赤ちゃんを産む魚

外宮あくと

赤ちゃんを産む魚

 私は家に帰るなり、リビングに据えた水槽の前に座り込んだ。

 水草の中を静かに泳ぎまわる熱帯魚達。それをぼうっと眺めるのが、私は好きだ。いつも暇さえあれば魚を眺めている。たとえ何時間眺めようが代わり映えのしない水槽なのに、飽きることはない。彼らが私に与えてくれるいやし効果は絶大だった。


 初めは、熱帯魚なんて飼うのは反対だった。水換えや世話が大変そうでやりたくなかったし、魚なんて一欠片の興味も無かった。夫の達也が責任持って飼うというので、渋々承諾してしまったのだ。

 しかしいざ飼ってみると、キラキラと輝くネオンテトラや色鮮やかな尾びれをヒラヒラとなびかせるグッピーに、私はすっかり魅了されてしまった。達也が世話するはずだったのに、毎日甲斐甲斐しく餌をやり、2週間に1度水換えをしているのはこの私だ。なんだか話が違っている。

 私の魚達への愛着は日に日に増して、一組のつがいのグッピーに名前まで付けてしまった。

 青い尾びれが美しくデルタ型に広がったオスが太郎君。同じく青い尾びれのメスが花ちゃん。達也以外には、このネーミングは内緒だ。




 ブーンという低いモーター音と、ろ過器からの落水音が響いている。そして遠くを走る自動車の音が微かに聞こえてくると、かえって部屋の静けさが身にしみてくる。

 夕闇が迫り暗い色調に染まる部屋の中、私は体育座りをして魚たちを見ている。灯りは水槽に取り付けたライトだけで、部屋をほんのり照らしていた。水槽だけが薄暗い部屋の中に浮かび上がっていて、見つめ続けていると、自分も水槽の中に沈んでいるような錯覚を覚えた。

 ツンツンとガラスを軽くつつくと、水草をバックに集団で泳ぐネオンテトラが一斉に方向転換する。一尾だけ遅れたのがいて、思わず唇が緩んだ。


 パッと部屋の中が明るくなった。


「美奈ぁ、電気くらい付けぇや」


 達也の声が背中に降ってきた。しょうがないなあといった声だった。彼は、パンパンに膨らんだ鞄をソファに置くと、キッチンの方へ歩いて行く。

 手を洗う水音。そして、冷蔵庫をゴソゴソと探る音がする。


「なあ、何食べたい? ってゆうても大したもんないしなあ……」


 達也は、私の代わりに夕食を作ってくれるつもりらしい。作ってやろうかなどとは言わずにさっさと自分から動いてくれる、彼のさり気なさが私は好きだ。


 今日は外食に出かける予定だった。随分前から予約もしていた。テレビでよく見るシェフのレストランで、なかなか予約が取れないことでも有名な店だった。ずっと楽しみしていたけど、キャンセルしてしまった。

 少々の風邪ひきくらいなら絶対に取りやめない、這ってでも行く。でも今日という日だけはどうしてもダメだった。


「食えるかぁ?」

「……あんまし食欲ないわ……簡単にスパゲッティとか?」

「んじゃ、スパゲッティつくろか」


 冷蔵庫の中を探っている。実際大した物は入っていないから、今夜のメインデッシュは残り物スパゲッティというわけだ。レストランのフルコースとは大違いだが、別に気にならない。……どうでもいい。

 達也が、また聞いていた。


「何スパがええ?」

「……なんでもええよ」


 本当になんでもいい。考えるのも面倒だし食欲なんて全く無いのだ。任せるし文句も言わないから、好きにやってほしい。


「具、何にしょう」

「…………」


 一々私に質問したり指示を求めてくる達也に、段々と苛立ちが募ってきた。

 結婚前の彼は一人暮らしで、自炊もしていた。スパゲッティを作るくらいお手のものだ。それなのにこうやって、何かと話しかけてくる理由も分かってはいるのだが、そろそろ黙って欲しい。家に帰ってくるまでの道すがらも、達也はどうでもいいようなことをずっと喋っていた。今日の彼は口数が多すぎる。


