甘い新生活?

 三日後の朝、エメラは旧神殿にいた。石段に腰を下ろして、泉を見つめている。青とも緑ともつかない水面は、朝霧をまとって鈍く輝いていた。

 遠くから、威勢のよい掛け声が聞こえてくる。男連中が材木でも運んでいるのだろう。盗賊に燃やされた家々は、驚くべき速さで建て直しが進んでいた。民家のあとにはこの旧神殿も補修され、また神殿として使われることになっている。

 村に日常が戻りつつあるのは、もちろん喜ぶべきことなのだが――

「騙された」

 掃除用の箒にもたれかかり、エメラはつぶやいた。

「誰が騙したって?」

 声を聞きつけて、どこからともなくヨウが現れる。エメラの服装を頭からつま先まで眺めると、感心したようにうなずいた。

「似合ってるじゃないか。まるで本物の神姫みたいだ」

「みたい、じゃなくて本物なの! さては馬鹿にしてるでしょ」

 エメラはいつものブラウスやスカートではなく、裾の長い紺色の神官服を着ていた。襟元と裾には銀色の刺繍がほどこされている。「それにしても、『いい考え』ってのが、ああいうことだとは思わなかったわ」

 エメラはため息をついた。

 そう、まさかあんなことになるとは――。


「いい考えって?」

 エメラが訊いても、ヨウはそれ以上教えてくれない。そしてどういうつもりか、ウィリスと服を交換すると言った。花婿姿になったヨウを先頭に、三人は式場に戻る。

「おお、二人とも帰ってきたか!」

 神殿の外からかけた暗示が効いたのか、黒髪の花婿に驚く者はいなかった。

「お友達も無事だったのね」

「……ウィリスと申します。助けていただいて感謝しています」

 友達呼ばわりされたウィリスは、うやうやしく頭を下げてみせる。とっさの演技にしては上出来だった。

「それで、盗賊は?」

「ああ、それなら――」

「俺から話しましょう」

 エメラの言葉をさえぎり、ヨウは前に出た。

「盗賊は全員、竜神によって退治されました。俺たちは竜神が水を操るのをこの目で見たんです。――だよな?」

 同意を求められたウィリスは、戸惑いながらもしっかりとうなずく。竜神の力を誰より身を持って感じたのは彼だ。

「竜神が?」

「それじゃあ、村に帰っていらっしゃったのね」

「あれはただの伝説じゃなかったのかい?」

 村人たちはにわかにざわめきだす。驚いたり喜んだりと、反応はさまざまだった。

「ほら、話を進めてよ」

 エメラはヨウの脇腹を肘でこづく。竜神の話がいくら魅力的でも、エメラにとっては式の取りやめを知らせるほうが重要だ。ヨウはうまく説明してくれるというが、本当に大丈夫だろうか。

「わかってる。だからそう急かすな」

 黒髪の花婿は軽く咳払いをして、集まった人々を見渡した。

「さて、みなさんにもう一つだけお知らせがあります。盗賊を退治した竜神は、ここにいるエメラの命により力を振るいました。残念ですが、俺はエメラとの結婚をあきらめなければならないようです。竜神に認められた彼女は、神姫となってこの村を守ることでしょう」

 高らかに宣言したヨウの横で、当のエメラは声を裏返らせた。

「なっ、なんてこと言うのよ!」

「なるほど、こうきたか」

 天井を仰いで、ウィリスが苦笑した。

「まあ頑張りなよ、神姫さま」

「そんな」

 神姫になるとは言ったが、それをこんなふうに発表されるなんて聞いていない。この村では、神姫は祝福されるばかりの存在ではないというのに。もし、姉のように悪口を言われたら――。想像しただけで脚が震えてくる。

