終わらない子ども、続く大人

じんたね

第1話

「ちょっと聞いてくださいよ」


 店員が運んできたビールジョッキへと、おもむろに彼女は手を伸ばすと、すぐに口に運んだ。それにつられて私も、自分のジョッキを握る。取っ手部分から伝わってくる湿り気と冷気が、冷蔵庫でキンキンに冷やされていたことを想像させた。


「この間の記念日、うちの旦那どう言ったと思います?」

「相変わらず、きれいだよ、でしょうか」


 彼女は、ふん、と私の相づちに鼻を鳴らす。

 そんなにおかしい言葉だったとは思わないが、彼女の口を白く縁取るビールの泡よりは、つまらないかもしれない。


「忘れてた、よ。忘れてた」

 信じられる、結婚記念日なのに――そう吐き出すと、彼女はすぐにビールを飲み干した。このペースに付き合っていると、私のほうがダメになってしまう。敢えて一口ずつ、私はビールを飲むことに決めた。


 その一言を言いたかっただけなのだろう。彼女はすぐに沈黙し、つまみに手を出し始める。その様子を脇目に「仕事熱心な旦那さんですしね、こうやって聞かせてもらう限りで判断しますが」と、私は言葉を添えてみた。彼女は、黙ったまま流し目で応えてきた。


 彼女は職場の後輩にあたる。

 私の部局へと入社直後から配属され、いろいろと面倒をみてきた関係だ。歯に衣着せぬ物言いと態度、その麗しい容姿もあってか、彼女は良くも悪くも、平穏な職場に一石を投じる存在だった。


 しかもその薬指は、すでに占領されていた。寿退社とは真逆の行動パターンだったことも祟ったのだろう。同期の人間から嫌がらせを受けていると、悩みを相談されるようになっていた。もちろん、これには彼女自身の被害妄想も含まれている可能性があるのだが、事の真相が問題なのではなく、そのように感じているという当人がおり、こうして愚痴を吐き出したあとは、ケロッとした表情で仕事に取り組んでくれるという統計学的事実が、私にとっては重大だった。


「どうして男ってああなんですか」

 追加のビールを注文しながら、彼女はわだかまりを言葉にする。


「こっちが構って欲しいって言ってるのに構ってくれない。気持ちとか気配りとか、ほんと全然できてない。なのに男は、自分が寂しいときはいじけて屁理屈並べて、もうウンザリ」

「私もウンザリしてますよ、自分のことを思うにつけて」


 へへへ、うまいこと返せたって思ってるでしょ、と彼女は頬を緩ませる。「でも、そういうのって卑怯ですよ」


 困ったな。そう言われては、どう返事をしていいのか分からない。

 いや。彼女がどうして欲しいのかは、もう分かっている。だが、それはできない相談というものだ。対応のしようはあっても、行動しようとは思わない。


「まーぁ、許してあげますよ。お付き合いいただいてますからね」

 新しく運ばれてきた、人の意識をかどわかす黄色い炭酸飲料が、別の話題への呼び水となり、さらに酒宴は深まっていった。



 ひとしきり彼女の愚痴を聞いて店を出ると、私たちは黙ったまま、JRの駅に向かって歩いていた。そのお店を収容しているアーケードには、週末の夜よろしく、憂き世に浮き世を見る、酔っ払いの喧噪に占領されていた。


 そして駅を目前して、最後の横断歩道に到着した。ちょうど信号は青になったばかりで、「ありがとうございました」と、彼女はそうお礼を言って、はおっていた春物のハーフコートをぎゅっと握る。それを翻しながら私に背を向けた。


 コートの地味な裏地に、私はなぜか視線を奪われてしまう。それに吸い込まれるように彼女に近づき「駅まで送りますよ」と、声をかけた直後だった。


「どうして結婚とか、お酒とか、あるんですかね」

 点滅している青信号を見つめたまま、彼女は口を開いた。


 何かに追われながら駅へと逃げこむよう横断歩道を渡った人々の気配だけが残っている。動かない。

 私は返事を持たなかった。点滅する青信号に視線を重ねて、内側からのぼってくる酒気を帯びた熱を、喉元に堰き止めるだけで精一杯だった。


 信号は赤になり、車の往来と、酔っ払いの蓄積が進むが、彼女は言葉を続けない。

 そして信号は青になり、横断を許可するぴよぴよという音が聞こえてきた。かつかつ、とヒールを鳴らしながら彼女は進み始める。それに合わせて私も歩む。白く塗装された部分とそうではないアスファルト部分とで、ヒールの音が違っていた。


 私たちはそのまま駅の切符売り場に到着し、彼女は片道230円のチケットを購入した。私はその様子を背後から見ている。彼女は、じゃらじゃらと機械から吐き出される小銭を左手で鷲づかみにすると、それを財布に収めないまま、どん、と胸に押し当ててきた。


 ――あ。

 と、声を出す間もなく、小銭は散らばっていく。


「どうしたの」

 視線を落とすと、きれいに塗られた彼女の爪が、私のシャツに皺を刻んでいた。彼女は幕を引っ張るように体重をかけてくる。うつむいた彼女の顔は見えない。するといきなり、彼女はその力を緩め、下を見たまま踵を返した。


「また、飲みに連れてってください」

 そう言葉を残して、自動改札口へと消えていった。

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