第3話 少女と深海竜の昔話

 あーもしもし、はい、なんだね、わかったよ。帰りに卵と牛乳だな。何? お一人様一パックのところを、気合で二パック買え? 私は暑いからいやだ? 外に出たくない? すまないが、今の会話を学生たちに聞いてもらっているからな、覚悟し…………すまない、私が覚悟する必要があった。だから、その私の部屋を破壊する音を延々と流すのはやめてくれない、やめてくれないか。そ、あ。

 …さて、諸君よ。今日はこうして熱い日光の元、外出させてすまない。が、無事にこの講義に必要な経費として水族館経費が得られたのでこうして今日は水族館で新鮮な魚介類でも見ながら私の講義、もといお話をしようかと思っている。

 ところで知っているかね、水族館の水槽には通常アクリル樹脂、ポリメタクリル酸メチル樹脂が使われている。そしてメタクリル酸はローマンカモミールの中に含まれている成分でだから、これをありえないぐらい大量に用意して、有機溶媒中に塩酸などの強酸をぶち込めばもしかしたら重合してポリマーとなり目的とするポリメタクリル酸メチルが得られるかもしれない。とか、どうでもいいよね、ごめんね。うんちくなの。

 さてと、こうして水族館の入口をコンビニ前のヤンキーよろしく占領するのはよくないから、これを最後にするが、本日諸君らの中に奇抜な格好をした輩はいないようだが、昨年、同じ実習をする前に、魚はストレス耐性と煽り耐性がないから、奇抜な格好で煽ってやるとすぐ死ぬかもしれないから、当日は正装で。と言った時があってね。そのとき、馬鹿の一つ覚えのように多種多様な民族衣装なのか、呪術信仰の結果なのか、頭の狂った格好をする学生がおおくてね。まぁ、正直なところ、水族館が薄暗い理由を考えてもらえばなんら意味のないことだとわかると思うんだけど、ま、その頭の悪い学生が今回はいないようでなにより。

 ん? どうして、私が、赤と黄色のストライプの半袖なのか? そして、サングラスの淵には星がたくさんついているのはなぜか?

 簡単なお話をすれば、水族館が薄暗い理由を知ったのがついさっきだからだよ。おーけい。これはこうだ。ほら、粉々になったし、もういいだろう? 笑うのはよしてくれ。

 ごほん。それでは水族館を舞台にした私の独壇劇の始まりだ。今日の講義の提出物は次週に回すよ。レポート形式、パソコンを使うこと。いいね。


ーーー


 海はとても陸に近い。何を言っているんだといわれそうだが、海に住むものと陸に住む者もとても近い。諸君らはこういうことを言われればそうだ、そうだと同意をするが、いざ他人にそういうことを聞くことはないだろう? その無意識の肯定と私は勝手に名前を付けてみているが、どうだろう、文系学者っぽくないかね? まぁ、そんなお話はおいといて。

 人間は、あまりにも当然なことに対してあまりも無頓着だと私は思ってるんだ。そんなことではこの激動の世の中にあふれる情報に翻弄されるか、洗脳されるかといったあまりにも不毛な人生を過ごすほかない。

 諸君らには、私のお話を聞いて、無意識の肯定を否定し、意識の肯定を行ってほしい。それが、諸君らが欠けた子供心なのかもしれないし、もしかしたら日本での大人という概念にそういう、当たり前の許容と肯定があるせいかもしれない。

 さてと、話を戻すと海が陸に似ていると尋ねられて諸君らは何か疑問を持つだろうかという話だ。大概の人間は興味なんて持たない。子供は持つだろうが、諸君らほどの大きな馬鹿になってしまえば到底疑問は持たんだろう。諸君ら、貴君らのもっぱらのブームは、やれ服が。やれスノボーが。やれスキューバが。いや、期間限定のアイスがだとか。彼女との夜の熱情行為がマンネリだとか。まるで世の中の革新に貢献しない退廃的な事柄ばかりがトピックにしか上がらない。

 別にいいんだ。諸君らが貴君らが互いに互いを低めあうことに何ら疑問も疑念も抱いていない。だって、私とは関係ないから。しかし、私の講義を受け、現にこうして水族館に来てもらった以上。私は諸君らを教育しなければならない。

 そういうわけで、今日のお話は「海」がメインだ。

 先ほどから再三言っている通り、海は陸である。すると海には国があり、世界がある。別に、おとぎ話をしているのではない。諸君らの生きている現代、現世がたまたま陸を主軸として成立した陸国家が繁栄し、そこに適応したというだけだろう? 海を主軸として成立した海国家も無論あり、私がお話しする話はそういう話だ。

 そうだな、ある程度諸君らと貴君らに配慮して、ああ、そこの団体から外れたところでチンアナゴのホットな話題に移ろうとしている紳士淑女のカップル様よ。どうか、お暇であれば私のお話を聞いてはくれないか。暇であればいいのだ。どうせ、暇だろう?

 さてと、諸君らにわかりやすいように大雑把な概要を教えよう。前回の講義だったがその前の講義だったか、あまりにも話が素っ頓狂すぎて理解に苦しむ。むしろ苦しんで死ね。とかいう辛辣な言葉が書きなぐられていたレポートが提出されていてね。その後三日三晩やけ酒にやけイカをしていたわけだが、ああ、安心してくれ、貴君。別に成績は下げたりしないよ。何より、私自身も多少そういう気がしていたからね。かといって今後もそういうものが出てきた場合。私も羅刹悪鬼になり問答無用で諸君らの成績を五十九点にして、非常に残念がり、疑義申し立てを正々堂々と受け諸君らの時間を無限にむさぼった後で単位を認定するかどうかを今一度考えるだけ考えてやろうと思うからして。まま、普通にしてくれれば文句はないよ。さすれば、私の後学に意味のあるレポートを提出し、意味のあるディスカッションを行えることが私の望む最大限の幸福だが、ひとまずは諸君らと貴君らに私と「深かぶりの灰眼マインドシーカー」である白のお話を聞いてもらうという小さな幸福を味わおうと思う。

 大雑把に内容を語るとすれば、今のこの立っている大地が全て海の底に沈んでいると思ってもらって構わない。おおと、いいざわめきだ。いいね、諸君らに未知の想像する世界が入り込むそのどよめきは実に心地の良い。

 諸君らの今口々に吐き出したその疑問は簡単で、私をはじめとする人間はどうしていたかというと、海の中に住んでいた。最も、当時の私から、世界の人間からすれば、現代人がどうやって陸の上で済んでいるかのほうが謎だとは思うがね。私は今となってはそういう疑問もまったく抱かないが。

 今とは違って神秘の海では、魔法という概念が存在していたんだ。驚くかもしれないが、マリンスノーと呼ばれる海中に浮遊する物体がその源でそれを体内に取り込み、不思議出力物質、諸君らゲーム世代には「マナ」とか「エーテル」と呼称する方が馴染みあるだろうか。だが、私たちはこれをマリンと呼び、これを蓄積して魔法を制御する。ただ、諸君らにはこうして魔法と表現しているが実のところ魔法の理想である「理想を現実にする」こと…バハムートとかレヴィアタン、ベヒーモスなんてのを召喚するなんてことは全くできない、至極現実的なものではあるがね。

 さてと、そろそろ本題に入ろうかね。ああ、カップル様は行きたかったら言って構わないよ。別に貴君たちからは講義料を徴収していないからね。ただ働きは私もごめんだ。さ、ここからがお話だ。

 巨大なクジラの背。今であればシロナガスクジラという世界最大の哺乳類が諸君らの記憶にはあるとは思うがさらに巨大なクジラの背に私たちは住んでいた。名を「グランドホエール」と和名で言えば「大陸クジラ」だろうかね。ざっと一万人以上がその生きた大陸の上で住居を構築し、食料となる魚や野菜を育成栽培し、暮らしていた。

 私はまだ若々しく、日々を無駄に過ごす、今の諸君らのように骨の抜けた骨格標本のようだったよ。ある日まではね。

 グランドホエールは無論、その場にとどまることはなく常に移動し続ける。だからこそ、私たちは様々なものを得ることができたし、他民族との交流も容易かった。そして、未知との遭遇も当然あった。そして私の未知が「白」に他ならなかった。

 世界に無数に点在した熱水噴出孔と乱立するチムニー。そしてその付近には往々にして火山が多い。すると、そこは豊富な鉱物資源の産出地であったり、熱帯地域に存在する特殊な野菜や生物の宝庫であってね、ちょっとした桃源郷のようなものだったよ。

 その日、私たちはチムニーに多く存在する金属資源の採集を行っていた時だった。アルバイトとして私もその採集を手伝っていたのだが、何? どんなふうに回収するのだって? 簡単だ。別に掘るわけでもなく、削るわけでもない。ただ単に、金属の鎧をまとった生物を乱獲するだけだからね。面白いのはチムニーによってその金属の鎧成分が異なっていてね。あるところでは硫黄を多く含む硫化金属だったりするが、またあるところではソディウム系の金属鎧だったりもする。不思議な生物だった。