「あるもんでいいやん」

「うぅん、白菜の漬物やろ納豆やろ……」

「なんでぇな、トマトとかソーセージとかあるやん」

「おおぉー、ほんまやー」

「…………」


 絶対、わざと言ってる。しかも面白くない。私は達也を振り向きもせず、ただ水槽を眺め続けた。




 水槽の角に吸盤で取り付けた四角い小部屋をじっと見つめる。そこに花ちゃんがいる。お腹がパンパンに膨らんだ彼女を、一時この小部屋に隔離しているのだ。そう、この小部屋は彼女の出産のための部屋なのだ。


 グッピーは卵胎生で、親魚はお腹の中で卵をかえし稚魚の状態で出産する。赤ちゃんを産むなんて、なんだか人間みたいで不思議だ。私は、花ちゃんが無事に赤ちゃんを産むのを見たくて、こうして水槽にかじりついているのだ。

 小箱には仕切りがあり、上下の部屋に分かれている。花ちゃんがいるのは上の部屋だ。仕切りはV字型でその最低部に細い切れ込みがあり、生まれた稚魚はこの切れ込みを通って下の保育室に落ちていく仕掛けだ。親魚と稚魚はここで離れ離れになる。その後稚魚は、成魚たちとは別の水槽で飼育されることになる。


 花ちゃんがくるりくるりと回転した。産卵箱に入れられて三日目。そろそろ産まれるのだろうか、それとも、狭苦しい所に閉じ込められてストレスを感じているのだろうか。


「花ちゃん、頑張れ……」


 鍋に水を張る音に続いて、カチャッとコンロに火を付ける音。ちらりとキッチンに目をやると、丁度達也がこちらを向いてニッと笑った。それが取ってつけたような笑顔に見えてしまうのは、私が笑えなくなったからだろうか。


 何も言わずに私は目を伏せた。すると、ソファの上の膨らんだ鞄が目に入った。旅行にでも行くのかといった荷物だ。思わず、はぁっと溜息が漏れる。

 いくら入院といっても今日一日だけのことだったし、泊まりもしないのにこの荷物は多すぎだった。オレが持つからといって、達也が勝手に用意したのだ。まあ、もう終わったことだし、これもどうでもいい話だ。


 それにしても、と思う。なぜ今日なんだろうと。

 たまたまと言ってしまえばそれまでだが、今日は私達の初めての結婚記念日だというのに……。



「美奈ぁ、トマトどう切る?」

「……トマト缶やったら切らんで済むよ」

「んじゃ、ソーセージは?」

「……もう、好きにしぃな」

「なあ美奈ぁ、玉ねぎも使っていいんか?」

「どーぞ」

 ――ほんま……やかましぃなあ。


 もしかして、本当は私を怒らせたいのか、と思ってしまう。過ぎたるは及ばざるが如し、と頭に浮かんできた。面と向かって達也に黙れと言うつもりも気力なかったが、察して欲しいと思うのは我ままだろうか。

