最終話 魔王さまとメイドさま
ガチャン!
「あっ! ……あうぅ……」
魔王さまの珈琲を注ぐべく用意した杯を手から滑り落とし、床で粉々に割ってしまう。
「あらあら、大丈夫よ、アンジェ。お片付けは私が」
床に膝を折り腰をぺたんと落として泣き出しそうな顔の天使に、人魚が微笑みかける。
「でもぉ……」
「魔王さまに、早く珈琲を持っていってあげて? ね?」
「あい……ティーナ、ごめんなさ……」
謝罪を口走ろうとした小さく可憐な唇を、白砂のような人差し指が抑え付ける。
「ぃんむぅ」
「謝らない。こういうときは?」
「あい、ありがとぉ」
ティーナはニッコリ微笑んで、珈琲を促す。
アンジェは、涙を零すことなく、深く香ばしい匂いに包まれて、魔王さまの私室へ向かっていった。
「さて、っと」
翼のない天使の背中を見送り、朝食の洗い物の手を一端止めて、床に割れた杯の破片に手を伸ばしたティーナ。
それより先に、破片をつまみ上げる小さな指先。
「まぁ、ネフィル」
食卓から最後の食器の後片付けを済ませて来たらしい堕天使が、そこに立っていた。
「どうも」
「え?」
「姉様、慰めてくれて」
このコもなかなかに難儀な性格だが、だんだんコツのようなものを掴み始めていて、ティーナ以下メイド達は、以前よりも距離を縮めている感触でいる。
「ティーナは洗い物をお願いします。姉様の不始末は、私が」
「ええ、では。お任せしますわ……それから」
「?」
「ありがとう、ネフィル」
その言葉に、つんとすました眉や瞳や唇が小さな動きを見せて、最後に頬を染めたネフィルは、ぷいと顔を背けて後片付けに入る。
「どうも」
口の中で小さくくぐもり、声にしてはかすれて、はたして人魚の耳に、届いたのかどうか。
今朝も料理で出たゴミは大量だ。余り物を上手く活用してもなかなか減らない。中には、アンジェが割ってしまった杯の破片も含まれる。
「んっしょ!」
小さな身体に不釣り合いなほどの大きなゴミの袋を抱え、城の外に出たところで、ネフィルの手からそれは重さを失った。
「なぁに、これ?」
ネフィルが両手で抱えていた袋を片手で軽々と持ち上げる、竜人のしなやかな堂々たる姿。
「ゴミですけど……」
訝しげなネフィルの視線を意にも介していないようだ。
「あ、ゴミね」
瞬きほどの煌めきを放ち、拳を灼熱の炎と化して、袋を灰すら残さない。
「じゃあねえ~」
そのままひらひらと手を振り、城門へと向かう背中に、ネフィルは喉の奥につっかっかった言葉を何とか放りだした。
「あ……で、デルフィ……!」
「ん~?」
歩みを止めず肩から視線だけを寄越す彼女へ。
「あ、りがと」
城門の警備に就くデルフィに、本当はもっと言葉を尽くして声をかけたかったのに。
「ネフィル~?」
「はい?」
「いつも美味しい料理、ありがとさんっ!」
ニカッと太陽よりも眩しい笑顔に、ネフィルはつられて口元を緩ませた。
城壁に背を預け、退屈を噛み殺すかのように欠伸を世界に放ったデルフィの横を、眠気を覚ますかのような涼しい風が吹き抜けていく。
「おい、サボるな、門番」
「なぁによう、こんな世界の果てに、誰も来ないってえ、メルぅ」
エルフの生真面目な咎めに、呆れるような溜息でもって返すデルフィ。
「その誰も来ないような世界の果てに、何でメイドが6人も揃っているんだ」
言われてみれば至極真っ当な意見に、思わずデルフィも唇の端を吊り上げる。
「確かに」
くっくっと、喉を震わせて笑うデルフィは、いつもは自室と書物庫の往復くらいしかしないこのエルフの珍しい行動に疑問を持った。
「こんな時間に外に出るなんて、どういう風の吹き回し?」
「なに、退屈しのぎだ。話し相手になってやろうと思ったまでさ」
「あ……」
嫌な予感しか、しない。
メルは脇に抱えていた本を見開き、爛々と瞳を輝かせる。
「ここに竜族における考察と実際に竜と邂逅した著者の見解が記載されているのだが実際はどうなのだ? そもそもここに竜族の娘がいるのだから最初から聞けば良かったんだ。竜と龍の違いとはそもそも何だ? 蛇は竜とどう違う? あの巨躯でありながら飛行能力を有しているのにほとんどは精霊力や竜言語魔法に寄るものだろう? あの翼は飾りか? もしかして退化しているのか? となると、竜族の始まりは翼を持っていたことになるのだがその起源は……」