 と、順調に回収していた時だった。

 ボコンと。おっと。拍手の音が大きすぎたか。こういう風な爆音が海中を伝って耳にそして体中に響き渡った。

 私は一番近くにいたため、その音に一番早く、そして一番早くその原因と被害を確認した。

 海底火山。最も私にとっては普通の火山ではあるのだが、噴火は陸でも海でも変わらないだろう。火山の噴火。それによって猛烈な流れと音が押し寄せてきたのだった。陸の火山というのもあれだろう? 噴火し土石流や火山灰の散布があるだろう? それと何ら変わりない。土石流は膨大な質量をもった濁流となり、火山灰ともども私たちを襲うだけだった。

 噴火地点から離れていた場所で採集していた私は、火山灰の混じる濁流に流されないようにモリを打ち込み、張り付いていた。

 すると、噴火地点の方向から土石流に混じって様々な生物が私の横を通り過ぎていく。金属鎧やチムニーの破片、チューブ状の生物とかいろいろだ。しかし、そのいろいろの中にひと際目立つ二匹の生物が瞼の隙間からのぞいていた私の瞳に移る出会いだったのだよ。

 ああ、諸君よ瞳と瞳が合う瞬間というのはいつの時代も風化せず美しい出会いであることは、諸小説に事あるごとに記されているものの、現実は小説より奇なりというように現実でその場面にあったときとても美しい、運命的だと両手で喝采を表現するようなものになるとは限らない。そうだな、私が一番そう思ったのは、大学の時にかわいいのに常に一人でいる少女がいて、彼女にビシバシと講義中に視線を送っていた時だったよ。存外、人の視線というものは不可思議な質量を持つようで、彼女はこちらに振り向き、そしてその瞬間私の瞳と彼女の瞳は合い、二人の間には天使が舞い降りたように光り輝く柱とその間に翼の欠片を振りまきながら黄金の鐘を鳴らしている様子を二人で共有しているようだった。

 で、諸君。露骨に牛乳を搾った雑巾を鼻に充てられているような顔をするのはやめてくれないかな。いくら私でも傷つく心をもっているのだから、何より栄えある大学生ならばそのような顔を露骨に表現するのではなく、もっとオブラートに包み、陰口でことを穏便に済ませればよいのだから、ここでは喜々として聞くぐらいにしておいてくれると、私のガラスの心臓がブレイクすることがないのでいいです。はぃ。

 で、いかんね。話がそれる。

 その少女は別に今思えばかわいくもないし、ただ孤高の狼高嶺の花、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花と囃し立てるほどではなかった程度の美女だったのだが、その彼女に私は一言「…キモ」と言われたことだけが何千何万と時を隔てても忘れることのない遺言として私の紹介文に盛り込みたいほどあまりにも平凡なのに衝撃的な出来事だったのだよ。おかげで、女性不信になりかけたよ。いいかい、全世界の女性に言いたいのだが、いまは諸君ら貴君らにいうよ。

 貴女たちがいうその、たった一言。たった一言で未来ある男性諸君の人生が華となるか土となるかが決定するというその事実に責任を持ってほしい、とね。

 特にその一番前の無駄にかわいい貴女は、きっと心を込めて満面の笑みで貴女に行為を抱く男性がいい。その男性に「キモ」と一言いうだけで特殊性癖でない限り、その男性はガラスのハートがブレイクすると思う。ね。

 だが、今諸君らにお話ししている内容は、世界軸が違う、運命的な出会いができる世界なことを間違えないでほしい。私にとってのその時の事実はそこで、小説とは今なのだよ。

 私は土石流が収まると、すぐに周囲を探した。

 すぐにその探し物は見つかり、小さな丘に倒れている一人の少女に近づき、そっと口に手を当てた。少女は息がなく、体中に裂傷と内出血が痛々しく、噴火地点にかなり近い位置にいたような傷で、なぜそんな近くにという疑問がわいたがそれどころではない。

 傷ついた麗しき少女をみすみす死なせることも、なにより傷跡すら残すわけにはいかない。と、私はすぐに少女を担ぎ、無論、紳士たる私は女性の尊厳を保てる場所のみをしっかりと持ち、ゆっくりと急いだ。

 チムニーの周囲は小さな町として機能しており、私はすぐにそこへ運ぼうと少女を持ち上げたが、すぐに下すことになった。

 そう、一話ぶりの竜だ。

 海中だというのに、巨大な翼をもち長い尻尾をゆらゆらと揺らし、口からは高熱の炎を吐くためか白く蒸発した水が気体となって海上へと昇っていく。

 竜はこちらをその真っ黒な瞳でにらみつけると、ゆっくりと近づいてきた。そして手を伸ばし、人差し指で少女をこちらによこせと指示をする。

 私は冷や汗を流していると、周囲の雑踏も次第に静かになっていくのが分かった。だんだんと事故の後処理、対応が終わりこちらの次第に気づいてきたのだった。

 いいかい、諸君。竜というのは決して本来出会ってはならない。

 無論、現世において竜とは死滅した一族であり、伝承上の生物ぐらいにしか認識されておらず、並々ならぬ期待と希望を内包している生物であろうと私は思っているが、当時は違う。

 竜とは大海をはせる覇者であり、苛烈な渦潮と尋常ではない水圧の先にある伝説の地へわたることができる唯一の生物である。というのが、私たちが共通認識としてもつ竜の事実だった。

 はるか昔は私たちと竜は共存していた。しかし、ある時を境に竜は人間を殺し、私たちは竜と距離を置いた。それ以来、竜は伝説を内包した生物となり、秘境への最後の案内役として今となっては桃源郷へと喉から手が出るほど行きたい人間たちから追われる立場になってしまっている。

 そして、そういった経緯から竜は人間を嫌い、人間を殺す。力なき私たちはただ殺され、ひそかに生きる。

 いいかい、諸君。竜とは動物ではない。私たち人間は自らのことを動物とは一概に呼ばないように、彼らもまた動物という括りでまとめ上げるにはあまりにもその英知が巨大で申し訳なさすぎる。

 さて、そんな竜が私の眼前でこのか弱い少女をよこせと手を招いている。そうだな、髪の毛を切りそろえてきた淑女よ、似合っているよ。ところでだが、君がもし自身の子供を警察官に突然、渡してくれと言われたときどうするかね? …そう、か。理由を聞いてその如何によっては引き渡す、と。本当かね? 君が腹を痛め、そして愛が存在した、存在しないにしろ、望まれた、望まれないにしろ、君の遺伝情報のすべてを引き継いだ子を君はみすみす引き渡すというのかね? 嘘だろう、それとも今の子はそうなのか? 少なくとも私は自身の息子は軽々と引き渡すが、娘は死んでも引き渡さない。国家権力に屈するとか、政府の犬だとか、そういう話ではない。自らが寵愛を注ぐ、絶対の存在をなぜ他者に渡す必要があるのか。そこに恥も外聞もない。ただ、自らの心に一番素直な気持ちで、その先にどんな未来と絶望が待っていようとも…とあまり言うと、嘘くさくなるからここいらでやめようか。

 少女を渡すことを拒否した私に、竜は小さくため息を吐いた。竜のため息というのは小さな火山が噴火するような緊張があったが、それほどでもなく、ただ小さな泡がぶくぶくと空へと向かって登っていったよ。

 竜は矮小な人間である私に向かって至極丁寧に、それも流れるような言葉遣いで自己紹介をしてきたんだ。私は少し自分が恥ずかしかったよ。その巨躯だけではなく心も彼は大きいということに畏怖すら感じるほどにね。

 彼は何と言ったかな………。あー、あー。ごほん。

 「我は深海よりいでし最後の竜、名をリーフィ。そなたが抱える少女を渡してもらいたい。そなたらに危害を加える気はない。お願いする」

 少女を抱え、私はひどく悩んだ。危害を加える気がない、つまり、少女をこのまま渡さないといえば危害は加わる。私は、それはどうでもよかった。

 ん? いま、は? といった表情をした紳士淑女が多くいたが、貴君らだってそうだろう? 自分と自分の守りたいもの以外はどうなろうとしったことじゃぁない。それは、生命の基本原理から外れた人間が持ちうる社会性から乖離した独自の人間性。自己陶酔と自己愛、それにとって加えた隣人愛の最たるもの。私は別にこの隣人愛という言葉を宗教的に用いているのではなく、ただその言葉の持つ姿のままでとらえている。これは日本語の、そして日本人の妙というやつだが、きっとそれこそはるか昔の大和の民が編み出しだ技法であり、脈々と受け継がれる感性というもので、きっと現世を謳歌する諸君らにも貴君らにも、無論、紳士淑女全てが共有できる全国水平意識とでも銘打ってもいいぐらいのものではないかと私は思っている。だからこそ、その隣人愛という言葉で今示される、白を私は絶対順守するべき愛の最上級として位置させ、そして例え竜が相手だろうと、海底の地獄「鬼染」だろうとも、決して引かぬ媚びぬと言い切るだろうよ。人類が敵に回ろうとも、死滅しようとも。な。