 トントンと包丁を使う音が聞こえてくる。


「お湯湧いたでぇ~」

 ――報告せんでええし。

「茹で時間、何分や? どこや? どこに書いてあんねん」

 ――よぉ、見ぃや。ちゃんと書いたぁるって。


 バラバラッとスパゲッティを入れる音。本当に時間を確認したのかと不安に思っていると、ちゃんとキッチンタイマーを合わせる電子音が聞こえてきた。

 達也の手際がいいのを私は知ってる。料理の味が結構いいのも知っている。後片付けまで卒が無いのも知っている。彼がとても優しいことも。

 有り難いと思っているのは本当。頼りにしているのも本当。でも、今は少しだけ独りになりたいと思ってしまう。1時間でも30分でも、5分でもいいから。




 水槽の中はとても平和そうだ。

ゆらぐ水草、ゆったりと泳ぐ魚たち。そして、出産間近の花ちゃん。何にも考えずに、ただぼうっとこの水槽を眺めていたい。

 また、花ちゃんがくるりくるりと回った。

 と、お尻から丸いものが飛び出てきた。それはプルンッと震えピンッと伸びた。稚魚だ。花ちゃんの赤ちゃんだ。


「た! た、達也ぁぁー! う、ううう、生まれたぁ!」


 思わず叫んだ私の声は、思いっきり裏返っていた。


「えっ? あ、グッピー? やっとかぁ」

「お、お、おお、泳いでる! ああ、ちゃうわ、落ちてる。隙間通って下の部屋に入った!」

「ほおお、そうか。まだまだいっぱい生まれるでぇ」

「うん」

「良かったな」

「うん!」


 近づいてきた達也を振り返った。

 彼が笑っている。私を見ている。水槽も花ちゃんも全く見ないで、私だけを見ている。私の頭に手を乗せて、ヘヘッとまた笑った。


「赤ちゃん、見ぃひんの?」

「後でゆっくり見るわ。まだ料理の途中やし」


 そう言って、目尻を下げたまま達也はキッチンに戻っていった。

 一緒に見てくれるのかと思ったのに、ちょっとがっかりした。ついさっき、一人にして欲しいなんて思ったのがバレていたんだろうか。

 仕方がない、彼は夕食を作ってくれてるんだしと、私はまた水槽に目をやった。



 花ちゃんがくるんと回る度に、次々に稚魚が生まれてきた。その度に私は、おお! と歓声を上る。

 ちっちゃなちっちゃな命。彼らは必死にもがくがまだ泳げずに沈んでゆき、下の部屋へ吸い込まれるように落ちてゆく。私は、もう少しママの側でゆっくり出来ればいいのにねと思った。


 なんだか、目がジンジンと熱くなってきた。涙がこぼれそうになった。

 花ちゃんが無事に赤ちゃんを産んでくれて嬉しいのに、私はどんどん寂しくて寂しくて堪らなくなってゆく。沢山の命が生まれてくるこの光景は、私にとって皮肉だった。

 唇を噛んだ。漏れそうになる嗚咽を必死に堪えた。達也に気付かれないように、膝を抱えて身を縮める。そしてまた、花ちゃんと赤ちゃんたちを見つめた。見れば涙が溢れてきそうになるのに、それでも赤ちゃんを見ていたかった。悲しくて堪らないのに、愛らしい命の誕生を見ていたかった。


 また花ちゃんは回転し、稚魚が生まれた。

 その子にはまだ卵膜が付いていた。半分程身体が出て丁度Uの字みたいだ。身体を一ひねりさせれば膜はすぐに破れるだろう。

 花ちゃんが振り返った。

 ほら、赤ちゃん頑張ってるよ、と心の中で話しかけた。


 と、パクリ。


「…………」


 花ちゃんが……赤ちゃんを食べた――――――。











「…………達也ぁ。食べた、赤ちゃん食べた……」

「はぁ、なんてぇ? 聞こえへんかった」


 達也が呑気な声で聞き返してくる。無性に腹が立った。

 私の心臓はバクバクと激しく脈打ち、喉がつかえて息さえ苦しい。


「だから! 花ちゃんが赤ちゃん食べたぁぁーーーー!!」


 自分でも驚くような大声だった。こういうのを絶叫と言うのかもしれない。

 耳の奥でガンガンと激しい音が鳴り響く。吐き気までしてきた。ブンブンと頭を振ると、髪が頬を殴りつけてくる。

 落ち着けと思うのに、口が勝手に叫び続ける。


「自分で生んだのに食べたぁ! 自分の子やのに食べたぁ! なんでやー! なんでやのー!」

「美奈!?」


 ガチャンとキッチンで大きな音がした。達也がダッと走ってくる。

 自分を押さえることができなかった。私は理不尽にも達也に怒鳴り続けている。


「なんで食べるんよぉ! なんでよぉ!」

「美奈! どうしたんや? 稚魚を食べてまうことあるって、知ってたやろ? これは習性っちゅうか……」

「でも、いややー!」

「しゃーないやん、そういうこともあんねん。せやから産卵箱に入れたんやろ」

「あかんて、食べたらあかんて! そんなん無しやろ!」

「美奈……」


 達也が私を抱きしめた。

 見たはずもない血の色が私の頭の中に広がり、まだ生々しい傷が更にえぐられていた。



「自分の子やのに! 自分の子やのに!」

 ――今日、私は掻爬そうはした。


「なんでやぁ!」

 ――稽留けいりゅう流産。初めての妊娠の結末。


「母親やのに、なんでやぁ!」

 ――私は気付くことができなかった。



 私の赤ちゃんはもういない。

 私はお腹の子の命が尽きていたことに、気付けなかった。誰よりも近くあの子と共にいたのに、気付けなかった。悪阻が和らいだことにホッとしてさえいた。それが赤ちゃんからの最後の信号だと、気付けなかったのだ。

