第4話 少女と草原の塔の物語

 こう、世の中を歩いていると春になれば人々は陽気になり、冬になれば人々は親密になり、夏になれば人々はハメを外し、秋になれば小さな恋が温もりを覚えるころだというのか、兎角、そういうのが日本人の由緒正しき伝統で、これからも異常気象がない限りはそういった風土が根付いていくのが私はよろこばしいね。

 別に私は愛の伝道師でもないし、愛の開教師ではないからね。君たちに愛をしろだのどうだのは言わないが、人間つまるところは臭い話が最も大切なのかもしれないね。

 最北の地に人が住み、北欧に人が住み、北海道を開拓し、東北に武将が住み、北陸に雪が降る。ああ、そうだね。今そこのセニョールが言ったが、冬国に住む人間は鬱発症率が高いらしい。それでも人がそこに住み、生きているというのはそれを支える人がいるからだろうね。鬱というのは人によって起こされるが人によって解消される。専門家ではないから詳しくは言えないが、きっと、そうだね。仏教に縁起というものがあるが、その名の通り、因果で相互に結ばれたエニシということとでも言おうか。

 こういう感じで、今日の導入はなんかもう面倒くさいので、それにほら、そこの落ち葉の姿を見つめる通称窓際の彼女も私の話に興味はなさそうだし、そういうのって悲しいし、話を始めていいかな。

 あと、最近、私の講義が、ロリコンヒストリアとか呼ばれているみたいだが、まぁ構わんよ。お好きに及びくださいませ、だ。


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 少女漫画の人生を謳歌できていない真面目少女がヤンキーと出会い、徐々に角が取れいい感じに人生を謳歌する漫画なんてのがよくある。

 しかし、その物語の悲しいことが一つある。それが、少女の普遍化だろうか。

 こういった主人公の少女は、それまで持ち得ていた特異性、偏執性等々が徐々に軟化していく傾向がある。つまり、その少女の持ち味が消失するのだ。

 物語終盤には普通の少女になっている。そういう意味で、その物語は大成功なのだが、しかし、読み進めていた視聴者としては物悲しい。 

 私たちが憧れていたヘンテコでおかしいあの少女は、いつしか人々に受け入れられ、友達も増え人生を人並みに楽しんでいる。

 その姿を見て、視聴者たちはうれしかなしといった面持でじぃっと眺めているのだよ。

 それはきっと、いつしか嫁に行く娘を見るようなものだと私はおもうけどもね。

 まぁ、諸君らの中にはそういった気持ちを得るものを、得ないものもたくさんいるだろうけどね。

 私が多く語る一人の女性の物語。白のことを知る諸君たちは一体全体何を思って日々を生きているのだろうか。

 私が語ったことが役に立つといいがとは口が裂けても言わない私だが、それでも一応講義という形をとっている以上、諸君ら、貴君らの人生を構成する一要素として何かあるのではないかと私は圧倒的内面肯定を行っているが、ま、こういう自己陶酔と自己防御のカタリはやめておこう。

 ただ、話を語る前に一つ言いたいのは、諸君らがこの大学に訪れ、この講義をとり、私というたいそう普通な人間に出会ったこと。そしてたいそうたいくつな話を延々と聞かされておクソ様のような感想をつらつらと書き連ね、滔々と物語への感想を紡いだ時間は忘れずにいてほしいんだ。ね。

 変わることを許される世界ではあるけれども、変わることを強いる世界であってはならないんだ。この世というものは。

 現実は小説よりも奇なり。少女漫画のように心を成長させて生きていく少女のように普遍的になってはならない。一般的理想の集大成のように人格形成をしてはならない。いや、ならないことはないんだが、私としては自由意識と自由発想。その二大項目こそ畢竟求むる所になる。だからこそ、だ。

 ん? 今日はずいぶん建前が長いだろう? しらないよ、いつものことだろう? 諸君らも随分と私のことが分かっただろうに、いまさらそんなことを言うなんてね、イケズにもほどがあるよ。

 ま、そろそろ私の白の話をしよう。私は話したくてたまらないんだ。この時間は特にね。


  私と、皆々様方、紳士淑女の方々共々。知っての通りのスペースロリータ的システムの中に組み込まれた、なんなら全ての人類の阿頼耶識に含有された深かぶりの灰眼 マインドシーカーちゃんは二人そろって移動するの中にいた。ほら、諸君らもよくイケナイ録画ビデオを、え? 何、ビデオは今どきない? そんなナンセンスなことを言うなよ、最前列の君よ。DVDもVHSもどちらもアルファベットで表せば似たようなものだし、機能も似たようなものだろう。メールのことを手紙というのと何が違うんだ。媒体こそ違えど、名前こそ違えど、やることなすことは変わらんだろうまったく。というわけで、私のお話に茶々を入れた君は減点だ。

 真っ白なしわのないワンピースから延びる、同じように真っ白で真珠のように艶やかな四肢。素足で立っているせいか、私の腹ほどまでしかない身長が反って私の嗜虐心を擽ってきたものだったよ。何、でも今こうして教壇に立っているのだから、私は誓って、アーメン、南無阿弥陀仏、イスラームでいえばアーミン、罪は冒していない。だからほめてくれたっていいんだよ、この屈強な精神を持つ諸君らの大先輩である私を。なんせ、私は大きくなってからこの方、嫁には罵倒され、娘には迫害され、今この場しか私の存在価値証明となる瞬間は存在していないのだから、それぐらいの贅沢ぐらい許されたっていいだろうに、なぁ、諸君らよ。ほうら、そこの出入り口に一番近い席でスマートフォンの充電をする幼気な紳士を見ていると、是々非々に日々を生きる私は気分になるのだが、仕方ない、君も十点減点で手を打とう。

 密室の箱の中で、二人の男女、それも片方は成人した屈強で凛々しい男性。相対するは燦燦と太陽を受け、その身にたっぷりと水気を持ちながらも、外には出さず体の中で甘露のように煮詰め、その匂いを身体中から出す妖艶で麗しき少女。その香りは箱の中で充満し、私の側頭葉や偏桃体が過敏に反応して思わずその場に膝をついてしまいかねなかったよ。ただね、私も偉丈夫としての誇りを保つために、そっと静かに白に話しかけたよ。

