第2話 少女と巨人の昔話
こんばんわ諸君、こんにちは貴君。今日も私の講義に来てくれたのだねありがとう。感謝するよ、ああ、こうして頭を二十度ぐらいは下げてもいいぐらいには感謝をするよ。いいかい、男の謝辞の角度は男のあそこの………。わかった、妻にもその下ネタはつまらない上に気持ち悪いからやめておけと再三言われていたのだよ。だけど今日試そうと思って確かに私は理解したよ、すまん。本当にすまん。諸君らには教授がなんとも矮小で猥褻な陳列物だと勘違いされてしまったようなら、こうして深く九十度ぐらい頭を下げて謝罪しよう。何、私のは軟体動物なみなのだよ。
さてと、本日はお日柄もよく諸君らはどうにもこうにもボケた顔をしているわけだが、私としてはそういう顔をされるとどうにも、北京原人が用でも足している時を思い浮かべてしまってね、気分が悪い。なので、諸君らには大変申し訳無いが本講義は私の独壇場とさせてもらいたい。
なんだって? いつもでは? なるほど、その説は非常に正論で私自身も否定する気は毛頭ない。いやはや、私自身に髪の毛は生えているものの、ね。そもそもだって、諸君。この講義の到達目標なんてのを知っているかね? シラバスでも見たことはあるかね? 半期分のセメスターで到達するべき目標の一つを今、言っておくと、「正しく座り、静かに聞ける」が諸君ら貴君らの目標なのだよ。アンダスタン?
はて、話をそそろと始めようか。
ーーー
今日は、いや、すまない、今日もなのだが、ついでに謝ると、次回もなんだが、主役は私だ。当然だろう? 私が紡ぐ話は私の冒険譚であり、一人の少女が出てくる御伽話でもある。主役として添えるには諸君らも貴君らも、ましてや私の親や子、親戚、血縁関係の誰だって不足している。無論、ヒロインとして据える存在もまたしかり。故に、私のエゴセントリズムな話を粛々と、正々と、携帯電話でもいじりながら、飲食を優雅に済ませながら、聞いてもらいたい。それが私とのお願いだ。なんせ、私も聞く諸君らもともに気持ちの良い環境で、気持ちの良い一日を過ごしたいだろう? ああ、そこの窓際の貴君。どうか窓を開けてくれないか。外は雨だが、春を告げる土の匂いがどうにも芳しい。それに背景音楽も欲しかったところだ。
ごほん。今から思い出すからしばし待ってくれ。ああ、トイレは行く時間はないよ、いますぐ―――ほうら、もう思い出したからね。
諸君たちは「
と、諸君ら今ぴくりと触手が動いたのならば、この講義の単位をとったも同然だと思ってくれていい。現代は灰色の時代であるが、別に今が初めての灰色ではなく、はるか昔から灰色の時代は存在し、今回はその中の一つの灰色の時代。私と
私はその当時、竜にも乗らず、乗り物にも乗らず、恋人も作らず、世界を旅していた。理由は単純で、さっき話したつまらない伝説を実際に見てみたいと思ったからなんだが、どうにも、さっきの言葉すら覚えていないような携帯ジャンキーが多いようなので、つまりは「動く山」を探していた。当時、世界は広く、そして未開だった。そうすると「動く山」の伝説、ルーモアなんてのが流行った。私はね、まだまだ血気あふれるイケイケバンバンってやつだったもんだから、どうにもそいつを見てみたくなった。最も、今では妻に夜すらイケイケバンバンでないのに、何がイケてるだ。と悪態を突かれ、寝床に入るのすら苦痛なのが現実だが、当時はイケていたんだ。
幾つもの山や湖、川、時には海も超えた。小さな村や大きな街、小国や大国を過ぎていき、砂漠と渓谷が広がる不毛な大地の大陸へとたどり着いた。行く先々で話を聞いてようやくそこにたどり着いた私はすでにだいぶイケてはいなかったが、希望だけを頼りにようやくと言った感じだった。今考えると、きっとそこで彼女に出会わなければ私はすでにここで諸君らに話をしていないし、豚よりもトリュフを見つけるのがうまい豚、いや、嫁と出会わなかったし結婚しなかったかもしれない。だが、そんなことは今は忘れて、ようやくヒロインである、
渓谷にはかろうじて緑が残っていたようで、そこに先住民族のように野蛮な民族が住んでいた。ところが、彼らは私の想像以上に文化的で、私を快く村に招いてくれた。村長は「ようこそ、辺境の渓谷トマへ。この先は最後の土地と我々は呼ぶ、広大な荒れ地と砂漠しかないが、何をしに?」と私に訪ねてきた。当然だ、いい年をした男性が一人で、ある程度の装備しか担がずに何をしに来たのか、諸君らだって聞くだろう。興味がある、危険があるにしろまずは聞く。だからこそ私は素直に答えた「先の巨人に会いに」と。
そう言うと、村長はどうもそわそわとした様子で、そばに立っていた小僧に小さく耳打ちをすると、私の方を向いて小さく咳払いと、それをかき消すように不気味な笑いを向けてきた。背筋こそ寒くはなかったが、何やら不穏な気配はした。背筋が凍るほどのことではなかったがね。何度も言うが。なんせ私は勇猛果敢であり
おおよそ、嘘を隠し通すのが下手くそな村長は私を歓迎すると嘯いた。私も馬鹿ではないから、招かれてやるとまんまと馬鹿だった私はどうにもこうにも酒を目一杯注がれ、女性の柔らかな双丘とその頂点に指や手を這わせた記憶そのまま冷たく、暗い牢屋の中に入れられてしまった。そこは、村長の家の地下室のようで、土倉として使っているのか、地上より幾ばくか涼しいものだったよ。
「………あなたも馬鹿な人ですか?」と、諸君。いまは私の野太いダンディズムあふれる声でしか彼女の言葉を再現できないが、どうだろうか。キュンと来ただろうか。土倉の中で眼を覚まし、蝋燭がぽつと燃えるだけで薄暗い中で私は目を凝らし、その声の方を向いた。するとどうだろう。どうにも土倉に不似合いな背格好をした少女がぽつんと隅に座っていたのだよ。道端に咲く一輪の大輪の花のように少女は見目麗しい顔を泥で汚し、顔を今にも泣きそうに歪めていたのを今でも思い出す。なんせ、それが私と私がその時代を生き抜く糧になったと言ってもいい存在、「白」との出会いなんだから。い、いやまて諸君。いま奥さんは? という言葉が教室の端々から聞こえてきたが、待ってくれ、私は妻も愛している。それに、若かりし頃の過ちがあったとは私は言っていない。まだ、諸君ら貴君らの中での「私」と「白」は健全な付き合いをしているはずだ。これが、三段論法というやつだろう?