 破滅的な意思だと? 否定的な意見をする貴君よ。さもありなんだ。一般的には受け入れられんだろう。だが、そういう時に言い返し文句が世の中にはあってだな。あー…すまん、電話だ。

 …もしもし、私だが? なに、娘がコンビニ万引き? 何を盗んだんだ……ああ、そんなくだらない…、あ、わかった、わかったよ。私が迎えに行ったらいいんだな? お前は? 何? 少しは母親らしいことを………すまない、何でもない。娘もいるし、卵は四パック買えるだろって? そうだな、感謝してランチを楽しんでくれ。

 はぁ、娘も白のような時があったのだが今では面影も残さず、数年前には既に私との合同洗濯を拒否し、風呂も私の後には入らないと言い出した。そして今日はとうとう人様に迷惑をかけている。嘆かわしい。悲しい。いやもう、ほんとう…。

 だが、授業を切り上げるということはしない。なんたったって、ここにお金を払って今日、諸君らと来たのだから精いっぱい楽しむのが道理だろう。

 話を戻すが、私は白を絶対に手ばさないよ。これだけ言えば全貌が理解できるだろうか。温厚で知性に溢れた竜を尻目に、実に横暴で野性的な答えを私は竜に突きつけたのだよ。でもそれは、先ほど述べたような理由もあったし、何より私の腕の中にあった温もりを永遠に手放したくないとふと思ったが最後、それが呪いのように私の脳髄をガッツーンと叩いたのだから仕方がないと思わないかね。

 しかし、竜にはもちろん伝わるわけもなく、鼻で笑われた、と思うだろう? そうではなかったのだよ。彼はしばしの沈黙の後、手をもどしそっと口を開いたのだ。

「……よい。連れ去るというのならば暫しそうするがよい。そして白に、」と、言っていた時だったか。リーフィの後方から私の仲間たちの声が聞こえてきた。竜だ、竜だ? 馬鹿な? なんだと、ばか騒ぎをしながら集まってくる仲間たちをあの時以上に殺したくなったことはない。そうだな、例を挙げれば、諸君らが機嫌が悪い時、うるさい周りにちねちね光線を送っているのと同じような感じだ。きっとね。

 野次馬に囲まれた犯人のように、京都のその辺にいる鳩のように、リーフィはぱっとその場から泳ぎ立ち、遥か大海を仰いでいたよ。竜が去ったあと、私の腕の中には気を失った不思議な少女が一人ぽつりと残されていたが、それが何より私にはうれしかったがね。

 それからは、仲間と合流して近くの町に少女を運び、治療に専念した。幸い後遺症が残りそうな怪我もなく、魔法で治癒力を増してやると一日二日で完治してしまったよ。現代には魔法というものはその残滓程度にしか残されていないが、適宜利用すれば最愛の人を簡単に痛みから解放できるほどには便利なものだったよ。魔法、はね。

 少女の意識が戻ったとき、私は多くのことを話したよ。そりゃぁ夢のようなひと時だった。最愛となった人と、距離を詰めるために言葉をたくさん交わし、相手のことをたくさん知ろうと努力する。恋愛というものはよいものだと初めて思った。諸君らもそういう気に一度でもなったことがあるかね? 別になったことがないことが悪ではないが、本当に好きになるということは諸君らの成長に確実に何かしらの影響を与えるのは確かだと思う。海外旅行に行くよりも、インドのガンジス河で禊を済ませるよりもずっとね。ただ、「好き」という気持ちはシュレディンガーの猫なみに不明瞭な点が多く、事象を操ることはできない限り、相手を意のままにすることができない限り。ある種「運命」的な側面を持って達成するほかないのが甚だ悲しいが、だかこそ価値があるのかもしれない。ね? 最前列左端の貴婦人? その薬指についている指輪はどういう意味があるかは知らないが、恋人とは良いものだろう? ああ、言い頷きだ、ありがとう。

 少女は名を「白」だと名乗った。無論、諸君らはすでに知っていると思うが、私はここで初めてこの少女の名を知って以来、片時も忘れたことはない。それほど、私にとっては大切な言の葉であったし、名前だった。諸君らも、そうだ、その指輪を持つ貴婦人も、最愛の人の名を知ったときこの上なく高揚した気分にならなかったかね? 今まで理想の、孤高の、あのひと。だった人間が急に身近に、そして手に届く距離になったようで、心にその名を幾重にも反芻し染み込ませていく過程すら愛おしく、恋に恋する乙女になりきれたかもしれないな。なに、生憎と私と嫁はお見合い結婚だ。夢も希望もない、が、後悔はしていないよ。嫁も好きだし、娘も好きさ。ただ、あの一瞬のうちに恋に落ちた感情をもう一度味わいたいと思ったことはある。初恋というのは私の心に永遠の理想をまるで呪いのように刻み付けそして、散っていったのだよ。

 だが、今しばらくはまだ初恋で浮かれている時の私の話をそっと聞いていてくれ。回遊魚がゆうらゆうらと舞い踊る水槽に囲まれながら。私もゆらゆらとこのように体を揺らしてお話をしようか? そうか、気持ち悪いか。そう…。

 私と白は多くのことを語り合った。白が思いのほかおしゃべりで、私はそれにお答えするのに精一杯だったが、白はずんずんと質問をし続けてきた。「好きな食べ物は? ――ウミグモの缶詰」だとか「好きな生物は? ――クジラ」だとかほかにもいろいろあったが、最後に彼女が私に聞いたのは「一番歳をとっている人を、昔話を知っている人を知っていますか? ――」その質問に、私は口を広げたが音が出なかった。知っている。知っているが、白は何が知りたいのだろうか。最後の質問を放った白の顔は笑っていたよ。だけど、映画でよく見るような、きっと何かを含んだ笑い、含み笑いというやつで、どうにも心地が悪かった。

 しかし、紳士たるもの。レディに対して妄言綺語をするとは言語道断。常に知っていることに対して、女性を以て紳士足らんことを欲す。ゆえに、乾いた私の口は一人の老人の名を口にした。

 ……古老ボルド。私の住んでいた大陸クジラに住んでいる、奉っているのか或いは囃し立てているだけなのか、中心に位置する円形状の住居の中に一人の老人が住んでいる。その老人の名を白に教えた。

 白は私に聞いたよ、「どんな人なのですか?」と。背筋に鋭い刃がそっと当てられ撫で上げられていくような、冷や汗すら真っ二つに斬られているのかと錯覚するほど生きた心地がしなかった。なんてったって、女性は怖いな。目が笑っていない、そういう表情を平気でする。ま、少々そういう待遇をされるとグっとくる箇所もいまはあるが、当時は少なくともノーマルな私には優惧があふれ出していたよ。若かったものだ。

 質問に対して私はそっと二言、三言返すのが関の山だった。「今では形骸化したがクジラ操縦の全権を握っている」「よく、大陸があったころのお話をする」

「唯一の自慢は、大陸を歩いたことがある」ほかには適当に返しただろうと思う。しかしながら、これらの話題を一斉払拭するように最後に白は私の腕をつかみ、引き寄せた。

 鼻と鼻とが触れ合うような距離。吐息はもちろん、鼻息すら耳の鼓膜を揺らしている。それに、白の呼気が私の呼気となり、逆もまたしかりと脳に甘い電流が、桃色の稲妻が落ちたように私の顔はだらしないぐらい、ほぐれていったよ。好きな人の唇が、それこそ息だけでも触れ、感じることである種のオーガズムを人間は感知する。なんてことない赤の他人とですら、話し合い、会話を交わすことで人間は簡単に性行為と同等の快楽と快感を得ている。脳内で分泌される薬品にそっと骨抜きにされていっているのだよ。だから、おっと、少し話はずれるが、よく「一人が寂しい…」という生徒がいるが、遺伝子上にそった内容だからと言ってしまえば実に面白みがない。

 だがね、実のところ「慣れ」というものがそこに存在するように思えるわけだよ、貴君らよ。だって、そうだろう、諸君らよ。毎日しゃべっていた人間がある日口を糸で縫われたってしゃべるのをやめると思うだろうか? 答えは否だろうよ。人間は適応と慣れと許容を繰り返す。一度許容され、適応されてしまった事項はめったに変更されない。だからこそ、一人以外の生活が理解できない、人と常に触れ合いたいという人間が多くいるのはそういうためだと私は思っているが、私も当然、白に触れたい。触れ合いたい。世界中の至宝よりも光り輝く白の肌を、唇を耳を、目を、無論、胸とてな。

