第3話 皇子ジラルド‐3
「厄介なのはビョルン・カスパーザ公爵です。ジラルド殿下!」
「声が大きい、ニムス宰相……私は別に構わないが」
厳重に人払いされた執務室で、ジラルドは眠気に目を瞬かせながら、長椅子に腰掛けていた。座卓の向かいで、白髪交じりの髪を几帳面に撫で付けた男が捲くし立てる。彼が拳でテーブルを叩いたので、ソーサーが揺れてジラルドの下穿きは少し濡れてしまった。
しかし今のジラルドはそれに抗議する事すら面倒に思えた。彼女はだらりと長椅子の背に身体を預け、足を組んでいる。
「ジラルド殿下、これは真面目な話ですぞ」
「すまん」
ジラルドの態度に眉をしかめる壮年の男は、件のニムス宰相である。薄くなった中央を隠すためか、彼の前髪は病的なまでに整って乱れ一つない。おそらく毎日、まだ暗いうちにこの壮年の小男は髪を整えるのだろう。鏡の前で一心不乱に。ジラルドはそれを思い浮かべてげんなりする。
朝に弱い自分にはとても無理だ。
このように、朝っぱらから大声を張り上げるのも。
翌日の朝、相変わらずジラルドは多忙であった。
昨日はティルダと共に食事を摂った後、椅子に身体を預け、つい眠ってしまったジラルドだ。コルセットのきつさからようやく開放された事、そして余人の視線に晒されない安心感からか。何より腹が膨れていたせいであろう。
自分を律する事を何より得意とする第一皇子にしては珍しい。よほど疲れていたようだ。
ジラルドは夕食も欠席したというのに、その日の夜半にニムスは約束通りジラルドの部屋を訪ねた。融通が利かないだけの宰相に遠慮はいらぬ、ティルダは箒を片手にニムスを追い返した。主人が疲れている事はこの侍女が誰よりもよく知っていた。またジラルドに大した用事ではないと聞いていたせいもある。華奢な美しいメイドの思わぬ反撃に、ニムスはしぶしぶ退散したのだ。明日の約束を言い置いて。
そして今朝、ニムスはジラルドを急襲した。
朝早く起こされジラルドは機嫌が悪かった。
自制を信条とする彼女は、露骨にそれを悟らせるような真似はしなかったが、気だるい様子は隠せない。ニムスの執務室のソファーは硬く、居眠りには適さないのが救いといえば救いだった。
「カスパーザ公爵さえ反対なさらなければ……」
宰相の強い語気を受け、ジラルドは溜め息混じりに返す。
「まあ、あちらも商売だ」
金を掻き集めたくて堪らないという点に置いては、どちらも似たようなものではないか――ジラルドはそう言いたくなるのを飲み込んだ。
カスパーザ家はパルトーの有力貴族である。現当主のビョルン・カスパーザは、国家を超えて貿易業を営む実業家でもあった。カスパーザ家の主な交易は金属、船舶、武器、火薬である。パルトーにおいてカスパーザ家を無視して戦争は出来ない。ジラルドに直接の面識はないが、国王ドラトが現当主と親しくしている事もあって、この国でカスパーザの名を知らぬ者はないほどだ。
しかしパルトーが強大化してからは戦争が減り、王妃が外交を重視しているせいもあって、パルトーにおけるカスパーザ家の重要性は揺らいでいた。
「そりゃあ、軍を小さくしようとしたら反対もするだろうな」
「そんな事は分かっています」
「軍の内部にも、今の軍のあり様に疑問を抱いている者は多いそうだ。身の振り方さえ保障してやれば兵卒は反対しないはず。問題は将校達だが、カスパーザ家の息のかかった者ばかりではないだろう」
「ですがカスパーザ家には、枢軍西方師団長がおります」
「ロディム・カスパーザか……」
パルトーには陸軍、海軍の他にもう一つ、枢軍と名付けられた兵団がある。王家を、そして王都ゼッテンの治安を守るために設立されたそれは、ゼッテンでは警察のような仕事も請け負っている。その性質上、枢軍の兵には白兵戦での高い技量が求められた。大きさこそ他の兵団には及ばぬものの、精鋭ばかりを集めた枢軍は、いわば軍の花形。枢軍は四つの師団から構成され、それぞれ王都の東西南北を守っている。