ふん。かくして私は白との出会いを果たすわけだが、それがどうにも運命的というやつで、肥溜めに落ちた少年時代の自分を思い出すみたいでね、思わず咳むせて、私は彼女に至極フレンドリーに話しかけた。今であると事案が発生して私は即刻お縄頂戴になるかもしれないが。最も、すでに牢屋にいるんだからと私は然とした態度で対話を進めたよ。
「そうだね、似合わない愁眉を見せる君よりはよっぽど自分の馬鹿さ加減が分かっていない、ひょっとすると将来、豚のような嫁をもらうぐらいお人好しな大馬鹿かもしれない」と私は軽口を叩いたのだが、これはもしやすると未来予知ではないだろうか、諸君よ。どうだろう、私の妻を見て、今の言葉を思い出せば、きっと、「教授はエスパー」というミュージカル映画の一本でも作って、B級映画として売り出すのかもしれない。それぐらい、若かりし私にしては核心を得たセリフ回しだと思うのだよ。うん。
「なんですか、それ。馬鹿みたい」とね、今の諸君たちと全く同じ反応を彼女は返してくれたよ、いや、諸君ら貴君らより辛辣で私の心はきっと傷ついただろう。なんせ、私はその次に放った言葉が「そうですね、おちんちーん」とかそんだか、ごほん。ともかく、私は大人気なくてね、と、いま私の備忘録をとっている速記官の諸君ら、皆皆様方、「
続けると、彼女はくすくすと小さな口から笑い声を漏らし始めた。笑い声のおもらしだ。到底、諸君ら下賤な民には理解できない喜びが私からもあふれたよ。喜びのおもらし、だね。「ふふ、こんな薄暗い、土臭い、最低な場所で、最低な言葉を聞いたのは今生初めてです」随分愛らしい彼女は私に手を差し伸べてきた。「こちらに来てお話してはどうですか、大馬鹿さん」とね。私は心躍ったね。ああ、きっと諸君らも心躍るだろう。いや、特に男性諸君はね。女性に手を差し伸べられる気分というのはどうにもこうにもロミヲとジェリエットを彷彿とさせるようで、それは現代にはびこる性の闇、女男の身分権利主張、男女共同参画社会だとか複雑怪奇で人間が人間であろうとするのではなく、社会が社会であろうとするあがきに翻弄され今を生きる諸君らにはどうにも想像しにくいことかもしれない。戯曲や喜劇、悲劇のなかにはそういったものこそあふれていないにしろ、人間が人間然としたことが溢れている。私はそいうのをこの土倉の中でふとした瞬間、今であれば「白」が手を伸ばした、そんな簡単なことに感じたんだよ、ま、諸君らもきっと最愛の人を見つけた時だけは、私のその気持が幾許か許容できるだろうけどもね。
そんな、ロミヲである私は大して障害でもない小石を超えて、最愛のジェリエットへと手を伸ばし、そこで初めて彼女が雰囲気や喋る言葉からは想像できないぐらい幼い少女であることが分かった。なんせもちもち姫だったからね。もちもち。
「お…重たいですね、あの」と 彼女に手を引かれながら、私はわざとその場にとどまってやった。「どうして動かないんですか?」無論、意地悪だと私は言った。すると白の手はするすると離れていき、手招きへと変わった。私は観念したように白のそばへと歩み寄り、少し距離をおいてその場にへたり込んだよ。おや? いま諸君らの目に不思議な色が宿ったけども、いや、不思議ではないね、薄汚い大人を疑う疑念の色だ。理由は大方想像がつくけども、その、なんだ。私とてペドでもなければロリコンでもない。どのみち、白は友人の彼が愛した「ロー」とは別人だし、わがままでもモーテルで騒ぐ子でもない。だからといってはなんだが、諸君らが私がどうして襲わなかったのかと、はっきり言おうか。強姦しなかったのかと疑問に思うかも、しれないが。それはお節介というか、ミスアンダスタンディングというか。なんいせよ。無粋ということだね。
私と白は二人でお話をし合った。はじめはもちろん自己紹介からで、諸君らのようにSNSの連絡先交換なんて粋な事はできないものだから、生まれから、今までの軌跡、最近の出来事、ここに来た目的、投獄されたわけ。他にも好きなモノとか、嫌いなものとか、馬鹿な話とか、悲しい話とか、幸せだった話なんてのも、沢山話し合った。元来コミュニケーションとはそうあるべきで、そしてそのコミュニケーションから私と白は互いに互いのことをその瞬間、世界で一番知り合う中となったと私は思っている。今でもそうだ。きっと妻よりも深く、子供よりも慕って、白は私を知っただろうよ。おっと、コレは妻には、子供にも言わないでくれよ。一番は一人で足りているだろう? それとも、諸君らの中にワイこそは! という州知事立候補ばりに正々と手を伸ばし存在感を示せる人間がいるとでも? いいや、いいんだ。続けるよ。
さて、白とのお話で私は彼女が「白」という名前を持っていると知った。諸君らには予め言っておいたけどもね。そして白もまた巨人を追ってきた、一人だと言っていた。私はどうにも恋愛脳だったのか、桃色炸裂バーゲン脳だったのか、二進も三進もそれが運命の鐘を鳴らす言葉のように聞こえてしまって気が気でなかった。ト・キ・メ・キというやつだろうか。違うか。見つけた安堵。そういう感覚が近い。近似直線を書けば、私の好感度は右肩上がりだったよ。白の好感度は知らないけどもね。
お話が終わったあと、私と白はそれぞれ部屋の角と角によって寝ることにした。だってそうだろう? 血気盛んな繁殖期のオスとまだ女の右も左も知らないようなうら若き少女が互いに平和を保つにはそれが最も効果的で効率的だったんだ。それに私自身、とても紳士的だったからね。待つよ、私は。まぁいい。それから、私と白の二人揃ってのはじめての朝を迎えたんだ。
初めての朝を迎えた気分は、清々しいわけでもなく、そもそも土倉の中では朝なのか夜なのかすら不明だった。ただ、蝋燭が全て溶けきって、最後の灯火を消さんとするとき、扉が開いてようやく私と白は朝が来たのだと、顔に間抜けな喜びをつけながら私達の朝日を二人揃って浴びていたよ。人間、どうも太陽に浴びないとダメらしいと身をもって実感した瞬間だったよ。
さてと、諸君。閉じられた門が開くときと言うのはいつだって良い知らせよりも悪い知らせのほうが多い。王様の謁見中に開かれる門。遠征から帰還した兵士を迎えた時開く門。中でも最愛の彼女の門を破ろうかと思えば、すでに開いていた時の悲しみやたるや…と、下世話な話題はよしておこう。ここには紳士はもちろんのこと、淑女も大勢いるようだからね。それでだが、私と白はその門を開けた先にいる人間から一つの言葉をもらうことになった。早い話、出て行け。それだけだったけどもね。不思議だと思っただろう? こういう展開の時は大概、捕まった人間は殺されるか、奴隷として一生を過ごしたり、女であればまた下世話な話題になるので言わないが、それ相応の仕事をさせられる、というのが定石だろうと思う。もちろん、きっと村の中ではそういう議論も行われたであろうが、どうやら私と白は見目麗しい淑女が放った一言で事なきを得た、そういうことにしておこうではないか。
