あなたの味方だよ-4
布団の中で、開耶を腕枕しながらその頭を優しく撫でてやる。
彼女の髪は指がとろけてしまいそうなほどなめらかで、いつまでもこうして撫でていたいと思わせるものだった。
開耶は開耶で僕の愛撫に甘んじて、気持ちよさそうに目を細めていたが、ふと眼と口を開いた。
「高城さんにね、怒られちゃったんだ」
「あいつが……?」
あの男がなにをしたというのだ。
「四日くらい前かな……わたしが、どうしていいか分からなくて、教室でずっとふさぎこんでる時にね、高城さんがやってきて、わたしの机をばーんって叩いて、『お前、何やってるんだよ』って」
「…………」
「……『あいつはもう、お前じゃないと救えない。俺も奈緒も、上杉を救おうと思ったけどダメだった。俺たちじゃあいつに言葉が届かねえんだ。届くとしたらお前だけ、今のあいつを助けることができるのはお前だけなのに、なんで何もしないでふさぎこんでんだよ。お前しかいないんだよ。頼むよ神崎、俺の友達を助けてくれよ』……って。教室で、人もいっぱいいるのに、高城さんはそう泣きながらわたしに言ったんだ」
「あいつ……」
そんなことがあったのか。
真っ黒になった世界で、僕が絶望している間に。
高城のそれがきっかけで、開耶は僕を助けようと思ってくれたのか。
「わたし、迷ってた。どうしたらいいかわからなくて、ただふさぎこんでるだけで……でも高城さんに後押しされて、決めたんだよ。だから、ずっと待ってた……双葉くんが来てくれるって信じて、あの場所でずっと待ってた」
「そうだったのか……」
「来てくれて、ほんとうによかった……ね、双葉、今日はもうここで寝るでしょ?」
「そうだな……」
もう深夜の三時だ。バスも電車も動いておらず、帰りたくても帰れない。
もしや、それも見越してこんな真夜中に会おうとしていたのだろうか。
そういう可能性もないとはいえないが――。
「んふふ……」
すぐそばでかわいらしく笑う女の子の顔を見ていたら、どちらでもよくなった。
「ね、明日学校行く?」
「そりゃ、学校は行かないと……」
「……なんなら、明日は学校休んで、二人でどこか行っちゃおうか」
「ば、バカ……」
悪戯っぽく笑う開耶。
僕はそんな彼女の髪を撫で、それも悪くないかなどと考える。
「……じゃあ、どこへ行く?」
「うーん……双葉と初めてデートした、あの美術館がいいなあ……」
「またか? もっと他のところでもいいんだぞ」
「ううん、あそこ気に入っちゃった。また双葉と行きたい」
「そうか……」
(あ……れ……?)
そんな、埒もない話をしていると。
僕の体は、猛烈にだるくなってきた。その懐かしい感覚を得ながら、思う。
(ああ、そうか……)
「双葉、眠いの?」
「……そうみたいだ」
眠い。
ものすごく眠い。
心の底から安心してしまい、それにより僕は猛烈な眠気を覚えている。あたかもここ数年の眠気が、いちどきに襲ってきたかのように。
今ならきっと、久しぶりに深く眠れる。
「開耶……ごめん……もっと色々話さなきゃいけないこと、謝らなきゃいけないこと、たくさんあるのに……」
「いいんだよ、寝ちゃおう? ここは安全だから、なんにも心配いらないよ……それに……」
そこまで言って、開耶はひしっと僕を強く抱きしめる。
「わたしがこうして、双葉が寝てる間も守ってあげるからね……だから、安心して眠って……」
「ああ……開耶……ありがとう……」
もう、何も考えられない。
本能のままに目を閉じると、すぐに意識が持っていかれた。
その最後の瞬間、僕の唇にやわらかくあたたかいものが触れたような、そんな気がした。
どれくらい眠っていただろうか。
ここ一年以上、まともに布団で長時間眠ったことなどなかったから、本当に久しぶりにぐっすり眠っていた。
目を開けると、知らない部屋の天井がある。
(ここはどこだ……)
一瞬だけそう思ってから、ああ、開耶の部屋だ、と思い出す。
(そうだ……ゆうべ、僕は開耶と……夢じゃなかったんだ……)
「う、んっ……」
布団から半身起き上がって部屋を見回す。ゆうべは真っ暗な部屋に連れ込まれ、電気も終始つけないままだったからどういった部屋なのか分からなかったが、開耶の部屋は白を基調とした落ちついて清潔感のある空間だった。机は綺麗に片付いており、部屋の隅に僕の背丈の半分くらいの大きさの観葉植物の鉢がある。ベッドのそば、手を伸ばせば届く場所に本棚があり、外国人作家が書いた小説がたくさん並んでいた。
(そう言えば、開耶はどこだ?)