その栄えある西の師団長がロディム・カスパーザである。彼はカスパーザ家の三男坊だ。実直で温厚、自分に厳しく、情に厚い、しかし一度本気になるとその戦いぶりは苛烈極まる――部下には慕われていると聞く。
国で一位二位を争うほどの剣技の持ち主と目されており、若い兵を中心としてその人望はかなりのものだ。ジラルドも噂は耳にしていた。
彼が父親似であるかどうか、ジラルドは知らない。
しかし彼が旗手となって反軍縮を叫んだとしたら厄介だ。
「その上、公爵は陛下と親しいのです」
「ああ……」
今でこそパルトーで一二を争う有力貴族のカスパーザ家であるが、祖は海賊であったと伝えられている。そのせいか奔放な国王ドラトとビョルン・カスパーザは馬が合うようだ。カスパーザ公爵は国王とは共に酒を飲み交わす仲である。昨日も国王はカスパーザ公爵に招かれて港へ出向いた。
聞けば大戦中は生死を共にすると誓った戦友でもあったらしい。
「確かに、カスパーザ家とは一度話し合いの場を持つ必要があるかもしれんな」
「そこです」
ニムスは熱に浮かされたようにジラルドの方へ乗り出してくる。ジラルドは凛々しい眉をひそめた。
嫌な予感がする。
「……何だ」
「今日はジラルド殿下にその役目をお願いしたくお越し頂きました。カスパーザ家との交渉にご同席頂きたいのです」
「……何だと?」
ジラルドが長椅子からずり落ちそうになったのも無理はない。国王とビョルン・カスパーザ公爵が親しいのと同じぐらいに、カスパーザ公爵と王妃の不仲もまた有名である。
いまだ正面切ってぶつかりあった事はないが、公爵は国王に「あの女狐に内政を任せるな」と焚き付けて憚らないという。
旧 友の意見よりも面倒さの方が先に立つのか、国王が態度を改める事はなかった。しかしだからといって、ビョルン・カスパーザ公爵を遠ざけるわけでもなかった。
何かと王妃のために働く事の多いジラルドだ。周囲からは当然王妃側の人間であると思われているだろう。また彼女自身も王妃に心酔している。そして、事情により国王ドラトと第一皇子ジラルドの接点は少ない。
その自分が話し合いに赴いたとして、国王贔屓のカスパーザ家がまともに相手をしてくれるかどうか。
「バルゼイの方がまだ適任と思うが……」
「バルセイ殿下は才気溢れる若君ですが、このような場には向きません。ジラルド殿下は弟君が、世辞や追従に馴染むお方とお思いですか?
それに、どうもバルゼイ殿下は、妃殿下のおっしゃる事に素直に賛成したくないご様子。今回の軍縮に関しても、殿下はどう思っておられるのやら……」
それはどうだか――ジラルドはバルゼイの鋭い青の瞳を思い浮かべた。
バルゼイの我の強さはジラルドとて承知している。しかし、弟には兄の自分にも得体の知れない所がある。案外その気になれば自分などよりもよほど上手く腹芸をやってのけるのではないだろうか。
「……いや、そんな事はどうでもいい」
ジラルドは頭を振った。
「それ以前に、だ。ニムス宰相、バルゼイだけではない。私だってまだ、軍縮に賛成とも反対とも言っていないだろうが。確かに今の財政を見れば軍縮は行われて然るべきかもしれん。しかし、カスパーザ家をどうにかする前にやる事があるはずだ」
「それは分かっておりますが、カスパーザ家を説得せねば、何もかもままなりますまい」
「いや、違う。それは違うぞ。たとえそうであったとしても、まずは退役させられた軍人達の雇用先や保障の財源を確保するべきだ。国がどの程度の譲歩出来るのか分らねば、軍部とて態度を決めかねる。理がこちらにあると思うなら、筋を通せ。カスパーザ云々は、兵に対して誠意を見せてからにしろ」
「ですが……」
「勘違いするなよ。カスパーザは所詮部外者に過ぎん。たとえカスパーザ家が諸手を上げて軍縮に賛同したとしても、軍の者が納得せねば事は動かぬ。私達が真に考えねばならんのは、今まで国のために尽くしてくれた兵士達の今後の身の振り方なのだ。交渉すべき相手はあくまで軍部全体、断じて公爵家ではない。だいたいそのお話、母上はご存知なのか」
「いいえ。ですが、今日打診してみるつもりでおります」