 気持ちが悪いだと? もう少しオブラートに包んでものが言えないのか、最近の子らは。

 知っているか? 中学生のほうがよっぽど諸君らよりお利口だし、考えることを知っている。考えることを知るということは何を馬鹿なといわれることだが、大人になればなるほど考えることをしない。ネットや本、須らく単純明快に解を得られる。それに甘んじ解答を思考ではなく、作業によって得ている。人間を腐らせる根幹は思考の停止。諸君らはその花道を闊歩しながら爆走している珍走団に他ならないと私は常々思っているが、諸君らが大学生というお客様である以上、特に文句はない。そのまま自らの道を走ることに異論すらない。個性の尊重、自由の順守。すべては大学生に与えられた最後で最高の瞬間であり、ほかの時間では得られない権限である。私を見たまえよ、大学に縛られ、家に帰れば親に縛られ、子に縛られ、果てには心のよりどころとなることもあったろう嫁に虐げられ、そして寝て起きて、一日が通過する。個性ではなく、歯車として生きることを強要され、自由は制限された自由ではないだろうか。不思議なことに、私はすでにこういったことに疑問すら抱かないが、諸君ら、貴君らの中にはゲェーッと思う輩もぽつぽつといることだろうと思う。永遠にこの放漫で謳歌できる時代が続けばよいのにと。しかし、後々気付くのだよ。「永遠」とは「煉獄」との類義語であり、恐ろしいものであることにね。……夢のないお話をした。続きのお話をしようか。

 と、水族館に来ているのだから一応観光もしようではないか。オオサンショウウオのミルフィーユやアザラシの縦回転を拝みながら、プロジェクターが使えるところまで行くよ。

 さてと、ここでは映像資料を後ろに流しながらお話の続きをしよう。ちなみに関連性はない。すまないね。

 白が私にキスをしたところだったかね? いや違う? すまない。自慢だ。

 ごふん。白は君たちが思うほど内気な少女ではなく、ベッドの上で妖艶に大人を弄ぶ蝶のようで、それでいて太陽を燦々と浴びながら水を浴びたりするような天真爛漫な笑顔を見せる少女だった。白が舞台の上で踊れば、周りからは食器を叩く演奏が始まり、水中が凄まじい振動で包まれた。だが、揺さぶられる体や脳が心地よく、皆踊り、皆歌い、飲み、語らい、お祭り騒ぎが定番で、楽しい毎日が待っていた。白自身も負っていた怪我はどんちゃん騒ぎのうちに忘れるように完治し、はつらつと笑っていた。

 何よりも、白は笑顔でとても深い悩みを抱えた人間には見えない。しかし、時折見せる、私から私の知っている昔話を聞くときの真剣な表情はどこか事情がありそうで、それを聞けないビビりな私に諸君らは罵倒の言葉を投げかけてすらよいぐらいだよ、本当にな。

 そうこうしているうちに、チムニー街からは周回してきた各々の大陸クジラに乗り去っていき、次第に活気を失っていった。そして、私たちの大陸クジラが到着し、白は多少、緊張する面持ちで私たちのクジラに乗り込んだ。

 数日間だったかな。借りてきた猫とはそういうことで、白は通り過ぎる人々に挨拶をし、私の普段の家事手伝い、また暇なときは学校で魔法実習の手伝いなんかもしていた。白は特に魔法の扱いがうまく、私の目にはもうすでに不可能を可能にする手品にすら見えた。それぐらい、精度が高く、使える幅が広かった。ここで、「魔法」に対する追加情報を少しだけ話すが、おっと、そこのオタキーな貴君よ、何やら食指が動いた音がしたよ。ああ、ありがとう。

 「魔法」だが、言った通りマリンスノーという魔の素を糧として発動するもので、詳しくは私も魔法学を学んだ身分ではないので理解していないけどもね。そして一番大切な魔法として挙げられるのは、水中で生きるための魔法である「コンバータ」という魔法で、水中から酸素を取り入れることができるというものだが、これを出生時に使用できていないとその子は死ぬ。諸君らは魔法は便利だ、よい世界だと思っていたかもしれないが、このせいで、出生率が極端に低く、人口はさほど増えなかったという背景があるのだよ。

 で、学校で教える「魔法」だが、簡単に言えば、物を動かす魔法だったり、泳ぐときの推進力を高める、まぁ、流を操る魔法だとか、あとは魔法解除だったりと初歩の初歩と諸君らが思えてしまうようなものしかない。炎出すだとか、重力を操るだとか、瞬間移動だとか、そんな非現実的なこと一切できない。ただ、種類によっては人を殺せるようなものもあってだね、魔法モラルや魔法解除、魔法障壁などといった身を守るものが学校での教育の主ではあったね。

 しかし、白はそんなものではなかった。本来人間が使用できない魔法も多く仕えていたし、本人曰く「竜のなせる術」と吐き捨ているように言っていたが、だからと言って白が使えるのは別段おかしくないわけはなく、疑問符をぽんぽんぷと額の上に浮かばせていると、「馬鹿。」と私の薄い胸板を軽く拳で叩かれるもんだから、思わず惚れてしまうよね、本当。白って罪づくりな子なんだよね、本当。はぁ。

 で、白は私の生活になじみ、私の大陸クジラになれてから数か月後だったかな。夜の晩酌を白に注いでもらい、白の作る鯖の味噌煮を肴に飲んでいたころだった。対面の席に座る、白はさながら私の最高の妻のようでその光景を今でも思い出すが、待ってくれ。ああ、悲しきかな。白の席にはブクブクに太った、卵のパックを買ってこいと吐き捨てる嫁と、私の隣にはいつの間にか騒がしい、私のパンツを生ごみに捨てるような娘が座ってぎゃーぎゃーわーわーと騒いでいる光景が鮮烈に強烈に、思い出されてしまうのが、最悪だよ。

 白は思い出したようにある日、こういったんだよ。古老ボルドさんは昔の話を知っている人? と。上目遣いで疑問符をつけるその言葉は痺れるように甘い声で、最高だったよ。え? そういった私の感情の発信はする必要がない。はい。

 白と私はその次の日に、物知り博士古老ボルドのもとを訪ねた。このボルドという男はもう一度説明をすればこの大陸クジラの歴史書。各大陸クジラにはこういった語り部というのか、生きる歴史書というのか、歴史の代弁者というものが一人はおり、一種神のように崇められている。

 古老ボルドの家に出向き、入り口を守る本の守りブックガードに話を付けると、私と白は中へと入った。巨大な一つのドームの中心にそっと瞑想している人間。それがボルドであり、この大陸クジラのすべてを知る男でもある。そのもとへ私と白は静かに近寄り、そして腰を下ろした。

 と、あいつ、突然立ちあがって、すぐそばにあった質素な椅子に座り、机を挟んで向かい側の椅子に座ることを進めてくるもんだから、私と白は鼻をつままれたような顔をしながら特段文句も言わずにいま一度立ち上がり、椅子に座ったのだよ。できている大人だね。諸君らも社会人然として今後生きていく必要があるのだから、こういったところで臨機応変に、例えば宴会の席では上座に座って見せて、上司が来たらあっためておきましたとふざけたり、ビールを瓶から注ぐときはラベルを上にするとか粋な計らいをするんだ。無論、私はそういったことをしてこなかったからこそ今の地位にいるのだからいい例だろう?

 さてと、ここから先の話をする前にちゃぁんと移動していこう。プロジェクターで見た水槽のマッピングは楽しかったかね? だが、次はメインとでも言うべきイルカのもとへごーだ。ああ、歩きながら聞いてくれ。そういえばだな、白もイルカのことが好きでね。特に私たちが生きていた世界ではイルカというのは犬の代わりと言ったらいいだろうか。海に生きる者のペットというか、よき理解者というか。時には移動の足にもつかえ、時には心を癒す隣人となる。そんな生き物だったよ。無論、白にはかなわないけどもね。しかし、その白はどうにも私よりイルカに対する方がずいぶん慈愛に満ちていたのだよね。イルカの背を優しくなでるし、口にそっとキスをする。私にも勿論してくれるのだが、どこか無邪気ではなく、ぎくしゃくとして……ああ、なんだそういうのろけ話はいいかね。

