第2話 皇子ジラルド‐2





「ふう……」

 仕事が片付いて、ようやくジラルドは居室へと帰る事を許された。

 皇子として、ジラルドは王宮のはずれに私邸を一つ持っているのだが、そこへは帰ったためしがない。執務室を兼ねた私室は、侍女と共に寝起きしたとしてもまだ十分に余裕があった。何より窓のない浴室を、彼女はいたく気に入っていた。

 一度戻って、このきついコルセットをどうにかしたい――ジラルドはこっそりと服の上からコルセットを引っ張りながら、侍女の姿を探した。 昼飯は食べ損ねた。

 厨房に顔を出せば、気のいい料理長は働き者の皇子のためにいくらでも賄を作ってくれるのだろうが、夕食の支度に忙しい彼らの手を煩わせるのも億劫だ。

 とにもかくにもジラルドは疲れていた。

 バルゼイと共に朝食を取ってからずっと王宮の中で歩き回っていたのだ。

 日は数刻前に中天を通り過ぎ、夕方とは言わぬまでもすでに真昼とは呼べぬ時間だ。腹を空かせて自室に帰ると良い匂いが漂ってくる。ジラルドは彼女にしては珍しく期待に顔を綻ばせた。

 扉を開ければ、思った通り。

 乳白色の調度で統一された広い部屋の向こう側、大きな窓に面したテラスに華奢な作りのテーブルが二つある。その二つのテーブルへ溢れんばかりに料理の皿が置かれ、側で一人の給仕が退屈そうにティーカップを弄っている。

 しかし部屋の主が帰って来た事を知ると、遠目にもそれと分るほど目を輝かせた。

「おかえりなさいませ!」

「ティルダ! ああ、ティルダ! 愛してる! 探していたんだ! 美味そうだな、私もご相伴に預かって構わないか」

 それこそ第一皇子に憧れている他の若い給仕達が見れば、卒倒しかねないようなはしゃいだ様子で、ジラルドはテーブルに駆け寄る。大きな声も、おどけた台詞も、およそいつものジラルドの態度とはかけ離れていた。

「待ちくたびれましたよ、ジラルド様。私も腹ペコですわ」

 そう言って口を尖らせる給仕は、ジラルドよりも十近く年上であるとは思えないような可憐な顔立ちだ。つんと上を向いた鼻に愛嬌がある。給仕の制服である膝丈のスカートから細い脛が覗いていた。

 彼女の名はティルダ・ミトレ、第一皇子付きの女官である。

「今日はサーモンのパイを作ったんですよ。それから牡蠣のスープと松の実と鹿肉の冷製です。冷製は大丈夫ですけれど、他は冷えてしまって……」

 言われてジラルドは困ったように首筋を掻く。

「前にも言ったろ。私を待っていなくても良かったんだぞ」

 ティルダはつんとそっぽを向いた。

「そういう訳には参りません」

 そのくせ弾んだ足取りで、ポットを抱え、備え付けの水場に向かう。

「お料理は冷めてしまいましたが、せめてお茶は温かいものをお作りしますわ」

「すまない、ありがとう」

 ジラルドは琥珀色の瞳を柔らかく緩めて、ティルダの華奢な背中を見送った。


 ティルダがこの王宮にやって来てもう十年以上になる。

 奉公に出されてすぐに、彼女はその聡明さを買われ、バルゼイとジラルドの遊び相手兼お目付け役となった。勿論彼女の他にも皇子二人を見守る家臣は大勢居たのだが、子供達が遊びに行く先々へまで付いて行くには、やはり年の近い者が適任であったのだ。

 そして、ジラルドと間近で接するうちに、彼女は第一皇子が娘であると知った。

 それゆえ、今ではジラルド専属のメイドとして働いている。

 しかし、元より人の手を煩わせるのを好まないジラルドである。彼女がするべき仕事はごくごく少なかった。ジラルドは彼女を大層大事にしていたので、彼女がその立場に不満を覚える事はほとんどなかったが、こうして長い間一人にして置かれると、さすがの彼女も退屈する。

 彼女の退屈を表すように、ジラルドの私室は完璧に整えられ、塵一つない。

 紅茶を注ぎながら、彼女はさっそく小言を開始した。

「ジラルド様、こんな時間までお仕事ですか」

 次に言われる内容を予想して、ジラルドは早口に言い募る。

「今日はもう特に何もない。ちょっとした書類に目を通して、あとは読んでおかなければならない本があるくらいだ。夜も今日は何も……ああ、ニムス宰相が時間を取ってくれと言っていたな。まあ、どうせ軍部の文句を聞かされるだけだろ」