しかし、私達は釈放されたとは言え、着の身着のままだった。白ももちろんのこと、私に至っては隠しナイフやらなんやら男だからと入念なボディチェックでしっかりと取られてしまっていた。つまり、白は固く握りしめていたという一欠片のきらめく岩石しか持っていないし、私は白い着替えのブリーフが最後の持ち物という次第になっていた。なに? どうしてパンツを持っていたかだと? それは諸君ら。大人というものはお酒が入ると頭部を圧迫する癖が万人にあってだね。学生たる諸君らは悩み少なくそこまで飲みに徹することもないだろうが、私ぐらいの年齢になるとのみに徹して、豚の妻、その娘、昔の八方美人だった完璧超人彼女の思い出だとか、同級生が何をして、どうこう成功して、ボカァどう失敗して、今を嘆くのかだとか、いろいろな話題に花咲いてね。そうすると結果、目が冷めてみると頭部を圧迫するネクタイだとか、ベルトだとか、そうそうブリーフ、そう! ブリーフだとかをね、巻きつけたり被ったりしたくなるものなんだよ。これも大人への通過儀礼、万国共通語で言うイニシェーションというやつになるんだよ。
私と白は村を出て、渓谷を抜け、砂漠に出た。なに、どうして村の周りにいなかったのか? 準備もなしに馬鹿ではないか? なるほど、正論だ。しかし、艱難汝に玉にす。という言葉があるように、あえてマゾい方へ私たちは向かったわけだよ。幸いにして、私も白も非常に若い。僥倖とはこういうことなんだよ。諸君らは良いことばかりが僥倖と言う。思いがけない幸いを僥倖と感謝感激する。しかしそれでは何ら成長しない。困難を目前に据え、あえて僥倖と鼻で笑うのが諸君らの最もすべきことなのに。まったくどうして。ね。
砂漠に出ると、細かな砂と照りつけるような太陽が私たちの身体を蝕むように体力を奪っていった。実際のとろこ、私たちはすぐにこの強行軍をやめることになる。私と白が二人放り出され、アテもなく砂漠を彷徨くといった荒唐無稽な自殺志願者的行動に勤しんでいた時だった。白がぽつぽつと一つの御伽話を喋り出した。驚いたことに白には語り部としての才能があったらしい。とかそういうわけではなくて、すまん、寝ないでくれないか。私に語り部の才能がないのは知っているが、どうかお話を聞いてくれるだけでいいんだ。私が真に願わくば、諸君ら貴君らがそれぞれの物語に私という味のない煮干しのような登場人物を一人加えてもらいたい。それだけなのだ。だってそうだろう? 語られる冒険譚や奇譚、それに譚詩だってそうだ。すべからく、十把一絡げにこれらは愚かで寂しい人間の瑣末な祈願が成就した稀な例なのだよ。よく勘違いされるのは、伝説の英雄を綴った伝記やその時代を生きる有名人を綴った本は決してその本の主人公である伝説の英雄が、時代の寵児が自らを残すために作り上げたのではない。否、確かにそのパターンもある。しかし、それを綴った人間が自らへの価値の付加を行うために書きなぐっただけかもしれないということを諸君らにはこの講義に出た意義として記憶の片隅にとどめておいてほしい。かくして、諸君らがもし、タレントに、小説家に、歌手に、総理大臣になった暁にはぜひ「私」の名をお世話になった先人として記して、公明正大に口にしてくれたまえ。できれば、どこぞの亡くなってから評価された「たんぽぽの人」のように死してからするのではなく、私が存命の間にしてくれたまえよ。まぁ、私が諸君らより、貴君らより、そう、目の前のお嬢さん、あなたより先に死ぬことは到底無いでしょうけど、な。
と、だいぶ脱線したが講義は五千と四百秒以内で終わらせる。だから静粛に。ざわつかないで。諸君らのざわつきは春蛙秋蝉だ。最も、私のお話も大差ないがね。
話を戻そう。白は一つの御伽話を話した。
「遥か昔。世界がまだ球体ではなく、世界の端と端がまだ異界へと繋がり一つの世界として成立していなかった時代。生物が繁栄し、または世界の始まりと呼ばれた「
私は、そこで一息入れてくれと頼んだが、白はまるでその時代を追憶しているかのように遠い目をして話を続けていたよ。今の私のようにね。
「そして、問題は「東端」にて起こる」
白は、寂しそうに目を細めた。涙の一つでもこぼれ落ちるようならば、私は白をぶん殴ってでもその原因となる男を聞き出そうとしたが、そうはしなかった。紳士、だからね。
「「東端」、即ち、世界の終端。その終端を守る十二体の戦神がいた。彼らはその終端から這い上がろうと、生に縋ろうとする六千六百十二体の「異形」を日々倒していた。時代の変遷とともに数多くの戦神が死に、そして十二体の戦神のうち最後の一神、巨神「カシュガル」。彼が私がおばあちゃんから聞いた話の主人公です」
白は大きく、乾燥した空気を吸い込んだ。きっと砂漠の細かな砂も吸っただろうけど、白は諸君らのように、ましてや貴君のように毎日口元をマスクで隠し、家に帰れば手を洗い、うがいをするような清い人間ではなかったからね、平気そうにしていたよ。最も、諸君らのつけるマスクは空気中を漂うヴァイラスや黄砂、その他塵芥を防ぐ目的ではなくて、自信を自身に。付与するためのアップグレードアイテムといったところだろうか。整形という高額課金アイテムは使用できないから、マスクという低額な課金アイテムに日々小金を費やし、そして男たちを騙す。ところが最近では男もそのアイテムを用いるようになって、国民総マスク着用令でも発布されたのかと私は思ったよ。特に大学の、そうまさにこの講義にでている諸君らだ。どうして、うむ。マスクをつけているのか。口元を隠しても諸君らの美醜は変化しないし、むしろその悪あがきは心の美醜を加速させる。何より、私は化粧に続き、マスクをする女性を信じていない。どうして、仮面をかぶる人間を信じることができようか。ま、ナチュラルメイクはゆるすけどもね。一方で、私の妻だが、どうにもマスクをしても溢れ出る肉汁は防げないし、口からは湯気が立つような悪臭が漂っていて、歯医者ですら音を上げた。それでいて、化粧をしないでいつもいつもいつもいつもいつも三百六十五日すべからく過ごすものだから、私は勘弁してくれと、堪忍袋の尾は切れようにもとうに切れていたから怒鳴れないし、ただ、勘弁してくれと、日々願っているのだが、ふぅん、ダメだね。私にはもう彼女はどうにもできないよ。と諸君、選べる女性が選べる時は、大いに選別し区別し、そこに感情や慈悲を交えず、合理的な判断を行ってくれ。私は、年長たる者としてそう、言いたい。