 はー…………と。どうやらイルカは休みみたいだね。諸君らよ、貴君らもまた落ち着いて一先ずその席に座ってくれ。講義はようやく最後のコマへと進む。

 私と白が古老ボルドのところへ行ったところのお話、だったね。ボルドは自身のことを「長生きの功名」と言い、本の守り手にお茶を出させた。そのお茶というのがどうにも萎びた老人夫婦が消費量が追い付かないのに大量買いした数年越しのお茶パックから染み出したようなどうにも干した靴下からだしを取ったかのようなお茶でね。私は当然眉をハの字にして飲み干したが、白はそれを一口口に含み、にこりと笑ったんだ。「これで、よいのでしょうか?」と白は言うんだ。私はぎょっと隣の白を見たが、ボルドは嬉しそうに「ああ、生きてきた甲斐というものさ」と言うと、ガッハッハと豪快に笑ったんだが、それがその、今ふと思い出すと最近五十そこからの我妻も一挙手一声ともに同じで、貴君らの言葉を借りれば「ヤバい」というやつそのものだよ。「ヤバい」だけど、私は別に言語学者でもないので特段専門的な話をするわけではないんだが、一単語に包括される意味の多さでは日本語は類を抜いているというのは日本人たる諸君ら貴君ら、貴女、貴婦人ともども往々にして理解してしまうかもしれない。だけど、私が思うに、今の例をとれば「ヤバい」に包括される意味は確かに多種多様で「おいしい」「まずい」「すごい」「超強い」「かわうぃ」「萌え萌え」等々、無限にあふれてくる。無論文脈の中で無限に変化する言葉は英語やスワヒリ語、エスペラント語にも存在するが、どうしても日本語のように意味の多様さに欠けてしまうと思うだろう? ん? 最後列の男女グループの方々よ。私は思わない、俺は思わないと、他人と違うことが美学だと思う時代は終わったのだよ、認めたまえよ。では貴君、貴女らに問おうか。どうしてそう思うのかね? ああ、そうか。英語に疎いから詳しくわからないけれども、うん。英語のイージーも多種多様な意味になるだと。確かに、イージーも単に「簡単」だけではなく、時には「へっちゃら」「痛くない」「おいしい」など様々な言葉に置き換わる。だけど、ヘラと笑う少女のような貴婦人。いいかね、根本的に抜け落ちていることとしてそれは日本語で表現しているだろう? 私は再三いうが専門家ではない。しかし思うところとして、日本語の妙は多言語と違い、ニュアンスに対する言葉というのが明確に存在しているのだ。日本語の小説や漫画、時にはアニメでさえ万人が見て、万人がほぼ同一な意思意見を持ち合わせるのは、我が国の国語教育のなせる業、それを体現する言語体系、無限に増殖し無尽蔵に共有されていく日本語という文化は明確に細分化されているある種エスペラント語よりもロジカルに構築されたものだからだと私は思う。一方でアメリカ語やらと言った言葉はイージーを表現するのにイージー以外の言葉を使う必要性は特段ない。無論、似たようなニュアンスを含む単語を当てはめて表現を作り出す方法はあることはある。しかし、日本語のように無駄に豊富で応用性の高い言語はないだろう? 私たちは好きという言葉により取り見取りな修飾語にリリックを交えて仕上げることもできれば、素直に言葉にだってできるし、その場、その感情にカツーンとあてはまるような言葉を選ぶことだって知識があればできる。なにより、あいらぶゆーを「月がきれいですね」と訳せるのは日本語の美しさだろう? 残念なことに、私の妻を日本語で訳せば「暴虐武人」「怜悧狡猾」他人に愚弄されるとも馬鹿にされるとも絶対に痩せようとしないそのさまは「不撓不屈」そのものだよ。困ったことにね。

 ボルドはお茶を飲み、白の動きを待っているように見えた。その瞳は私よりも白に注がれ、白の瞳は波と共に揺れるお茶の表面をそっと見つめていたよ。私はと言えば隣でじっと白の手を握るだけだった。それぐらいしかすることがなかったんでね。

 隣で白のつばを飲み込む音が聞こえたよ。本来ならば私が飲み込んでいたであろう唾だったことが少し残念だったが、白の喉を潤すには十分だったのか真剣な表情で白は喋りだしたよ。

 「私には竜の知り合いがいます」。若者のくだらん冷やかしかと一蹴していた瞳から白の対応で興味を持ち、そして今の一言で完全にボルドは飲まれていた。白がその場の主導権を握った。私はもうその場に存在すらしていないように思えた。お恥ずかしいことに、完全に私は必要なし子さんだったよ。紳士諸君、淑女諸君。君らもこの広大な世界で自身の存在の必要性に疑問を持ったことだろう。このクラスに僕はどうせ必要ない。この学校にどうせ必要ない。虚無感を味わい、絶望する。意味のない存在はつらい。つらいもの、だよ。

 白とボルドの二人の世界。麗しき少女と老いた老人。彼女と彼は話を進めた。「私の親、白竜ヴヴルル。彼女は私に昔話をよくしてくれました――……太古の昔、人は陸に住み、私たち竜は地を見下していた。しかし、今では私たちは天を仰ぎ見ている。ある意味、それは。私たちをこの大海という巨大な牢獄に閉じ込める一世一代の大勝負をかつての人がした成果かもしれぬ。私が生まれるずっと前は人間と共に生活していたとも聞いていた。しかし今際の際よりずっと前から、私たちは人を殺すし、食らうようになっていた。人はただのしゃべる食物でしかない。そう思う心が灯のように受け継がれていた、と。そして私がヴヴルルと放浪し、聞いた一つの言葉、大陸隆起点。それが私の知る全てです」と白は死期の近い老人に話した。それを聞いたボルドはしわがれた声で笑っていた。そして長く生きるものだと呟いたように見えた。

 ボルドは目をそっと閉じると、遠い昔への憧憬のように語り始めたよ。たしか……すまないね。白以外の難しいセリフは記憶に浅いんだ――。

 「白、と言ったかね? その髪、そして竜と共に生きた少女、とは……面白いものも生きていると出会えるよ。大陸隆起点。その言葉も懐かしい――かつて大陸に生き、竜に追われ、それでも溌剌と生きていた時代。一つの奇妙な研究所があったらしいのう。そしてそれこそが、竜を、私たち人間でさえも、この大海の檻に閉じ込めた原因であると言われておる。名をα《アルファ》。そして研究されていたもの、そなたのような、そう、頭皮に触手を生やし、竜を殺し、全てを操る能力持った人間を超えた人」

 ああ、諸君よ。そうだ、貴君よ。中段で眼球を右斜め上へ動かし思い出そうとしている君、そうだ。研究機関α、そして深かぶりの灰眼マインドシーカー。名実ともに白と私は結ばれているよ。どの次元、どの世界でも、ね。

 最後にボルドは顔面を蒼白にする白にそっと手を伸ばし、しわがれた手で頬を撫で、孫を見るような瞳で白を見ていたよ。

 「つまりよ、研究機関αこそが人類が最後、希望だろう? お嬢ちゃんの知っていたその昔話、伝説の通り、大昔の人間は竜を海にぶち込んだ。同時に私らもこの様だが…。だが、私ら人間は業が深い。だからこそその場所こそ望みがある。大陸の隆起する点。そう、一種の期待を込めて私たちはずっと語り継いでいる……それともう一つ」と、ボルドは最愛の孫に伝える遺言として白に語りつくしていた。丁度、いま私がこの場に座る諸君らと貴君らにこうして語り継いでいるようにね。 

 家に帰ると、私と白はそっと背中と背中を合わせてベッドの上でちょこんと座った。弱みを普段見せることのない白だったが、この時ばかりは震える体を両腕で抱きしめ、そして水中に泡を出しながら、私の背に体重を乗せてきた。こじんまりとした部屋に私と白の二人っきり。最高のぷろぽーしょんというやつだった。愛する人と背中合わせ。向き合って語り合うほどの恥じらいはなく、隣に座って手を握っているよりも近い。背中を通して相手の心臓の鼓動が波打つように伝わり、温もりがじんわりと私と白の間で交換されていくその感覚。ああ、背筋に甘い電流が走る。今も、昔も。

 白はんーと伸びをすると、私の手をぎゅうと握りしめた。それから自分の昔の話をぽつぽつとし始めた。これが最後だというような気配が漂うのが私にはわかったよ。察しは昔から良いほうなんでね。

 「私は昔から自分が嫌いでした。この頭皮から生える触手が、そして竜を殺した私が竜と共に生きていることにも嫌気がさすんです。私を担いでいこうとした竜がいたでしょう? あれは、ヴヴルルの娘で名をリーフィ。私の最後の贖罪で最愛の友達。一つ、昔話をしてもいいですか?」白はぎゅうと私の手を握りしめた。「私は竜の住処である渦の中心に一人生まれました。というより、そこでヴヴルルに拾われたんです。そしていつの日だったか。私の周りの竜は、リーフィを除き全て、ほとんど、そうほとんど。死んでいました。リーフィに聞くと、竜同士で殺しあっていたと。だから白は悪くないよ。と」だけど、と白は呟いた。ああ、諸君よ私は今思い出しても嫌な記憶だ。思い出したくない。白だって、私だって。「私の触手は他を操る触手です。ね? 不思議ですよね。竜同士が殺しあうほどの戦いだというのに人間の私は生きている。リーフィも馬鹿ですよね、こんな私に優しく、それに彼女はこう言ったんですよ? 一緒に大陸隆起点を探そうって……実は母――ヴヴルルが話した昔話はもう一つあるんです。かつて大海に大陸を封印した人間は触手が生えていた。彼女が全てを沈め終わると、彼女は全ての母となった。これを、母はあなたたちの祖先だろうと言うのです。すべての母、すなわち、その時大海で生きる力を持たなかった人類は全て死滅しているはずです。しかし今もなお、人間と言える姿かたちを保ち生きているあなた方は陸に生きていた人間とはどこか違う……つまり、そのかつて大海にすべてを封印した女性の子らではないか。こう母は世迷言のように言うんです。だけど」白、わかったよ。すべてわかっている。そうだろう? 諸君もそういうだろう? だって、最愛の人の一縷の望みだ。それを叶えずして何が最愛だ。何が愛だろうか。愛する人の思いを遂げるのが本懐ならば悔いはあるまい。たとえ塵芥となり、海の藻屑となろうとも……白は悲しそうに笑っていたよ。「あなただって風を髪の毛であびたいでしょう? っていうんです」思い切り、爪を立てて手を握る白に私はただ静かに、齢十四に満たないか弱き乙女が落ち着くまで待っていた。そうしたらどうだろう。はは、見てくれ、後ろは見にくいかもしれないが、こうだ。この手の爪で抉られた後こそ、私の英雄としての傷だと思わんかね。キスマークよりも罪深く、業が深い。爛れるような愛の様だよ。うれしきことにね。