 達也はなお強く、私を抱きしめた。


「必死で生きようとしてたんや!」

 ――私は守れなかった。守る術もなかった。


「そんなんちゃうやろ。母親ってそんなんちゃうやろぉ?! 失格なんや! 花ちゃんも私も失格なんやぁ!」


 いきなり達也は私の身体を引き離した。

 私を見据える目は恐ろしいほどに見開かれて釣り上がり、そして僅かに潤んでいた。彼の指が強く私の腕に食い込んでいる。どれほどの力が篭っているのだろう。私はそれを痛いとも感じず、彼の目に射すくめられて身動きできなくなった。そして、ブルブル震える彼の唇を見つめていた。


「アホかぁ! 魚と一緒にすんな! それ以上言うたら、どつくぞ!」


 思い切り怒鳴られた。

 一気に涙が溢れてきた。ボロボロ、ボロボロと涙がこぼれてもう止まらなかった。私は子どものようにわあわあと声を上げて泣いた。何か言おうとしていたはずなのに、もう頭の中はグチャグチャでわけが分らなくなっていた。しゃくりあげながら、いやや、なんでや、と何度も繰り返すだけだった。

 私のお腹はもう空っぽで、なのに胸の中はドロドロとしたものでいっぱいで、助けてくれと彼にしがみついた。

 達也はまた私を抱きしめてくれた。どつくって言ったくせに。そして何度も何度も背中を擦ってくれていた。彼の大きな手のひらが暖かかった。


「そんな捨て猫みたいな顔して泣くなや……」





 稽留けいりゅう流産とは子宮内で胎児が死亡し、そのまま留まっている状態をいう。放置すればいずれ強い腹痛をともなった出血を起こし、場合によっては母体が危険な状態になることもある。従って、稽留流産と診断がつけば、子宮内容除去術を行うことになる。


 医者は十例の妊娠の内、一例は流産に至ると説明した。決して珍しいことではないと。稽留流産は胎児側の遺伝子異常によるもので、これは防ぎようのないことであり、妊娠後の母親の生活や行動とは関係ないとのことだった。

 だけどそんな説明が何になる。私は一度しか妊娠していない。その一度が流産となったのだ。医者の言う10%は、私にとって100%じゃないか。


 いや、本当は数字なんかどうだっていいのだ。私の赤ちゃんが死んでしまった、そのことがどうしようもなく悲しくて辛くて堪らないのだ。自分の行動に原因を求めてしまうのだ。

 会社を休まなかったからだろうか。パソコンの電磁波のせいだろうか。長く立ち続けたせいだろうか。食事をあまり摂れなくなったせいだろうか……。いくらでも出てくる。

 そうではないと理屈で説明されたって、他人の例を挙げて慰められたって、感情がまるで納得してくれないのだ。私がいけない。私が悪いのだと。

 そして、稽留流産の処置として行われる子宮内容除去術とは、いわゆる中絶手術と同じもので、そのことが私を一層傷つけたのだ。


 妊娠を知った時、もう我が子を抱いた気分になっていた。生まれてくるのが当たり前だと思っていた。いや、当たり前すぎて当たり前とすら思っていなかったのだ。

 妊娠して出産する。極普通の極当然な事がこんなにも難しいことだった。命は当たり前に生まれてくるのではなく、奇跡のような幸運に恵まれて生まれてくるのだと、私の赤ちゃんはその生命で教えてくれた……。





 長いこと、私の背をさすり続けてくれた達也がポツリポツリと話しだした。やっと呼吸が落ち着いてきた私に、低い声でゆっくりと語りかけてくる。


「……失格な訳ないやろ。なんでそんなこと言うねん。止めてぇや……」

「…………」

「お前、赤ちゃんのこと大事に思ってたんちゃうんか。めっちゃ嬉しそうに赤ちゃんのことばっかし喋ってたやん。男の子かなぁ女の子かなぁ、ベビー用品買いに行こう、服は取り敢えず黄色でって……」

