エピローグ 桜と神様
桜と神様
顔を洗って歯を磨いて、開耶の両親に挨拶をして、テーブルにつく。
そこに並んでいる今日の朝食は、パンとハムエッグに、ボウルに入ったサラダとオニオンスープ、そして紅茶。
それらをよく噛んで味わいながら、大切に自らの血肉にしていく。
もう砂のような味はしない。何を食べても美味しく、何を食べても嬉しい。
僕がスプーンを握ってスープを味わっていると、隣に座る開耶がそれを嬉しそうに眺めていた。
「双葉が左手でご飯食べられるようになって、結構経つよね」
「そうか?」
「いつからだっけ……なんだか左手で食べる日や右手で食べる日が混じってたりして、そのうちだんだん左手で食べる日が多くなって、今ではすっかり左手でご飯食べられるようになったんだよね」
「そう……だな」
「もう、左手でご飯食べても、怖くないよね」
少しずつ、少しずつ。
幼いころに植えつけられた忌まわしい記憶が、恐怖が、薄れ、ほぐれている。
傷が、ゆっくりと癒えていく。
開耶が時間をかけて、癒し続けてくれている。
「行ってきまーす」
「行ってきます」
家の前で開耶の両親に見送られ、僕と開耶は暖かな空気の中、二人並んで学校へと向かう。バスに乗っている間は無言だったが、駅から学校への道を歩いているとき、開耶はこう切り出した。
「わたしきっと、双葉と一緒じゃなかったら卒業なんてできなかったよ」
「それは僕だって同じだ。いつ壊れるか、あの時は本当に分からなかった」
「そうだよね……ねえ、わたしたちってなんで会えたのかな?」
「なんでって……」
答えようとして詰まった。
何と答えたらいいのだろう。
偶然のような、それとも定めのような。
ただ、それについて僕はあることをある時から思っていた。それが正解なのかもしれなかったから、開耶にそう言ってみる。
「神様の導きじゃないか」
「うー、双葉らしくないこと言う。適当にごまかさないでよ」
「適当じゃない。神様は、結構近くにいるものなのかも知れないからな」
卒業式は体育館で行われ、もっとも優秀な成績を修めた生徒――我らの天才学級委員である木下智子が卒業生代表として卒業証書を受け取り、その後の答辞も完璧にこなして普通に式は終了した。
その後は教室に戻り、簡単に担任の話を聞いて解散となった。僕が自席で荷物の整理をしていると、山口がついさっき配られた卒業アルバムを手に突撃してきた。
「上杉くん、ほらここ! なんか書いて! はいペン!」
開けているページには、彼女のクラスメートや部活の後輩、友人たちの祝い文句がぎっしりと詰まっている。中央近くにひとつだけぽっかりとできている空白があり、そこを指さしながらアルバムを僕に押し付けてきた。
「ああ、いいだろう」
「うわあ、超素直! 今日の上杉くんホント素直だね! 卒業式だから?」
「僕は最初から素直だ」
彼女からペンを取り、なにを書こうか思案する。
そんな僕の横で、山口は嬉しそうに微笑んでいた。
「そうだねー。あのとき、あたしのほうが間違ってたんだね。素直じゃなくて優しくないブスーッとした上杉くんのほうが、ニセモノだったわけだ」
「…………」
少女の言葉を軽く聞き流しながら僕は無言で考え、目の前の空白に日本人なら誰もが知っているであろうアニメのキャラクターを十秒で描いて吹き出しを作り、「祝卒業 上杉」と書きこんだ。
山口はその絵をしばらく眺めていたが、やがてぽろっと言ってのけた。
「……上杉くん、ビックリするほど絵下手だね……まあ、でもありがと。上杉くんに会えて、楽しかったよ」
「僕は山口さんに会って、木下さんと藤井さんにも会って、三バカトリオに絡まれて鬱陶しい限りだったがな」
「ちょ、ちょっとなにその言い方! あたしらはね……」