「六千六百十一体の異形が、仲間たちの死と交換され、最後の異形と最後の巨神カシュガルが取り残された。彼らはそれから悠久の時を過ごし、いつしか、世界はいつの間にか球体を、「環」となっていた。しかし、今もなお戦い続け、彼の地、不毛の大地で彼らはひっそりと戦いを続けている」というのが、おばあちゃんから聞いた話の全てです。と白は言ったよ。そして、白は続けるように「そしていつしか、巨神は生物たちの、そして人々の桃源郷、砂漠を彷徨う大陸となった。異形は砂漠を荒らす大御神として人々に崇められ、恐れられ、この東の地に伝わる御伽話として受け継がれている」と話を締めくくった。私はぽかんとアホみたいな顔をして、隣を歩いていた白を見つめ、立ち止まって太陽の熱線に背中や首筋を焼き付けられながらも、あっけらかんとやはり白を見つめていた。なぜなら、いいや、貴君や諸君にはみなまで言わずともいいか。
白は不思議そうな顔をして私を見つめた。まるで話が飲み込めないようで、私はこの少女は実はおバカさんなのではないかと少し頭をひねったものだ。こんな頭の悪い大学に入学した諸君たちですら今の話を夢うつつにきいていても察することができるというのに。白はトボけた様子でもなく、ただ純粋に「はてな」という顔をしていたんだから、私がそう思うのも当然だというものだ。だがね、諸君よ、特に男性諸君よ。男というものはこういった生物に弱い。どういったわけかね。少し平均より身長が低く、少しか弱そうで、少し気弱な、それでいて自分をしっかりと持っていて、私が反論したり、バカにしたりすると、ぽこぽことムキになって可愛らしい拳を振り回し、私のお腹をノックする。そんな少女に弱いのはどうしてだろうか。父性本能というやつか、いや私は純粋に生命としての庇護欲が溢れでるからだと思っているのだが、そういう女性が好きだ。身長は一五○センチ。体重はちょっと重めの四五キロ。それはもう、愛らしくそして愛おしく仕方がなかった。おっと、いまそこの歴史学者よろしく勤勉そうな眼鏡をかける彼は私にこう、言いたそうにしていたね。「生命の進化の過程を踏まえれば、男性はより優れた女性に惹かれるのが至極当然」だと。たしかに、そうだ。私が上げた好みの女性は有り体に言えば、「ちんちくりん」だからね。とてもセックスアピールが強いとはいえない。一部の崩れた性的嗜好を持った人間にしか興味を抱かれないような鼻つまみ者だろう。中世ヨーロッパであれば確実に馬鹿にされ、糞尿をかけられているだろうね。しかし、今の時代は飽和の時代だ。すでに生命の進化としての過程はほぼ終了した。だってそうだろう? 諸君らは意味のないサブカルチャーという文化に熱狂しているし、化学は科学者だけが楽しむだけの趣味に成り果てた。戦争がなければ、競争なく、競争なければ戦争はない。各地で小さな競争こそ起こるが、国中を、世界中を巻き込む戦争、まして種を争う戦争はここ数百年ない。そんな世の中だ、私のように種の存続のための好みではなく、現文化体制によって獲得された新しい好みに従うことはもはや不思議ではない。と、思うのだが、諸君? ああ、いい頷きだ。ありがとう、ありがとう。
さて、話をもどすとしよう。私はその場で立ち止まり、暑い太陽の熱線から少女を守るように日陰をつくり、白に言った。私達が求めているのはそのオアシスだと。白は驚いたように口をぽかんと開け、途端、あたりを見回し始めた。しかし、オアシスがまだどこにも見当たらないことを確かめると、気落ちしたように私に手を伸ばした。「どこに、いるのでしょうか」白は私の手をとりそっとその未発達の胸に添えた。「この心臓が止まる前に見つけられるでしょうか」少し、詩人臭い言い回しだったが、笑わずに私は白の手を振りほどき、白の頭をなでようとした。そうせずにはいられなかったんだ。その時はね。
しかし、白はその手を拒んだ。少女とは到底思えないような力で私の手は弾かれ、宙を浮かんでいた。女性は好ましくない男性に頭髪を触られることを嫌うというが、私も嫌われていたのだろうか、と不安になったよ。しかし、白は出会った当初からずっと頭に白いターバンを巻いており、少しあふれる髪以外はほとんど出ていない。それに私はターバンの上から手で撫でようとした。だからといってはなんだが、嫌われていないと、そう、信じていたかった。今でこそ、耐えられるかもしれないが、きっとその時言われていたら、私は今頃ツタンカーメンとしてその辺のピラミッドに埋まっているかもしれないね。ま、そんなことはないと私は並々ならぬ自信を持っていたが。なんせ、不肖私は自信家だからね。
白は私の手を弾くと、ぎゅっとターバンを深くかぶり直した。それから、ふいと顔をそっぽ向いて、砂漠をまた歩き出した。私はわけも分からずただ、白の背を追いかけてその場はどうにかやり過ごしたのか、やり過ごせたのか、なんにせよ、私たちはまたオアシスを探す歩みを始めたのだった。それだけが、私と白の言葉をかわさずともわかる必然のことだったからね。これが年季の入った夫婦であれば、やれ食卓のしょうゆを取ってだとか、やれゴミはだしといただの、所帯じみた話になるんだろうが、私たちにはまだそういうのはなかったのが少し悲しいことだったかもしれない。まるで、目的を果たしたあとは何も残らないようで私はその時寂しく感じたものだよ。
それから、何回かの太陽が登ったり、何回かの太陽が沈んだりした。無論、私たちは着の身着のままだから、日々衰弱していった。だから、実際は「何回か」なんてのは嘘で、一日だったか二日だったのかもしれない。しかし、何日にせよ、白が倒れたのだ。
白が倒れたとき、私は焦った。諸君らの最愛の人が倒れたときだと思ってもらえればいい。熱い砂の絨毯の上に倒れる白に対してあたふたと砂を巻き上げるばかりで、ようやくとった行動といえば白の口に持っていた水をすべて注ぎ込もうとしていた。もちろん、水は零れ落ち、砂の上をころころと水玉のように転がり、砂を土に変えていくばかりだった。そこで我に返った私は、すぐに白を抱きかかえ、そして、重たい荷物はその場に投げ捨て、ただ一縷の望みにすがって砂漠を走り出した。諸君。人生というのは艱難辛苦塞翁が馬だ。そうであるならば、予防線というものを張るのが人間の性ではないだろうか。大学受験、高校受験もそうかもしれない。第一志望、第二志望、第三、第四といくつもの次の手を用意しておく。確かに、それが賢く合理的な選択なのは間違いない。だが、決断する時というものはそういった予防線を張ることはできない。博打だ。賭けなんだよ。半か丁か。是が非でもとはそういうことだ。だからこそ、私がとった行動は正しい。すべての重石を投げ捨て、最大限の力を振り絞って白を助ける。それだけが、そのときその瞬間の至上命令だったんだ。たとえ、オアシスがなくとも、村がなくとも、生きる望みがかけらもなくとも、ただ、運に任せて、ドラマラスな展開を信じて、星に彼とのアベックを祈る内気な少女のように。すべては天命が決めてしまうのかもしれない。無論、努力は悪くない。しかし、努力で稼げる確率は九十九パーセント。化学の世界に収率一○○パーセントが存在しないように、化学が模倣する自然界にも一○○パーセントはどんな事象においても存在しえない。だからこそ、夢があるし、諸君らのようなグズでふわりと風にあおられ抜け落ちてしまうような腑抜けな毛根でも、ワンチャンス、おっと、若者言葉でワンチャン、というのかね? ワンチャンあるんだよ、一発逆転の大勝利。ま、大人の私から言えば、博打はやめたまえと言うがね。表向きは。甘美ではあるがね。勝利は。