 今回の白と私はたまたまエレベーターの中で居合わせたもの同士というのが一番しっくりくる間柄だった。私としては些か不満という気持ちだったが、当時の私にはナンパしていい感じに持っていくというスキルも経験もなかったからね、流される人生に翻弄されながら甘んじて受け入れていたよ。丁度、貴君らや諸君らが今、気になる人の隣にわざと座り、機会があればワンチャンという風に毎日切磋琢磨しているのと何ら変わりはない。事態が好転すればいいとは思ってはいるが、その方向へ舵を切るための帆もなければオールもない。結局のところ波に任せるしかない人生だったということだよ。今も昔もね。ただ、乗る船を間違えて、乗る波を間違る人生というのもまた然り。私の隣に今、白がいないのもまた、然りということなのかもしれないとは思うが………はぁ、今日は少しおセンチになってしまうよ、まったく………続けよう。

 ああ、ちなみに、白は話しかけてきた私にこういうんだ、「はじめまして」と丁寧に、ね。悲しいものだよ、いつも。

 


 白と私は珍しく初めから二人そろい組での覚醒だったよ。周りにはガレキの山がところどころにある平原に倒れていたものだから、ひどく驚いたのを覚えている。ただね、それはそれは……綺麗なものだったよ。

 少し横を向けば、砂と土の匂いの中にまっすぐに伸びた黄緑色の葉がいっぱいに広がり、風にあおられ青臭い香りが直接鼻をくすぐる。虫はおらず、高原のような雰囲気で、ひんやりとした風が草に埋もれている私と白の上を駆け抜けていくと草が揺れてさらさとした音が遠くまで伸びていく。

 隣に眠っていた草原に不釣り合いな白髪と白いワンピースを着た少女は雪をのけて育つ小さな蕗の薹のように儚い産声を上げたのが今も印象に残っているよ。今まで出産に立ち会ったことこそないが、それ相応に等しい感情だろうね。

 エレベーターを乗っていたはずなのに、気づけば平原に放り出される。どんなトンデモ設定だと諸君らは不審に思うかもしれないが、これが現実であるのだから仕様がない。というか、常々思うのだが、ここにいる貴君らはもしや私の今までの講義をすべて空想上の産物だと軽蔑にしていないか? 別に、いいのだよ、私とて人間だ。完璧無比な、絶対的な記憶能力を有する機械生命体よりは現実を嘯いているとは言えない。今吐く息さえも、次の瞬間には「真」か「偽」か有耶無耶になってしまう。炎という現象が、どの瞬間から炎というのか、そしてどの瞬間から炎でなくなるのか、炎という物体は存在するのか、その討論をするのはあまりにも無謬性に欠けるからしないでおこう。

 その平原には一本の真っ白な塔が立っていた。それ以外に建物はなく、あたり一面に美しい緑が広がる、そんな平原だった。おっと、想像の中で構わないが、緑の大地に一本の白い塔と白い白。そのどちらが美しいかという質問に君たちならどう答えるかね? また、今日の講義の後に私宛にメールを提出すること。手紙ではないよ、メールだ。電子メール。私も現代を生きる屍だからね。IT化も辞さない覚悟というわけだ。

 白は目を覚まし、隣にいた私にそっと声をかけた。「もし、私の名前を知っていますか?」と。私の体中の産毛が産声を上げたよ。耳から入った情報が、私の細胞一つ一つをフライパン片手にお玉で音を鳴らしながら活性化させていく。母とも娘とも、最愛の人とも、幾重にも様々な感情の支流が一本の奔流となって私の前頭葉に直接なだれ込んでいく。馬鹿になったかと錯覚さえする魅力が白の一声に存在していた。私が常々残念だと思うのは、蓄音機やレコーダーといった技術がどうして私と白が生きたあの時代に存在していなかったのかということだよ。そうすれば今こうして、講義を通して諸君らに虎の威を借りて自慢したというのに。最も、生を聞いた私が圧倒的に精神的優位性を有することが大前提であるから正直、どうでもいいんだが。しかし、私の人生の様々な苦境に置いて、再生し続けて擦り切れた白を保存する脳内記憶領域は後何度、私に夢を見させてくれるのか、不安で仕方がないというのが正直なところだがね………おっと、臆病になってはいけないな。紳士淑女の皆様、あなた方が誰かを守りたいと願うとき、臆病になってはいけないよ、大人からのちょっとしたアドバイスだ。

 ああ、そうだ。私は白の問いかけに対して、君は白だよ、と簡素に答えた。別に盛る必要も嘘を拱く必要もないからね。紳士然として答えたよ。すると白は驚いたように「白」という名前を反芻して、納得したように、私に笑いかけるのだ。まるでその名前が自身に与えられたものだと世界が理解しているとでも言うように疑いなく、私の言葉を受け入れたのだよ。丁度、透き通った冷水にレモン汁を絞るようにね。え? それはただ美味しいやつ~? 君のヤジはセンスが無いな。

 簡単な自己紹介を終えると、白は思い立ったように立ち上がり、拙い足取りで白い塔の方へ進んでいった。私は声をかけるといった無粋なことはしなかった。世界が彼女を白だと認めているように、私に彼女の行方を左右する力は備わっていない。私には彼女は救えない、白を、救う力は、私には、無いんだよ。残念なことにね。それは、ああ、概ね、諸君らにも薄々気づかれているかもしれないけれどね。私の手の内には薄汚い豚のような嫁とその子豚、小さな幸せかもしれないが、不幸でもある、それを守るのが精一杯なのだよ。

