磐井・隼人の反乱と宇佐

楠 薫

第1話

 筑紫君磐井ちくしのきみいわいの反乱(527~528年)で磐井が宇佐を目指して敗走中、山国川沿いの 「豊国上膳かみつけのこおりの峻しき山のくまに身を終りぬ」以後、かつて 豊の国で隆盛を誇っていた秦一族の姿が、豊の国の歴史から忽然と姿を消してしまいます。  その後、続日本紀の714年の記事に「豊前国の民二百戸を移して」曽於郡とそこから 分かれた桑原郡に住んだ、との記録があるように、秦一族は、日向・大隅地区に姿を 現しはじめることになります。

 「曽於」も「桑原」も、豊の国に縁の名であり、曽於郡には韓国宇豆峯社が、桑原郡には 鹿児島社が建てられていることから、この頃には隼人の勢力圏内へ、秦一族が浸透して いったと考えて良いかと思われます。

 おそらくは、秦一族の持つ農耕や畜産、養蚕に鉄や銅器等の製造技術や気象や天体に関する 知識などが先住の隼人に受け入れられ、広まっていったのではないでしょうか。

 699年には辛国の神山名に由来、辛嶋氏に関係すると思われる「稲積城」が日向南部に 築かれます。その直後、隼人は700年には川内国府を、720年には大隅国府を襲撃、 反乱の烽火を上げ(隼人の反乱)ますが、万葉集歌人として高名な大伴旅人が率いる 大和朝廷軍および 辛嶋ハトメ率いる宇佐「神軍」により鎮圧されてしまいます。

 この隼人の反乱の際、大分県中津市大貞の薦神社の三角(御澄)池に自生する真薦まこも を刈って枕形の御験みしるし、薦枕を創り、これをご神体として神輿を奉じて日向まで 行幸、乱を鎮めた、と言われています。

 これは中津薦神社が宇佐神宮の祖宮であり、そこを手中に収めている宇佐神宮こそが本家 である、と暗に主張。隼人の反乱の黒幕である秦一族、中でも辛嶋氏の動きを封じたことが 功を奏したのではないでしょうか。

 ところで、磐井が敗走中に目指していたとされる、宇佐。しかし当時宇佐はまだ豊の国の 中心地ではなく、その時代は中津付近が最も栄えていたと考えられています。

 中津は山国川の下流平野部に位置し、その中心的存在であったと推測されるのが、薦神社。  これほどの神社が歴史の表舞台に登場するのが、「隼人の反乱」以降、というのも 何か引っかかるものがあります。むしろ、それまでの薦神社は、意図的に歴史の上から抹消 されていたと考える方が、理に適っているように思えます。

 磐井の反乱から過ぎること40有余年。欽明天皇32年(西暦571年) の大神比義の託宣(参考1) 以降、崇峻天皇(588~592年)の御代に大和朝廷の息のかかった鷹居社が造られます。

 一方、隼人の聖地・石体宮しゃくたいぐうに由来する大隅(正)八幡宮が708年創建。 平安末期の記録に、辛島氏出身の漆島氏および酒井氏がその神官を務めたとあり、隼人の 地主神に、おそらくは豊の国から移住してきた、秦一族の八幡神信仰が合祀されたのでしょう。

 まるでこの大隅八幡に対抗するかの様に、元明天皇和銅元年(708年)に鷹居社では社殿を建築、 同5年 (712年)には官幣社となります。

 磐井の反乱以後、宇佐辛嶋郷に移り住んで再起を期した辛島一族の一部は、稲積六神社をはじめ、 郡瀬神社等を建築するものの、繁栄したのは大和朝廷の息のかかった鷹居社でした。ここでも、 政治的意図があるように思えてなりません。

 こういった歴史的事実を繋ぎ合わせて行くと、「隼人の反乱」は、神仏習合を進める大和系の 大神一族と、大和系に支配されるのを嫌って日向や大隅に移り住んだ秦一族、中でも宇佐神宮に 対抗して(大隅)正八幡神社を創建、原始八幡神を祀る辛嶋宗家による勢力争いに端を発した ものではないか、と考えると、合点がいきます。

 なお、宇佐神宮行幸会ぎょうこうえの中で行われる薦刈神事は、辛島一族が当時より 行い伝えており、宇佐氏の流れをくむ薦神社の現宮司ですらタッチできないというのが、 興味深いところ。

 また、隼人の反乱後、多数の隼人を殺傷したので、放生供養せよとの八幡神のお告げがあり、 放生会が行われるようになったと言われています。辛島一族内の争いに巻き込まれて亡くなった 隼人を供養せよ、とも取れるこの話。せめてもの罪滅ぼしなのでしょうか?

 蛇足ですが、宇佐の「辛島一族」、中でも宇佐神宮に入り込んでいった辛島氏は 後に「辛島勝」姓を名乗ることになります。これは暗に、隼人の反乱に勝利した宇佐の辛嶋氏が、 大隅の辛嶋氏と区別するため、「辛嶋勝」姓を名乗ったのでは無いか、と考えています。

 ちなみに「勝」は、一族の長である、「村主」が語源と考えると、納得いくかと思います。


参考1:大神比義の託宣

欽明天皇32年(西暦571年) 、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁かじおう降り立ち、 大神比義が祈ると三才童児となり、「我は、誉田天皇廣幡八幡麻呂(=応神天皇:在位270~310年)、 護国霊験の大菩薩」と託宣があった。(扶桑略記 東大寺要録、宮寺禄事抄)


参考2:『日本書紀』の応神天皇14年の条に「是歳、弓月君、百済より来帰り」という記述があり、 秦氏の始祖と言われる、弓月君(ゆづきのきみ:百済系と言われるが、実は新羅出身とも。あるいは その祖先は中国秦とも言われている)が127県の人夫、3~4万人を率いて北部九州に上陸。 その後、九州北東部の豊の国や、近畿、中でも京都に主に移り住んだと言われている。


参考3:継体天皇は応神天皇の五世孫にあたり、武烈天皇に後継がなかったため、時の権力者 である大伴金村らに推挙されて即位した、とされる。

しかし大和に入ることが出来ず、二十年に渡って大和周辺を転々とし、仁賢天皇の皇女で 武烈天皇の妹にあたる手白香を娶って皇后とし、ようやく大和入りを果たすが、新羅と手を 組んだ筑紫君磐井が反乱を起こし、政治的困難を極めた。

宇佐神宮(当時は中津薦神社?)は、応神天皇の子孫である継体天皇と少なからぬ 関係があったため、蜂起時には筑紫君を影で支えていたものの、大和朝廷からの圧力により、 筑紫君を見捨てなくてはならなくなったのではないか、と考えると、宇佐(あるいは中津?) を目指していた筑紫君が、その途上、大和朝廷側の軍(あるいは宇佐・大和連合軍)により 敗死した理由の説明がつくように思われる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

磐井・隼人の反乱と宇佐 楠 薫 @kkusunoki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