部屋の主がいない。ついで壁にかかった時計を見ると、もう昼の十一時三十分。
「ちょっ……学校……!」
思わず口に出た。今日は平日、普通に授業もある。もう四時限目も半ばの時間帯だ。
安心して眠り過ぎたとはいえいくらなんでもこれはまずい。まさか開耶は僕を放っておいて学校に行ってしまったのではないだろうか。どうする。とりあえず制服と鞄はあるし、今からでも僕も学校へ行くか。しかし――。
僕が部屋の中を意味もなくうろうろ歩きまわっていると、部屋のドアがカチャリと開いて外から私服姿の女の子が入ってくる。
「あれ、双葉? 起きたんだ」
「さ、開耶……大変だ、学校行かないと……」
僕は狼狽したままそう言うが、開耶はちっとも慌てた様子なく、あろうことかしれっと答えてのけた。
「今日はもうサボっちゃおうって、ゆうべ言ったじゃん」
「い、いや……」
確かにそうは言ったが、本気なのか。
「だからもっと、ゆっくり休んでていいよ? もう少ししたらワイシャツも乾くから、そしたらごはん食べて、着替えて遊びに行こう?」
今の僕は、開耶の体操服を着ているのだ。
男物の服など彼女は持っていないから、ゆうべ寝る前にこれに着替えてと言われて体操服とジャージを着こんでいる。
「すまない、服まで洗わせて……」
「いいよ、別に。それより、服をいっしょに洗うって、なんだか夫婦みたいだね」
「ば、バカ……」
「えへへっ……」
悪戯っぽく、子供のように、それでも本当に嬉しそうに、開耶は笑って。
そんな様子を見ていたら、こちらまで自然と笑みが零れた。
「あのね双葉、これあげる」
それから僕たちは神崎家を出て、学校を無断欠席して二人で遊び歩いた。
ゆうべ彼女が言ったように、またあの時の美術館に行き、ショッピングモールで遊び、ファーストフード店で間食して、人気のないところを見つけては何度も唇を重ねた。
互いに帰る方向が違うため駅のホームでの別れ際、開耶がそう言って手渡したものは、お守りの形をしていた小さな布の袋。手作りのようだった。
「お守り、か……?」
こくりと頷く開耶。
「手作りか?」
また、こくりと頷く。それから開耶は頬をうっすら染めながら、たどたどしく説明しだした。
「型紙から、ぜんぶ自分で作ったの。いつか双葉にあげられたらいいなって。結局完成間近であんなことになっちゃって、結局渡せなかったけど……」
ここで言葉を切り、彼女はうつむく。そして再びあげた開耶の顔は、先よりも段違いに真っ赤になっていた。僕が持っているお守りを、目をそらしながらも指さして言う。
「そ、それね、中にわたしの髪の毛が……少し入ってるの。その、双葉、前に私の髪の毛なでてくれて、き、きれいだって……言って……くれた……から……」
言葉はどんどん小さくなり、最後には消え入りそうになっていた。
そう言えば確かに、いつか二人で弁当を食べているときになんとなく彼女の髪を見て、そう言ったことがあったような気がしたが。
「わたし、なにもない女の子だから……こんなつまらないものしか、あげられないけど……それでも、これが双葉を守ってくれるように、わたしのいないところでは、これがわたしの代わりになるように、って、一生懸命想いを込めながら作った……だから……持ってくれるとうれしい……」
「そうか……」
「お母さんやその恋人に取られちゃったり、捨てられちゃったりしたら言ってね。何度でも作ってあげるから」
「そんなことさせるか。これひとつ、守り切ってやる」
僕はその右手にある開耶手作りのお守りをぎゅっと握って、それから反対の手を彼女の頭にぽむっと乗せた。
「ありがとう、大事にする」
「……え、えへへ……よかった……」
真っ赤な顔で恥ずかしそうに、それでも笑ってくれた。
次の日の朝、僕たちが手をつないで並んで登校していると、いきなり後ろから何かにがしっとタックルされた。
「こーら上杉い!」
「な、なんだ!?」
びっくりして振り向いてみると、タックルしてきた主は高城。そばにはそいつの彼女である山口もくっついている。
「なんだじゃねえよこの野郎、なーに幸せそうに並んで登校してるんだ、このどうしようもねえバカップルどもが」