「ニムス宰相、もう一度言う。カスパーザ家にかまけて、兵士達をないがしろにするような事があれば、母上はお前を許さんだろう。……勿論この私もだ」
じっと見つめるジラルドの琥珀色の瞳は、溶けた硝子のように恐ろしく澄んでいる。
「……っ」
ニムスはたじろぎ、そして反射的に憤った。王族であるとは言え、やっと十八になったばかりの若造に、一国の宰相が気圧されるなどあってはならぬ。彼は自尊心を守るため、咄嗟に最も卑劣な手段に出た。
「ジラルド殿下、もしも妃殿下が直々にお命じになったら、いかがなされるおつもりで?」
「……その時は」
目を逸らしてジラルドは言い淀む。
ニムスの口の端にうっすらと嘲りが滲んだ。王妃と誰かが口にする瞬間だけは、思慮深い第一皇子に年相応の弱さが覗く事を、この小心な役人ですら気付いていたのだ。
「甘んじて受けよう。ないとは思うが」
一体何を考えている――ジラルドは宰相の執務室を出て溜め息を吐いた。
ニムスは前々からジラルドに、何かにつけてカスパーザ家と軍の悪口ばかりを吹き込んでいた。
しかし、まさかこんな事を企んでいようとは。
ジラルドは昨日ティルダに「どうせ愚痴だ」などと言ったが、全く当てが外れたわけである。
宰相の執務室がある一角は役人たちの領地だ。このシャイエ宮でもっとも朝の早い地区である。王宮のほとんどはまだ寝ている時間であるが、今日も書類を抱えた役人達が忙しく廊下を行きかっている。清潔な白い塀の中、どこを見渡しても顰め面の役人、役人、役人、役人……
役人ばかりだ。
こんな所へ篭っているから国の大勢を見失うのだ!
ジラルドは忌々しげに舌打ちした。
本来ならばここは皇子が頻繁に出入りするような場所ではない。しかし勤勉な第一皇子は、もうすっかり顔馴染みとなっており、財務担当の若い役人がジラルドの顔を見つけて、親しげに声を掛けて来る始末である。
「ジラルド殿下! おはようございます」
「ドルーゼン、おはよう」
「今日のご予定はいかがなっております。午後に少しお時間を……」
「すまんが、今は答えられない。予定を確認させてくれ。後で伝えさせよう。それで構わんか?」
「ええ! もちろんです。お待ちしております」
「殿下、イェガー書記官が今度一緒にお食事をと」
「分った。考えておく」
「ノルドのピオーネ姫の次のご来訪ですが……」
しかし、ジラルドは気もそぞろだ。
考えるべき事が多過ぎるというのもあるが、ついさっきまで政治問題に頭を悩ませていたはずの彼女の心を占めるのは、意外にも単純なものだ。
ここ数日の寒さにもしやとは思っていたが、昨夜はついに雪が降った。
起きてティルダにその事を聞いたジラルドは、すぐにでも外へ飛び出したい衝動に駆られた。しかし、ニムスとの約束があり、適わなかった。ニムスがとんでもない事を言い出したために、密談の後半は真面目に話を聞く羽目になったが、それまでずっとジラルドは外を窺っていたのだ。官僚達と挨拶を交わしながら、ジラルドはぼんやりと窓を眺めるのをまだ止められなかった。
黒檀の窓枠に囲われた矩形は、殊の外白い。
この明るさは雪の積もった朝のものと思えたが、窓が曇っているせいか庭の様子は分らなかった。しかし、この日差しの強さでは、たとえ雪が積もっていたとしても昼には融けてしまうだろう。
ジラルドは雪が好きなのではない。
むしろ苦手とさえ言える。
しかし彼女に流れる血が、雪を無視するを決して許さぬ。
十数年経った今でも、冬になると毎年決まって物思いに沈まずには居られないほどに。
ジラルドの知る雪とは、積もったばかりの頃は子供たちによって大事にかき集められて雪ダルマになりもするが、やがて溶けて土色になり、ぐしゃぐしゃと馬の蹄に耕され、婦人のスカートの裾を汚す厄介者と成り果てるようなこの国の雪とは違っていた。
ジラルドには冬になるたび、雪を思うたびに思い出さずにはいられない光景があった。
破られる鉄の扉、孕んだ女の腹、そして血の赤を。
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