白を担ぎ、一昼夜を走っただろうか。というぐらい走った時合。広大な砂漠のど真ん中にちょろちょろと湧き出る水分があった。水、というにはあまりにも少量だが、水滴というにはあまりにも多い。そういった表現をするには芸がないので「水分」と言わせてもらうが、いいかね。
水分に引き寄せられるように近寄り、白が浸るようにその水分につけてやると、どこからともなく声が聞こえてきた。「それは私の鼻水だが?」と。
私は驚いた。そりゃあそうだ、砂漠真っただ中。あたりには砂と砂山と草と木と湖と、果物のなる木と、神の声。私は目の周りがカッーァと熱くなり、ひどくめまいがし始めた。白を担いできたのが相当堪えたのか、白の隣に突っ伏すように倒れてしまった。今思えば、このとき突っ伏さなければ私のこの素晴らしい鼻梁はもう少し素晴らしかったろうにと残念に思うよ、諸君らが。何、余計なお世話だと。顔は見てませんだと。どうして今まで突っ伏してその鼻をつぶしていた貴君まで私の顔についてレクチャーするのだね。君のつむじは台風の目よろしく第三の目なのか。ああ、そうだ、そんなわけない。続けよう。
目を覚ますと、あたりは南の国のようで軽く肌でも焼いてこうかしらと貴婦人が申しそうなぐらい、丁度よい日差しと日陰のコントラストに砂漠の枯れた風に潤いをもたらすほどの美しい湖が広がっていた。ここが夢にまで見たオアシスだろうかと私は思わず頬をつねったよ。しかし、すぐ隣に白がいて同じように頬をつねっていたもんだからどうにも耐え切れなかった私は白の頭を撫でようと手を伸ばすが、思いっきり「無理です!」と弾かれて我に返ったよ。女性に拒絶されるというか殴られるのはどうにも物理的ダメージよりも精神的にくるもんだよね、ね、諸君。違う?
白は現実だと理解すると、目を輝かせ湖に飛び込んでいった。小さく華奢な少女が水辺に飛び交う白鳥のように水面を飛び跳ね、水を体いっぱいに浴び、太陽みたいに笑っている。ふと、立ち止まり、こちらを振り向くと、白の薄い桃色をした唇はたくさんの水滴で潤い、つやつやと艶めかしく輝やかせ、悪戯娘のようにはにかんでみせた。白の真っ白のローブは水気を吸って四肢にぴぃたりと張り付き、柔らかな女性の、それでいて幼さを残すカーブを描き、私を魅了していた。張り付いたローブからはみ出す発育の良い、口にすれば程よい弾力と少女の甘い香りに洗脳されてしまいそうな太ももは、水滴を拒絶するように弾き、流し、汚れた少女の体を美しく磨いていく。そんな白が振り返れば、張り付いたローブが少し浮き出た肩甲骨の幼さを象徴するように映え、細く華奢な腰回りから、小ぶりでありながらも程よい反発係数を持ったようなお尻が実に情緒的で傲慢にも太陽に手を伸ばしたイカロスの気持ちもわかるというものだった。なお、私はロリコンではない。断じて。
白が遊んでいる間に、私はオアシスを一回りしていた。広さは丁度この学校ぐらいで広いとも狭いとも言えない、ちょうどいい塩梅というやつだった。中央に白が遊ぶ透き通る湖が揺蕩い、周りを星の砂のように細かな砂が敷き詰められている。湖は浅いのか白の背丈でも問題ないくらいで、白も不便なく水と触れ合っていた。私と言えば知らず知らずに丁度良い木陰で座り、湖に足を浸していた僕は白の姿を遠くからぼおっとまた、見つめなおしていた。ぼおっと見つめていると、白以外の人影が湖の真ん中にいることに気付いた。とっさに私は白に声をかけようと思ったが、それより早く白はその人影に気付き、そして近づいて行っているようだった。
私は動揺を隠し、白が殺されないか不安でたまらない心を抑え込み、浅い湖をかけていった。近づいていくと、どうにも人というよりは人影に見える石の造形に見えた。しかし、どうにも白はその石造にしゃべりかけているようにみえ、私は不安ではなく、興味から駆け足で白に近づいて行った。そして、ようやく私の悪い瞳に移ったのは小さな石像だった。さあ諸君よ、待ち遠しいかったな。ようやく来るぞ、お話の始まりだ。
「君は?」と白が石像に話しかけた。石像と思ったそれは、人型の造形を取り、顔面には不釣り合いな木製の仮面が取り付けられていた。昔の私であれば必死の形相で逃げ惑ったか、護身用のショットガンでその仮面をぶち抜いていただろうが、どうにも白が、隣に最愛の女性がいるとそういう臆病なことや野蛮なことはできないもので、私はおとなしく白に彼は誰だと尋ねた。すると、白は何と答えただろうと思う? 「彼は幼人です、ですよね?」というんだ。しかもその石造も「モル」と一言だけ、石の擦りあうような耳鳴りに近い音でしゃべるもんだから、私は思わず耳を抑えたよ。白は平然とその「少年」、と話していたがね。
モルと白はずいぶんと仲良くなったようで、おじさんはすっかりのけ者になっていた。諸君よ、のけ者の気持ちというのはのけ者にならないと気付かない。それも信頼していた人からのノケじゃないと気付かない。どうでもいい人間たちにのけ者にされてもそれは、選び取った孤高だからね。孤高は至高と紙一重。諸君らも、貴君らも同様に気高くあってくれたまえよ。
次の日だった。白とモルは同世代の友達、だろうか。とりあえず、心年齢の一致する友人ができたことがうれしいのか夜遅くまで話し込んでいたようで、私は地鳴りのような音と湖のせせらぎを聞きながら安眠していたわけだが、朝起きると、二人ともその場におらず、オアシスの端に一本だけのけ者のように生えていた木のもとでしゃべっていた。ところで、私はいまだにこの幼人モルが雌なのか雄なのかの議論をふと、夜長の九月やら十月なんやらに草枕を高くして悶々としているわけだが、ああそうだ、これがいい、講義終わりの出席表はそれの投票をしようか。「幼人モルは女か男か、また各々の利点と難点を挙げよ。また感想をかけ」というものにしよう。前半を三十点、後半を七十点の中間テストにするからよく考えておくように。なに、肩の力を抜いて、ゆらりゆらりと外から聞こえる雨音のビートに心を乗せて書いてくれたらいい。自然体でね。話を戻そうか。
