第5話 デスティモナ公国の陥落-2


 デスティモナの姫が呼びつけられたのは次の日の午後である。

 パルトー軍の関係者は、大広間へ集い、姫を待ち構えていた。そこには当然、国王ドラト、王妃マルギルも含まれた。少女が大広間へ引っ立てられて連れて来られた時、彼女は泣きもせず、大きな琥珀色の瞳を見開いて、懸命に歩みを進めていた。

 少女の滑らかな額は血と泥に汚れている。黒い猫毛は洗わずにおかれたのか、頬に張り付いたまま落ちても来ない。今は乾いた涙のせいかもしれなかった。膝や肘はところどころ擦り剥いていたが、砂埃に覆われて血の色は見えない。

 広間へ足を踏み入れた時、少女は突然大勢の大人たちに囲まれ、驚いて思わず足を止めた。その途端、少女の腕を掴んでいる兵に、肩が抜けそうなほど強く引っぱられて、彼女は一言だけ発した。

「ひっ」

 一言、とは言えない。

 衝撃に飲んだ息が彼女の声帯を偶然に震わせたに過ぎぬ。

 それを聞いて、ごくわずかにではあるものの、王妃の菫色の瞼の上で、銀色の眉が、裁きの女神の天秤さながらのそれが歪んだ。

「デスティモナ公が娘、ジル姫をお連れしました」

彼女の腕を引いていた兵が幼い彼女の代わりに名乗り上げる。

 国王の脇に立っていた陸軍第六大隊司令官ボルネミッサ中将は、少女のみすぼらしい身なりや短い髪の毛に疑いの眼差しを向けた。

「娘と聞いているが、確かめたのか」

「まだであります」

 国王が頷くのを見て、ボルネミッサ中将は顎をしゃくった。

「確かめろ」

「はっ」

 命じられた兵は何の躊躇も見せずにデスティモナの姫の脇へと屈んだ。その場で服を剥ぎに掛かる。場合によってはその後に、この幼女の股を広げて皆に見せる心積もりで。

 鎧を纏った屈強な腕が少女の身体を掴んだ。

 兵士の大きく無骨な手は、少女の細いあばら骨など、触れただけで折ってしまいそうに思われた。

「……っ!」

 痛みと恐怖で少女は身体を硬直させる。

 少女には自分が何をされようとしているのかは分らなかった。

 ただ、毛深く黒い腕が恐ろしかった。

 今度こそ死ぬのだと思った。

「この大人しく……しろっ!」

「……ぁっ!」

 あまりの恐怖に口は開けど声も出ぬ。手足を突っ張って嫌がる少女に兵は梃子摺り、新たに一人、手助けが加わった。少女の目から涙が零れ落ちた。

その時である。

「待ちなさい」

 静かな、しかし鳥を射落とす矢のような声が広間に響く。

 少女は涙に霞む目で、初めてその姿を見た。

 デスティモナの城の奥の宝物庫にしまわれた銀色の竪琴――王妃を見て少女はなぜか、それを思い出していた。

 美しい物などほとんど見たことがない彼女にとって、目の前の貴婦人を表現するにはそれが精一杯であったのだ。

 恐怖も忘れて見惚れる少女に、王妃は近寄り、兵を退けると、彼女の服の乱れを直した。

「私が確かめます。陛下、構いませんか」

「ああ……お前に任せよう」

 ドラトは金色の豊かな顎鬚を弄りながら鷹揚に頷く。

 王妃は広間に居並ぶ男達に――夫を含めてである――侮蔑と言うにはあまりに気高く鋭い一瞥をくれてから、少女を奥の間に連れ去った。

 ドラトはそんな妻を、抜けるように青い瞳で興味深げに見送っていた。


 この時、王妃は決して幼いデスティモナの姫に同情したわけではなかった。むしろこの場にいる誰よりも、彼女の処遇については冷徹なる考えを持っていたと言えよう。

 他の者達は、亡きデスティモナ公との約束といえども、嫡子が男児であれば、約束をたがえて子供を殺したとしても、いた仕方ないと考えていたようである。

 しかし王妃にとっては、デスティモナ公の落胤が男であるか女であるかはさして大きな問題ではなかった。禍根を断つためにはどちらにしても、やはり殺しておく方が望ましい。

 この幼子を殺すのを躊躇する理由とて、他の者達とは異なっていた。

 処刑をためらうは約定のためなどではない。残されたデスティモナの民達への心証を慮ったのである。

 ここで幼い姫を殺すのは得策ではない。

 デスティモナの民には姫に身分を隠させ王都で里親を探すとでも言い含め、シャイエ宮に連れ帰った後、秘密裏に始末する他ないだろう――それが王妃の考えであった。

 シャイエ宮に連れ帰ってしまえば、この少女一人の死などいくらでも隠しおおせる。


 ならばどうしてこの時、王妃は少女を捨てて置けなかったのか。

 それは王妃の誇りのありようにあった。

 たとえ戦場での出来事であったとしても、羞恥の意味も分らぬような幼子であったとしても、武装した男が嫌がる少女の服を剥ぎ、あまつさえ性別を検めるなどという下劣な行いを、自らの目の届くところで許すわけにはいかないのである。