矢継ぎ早に飛んでくる解説と疑問に耳を射貫かれつつ、デルフィはうんざりしながら、受け答えするのだった。
「ありがとう! デルフィ! またひとつ賢くなったぞ!」
ぶんぶん手と長耳を振りながら、まるで幼子のような無邪気さで喜びを示すエルフに、どっと疲れたデルフィは力無く手を振り返していた。
メルは意気揚々と書物庫に戻り、無数の書物の内容の把握と目録作成、整理整頓を始める。
ふと、光が陰る窓に視線を移せば、先程までの太陽は雲に紛れ、少し曇天の空模様だ。
(雨の匂いはしないが……)
庭園のすぐ横で、ティーナとアンジェとネフィルが、洗濯物を木々の間に張った縄にかけて干している。
「ふふっ。サラマンダー、シルフ、いっておいで」
火の精霊と風の精霊を喚び、洗濯物の近くに解き放った。
温かい風と共に、はためき始めた洗濯物に驚く三人の姿。
ちょっとしたメルの悪戯心は満足し、笑いながら抗議の握り拳を突き上げているティーナに手を振って、再び書物と向き直る。
読書に、少し意識を集中しすぎた。
メルは、凝った首と肩を回し、眼鏡を外して数度、大きく瞬きを行う。
「っと!?」
入口の近くに立つアンジェの姿に、思わず長耳をピンと張り、慌てて眼鏡をかけ直すと、腰を浮かせて声をかける。
「い、いつから……? すまない、気が付かなかった」
ぶんぶん首を横に振り、にこにこ悪びれもせぬ笑顔のアンジェは、メルに気を遣ってくれたのだろう。
「どうしたのだ?」
「ティーナがね、さっきはありがとう、って」
「そうか、それを、わざわざ?」
「お洗濯物は、早く乾きそうだから、メルを手伝ってあげて、って」
「そ、そうか……」
愛すべき天使のドジッ娘スキルは、もう周知の事実である。
意外と腹黒いところも持ち合わせているあの人魚姫が、先程の悪戯の意趣返しをしてきたとしても何の疑問もない。
「これ、お片付けすればいいですかあ?」
「あ! ちょ! 待っ……」
手近に積まれた本の山に手を伸ばそうとしたアンジェは、メルの制止も間に合わず、床に放り出された分厚い本に足を引っかけ、盛大に転ける。
「あ、あうぅ……ですぅ……」
(あっちゃー……)
額に手をやり、天井を仰ぐメルは、引き攣りながらも笑顔でアンジェに手を伸ばす。
「ほら、大丈夫か、アンジェ……ん?」
本に埋もれた彼女の頭に載っかる一冊を手に取ると、メルは歓喜の声を上げた。
「こ、これ! 昨日、整理した世界風土記の第6集! 抜け落ちていて探していたんだ!」
「?」
本棚の5と7の間に見つけた6を差し込んで、綺麗な本の並びにうんうん頷く満足げなメル。
何も分からず、彼女に頭を撫でられながら微笑むアンジェ。
「お手柄だぞ、アンジェ、ありがとう」
「えへへぇ?」
アンジェは、はっと何かを思いついたらしく、笑顔を殊更明るくさせてメルに顔を近付ける。
「な、何だ?」
気圧されたメルは、やや身を引いて微笑み返す。
「メルも、いつもいっぱい色んなこと教えてくれて、ありがとうですう!」
「あ、おいっ?」
嬉しさを全身で表し、窓から身を乗り出して、外に飛び跳ねたアンジェは、一瞬だけ小さな光の翼を顕現させて、ふわりと地上に降り立つと、城門まで一息に辿り着く。
太陽が雲間から光を差し込み、優しい風と温かい大地を照らす。
その目映さに、メルは瞳を細めて微笑んだ。
アンジェの足音に、草花も揺れる。
「お、アンジェ?」
「デルフィ、いつもアンジェ達を守ってくれて、ありがとうですう!」
一瞬、竜眼をきょとんと丸くしたデルフィは、ニヤリと微笑み、天使の額を人差し指で優しく小突く。
「うん、これからも任せときな、って!」
「あいっ♪」
空はどこまでも澄み切って青く、雲は汚れなく白い。
身を翻したアンジェは、乾いた洗濯物を取り込んでいるティーナの元へ。
「ティーナ!」
「まぁ、メルのお手伝いは終わりましたの?」
「あいっ。お城もお洋服もお布団も、いつも綺麗綺麗で、ありがとうですう!」
「うふふ、こちらこそですわ」
優雅に一礼したティーナの真似をしてアンジェも一礼すると、城内へと駆けていく。
美味しそうな匂いに誘われながら。
「ネフィル!」
調理場で夕食の仕込みを始めたらしい彼女は、包丁を台に置いてアンジェに向き直る。
「姉様、何か食べたいものでも思いついたのですか?」