寝ぼけ眼で白たちを追っていくと、突然地鳴りがした。モルのしゃべり声とは比較にならないとても低い重低音のような地鳴り。驚いて私はしりもちをついていたが、これが幸いだった。なんせ、ちょうど私の一寸先はクレバスよりも険しい闇が待っていたからね。伽藍というのか、口腔というのか。高校生の高校ではないよ、口の口腔だよ、何を言っているかって? そのままなんだ。
大きな口は、言葉を紡ぎ、私は思わず頭を押さえた。頭を直接ゆする振動は居心地が最悪で、平然としている白が信じられなかったほどだ。必死に、頭を押さえ、その口が紡ぐ言葉を私は聞き取っていった。「奴がくる」とその口は大地を震わせた。
白とモル、そしてその口の主でありオアシスの主である巨神の話を聞いていると、巨神の名はカシュガルといい白が求めていた十二の英雄、巨神カシュガルに違いなかった。その名を聞いて私は安堵の半面、憎たらしく思った。この出会いと実在した巨神カシュガルという存在に。だってそうだろう? 諸君よ、貴君らよ。物語の終わりは、出会いにある。白と私が出会ったことが物語の始まりならば、白とカシュガルが出会ったことが物語の終わりになる。私はそのとき、カシュガルと話す白をじっと見つめていたよ。これから起こる全てが、スポーツマン的に言えば一挙手一投足が終わりへとつながるのだと。
カシュガルは多くのことを語った。それは息子か娘か、幼人モルに自らのすべてを受け継ぐためなのか、白のために紡ぐ物語なのか。白とモル、そして私は地鳴りのような音に耳を傾け続けた。今となってはもちろん、その話の内容なんてのはあまり覚えていないが、ただ一つその話の中の一部はいまも覚えている。「いつしか仲間が絶え、そして世界が環となったとき。私は私の存在意義を問いただした。そしてたどり着いた結論が、最後の異形を打ち倒すことだけだった。」と。感情のこもっていない、ただつらつらと意思のみを表した言葉だったよ。悲痛とはいいがたい。すべてを決意した、人間的に言えば漢らしい言葉だったと思う。私はね。
そして、次の日、だっただろうか。私と白の間であまり過ごした記憶はないからおそらく、次の日だったと思う。オアシスが胎動を始めた、と言えばなんともイメージしがたいが、カシュガルが動き始めたのだった。
カシュガルは「行かねば」とただ一言、地獄の底をこするような音で言ったあと、モルと白、そして私を肩の上に乗せ、すっくと砂漠の地に立った。かつて乗った竜の背より無機質で血の気のない、それでいて高級ホテルの湖岸が望めるエレベーターよりも乗り心地の悪い、いいとこなしの乗り場にへたり込むようにして、私たち三人はカシュガルにしがみついた。オアシスの木々がまるで巨神の鎧のようにカシュガルを包み、そして湖が砂漠の砂に粒となって取り込まれていくと同時にカシュガルは歩みを始めた。私は白やモルにどこへいくのかと再三聞いたが、彼女たちはただ手をつなぎ、固く握りしめてた。「モル、あなたはいいの」白は手をつなぐモルにそういった。私は意味も分からず、私も白と手をつなぎたいなと思っていた。凡夫ここに極まれる。そんな姿に興味も示さず、モルはただ怯えたように白の手を握り返した。それが、モルの白に対する答えなのだろう。私は少し、のけ者になった気がまたして気が気でなかったがね。すまないね、矮小で。おっと。いや、いい。
そして、カシュガルが足を止めた。諸君よ、ああ、貴君もだ。ここから先は閲覧注意というか、音声注意というか、過激な表現が多くなるから、いやな人はそのィヤフォオンをかけてもいい。人間得手不得手があるからね。私はそこのところ融通が利くことで有名だ。まったく、ここは最後の笑うところだぞ?
カシュガルが足を止め、一匹の影がカシュガルの前に姿を現した。のちの歴史に語り継がれる東端より生まれし、最後の異形「大御神ノヴリスク」。互いの存在意義をかけた殺し合いが始まった。
カシュガルは白やモル、私を少し遠くの砂山に下すと、級友を待たせないようにそれでいて静かに、ノヴリスクのもとへと進んでいった。
大御神ノヴリスク。世界最古の侵略者。そして、再生と渇望の業を背負いし異形。巨神カシュガル。世界最古の守護者。そして戦いのみを目的とする戦神になった岩石。互いに対立するように仕組まれた人形。フォークにはスプーンを、左手には右手を、チョコにはガムを、空には大地を、悪には善を、心には体を。もちろん、私には白を。相反し、相交じり、それでいて互いの存在を肯定しあい、存在証明を行う非シュレーディンガーの猫。誰にも認知されなく、それでいて存在することを是とするよりも、誰かに認知され、それでいてさらに存在することを求めた強欲の結果だろうか。少なくとも、彼らはそうだったのだろう。だからこそ、の結末。
巨神が跳躍する。異形が太陽の光に眼球を焼きながらも決して視線を外さずに巨神を追い続ける。跳躍からの急降下。その巨体を生かした無粋なほどに愚直で直線的なプレスに真っ向から異形は頭突きをする。巨神の腹部の装甲が砂のように崩れ、異形の頭部から血が飛び散っていく。頭突きによって大きく宙に飛ばれた巨神は、巨体に似合わないほど静かに着陸し、頭部から血を流す異形は特にひるんだ様子もなく、ただその姿をにらみつける。
互いに笑っていた。地鳴りのような笑い声と超音波のように不愉快な音が重なり合い、砂漠の砂粒をぶるぶると振動させていた。白とモルはその姿をじいと見つめ、私はただ、耳を押さえて凡人としての体を取らざるを終えなかった。
異形が地面から刀剣を引き抜く。砂の滝を作りながらも砂漠から引き抜いた大剣は悠久の時を感じさせないほどに砂漠の太陽を反射していた。特に華美な装飾もなく、ただ単に粉砕し叩き潰すことを目的としたようで今までの巨神が砂塵に返される風景が浮かぶようだった。巨神はその仲間を屠ってきたであろう武器に恐れることなく、無骨で巨大な盾を砂塵から引き抜いていく。そして、異形が構えるよりも早く巨神の踏み込みと殴打。異形の血が出る頭部をさらに追撃しようとするが、当たる前に後ろに下がられ、返しの太刀が上空から迫ってくる。盾で受け止めると、そのまま流し、足元で大瀑布のごとく砂が散った。瀑布をかき消すように盾での横なぎをするが、大剣を支柱に宙を舞い、巨神の背後に異形が立つ。大剣から手を放し、一気に巨神の心臓へとその高質化した手指を突き刺し、そして血が噴出するかの如く大量の砂をまき散らせながら、巨神唯一の有機物を引きちぎり、そしてあっけなくつぶした。
