と十和は短く答えた。

「雲雀がリュニヴェールに……殺されたから?」

 雪が尋ねると、そうだな、と十和は答えた。

「殺された、というか、実験のために連れ去られ、ひどい目に遭わされた。死んだほうがマシだと思うような目に」

「それって……」

 具体的には本人に訊くまでわからない、と十和は首を横に振る。

「訊いたところで答えるともかぎらない。知る必要もないことだ。わたしにわかるのは、八雲がなにをしたか、ということだけだ」

「……なにをしたかはわかるのか」

「わかる」

 来鹿の問いに答えた声は、十和自身がそうと気づくほど苦いものだった。

「八雲と雲雀は一年半前、あるいはもう少し前に知り合って想いを交わすようになった。雲雀が幽宮を出なかった理由はよくわからないが、ふたりはたぶん本当に愛し合っていたんだ。だが、すぐに雲雀はリュニヴェールによって害されることになる」

 でも、直接的に殺されたわけではない、と十和は云った。雪も弓弦も来鹿までもが首を傾げた。

「雲雀を最終的に殺めたのは八雲だ」

 なんで、と叫んだのは雪だった。

「意味がわからない!」

「最期のとき、雲雀がどんな状態だったのかは正確にわからない。ただ、おそらく、生きていることのほうが苦しいような、楽にしてやるには命を奪うしかないような状態だったのだろう」

 八雲の話を聞いただろう、と十和は雪と来鹿を交互に見る。

「あいつはリュニヴェールを深く恨んでいる。来歴を考えれば、これはちょっと妙な話だ」

「なんで?」

「β市に暮らす者たちなら誰もがある程度はリュニヴェールに敵意を抱き、同時に必要悪と割り切って付き合っているのではないかと思う。護衛師ガーディアンである八雲もそうだったはずだ。ましてや、前職は治安維持を使命とする警察官。一般的な市民に比べむしろリュニヴェール寄りの立場だった可能性すらある」

「それが雲雀の死をきっかけに大きく変わったっていうことか」

「そうだ」

 八雲はいったいなにをしたの、と雪が尋ねた。

「雲雀の惨状を目の当たりにして、彼女にはもう死しか残されていないと悟った八雲は、鵺を呼び出した」

「どうやって?」

「妖を呼び出すにはそれなりの心得がいるが、しかし、そんなものなどなくともやつらを引き寄せることはできる」

 強力な餌で誘えばいい、と十和は昏い笑みを見せた。

「餌?」

「雲雀だ」

 雪と弓弦の顔が引きつった。

「八雲は雲雀の一部を鵺に啖わせ、残りを百鬼夜行を呼ぶための呪陣に捧げる供物とした」

「なんでそんなことがわかるの!」

「それしか説明がつかないからだ」

 しばらくのあいだ、だれも口をきかなかった。それぞれぼんやりとした直感と過去の経験によって、八雲に対して不審なものを覚えていた雪にも来鹿にも、彼女が示したようなことまでは想像できていなかったのだ。

「鵺と術者には強力な絆があるはずだという話はしたな」

 沈黙を破ったのは十和だった。雪と弓弦、それから来鹿はのろのろと互いに視線を交わし合った。彼らはひとりとして発するべき言葉を持っていなかったのだ。いまこの場で平静を保っているのは、十和ひとりと云っても過言ではないようだった。

「八雲は鵺に自身と雲雀を与えた。あの妖は、八雲にとって自らの手足であり、同時に恋人でもある。これほど強力な絆はない」

 十和はどこか嘲笑うような口調で云った。

「あの鵺に異様なまでに強い妖力が備わっている理由は、それで説明できる。人をふたりも啖えば、それは並では太刀打ちできないような怪物ができあがるだろうよ」

 あいつは翁の呪を破ってわたしに蟲妖こようをけしかけたと聞いた、と十和は部屋の隅に黙って佇む、かつての師匠をちらりと見遣った。

「鵺はもともとそれなりに強い妖ではあるが、呪陣を描いたり、蟲妖を使役したり、ましてやわたしに危害を加えたりすることなど、普通はできないはずだ」

「俺を助けるときに使った呪も……?」

 来鹿の声には嫌悪のような憐憫のような奇妙で複雑な色が滲んでいる。

「おそらくは鵺によるものだ。八雲は自身で云っていたように妖力を備えていないし、呪の使い方もわかっていない。ただ、鵺を自在に使役することができるだけだ」

「俺を殺すこともできたはずなのに」

「なんだ、同情か?」

 十和が薄い笑いを浮かべながらそう云った。来鹿は渋い表情でそれを否定する。

「単純な疑問だ」

「おまえは念動力サイコキネシス持ちの人工生命体アーティフィシャルだ。妖力とは極端に相性が悪い。簡単に殺せる相手ではないとわかっていただろうし、自分自身も危機的状況にあったわけだし、いまではないと判断したんだろう」