 その少女が、自分の起こした戦争で両親を失い、自分がその少女を殺す算段を考えていたとしても、だ。

 王妃にとって先ほどの所業は、王妃の御前で一兵卒が下衣をくつろげて小便を垂れるのが許されぬと同じように、決して許される類のものではなかった。 そして、それを見過ごす自分自身もまた、王妃にとっては耐えられなかったのである。


 ぽかんと口を開けたまま、少女は涙の止まった琥珀色の目で王妃を見上げた。

 王妃はまず、少女の傷付いた膝や肘を清めた。

 自らの手で。

 なぜなら、ここはデルエーロ男爵の城である。

 パルトーの領地であるといっても、いわば他人の家であり、王妃は客。

気品溢れる王妃が命じれば、男爵の使用人達は彼女の命じるままに動くのかもしれぬ。しかし、来訪したばかりの自分が城主の許可も得ず、家臣の部下を我が物顔で扱うなどという厚顔な真似は致しかねた。

 だが、そのような事情が幼い少女に分るはずもない。

 夢のように美しい銀の竪琴の精が自分を助けてくれた。

 柔らかな腕で自分に触れ、暖かい湯をかけてくれる。

 ただその事実にぼんやりと酔いしれた。

 父母を奪われ、たった一人で牢獄に放り込まれ、生きるのに必要な最低限以外、全て奪われた彼女の胸に、その時去来した想い……

 それは、あまりに幼く、あまりに哀れで、あまりにも純粋。

 愚かであるがゆえに一層、尊い。

 この不遇な少女の心の、最も深き淵に根を張ったとて、あるいは当然であったかもしれぬ。

 王妃は少女の身体を洗ってやりながら、少女が確かに少女である事を見定めた。その後に、少女の汚れた服を着替えさせた。

 生憎とデルエーロ男爵は女児に恵まれなかったので、少女の丈に合う服は、男児の物しかなかった。デスティモナの民は皆髪を短く刈っていたため――水が貴重なヘルバン高地で生きるための知恵であろう――幼いジラルドもやはり男児のようであった。

 丁度少女が着替えを終えた時、衛兵の叫び声が聞こえた。

「いけません、バルゼイ様!」

 その声に、夢見心地で王妃の美しさに見惚れていた少女は、はっと我に返る。

「母上!」

 奥の間の扉が開いた。

 淡い金髪の子供が部屋へ飛び込んで来る。

 白薔薇の蕾のごとき繊細な貌、深い青の瞳は焔の苛烈さ。

 皇子バルゼイであった。

 幼い皇子は部屋へ入るなり唇を戦慄かせた。

「はは……うえ?」

 王妃は少女の前で膝を突いてしゃがみ、襟を整えているところであった。それを見て、幼い暴君は、よろめくようにゆっくりと立ち止まった。

 ――何を……何で……母上が子供と……

 そして、状況を悟るや否や、母と、見知らぬ子供を睨みつけた。

「なに、してんだ!」

 皇子の着替えを手伝うのは侍女の仕事であった。

 自分ですら母にこんな事は、なかなかしてもらえないというのに。初めて見るその子供は、憤るバルゼイを不思議そうに見ている。母に優しく触れられながら。

 ――実の親子のように。

 皇子の純白の頬が朱に染まった。

「……なんだよ、お前!」

 湧き上がる衝動そのままに幼い暴君は手を振り上げる。

 少女は驚いた。敵意を向けられる理由が分らない。しかし整った白い顔を怒りに歪ませた子供は、自分よりも小さく、妖精のように儚げだというのに、とても恐ろしかった。

 細く、白く、骨ばった皇子の腕はナイフのよう。

 怯える幼い少女に振り下ろされた。

「……っ!」

 少女は目を瞑って衝撃に備える。

 その時、王妃は無意識に目の前の少女を手で庇った。我が子の凶暴さが身体に染み付いて居たからである。皿がテーブルから滑り落ちそうになっているのを見たら、誰だって咄嗟に手を出してしまう。

 肉を打つ鋭い音が部屋に響く。

 ――おかしい、まるで痛くない。それに……背中が暖かい。

 少女は恐る恐る薄目を開け、

 そして理解した。

「……バルゼイ、やめなさい」

 白く美しい腕が自らを抱き寄せ、自分の代わりに凶暴な子供の一撃を受けたのだと。

 銀の竪琴の精が自分を守ったのだと。

 なんて暖かいのだろう――少女はその時、最後に触れた母の手を思った。

 あるいはこの時に母を、祖国を忘れたのだとも言える。

 デスティモナの民にしてみれば、亡国の姫としての誇りや義務について、この時彼女は何か思うべきだったのかもしれなかった。

 しかし、そんな繰言が安っぽくすら思えるほどに、彼女の思いは清く、激しかった。

 未熟な心は今や一つの思いに塗り潰されている。

 彼女にはその思いを明確に言葉にする事は出来なかったが、おそらくそれはこんな意味だったのだろう。

 この暖かさのためなら、私は何を奪われても構わない。

 とにもかくにもこの瞬間に、王妃は少女の中で最上位に据え置かれた。

 後に少女が全てを知っても揺るがぬほどに、強く。



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