第5話 勝つこと
息切れが激しい。目が眩む。自分の吐息する声しか、聞く余地はない──
鬱蒼とした緑が、自分の肌を切る。鮮血が飛び散る。痛みが脳裏を掠める。それでも、彼女は走り続けた。いつも微笑んで自分を見下ろす、森の木々たちが、自分を追いかける男たちのようにしか見えない。
恐怖だった。それは、本能が察知する悪寒だったのだろう。後ろから聞こえてくる別の吐息たちを、認めない訳にはいかないのだ。これは現実である。皮肉にも、現実は決して悪夢ではないのだ。
起こり得る事こそが、実体となり得る。
我が身の危険と共に。
僅かな時間と共に、迫ってきている。
突然、彼女の視界が暗転した。衝撃。思わず、舌を出す。土の味がする。いつの間にか、根に足を取られてしまったらしい。
そんな事を、ぼんやりと考える。とうの昔に酸素が欠乏した脳では、現実を虚ろに受け入れる事くらいしかできなかった。終わったのだ。全てが。
真後ろから、同じように息切れが二、三ほど聞こえてくる。ただその吐息には、微妙に悦楽が混じっているように思えた。「手こずらせたな」、という男の声が、やけに頭に響いてくる。そして前触れもなく、彼女の服に一人の男が手をかける。絹の裂ける音。白い肌が露出する。下卑た笑いを浮かべる男たち。
──逃げたい。
彼女は祈った。果てしなく、神でもない、何かに必死に祈りを捧げた。しかし、それが無駄であることにも気付いていた。
運命は、味方してはくれない。
その動く視界の中で、銀色に光る物が目に入った。目の前の男が、服に気を取られて投げ捨てたのだ。手が届く距離にあった。手を伸ばせば、拾える。
今までの自分ならば、それを取ることに躊躇ったろう。刃物を持てば、間違いなく殺される。汚れるだけで済むのなら、このままの方がいいと。
だが、今の彼女は違っていた。勝ちたかった。何かに勝ちたかった。もう、負け続けることはうんざりだった。
だから──
彼女は、ナイフを握った。
*
血にまみれたナイフ。三体の、転がった死体。
勝ち残った、自分。
無我夢中で、何をしたかはよく覚えていない。ただ、死にたくないという思いだけが、脳裏で渦巻いていた。それだけだったのに。
いつの間にか、笑っている自分に気く。罪を犯してしまったのに、この清々しさは何だろう?
今まで無力だけが支配していたこの世界が、やけに自由に感じられる。
自分は無力ではなかった。
ただ、変わる努力をしなかっただけ。
変わるために罪を作る事を、恐れていただけだった。
罪を味方に。罪深く、強くあれ。
時の翁に授かった言葉を、もう一度繰り返す。
永遠に自らの身体へ、刻みつけるために。
頬にこぼれる、しずくの意味さえ気付かずに。
罪深く、強く。 雛咲 望月 @hinasakiyu
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