「…………舞い上がってただけやん」

「ええやん、舞い上がったら」


 卑屈な私の呟きを、達也は全部受け止めてくれた。

 更に背をさすりながら語りかけてくる彼の声は、まるで催眠術のように私に染みこんでくる。


「オレも舞い上がってたわ。もう名前の候補まで考えてたんやで。……それともお前、赤ちゃんのこと要らんとか嫌いやとか思ってたんか」

「……思ってへん」

「ほんなら、失格ちゃうやん……」

「だって、産んであげられへんかった……」


 達也が黙り込んだ。


「赤ちゃんが、お前のこと怒ってるとか思てんのか?」

「…………」

「アホぉ。前からアホやなって思ってたけど、ホンマにアホやな。泣けてくるわ」

「…………」

「お前は自分のことを好きや好きやって言うてくれる人のこと、嫌いになれるんか? 大事にしてくれた人に、イチャモンつけて怒ったりするんか?」


 私はおずおずと首を振った。

 達也の声が耳に優しい。今までで一番優しい。


「な、せぇへんやろ。あの子もそれと一緒ちゃうの。ちゃんとお前の気持ち分かってくれてるって思わへんの?」

「でも……」

「言うな」


 への字に歪む私の唇の端を、達也の指がそっと上に持ち上げる。


「笑ってみいや。幸せな時間やったやろ。短かったけど3人で過ごせたんや。これからも、大好きやでって言い続けたら、そんでええんちゃうの?」


 また胸が詰まって、涙がこみ上げてきた。達也のシャツが私の涙でもうビシャビシャだ。

 私は達也を見上げてうんうんと頷いた。赤ちゃんを悲しませたくは無かった。彼の言うように私達は、幸せな時間を過ごしていたのだから。

 彼の言葉で、私の罪悪感が全て消えるわけでは無かったが、赦されてもバチは当たらないのかもしれないと思えた。胸の奥にポッと火が灯り、冷えきった身体に暖かいものが流れてゆくように感じた。



「だいたいなあ、お前一人の赤ちゃんとちゃうねんで。オレの子どもやっちゅうこと忘れてへんか? 自分ばっかし辛がって泣きやがって……」


 達也の顔をじっと見つめた。目尻が少し赤くなっている。


「…………なんで、泣かへんの」

「お前がピーピー泣くからや!」

「い、痛た!」


 こめかみをゲンコツでグリグリとこねられた。結構力が入っている。涙を堪えた分、力がこもっているのかもしれない。自分の悲しみより先に私の悲しみに寄り添ってくれていたのだろう。

 私は彼の気持ちも思いやらずにいたのだ。なのに、1人にして欲しいなんて思ったりしてごめんね。そして、ありがとう。


「……今日で1年やね。来年の結婚記念日は笑って乾杯できるかなぁ」

「できるに決まってるやん。そんで再来年は家族増えてるって。毎日笑って笑って、泣く暇なんかないって」

「……うん」


 そうだといいな。

 達也が優しく頷いている。私も頷き返した。そして二人同時に涙をこぼしていた。







 水槽の中では相変わらず熱帯魚達がゆらゆらと泳ぎ、すっかりお腹のへこんだ花ちゃんの赤ちゃんは数10匹に増えていた。小さな小さな赤ちゃん達がピクピクと震えるように泳ぐ様子に、静かに2人で見とれていた。

 大きく育って欲しい。穏やかな気持でそう思うことが出来た。花ちゃん怒ってごめんね、とも。

 波立っていた私の胸は、達也にもたれかかっているうちに落ち着きを取り戻していた。

 と、唐突にあることを思い出した。


「ねえ、スパゲッティ……」

「あ…………多分うどんになってるなあ」


 顔を見合わせて、プッと同時に笑った。達也らしからぬ失敗、ゆで直しだ。

 ちゃんと、笑える。

 彼と一緒なら大丈夫だ。何があっても大丈夫だ。

 きっと来年の記念日は達也と一緒に笑っていられる、そう思った。

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