 それからというものだ。私と白は旅に出た。住み慣れた大陸クジラを飛び降り、イルカ艇にまたがり、颯爽と大海を駆けていった。その中で出会った様々な人と化け物と、伝説や魔法はまた別の話だ。だってそうだろう? 諸君らが知りたいことはそんなことではないはずだろう。

 私と白の目的地。大陸隆起点。私と白は古びた……潜水艦というのだろうかな。今思えばだが。それに入っていた一枚の資料からその場所を発見した。驚くことに白はその地図を見た瞬間に閃いたように私の両手を取り飛び跳ねた。希望という光が深く暗い海底にも差し込んだようで美しかったさ。とてもね。

 地図は大海の中心を指し、其処こそが大陸隆起点だと記されていた。そしてこの大海の中心には巨大な竜巻、渦潮が存在している。私の記憶が残る限り、私が存在する前からずっと大海をかき回す巨大なモーターのようにそこに存在し、あるものはお宝が。あるものは別世界への入口が、あるものは真実があると言い伝えられていた。しかし、誰も確認することをしなかったのはそう、諸君ら貴君らの思う通り。近づくものすべてを破壊し、飲み込む。その頃は宇宙という概念こそなかったが、まさに海のブラックホールとでも言っても過言ではない。渦に飲まれれば忽ち暗く深い海底へ引きずり込まれ、二度と出てこれない。渦潮を取り巻く海流は怪力乱神、まともに近づくことも離れることもできない有様だった。

 しかし、私と白はそこへ向かったよ。だってそうするほかないんだ。それが最愛の人の望みで、私の望みに違いなかったからね。

 渦潮へたどり着かんとする時だったかな。久しぶりに旧友ではないが、かつて白を乗せていた竜、リーフィと再会をした。リーフィが言うには、この先には竜族が集結しているとのことだった。何故とも思ったが、リーフィと白は口をそろえて答えたよ、「竜は大海を捨てては生きていけない」とね。

 幸いこのイルカショーコーナーからは蒼天が広々と見える。確かに、かつて竜たちは空を馳せ、大地を蹂躙するほどの力を持ち、生物の頂点に君臨していた。しかし、人間と触手を持った人間の働きによって大海という牢獄に封じ込められた。ああ、もしかしたらここはレポートでも重要なところというか、もしテストをするのならば必ず出すだろうね。竜たちは大海という『牢獄』に封じ込められているんだ。

 それすなはち。井戸の中の蛙は井戸を出れば鳥についばまれすぐに死んでしまう。蝉は地上に出れば鳥や人に殺される。井戸という牢獄、土中という牢獄。彼らにとっては牢獄ではなく住処なのだ。今や竜も同様だったのだよ。大海という『牢獄』でありながらも彼らはそこを住処とし、其処でしか生きていけぬ呪いをかけられている。

 白とリーフィは互いに額を合わせ、そっと口づけを交わした。

 私はただそれをじっと見つめるだけだった。白とリーフィの決意と覚悟に魅了されたとも言えばいいだろうか。得も言われぬ感情を味わったのは後にも先にもあの時だけだったよ。娘の出産や妻との結婚など掃き溜めの思い出だ。

 さて、ここから先は恒例のグロテスクな表現が入るため、無論十八歳以上の紳士淑女しか存在しないだろうから、気にも留めず話を続けるしオブラートに包む気もさらさらない。ありのままを、私の感じるままに表現しオーディエンスの方々に伝えよう。それが、伝説を紡ぐものである私の役割であり、白への精一杯の寵愛でもある。

 渦中までほんの数キロメートルといったところだったか。急に水温が上昇しはじめた。視線の先には無数の竜影。リーフィのような年若くまだまだ小さな竜ではなく、年齢数百、中には数千、数万とも見えるほど巨大な竜が待ち構えていた。竜というのは気高い。それゆえに互いに仲間という意識こそあれ、協力という考えは恥にすらなりえる。はずだった。白を止めるため、白を殺すためにその恥さえもかなぐり捨て互いに協力の道を歩んだのだろうか。

 無論、私たちとて無謀にも三人で挑んだわけでない。大陸隆起点を探す傍ら協力してくれる人々を探し、そして人類のパラダイムシフトのために竜との一騎打ちを仕掛ける馬鹿どもが大勢集結していた。第一大陸鯨『モーブ』。第三大陸鯨『ブルドッグ』。第四大陸鯨『ホールモント』。第五大陸鯨『大和』。私と白、そしてリーフィの声に集い、そしてその全てが渦を取り巻く竜とにらみ合い、待っていた。開戦の狼煙をね。

 そして、海中に大きな噴火音が響いた。それは……それは、運命的な開戦の合図だった。湖面に水滴が落ちるよりも刺激的で、突然爆発する風船よりも心地よい音だった。

 噴火音から遅れて、海中を様々な振動が響き渡った。爆裂音、斬撃音、悲鳴、歓声、嬌声さえも聞こえたさ。そして私も白もリーフィもそれを聞くことになる。

 私たちの前に現れたのは一匹の巨竜。多種多様なフジツボやイソギンチャクといったものを身にまとい、老兵と言ってしまえばそれよりもさらに古ぼけた外見。これが竜でなければちょこんと小突くと瓦解して死んでしまうのではとも思える。が、竜では逆だ。そこの少し目を輝かせた紳士よ、そう。竜においてはこの外見こそが名誉。その外見こそが自身の年齢を示す最も単純な指標なのだよ。

 私とリーフィがともに前衛、そしてあまり戦い慣れていない白は後衛で魔法による援護を行う。

 敵は数千歳もあるだろう渋緑色の巨竜。かつて空を飛翔していたことを思わせるように、海だというのに優雅に姿はまさに龍かと錯覚するほどだった。大陸鯨が全長六二五メートル、全幅一二八メートルほどだが、眼前に飛ぶ龍は全長二○○メートルはあろうという巨躯で翼を広げればもう一○○メートルは大きくなりそうだった。

 私は臆せずジャベリンを抜き、リーフィに跨る。本当は足腰が震えていたし、海の中だからと少しおもらしもしていた……が、ここからは無駄話はなしだ。心したまえ。

 厳めしい老獪な化け物が海中でも煌々と黄金色に輝く瞳をもって私とひ弱な竜を見つめる。

 「忌まわしき人の一族よ。汝らの守ろうとするもの、汝らの生み出そうとするものは汝らの一族ではない。本当の意味での化け物だろう?」

 凄みの聞いた声。海中に広がる音波に気おされそうにすらなる。

 「大海に沈められ、翼を奪われた私たちから何をこれ以上奪おうというのだ。ましてや飛べぬ人間が飛ぶ自由を疑似的に得られたこの大海という生息域でさえ自ら変革しようというのか」

 一つ翼をはためかせるだけで、周辺の砂が巻き起こる。

 「……何も語らぬか。私の名はトールビヨム。渦の番人。海を守るモノ」

 トールビヨムといったその巨大な龍は静かに瞬きをした。次に私が見た瞳は業火に燃える地獄を模したように赤々とした炎の瞳だった。

 矮小な人間に彼らに対する言葉は何一つ吐けることはない。だってすべては私と白のわがままなのだから。

 人間のために世界を大海に沈め、人間の欲望のために世界を今一度浮上させる。そこに「竜」という一族の概念はなく、他の生物の概念もなく。

 ただ一心に自らの欲望に忠実にいま、この化け物たちと対峙していた。

 私はジャベリンに火を灯す。ああ、諸君。この大海の武器はすべて魔法で点火して用いる。点火し内部に仕込んである燃料を燃やすことで武器の随所から推進力を生み、抗力のある水中での高速戦闘、というか水中でものを振るという動作に殺傷力を付与している。なんせ魔法が使えども私たちは人間だったからね。水中の重みというものは非常に厄介なんだよ。

 「ヴヴルルが子、白竜リーフィ。ヒト、―――といま、盟約を結び、トールビヨムと相対することを謝ろう」

 トールビヨムは大きな口をゆがませ、豪快に笑った。

 「ヴ、ヴッハ、ハハ! ヴヴルルとはまた懐かしい名だ。かつてはともに大空を駆けた友の子が今は、私たちを破滅へと導く。これもまた、因果か……。いいだろう、相手をしてやる。人の子ともども。そして後ろの化け物を食らってやる。それが、償いだ」