「大丈夫だ。俺がついてる」

 不安な思いを見透かしたかのように、背後でヨウが言う。ポンと背中を押されて、はずみでエメラは前に出た。

「守護神を従えただって?」

「すごいじゃないの、エメラ」

「あの、それは……えっと」

 突き刺さる視線に、うまく言葉が出てこない。なのに首は勝手に動いて、こっくりとうなずいてしまう。――誰かに後頭部を押されたからだ。

 エメラが振り向くと、竜神はわざとらしく視線をそらした。笑いをこらえるように、頬がぴくぴく動いている。

「ちょっと――」

 エメラは不満の声を上げたが、それは湧き上がった歓声に埋もれてしまう。

「お祝いだ!」

「新しい神姫が誕生したぞ!」

「これで村は安泰だわ!」

 気づけばエメラは、村人たちの渦の中でもみくちゃにされていた。目に入るのは笑顔ばかりだ。父も、村長も、ポージィも、みんな弾けんばかりに笑っている。

「さあ、竜神さまとエメラに乾杯だ!」

 掛け声とともに、エメラの身体はふわりと浮き上がった。視界を埋めつくすのは、真っ白い天井。そこから吊るされた水晶の飾りが、少し近づいては遠くなる。そのたびに、純白のドレスが踊るようにひるがえった。

 誰かが吹いた口笛で、エメラは花嫁衣装のまま胴上げされていることに気づく。慌ててドレスの裾を押さえにかかった。

 悪口も今は聞こえない。こちらを指さす誰かも、今は見えない。それはたしかに嬉しいけれど、このお祭り騒ぎはなにか違う気がした。

 ――神姫を胴上げなんて、聞いたことないし!

 戸惑うエメラをよそに、胴上げは高さを増していく。もう裾を押さえるどころではない。

「ヨウ、の、馬鹿――!」

 エメラは曲芸師のごとく宙を舞いながら、竜神への文句を叫んでいた。


「……はあ」

 思い出しただけでもため息がもれる。

「悪かったって」

 ヨウは隣に座ると、指でエメラの髪をすくった。

「でも、ちゃんとうまくいっただろう?」

 かすれたような甘いささやきが、耳をくすぐる。

「神姫の悪口なんて、二度と言わせやしないさ。おまえが村の繁栄を望むなら、俺はいくらでも手を貸そう。俺はただ、毎日こうしておまえの顔を見ていられればそれでいい」

 漆黒の竜神は青に透ける瞳を細めた。まるでプロポーズのようなセリフに、エメラの頬は爆発したように熱くなる。考えてみれば、神姫になるのは守護神と結婚するようなものなんじゃないだろうか。

「どうした、顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」

「ちょっ――待って! そんなに顔を近づけないで!」

 心配げにのぞき込んでくるヨウを、エメラは必死で押し返した。言った本人に自覚がないあたり、よけいにたちが悪い。

 押し相撲状態になった二人の目の前を、ひゅん、と矢のようなものが横切った。それを間一髪で避けたヨウは、振り返って斜め後ろを見る。

「はーいそこまでー」

 石段の上に立っていたのはウィリスだった。エメラと似たような神官服を着ているが、刺繍が少ないぶん、地味な印象を受ける。

「おまえ、今狙っただろう」

「さあ、なんのことかな? それより、ほら」

 ウィリスは優雅に微笑み、持っていた箒を投げつけるようにヨウに渡した。

「朝の掃除の時間だよ。神姫さまにばかりやらせておく気かい? 手ならいくらでも貸してくれるんだろ」

「それはそうだが、どうしておまえに命令されなきゃならない? これでも俺は――」

「神姫の補佐役、だろ。僕と同じでさ」

 ウィリスは自嘲ぎみに笑った。自分でも箒を持ってくると、回廊の掃除をはじめる。

 そう、今となってはヨウもウィリスもエメラの部下だった。ヨウの場合は人型を取るときの言い訳としてだが、ウィリスは違う。なんと彼は、自ら志願してきたのだ。なんでも、妹のフィリアがどうしてもこの村に住むというので、世帯主として急いで仕事を見つけなければならなくなったのだという。それでどうしてエメラのところに来たのかは、いくら考えても謎のままだった。その外見と要領のよさを生かせば、働き口なんていくらでもありそうなのに。

「仕方ないな。じゃあ、続きは掃除が終わってからにするか」

 ヨウは意味深な言葉を吐くと、箒片手に建物の中へ消えた。

「続きって、なんの続きよ?」

 エメラの想像はふくらむばかりだ。

「ヨウさん、掃除のあとは朝食の支度が待ってるよ!」

「……嘘だろう?」

 窓から顔をのぞかせたヨウは、絶望的な表情を浮かべていた。どうやら今日は、竜神の手料理が食べられるらしい。

 ――まあ、こんな暮らしも悪くないか。

 エメラは顔をほころばせながら、石段の掃除に取りかかった。

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〈神なし村〉の花嫁 鮎村 咲希 @Ayu-nyanko

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