友達か。
鬱陶しいことこの上ない世話焼きな女の子だったけれど、最後くらいはいいだろう。
「冗談だ。楽しかったことばかりだったよ。……色々ありがとう、山口さん。山口さんには本当に世話になったよ。開耶とのことで、いろいろ助けてもらったし。これでも、感謝しているんだ」
「んおっ……そんな面と向かって言われると、ちょっと照れちゃうねえ……」
「まあ、最後くらいはな。高城とせいぜい仲良くやってくれ。あと、三バカトリオの残りのバカにもよろしく」
「誰が残りのバカですか、死んでください」
いつからいたのか、藤井に背後から卒業証書の筒で殴られた。
「なあ、上杉よ」
「なんだ」
開耶に会おうと四組の教室に赴こうとして、ちょうどその四組の教室から出てきた高城に声を掛けられた。結局三年のクラス分けでは彼女と一緒になることはかなわず、ほぼ二年の時と同じメンツでこの一年は過ぎていったのだ。
その高城は口をきっと結んで、いつになく真剣な雰囲気を漂わせている。
「お前は二回変わったよ。一回目に変わったお前は最悪だった。そしてもう一度変わったお前は、一回目に変わる前のお前に戻った。つまりお前はいま、捩れてひねくれたマイナスの性根が、ゼロに戻ったところまで来ている。そこでだ」
「…………?」
「お前は、普通の人間より一、二年遅れていると言ってもいい。お前がダメなお前に変わっちまった日から、お前の中では時間の流れが止まっていて、それが最近になってようやく動き出したにすぎねえ。だから。お前は周りの人間より遅れて生きている」
「……ああ、そうだろうな」
そう。
分かっている。
自分の弱さのせいで、僕は普通の高校生に比べて後れを取ってしまったと。
人間的に、成長していないと。
今の僕は、あくまで腐る前の状態に――ゼロの状態に戻っただけに過ぎない。
けれど――。
「……それでもいいんだ」
僕は、僕たちは、他の人間に比べれば劣っているのかもしれない。
不器用で、要領が悪くて、なにをしても巧くいかないのかもしれない。
それでも、二人でいられれば、つらくない。
「僕は、開耶と一緒に、ゆっくりでも歩いていく」
周りに置いていかれようと。
後ろから追い抜かれようと。
気にせずに、急がずに、無理せずに。
二人のペースで、ゆっくりと。
僕と開耶は、そんなふうに生きて行こうと決めたのだ。
「……よく言うぜ、恋愛初心者のくせに」
高城は表情を崩して、声の高さを普段通りに戻して笑っていた。僕もつられて笑う。
「お前も頑張れよ。せっかく山口さんと同じ大学に推薦で受かったんだから。お前とて、山口さんと結婚したいって気持ちだけは強いんだろう」
「おうよ。子供の名前ももう決めてるぜ。
「ちょっと早計すぎやしないか……?」
女の子だったらどうするんだ。それ以前に結婚と出産まで無事に持っていけるのか。本当にこいつは何を考えているのだろうか。
「まあ、見てろって。お前には抱かせてやんねーぞ、根暗が移るからな」
「ちょっと触って僕の根暗が移るのなら、お前のバカはまるまる継承されるな」
「んだと、てめえっ」
「ふっ、怒ったか」
高城は拳で軽く僕の胸を小突き、僕は奴の肩を軽く押して、それから二人で笑い合う。
やはり、こんな風に軽口を叩き合えるこいつが一番の親友だ。
今までも、そしてこれからも。
「……あっ、そうだ上杉、それでちょっと思ってたことがあってよ。奈緒と結婚したら、まあ二人で一緒の家に住むんだよな?」
「…………? 場合にもよるが、まあそうじゃないか」
「だよな」
高城が声のトーンをまた低くする。
「なあ上杉。……親友として、男として、ひとつお前に訊きてえんだ。もし、もしその時が来たら……」
(なんだ……?)