「さくやーん! よかったー、元気になったんだねー!」
その山口は開耶に抱きつき、僕のほうは高城にいい笑顔でガスガスと膝蹴りを入れられる。
「俺らがどんだけ心配したと思ってやがんだ、このっ、このっ」
「わ、悪かったよ……」
「心配かけてごめんなさい……わたしたち、もうだいじょうぶです」
山口の腕から離れ、僕の手を取って開耶は言う。
「どんなことがあっても、わたしたちはもう絶対に引き裂かれません」
「……ああ」
それはとても優しくて、力強くて。
こんなに強い子だったんだなと、改めて思った。
それからおよそ一月後、僕は開耶の家に赴き、彼女の母親である幸恵と、正月休みに再び日本へ戻ってきた開耶父、哲弥と会談し、開耶を傷つけてしまったことを深く頭を下げて謝罪した。
それでも、彼らは僕を許してくれた。
いいのよ、と幸恵は微笑んでくれた。
これからも開耶を頼むと、哲弥は言ってくれた。
哲弥がそう言うのを待っていたかのように、開耶は飛び出してきて。
「お父さん、お願いがあるの。わたしの……わたしの、一生のお願いが」
(開耶……)
真剣な表情の彼女を見て、ああ、そうだなと思う。
「……僕の口からも、言わなければならないものな」
僕は立ち上がって、開耶のそばに並んで。
目の前の彼に向かって。
声を揃えて、ともに同じ願いを口にする。
その三十秒後、開耶は顔を真っ赤に染めて、涙をぼろぼろ流しながら、言葉にならない上ずった声を上げ、満面の笑みで僕に抱きついてきた。
僕たちの願いが聞き入れられると同時に、嬉しいおまけまでついてきた。
たぶん自分が本格的に日本に戻れるのは君たちが卒業する頃だろう。それまでは自分の書斎を貸すから、いつでもそこに寝泊まりしていって構わない。もちろん、卒業したら部屋を割り当てるよ。その代わり、この難儀な娘をどうか頼む。二度と傷つかせないくらいの心持ちで。
そう、哲弥は言った。
開耶はそれを聞いてまたも泣き笑いになり、僕を抱きしめながら、よかったね、よかったねと涙声で繰り返していた。
それからは、元から大して多くない僕の荷物を、何日かに分けて開耶父の書斎に運び込んでいく。
娯楽など一切許されていなかったから、持ち込む物など衣類と教材程度で、私物など本当にごくわずかだ。机は書斎にある物を使っていいとのことだし、ベッドは開耶の部屋で彼女と一緒に寝ればいい。
朝、家を出て学校へ向かう時に少しずつ持っていき、帰りに開耶の家に寄って荷物を下ろしてから自宅に戻るといったことを何日か繰り返すだけで、引越しの準備は終わってしまった。
そうして全ての荷を開耶父の書斎に下ろし、開耶と一緒に片付けを済ましたところで、僕はふうと息をついた。 開耶は嬉しそうに、これでやっと一緒に住めるね、などと言って笑っている。
そう、ここに移る準備は整った。
あとは――。
「最後に、一番面倒なことをしなければな」
「…………?」
開耶は、なにがあるのか分からないような顔をする。そんな彼女を正面から見て、自分のやるべきことを確かめながら言う。
「僕の家に行って、母親とその恋人に最後に挨拶してくる」
「えっ……!? だ、大丈夫なの? 行かなくてもいいんじゃない……?」
目を丸くし、わたわたと戸惑いを見せる開耶。心配してくれているのだろう。
僕は開耶の肩にそっと手を置いて、静かに説明した。
「確かに行かなくてもよさそうだが、これは僕のケジメなんだ。あいつらから離れるってキッパリ言わないと、たぶん心に靄が残るから」
開耶はうつむいて考えていたが、やがて顔を上げるととんでもないことを言いだした。
「わたしも一緒に行く」
「……な、なにを言っているんだ、大怪我するぞ。悪いことは言わないから、開耶は家で待っていろ」
今度は僕が目を丸くする番だった。あいつらは酒乱だ。相手が女の子だろうが構わず平気で一升瓶で殴ってくる。そんな場所に開耶と一緒には行けない。いくらなんでも危険すぎる。
けれど開耶は、前言を撤回しなかった。
「それでも行く。双葉を一人にはできないもん」