 王妃には「貴女でなければならない仕事など何もない」と言われたジラルドであった。実際、その通りだと彼女も思う。だがジラルドは今まで、皇子として果たすべき役目を率先して行ってきた。城の者は当然、ジラルドにそれを期待する。彼女が城内を歩いていれば頼まれる仕事などいくらでもあった。

 そもそもパルトーには内政に携わるべき王家の人間が絶対的に不足しているのだ。その原因は現パルトー王ドラトにある。ドラトはその奇抜な策と鬼人のような戦いぶりから、軍神の生まれ変わりとまで言われた戦の申し子である。現在の広大なパルトーの領地の半分が彼の代になってから版図に加わったという事実からも、彼がいかに卓越した王であるかが分る。

 彼は戦場での苛烈さに反比例するかのごとく、敗戦国の民に対する寛大な処遇で知られていた。そのため彼を優れた戦術家であり人格者と崇め奉る者も多いが、おそらくそれはただ単に、彼が闘わぬ者に興味が無かったというだけの事であろう。

 その証拠に、大陸中の反乱分子をことごとく叩き潰し、友好的な国々を傘下に治め終えた今は、宮廷に居る事すら稀である。自由気ままな彼は今日も朝から出かけて行ったと聞く。家臣達が噂するところによれば、既知であるカスパーザ家当主ビョルン・カスパーザ公爵と共にスキリア帝国から輸入した最新式の軍艦を見に行ったそうだ。

 お気楽な事だ――ジラルドが恨めしい気持ちになるのも無理はない。

 国を大きく広げ、外交相手や煩雑な仕事を増やせるだけ増やしておきながら、自らはその管理を放り出して放蕩三昧。

 奔放な国王の穴は王妃が埋めていたが、王妃は多忙だった。重要ではないが無視も出来ない仕事は、全て第一皇子に回ってくるのである。孤児院の視察、外国の姫君のご機嫌取り、年老いた貴族の昔話を聞いて相槌を打つ。最近では、財政管理に関しても相談されるようになってしまっていた。

 城の者達とて第二皇子バルゼイの優秀さは知っている。

 しかし彼の険のある態度や癖のある言動、荒い気性を思えば、穏やかな第一皇子に頼み事が集中するのも無理はないと思われた。ジラルドの頼られると嫌とは言えない性格や、自ら良き王位後継者たろうとしている事も、それを助長しているのであろうが。

 多忙な第一皇子は、侍女を嗜めるように言った。

「私の仕事など、雑務ばかりだ。たいした事は何もしていない。それに午後はもう暇だ」

「午後はって、ジラルド様、もうすぐ夕方ですよ。働き過ぎです」

 ティルダはパイを切り分ける手を思わず止めて、呆れた。

 まるで言い訳になっていない。

 昨日、ジラルドが真っ青な顔をしてバルゼイに運ばれて来た時、彼女は肝を潰したのだ。

「昨日の事もありますし、今日は本当なら一日中部屋で休んでいたっていいくらいです。バルゼイ様も今日の朝お部屋に見えましたが、たいそう怒ってらっしゃいましたわ。ジラルド様を心配してらっしゃるのです」

 ティルダは今朝の第二皇子の様子を思い出す。

 今朝、バルゼイは二度もジラルドの私室を訪ねた。二度目の来訪では、兄を探して走り回った後だったのか、息を切らし、怒りを湯気のように立ち上らせていた。

 ティルダの言葉に、ジラルドは器用に片眉を吊り上げた。

「あいつが? はっ! まさか。それが本当ならば、もう少し皇子としての仕事をこなしてくれたらいいと思わないか。そうしてくれたら私もゆっくり休めるというものだ」

「まあ、それはそうですけれど……」

「今日もほとんど王宮に姿を見せない。どこで何をやっているんだかな。全くあの親子は……」

 ジラルドが溜め息混じりにこぼすのは、勿論国王ドラトとその息子バルゼイの事である。父も息子も最近は、朝食が済むといそいそとどこかへ去っていく。

 父の方の奔放さは今に始まった事ではないが、バルゼイが姿を消すようになったのはいつからだったろうか――ジラルドは記憶を辿ったが、はっきりと思い出す事は出来なかった。