 しかし、この頃の私は恐れ多くも若さに溢れ、血気盛んであった。白塔へと進んでいく白に追いすがるようにその手を掴んだのだよ。手が震えていた、何? 私の手が、だよ。陶磁のように白く冷たい腕に触れた私は、国宝を触れているかのように体中が震えた。少し大人の私が力を入れて捻ってしまえば、漫然とミシミシと音を立ててあらぬ方向へ向くであろうその腕に手をかけていたという事実に。どうかね、貴君も、否、派手な化粧を是としない淑女に訪ねよう。どうかね? 生まれたての子犬をその手のひらに包んだことはあるかね? 人間が漠然と持っている支配欲求と破滅欲求の織りなす衝動的な心のときめきを感じたことはないか? 恐らくは忘れてしまったのかもしれないね―――ある論文には幼少期の残虐性は男児よりも女児のほうが数倍高い傾向にあるとされている。まぁ、人間の成長という過程は、概ね女性が先に生育する。すなわち、個としての力が早い段階で育つ。すると、必然的に幼少期は男性よりも上に立つ場面が多い。そういった中で、社会性による歯止めの利かない幼少期においては、女児のほうが残虐性が高いと評されてしまったのだろうとは思うが。もちろん、成長する過程でだいぶマイルドになるようだけどね。さて、話は戻るが、どうだね? そこの―――と、こういうシビアな話題を個人に振ると除名されかねないからやめておこうか。とは言え、私が言いたいのは、幼くか弱いものをその手の上で自由にできるとき、人間は歯止めがなければ、一瞬にして握りつぶしてしまうということを言いたいんだよ、結論はね。

 下世話な話になるが、男性にとって扇情的で魅力的な女性の四肢というのは麻薬のように脳を狂わせる。判断を狂わせる。そうするつもりがなくとも、そう云う風に力が入ってしまう。このときだって、私は白の痛い、というその囀りを耳にするまで、力を込め続けていたらしい。何、我が愚妻だったら逆に首を両手で締め上げられ、失禁するまで離してもらえないのさ、ここだけの話だが。

 白のその時の瞳を思い出すと、今でも胸が締め付けられる。私が何故幾度も白とともに生きているのか、何故白を愛しているのか。今一度、胸に手を当てて考えたさ。けれど、答えはなかった。おかしいだろうか? 諸君らもそんな時があるんではないか? 答えが欲しいのに、脳では答えが作り出せるのに、心では答えが出てこない。まずいものを食べているのに、まずいと言えない。好きなものを食べているのに、美味しいと言えない。歯がゆい気持ちが。けれど、私は諦めなかったよ、白塔へと進む白の後ろを追いかけたんだ。

 白塔の入り口には文字が彫ってあった。私には読めなかったが、白はそっと手を触れ、静かに涙した。どうして泣くのかと聞けば、白は頬を朱に染めて、涙を拭いもせずに「わかりません、涙は理由もなく流れるものでしょう」とくるりと涙を振り払いながら、先へと進んでしまう。白とそれを追いかける私は、無限に続くような螺旋階段を始めた。何、塔ではないのかと? さあ、けれど私の脳ではと記憶している。そして、コレはとても大切なことだったような気がするのだよ。

 上に下っていくと、大きな部屋に出た。ぐるりと周囲を囲む壁はロカイユ調のように曲線と不思議な生物をモチーフにした細かい装飾が施された大理石のように白く、差し込む日差しが部屋の中で乱反射して思いの外明るかった。真っ白なワンピースを身につける白は、日差しのスポットライト浴びて、聖女のようだと私は敬服したね。思わず片膝ついて手のひらにキスをしたいぐらいだった。ええ? アニメの見すぎ? 西洋の騎士に夢描きすぎ? いいだろうが、おじさんだって夢を描く。夢を見る。まして、当時はまだ君等と同じくらい若かったんだもの。

 伽藍とした部屋の真ん中に、一つの宝石が転がっていた。私は階段を上がった底で足を止めて、じっと部屋の真ん中へと歩んでいく白を見つめていた。手を出してはだめだという御達しが脳内を駆けていた。なんて言えば聞こえがいいかもしれない。白は部屋の中央にたどり着くと、そっと両手両膝をついて、宝石に手を伸ばした。私はここぞとばかりに少しだけ姿勢を低くして、白の臀部をチラと凝視したよ。しゃがんで少しだけ前かがみになった白いワンピースが白の真っ白で美しい彫刻のような臀部を空気に晒し、あわや大惨事と言わんばかりに私の情欲を掻き立てんと誘惑するのだよ。世の中の男性が女豹のポーズというものに一定の価値を見出しているように、私もその時、価値を見出したとも言える。尻から白く靭やかに伸びる大腿の裏側をなめるように見つめ、細い白の足では筋ばったひかがみが妙に色っぽく、続く仄かに膨らむ脹脛をつるりと乗り越えると、柔らかそうな足裏が私の目を焼く。と、まるで私が視姦が趣味の変態のように聞こえるが、別に諸君らと同じさ、言葉にしないだけで、潜在的に、今日は、潜在的にという言葉を多く浸かっている気がするが、潜在的に持ち得る欲求を細かく伝えているだけだと思わないかね? 別に嫌悪感を抱かれようとも構わない。嫌悪感とは裏返せば魅力的とも言える。理解が得られるか得られないかの違いでしか無い。大きな違いではあるがね。

 我に返った私はすぐに白のもとへ駆け寄っていく。自然な流れで白に手を差し出し、自然と白は手を取り、立ち上がる。白がじっと見つめている宝石はどこか、人間の瞳のようで、真っ白な球体に黒い球体が埋め込まれていた。脈絡膜のように黒いそれを覆う澄んだ空のように美しい碧色の虹彩、そして脈絡膜の黒と虹彩の碧色を受けて小さな宇宙のように輝く水晶体―――を模した水晶だが、恐ろしく精緻に作られた工芸品の眼球が白の手のひらで輝いていた。

 私が白に見せてほしいと言えば、白は冷たく「だめです」と言う。どうかね、諸君。もし、好いている女子に否定されたら死にたくなるだろう。だが、諦めてはならないよ、諦めては何も得られないからね。ちなみにコレ、すごいどうでもいい具合にいっているけれど、人生を変える一言というのはどこに転がっているかわからないから、気を抜かないようにね。無論、私の講義に貴君ら貴女らともに人生における分水嶺になれば教える者としての冥利には尽きるがね。