 腕を振り上げ、鹿の子のように黒い斑点のある翼膜を広げると魔法陣が無数に展開される。

 「さぁ、こちらも開戦だ……旋風竜弾センリュウズ

 魔法陣から無数の小さな竜巻が鋭い弾丸となって飛来する。 

 詠唱を開始していた白を庇うようにリーフィが防御水壁 薄水壁壁ハクウウを五重展開。しかし、紙を貫通するように一枚、二枚、三枚、四枚とたやすく突き抜けていく。

 五枚目を通り抜けてこようとする風の弾丸を、私が一つ一つ丁寧に逆式魔法 弾竜風旋を発動。ジャベリンで触れることで竜巻の回転方向とは逆の回転を与えかき消していく。

 弾幕がはれると、眼前にトールビヨムの姿はなく、とっさに防御態勢。

 「リーフィ上にあがれ!」 

 リーフィに指示を出し、一気に空を目指し海中を進んでいく。

 「風天槌落ドーフン

 囁くように発動され、私は顔を上に向けた。

 海面を飛びぬけ、夥しい量の海水をその身から宙へ運び出し、そして垂れ流す。滝のように海面にたたきつけられていく海水が海面を揺らし、無数の泡を生む。泡に乱反射される光が、海中という折から飛び出した竜を眺める私とリーフィを包んだ。

 「避けろ!」

 とっさに合図をするが、間に合わない。

 数トンともあろう巨体が急降下。海面を突き破り海を割って入ってくる。巨大な塊に私とリーフィは捕まり、全身で海をカチ割りながら海の底へと叩き落されていく。 

 頭が、目の前がチカチカと点滅する。衝撃で魔法も途切れ、海水を大量に飲んでしまい苦しい。

 海中だというのに、隕石が落ちたかのように大きくくぼんだ海底で私は身を起こし、周囲を確認する。

 目に入る場所にはトールビヨムはいない。また上に行ったのか、それとも海の闇のなかか。

 ひとまず倒れるリーフィに駆け寄り、起こす。あちこちから裂傷出血が見られるがまだまだ死ぬに早い。私もリーフィも。

 「たった、二つの魔法でこんなにも疲労困憊とは、な。人間。逃げてもいいのだぞ?」

 「はは、どうにも。変態気質でね」

 リーフィにまたまたがる。

 光の届かない三○メートル先から波。

 それに合わせるようにジャベリンを構え、リーフィは波の来る方向へ突進する。

 大顎を広げ、食らいつこうとするトールビヨムに向かって小さな槍を振るう。が、鱗にはじかれ傷一つつかない。すれ違いざまに圧によってはじかれ、体制を立て直す。また、トールビヨムは海中にきえ、姿が見えない。

 いやらしい戦い方をする龍だ。龍らしくない、竜というのは元来誇りや矜持を大切にする生き物のはず。しかし、彼からは誇りも礼儀すらも感じない。

 リーフィが言うには「トールビヨムは海のギャングと呼ばれている数寄者だ。海を泳ぐちんけな爬虫類と同じくする呼び名にいつも喜々としていた」らしい。

 視界の外より襲来し、一撃離脱を旨とした徹底的な戦術。魔法も突進力に秀でたものが多いのはそのせいだった。

 だとするならば、私のジャベリンは、いや、人は太刀打ちできない。

 数トンもあろう体躯が魔法の補助によって爆発的な突進力を持っているのだから、止められるのは巨大な攻撃魔法か、竜しかいない。まぁ、クジラでもいいかもしれないが魔法も使えない生物ではいくら図体が大きくとも木っ端みじんだろう。

 「くるぞ」その合図のあと、間髪おいて左から轟音。海底だというのに耳鳴りがするほどの速度でトールビヨムは突進してくる。視界の端にとらえると、すでに気づいていたリーフィが身体をよじって回避。私は敵をしっかりと目にとらえ、消えていく方向を定める。そして、魔法を

 海賊共が大陸鯨の進行を止めるために用いる設置型魔法 疑似爆魚クラムは三六○度移動可能な海中での戦闘においては木偶の坊といっても過言ではないが、大量設置が可能で威力も申し分ない。人間が壁になったところで十数人は吹き飛ばせる。そこに、一匹の獲物が飛び込む。

 「リーフィ、追撃!」

 疑似爆魚が誘爆を繰り返す。爆炎に巻き込まれ、その動きをとめたトールビヨムに対し、リーフィが口腔を開くと、第一魔法陣が展開された。次に第二魔法陣、第三魔法陣と展開され第五魔法陣が展開されると全長五五メートルの氷槍が出現し、発射。単純な氷形成の魔法である、投擲魔法 飛氷竹ブリーズだが第一魔法陣では一○○メートル毎時まで加速。次の第二魔法陣では八○○メートル、そして第五魔法陣では音速の二倍速い速度まで加速する。つまり、ほぼ発動と同時に着弾し、極限まで加速された氷槍は易々と超々高々硬度のトールビヨムの鱗、甲殻を貫き肉を穿っていく。

 悲鳴が聞こえるより先に、爆炎の中に追加で私がジャベリンを投擲するが海を貫くだけで、手ごたえがない。ジャベリンに結ばれたひもを手繰り、回収する。その間に煙が晴れ、姿を現すべき化け物を確認しようと視線をやる、が、どこにもいない。

 「本当に人間というのは奢っている。本当に若造というのは大人をなめている」という天の声か神の声かが聞こえたと思うと、身体の右側全体に尋常ではない打撃。とっさにガードの体制をとったがものともせず薙ぎ払われるように海中に投げ出される。右腕、右肋骨、右臀部の粉砕する音がいやらしくも水中を漂って耳に入る。打撃をその身で私よりもありありと受けたリーフィは右翼をはためかせることすらできなくなっていた。

 激痛にこらえ、目の前の敵に集中する。私とリーフィの前に姿を現したトールビヨムは激昂していた。巨大な爪の生えた手を覆う緑色のオーラは強化魔法 聖骸布ベール。リーフィがいなければいまの一薙ぎだけできっと私は死んでいた。

 「正々堂々戦おうではないか。はは、そうだな、今回はどうにも人だけが獲物ではない。人だけならば意地汚くも殴っては逃げ、喰っては逃げ、切り裂いては逃げを繰り返そうとも我が矜持は傷つかぬが、こと竜がいるのならば道義を通し、正々堂々と戦ってやろうではないか」というと、トールビヨムの体全体を緑色のオーラが包んでいく。右手だけではなく、全身を強化魔法で覆った。

 私はリーフィの治癒魔法で傷をいやし、リーフィ自身も自らの治療をすましていく。いやらしいのがトールビヨムはそれをずっとニタニタとした表情で、といっても龍の表情は読めないが、おそらくそういった顔でこちらを見下していた。

 傷をすべていやすと、トールビヨムは嬉しそうにうなづくと、戦闘態勢をとった。

 「さて? 待ってやったのだから、きっと楽しめるだろう、よな?」トールビヨムは優しく語りかけてくる。慈愛すら感じさせる威厳。私とリーフィは眼前の暴力の塊に願っていた。死なぬように、殺されぬように。そして何より、白を守り切れるように、願いをかなえられるようにと。悠然と水中に浮かぶ龍に私とリーフィは小さく身を寄せ合い、そして武器を構えた。私はちんけな槍をリーフィは翼を大きく広げ精一杯の威嚇をした。

 威嚇を合図にトールは動く。一回転からのサマーソルト、続く剛腕の連撃に私とリーフィは必死に後退する。上にも下にも動けない。一歩下がるのが遅れれば掃除機に吸い込まれるように巻き込まれ、ぐちゃぐちゃにされる。もう攻撃というより災害。龍が動くことは災厄に違いない。私はほとほとそう感じた。

 後退しながらもリーフィは飛氷竹ブリーズを連射しながら、私はそれに合わせるように疑似爆魚クラムを連続設置。爆風と氷が海中を舞いながら瀑布の飛沫のようにこちらに迫り狂う。最後に設置した疑似爆魚クラムが爆発しなくなったとき、連撃がやんだと私は思った。しかし、その安堵をぶち壊すように砂と泡の幕の中から腕が伸び、リーフィをしっかと引き釣りこんだ。

 「……一匹目」と、ごしゃり。と海中だというのに肉と骨を断ち切る音が響き渡る。私は槍を構えなおした。

 動けなかった。助け? 馬鹿なことを言うな。私は死にたくないし、白より先には死ねない。白を死なすわけにはいかない。つまり、リーフィに手は差し伸べられない。きっとそれはリーフィもわかっていたとは思う。だからこそ、砂と泡、それらが沈み、弾けた後に現れた巨大な龍はちっぽけな竜に翼をまるまる氷漬けにされて身動きを取れずにいたのだからね。