 昔は何をするにも自分の後を付いて来たものだが、彼も大人になったという事なのだろう。ここのところ急に逞しくなった弟を思い浮かべると、少し寂しいような気もする。しかし、そんな自分をジラルドは懸命に無視した。


 ――私はあとどのくらい彼の兄で居られるのだろうか。


「王宮は今とてもお忙しいようですね」

「ん……ああ、いろいろあってな」

 物思いに耽りそうになったジラルドを、ティルダの気遣わしげな声が引き戻した。

「軍が毎年食い潰している額はティルダも知っているだろう」

「ええ。穀倉がいくつあっても足りぬほどとか……」

「世界最高と謳われるパルトー軍だ。あれだけ巨大な組織なのだから仕方の無い事とは思う。だが、ここ十年は戦もなく、王妃様の計らいで国境付近にも火種は見当たらないようだ。ティルダは兵達が今何をして暇をつぶしていると思う?」

「存じませんわ」

「ゴルデス河の堤防を造っている」

「堤防を……軍人が、ですか」

 ティルダは思わずと言った風に繰り返した。ジラルドは頷く。

「別にやったって悪かないが、軍の仕事じゃない。少なくとも専門の職人や人夫達から仕事を取り上げてまですることじゃないだろうな。民が軍の存在意義を疑問に思ったとしても無理からぬこと」

「軍を小さくしようという動きがあるとお聞きしていますが」

「働かない者に食わせる飯はないという事だな」

「軍をやめさせられた兵士はどうなるのですか」

「当然そういう話になってくる」

「……それは、お忙しいでしょうね」

 ティルダはジラルドの必要最低限の説明で全てを悟った。内部のごたつきを調整するために、ジラルドはいいように使われているに違いない。

「そうなんだ」

 ジラルドは、はあっと大きく溜め息を付いて、長い前髪をかき回す。

「軍縮を強く推し進めているのがニムス宰相を始めとした大臣達だ。王妃様もこちらに味方しておられる。王宮の流れとしては軍縮へ向かっているようだ。軍の者はもちろん反対しているが」

「ニムス宰相ですか」

 ジラルドは行儀悪くテーブルに肘を突き、パイの刺さったフォークをふらふらさせた。

「彼もな……根っからの悪人ではないと思うんだが、どうも、やる事が露骨でいかん。軍を潰して浮いた金をどう分け合うか、それしか考えていないのが見え見えだ。軍にも物分りの良い幹部は居るはずなんだが、あれでは『兵の数を減らします』と言われても、とても『はい、そうですか』と素直に頷けたものではないだろう。 私に軍への不満をぶつけるのもいい加減やめてくれんものかな。どうしろと言うんだ」

「ふふ……私がお皿を磨いている間に、みなさんは大変ですのね」

寂しげにも聞こえるティルダの声音、ジラルドははっとした。

「ティルダ……」

 ティルダは優秀な女官である。幼い頃に王宮に入ったせいか、古株の女官達に混じれば、彼女はまだ若い。しかし、本来ならばティルダは給仕を束ねる立場に居てもおかしくはないのだ。それなのに彼女は、第一皇子ジラルドの秘密を知ってしまったがために、こんな小さな部屋で一人、暇を持て余している。

 才気溢れる若者にとって、未来を封じられ、閉じ込められる苦痛はいかばかりであろう。

 それだけではない。

 ティルダはジラルド専属の給仕である。ジラルドが女性である事を周囲から隠すために、彼女は頻繁に皇子の寝室に出入りしていた。ティルダとジラルドが幼い頃から仲睦まじく育ってきた事を知る者が、誤解するには十分であったのだろう。