 白に断られた私は、また白の後ろをついて歩いていく。白の隣に並ぶでもなく、追い越すでもなく、一定の距離をとって後ろをそっとついていく。それがその世界で私にできる全力だった。どうもその日の私は、白に触れていると彼女を壊してしまいそうで、自制していたのだよ。欲求不満、といえば低俗な話題に聞こえかねないからよし子さんしておくが、鬱憤とでも言おうか、まぁ、何かしら溜まっていたのだろうね。今なんて、貯めるほど元気もないけれどね。貯めるためのバケツを嫁と娘に殴られ、ドリルで穴を開けられ、対戦車ライフルでぶち抜かれ、ハインドの空中砲火で穴あき虫食い、欠片もなくなってしまった。よく、何をしても怒らない、泣かない、わめかない、まるで感情を失った人間がいるけれど、そうさね、例えば、こういった話題の時に例に上がるのは、夫の大事にじていたおもちゃを捨てた女性の告解だね。諸君たちも聞いたことがあるだろう? 妻が夫の大事にしていたおもちゃが邪魔でゴミだと思って勝手に捨ててしまう。すると、家に帰ってきた夫は、怒ることもせずに、悲しむこともせずに、ただ黙々と「ごめん」と謝って身の回りのものを次々と捨てていってしまう。妻が「ごめんなさい」と謝っても、「悪いのは君の苦労に気づかなかった僕だから」とこういうわけだよ。そうして、妻が笑えば笑いはするものの、どこか感情のこもっていない笑いを返す人形が出来上がるわけだ。仕舞には妻はそんな夫にどうやったら許されるのかと尋ねるが、夫は「悪いのは僕だから」とそう答えるだけになってしまう。そんな話、聞いたことがあるだろう? これも、とどのつまりは夫の持つ感情のバケツを妻が水素爆弾で跡形もなくぶっ飛ばしてしまったのがことの発端で、残念ながら人間の持つ感情のバケツはなかなか復元しないし、新たに買えない。人間が人間たる理由はその感情で、感情を貯めるバケツが存在することに尽きる。ものの良し悪しも、社会の善悪も、感情を持つ人間だからこそ生まれる表現で世界の原理とも言えるだろう。もしどうだろうか、貴君貴女らの隣にいきなり殴ってみては。きっと怒って殴り返す人間と訳もわからず泣く人間と、パニックになる人間と、多種多様いるだろう。しかし、隣に誰もいない諸君らは壁を殴る。壁はパニックにも怒りも悲しみも何もしない。だって感情がないから、そして壁を殴る君も感情がなくなる。不思議なことに感情は感情を持つ者同士でやり取りするから生まれる心理的作用かもしれないとここで思ったわけだよ。ま、私の家庭では私の感情のバケツはすでに崩壊寸前まで砕かれ、パンドラの箱よろしく、底に残った”諦め”という感情だけが私を人間足らしめている唯一の要素だとも言っていいのかもしれないね。笑えよ、諸君らよ。さて、悲しい現世での話はこの程度にして続きを話そうか。

 私と白は淡々と続く螺旋階段を上がっていった。白塔の内壁をぐるりと囲むように作られた階段は、一段一段が薄く、現に白が歩いて私が歩けばぼろぽろと崩れ落ちて行ってしまった。征くも地獄、退くも地獄とはよく言うけれど、私にとっての地獄は目の前を歩く白が死んでしまうこと他ならない、と今一度ここに宣言しよう。

 この白塔は、一定間隔ごとに真っ白な広間にたどり着く。その度に白は拾い、涙を流す。まるで遺品の一つ一つの思い出を受け取って、心に流し込むように、苦しそうにもがくのだった。私はその姿を見ることしかできず、手を触れることも言葉を掛けることも憚られた。貴君らも往々にしてあるだろう。恋い焦がれる彼女が、否、恋い慕う彼女が、失意に暮れ、溢れはしない薄ら涙を浮かべ、静かに身を縮ませる。震える肩に手を置くことはできても、震える体を抱きしめることはできない。言葉は届かず、ただ単純に彼女の浸る世界に私が入り込む隙が一縷も無いと自覚させられる。その時、貴君らは無力な自分と世界を恨む。自身の存在価値を証明する手立ては他にあろうというのに、自己同一性を不安定に形骸化させられる。現実でどうあれ、意識化で霧中に散ってしまう。ああ、私の存在というのはたった一人の感情の宿る、定義されぬ意識に宿る、私の寄辺となった少女に全てが内包されているのだとその時理解するのだ―――と、余談はこの程度に、急ぐとしよう。

 6つの階層と、6つの欠片を拾い上げた白は最後の一段に足をかけた。まだ未発達な白の大腿四頭筋を始めとする筋肉系はすでに限界で、体を震わせながら最後の一段を登りきった。その姿に私は感涙むせび泣きながら、白がいつ倒れてもいいように、触れないようにそっと後を付いた。

 最上階は円錐状の天井が伸び、ところどころ開けられた窓からは光が差し込んでいた。十二分に光量が確保できているのに、天井の六ケ所から伸びる鎖が広間の空間の真ん中に、不釣り合いなシャンデリアを留めていた。ぼうと明るい広間の中で負けぬように赫赫と煌めくそれは、白のように美しい白塔の最上階を照らしだていた。

 白は疲れているだろうに、足を止めず、歩みを止めず、ひた、ひたと中央へ歩いていく。例にもれず、そうだよ、諸君らの思うどおりで、往々にして人々の想像の範疇を出ない、拾い集めた欠片をはめるためのモノがそこにあった。

 滑るように丸い造形の四肢と伸びる指先は繊細で一本一本に指紋のように綺麗な木目が広がっていた。指先にはリシア輝石の爪が磨かれたように柔和に光を吸収して温んでいた。視線を戻せば、胴体部はなめらかに視線をくるりと回すように凹んだ腹部と記されてはいないのに女性的な魅力を感じ取らざるを得ない、鼠径部の作り込みは目を疑う。だめだと、視線を上げれば、初潮をヘて第二次性徴を経る少女のように仄かに膨らんだ胸が目に入る。双丘の先は薄ら紅が塗られ製作者の純真無垢な倒錯した愛情を十二分に感じた。滑らかな肩から続くほっそりとした首筋に視界がジャックされる前に、肩口から続く鎖骨のぽかんとした肉の滑落具合には思わず笑いが出そうになった。ねぶるように凹んだそこには上から流れる涙を受け取る皿として機能していたのか、うっすらと水滴が溜まっていた。

 最後に、瞼の落ちる瞳と伽藍とした眼窩を持つ頭部が絶妙な傾きで静止していた。整った鼻梁は艶羨すら湧き上がることがなく、スラリとした頬と子供のように可愛らしい耳。流れる髪は私よりも繁茂していてそこだけは奥歯を噛み締めたよ。