悲鳴もなく、雄たけびもなく、ただ、機械的に急所を狙い、そしてとどめを刺した。それだけだった。
モルが泣き叫んだ。そして、白が泣き叫んだ。私は白とモルを抱き寄せたが、きっと意味はなかっただろう。私は部外者すぎた。その場に最も不必要な存在だった。確かに物語の紡ぎ手としての役割は果たしたかもしれない、今日を境にね。だが、それでもあの孤独感は思い出したくはない。
白は私の腕を抜けだし、そして走った。ゆっくりと倒れる巨神に近づき、そして大地に静かに横たわった巨神の頭にキスをした。私ですらしてもらったことはない、キスを。愛のこもった、慈愛の接吻を私は見ていた。
気付いたら私は走っていた。白に逃げようと言おうとしていたのだ。一刻も早くこの危険地帯から逃げねばと私は思った。モルとかいう石っころはどうでもよかった。ただ、白と私が生き残ればいいやと思った。だからこそ、白のもとへと走った。しかし、私の足はどうにも人間的な歩幅しか持ち合わせいなくてね、間に合わなかった。
死んだと思っていた巨神の手が白の薄い白いローブをつかみ、持ち上げた。異形は最後のとどめと大剣を天高く振り上げた。きっと十二人の巨神だけではなく、幾万もの巨神をすりつぶし、この砂漠の海を作り上げた破壊の大剣を堂々と、恍惚とした表情で掲げた。巨神は、小さく何か言葉を発すると白を口の中に放り込んだ。そして、大剣が振り下ろされた。
諸君らには、もちろん、貴君らにもここで二つの選択肢が与えられる。それは、私からの提案でもある。このままこの危機を奇跡的にも回避して無事に白との逃避行を達成し、その時のショックが原因で廃人同然となった白とともに余生を過ごす結末を望むか、スペースロリータ的理論にもとづく、伝統的結論を求めるか。もちろん、私としては、自立したといえどもまだまだ親の庇護下で尿素の香り漂う学生諸君には過激な表現は慎みたいと教育者倫理的に思っているからして………という建前でここで講義終了のベルが鳴らないかとちらと時計を見るしぐさすら馬鹿らしいだろうか。それでも、諸君らには、無垢なまま生きて、死んでほしい。ま、今からそんなことを気にしていても仕方はないけどね。だあから、仕方ない。最前席に座る貴君も雨音に心を揺らしながら風情を楽しんでいる貴女も、求めているようだ。いいだろう、お話は真実をいこう。それが、しがない老人ができる償いなのかもしれない。
大剣が振り下ろされた。しかしその切っ先は巨神ではなくただ砂を巻き上げるだけだった。そして砂塵を吹き飛ばすように横なぎの風。大剣の中腹を巨神の裏拳が強打し、真っ二つに大剣を吹き飛ばした。私の左右に柄側の破片、剣先の破片が穿つように砂漠に刺さった。しかし、私はその場所を動けなかった。恐怖ではない。別に私が英雄的な勇猛果敢を持ち合わせていたというわけではない。どちらかと言えば、目のまえで初孫が初めてのぼっとん便所で私の介助なしでしゃがみ、そしてそつなく排便を行い笑顔でもちのようなお尻を拭く光景を見ているのに近い。どうしてキャメラを持ち合わせていなかったのか、どうして私に絵の才能がなかったのかと憂うほど後悔した。だから精一杯のあがきとして私は臆せずその光景を見つめていた。
大剣を吹き飛ばされたことを理解するより早く、異形は飛びのき、次の剣を砂漠から引きずりだした。先ほどの剣よりは細かったが、続くように二本目の剣を引きずり出した。一対であることが自然であるような装飾が施された双剣。一体いつの時代に創造され、ましてや本当に異形である彼らの作り出したものかすら定かではないが、異形である彼が持つことはまるでパズルのピースがはまるようにしっくりと絵になっていた。
異形が双剣を構えたままじわりじわりと後ずさる。生命の本能として異質なものを拒絶するのか、それとも先ほどまでの巨神とは違う雰囲気を感じ取ったのか、一拍の動作では互いに手も出せない距離にまできた。
起き上がった巨神はただただ異形を見つめていた。手に武器持たず、威嚇するでもなく、宝石のようにきらめく瞳で異形を。
巨神が砂を抉るように大地を蹴り飛ばし、異形にぶち当たっていく。双剣で防ぐが、足りない膂力の分だけぶっ飛ばされ、砂糖菓子のように剣は崩れ落ちてしまう。勢いを殺すことなく、異形は突進の力を受け流すように巨神をしたから蹴り上げ、ようやく巨神の突撃から逃れ、巨神は弾かれたゴムボールのように上空に飛んだ。が、背中から伸びる一本の黒く濡れた触手が異形をからめとっており、手繰り寄せるように異形を引っ張る。抵抗するように砂の中に手をつきさし、地盤を直接手でつかむ異形。対応するように巨神は最後にめいっぱい触手を引くと、自切し引いた時の力を利用して弾道ミサイルのように異形へと突っ込んでいき、地盤から手を引くのが数舜遅れた異形の背に痛烈な一撃が入る。
異形と言えども、超常現象的な回復手段も持っていなければ、魔法のような便利なものもこの世界には存在しない。至極直接的で物理的な攻撃にこそが最強だった。
離脱しようとする巨神に向かって振り向きざまの回し蹴りと続く巨神頭上からの裏拳による落とし拳。回し蹴りには右肘を、そして頭上への拳には左膝を当てがい、異形の左足、右拳からは砂漠に不釣り合いな破壊の音と、血の雨音が響いた。
赤く染まっていく岩石と砂の巨人は、まさに戦神と呼ぶにふさわしく、私は彼の時代にはこの砂漠一面に赤く染まった戦神が立ち並んでいたのかと思うと、武者震いが止まらなかった。現代人たる諸君らに例えるならば、歴代ジャニーズが日本武道館に勢ぞろいしているシーンか、ヒーロー戦隊もので崖の上に全員がそろっている場合か、もしくは、いや、これでいいか。
出血を気にせず、研ぎ澄まされた左の手刀で巨神の頭部を貫こうと異形は動いたが触手がからめとり、左腕を捻り、ちぎり捨てた。その様を見下すように仁王立ち、触手を背後でうねらせるその姿はどちらが疎まれるもので、好まれるものなのかもはや私にはわからなかった。むしろ、カシュガルこそが世界を滅ぼさんとする敵ではないかとすら思ってしまった。あの中に白がいるというのに。
触手が伸び、異形の残る両足、右腕、そして腹部と突き貫いていく。動こうと暴れるが触手がそのまま巻き付いていき、異形の動きを完全に制限する。ゆっくりと巨神が歩み寄り、空く右手を振り上げ、拳を握りなおした。そして、異形の頭部めがけて一気に振り下ろした。異形の頭部ははじけ飛び全身から力が抜けていく。吊られたマリオネットのように異形が力なく触手に吊られ、て、いるかと思った。
触手の制止を振り切るように最後の力を振り絞り、渾身の蹴り上げがカシュガルの喉から下顎までを抉りとった。血ではなく岩と砂が零れ落ちそして露出した。白が。