 私は槍の先端を強化魔法 魔剛角変辺衣ベフーバモーで強化。大海の魔王バハムートの角と同様の硬度の物質が蜷局を撒く様にねじりあがって槍先を囲む。柄の後方に疑似爆魚クラムを一弾目を大きく、続く二弾、三弾と徐々に縮小化させながら七連結展開。そして、思い切り投げた。

 手を離れ、一番外側の疑似爆魚クラムがはじけ、加速する。最初の一弾が破裂するとともに、爆煙を連ならせながら海中を竜よりも、龍よりも早く飛翔する一本の化け物の角が身動きの取れない愚鈍な老龍の頭部に突き刺さり、そして貫かなかった。

 ん? そうだ、貫かなかった。まさに奴の自信は過信でも虚栄でもなかった。正真正銘の自信というやつだった。

 私はその場にそっと力を抜いて浮かんだ。もう、なすべきことはない。なせることはない。人間絶望というものを味わうと一瞬ふと体中の筋肉が力を入れるのをやめてしまう。糸の切れた人形、とてもよい表現だと私は思う。

 眼前の老龍は氷を振り払い、そしてゴミのようにまとわりつく竜を海中に捨てた。ああ、次は私だと私はそっと目を閉じた。柄にもなく白にすまないなと謝ってみたりして。もちろん、後悔なんてものは計り知れない。しかし、なすすべがないのだ。なすすべがね。

 で、だが。ここに私がいて、諸君らに話をしている時点でネタバレなのだが、もちろんこの時私は死なない。なんかこう、こういう時、自分の話を自分でするのはやっぱり間違いかもしれないなと思うんだよ。

 私の背中から死に際には耳障りな音が聞こえてきたんだ。応援か声援か。はたまた地獄の死者の手ぐすね引く声か。答えは簡単明瞭で第七大陸鯨「ヘヴン」にのる、元気な子供たちと女、そして耳障りで五月蠅い、人の恋路に邪魔ばかりをする野郎共の盛大な鼓舞の宴。そして目を見やると艦首に巨大な魔方陣詠唱型の魔法を必死に唱える白。誰に臆することもなく触手を優雅に海中にたなびかせながら。

 拡声器から聞き覚えのある声、「お嬢ちゃんからの精一杯のはなむけじゃぁ! そこをどけぇ!」古老ボルドのひしゃがれた声が龍とそして私に届く。

 目の色を変えずに眼前の古龍は大陸鯨を潰すために巨大な魔方陣を壁のように展開する。私は必死に泳いだ。少なくとも一匹と白の間にいたら確実に海藻屑だった。

 白は透き通るような声で唱えた「光燦覆陽煌黑ジヌ」。そして、かつて人々に恐れられた龍は皺がれた声で唱えた「無海魔滅貫角リヴァサム」。

 私の目にはなにがなんだかわからなかった。ただ、言えるのは、気付いた瞬間には小さい山ぐらいはあろうかというほどの巨躯だったトールビヨムが白の両手から伸びおる白く、そしてひたすらに巨大な翼のうちに取り込まれそして潰されていく様だった。断末魔もあげれず、押しつぶされ、重なり合う翼の隙間から赤い血潮が上へ上へと昇っていく奇妙な光景だけだった。

 魔法を解くと、白は疲れた様子もなく、私のもとへ駆け寄ると私に抱き着いてきた。ここで私は二度目の失禁をした。喜ばしいのは海中だから最悪バレない。一度目はトールビヨムと対峙した瞬間だったが。最もこっちはうれしさゆえの失禁だからきっと神様もお許しくださるだろう、アンメーン。微妙に間違えておかないと敬虔な信徒がここにいた場合失礼に当たるから慎重に。

 白を抱きしめ返すと、私と白はリーフィを探した。そう、離れていない海底に沈んでいたリーフィは翼は多方向へ折れ、腹部には多くの裂傷。それに加え外からでは判断しかねる圧力による臓器損傷も見受けられた。幸いにも首が折れておらずまだ息があったのは幸運だった。

 しかし、リーフィは治療を始めようとする白や私を止めるように口を開いた。「白、私を操り、竜巻を越えろ」と。当然白は反対した。ほかの竜を、ほかの手段をとね。しかしリーフィは首を横に振った、「それではもう遅いんだよ。どれだけ時間がたった死体でも操れたとしても竜巻を耐えるには、新鮮な竜の肉体が必要不可欠だ。トールビヨムは握り潰し、ほかの場所に行ったところで今みたいな龍がいたら、白よ、今一度討ち果たせる、まして、威力を抑えて打ち取れるか?」。言っていることはもっともだった。そして何より、「次のスーパームーンはいつ来るかもう分からぬ。文献にあった予知は今日が最後の日で、あったろう?」。

 白による儀式のタイムリミット。それが一番の理由だった。スーパームーンとは諸君らも知っていると思うが、地球に月が最も近づく日だ。今ともなれば予測も簡単だが近代文化の色が薄れたあの時代では誰も知らなかった。だからこそ、リーフィは身を差し出し、そして白に夢を叶えさせた。

 白はリーフィの頭を優しくなで、小さく額にキスをした。私すらも一度もされたことのないような気持ちを込めて。

 触手がリーフィを取り囲み、腹部から一斉に皮膚を突き破り侵入する。体内に取り込まれるように白も侵入し、そして破られた皮膚がきれいに癒着し完治する。それと共に、折れていた翼や手足、尻尾、肋骨等々すべてが再生されていく。触手による治癒。しかし、脳までは再生できない。それは、神に等しいからね。

 リーフィに寄生した白はすぐに竜の体を操り、そして轟々と砂を巻き上げ、立ち寄るものすべてをミンチにしてしまうほどの渦潮へ向かって一人突き進んでいった。

 私はただ、祈るしかできなかった。子供を産む妻の手を握ることしかできない夫のようにね。そして、時が満ちた。

 海を震わせる轟音。その正体は白の消えた渦の中心からだった。音が静まり、渦は消え、人々が不安な顔を互いに向けあっている中、その不安を後押しするように地鳴り。

 海中にすむ生物は逃げ惑う暇はなく、再び海面から顔を出そうとする大陸にその身を奪われ、気付けばあっという間に。

 ―――空と陸。そして海ができていた。

 私は白を求めて、大陸の中心へ。

 ああ、諸君よ、ああ貴君らよ。私の物語は総じて救われない。しかし、救われない物語だからこそ、今もまだ続いているのだと私は思っている。

 大陸の中心には巨大建造物の瓦解した姿の前で一人の少女と転がる肉の塊。渦に錐揉みされるように全身の筋肉がぶちぶちに千切られ、潰された白い竜はその生を白のために使い果たしたのだろう。私はそっと、目を閉じ祈りをささげた。

 傍でへたりこむ白にそっと手を伸ばした。

 「治りませんでした」しとしとと涙を流し、虚栄を張るために笑って見せる白を見て私は思わず白を抱き寄せた。「やめてください」白は私を振りほどこうとする。「やめてください。私は化け物なんですから。やめて、ください」さらに強く抱きしめると白は思いっきり私に抱き着き爪を立て、大声をあげながら泣き叫んだんだ。 



 ん? 何、そろそろイルカ―ショーの準備をしたいのでどいてくれ? ああ、わかったわかった。えー、さて。それでは諸君。残念だが今回の話はここでおしまいだ。感想、アドバイスその他は後日、メールにて受け付けるから、また、何もなくともメールを送ること。それを出席の代わりとするからね。さぁ出てったでてった。ああ、その先の売店で売っているこの水族館名物の水生生物パンは見た目が可愛いしおいしいしでおすすめだからぜひ買ってくれ。カメとかイルカのパンとかいいぞ。

 おや? イルカくんもそうだというのかね? 触ってみてもいいのかな? 触ってみるか。コラ、諸君らよあわてないでくれ。私が代表でイルカに触るから。見ていてくれ給えよ。背中に本当に穴空いてるんだな。ぬん! 臭い! イルカの鼻息は臭い! 臭いぞ諸君!


ーーーーーー本講義受講者諸君へーーーーーー

 先日は水族館での課外授業参加感謝申し上げます。

 昨今、会社での飲み会に参加しないなどと言った皆さんのコミュニケーション不足とも言えなくはないこともないけれどもやっぱり言えないようなことが多く取沙汰されています。

 私個人の考えとしては「好きにしろ」なのですが、それでどうにもならないのが社会です。しかし、その「好きにしろ」とは皆さんが私の話を聞いていて思うことでもあるとは思います。

 私は好きなことを仕事にしたわけではありません。ですが「好きにしています」。これがいかに大変で大切なことかは皆さんにはまだきっと理解できませんでしょうが、くれぐれもその矮小な頭で間違った考えを起こしてSNSなどにお馬鹿な意見主張を書き込んで大学のひいては私の評価を落とすことだけはやめていただきたいです。

 来週の授業はまた講義室での私のトークランチショーです。いつも通りみな出席するように。

 

 あと、あれから誰もメールを送ってこないので私が直々に皆さんにメールを送りました。これに返信することが出席の代わりとします。


 Fin

 

 

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