 白はその塊に臆しもせずに突き進み、手のひらに握りしめていた欠片たちを一つづつはめていった。

 一つは左足の親指。この人形が生まれた頃。きっと親はこの子が安全に十全生きていられるよう願いを込めたのだろう。私は生まれる全てのいのちめいがあるとは思わない。今この場で講義に勤しむ貴君ら貴女らも同様に、生まれた瞬間から全てに祝福され至上命令を受けて誕生したわけもなく、、私もそうである。だけれど、”多くの”と定義される親たちは、子の安寧を願うものだろう。私とて、娘が生まれた瞬間はそれはもう願った。その瞬間だけは白を忘れたかもしれない、というのは嫁に対する表向きの建前で、白の安寧と幸福は常に願い続けているけれどね。

 二つは右足の小指。人形が動き始め、周りを取り囲む人間は笑顔に満ち溢れ、世界のすべてが生き物でない生き物を歓迎したのだろう。

 三つは右手の薬指。人が人たる所以はなにか。その根源に私さえも至ることはかなわないけれど、私はこのとき、白磁の体を陽の光に照らした人形を美しいと思った。その人形に微笑んで指を着ける白の姿はさながら、麗しき令嬢の指に指輪を嵌める宝塚歌劇団のスターだったよ。もちろん、私は寵愛され庇護される立場にある幼子のような白も好きではあるが、女子供を手玉に取る蘭陵王のような男装の麗人の姿には初恋にもにた感動を得たものだよ。きっと、虚空を見つめる人形も残る瞳で白に惚れていたに違いない。なに? そんなワケ。みたいな顔をするのをやめないか。私の講義でそういった顔は辟易とさえする。けれど、正常な反応で安心するよ。

 四つは左手の薬指。人としての形を戻した人形を白は愛おしそうに、私が羨むほどに、抱きしめていたよ。

 五つは心臓。ひときわ大きいその欠片を白は丁寧にポッカリと空いた胸に収めていた。不思議なことに人形の表面が淡く朱色に色づきはじめた。白がもう一度抱きしめると、白の鼓動に合わせて二つの心音が私の耳をくすぐった。

 最後に、白はそっと瞳を元ある位置へ戻した。

 私が常々思うのは、私の今生きている人生というのは、ある意味で蛇足であり、助長でもある。私が白と過ごしたという全ての事実を世迷い言ではないと伝えるための旅路であり、神や仏陀、キリストの行いを言葉として伝聞し、文字に書き起こした多くの功績者に準ずるように、私も白という一人の少女についての全てを諸君らに伝えるのが使命であると言えるのかもしれない。

 別に、白が誰を救ったという話ではない。白は誰も救ってはいないし、自分自身も救えていない。私が勝手に憧れ、恋い焦がれ、幸せを享受しているにすぎんのだろう。と、時間が差し迫るから、話を一度戻すよ。

 白の心音と同じスピードで動く心臓を持つ人形は名をヴィヨルと言った。「あなた方は?」流暢な言葉で白に喋りかける。うら若き男子であれば私の心中も穏やかではなかったが、人形風情に嫉妬する私ではない。何、どうして手前の貴女は笑うのかな? 私の口調が少し早い? 早いやつは大概、そうだ? ふん、いいだろう別に。

 白はヴィメルの手を取り、頬に当てた。それから「私は白」とか細い声で答え、「あなたのことを教えて、ヴィメル」と私にしたことのないような優しい言葉で人形に語りかけた。断じて言うが、嫉妬ではない。言葉の端々に感情が溢れている気もしなくもないが、ブラフかもしれないだろう、貴君よ。

 ヴィメルと名乗った憎き恋敵は、白の柔らかな頬に手を当てながら、自分のことを語ったよ。思わず私は百合か? と自分の新たな性癖の誕生に辟易する気持ちで、昂ぶってはいたが、例え同性であろうと、異性ではもちろん、私の白に手を触れるその行為に嫉妬したよ。一度でも人を好きになった人間ならば、私と同じ気持ちを共有できるのかもしれないね。時代が進んでも、感情の共有はリツイート出来ないからこそ、人の思い出は、感情は言葉でしか伝えられないし、言葉でしか喚起できない。私が紡ぐ言葉の一つ一つはこの宇宙に散らばっていくエントロピーの拡散を助力しながらも、諸君ら淑女らの背中を後押しできればと思っているんだよ。

 私は眼前の百合百合しい、今どきの言葉でなんだ、てぇてぇとでも言うのかな。その光景を見ながら、歯ぎしりをしながら、そっと待つしか出来なかった。近づいて、脆い人形を弾き飛ばしても良かった。けれど、その未来には私の居場所はないし、ヴィヨルとか言う新参者のデクと白が私をおいてどこかへ消えてしまう世界は望んでいなかった。だからこそ、松竹少女歌劇団のスターになったかもしれない美しき人形と私の白が見つめ合って、花の蕾のように仄かに色づいた口先で睦言を交わすように語り合っているそのさまを見せつけられるのは、なかなかどうして悪いものではなかったかもしれない。ああ、そこの君、いい反応だ。結局楽しんでるじゃん。みたいな顔をどうもありがとう。けれど、君だってそうするだろう。私は健全なる男で目の前で繰り広げられる美女と美人形の絡み合いに反応するのは致し方ないのだから、たとえそこに羨望や嫉視を向けるのとは別に喝采を向けるのは悉く普通と言い切っていいじゃないか、なぁ。

 ヴィメルに囁かれた白は先程取り付けた左足に顔を近づけるために真っ白なワンピースを少しだけたくし上げて膝を曲げる。おっと、同じ轍は二度踏まないと有名な私だから、今度はばれないようにそっと私もその場にしゃがみこんだわけだけれども、そんなことより、白は驚いたことにヴィメルが差し出した左足の親指にそっと口づけをした。ヴィメルといえば、人形のくせに頬をほんの少しだけ赤らめて、「左足の親指は、子が安全であるように」「右足の小指はのびのびと育つように」と、足に口づけをしていた白の顎に手をかけて、ゆっくりと立ち上がるように促すと、次は右手と左手を白に取らせ、「右手の薬指は恋をして、恋を叶える」「左手の薬指は願いを叶え、愛を深める。そして、」と、二つの指を白の口から唾液を引きながら抜くと、白の身体を抱き寄せたと思えば、恥ずかしさからか私にも見せたことのない表情の白の耳をそっとはむと「心臓は命を育み」と囁き、顔を離して小宇宙を秘めたその瞳で、背中越しに見えた私を見下したように視線を合わせたと思えば、白の瞳と自身の瞳を重ね合わせ、優しく唇と唇も重ねていた。

 そう! 重ねていたのだよ!!!!! クソ!

