第4話 血と骨
後ろから、翁が追いかけてくる気配はなかった。彼女はただ、走り続けた。逃げて、もつれて、転んで、それでも走り続けた。手近にあったドアノブを掴み、一気に入って鍵を閉める。暗闇の中、静寂だけが周りを支配していた。
不意に、前方で明かりが灯る。勝手に,奥の蝋燭へ火が点いたらしい。最初、翁かとも思ったが、気配は感じられなかった。ただ、静かな闇だけが灯に照らされている。ここには、人形はいないのだろうか。
すると、カタリと音がした。明かりの範囲内に、それは落ちてくる。人形の腕だった。ただ決定的に違うのは、こびり付いた血と骨。それが、コロコロと足下まで転がってくる。
指先でそれをつまみ上げると、天井を仰いだ。視界の範囲内に、人形は居ない。
しかし、異変は起こった。
靴の下に、肉を潰す音が聞こえ出す。驚いて壁に身体を預けると、またグチャリと潰れる音が聞こえる。背中に手をやると、血でべったり濡れていた。
同時に次々と、幾本かの蝋燭に灯が点される。一本、二本、三本……全てが明るくなったとき、彼女は知った。この部屋の壁、床、天井全てが、人形たちで埋め尽くされていた事を。
先程背中で潰してしまった人形と、目が合ってしまう。血塗れになり、眼球が白く垂れ、脳髄があらかた飛び散ったその人形は、こちらを見つめていた。
わらっていた
あらん限りの声を出して、彼女はドアへと向かう。そこに、翁が立ち塞がった。静かな微笑みを浮かべている。
美しい、狂った人形のように。
「ここの人たちはね、特別なんだ──特別、現実が嫌になった人たちさ。完璧に無我になりたい時、人はこの家になるんだ。集団に溶け合い、考える気力も無くしていく。彼らは、それが一番幸せなんだよ。絶望感も、逃避感も、既に感じられなくなってるんだから」
「厭……こんな風になんて、なりたくない……なりたくないわ!」
泣き叫んで、少女は座り込んだ。また足下で潰れた肉の触感と、血の暖かさを感じながら。
それをしばらく翁は見続けていたようだったが、蒼い瞳を瞼で閉じる。噛み締めるように、
「それなら、帰るべきだよ。貴方の元いた場所、元いた空間に。ただし、ひとつだけ忠告しておくよ。絶望だけに飲み込まれたら、君はあの場所で、必ず死ぬ。それを防ぐには──」
霞がかったように、声が遠くなっていく。視界が白く濁っていく。
「罪を味方にするんだ。罪深く、強くなりなさい」
その言葉と共に。
全ては、消え去った。
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