巨神カシュガルの中は岩石ではなく色黒く艶めかしい触手が這いずり回り、そして口腔上からぶら下がるように白が存在していた。さんざん隠されていた白の頭部からはカシュガルの全身をめぐる触手が伸び、白がこの土の人形を操っていたのは明白だった。
湯気の立つ首元から、白が触手に吊られるように徐々に降りてくる。カシュガルの胸部、腹部と通り過ぎ、そして地面に降り立つと、黒く長い触手を一気に引き抜き、骨の抜けた人形となったカシュガルはその場に崩れ落ち、白は不気味なその触手を頭部にすべて納め込め、ポケットから白いハンカチを取り出し、巻き付けた。その白の元へ私はすぐにかけていった。
「かしゅ、カシュガル………。死んではだめです! 死んでは…。あなたはこの数百年間一人で生きてきた。ここで死ぬのは確かに、確かに、確かに…よい、こと、なのでしょう。ですが…ですが…。まだあなたは生きてもらわないと、だめです。死なれては、私は、私は…」
少女のような小さな拳を握りしめて、頭部しか残っていないカシュガルを強く叩いた。灼熱の太陽がその力を余すことなく白を照らし、白から流れる涙で乱反射する。小さな太陽がそのしずく一つ一つに宿ったように煌き、そして砂漠の枯れた土に埋もれて消えてしまう。
「私は、誰に、誰と…! 殺され、そしてそれまでを生きればいいのですか?」白はぽつりと言葉をこぼした。その言葉に恐れることも驚くこともなく私はただ白の袖をつかんだ。今度こそ逃げねばと思ったのだ。ここにいては、白は心のない人形になってしまう。心のない本当の異形になってしまう。その恐怖のほうが私の中ではすべてを制し、こみ上げてきていたのだ。
私の目にはカシュガルも、モルも、表情のない岩にしか見えてはいなかったが、その時のカシュガルの表情はいまでも私の目に焼き付いている。いやな意味でね。最低な意味でね。いやな記憶ほど覚えているというのは人間の悲しき性だろうか。動物として殺されるその瞬間、動物として仲間が殺されるその瞬間は悲しく、「嫌な」瞬間だろう。だからこそ、後世にまで痛烈な記憶としてデオキシリボ核酸にすら刻み込まれているのだろう。それと同じだ。この物語にでてくる私は決して私本人ではないかもしれない。しかし、系譜としては私本人に他ならない。だからこそ、今でもその顔を思い出すと、私は、貴君よ、諸君よ、君らに見せられない最低の顔になってしまうんだよ。だから、今しばらく、顔を伏せておいてくれ。お願い、ではないが。
白を引きずり、私は砂漠をアテもなく歩いていた。白に幾度となく、心配の言葉をかけたよ。しっかり歩いてくれ。あいつのことは忘れろ。あと、俺が隣で一緒に生きて、お前を殺してやるだとか恋愛の小言じみたことも言ったよ。だけど、何一つ彼女の耳には届かなかった。私の言葉は白を貫く言葉ではなく、みじめな自分を貫く言葉にしかならなかった。諸君らが愛する彼女に一方的に振られたとき、諸君らはあがくだろう。僕はまだ君を愛している、僕はあれだけ愛したのに、僕はまだあきらめきれない、僕の何が悪いんだ、いくらでも罵倒するように悲願がこぼれだしていく。しかし、その言葉のすべてがその言葉を吐き出す自分を傷つける諸刃の剣だということは全てを吐き出してからではないと気付かないのは、どうして人間はこうにも馬鹿で、一時の感情に左右される、もしかしたら類人猿から何も進歩していないのではないかと思わざるを得ないぐらい、愚かだと私は思っている。
歩き、しゃべりかけ、私は一人で泣いていた。独り言のように自分を責め続ける白を引きずり、そして白を連れて生きようとする私は限りなくあほだっただろうと思う。だけど安心してくれ、白が私の今の妻ではなく、愛人でもなく、娘でもない。それが何を意味しているか、それがどういう結末をこの後すぐにもたらしたかということか。簡単な話だったよ。
私が白を引きずっていると、後方で砂が巻き上がった。砂塵を巻き上げ、一本の白刃が白の腹部から突き出、大地に華奢な体を縫い付けていた。
白刃の骨を伝い、白の血が大地へ注がれていく。
「よ、かった。きっと…モル、ですね。最後の戦神としての使命を受け継ぎ、最後の異形として隠れ潜んでいた私をしっかりと、こうして…」
白は突き刺さる骨を抜くことなく、そっと両手で触れ、そしてその場に倒れこんだ。私は手を差し伸べるが白はそれを拒否し、高温に熱された砂漠の床に寝ることを望んだ。
「あなたに、一つ言い忘れていました」私は何だと白に聞いたよ。
「私は、頭を一度も撫でてもらったことがありません」私も拒絶されたからね。
「ですが、頭を撫でてもらいたいのです。一人の、たった一人の少女として」それはまた、どうしてと私は尋ねた。
「知っての通り、異形と戦神はその役目をもはや形骸化された、伝説のために生きていた人形にすぎません」
「しかし、私とモルはもっとひどい」
「生きる意味はなく、偶然生み出されてしまった本当の、伝説に乗らない、最後の異形と戦神」
「カシュガルとノヴリスク。彼らが死ねば私たちは」
私には、白が何を言い出しているのだろうか。とそのことばかりが頭の中で反芻されて言っていることの内容なんて何一つ理解できていなかった。ただ、おびただしく流れていく血を、血の本流を眺めながらそれが砂に吸い込まれ、血の砂球を作るのをじっと見つめていたよ。
「私たちは、普通に生きれると思っていた。だけど、そんなことはなくて、私はもっているこの気味の悪い外見のせいで、モルは見ての通り、言葉すら人間と同様にしゃべれない。そんな私たちに生きる世界はない。だからこうして、私たちはただ確実に死ぬために存在していた」白は目を閉じた。
「だからこそ、私最後のお願いは、モルを、あなたが殺して」白は手を伸ばした。私はその手をそっと取ると、優しく握り、そして手を離した。そして、私の耳にはひどく耳障りな音が遠方から嫌味のように聞こえていたよ。今でも夢に出る。
白がどうなったかは、私は口にしたくもないからいうことはしないが、きっとまがいなりにも大人である諸君らには理解できているだろう。まぁ、小学生でも察することができるのがこの日本という国の、他者を思いやり、他人の意を汲むという文化の最も際立つよいところかもしれない。
ーーー
あ、ああ。チャイムか。
今日は、気分が悪いから提出物はまた来週にでも出してくれ。
それと、来週の講義は外部で行う予定だから、また掲示板を見ておいてくれたまえよ。
それでは、諸君よ貴君らよ。また来週だ―――何? 先生、そのキーホルダーかわいい? 貴女の頼みであれ、そうだね、このキーホルダーはあげないよ。それでは。
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