 ――――はぁ、すまない。突然大声を上げて。大変申し訳無い。昨今の世相を反映するならばアンガーマネジメントというのかね、それが出来ない人間は社会的地位が低い傾向があるらしいから紳士淑女の諸君らは気をつけ給え。例え、嫌なことがあっても叫んだりしてはいけないよ。悲しい、悔しい、私で言えば嫉妬とかそういう怒りの種である第一次感情を抱くのは人間として何も間違えではなく、先程のバケツの話と同じだけれど、バケツの水をすべて捨てるのは良くないけれど、バケツの水をためすぎるのもまた良くなくて、小さな穴を開けて、ちょくちょく放水するのが人間もダムもサキュバスも大切ということ、だろうなと思ったんだけれど、どれだけ言葉を重ねても私が目を丸くしている窓際の彼女の平穏を見出してしまったという事実は変わりようがないので、ここに謝罪をしよう。すまない。

 と、一応時間も押しているので話をしていくのだけれども、あ、トイレに行きたいときは自由に行ってくれたまえ。私が学生の頃受けていた講義の教授は、今でも考えられないのだが、トイレに行きたいときは手を上げて、私に一言行ってから教室の一番前の出入り口から行きなさいと言っていたよ。なんとも馬鹿げた話だと思うだろうけれど、教育熱心な教育者は時としてネジの数本外れた教育論を持ち出してはそれをさも正解であると、進むべき道だと、イエス・キリストだと、ハイル・ヒトラーだと馬鹿げた具合に実行するものだからたちが悪い。しかも、青年だった私は過敏性胃腸炎タイプだったがゆえに、恥辱を幾度となく味わいながら排便をしにトイレへと出向いたことがあったよ。まぁ、だいたいこういう恥話、大変話には今思えばあれがあったから~、なんて美談に祭り上げる後日談というのが付きもだが幸いにもそういった話題が何一つなく、単純明快にあのときの教授は馬鹿だったと言い切れるのが幸い至極と私は思うね。悲しくも自分の思い通りにならないことに対して苛立ちを常人の数倍の速度で貯める人間もいるというもので、このトイレに行くために他の学生がいる前でトイレに行きますという言質をとりたい教授というのは、往々にしてそうすることでしか学生と教授という立場を、先生と生徒という立場を、上と下という立場を保てないからこそからかもしれないなと、今同じ教授という立場になったからこそ思うわけだけれど。まぁ、私も出来るならば、私より上位の存在として家庭という限定フィールドに於いて圧倒的アドバンテージを得ている妻に対してそうしたいものではあるけれど、摩訶不思議なるかな家庭というのはそうだとままならんというのだから、困ったものだよ、本当に。ふと思うのだよ、白と結婚して、子供を産んでもらって、二人で育てて、そうしていたら今の私は一体全体、どのような世界にどのような未来を歩んでいたのかと、叶わぬ夢を見るのも悲しさではなく、愛おしさがまさる日がくるのだろうか。

 はてと、また脱線してしまったね。ヴィメルは白の心を私から奪い去って独り占めすると、満足したように開放して、そして、雪原の上で最愛の人に残された少女のような面持ちで頬を染めて立ちすくむ白を残して、なれない足取りで外へと続くアーチの下へと進んでいったのだよ。わかるかね、諸君。想い人に永遠に思われたいのならば、物を残すのではなく、心に君を残し給え。心に残された君は、彼女の心で永遠に守られ、温められ、脈動を保ったまま、永遠へと昇華される。物を残しても、燃やせば共に燃え、埋めれば共に埋まり、ゴミ箱に捨てられれば共に捨てられる。形のないものこそ永遠であり、形のあるものこそ無常である。だからこそ、貴君らはきっと、正しい選択をその時に出来ると私は託そう。

 アーチをくぐり、白塔の最上階から伸びるテラスのような場所に出たヴィメルは塔に吹き付ける風に身体を流しながらも、力強い足取りで美しい彫刻の施されたグレコ仏教調の手すりに木製の手を添えて外を見ていた。少しだけキザな振る舞いに女性だというのに鼻持ちならない気がするほどだったよ。だがね、悪態をつく矮小で醜悪な私の心を許しておくれと、ここに皆様方々に廉頗負荊れんぱふけいせねばならんだろうかなと、声を小さく申告するわけだ、が。何、いつになく畏まってどういうわけだという顔だね。窓際の彼方も珍しくイヤフォンを外して私の顔を見つめている。何、なんてことはないんだ―――ただ単に人を引きつけて離さない端正な造形の顔で行うニヒルな笑みを直視することが、出来なかったとも言おうか。幼い私の心はヴィメルの醸し出す雰囲気と表情はとてもではないが許容できなかった。だからこそ、片目をつぶり、共感性羞恥に押しつぶされそうな自尊心を保つために、立ち竦みただじっと遥か彼方に飛んでいってしまいそうな大鷲とも浮雲とも、それとも霞のようなとなって消えてしまうヴィメルという儚きデク人形をじぃっと見つめる白の肩口を通してでしか直視できなかったのだよ。とてつもなく簡略化して諸君らの知能に合わせるのならば、イケメンすぎて直視できなかったとも言おうかね。悔しいことだがね。ああ、後列の貴女。頷いてくれてありがとう。

 で―――だ。私が目を離した未来に、白はその場にいなかった。私の身体が動き出すよりも先に、ずっとずっと先に、憎らしいほど先に、白の華奢な足は動き出し、ペチペチと大理石の床を痛々しいほどに叩きつけてテラスへと駆けていくんだ。私が白にしても、白が私には決してしない速度でね。かれど、その先にはもう変わらない未来が進んでいた。風に流されるように豪奢な手すりから滑り落ちていくヴィメル。かの人形は、天空高く聳える白塔の最上階から生命の息吹溢れる新緑の崖下へとまるで自分の生まれた場所へと還るように落ちていった。それは、私の白の心に形のない何かを刻みつけるには十二分だった。悲しいことだけれども、ね。