 なるほど、と来鹿は忌々しげに口元を歪めた。

 ねえ、十和、と口を挟んだのは雪である。

「八雲と鵺は、いま、どうしてると思う……?」

 雪の声には震え出しそうなほどの怯えがある。

「まだ十和のことを殺そうとしてるのかな」

 いや、それはないだろう、と十和は首を横に振った。

「八雲が目的を完遂するのはもうまもなくだ。呪は完成し、邪魔をするものはいない。このまま百鬼夜行の日まで身を隠していれば、彼の願いは成就する。わたしの前に姿を見せることはないだろう」

「……死ぬわけにいかないから?」

「呪そのものはすでに八雲の手を離れた。わたしが仕掛けた時間稼ぎもそれ以上の意味はない。時が満ちればあとは勝手に動き出す。彼の生き死には関係ない」

 だが、八雲はすべてを見届けたいと願っているはずだ、と十和は云った。

「さきほど工場で撃たれて負った傷を癒しながら、どこかでそのときを待っているんじゃないのか」

「放っておくつもりか」

 来鹿の表情は険しい。

「依頼を放り出して、この街に妖物どもをのさばらせる気か」

「百鬼夜行を防ぐ手立てはない」

「十和!」

 そうカッカするなと、十和は笑った。

「考えはある。だが、それがうまくいくかは運次第といったところだ」

「運?」

 そうだ、と十和は軽く頷く。

「そんなんじゃ困るよ」

「困ると云われてもな」

「……困るわよ」

 雪の困惑を軽くあしらった十和を咎めたのは杠葉だった。そこにいたことすら忘れかけていた医師の言葉に、陰陽師の顔から笑みが消えた。

「あんたはそれでいいかもしれない。霊障さわりの原因は見つかった、でも対処はできないとすべてを放り出して地球へ帰ればいいんだもの。それとも、八雲を捕まえてリュニヴェールに突き出し、追加報酬でも受け取る?」

 杠葉の翡翠色の瞳に荒れた色はなかったが、言葉は厳しかった。

「リュニヴェールの悪を目の当たりにしておきながら、なにもしないで放っておくつもり?」

 十和は闇色の眼差しをじっと杠葉に注いでいたが、やがて口を開いた。

「それが依頼だからな。それに放っておけばリュニヴェールは甚大な被害をこうむることになる。悪事も、あるいはそれでやむかもしれない」

 そうなるなどとはつゆほども思っていない口調だった。杠葉は眉をひそめた。

「……帰る場所のあるあんたにはわからないわよね」

「なにが」

「リュニヴェールの悪事と共存しなければ、ただ生きていくことさえままならないβ市民の気持ちなんか」

 そうだな、と十和は無感情に応じた。

「苦しみはどんなものでも苦しみだろう。辛くて苦しくて逃げ出したくなる。苦しみとはどんなものでもそういうものだ。だが苦しんでいるのはおまえたちだけではない。この世には数多の人間がいて数多の立場がある。皆が苦しんでいる、少しずつ。誰もが痛みを抱えている。この世に生きる誰もが……」

「きれいごとね」

「好きに云えばいい」

 話は終わりだ、とでも云うかのように十和は立ち上がった。

「待ってよ、これからどうするの?」

 雪がすがるような声で問いかける。黙ったままではあったが、弓弦もまた同じことを云いたげな表情をしていた。

「云っただろう。できることはなにもない。時が満ちるのを待つだけだ」

「十和!」

 面倒だな、と十和は思った。誰かとともに仕事をするとはとても面倒なことだ。説明だの納得だの、ひとりで動くときには必要のないことばかりだ。

「八雲を止めることはできない。あいつはもう誰の言葉も届かないところにいる。身体は現世うつしよにいても心は幽世かくりよにある。なにを云っても無駄だ」

 みなの無言を肯定と受け止め、十和は先を続けた。

「リュニヴェールもわたしの言葉を聞き入れはしないだろう。霊障を祓うだけでいいと釘を刺したはずなのに、秘密の実験室に護衛師を送り込むような真似をしたのだから、当然だ」

 むしろいまあちらに顔を出したりすれば、追加報酬どころか拘束されて消されるかもしれない、と十和は楽しげに笑った。杠葉が苦い顔をする。

「つまり、手詰まりだ」

「十和」

 来鹿の声は不満に満ちている。

「できることはもうひとつしかない。時が満ちるのを待ち、妖どもの群を迎え撃つ」

「……迎え撃つって?」

 ささやくような声で雪が尋ねる。

「全部まとめて幽世へ送り返してやる」

 闇色の十和の瞳の奥に鋭い刃のような光が煌めいた。

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不夜城寓話 三角くるみ @kurumi_misumi

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