 口さがない者が「女官のティルダはジラルド皇子の寝所に侍っている」と人目も気にせず言うほどに。

 それを聞いたジラルドは怒りに我を忘れそうになった。激することの少ない第一皇子が、鬼のような形相で剣の柄に手を掛けたのを、必死で止めたのもまたティルダであった。

 王宮勤めを終えた女官は貴族や大商人へ嫁いで行く事も多い。実際、それを当て込んで娘を宮廷に奉公に出す親も居るほどだ。

 しかし、こんな噂が立ってしまえば、それも難しい。

 以来、ジラルドは心に決めている事がある。

「ティルダ……すまない」

「ジラルド様、いきなりどうしたんです? 怖い顔をなさって」

 ジラルドはフォークを置き、項垂れた。

「ジラルド様、お顔を上げて下さいまし」

「ティルダ、本当にすまない。私のせいでお前には苦労をかける」

「何をおっしゃるのですか。大変なのはジラルド様でしょう」

「私はいいんだ! お前は気立てが良くて器量良しで、何だって出来るのに……本当は皇子でも何でもない私なんかの世話を」

「怒りますよ。ジラルド様」

「もしも私が男なら……」

 ジラルドは血を吐くように言った。が、そこでぐっと言葉を切った。

「ジラルド様……」

 ティルダにはその先に続く言葉が分かっていた。それで十分であった。

 賢明な彼女は大きなヘーゼルの瞳にうっすら涙の膜を張ったのみで、ジラルドに先を促しはしなかった。

「よして下さい、ジラルド様。ジラルド様が殿方だったら、きっとこんな風にティルダとお話して下さいませんわ」

 かわりに彼女はそう言って、笑った。

 そのような衝動に身を任せるには、彼女は長く生き過ぎていた。そして、若いジラルドの義憤を利用するには、彼女は優し過ぎたのだ。

「すまん……詮無い事だったな」

 重い空気を払いのけるようにジラルドも笑う。

「国家に害をなすための嘘ではないとは言え、私が女である事実は醜聞だ。王妃様はお前を悪いようにはしないとは思う。しかし、確かな事は何も言えない。私もお前も全てが終わればどうなるのか……。だが」

 真横から差し込む冬の午後の光の中で、ジラルドはすっくと立ち上がった。背の低いティルダはジラルドを見上げる格好だ。ジラルドの黒髪は今、光を弾いて彼女の瞳と同じ金色に輝いている。ジラルドはティルダの目を見たまま跪いた。

「皇子の立場に無い私に、どれほどの力があるか分らないが、お前の事は私が、この命に換えても必ず守る」

「ジラルド……さま」

「私に信じる神はない。私はお前の作るパイがこの世で一番好きだから、このサーモンのパイに誓って」

 ジラルドは悪戯っぽく笑って見せてから、ティルダの水仕事に荒れた手の平を取り、恭しく口付ける。ジラルドとしてはおどけた仕草のつもりであったのだろう。しかしティルダにはそれが、どんな王侯貴族もとうてい敵わぬような、高貴な所作に思えた。

「……何だよ、そんな顔をするな。これでも少し前までは、バルゼイと互角に遣り合っていたんだ。今だって並みの衛兵には負けん。期待してくれ」

 立ち上がって力瘤を作る真似をするジラルドのくだけた様子に、ようやくティルダの金縛りが解ける。

「……も、もう! お上手ですのね。私ですからいいようなものの、そんな事を軽々しく他のお嬢さんに言ってはいけませんよ。それでなくてもジラルド様は城の女官に人気がおありなんですから」

「安心しろ。お前にしか言わない。人気ってな、ティルダ、お前までそんな事を言うのか。分かってるだろ。あんなの本気なわけないじゃないか」

 阿呆らしい――言ってジラルドは、後ろに倒れ込むように、どっかりと椅子に腰を下ろした。仰け反り、頭をほとんど逆さまにするような格好だ。白く滑らかな首もとが襟の隙間からのぞく。艶やかな黒髪が、そこを、まるで誘うように流れ落ちる。

 片手で握ってしまえそうな、細い咽喉。

 ティルダは頬を染めてジラルドから目を逸らした。

「……誰かに何か言われましたか?」

 問われてジラルドは、ひょいと首だけ起こしてティルダを見遣った。黒髪が乱れて鼻梁にかかっている。

「ああ、バルゼイの奴だよ。朝、女官に構われている所を見られたんだ。なんだかな。あいつこそ自分がどれぐらい女にもてるか分かってない。この間、城下でバルゼイの似顔絵が売られているのを見たぞ。世も末だ」