「ネフィルのお料理は、いっつも美味しいから何でも食べたいですう!」
その言葉に感極まったかのように立ち尽くす堕天使を、天使は優しく抱擁する。
「いつも、ありがとうですうっ♪」
ネフィルは、鼻歌交じりで調理に取り掛かる。
今晩の夕食は腕によりをかけて、とても美味しいものになるのだろう。
アンジェの想いは止まらない。
調理場を後にし、その足は地下へ。
軋んだ音を立てる扉を勢いよく開け放ち、石棺の部屋で吸血鬼の名を呼ぶ。
「アナスタシア!」
右端奥の石棺から、半分眠ったままアナスタシアが顔を出した。
「……夜には、早いよぅ……」
瞼を擦り、牙を覗かせて欠伸をする彼女は、起こしに来たのがいつもの顔でないことに気付いたようだ。
「……あれ、アンジェ?」
「あいっ!」
「……どしたの?」
「アンジェ達の夜を、いっつも守ってくれて、ありがとうですう!」
「……!?!?」
まだ寝起きで頭が回らないのか、思いがけない言葉に混乱したのか、瞳をぱちくりさせてその場に固まる。
「どうしたですか?」
「……え、いや、あの、っと……」
アナスタシアは忙しなく視線を、意味も無く周囲に這わせ、ぎこちなく唾を飲み込んで、何とか言葉を紡ぎ出した。
「……いつも、デルフィが、起こしに来てくれて、それは……嬉しいけど」
「?」
「……今日は、アンジェが来てくれて、嬉しいっ」
「あいっ♪」
二人、小首を傾げて微笑み合う。
アンジェは、「あ」と口の中で降って湧いた思い付きに、いっそうニッコリ笑う。
「じゃあ、明日はネフィルに来てもらうですぅ!」
「……え?」
「明後日は、ティーナ!」
「……でも」
「次はメルでえ……またデルフィ!」
「……っ!」
「えへへぇっ♪」
アナスタシアは、寝惚け眼を擦る仕種で、流れる涙を押し隠す。
「……いいの?」
それは、とても素敵な思い付きで。
「あいっ♪」
誰もが幸せになれる方法。
「……ありがとぉ」
世界に、『ありがとう』その言葉を振りまいて。
「あいっ!」
こんなにも、世界が、あなたを愛しているのだと。
「やれやれ、どこに消えたかと思えば……」
月の光に包まれながら、闇も静かにそっと安らぎをくれる。
部屋の中に影を落とすデルフィは、呆れた吐息と苦笑をたたえて、軋む扉の枠に肩を預けた。
天使と吸血鬼は、一つの石棺に身を寄せ合って、満足げに寝息を立てているではないか。
いつまでも眺めているのもやぶさかでは無いが。
「起きろーっ、寝坊助どもーっ!」
その声もまた、愛しさに包まれて、二人は目覚めを迎えるのだった。
夜空を切り裂いて、消えゆく流星。
世界に瞬く命の光のように、明滅は早く、墜ちるのも儚い。
そう、人の夢は、儚い……
杯に残った少し冷たい珈琲を飲み干し、乾いた音を立てて卓に置く。
机に拡げた巻物を解読しながら、それでも世界のことなど、まだ何も分かっていないのだと夜陰に紛れて嘆息する。
どれだけ刻が流れても、夢を見ているようだ、果てしない、永い、夢を……。
これで、良かったのか――?
今まで出逢い、すれ違い、去っていった人々の命と魂に問う。
繰り返し問い続ける。
ときに真実と共に朝陽のような眩しい光であり、或いは迷いと共に夜空のような深い闇でもある。
答えなど、あるわけがなかった。
その問いこそが答えであると知るが故に。
扉がノックされる。
「どうぞ」
天使の微笑みが、そこにある。
「魔王さま?」
「うん?」
「いつも、ありがとうございますですう♪」
その言葉に、答えを見出せそうな気がして、吾輩も思わず笑みを返す。
「うん」
「じゃあ、もう少しで、お夕食の時間ですう」
「アンジェ?」
「あい?」
扉を引きかけた彼女を呼び止める。
「アンジェも、いつも美味しい珈琲をありがとう」
ありがとう。
ありがとう、吾輩の元に来てくれて。
ありがとう。
「あいっ♪」
それは、世界の孤独を受け入れていたはずの、とある男の物語。
突然、世界に舞い降りた天使達の物語。
昨日と同じように、魔王さまは魔王さま。
今日も今日とて、メイドさまもメイドさま。
明日もきっと、魔王さまとメイドさま。
いつも変わらず、いつまでもきっと……
魔王さまとメイドさま。
(了)
魔王さまとメイドさま おおさわ @TomC43
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