 ヴィメルを追って、白はテラスへと走り出し、ヴィメルを追って、驕奢な手すりを越えて落下した。私の動き出した時には、既に二人の逢瀬が無様に縋り付くように始まった。額から汗が流れ、体が動いていた。妻とデートをしていたときでも動かなかった手足が、確かに、白を救い出そうと猛烈に動き出していた。駆けて、駆けて、心臓の音を忘れるぐらいに、肺胞がガス交換を行うのを止めてしまうほどに、ヴィメルと、白を追って私もテラスから飛び降りたさ。え? 死ぬだろって? まさに、私は貧相な手すりを越えたあたりで死を自覚したよ。ちなみに、妻との結婚を決めたときも死を覚悟した。いいね、死にも色々な味付けがあって。人生楽しいじゃないか。ね。

 手すりを越えた私の目に映るのは、緑の草をかき分けて粉々に手足をもがれ、かろうじて首と身体が繋がっていた、そんな恋敵。そして、一心に亡骸を見つめて落ちていく私の全てだったもの。おや、今日は窓際の彼女は随分と熱心に話を聞いてくれるね。こんなテイストが結構好きなのかな? ああ、すまないすまない、イヤホォンをはめないでくれ。はてと、ネタバラシというわけではないが、私の講義を数回受けた諸君ら、貴女らであれば、白という少女が平々凡々な存在でないことは重々承知であろうとは思うんだけれども、最も、本質的には君らよりも純朴な私の白であるけれど。その白にかかれば、緑の大地へ真っ逆さまに落ちるという瞬間にそっと、触手を伸ばして着地することも容易ではなかった、ということだね。ついでに、私を受け止めて、姫を救いに来た王子様のように白はヴィメルのもとへと駆け寄った。愚鈍な私を草のベッドに優しく降ろして、あくまで紳士的に、私を片隅には留めているぞと、その仄かな優しさに胸打たれながら、後を追うように私もヴィメルのもとへ駆け寄った。

 崩れたヴィメルの傍で膝をつく白の顔には涙が一筋流れ、濡れた皮膚が未だ空高く輝く太陽の日差しを浴びて、ぴかぴかと光っていて美しかった。皮膚を離れ、しずくとなって落ちる涙はヴィメルの輝石のような瞳にあたり、溢れ、目尻から地面に落ちていく。人ではない、人形の身体には白の涙であれど受け入れず、というのに白の心には入り込むその無遠慮な振る舞いが、また私を挑発している気がしたよ。私もつくづく子供だったというわけさ。お恥ずかしながら、ね。

 涙を流す白は、小さく震える肩をそのままに、言葉を溢していく。「どうして」と、「貴女は一人でいても良かったのに」と、「本当の人間のように寵愛されて、冀求された」、「貴女は身体を砕いて、彼を待ったの?」とつらつらと指を拾い、崩れた頬を拾い、残った瞳を拾っていた。ミレーが回収されなかった稲穂を拾ってまで生きようとした貧しき人々の様子を描いた油彩のように、製作者の冀求に反して運命に救われずに砕け散った人形を小さな手のひらに集めていく。

 自分の言葉では、自分の身体では、自分のぬくもりでは、かの人形は救えず、かの人形はいずれにしても存在する意味を持てないことを白は知っていた。だからこそ、口にして言葉を溢していった。「もしもきっと、貴女は一人でこの世界を飛び出す勇気が持てたなら」、「貴女を産んだ人の思いが貴女に届いたのならば」けれど、子というのはいつの時代も産んだ人間のことなど明後日のことのように思っていて、ないがしろにされるものだけれど、と私は白の言葉を聞きながらふと思っていた。きっと、私の過去も、白の過去も、私達を生み出した人間の、生き物の、世界のことなんて梅雨ほども思わずに今日今まで生きてきたにすぎんだろうと半ば自虐的に………と、諸君らにそんな話をするべきではないかもしれないね。私はこの大学のことをよく知らないが、この大学のことをよく知る友人から―――何、友人がいたのかという驚いた表情をした観衆オーディエンスに減点通知だ。私は諸君ら淑女らの顔と名前は覚えているからね。で、だが。私のことをよく知る、ではなく。この大学のことを私に教えてくれる心優しき友人によれば、この大学はどうにも、親のスネカジリが多いらしい。だからこそ言うわけだが、大切にしたまえ、よ。

 白は塔の中で拾った一際凝った装飾のされた欠片を拾っては、太陽の光を当てて、土や埃を麗しき女神の吐息で飛ばしていた。「けれど、きっと。誰よりも貴女を愛して、貴女のために貴女を待っていたのは」と言いながら、白はそっと触手を伸ばした。忌むべき異形の触手を操る年端もゆかぬ少女、それこそが私の敬愛する最後の異性であり、私というものそのものでもある。私の話す全ての物語に白という個体が登場するのには無論、わけがある。君たちが全ての講義を受け終え、その答えにたどり着いたのであるならば、私は気兼ねなく単位を進呈するだろうね。

 白の伸ばした黒々とした触手は地面に散った欠片を取り込むように吸着すると、その最後に白が手のひらに集めた左足の親指、右足の小指、右手の薬指、左手の薬指、心臓、そして世界の真理と絶望を兼ねた透き通るような瞳を取り込んだ。一欠片だけ私のすぐ目の前に散っていた欠片を見落としていて、私はそれを拾って白に渡そうとしたが、目にも留まらぬ速さで白があちらを向いているというのに、私の手を払って触手は欠片を拾っていったよ。今でも駅や街角で、女性の落としたハンカチを拾うのに抵抗があるのはきっとこの日のことがトラウマになっているんだとメンタリストは言っていたけれど、間違いないね。はぁ、癒やしてくれる人募集中だよ、本当に。たまに、本当にたまに思うのだけれど、私がこの講義を結末へと持っていく時に、私は君たちの前で一体全体何を口にして、何を雄弁に語っているのだろうね。貴君らの中にデマゴーゴスがいるのであれば、私を糾弾し、磔にして、殺してくれとも言いたいぐらい私は恥さらしではないのだろうか。けれど、こうすることでしか、白と、そして私を残すことはできない、のだろうと私は、思っているよ。