 あいつの本性も知らないで――心底、疲れた顔のジラルドだ。鼻先に落ちかかった前髪をふっと吹いて、微苦笑する。

「まあ、私としては奴が勘違いしてくれている分にはありがたい。私の虚像を追い駆けて、あいつが精進してくれれば王妃様もお喜びになる」


 ――王妃……


 ティルダはジラルドの口からその言葉が出るのを殊のほか嫌う。

 紛れも無い嫉妬が自分の目じりに押し寄せるのを感じたティルダは、早々に退出しようと腰を上げた。

「ジラルド様、そのお皿もうお済みですか?」

「ん?」

「そろそろ夕餉の支度で厨房も混み始めますし、洗い物を済ませてしまいたいのですけど……」

「悪いが少し待ってくれ。今食べてしまうから……と、そうだ。行く前に頼みたい事がある」

「なんですの」

「我慢出来るかと思ったんだが、食ったらやはりきつくなってきた。……その、コルセットを緩めたいのだ。苦しくて敵わん。手伝ってもらえるか」

「まあ! そういう事は早くおっしゃって下さい」

 一瞬、妬心も忘れ、ティルダはジラルドを急かして部屋の奥へと連れて行った。


 第一皇子の私室の中の衣装小部屋は暗い。一つだけある小さな窓ですら、背の高いワードローブに塞がれている。

「そう言えば今日はご自分で?」

 てきぱきとジラルドの服を脱がせながらティルダは尋ねた。ジラルドのコルセットを付けるのはティルダの役目だったが、今朝、ティルダがいつものようにジラルドを起こしに行くと、すでにジラルドの姿はなかった。

 服も一式なくなっており、洗面所を使った痕もあったので、何か急な用でもあったのだろうと思い、ティルダは衛兵を呼びはしなかった。

 ジラルドには秘密が多い。

 主人想いの給仕は事を荒立てたがらなかった。

 しかし今朝、バルゼイに主人の所在を問われて答えらなかった事が、ティルダの侍女としての誇りを些か傷つけていたのである。

「……いや」

 ジラルドは言い淀む。

 途端、彼女の凛とした眼差しが崩れ堕ちた。

 腐りゆく果実のごとき温み。憑かれた者の恍惚。

「王妃様がして下さったんだ」

 ジラルドは囁いた。

 恋の秘密を打ち明けるかのように、そっと。

「昨日、私が倒れたのを、コルセットがきついせいだと思われたようだ。わざわざ明け方に私の部屋へ来られてな」

 たいした事はないのに、心配をおかけした――照れて笑う。

 ジラルドの耳が、ほんのりと染まっているのをティルダは見逃さなかった。目を背けたくなるのを堪え、ジラルドから最後の一枚を剥ぎ取った時、ティルダのヘーゼルの瞳は零れ落ちんばかりに見開かれた。ジラルドの背中が露わになる。

「何ですか、これは……」

 コルセットは歪に歪み、たわむ余地などほとんどないジラルドの身体に食い込んでいる。一目で慣れない者が付けたのだと分かった。その上、ジラルドの白い背中には、真っ赤な蚯蚓腫れがいくつも浮いている。

「……ひ、酷い、痛むでしょう。今、薬をお持ちします!」

「いいんだ。構わない」

「だって……!」

「大丈夫だよ。もう痛くない。見た目ほど酷くはないんだ」

 囁くように言って、ジラルドは自らの背中に指でそっと触れた。その傷跡すらも愛しいとでも言うように。

 いまだ血の滲むそれが痛まないはずはない。ティルダは顔を歪ませた。ティルダがこの特殊なコルセットを付けるのに、毎朝どれだけ心を砕いているか。決して日に晒される事のない白い背中を傷つけぬために、ティルダは毎晩爪を手入れしているほどだ。その大切な身体は今、無残に傷付けられ熱を持っていた。

「普段やりつけていないのだから仕方がないよ。王妃様はご自分のお手が痛くなるのも堪えて、何度もやり直して下さった」

 ジラルドは自分へ言い聞かせるように言う。

 主の顔へ、一瞬老婆のごとき暗さがよぎるのを、ティルダは痛ましい気持ちで見つめた。

「それにな、近いうちに新しいコルセットを届けて下さるそうなんだ。きつくなっていたものな。これからはティルダも少しは楽になるぞ」

 そう言って微笑むジラルドは、いつもの穏やかな第一皇子の顔である。

「ジラルド様……」

 ティルダには、何と言えばジラルドの苦しみを和らげる事が出来るのか、到底分りそうもない。唯一心を許せる相手として信頼され、花の様に大切に扱われ、命を賭けて守ると言われても、ティルダは自分が王妃の半分でもジラルドに愛されていたなら、と願わずにはいられなかった。




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