口調も表情も、先の話題と同じくらい真剣だった。高城は続きを言うのを躊躇っているかのように、しばし黙する。
やおら高城は口を開き、大真面目に問いかける。
「……俺のあんだけあるエロ本は、どこに隠したらいいんだ?」
「ずっと言いたかったことを今こそ言おう。お前は恋愛上級者じゃない」
「二人とも、待って」
開耶と一緒に校門を出て歩き出そうとしたところで、後ろから山口に呼び止められた。
「なんだ山口さん、また来たのか」
「あのさ、上杉くん、あたしが餞に何を言っても、もうわかってると思うけどさ。……さくやんを大事にね」
「ああ……」
「あはははは、照れてる照れてる」
山口は僕を指さして笑う。それから開耶のほうを向いて言う。
「さくやん」
「うん、なに……?」
「あたしは秀明と付き合ってるし、中学の時にも二人くらい付き合ってたから分かるんだけど、上杉くんと一緒にいるのってね、たぶん普通の男の子と付き合うより何十倍も大変でめんどくさいんだよ」
「悪かったな……」
つぶやく僕をよそに、開耶は笑って答えた。
「うん、わかってる。でも、それでもわたし、双葉のことが好きだから、ずっといっしょにいるよ」
「だよねえ。上杉くんをよろしくね。こんなしょうもない子の面倒見れるの、さくやんだけだってはっきり言えるからさ」
「つつくな」
人差し指でぐいぐいと僕の頬を突いてくる山口。
開耶はそんな様子を見て笑って、もう一度答えた。
「んふふ、わかってるよ。……それこそ、痛いくらいに……」
恥ずかしいことを、相変わらず平気で言う子だ。
そんなところが、たまらなく好きなのだけれど――。
「あはは、なら安心……あっやばっ、後ろからうるさいのが来た! じゃね二人とも、また遊ぼうね!」
山口は突然駆け出し、小さな体ですいすいと人混みをよけていく。それを眺めている僕たちの横を暴風が通り過ぎ、山口の後ろを馬鹿が追いかけていった。人混みをラッセル車のように跳ね飛ばしていく。
「うおー、待てよ奈緒! 卒業祝いに俺の童貞やるってずっと前からの約束だろー!」
「やだよー! 変態からもらうもんはなんもないよー!」
叫びながら逃げる少女と、吼えながら追いかける馬鹿な変態。後者は捕まってもおかしくない。高城は、まだ身分が高校生であるということを失念していそうだ。大学に行けなくなったらどうするのだろう。
それを僕と開耶は呆けたように眺めていた。
「最後まで激しいね、あの二人も……」
「まったくだ。あの二人、仲良いのか悪いのか」
「んふふ、きっととっても仲良しさんなんだよ。見た感じは違うけど、わたしたちと同じだよ」
くすくすと笑った開耶は、それからそっと僕に手を伸ばして、笑いかけてくれる。
「帰ろう。わたしたちも」
「ああ」
その小さく可憐な手を取って、僕たちはゆっくりと歩きだす。
ゆっくりでいい。
焦らなくても、生き急がなくても。
これからの二人の時間を、大切にして生きていけたらいい。
寄り道をして帰ろうと開耶が言うので、家の近くの桜並木を僕たちは歩いていた。道の両端には桜の木が短い間隔で整然と植わっており、それらがみんな開花を待つように蕾を膨らませている。
「もうすっかり、桜の季節だね……」
「そうだな」
「ね、今度、どこかお花見に行こうよ」
「花見か……いいな、それ」
「でしょ? そしたらわたし、お弁当、いーっぱい作るから。お父さんもお母さんも、高城さんも山口さんも、木下さんも藤井さんも連れてさ、みんなで桜を見ながら、わーってやろ。二人っきりで、夜桜もいいよね」
桜の下でかわいらしい笑顔を見せる、開耶のそのさまを見て。
僕は朝も思っていたことを言おうと、足を止め開耶に呼びかける。
「……あのさ、開耶」
「うん?」
「開耶に救われたあの冬の入り、あれからしばらく経った、そうだな、ぼろぼろの期末が返ってきた頃かな」
開耶は小首を傾げ、穏やかな表情で続きを待っている。
「その頃、ふと思い出したことがあって、今まで言えなかったことがある」
「え……? どんな? 隠し事?」
「そういうことではないんだが……」
開耶はしかめっ面をした。何も隠すことのない二人が、これ以上何を隠すのだろうと訝っているよう。
が、しかめっ面と言っても軽くしわを寄せている程度で、そんな顔も可愛らしかった。その開耶の顔から視点を上のほう、やがて咲いて散る桜に移して僕は言う。
「知ってるか。それは、強い母性、やさしさを持っていて、桜のように美しく儚いそうだ。日本神話における、桜の美しさを体現した神様だという」
「…………?」
不思議そうな顔をする開耶。なんのことだか分からないとでも言いたげだ。