 白の触手はまるで宿主の意思から外れたように蠢き、草原をめぐり、白塔を登り、そして白の目の前に割れ目から溢れ出る醜気漏らしながら、白磁の人形が凛とした姿で膝をついて項垂れて、ヴィメルに涙を流す白の前に立った。

 ヴィメルは仄かに見せると、するりとお姫様の手を取り、嬉しそうに笑って見せる。「もう、ヴィヨルは一人じゃなんにもできないんだから」と村娘のように言いながら、白を立たせると放たれた草原の中に駆けていく。「だから、私に任せて。貴女の手を離さないから、大丈夫、大丈夫」と言うヴィメルと白の後を追うように草原の長い草花をかき分けて行く。私には手の届かない世界に白が行ってしまう気がした。「ヴィメルは怖くないの?」「私は怖くないわ。だって私の手にはヴィヨルがいるもの」「僕がいたって、何もできないし、何も守れないのに」すねたように白は、手を引っ張るヴィメルに逆らって足を止める。姪や甥っ子、あるいは小学生の頃の淡い桃色の記憶を思い出していただければ肝要かなと思うけれど、精神が未熟な頃は私も姉の手を止めていた。最も、私に姉はいないけれどね。

 「何も出来ないから、何も守れないから、私の手を握っているだけでいいの。それが、私の生きる意味なんだから」とヴィメルは言いながら、また走り出す。白も転けそうになりながら続いていく。「私の四肢を心臓を艶めかしい眼で見てくるパパたちよりも、私にはヴィヨルが必要なの」そして、二人は時計の針のように草原の真ん中でくるりくるりと回り、ぎゅうとヴィメルは白を抱きしめた。

 こつんと食器と食器がぶつかりあった音がした。そして、息を切らして追いかけていた私の前でヴィメルは粉となって崩れ落ちていった。さらさらと滑らかな流沙のように繋いでいた白の手の隙間を流れ落ち、風にのって宙に舞うと、遥か彼方へと吹き飛んでいく。白の前、ヴィメルの立っていた場所には少しの真っ白な粉と汚泥のようにドロリとした触手の亡骸。そして太陽光を偏光する一つの硝子球。白はヴィメルの眼球を拾い上げると、握りしめて、また泣いていた。

 太陽が落ちるまで泣いた白の傍で忠犬よろしく待っていた私は、肌寒いと身体を震わせていた。着ていた上着は当然白の肩にかけていたからね。いいね、中列の君の、「へ」みたいなアンニュイな表情は正直言ってそそるよ、ありがたい。君もいつかそういう間柄になれる人を見つけるといい。最も、今の場合は私の一方的な行為な気がしなくもないけれど。

 白は立ち上がると、ふらふらと歩きだしてどこかへ進みだした。私は姉に手を引かれる弟のようにその後をついて行く。私の目的というのは白を目の前にして古今東西どこを探しても存在しないからね。白が進み、生まれた轍が私の進む未知であり、道でもある。理由はたった一つ。だからこそ私は間違えないし、正解もしない。まるで君たちの人生のようだね。諸君ら貴君らの人生に正解も、間違いもないように、それを決めるのいつだって君たちの脳の一部の電気信号が生み出した幻影にすぎないのだからね。ふむ、私は保険医ではないし、医師免許も持ってはいないけれど、一つだけ言えるのは、間違った人生というのは、ロールプレイングにおける宝箱のある脇道だと思うといいのではないかな。ほら、ロールプレイングゲームというのは往々にして正規ルートから外れた脇道に強力な武器やアイテムが置いてあるんだろう? 詭弁に過ぎないかもしれないが、ね。

 ふらつく白に触れないように、後をついて行くと、白塔と同じような材質で出来た一つの箱へとたどり着いた。箱の中は腰ぐらいの高さの台座を除けば何もなく、簡素な空間だった。ちょうど白と私が二人でぴったりな大きさで、場所も選ばず私は喜びを噛み締めて涙する気持ちだった。とはいえ、先程のことがあったばかりでさすがの私も言葉をつぐむと白は察したように、私の手を取って笑うんだ。垢抜けた表情で、とぼけた表情で、子が親を思うような慈愛に満ちた表情で、私は、それが、とてつもなく、不甲斐ない。不甲斐なかった。だから、精一杯の虚勢を張って、笑いかけたとも。私は常に厚化粧をした淑女たらんとしているだろう? この喋り方一つとっても、ね。

 白は私の手を握りながら、反対の手に握っていた宝石の瞳を台座に一つ空いていた穴に納めた。ガコンと大きな音がして。ふむ、もうすぐ終わりの鐘がなるけれども。ちょうど話も佳境ではある。

 私は動き出した箱の中で、ああそうだと、思い出す。目覚めた箱の中は今と同じような場所で、白も懐かしむように、また私と視線を交わして、「はじめまして」と言うんだ。



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 さてと、正直なところこの話をするのは随分と億劫でね。私の無限とも言える白との逃避行の物語の中で大した面白みもなく、大した盛り上がりもない。冒険譚ではなく、日常の一節に過ぎない、他愛のない話であるからね。

 けれど、私は紳士淑女たる貴君ら貴女らに一抹の不安として白の人物像の不安定性を覚えるわけで、私の白と諸君らの思い描く白が同一人物であるかは果たして、ダンタリオンでもなければ叶わぬ夢に希望は抱けぬ以上、解釈の一致を図るために閑話休題的にも挿話をする必要があるわけだったということだね。

 世の中にまかり通ることで例え、紙面に書かれたことであっても、電子の海に記録されたことでも、全ては他人の認識のもとでしか存在できず、故に同一の解釈というのは根源的には存在せず、絶対が存在しないという少々意地の悪い回答のようにも聞こえるかもしれないが―――私達に出来る、人生の定義は、互いの意見をぶつけ合って飛び散った火花が照らす先に仄かに存在するたまゆらの認識を繰り返している。

 私の白は私だけのもので、君たちのものになることは永遠にない。そう考えた上で、いまの君たちの白という存在がどのようなものか感想として提出してくれたまえ。




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帽子を深くかぶる少女は教授と。 7osan @7osan

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