身体は震えているけれど、瞳は揺らいではいない。
強い目だった。
「……わかった。開耶には、僕が絶対に手出しさせない」
「最初で最後の挨拶に来た。僕は今日限りで上杉の妙を捨てる。もう金輪際、お前たちの道具にはならない。そう伝えに来た」
インターホンも鳴らさず、鍵を開けて上がり込み、中にいた人間二人にそう告げる。
夕方にもかかわらず揃って酒を飲んでいる剛史と母は、それを聞くと濁った四つの目で僕たちを睨みつけて立ち上がった。
「ここまで育ててやった恩を忘れやがって、この馬鹿息子が!」
「んなわがままが許されると思ってんのかあ?」
背後で、開耶が震えているのが分かる。自分の両親とはかけ離れたこの中年男女二人を見て、すっかり怯えているのだろう。
怖いのは僕だって同じだ。今まで散々暴力を振るってきた人間に相対し、植えつけられた恐怖で脚が震えているのだ。
だけど、ここを乗り越えないと先はない。
「僕は、自分を人間扱いしてくれる人のものになる。お前たちのものにはもうならない」
「寝言言ってんじゃねえぞ、もういっぺん身体に分からせてやろうか!」
「いやっ……!」
開耶が悲鳴を上げる。剛史の大きな拳が、眼前に迫る。
鼻の二ミリ手前で、その拳を自らの右掌で受け止めた。
ギリギリと音がし、右腕が震える。
ずっと無抵抗を貫いてきた僕の、初めての抵抗だ。
「お前たちなんかに屈してなるものか! 開耶がいる限り、僕の心は絶対に折れない! 覚えておけっ!」
そう吼えて剛史を突き飛ばし、相手が虚を突かれているうちに踵を返してその場をあとにする。
「開耶、帰るぞ」
「あ、う……うんっ……」
後ろから襲いかかられるかと思っていたがそんなことはなかった。家の扉を閉め、鍵をかけ、しばらく歩いたところで、何かが壊れたり暴れまわったりする音と、お前のせいでどうたらとか、そんな二色の怒声が背後から響いてきた。隣を歩く開耶がびくっと身を竦ませる。
「心配ない」
開耶の肩にそっと手を乗せ、安心させる。怒りの矛先がいなくなれば、あいつらがそうなるのは必定だ。最後まで醜い二人だ。
「あんな家で、双葉はずっと耐えてたんだね……もしわたしだったら……ううん、考えたくもないよ……」
「すまない。怖かっただろう」
僕はいまだ手に持っていた家の鍵を握りしめると、高く高く放り投げた。それは天高くで夕日を反射して、一瞬だけキラリと光って見えなくなる。
もうあれは必要ない。二度とあの家の敷居を跨ぐこともないだろう。
「これでやっと終わったな」
「うん……双葉、怪我してない?」
「ああ、平気だ。ありがとう」
さあ、帰ろう。
開耶の家――いや、開耶と僕の家に。
僕を認めてくれる本当の居場所に。
「ねえ、双葉、今日は豪勢にご飯作るよ。食べたいものある? 遠慮しないでいいよ?」
「そうだな……でも、開耶の作ってくれるものならなんでも嬉しいから……」
「もう、それじゃ答えになってないよ……」
「ははは……」
「んふふっ……」
長い影を踏みながら、二人で笑い合って帰路につく。
ああ、幸せだ。
今度こそ、今度こそこの幸せを大切にして、ずっと二人で生きていくんだ。
もう絶対に、絶対に手放したりしない。
そして、月日は流れて。
「双葉、双葉。もう朝だよ」
「…………う……あと二時間……」
「ダメだよ、もうかなりギリギリなんだから」
うららかな春の日に、僕は少女の声を耳にしながら夢と現実の狭間をうつらうつらと漂っていた。
もはや、自分を責めて眠らない夜も、暴力の恐怖で眠れない夜も訪れない。
ふかふかなベッドで、毎日開耶と抱き合って眠っている。
最近は受験のストレスからも解放され、少々寝過ぎてたまに遅刻してしまうのが問題なのだが――。
「ほら、今日は遅刻できないんだから……ね?」
すでに起きているその開耶が、僕の身体を優しく揺り動かしながらそう言う。
ぼやけた頭で考える。今日は何か特別な日だったろうか。
そして――。
「……今日、卒業式か」
「そうだよ、双葉」
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