自分の名前の由来を知らないのだろうか。
それともまさか、今僕の傍にいる、この開耶が“そう”なのか。
そんな夢想的なことをつい考えてしまうほど、桜の下の開耶は美しかった。
「……
「えっ……」
開耶が息をのむ。
桜から視線を戻すと、耳まで真っ赤になって両手で口を押さえている、可愛らしくも美しい神様がいた。
僕は神など信じていなかった。
それでも誰かに、目の前にいるこの女の子を神様だと言われたら、信じてしまうかもしれない。
僕の目の前に突然現れた女の子を。
絶望に沈んでいた僕を救ってくれた女の子を。
いつも優しく穏やかな笑顔を見せてくれる女の子を。
まだ顔を赤くしている開耶に、僕は一歩近づいた。
「そのことを思い出して、もしかして開耶は神様なんじゃないか、だからこんな僕を救ってくれたんじゃないかって、ありえるはずのない思いをずっと抱いていた。かわいくて、綺麗で、なによりもだれよりも優しい。もしかしたら、本当に神様なんじゃないかって」
「そんな……わたしは、神さまなんかじゃ、ないよ……」
切れ切れに、開耶はそう言う。
それを聞いて、安心した。
「そうか、よかった。もしそうだったら困るんだ」
「どうしたの、いきなり……」
そう聞かれて僕は再び上を向いた。見上げた空がまぶしかった。
恥ずかしいこと言うときって、双葉はいつも上向くよね、と開耶にはいつからか言われていた。
けれどかまわない。僕は今からまた、とんでもなく恥ずかしいことを口走るから、そのつもりでいてもらう。
「僕は人としてはあれだ、駄目な奴なんだ。そんな僕が神様に触れたり、抱きしめたり、それどころかこんなことまでしたりしたら、
「……あ」
桜の木の下、華奢な体を抱き寄せ、ゆっくりと顔を近づける。
互いの口が触れ合う間際、間近に迫った開耶の小さな口が、動いた。
「もう、かけてるよ……」
「え……」
「一生つきまとって、迷惑ばっかりかけちゃう呪いなら……」
顔を真っ赤にしてそう言って、開耶は目を閉じた。
「……ならやっぱり、開耶は……」
僕も目を閉じ、そっと唇を重ねた。
そんな呪いなら喜んで受けよう。
いくらでも、僕にだけ、優しすぎる
僕だけの神様に。
「あ、お母さんとお父さんだ」
開耶は遠くに見える自分の家、その玄関前に立つ二人の人影を見つけて足を速める。
「ただいまっ」
両親に駆け寄り、まっさきにそう言った。
「おかえりなさい、開耶。おめでとう」
「開耶、よく頑張ったな。……本当によく頑張ったな」
母が祝い、父が労う。
娘は、二つの温かいまなざしをいっぱいに受けていた。
(素敵だな、こういうの)
少し離れたところから、家族のなんたるかを僕は感じていた。
「あれ、双葉? そんなところでボーっとして、どうしたの」
開耶が振り返って言う。
「あ、うん……」
躊躇われた。
本当に僕も、そこに入っていっていいのか。
そこは僕に似つかわしい居場所なのか。
そういう不安が、言葉に出て。
「本当にここは僕の家で、本当にみんな僕の家族なのかって信じられなくて……」
けれどそれはすぐに、霧のように消えていった。
「開耶を任せられるのは、君しかいない。私は、君に開耶の家族になって欲しいんだ」
「私たち三人、みんなあなたのことが好きなのよ。大丈夫」
二人の、両親の言葉が優しく僕を潤していた。
開耶が父と母から離れ、僕のほうに歩み寄る。
「心配なんていらないよ。ここは、双葉とわたしの居場所だよ。双葉は、ここにいていいんだよ。わたしは、双葉にここにいて欲しいんだよ」
小さな右手が差し出される。
(ああ、この手は……)
僕を、絶望から救い出してくれた手。
小さくても、弱くても、何より強い手。
その手が、今度は僕を導いてくれる。
僕は自分の左手を伸ばした。
二人の間には何もなかった。
壁はいつの間にか、融けてなくなっていた。
開耶は僕の手を掴み、優しく引いていく。
その力に逆らわず僕は歩いていき、開耶の、僕の両親の元まで導かれていた。
三つの笑顔が僕を包みこんでいた。そして今の僕もきっと、みんなに負けないくらいの笑顔でいるのだろう。
「……ただいま」
「……うん、おかえり」
ひときわ美しく、開耶は笑った。
僕はここで生きていこう。
新しい世界の中で、本当の家族とともに。
なによりも誰よりも愛しい女の子のそばで。
僕は生きていこう。
融壁-the wall had melted unawares- 千石柳一 @sengoku-ryu1
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